はじめ
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本 稿の 課題 は、 日清 戦 争 が 高 知 県 の 地 域 社 会 に 与え た影 響に つい て、 戦 没者とその慰霊の問題を中心に基礎 的な史実を明らかにし、その意 義 について考えることである。 筆者はこれまで、高知県における戦 没者慰霊の歴史について研究を 続 けてき た。 ( 1) と くに、 「戦没者( 戦争で死亡した「兵士」 、戦死者・戦 病 死 者・ 戦傷 死者 を合 わせ た者 )」 の葬 儀が どの よう に行 なわ れ、 どの よ うな墓に葬られたのか」という疑問 を解明しようとしてきた。 まず、筆者がこれまで明らかにして きたことのうち、本稿が扱う戦 争 の「次」の戦争である日露戦争の戦 没者慰霊をめぐる事象について 述 べておきた い。 ( 2) 高知県の郷土部隊たる歩兵第四四連 隊は、一八九六年一二月に松山 兵 営で編制され、翌九七年七月に土佐 郡朝倉村(現高知市朝倉)の兵 営 に入った。高知県に初めて「軍隊」 が置かれたのは、日清戦争後の こ となのである。 四四連隊は、日露戦争に出動し、多 くの犠牲者を出した。同戦争に お ける連隊の戦没者は二二八七名であ る。また、高知県全体の戦没者 は 二五三七名であった。 飯塚 一幸 氏は 、「日露 戦争 にお いて は、 軍事 援護 団体 ( 尚 武組 織) を 通して 民衆 の自 発性 を引 き出 し、 『隣 保相 扶』 の力 によ っ て 出征 兵士 家 族 の救援にあたらせることが重視され た」ことを指摘した上、京都府 に おいて多くの軍事援護団体が設置さ れていたことを紹介してい る。 ( 3) 日 露戦争期の高知県でも、兵事会と呼 ばれる軍事援護団体が市町村ご日清戦
争と高知県
―戦没者の問題を中心に―
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小 幡 尚
H i s a s h i O B A T A 一五と に組織された。 日露戦争の戦没者の葬儀は、そのほ とんどが郷里で執行された。葬 儀 は、市町村を単位とし、兵事会など を執行主体とした公葬として行 な われた。執行場所の大半は地域の学 校であったが、川原などの空地 も 利用された。葬儀終了後、埋葬ま で 行なうのが一般的なあり方であっ た 。戦没者の多くは、忠魂墓地に葬ら れた。 忠魂墓地とは、日露戦争の戦没者を 葬るために市町村を単位として 設 けられた戦没者専用の墓地のことで ある。日露戦争期に、県内の過 半 数の市町村に設置された。 総じて、高知県では、日露戦争期に 軍・戦争を受容する地域の基盤 が 形成されたということができる。 いうまでもなく、日清戦争は近代日 本における最初の本格的な対外 戦 争であり、地域社会と軍・戦争とが 強く結びつけられ始める出発点 と な った 。し かし 、高 知県 に関 して は 、「軍 隊」 が置 かれ てい なか った た めか、この時期の動向に対してほと んど関心が向けられてこなかっ た 。よって、先に述べた日露戦争期の 前史については、基礎的な史実 す ら明らかになっていないのが現状で ある。 本稿では、これまで明らかにしてき た日露戦争期の実態から「補助 線 」を引くことによって、戦没者とそ の慰霊の問題を中心に、日清戦 争 期の「戦争と地域」の実態を解明す ることに挑む。 本文は次のように構成される。第一 章では、高知県からどのくらい の 数の青年男性が日清戦争へ従軍した のかという問題を考えた上、地 域 における戦没者慰霊を考える際に確 認すべき軍事援護の動向に着目 し ながら、高知県の地域社会による日 清戦争への対応の概略を描く。 第二章では、戦没者の数や属性につ いて明らかにすることに努め、 そ れを踏まえて慰霊の諸相について考 える。 このような課題を掲げているものの 、本稿は根本的な「限界」を抱 え ている。それは、この時代の史料の 残存状態が極めて悪いというこ と である。 とくに、高知県への日清戦争の影響 を示す一次史料は、県にも市町 村 にもほとんど遺っていない。そのた め、公文書以外の史料を活用せ ざ るを得ない。 本稿で主に使用する史料の一つは自 治体史である。自治体史の性格 は それぞれ大きく異なり、史料として の信頼度にも差がある。そこに 注 意するのは当然のことである。ただ 、出征者や戦没者についての情 報 が掲載されている場合、行政文書を 典拠としていることが多く、全 般 的に確度の高い情報を得ることが可 能である。 二つめは、新聞史料である。ただし 、この時期の地元紙で遺ってい る のは『土陽新聞』 (以下、 『土』と略 記する)のみであり、残存状態 も よくない。 三つ めは 、「 石」に刻 まれ た文 字で ある 。高 知県 下に は 、 日清 戦争 を 記 念する石碑や、戦没者を祀る忠魂碑 、彼らの墓などが一定数現存し て いる。フィールドワークによって得 たそれらの「碑文」をできるだ け 利用しながら叙述を進めたい。 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 一六
こ れら の史 料の みで 、「 日清 戦争 と高 知県 」の 全体 像を 明ら かに する の は難しい。それでも、地域が戦争に 対応していく出発点である日清 戦 争期の状況について、概要だけでも 把握しておく必要があると考え る 。現時点で参照できる史料を十全に 駆使して、基礎的な史実をでき る 限り明らかにしていきたい。 本文に入る前に、検討の前提となる 事項についていくつか確認して お きたい。 まず、本稿における「日清戦争」に ついて述べておく。日本が清に 宣 戦布告したのは一八九四年八月一日 であり、講和条約が締結された の は翌九五年四月一七日である。両者 間の期間が「最短」の日清戦争 で あ ろう 。本 稿で は、 原田 敬一 氏の い う 「広 義の 『日 清戦 争』 」と いう 概 念に従い、これよりも長いスパンで 捉えることとする。すなわち、 一 八九四年「七月二十三日に始まり、 台湾征服戦争が一段落して、大 本 営が解散した一八九六年四月」まで と考えることとす る。 ( 4) ま た、戦 没 者 の範 囲は 、一 八九 四 年 七 月 か ら 九 六 年 末 ま で に死 亡し た者 とす る。 本文では、高知県内の市町村で見ら れた動向に着目していく。その た め、市町村名が頻出することとなる 。日清戦争期の市町村は、名称 も その区域も現在とは全く異なる。よ って、市町村名の表記の仕方に 関 して明示しておく必要がある。この 点について、当該期の市町村の 状 況も含めて述べておく。 一八八八年四月に公布された市制・ 町村制が高知県に施行されたの は 翌年四月のことである。この時、 一 市二町一九四村が設置された(市 は高知 市、 町は 須崎 ・後 免の 両町 )。 その 後、 一八 九三 年 に 吾川 郡木 塚 村 が西分村・芳原村に分割されたため 、一九五村となった。このまま の 状態で日清戦争の開戦を迎えている 。また一八九一年四月に高知県 に 郡制が施行され、幡多・高岡・吾川 ・土佐・長岡・香美・安芸の七 郡 が置かれてい る。 ( 5) それ以降、他府県と同様に市町村合 併が進められ、自治体数は減少 の 一途をたどった。二〇一八年現在、 高知県下には一一市一七町六村 が 存している。 本文で市町村名を記す場合、日清戦 争期のそれを( 「旧 」を付さず に) そ のまま示し、初出時に市町村名の後 の括弧内に現在のどの市町村域 に位 置し てい たの かを 「( ○○ 市の 一部 )」 とい う形 で示 すこ とに する 。 Ⅰ 日清戦争と高知 1 日清戦争期の兵役と高知県からの 召集兵 本章では、日清戦争が高知県に与え た影響について具体的に明らか に していく。はじめに、日清戦争に際 し、戦場に赴くなど、兵士とし て 軍務に服した高知県民がどのくらい いたのか、という点について検 討 したい。 前提として、この時期までの陸軍の 編制と、高知県民の入営先につ い て確認しておきたい。 一八七三年一月の軍制の改正によっ て、全国は六つの軍管に分けら 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 一七
れ 、各軍管に鎮台が置かれた。この時 、高知は広島鎮台が置かれた第 五 軍管に属し た。 ( 6) よ って、徴兵令の施行時、高知で徴兵 された青年は 広 島に入営していた。一八七五年には 、同軍管下の香川県丸亀に歩兵 第 一二連隊が置か れ、 ( 7) 高 知県人の入営先はここに替わった。 高知県全 体 については不詳であるが、佐川村( 佐川市の一部)からは、広島に 二 名、丸亀に四名が入営したとい う。 ( 8) 一八 八 四 年 、 愛媛県 松山 市に 歩兵第二二 連隊 が発足 し た。 ( 9) これ 以 降 、 高 知県に四四連隊が置かれるまで、 高 知県民の入営先は、同連隊となっ た 。すなわち、日清戦争期、徴兵さ れ た高知県民の入営先は松山であっ た 。また、一八八八年には、鎮台に代 わって師団が創設され、広島鎮 台 は第五師団となった。二二連隊は同 師団に所属し た。 ( 10) 二二連隊は、日清戦争において大陸 へと出動した。その際の動向に つ いて簡単に見てお く。 ( 11) 第 五師団に動員が下令されたのは一八 九四年 六 月一三日である。二二連隊は、八月 三日より松山を発ち韓国へと渡 り 始め、連隊主力は八月一五日に釜山 港に入った。その後、大陸では 北 西へと移動しながら、各地で戦闘を 繰り広げた。講和により戦争が 終 結した後、一八九五年七月一三日よ り大連港を出発し、二七日まで に 高浜港(愛媛県三津浜町、現在の松 山市の一部)に上陸した。復員 の 完了は八月六日である。 先に見たように、高知県において徴 兵された男子の多くが二二連隊 に 入ったと考えられる。しかしもちろ ん、日清戦争において軍務に服 し た者がすべて二二連隊の所属であっ たわけではない。 ( 歩兵以外の) 特 科兵や、いわゆる職業軍人など、二 二連隊以外に属していた者につ い てはさまざまなケースが想定できる 。詳細な検討はできないが、こ こ でこのことを確認しておきたい。 それでは、高知県からはどのくらい の数の男性が日清戦争に参加し たのか 。結 論か らい えば、 この こと に 関 する 統計が 残っ てい ない ため 、 明 確な数を示すことはできない。ただ し、その状況が分かる町村は少 な からずある。それらの事例を見るこ とによって、出征数の概略を み たい。 この点を明らかにするための手がか りの一つが自治体史である。郡 全 体の出征数が判明するのは高岡郡で ある。一九二三年刊の『高知県 高岡郡 史』 には 、「此の 大戦 役に 参加 した る本 郡出 身の 忠 勇 なる 将卒 は 惣 計四百六十三名」とあ る。 ( 12) ま た、同郡の須崎町・多ノ郷村・吾桑 村 ( いずれも須崎市の一部)からは、そ れぞれ二四名・一三名・一〇名 の 出征者を出したとい う。 ( 13) 出征者の氏名まで判明しているのは 次の八村である。以下、出征者 数と共 に列 挙す る。三 里村 (高 知市の一部 )一 八 名、 ( 14) ・西分 村( 同前) 六 名、 ( 15) 岡 豊村( 南国市 の一部 )二 〇 名、 ( 16) 東 川村( 安芸市 の一 部)九 名、 ( 17) 田 村(南国市の一部)一〇 名、 ( 18) 能 津村(日高村の一部)七 名、 ( 19) 大野 見 村 (中土佐町の一部)八 名、 ( 20) 長 者村(仁淀川町の一部)六 名。 ( 21) 氏名以外に、出征者に関する諸情報 を得ることができる町村もいく つ かある。尾川村(佐川市・越知町の 一部)の出征者は一二名で、一 一 名が歩兵で、一名が砲兵だとい う。 ( 22) 日 下村(日高村の一部)からは 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 一八
一 三名が出征し、その内歩兵が一〇名 、砲兵・ 「衛 兵 ママ 部 」 ・海軍が各一 名で あ る。 ( 23) 加 茂村(佐川市・日高村の一部)から は、四名が出征して お り 、そ のう ち三 名が 二 二 連 隊 に 属 し 、 一 人 は 「 台湾 憲兵 第二 区隊 付」 だ ったとい う。 ( 24) 蕨 岡村(四万十市の一部)からは九名 が出征し、その 内 訳は歩兵七名、砲兵・騎兵各一名だ ったとい う。 ( 25) 仁 井田村(四万十 町 の一部)からは、陸軍の四名、海軍 の三名が出征し、前者は「第五 師 団 騎 兵 第 五 大 隊 軍 曹 」「 第五 師団 砲兵 」「 第四師 団砲 兵伍 長」 「曹 長」 、 後者は 「 鑑 乗 組 一 等 主 厨 」「 二 等 仝」 と不 明一 名で あったと い う。 ( 26) 稲 生 村(南国市の一部)の従軍者は六 名 で、全員が陸軍で歩兵が五名(軍 曹 ・ 二等 軍曹 ・上 等兵 各一 名、 一等 卒 二 名) 、砲 兵( 二等 卒) 一名 だと い う。 ( 27) 一九三五年に著された『三崎村郷土 研究』には、同村(土佐清水市 の 一部)の一三名の出征者について、 氏名と出身集落、陸海軍の別と 兵 種・階級が記されている。後者につ いて記せば、歩兵一等卒四名、 歩 兵上等兵二名、 「 歩兵」 (階級不明) 二名、騎兵一等卒・砲兵一等卒 各 一名、 「海軍吉野 一等水兵」一名、不明二名となってい る。 ( 28) 町村内の従軍者について最も詳しく 記されているのは、一九一九年 刊 行の『佐川町 誌』 ( 29) で ある。同書には、佐川村からの出征 者三四名の 「氏名 兵種官等 所属部隊」が記載 されている(一六一・一六二頁 )。 そ れによれば、陸軍が三三名で、海軍 は一名である。陸軍三三名のう ち 三 一名 が第 五師 団に 属 し 、 二 二 連 隊 が 二 三 名 ( 伍長 ・上 等兵 各四 名、 一 等卒一四名、看護手一名) 、一二連隊一名(一等卒) 、工兵第五大隊 一名( 一等 卒) 、輜重兵 第五 大隊 (輜 重輸 卒) 六名 であ る 。 その 他、 第 四 師団歩兵第八連隊一名(上等兵) 、近衛歩兵第一連隊一 名(一等卒) と なっている。海軍の一名は、佐世保 鎮守府に所属する「海軍一等厨 宰 」である。 また、同書には軍による動員につい ての記述もある(一六〇・一六 一頁) 。こ れに よって、 彼ら がど のよ うに 召集 され てい っ た のか が分 か る。 明 治廿七年六月十三日充員召集ハ発令 アリ応召者ハ予後備各兵科 下 士卒ニシテ輜重輸卒ハ全部除外セリ 其人員十二名ナリ 仝 年七月廿三日後備兵全部ノ召集ヲ令 セラレ応召員十二名翌廿四 日 出発ス内歩兵七名輸卒三名看護婦一 名工兵一名ナリ 八 月三日海軍予後備兵下士卒ノ召集ア リ応召員ナシ 高知県における兵の召集の様子を知 ることのできる史料は管見の限 り これ以外にない。ここにあるのは佐 川村の状況であるが、高知県下 全 域で同様の日程によって動員された ものと考えられる。 「はじめに」でも述べたように、県 内の各地に日清戦争を記念する 記 念碑が残っている。その中には、従 軍者の氏名が記されているもの もある 。自 治体 史等 の「 紙」 の記 録がなく 、「 碑文 」の み に 氏名 が記 さ れ ているケースもある。以下、それら について見ていく。 香南市香我美町上分には、日清戦争 と山南村(香南市の一部)との 関 わりについて記す「山南紀功碑」が 現存してい る。 ( 30) 同 碑は、自然石 を 用いたもので、一八九七年に建てら れたという〔図1〕 。同碑には、 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 一九
「 征清之役」に従軍した「高知香美山 南兵士十三氏」の階級・勲位・ 氏 名 が刻 まれ てい る。 全員 が陸 軍の 所 属 で、 一〇 名が 歩兵 であ り、 「一 等軍曹 」 二 名 、「 二等軍 曹」 一名 、上 等兵 一名 、一 等卒 五 名 、二 等卒 一 名 である。他に、砲兵一等卒二名と三 等看護長が一名いる。 碑文には、戦時中の彼等の動向につ いて述べられている。彼等は全 員 「第五師団」に属し、そのうち九名 が出征し、松山兵営に一人、広 島 兵営に二人、さらに「馬関」に一人 残ったという。 香南市香我美町山北にある山南村の 隣村である山北村(香南市の一 部 )の「討清戦勝紀念碑」と刻まれた 日清戦争記念碑(一九〇五年建 設 ) の碑 文に よれ ば 、「 山 北 村 従 軍 者」 は一 一名 だ と い う。 ( 31) 彼ら の 階 級 等 については記されていないが、軍務 において果たした役割について は記さ れて いる 。二 人は病 気に 罹っ て 除 隊し 、一人 は広 島で 「補 給廠 」 の 業務に服し、一人は輜重に当たり、 一人は馬関で守備に当たった。 一 人は清で衛生隊に属し、一人は馬関 守備についた後に朝鮮半島に渡 り 「朝鮮賊徒戦」に参加した。四名が 、平壌を陥落させ清国を転戦し 功 を上げた、という。 西川村(香美市・安芸市・香南市の 一部、山南村・山北村と隣接) の 日清戦争従軍者を記した石碑も、香 南市香我美町中西川に遺ってい 〔図1〕山南紀功碑(※写真は全て小幡撮影) 〔図2〕西川村の記念碑(左)・忠魂碑(右) 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 二〇
る〔図 2 〕 。 ( 32) 表 面 に 「 記念 碑」 と刻 ま れ 、 裏 面 の 碑 文 の最 後に 一九 一 五 年 一一月と記されているこの碑には 、 日清・日露戦争の出征者の氏名・ 陸 海 軍の 別・ 兵科 ・階 級・ 勲功 が記 さ れ てい る。 人数 は、 「日 清日 露両 役」に 一 三 名 、「 日清役 」に 六名 であ る。 別に 、日 清戦 争 の 「内 地勤 務 者 」 三 名 の 氏 名 もある 。二 二名 全員が 陸軍 所属 で、 「 両 役 」 で は 、 歩兵・ 砲 兵・輜重兵の軍曹が一名ずつ、工兵 上等兵・歩兵一等卒がそれぞれ 一 名 、砲 兵一 等卒 六名 、輸 卒二 名で あ る 。「 日清 役」 では 、工 兵伍 長・ 歩 兵上等兵・砲兵上等兵・工兵上等兵 が一名ずつ、砲兵一等卒が二名 で ある。内地勤務者は全員歩兵一等卒 である。 別 府村 (仁 淀川 町の 一部 )に も同 様 の 碑が 存す る( 仁淀 川町 森) 。一 九 一三年に建てられた「高岡郡別府村 出身日清日露ノ戦役凱旋軍人紀 念 碑」 ( 33) がそれ であ る。 その 碑に は、 「 明 治 二 十 七 八 三 十 七 八年戦役従 軍者」一一名、 「二 十七八年戦役」六名の氏名が記されて いる。つま り、 同 村の日清戦争従軍者は一七名であ る。 ( 34) 香南市夜須町羽尾にある臨済宗長谷 寺(槙寺)に関する資料を集成 し た『まきでら 長谷寺資料 誌』 ( 35) に は、同寺の境内にある「日清之役 従 軍 碑 」 に つ い ての記 述が ある (二八 七・ 八頁 )。 こ の 碑 は 、 東 川 村(香 南 市・芸西村の一部)の日清戦争従軍 者について記したものであり、 正 面には戦没者である小松志解久への 追悼文、側面に従軍名簿(一五 名 )があるという。碑文末尾には「明 治二十九年五 月日 マ マ 」 とある。戦 争 終結後まもなく建てられたもののよ うである。従軍者の氏名には、 階 級・勲位が付されている。階級のみ 記せば、歩兵二等軍曹二名、陸 軍 三等書記・歩兵上等兵・騎兵一等卒 各一名、歩兵一等卒六名、同二 等卒 二名 、「 輜重 兵 」 一名 、「 陸軍 々夫長」 一名 であ り。 最後 の一 名が 、 同 寺の住職だという。 ここまで、日清戦争において軍務に 服した人々についてごく簡単に 見 てきた。はじめに断っておいたよう に、出征者に関する統計は存し な い。加えて、各市町村の人口が記さ れた高知県統計書は、一九〇三 年 分から調査が始まっており、それ以 前の統計はない。よって、正確 な データに基づいた統計的な検討は不 可能である。 本節 で紹 介し た「 数字 」か らは 、「 郷土 部隊 」が なか っ た この 時期 に お いても、県下の市町村から一定程度 の数の成年男性が「兵」として 送 り出されていたという事実が判明し た。例えば、既に紹介したよう に 高岡郡全体の出征者は四六三名、同 郡内の須崎町・多ノ郷村・吾桑 村 は二四名・一三名・一〇名であった 。少し後の一九〇三年の高知県 統 計書によれば、高岡郡の総人口は 一 三万九九四四人、須崎・多ノ郷・ 吾 桑は六六一八、五一七七、二九二九 名である。この数字からだけで も 、日清戦争への動員が地域へ無視し 得ないインパクトを与えたこと が 想定できよう。 2 日清戦争と地域社会 本節 では 、高 知県 下の地 域社 会が 見 せ た日 清戦争 への 対応 につ いて 、 軍 事援護を中心にその概略を見ていく 。 前掲『佐川町誌』の「兵事」の章に は「日清戦役」の項があり、そ 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 二一
の 中 で「 後援 事業 」が 取り 上げ られ て い る( 一六 〇頁 )。 以下 にそ の全 文 を引く。 明 治廿七年八月八日五所神社ニ於 テ戦 勝祈念並 町 ママ 内 出征軍人安全 ノ 祈願祭典ヲ執行シ村民三百余名ノ参 拝アリ 村 役場員及村内有志ハ個々ニ出征軍人 ノ家族ヲ慰問シ或ハ物品ヲ 贈 リ家族ヨリ出征者ニ送ル書簡ノ認メ 方ニ付キ便宜ヲ計リ双方ノ 慰 安ヲナセリ 出 征軍人ノ隣保又ハ部落組合ニ在リテ ハ農事作付並ニ其修理且収 穫 ノ業其他ノ家事ヲモ相援ケテ家族ノ 保護ニ努メタリ 一文目には、村内の神社で「戦勝祈 念」と「出征軍人安全」を願っ た 「祈願祭典」を行ない、多くの村民 が参加したことが述べられてい る 。このような動向は県下に広く見ら れた。 日 清戦 争が 始ま って まも なく の間 、『 土』 の広 告欄 に神 社へ の祈 願の 告知が多く掲載された。例えば、 『土』一八九四年八月二 三日には、 「日 清 開戦ニ就テ我カ在韓兵長岡郡大篠村 大埇部前田勝吉氏幸福安全々勝 国 威発揚之為本村熊野神社並ニ住吉神 社ニ於テ本月廿一日廿二日ト祈 願 仕候ニ付信徒ハ勿論愛国之志士参拝 アレ」との広告が掲載されてい る 。この広告の「発起人」は大篠村( 南国市の一部)同部の六名であ る 。 また 、同 月五 日の 同紙 には 、「 清韓 事件 ニ付 本邦 軍人 身上 堅固 強運 之 為メ土佐郡潮江村天満宮に於て明五 日ヨリ七日迄祈祷執行之上右三 日 ニ限リ寸志ヲ以テ守札授与致シ候間 御同感之諸君ハ御参拝アランコ ト ヲ希望ス」 (平仮 名は原文のまま)との広告が載ってい る。 ここには、神社によるものを紹介し たが、それだけではない。宗教 宗 派を問わず、神社仏閣等による出征 者の「安全」と活躍を願い、戦 勝 を願う祈願や祈祷は盛んに行なわれ 、多くの人々が参加したのであ る。 ( 36) 『佐川町誌』からの引用の二文目に は、郷里に残された家族を通じ ての戦 地の 兵士 への 「慰 問」 、三 文目 には その 家族 への 「 保 護」 につ い て 述べられている。これは、同時代に おいて「恤兵救族」と呼ばれた 動きである。このうち、出征家族への 「保護」の局面(=「救族」 ) は 、 「 兵役義務の履行から派生する」 「応召者家族、傷痍軍人 とその家族、 戦傷病死者遺族らの生活救護などに関 わる事業」 、すなわ ち「軍事援 護」 とい え る。 ( 37) この動向を考える場合、着目すべき 点の一つは、先の引用にもある 「 有志」という語である。町村そのも のや、地域住民組織といった定 ま った形ではなく、複数の「有志」が 協力する形でこのような事業が 展 開されていることになる。 一八九四年八月一日、日本が清に宣 戦布告をしたその日の『土』の 紙 面に「義挙彙報」という記事が見え る。その中に、次の項がある。 ○香美郡赤岡村長 小松与右衛門 氏は回同村内にて非常召集さ れ し兵士十一名の家 属 ママ に 各々一円 づヽを恵与し猶該地有志と 協議 し 目下右家族扶助義捐金募集中なりと ○吾川郡清水村 にては今回出兵 せし予備後備兵家族救恤の為め 同村川 村 玄 泉岡林 ■( 判読不 能を 示す。以下 同じ 。) 次 郎 深 田耕徹 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 二二
等 の諸氏発起となり村内有志と協議し 仝村十部落に各々二名づヽ の 周旋人を選挙し家族扶助義捐金募集 中なりと 赤岡村(香南市の一部)と清水村( いの町の一部)において出征者 を 出した家族を援助する動きがあるこ とを報じる記事である。赤岡村 で は村長が中心となってはいるが、村 内の有志に諮りながら動いてい る 。清水村では有志が主体となって援 護事業を進めようとしている。 同年八月二日付の『土』の紙面の 「 敵愾の義気 」 と題する記事の中に は 、佐川村の動向も見える。 佐 川村有志の協議 高岡郡佐 川有 マ マ 志 は今回出兵したる家族扶助に 付 き去廿七日同村役場楼上に於て協議 会を開きしに来会者六十余 名 一同■議し目下募金中なりと 村役場を会場としており、村そのも のが何の関与もしていないとは 考 え られ ない もの の、 主 体 は あ く ま で 有 志 な の で ある 。新 聞報 道か ら、 「 有志による軍事援護」が県下に広く 見られたことが分かる。 室 戸村 (室 戸市 の一 部) では 、一 八 九 四年 九月 、「 有志 者の 奮発 にて 仝 地倶楽部を恤兵救族義援金募集の事 務所となし傍ら戦況を素人に知 ら しめんと掲示場を設け新聞紙の縦覧 を許す等 尤 ママ も 尽力する所あり義 金 一百三拾五円八拾六銭一厘を醵集し 内七拾円拾八銭を武揚協会に寄 贈 し残金を村内の救族金となした」と い う。 ( 38) 義 捐金を集めるだけでは な く、新聞紙を利用した「戦況の報知 」までもが有志の手によってな さ れている。 ここにある「武揚協会」は、この時 期、高知県全体で義捐金の徴募 を行な った 団体 であ る。同 会は 、一 八 八 四年 に「軍 人優 待、 軍人 養成 、 恤 兵救族の目 的を以て、… 民間有志者 相 謀りて」結成 した団体であ る。 ( 39) 同 会は、一八九四年七月三一日、総会 を開き次のように決議し た。 ( 40) 一 武揚恊会積金三百円を以て朝鮮在兵 の慰労及ひ目下入営兵の家 族 の困難者を救助等に支出する事 一 在朝鮮兵へ慰 物 ママ 品 及ひ入営兵の 家 属 ママ 困 難者救助等に対する義捐 金 事務取扱の為め六名の取扱委員を撰 定なし日々二名宛交代の上 事務 を 所 ママ 理 すること (中略) 一 武揚恊会員ハ在韓兵慰労入営者家族 救助ノ責任ヲ負ヒ義捐出金 ■ 分の出金をなす事 同協 会は 、土 陽新 聞社 など と提 携し、 「 恤 兵 救 族 義 捐 金 募 集 」 事 業 を 広 く展開し た。 ( 41) こ れが、町村の有志によって集められ た義捐金の一つ の 受け皿となった。 若干ではあるが、有志が新たな組織 を形成する動きも見える。同年 八 月一二日の『土』の記事「片地奨武 会」は片地村(香美市の一部) の動向 を報 じる もの であ る。 そこ では、 「 片 地 村 有 志 は 尚 武 の 気 象 を 発 揚 し並に恤兵救族の義挙を奨励せんが 為め此程仝地奨武会なるものを 組織 し」 、会 頭や 幹 事 を選 び、 「目 下恤兵救 族義 捐金 」を 募集 して いる 、 と されている。 ここでは、組織の形成の点に加えて 、活動の内容にも着目したい。 この時 に作 られ た「 奨武 会」 は、 「尚 武の 気象 を発 揚」 す る こと と、 恤 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 二三
兵 救族を同時に目指しているのである 。本節の最初に引用した、佐川 村 の動向では、兵士の「無事」や戦勝 を祈願することと、軍事援護が 並 列 に置 かれ てい た。 県を 単位 とす る 組 織で ある 武揚 協会 も、 「軍 人優 待 、軍人養成、恤兵救族」の目的を掲 げていた。 活 動の 詳細 は不 明で は あ る が 、 こ れ ま で 見 た 「 有志 」に よる 事業 や、 少 しずつ見られ始めた新たな組織は、 ともに尚武組織と軍事援護団体 の 双方の性格を有するものであったと いうことが確認できる。 講和が成った後の一八九五年一一月 六日の『土』に「遺族へ贈金」 と 題 する 記事 が載 り、 「香 美郡 公報 会よ り同 郡征 清忠 死軍 人の 遺族 へ贈 ら れし金円」について「忠死人員は二 十九人にて一人十円宛にて贈与 せ られた」 、と報じ られた。 ここにあるように、この時期の「恤 兵救族」事業においても、戦没 者 とその遺族を対象とする動向が見ら れるのである。 本節の最後に、一八九七年以降の動 向を見ることによって、これら の 動向が日露戦争期へと連続していく ことを示したい。 一 八九 七年 六月 一一 日、 「長 岡郡 在郷 下士 及び 有志 の士 」が 「一 般尚 武 の気象を養成せんため同郡兵事会な るものを設立し」て「規約を定 め 」て役員を選出したとい う。 ( 42) 「 規約」は次のようなものである。 一 本会を名けて長岡兵事会と称し事務 所は当分の内後免町に設置 す 一 本会は長岡郡在郷軍人を以て正会員 とし軍人以外の者にして本 会 を賛成するものを賛助会員とす 一 本会は左の諸項を以て目的とす 一在郷軍人の品位を保持すること 一一般尚武の気象を養生し体育上 の進歩を計ること 一兵事に関する諸件を研究するこ と 一新兵入営前に当り幹事或は委員 各所に派遣し入隊後の心得 方 を談話すること (後略) 同様の動向は他郡でも見られ た。 ( 43) 同 年七月には香美郡でも兵事会が 設 立され、 「高知県 香美郡兵事会規則」が制定されてい る。 ( 44) 一八九八年頃から、町村にも兵事会 が設置され始めている。一宮村 ( 高知市の一部)では、同年一一月「 兵事会なるものを設け軍人を優 待 し且在郷軍人に対しては平素諸規則 を守りて違反者なからしむるを 期 し従来各地に行はるヽ送別宴会及び 余興等を廃し新兵一名に対し金 十 円を贈呈する事とし」たとい う。 ( 45) 翌 一八九九年には久礼田村(南国 市 の一部)でも結成が確認でき る。 ( 46) この時期は、平時であったためか、 軍事援護団体の側面が前面に出 ず、尚 武組 織と して の性 格が 強く 打ち出さ れて いる 。「 は じ めに 」で 述 べたよ うに 、「 兵事会」 はこ の後 、日 露戦 争下 にお いて 県 下 の市 町村 の ほ とんどに設置され、軍事援護団体と して大きな役割を果たす。その 萌 芽が有志による活動であり、この時 期に現れ始めた組織が後の組織 へ と繋がっていくのだと考えられる。 本章では、高知県下の町村と日清戦 争との関わりについて考えた。 正 確な数値は分からないものの、各町 村から決して無視し得ない数の 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 二四
出 征者を出していたこと、彼らと彼ら の家族を支援するための自発的 な 動きが各町村で見られ始めたことを 確認することができた。次章に お いては、出征者のうち、戦争によっ て命を失った者たちと彼らに対 す る慰霊について考える。 Ⅱ 高知における日清戦争戦没者慰霊 1 高知における日清戦争戦没者 本章では、一章で明らかにした史実 を踏まえて、高知県における日 清 戦争戦没者の慰霊の態様について明 らかにし、その意義について考 え たい。 本節では、高知県民より生じた日清 戦争の戦没者に関する基礎的な 事 実、つまり何人の人が亡くなり、 そ の人たちはどのような人々であっ た のか、その属性や「死をめぐる状況 」などについて、できる限り詳 し く見たい。 はじめに戦没者数を取り上げる。ま ず、日清戦争全体について確認 し ておく。原田敬一氏によれば、陸軍 の戦没者は、 「戦死 」 (戦傷死を 含 む ) 「一四一八名 、戦病死一万一八九四名(ほかに変死 一七七名) 」 で ある。ただし、ここには「兵站輸送 を担当した日本人軍夫(一五万 四〇〇 〇 名 )」 の 死亡者 が含 まれ てい ない 。陸 軍の 分と 軍 夫 、そ して 海 軍 の分を合わ せると「約二 万名が日清 戦 争での死亡者 」であるとい う。 ( 47) 原田氏が典拠としているのは、参謀 本部編『明治二十七八年日清戦 史』第 八巻 の「 減耗 人員 階級 別一 覧表」で ある 。同 書に は、 「減 耗人 員 師 団別一覧表」も収録されてい る。 ( 48) そ れによれば、歩兵第二二連隊の 属 する第五師団の死亡者は計二〇六〇 名、内訳は戦死三一一名、戦傷 死 七一名、戦病死一六一二名、 「変死」六六名である。 また、前掲『歩兵第二十二連隊歴史 』によれば、大陸への渡航から 一 八九五年八月の復員完了までの戦死 者の総計は「将校三名下士以下 三十一 名」 だと いう (三 三頁 )。 ここ には 戦傷 死・ 戦病 死 者 が含 まれ て い ないものと思われる。典拠ははっき りしないが、連隊の「出征以来 の死者 は二 百二 十人 。うち 戦死 四十 四 人 、病 死百七 十二 人、 溺死 一人 。 戦 傷者は百三十二人。しかしこのほか に、戦場の苛酷さに耐えかねて み ずから生命を絶った兵が三人いた」 とする文献もあ る。 ( 49) すでに述べたように、高知県の日清 戦争出征者についての統計は存 し ない。もちろん、戦没者の統計もな い。そのため、戦没者数につい て も、さまざまな史料から考えていく 必要がある。 唯一、統計が遺っているのが幡多郡 であ る。 ( 50) 同 郡の三六村のうち、 戦 没者を出したのは二二村で、総数は 三九名である。このうち三名は 一 八九六年の台湾征服戦争時の戦没者 である。戦没者のほとんどは兵 卒で、 下士 官は 三名 、それ 以上 の階 級 の 者は いない 。町 村別 に記 すと 、 中筋村 四名 、奥 内・ 佐賀 村三 名( うち下士 官一 名) 、下 川 口 ・津 大村 三 名、入 野村 二名 (う ち下 士官 一名 )、 下田 ・白 田川 ・具 同 ・ 後川 ・中 村 二 名、月灘・上灘・東山・小筑紫・宿 毛・橋上・三原・蕨岡・山中・ 江 川崎・東上山村一名であ る。 ( 51) 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 二五
ま た、 高岡 郡で は四 六三 名の 出征 者 の うち 、「 戦病 死者 四十 九名 廃兵 と なりたる者四名」であったとい う。 ( 52) 内 訳は不明である。 ここからは戦没者一人一人について 視野に入れて考えていく。最初 に 確認すべきは、上海事変(第一次) までの戦没者を知る上で最も基 礎 的な文献である『靖国神社忠魂史』 である。昭和初期に靖国神社が 陸 海軍の協力を得て編んだ同書(同神 社社務所、一九三五年)には、 靖 国 神社 に祭 られ てい る 戦 死 者 各 人 に つ い て 、 戦 争別 に「 所属 部隊 号、 戦 死、病死及び不慮死の年月日」と場 所、 「官職等級、氏 名(…) 、原 籍 (府県名) 」( 「凡 例」 )が記されてい る。その『第一巻』 (以下、 『靖 一 』とする)では、日清戦争(台湾征 服戦争も含む)の戦没者が扱わ れ ている。そのうち、高知県に本籍を 有する者は二五三名である。以 下 、この二五三名を核に、高知県の日 清戦争の戦没者についてできる だ け詳しく明らかにしていきたい。 まず 、『 靖 一 』 から得 るこ とが でき るデ ータ を整 理し て 示 した い。 最 初 の 戦没 者の 死亡 年月 日は 一八 九四 年 九 月一 五日 、「 最後 」の それ は一 八 九六年二月一七日である。死亡年は 、一八九四年が九四名、九五年 一 五五名、九六年四名となっている。 所属部隊は以下のようになっている 。第五師団が一九七名(二一連 隊 四名、二二連隊一四三名、後備歩兵 一〇大隊九名、同一九大隊一〇 名 、その他三一名) 、近衛師団三二名、台湾憲兵隊四名、 海軍が七名、 そ の他一三名である。 階級は、輜重輸卒一八名、二等卒六 九名、一等卒一〇二名、上等兵 二 六名、二等軍曹九名、一等軍曹八名 、中尉二名、大尉三名、一等水 兵 二名、その他一四名である。 死亡場所は以下の通りである。戦地 (台湾を含む)が一六五名、う ち 戦場が二五名、兵站病院が八六名( 仁川一三、万里倉・基隆各七、 台北・ 平壌 ・竜 山・ 金州 各六 、そ の他三五 )、 舎営 病院 一 七 名、 定立 病 院六名 、野 戦病 院七 名、 患者 集合 ・宿泊所 一五 名、 「牛 荘 仮 繃帯 所」 三 名、その他六名。船上で亡くなった者 は一二名で、 「黄海 (大羊河口 沖) 艦 内」が四名、 「帰 航ノ際船内」三名、その他五名である 。 国内で死亡した者は七六名を数える 。その内、広島陸軍予備病院が 四 四名、松山陸軍予備病院二三名、松 山衛戍病院一名、佐世保鎮守府 病 院一名、避病院六名、 「帰郷療養中」一名である。 『靖一』には、戦死者と戦傷・戦病 死者の区別が記されていないの で 判然としないが、死亡場所から後者 の割合が非常に高かったことが 推 認できよう。 日清戦争戦没者についての情報を得 ることのできる材料は、 『靖一』 の 他にもいくつかある。その一つが自 治体史である。高知県内の自治 体 史には、行政文書を典拠とした戦没 者名簿が記されているものが比 較 的多い。 もう 一つ の情 報源 は、 『土 』で ある 。残 存状 態が 悪い と い う大 きな 限 界 はあるものの、軍による発表を元に した記事や、遺族や地元関係者 に よる死亡広告・葬儀広告・会葬御礼 等は、同時代の情報として重要 なものである。これらを見ていくこと によって、 『靖一』 に記載がな い、 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 二六
す なわち「靖国神社に祀られていない 」戦没者の存在を知ることがで きる 。 野 市町 史編 纂委 員会 編『 野市 町史 下 巻』 (同 町、 一九 九二 年) 所載 の 「戦没者名簿」の「旧野市町関係」 (ただし、この時期 は「村」 )の 個 所に、杉村伝治という名がある(四 四九頁) 。階級は「 砲一卒」で、 没 年月日は一八九五年七月一九日、死 亡場所は不詳だという。同年一 〇 月 一一 日の 『土 』紙 上 に は 、 杉 村 の 葬 儀 広 告 を 見出 すこ とが でき る。 そこに は 、「 香 美 郡野市 村字 上野 故陸 軍砲 兵一 等卒 杉村 伝 治 儀清 国ヨ リ 凱旋ノ所広島ニ於テ病死」と記されて いる。 『靖一』に杉 村の名はな い。 また、北川村史編集委員会編『北川 村史 通史編』 (同 村教育委員 会、 一 九九七年)の「戦没者一覧」には日 清戦争期の戦没者が四名含まれ て い る。 その うち の三 名は 、『 靖一 』に 記載 がな い。 三名 を「 氏名 (階 級 ・ 戦没 年月 ・戦 没地 、掲 載頁 )」 のよ うに 記せ ば、 尾崎 且爾 (陸 軍一 等 卒 ・ 一 八 九 五 年一一 月・ 不明 、一二 三七 頁) 、寺尾 菊次 (陸 軍上 等兵・ 一 八 九六 年五 月・ 松山 連隊 、一 二三 八 頁 )、 崎 鹿太 郎( 砲兵 一等 卒・ 一 八九四年一二月・不明、一二四一頁 )であ る。 ( 53) 杉村と北川村の三名の他に、自治体 史において日清戦争の戦没者と し て扱われているにもかかわらず『靖 一』に記載のない者は、二〇名 確認で き る。 ( 54) 以 下 、 出 身 市 町 村 ・ 氏 名( 所属 階級 等 )・死 亡年 月日 ・ 死 亡 の場所と状況の順に記して列挙する (記載のない項目は「不明」を 示 す )。 清 水 村 ( い の 町 の 一 部 )・加藤 政吉 (陸 軍上 等兵 )・ 一八 九四年 二 月 二一 日・ 清国 盛 京 省、 ( 55) 中筋村 ・土居 守一 (陸 軍上等 兵 )・ 同 年 七月 二九日 ・香 港陸 軍病 院、 ( 56) 東 上 山村 ・室津 良秀 (歩 兵一等 卒) ・同 年一二 月 六日・病気となり内地帰還の途次船 中で死 亡、 ( 57) 西 豊永村(大豊の一 部 ) ・北村林吾(陸 軍軍属) ・一八九五 年二月二六日・金州 城、 ( 58) 同村 ・ 大利節 蔵( 陸軍 軍属) ・同 年四 月三日 ・「 外 地」 、 59)( 上 八 川村 (い の町 の 一 部 ) ・曽我楠寿(陸 軍二等卒) ・同年四 月二 日、 ( 60) 多 ノ郷村(須崎市の一 部 ) ・谷福次(歩兵 一等卒) ・同年六月 三〇日・韓国明川「患者療養所 に於て戦 病 死」 、 ( 61) 山 田 野地村( 香美市の 一部) ・上村英 親(軍医 )・ 同 年、 ( 62) 徳 王子村(香南市の一部) ・百田寅吉(陸軍一等卒) ・一八九六年一月 三〇日 ・「 台湾 、澎 湖 島」 、 63)( 三原村 ・池上 清太 郎( 陸軍一 等卒 )・ 一八九 六年四 月一 二日 ・松山 衛戍 病 院、 ( 64) 奥 内 村 ・ 長 岡 徳 太郎( 陸軍 一等 卒) ・ 一八九 六年 七月 七日・ 台湾 澎湖 島、 ( 65) 池 川 村( 仁淀 川町の 一部 )・ 山岡久 次・同 年一 〇月 ・松山 兵 営、 ( 66) 鏡 村 (高知 市の 一部 )・ 森 本 鹿 次 ( 陸軍一 等卒) ・同 年一 二月 六 日 ・ 台 湾 島台北 衛戍 病院 基隆分 院、 ( 67) 宿毛村 ・佐野 広 吉、 ( 68) 長 岡村(南国市の一部) ・門 田福 馬、 ( 69) 黒 岩村(越知町の一部) ・ 田村駒 吉、 ( ( 70) 一 九 八四 年時点 の)越 知町 (日清 戦争 期 に 存 したど の旧村 出 身かは不明) ・西 川徳 治、 ( 71) 高 知市(高知市の一部) ・田所輝馬(歩兵 一等軍 曹) 、 同 ・ 伊 藤菊 松( 憲兵上 等兵) 、同 ・深尾 直身 (歩兵 一等 卒) 。 ( 72) その他にさらに三名の戦没者を挙げ ることができる。この三名は、 い ずれも『靖一』にも自治体史にも記 載のない者である。最初の一名 は 、 『高知市出身 忠霊塔英霊名簿』 ( 高知市史編纂室所蔵)に記され て いる岡本金太郎である。この史料は 、一九四一年六月に竣工した高 知 市の忠霊 塔に ( 73) 祀 られているとされた人々の名簿であ る。ここには、 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 二七
日 清戦争の戦没者も含まれており、そ の一人が岡本である。死没年月 日 は一八九五年八月二八日で、歩兵一 等卒であったという。ただし、 こ の史料は忠霊塔の竣工時以降に作成 されたものであり、それ以前に 存 した町村についての記述はない。よ って、一九四一年以降の高知市 域 出身であることは分かるものの、日 清戦争時の居住市町村は特定で き ない。 二人目は、新聞紙上のみにその名を 確認できる山崎儀太郎である。 『 土 』一 八九 五年 一二 月 一 四 日 に 掲 載 さ れ た 「 病 死兵 」と いう 記事 に、 「 輜重輸卒安芸郡馬路村山崎儀太郎氏 は去月廿九日広島衛戍病院に於 て 病死したる旨高知大隊区司令部へ通 知ありたり」とある。 三 人目 は、 上田 猪三 郎 で あ る 。 彼 の 名 は 、 紙 媒 体に は見 られ ない が、 石 碑上に確認できる。高知市春野町芳 原に、一九五八年に建てられた 芳 原町(高知市の一部)の忠魂社が現 存する。その敷地内ある「忠魂 名 」と記された石碑に同村出身戦没者 の名が刻まれている。日清戦争 戦 没者の名は三名あり、そのうち『靖 一』にないのが上田であ る。 ( 74) 上 田 については、氏名以外の情報はない 。 『靖一』に掲載されている戦没者と 、これまで挙げた者たちとを合 わ せると二八〇名となる。高知県にお いては少なくともこの数の戦没 者 が生じたといい得よう。すでに述べ たように、高知県の日露戦争戦 没 者は二五三七名である。高知県では 、日清戦争において、日露戦争 の 一割強の戦没者が生じていたのであ る。 先 に触 れた よう に、 『靖 一』 には 本籍 地の 府県 名の みが 記さ れ、 市町 村 名はない。しかし、自治体史、 『土』 、そして地域の戦没者慰霊施設 な どにその名を見出すことができる戦 没者については、その出身町村 を 確認することができる。 先に述べれば『靖一』に名がある戦 没者の内、出身市町村を特定で きた戦 没者 は一 八〇 名で ある 。逆 に言えば 、『 靖一 』に 名 の ある 高知 県 出 身日清戦争戦没者のうち、七三名は その出身市町村が不分明なので あ る。 ( 75) 市町 村別 に見 た場 合、最 も多 くの 戦 没 者を 出した のは 高知 市で ある 。 『 靖一』に名のない三名を含めて一七 名確認できた。各町村から生じ た戦没 者は 、五 名以 下に止 まっ てい る 。 五名 の戦没 者を 出し た町 村は 、 上 ノ加江村(中土佐町の一部) ・宇佐村(高岡町の一部) ・西豊永村で あ り、他の町村は四名以下である。 一八〇名のうちの過半数は、自治体 史によって出身市町村が判明し た。 『土』の紙面からは四四名の出身地 が判った。その材料は、死亡を 伝 える記事、遺骨の到着や葬祭の様子 を報ずる記事、死亡広告、葬儀 広 告、会葬御礼などである。また、靖 国神社への合祀を報じる記事に も 出身地が記されている。例えば、 一 八九五年一二月二二日の記事「靖 国 神社合祀の本県人」には、二二名の 戦没者の名があり、これにより 五 名の出身地が判明した。 石に刻まれた碑文から出身地が明ら かになった者も五名いる。四国 霊 場三四番札所である種間寺の境内に は、同寺の所在地である秋山村 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 二八
( 高知市の一部)出身の戦没者である 橋本楠吾(歩兵二等軍曹)の事 跡 を記した石碑(一九〇三年建立)が 現存す る。 ( 76) 墓からも二名の出身地が判明した。 一人は、下川口村出身の平林岩 吉 で ある 。土 佐清 水市 大 津 に 同 村 の 忠 霊 塔 ( 一 九 五四 年建 設) があ る。 そ の 敷地 には 、戦 没者 の墓 が七 基あ る 。 その 一つ が、 「故 陸軍 歩兵 二等 卒 平 林岩 吉士 墓」 〔 図 3 〕 で あ る。 ( 77) こ れ は 、 二 二 連 隊 所属 であ った 平 林 (『靖一』七二四頁 )の墓なのである。 も う一 人は 、天 坪村 (大 豊町 の一 部 ) の池 田政 司で ある 。『 靖一 』に よ れば、池田は海軍一等水兵で、一八 九四年九月一七日に巡洋艦松島 の 艦 内で 亡く なっ たと いう (六 八九 頁 )。大 豊町 角茂 谷に 天坪 村の 忠魂 墓 地はある。そこには、一九七一年に 建てられた忠霊塔と一一基の戦 没 者の墓がある。その内の一つが池田 の墓〔図4〕である。自然石で 造 ら れ た そ の 墓 に は 、「 明 治 廿 七 年九月 十七 日」 、「 在松 嶋 艦 戦 死 」など の 文字が刻まれてい る。 ( 78) 忠 霊塔前に設置されている「戦歿英霊 芳名」 ( 一九六七年設置)にも「日清日露戦 役」の「海軍」の個所に「一等 水 兵 池田政司」とある。 墓はないものの、戦没者慰霊施設に 刻まれた名を確認できた者が二 名 いる。一人は松本喜勢馬である。い の町波川に川内村(いの町の一 部 )の忠魂碑(一九三八年建設)があ る。同碑裏手の「殉国者霊名」 (一九 六四 年設 置) の冒 頭に 「日 清戦役」 「松 本喜 勢馬 」 と 刻ま れて い る。 ( 79) こ れ によ って 、『 靖一』 で 、 一八九 四年 一一 月二五 日に 草 河 嶺で没 したと され てい る二 二連隊 第二 大隊 の 二 等卒 ・松本 喜勢 馬( 七〇 三頁 ) が 、川内町の出身と知れるのである。 もう一人は、弘岡下ノ村(高知市の 一部)出身の川田庫吉である。 『 靖一』の川田の個所(一〇三六頁) には、一八九五年一一月二三日 〔図3〕故陸軍歩兵二等卒 平林岩吉士墓 〔図4〕正八位故海軍一等水兵 池田政司墓 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 二九
に 戦没したこと、近衛師団の二等卒で あったこと、基隆兵站病院で亡 く なったことが記されている。高知市 春野町弘岡下にある同村の忠霊 塔 ( 一九 五三 年建 設) 横に ある 「戦 歿 者 氏名 」を 記し た石 版に は、 「歩 兵 一 ママ 等 卒 川田庫 吾 ママ 明治廿八年十 一月廿三日 享年二十 二」と記さ れて い る。 ( 80) 更に、現地に残る一次史料によって 、出身地が明らかになった者が 二 名いる。北原村(土佐市の一部)の 出身の山本兼太郎・松本喜久次 で ある。彼らの名は、一九四三年一〇 月に同村銃後奉公会長が日本忠 霊 顕彰会に提出した「忠霊塔奉安分骨 壺名簿」に見出せ る。 ( 81) 本節で検討した戦没者たちがどのよ うに弔われたのかについては、 節 を改めて考えよう。 2 高知における日清戦争戦没者慰霊 本節では、前節で確認した戦没者た ちが、どのような形で慰霊され た のかについて検討する。 最初に考えたいのは葬儀についてで ある。繰り返し述べたように、 本 稿が依拠できる史料は限られている 。葬儀の状況について知ること が で きる 史料 は、 若干 の例 外を 除き 、『 土』 のみ であ る。 同紙 の記 事・ 広 告によって葬儀の執行を確認できる 者が六七名いる。ほとんどの葬 儀 は一人を対象とするものであるが、 二人の合同葬が四件、三人のも の が一件ある。よって、葬儀の総件数 は六一件である。 尚、ここでは葬儀後の史料、つまり 葬儀の様子を報じる記事や、会 葬御礼 のみ では なく 、葬儀 広告 など の 葬 儀執 行前の 告知 も含 めて いる 。 よ って、厳密にいえば葬儀の執行が確 実とは言い切れない事 例も ( 82) 含ま れ ていることをお断りしておきたい。 葬儀年月日がはっきりしないものも 多い。葬儀執行年についてのみ 述 べれば、一八九四年三件、九五年五 六件、九六年一件、不明(一八 九 五年か一八九六年か判然としないも の)一件となっている。 一番早い例として確認できるのは、 一八九四年九月二〇日に執行さ れた川島久吉( 『靖 一』六七六頁。以下、戦没者名の後の 頁数は『靖 一』 の 掲載頁である)の「埋葬式」である 、これを報じる記 事は ( 83) 次 のよう に 述べる。 安 芸郡安芸村黒島部予備兵川島久吉氏 (二十七年)は嚮に召集せ ら れて渡韓し元山津より京城に赴く途 中痢病に罹り終に竜山兵站 病 院にて死去したり依て去る廿日郷里 に於て埋葬式を執行せしに 会 葬者非常に夥多しく郡吏警官村吏村 会議員学校生徒青年会員練 武 舘員及び実業諸団体等にも会葬した り と ( 84) また、一八九五年一一月二二日に行 なわれた西森竹弥(九五四頁) の 葬儀は次のようなものであったとい う。 ( 85) 別 府村故輜重輸卒西森竹弥氏遺髪埋葬 式は去廿二日川渡磧に於て 執 行せり会葬者は郡吏村吏村会議員兵 士学校生徒有志者等無慮一 千 八百余名数十名の吊詞祭文ありて先 塋の次に葬る さら に、 同年 一一 月二 八日 に行 なわれた 三宅 熊太 郎( 九〇 五頁 )・ 東 野 喜代治(九三八頁)の合同葬は次の ように報じられてい る。 ( 86) 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 三〇
安 芸郡野根村出征の近衛歩兵上等兵三 宅熊太郎陸軍歩兵一等卒東 野 喜代治の両氏は征清の役に殊功を樹 て孰れも去る八月中病を以 て 陣中に死歿し此程其の遺骨郷里に到 着せしかば去月廿八日を以 て 埋葬式を為し本月一日慰霊祭を執行 せしに僧侶十余名■■し郡 吏 警吏村吏有志者等の祭典に参集する 者二千有余名の多きに及び 父 老皆涙を垂れて之を惜まざるはなか りし( 後略 ) ( 87) ここに例示した三つの葬儀が、高知 県における日清戦争戦没者の葬 儀 と して 典型 的な もの の よ う で あ る 。 ま ず 、 儀 式 の呼 称に つい て見 る。 こ の三つの葬儀に共通しているのは埋 葬式という呼び方である。葬儀 の ほとんどは、埋葬式、あるいは遺骨 埋葬式、さらに西森の葬儀のよ う に遺髪埋葬式と表記されている。ほ とんどの史料で、葬儀と同義に 使 われており、その内容にとくに差異 はないようである。葬儀の最後 に 実際に埋葬を行なっていたのかもし れないが、その詳細は不詳であ る。 葬儀の日程を確定しない葬儀広告の ほとんどが「遺骨の到着次第」 と 記されており、日時が確定している ものも「遺骨が到着したため」 と いう文言が入っていることが多い。 遺族の元には、まず死亡通知が な され、その後に遺骨(あるは遺髪) が到着し、その後に葬儀を執行 し ていた。葬儀において、遺骨・遺髪 が実質的な意味を持ち得ていた こ とが分かる。 この頃、どのような形で遺骨が郷里 に戻ってきていたのだろうか。 そ れについて触れている記事を一つだ け見出すことができ た。 ( 88) 土 佐郡鏡村字敷山より出征せし陸軍歩 兵一等卒横山兼馬氏は凱旋 の 途次似島病院に於て去る十五日病死 せしとの通知あるや親族及 び 同部落惣代は直ちに馳せて広島に赴 き去る廿九日遺骨を携へて 帰 村せしかば本日を以て其の葬儀を執 行する筈なりと これによれば、遺族と地域の代表者 が第五師団のある広 島ま ( 89) で遺 骨 を 受領に行っていることが分かる。他 例がないため、一般的にこのよ う なことが行なわれていたかどうかは 不明である。 次に 葬儀 執行 の主 体につ いて 検討 し た い。 葬儀広 告・ 会葬 御礼 には 、 親 族の個人名がよく見られる。そして 、それ以上に多く見られるのは 「 有志」という語である。 例え ば、 猪平 清一 (八 〇二 頁) ・南 部寅 治( 同前 )の 葬 儀 の準 備を 報 じる 記 事に ( 90) は 、「須崎町有志諸 氏」が準備をしている、と記されてい る。 二 人の葬儀の広 告も ( 91) 、「須崎町有志」 名 である。同様の例は非常に多い。 一八九五年一〇月一九日に執行され た沢村正次(九五四頁、 『靖一』 では「 政次 」) の葬儀広 告に は「高 岡郡 尾川 村有 志」 とあ り、 ( 92) 唯一の三 名 合同葬である笹徳治(一〇〇四頁) ・野本大三郎(六七 七頁) ・恒光 虎 太郎(九三七頁)の葬儀(同年一二 月六日執行)の広 告も ( 93) 「 香美郡 夜 須村有志」名である。 「有志」の母体のほとんどが町村 である。 前章で、当該期の軍事援護事業が町 村の「有志」によって始められ た ことを述べた。軍事援護事業の対象 の一つである戦没者の葬儀も、 町 村の「有志」によって担われていた 。このことは、それらが公葬・ 市 町村葬とまでも言えないまでも、公 的な性格の強い「地域の葬儀」 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 三一
と して執行されていたことの現れだと いえよう。 先に引用した事例にもあるように、 葬儀の様子を報ずる記事で会葬 者 について触れられる場合、地域の官 吏や地方議員、諸学校の教員・ 生 徒が多く描かれる。このことも、戦 没者の葬儀が公的な行事として 認 識されていたことを裏付けるだろう 。 ただし、若干の留保も必要である。 町村よりも小さな単位の有志の 動 向が見られる場合もある。一八九五 年一二月一二日に執行された恒 石千恵 次 (九 〇七 頁)の 葬 儀 の 広 告は ( 94) 「 高 知本町 堀詰 有志」 名で ある。 こ の例では、高知市内の市街地の一区 画が単位であり、後の町内会の よ うな範囲の有志が執行の主体になっ ている。 また、一八九五年一〇月一五日の紙 面に掲載された福留吉吾(九三 七 頁)の葬儀広告は「香美郡暁霞村白 川部有志」名であ る。 ( 95) こ れは、 村 内の一集落の有志ということなので あろう。先に見たように、横山 兼 馬の遺骨を広島まで受け取りに行っ たのは「親族及び同部落惣代」 で あった。町村ではなく、より実際の 生活に即した単位の人々によっ て 戦没者の「弔い」が担われた例もあ ったということなのだろう。町 村 が最も重要な基礎単位であったとは 必ずしも言い切れない。 保留が必要なもう一つの点は、有志 に止まらない組織も見られると い うことである。一八九五年八月二九 日に掲載された鍵山良馬(九三 七 頁)の葬儀広告は「大楠植村報公会 」名であり(同村は香美市の一 部) 、 一 八 九 六 年 六月三 日掲 載の 大畠 繁馬 (一 〇八 二頁 ) の 葬儀 広告 は 「 岩 村報 公会 」名 であ る( 同村 は南 国 市 ・香 美市 の一 部) 。ま た、 先に 挙 げた杉村伝治の葬儀を報じる記事で は、会葬者の中に野市村の「報 公 会員」がいたことが記されてい る。 ( 96) 前 章で同様な例を紹介した際に 述べた よう に、 「報公会 」は 、軍 事援 護団 体の 萌芽 的な 形 態 の組 織だ と 考 えられよう。 次に、葬儀の場所について簡単に見 たい。葬儀の執行場所について 判 明している事例は多くない。判明し てるものは全て屋外であり、屋 内 を会場としていることが明記されて いる事例はない。 最も多いのが、川辺・海辺である。 先に触れた猪平・南部の合同葬 は 、「須 崎海 辺」 で 執 行 さ れ て い る。 ( 97) これも 先に 触れた 笹・ 野本 ・恒光 の 三名合同葬は「本村砂浜」で行なわ れ た。 ( 98) 先に 引用 した 西森の 葬儀 では 会場が「川 渡 磧 かわら 」 で あっ た。 一八 九 五 年 一二月二九日に東川村(安芸市の一 部)で執行された有沢団次(九 八五頁 )の 葬儀 の会場 は、 「島 田磧」 であ っ た。 ( 99) 川 原 を会 場と する 葬 儀 は この他に七例を数える。 少し 変わ った 事例 とし ては 、「 田ん ぼ」 があ る。 一八 九 五 年一 〇月 二 八 日に佐古村(香美市の一部)の有志 により執り行なわれた原松太郎 ( 九四〇頁)の葬儀の「式場は一反余 歩の田地を以て之に充て」たと いうの であ る。 ( 100) この頃の 町村 では 、「 公 的 な 場 所 」が屋 外に しか 見出せ な かったということなのであろう。 次に、葬儀後の埋葬の地、すなわち 墓地について見てみたい。先に 述 べれば、彼らを埋葬した墓所につい て、とくにはっきりとした特徴 は 見出せない。例えば、すぐ前に紹介 した原松太郎は「同家の墓地に 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 三二
埋 葬 」さ れた とい う。 ( 101) 先に引 用し た西森 竹弥 の葬 儀を報 じる記事 では、 埋 葬先が「先塋の次」 、つまり先祖が葬られている墓地と されている。 一 八九五年四月二〇日に上ノ加江村の 海浜で葬儀が執行された大内南 洋 (八〇二頁)は 、その日の午後 に「 衣笠山に埋葬 」されてい る。 ( 102) 「衣 笠 山」は、村内の地名のようである。 埋葬先が判明した戦没者の埋葬先は 「先祖の墓」か地元の地名を冠 し た墓地のどちらかであった。つまり 、彼らが埋葬されたのは、地域 に 普通にあった家墓地だと考えられる 。 既に述べたように、高知県では日露 戦争期にほとんどの市町村に忠 魂 墓地が設置された。また、高知の郷 土部隊たる歩兵第四四連隊兵営 近 くには陸軍墓地が設けられていた。 陸軍墓地の正確な設置年月日は 不 明であ るが、四 四連隊 が置かれ た時 期と ほぼ同 時期だと 考えら れ る。 ( 103) つ まり、日清戦争期の高知県には戦没 者のための特別な墓地はな か ったのである。 日 清戦 争期 にお いて は、 「戦 没」 とい う事 実そ のも のは 公的 な出 来事 と 受け止められ、葬儀も主に町村を単 位としてほぼ公的な形で執行さ れ た。しかし、墓所に関しては他の死 者と区別されることはなかった の である。 戦没者慰霊についての検討の最後に 、現存する墓について述べる。 既 に本章第一節において現存する日清 戦争の戦没者の二つの墓につい て 述べた。現在までに筆者が確認して いる墓は(この二基を含めて) 一 七基である。 これらを見ることによって、戦没者 の墓そのものの形態ついて確認 する。 また 、日 清戦 争戦 没者 慰霊 の「その 後」 、す なわ ち 同 時代 以降 の 状 況について、その一端を考える。 本稿が挙げる三つ目の墓は、安芸村 の川島久吉のものである。これ は 、安芸市本町にある真慶寺の境内に ある同村の忠魂墓地にあり、日 露 戦争の戦没者の墓二二基と共に並ん でい る。 ( 104) 四つ目は、東津野村(津野町の一部 )の伊原徳右衛門(六七六頁) のもの であ る〔 図5 〕。 津野 町新 田に ある 「吉 村虎 太郎 の 像 」の 後ろ 側 に ある忠魂墓地の一七基の墓の一つが 伊原のものであ る。 ( 105) 五つ目は大津村(高知市の一部)の 池田友太郎(九四〇頁)の墓で ある。 高知 市大 津北 浦に ある 同村 の「忠魂 碑」 (形 態は 忠 霊 塔、 一九 五 〔図5〕故陸軍歩兵一等卒 伊原徳右衛門之碑 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 三三
三 年建設)の敷地に一二基の戦没者等 の墓がある。池田の墓は、一八 六 八 年に 起き た堺 事件 の「 二烈 士の 墓 」(同 地に ある 説明 板の 語) と並 んで あ る。 ( 106) 須崎村(須崎市の一部)の忠魂墓地 には三基の日清戦争戦没者の墓 が ある。須崎市須崎にある同墓地は、 忠霊堂を中心として六六基の墓 が 並 ぶ広 大な 墓所 であ る。 そこ に池 川 豊 太郎 (六 七七 頁) ・南 部寅 治・ 柏 原久吾(一 〇〇四頁)の 三名の墓が あ る〔図 6〕 、 ( 107) 既 に 述べたように 、 南 部の葬儀は猪平と合同で執行されて いる。しかし、猪平の墓は同墓 地 にはない。また、柏原の墓に関して はいくつかの「謎」がある。 柏原は須崎村出身ではないようであ る。柏原の葬儀が一八九五年一 一月二三日に執行されることを告知す る葬儀広告は、 「戸 波村浅井有 志」 名 なのであ る。 ( 108) ま た 、柏原の墓の竿 石には、正面以外 の三側面に経歴 ・ 戦 歴が刻まれている。その中に、両親 が「高岡郡戸波村」の人である こ と、さらに遺骨が「郷里浅井山先塋 之次」に葬られたことが記され てい る。 ( 109) こ の墓は、形態はいたって「普通」で あるが、正面には「柏 原 久 五碑 」と 刻ま れて いる 。( 確認 はで きて いな いが )戸 波村 にも 墓が あ るのかもしれない。 須崎村と同様に、現在の須崎市域に ある多ノ郷村の忠魂墓地にも日 清 戦争戦没者の墓が一つある。須崎 市 多ノ郷甲にある同村忠魂墓地(現 在 は「多ノ郷平和公園」と呼ばれる) は県下で最も大きいものの一つ で あり、二九二基の墓が林立する。そ の一つが、日清戦争で亡くなっ た 堅田寅之助(九三八頁)のものであ る。 ( 110) 〔図6〕柏原久五碑(左端)・池川豊太郎墓(左から2番目)・南部寅治君碑(右端) 日 清 戦 争と高 知県 ―戦没 者の問 題を 中心に ― 三四
黒潮 町 有 井 川 に 白 田 川村 の忠 魂墓 地 が ある 。これ も大 規模 なも ので 、 一 一 七基 の墓 があ る。 そ の 内 の 二 つ が 日 清 戦 争 の 戦没 者の もの であ る。 一 つ は佐 竹栄 太郎 (九 三七 頁) 、も う一 つは 亀井 与太 郎( 九三 八頁 )の 墓で あ る。 ( 111) かつて筆者は大月町の戦没者慰霊の 歴史について詳しく検討したこ とが あ る。 ( 112) そ の際に述べたように、同町域では町 村毎ではなく、町制 施 行以前の単位である集落毎に忠魂墓 地が設置されている。その内、 春 遠地区の忠魂墓地に渡辺佐太郎(六 七七頁)の、弘見地区の同墓地 に 藪内吉馬(八二〇頁) ・長岡徳太郎( 『靖一』に記載なし)の墓があ る。 大野見村でも二基の墓を見出した。 中土佐町大野見吉野に、同村の 忠 魂社がある。その敷地の一角に、一 三基の小さな墓石が並んでいる 〔図 7〕 。 ( 113) こ れ らは 、西 南 戦 争 か らシ ベリ ア 出 兵 ま での 戦没 者 の も の で あ る 。そ の中 に、 日清 戦争 で戦 病死 し た 高橋 清三 郎( 七一 二頁 )・ 大西 重 次(九三八頁)の墓石もある。 一九 五 六 年 発 行の『 大野 見村 史』 ( 114) に よ れば 、「 終戦まで中 央小 学校々 庭 東隅の木立の中に乃木、東郷両将軍 揮毫の記念碑を中心に営まれて いた 忠 霊 ママ 墓 地は、占領政策によって教育施設内 にあることが許されな く なり」 、一九四六 年に「招魂社(忠霊殿) 」の敷地に移転したのだと い う。 ( 115) と するならば、先の墓石も建設時とは 異なる場所にあると言う ことに な ろ う 。〔 図7〕 を見 ると 分か るよ うに 、一 三基 の 墓 石は 非常 に 近 接した状態で建っている。移転時に 墓としての役割を終え、墓石の 〔図7〕大野見忠魂社敷地内の墓石群 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究 第 23号 三五