現代の基本的徳についての一試論
木 場 猛 夫
(An Essay on Modern Basic Virtues)
一目 次一
1 徳論の問題点と徳の基本 H 現代の基本的徳
(1)自主と責任
(2)正義と寛容一平等と同等の問題
(3)誠実と謙虚 皿 徳 の 要 因
1 徳論の問題点と徳の基本
徳論は今日においても依然不評であるといえよう。その主な理由の一つは,明治・大正
・昭和にわたって教育の基本的指針となった忠孝を根幹とする徳目主義に対する反発とそ の余波が,未だに根強く存続しているためと思われる。元来徳目は行為の指標として,そ の守るべき徳の細目を羅列したものであるが,わが国ではこれが国家理念と一方的に結び つけられ統制的教育の指標となった。この徳目主義は時の推移と共に形式化し,事大主義 とも結びついた。このため徳目を問題にすることは,今日でさえ反動であるように嫌悪さ れ危険視される傾向がある。今一つの理由は,徳が理念的性格をもち各人の行動を規制す るたあ,それが自己強制であれ一種の強制である限り,自由を束縛するものと解される点 にあるように思われる。元来徳目は具体的には実践的強制として義務のかたちをとり,各 人の自由意志に対し自己規制・自己強制を要求する。ところが現代は自由が絶対である。
そのため人間を強制する一切のものは反発をうける。ここでも徳論は戦前・戦中の徳目主 義と直結され,上からのおしつけとして生理的反発をうける。具体的には「道徳時間」を めぐる諸々の教育的動きにみられるように,徳論は修身科の復活という危惧を懐かせる。
こうした風潮の中で,なおわが国では民主主義社会における基本的徳及びその学的基礎づ けは未だに十分とはいえない。
一体徳論とは何であろうか。元来徳論は道徳に基づく。道徳は人間が人間として共によ く生きるための道理である。つまり「人間共存のすじみち」である。神には道徳は無用で あり,動物には道徳は問題とならない。人間はいわば神と動物との中間的存在として,神 になり切れないと同じ様に単に本能的にのみ生きることに満足し得ない。一方で天上を目 指し乍ら,他方地上に足を踏まえて生きねばならない。しかも人間は文字通り人と人との 間に生きている。したがって人間はお互いにお互のためによく生きられる「すじみち」を 立てねばならない。人間相互の間に,共によく生きるための「すじみち」を抜きにすれば,
あとは単に力のみが残り,人間界は弱肉強食の修羅場となりかねない。このすじみち なしに人間は人間として生きられぬことを自覚し乍ら,人聞は必ずしもこの「すじみち」
に即して生きるとは限らない。神と動物との中間的存在としての人間は,一方神性をもち
乍ら他方動物性をもつため「すじみち」を自覚し乍らもそれに違反する傾向性をももって いる。そこで人間は「すじみち」によって自己を規制しなければならない。事実人間は直 接的な社会規制として法律をもっている。法律に違反した者はその程度に応じて社会的制 裁を受ける。しかし法律さえ確立し,制裁さえ厳しくすれば人間が人間として酔罵らしく 生きられるというものではない。法律はあくまで人間の外的行為の規制であって,内的良 識又は理性まで規制し束縛することは出来ない。ここに適法性に対する道徳性の問題が存 在する。人聞が,神としてでなく,また動物としでもなくあくまで人間として生きるため
には,たとえ肉体的腕力や社会的地位や権力,はては名誉などなくても,恐怖をもたず引 け目を感ぜず安心して生きられるために,人間として守るべき「すじみち」を立てねばな らない。これより他に人間が人間として生きてゆくみちはない。この人間がそれ以外には じんかん
生きてゆけない「すじみち」,つまり人間の道理が道徳にほかならない。この道理が人 間社会の根底にあってはじめて経済や社会の問題も解決が可能となる。したがって道徳は 人間が人間として共に生きてゆく基底となるものである。
ではこの道徳と徳はどのような関連をもっているのであろうか。「道徳」の「徳」は道 理・すじみち,すなわち人のふみ行うべき道を意味している。そしてこの道を個人が体得 するところに生ずる卓越性が「徳」である。したがって道と徳を比較すると,道が客観的 道理を意味し,ここから「倫理」と同じ意味をもちそれ自体普遍的原理をさすのに対し,
徳はこの道を各個人が実現せんとするときの主体的心構えさらにその実践力を意味し,な おそれを通して体得される優秀性をさしている。一般的に「倫理」は人倫の理法であり,
普遍的・体系的客観性を特性とするのに対し,「道徳」がその現実的具体的実践の意味合 いを強くもつのも,徳の語義を反映しているからであるといえよう。「倫理」は人と入と の間のすじみちであり,共同体の理性として人間たるすべての人に妥当すべきものである が,その具体的形態としての「道徳」は,それぞれの時代と社会によってそれぞれ異な る。しかしその実現は結局のところ個人の内的主体にかかわり,「道」を行為と結びつけ る卓越した性格,心構え,意志の強さが要求される。この道を実現するための各個人の主 体的卓越性が徳である。
元来「徳」は一般に身につけることを意味した。「徳ハ得ナリ,身二得ルナリ」 (論語 集注)といわれるように,必ずしも道を得るという道徳的意味だけでなく,広範に使われ 損得の得をも含んでいた。そしてまた努力し身に得るだけでなく,本来自分に備っている 固有性という意味ももっていた。たとえば「酸イハ梅ノ徳,甘イハ砂糖ノ徳」という説明 は,物が本来もっている固有の性格または力を意味している。すなわち砂糖が砂糖である のはそれに甘いという固有の性格があるからであって,甘くなければ砂糖の能をなさない のである。「鬼神ノ徳,ソレ盛ナリ」 (中庸)の徳も内在する力または勢いを意味してい る。このように東洋における徳の語義は多様で広いということができる。西洋において徳 に当る言葉には,周知のようにまずギリシア語のaρε吻がある。語源的には,軍神Arδs と同根で戦いにおける優秀性,男らしさ,勇気の意味に多く用いられ,それがやがて一般 化して優れていること,よきことを意味した。ラテン語のvirtus,それに由来する英語 virtur,仏語vertusもvir (男)から由来し,男らしさ,勇気,力,優秀性を意味す
る。独語Tugendもtaugenが示すように,役立つ,適するという意味をもっている。
このように徳は広く自然一般について用いられ,道徳的意味だけに限定されていなかっ
た。すなわち物や動物にも用いられて人間にだけ限定されていなかった。ところがやがて 徳が人間に限定され,しかも人間のかかわり合う自然や物から切り離され,人間がそれ自 体として主体的にみられるようになると徳も道徳的意味に限定されるに至ったと考えられ る。この徳の語義の限定には人間的道徳的自覚の反映がみられるのではなかろうか。この 事情は東洋でも西洋でも同様であるといえよう。つまり徳は道徳的意義に限定され,道を 個人が実践修得するところに生ずる卓越性となり,同時にわれわれが修得すべき実践的目 的ともなったのである。
ところで人間関係における道理としての道徳は,一方で普遍的人倫の理法を基本としな がら,他方では時間的空間的制約の下における具体相をもっている。いいかえれば特定の 時代と社会のそれぞれの具体的現実に即して,集団の内的約束として出発する慣習的道徳 が要求される。そこでこの道徳の実現にかかわる徳もそれに即応して設定されることにな る。それは西洋の倫理思想の流れの中にも歴然と現われている。例えばギリシアの徳は四 元徳すなわち知恵,勇敢,節制,正義に集約されるが,これはポリスを背景とし理性的人 間観を基本とするものである。これに対し中世キリスト教においては,人間は神に叛いた 罪人であり,この罪人は自らの罪を悔い改めて神に赦しを乞い神の愛を信じることによっ てのみ救済されるのであるから,一切の教義が,したがって徳もこの信仰に基づく。いい かえるとギリシアの徳がポリスを背景にする人間関係の道徳的目標であったのに対し,キ
リスト教における徳は,具体的には柔和,謙遜,清貧,節欲,清潔,従順,純潔,誠実,
忍耐等も人間関係における徳目ではなく,神への信仰と愛の証しとして信仰の立場から要 求される精神的素地の役割をもつに過ぎないのである。例えば謙遜も単に自己に対して自 惚れず,他人に虚勢を張らないという意味に止まらず,己れを空しくし,ひたすら他人の ために尽くし他人を愛することによって神の愛にこたえるためのものであり,信仰を欠く ならば全く無意味となるだけでなく,傲慢に堕すものである。この意味でキリスト教の三 元徳,信仰,希望,愛があげられている。さらに近代になると,神に代る人間の時代的要 請として近代市民社会に生きるヒューマニズムの徳が要求されてくる。カントによって純 化された義務論は,彼の所謂「人格目的の原理」の現実界への適用であるが,これは近代 の徳論の一つの典型とみることが出来る。そして現代は現代の現実的社会を背景として,
現実的要請に即して道徳とその実現のための実践目標として徳が確立されねばならない。
すなわち,人間が人間として生きるために道徳が不可欠であるのと全く同じ意味において 徳が確立されねばならない。いいかえると,道徳が単に人間の願いや希望に止まったり・
単なる理論体系に終止するのでなく,その現実的,具体的実現が問題とされる限り,徳の 確立は必須である。事実また道徳はその具体的実現が意図されないならば観念の遊戯であ って意味をなさない。論証するに,道徳の実現,具体化は,ひとえに各人の徳にかかって いるのである。そこで現代に生きるわれわれは,現代の社会が要求する道徳に基づいて各 個人の実践目標としての徳が明確に確立されねばならない。
皿 現代の基本的徳
では現代に生きるわれわれにとって,どのような基本的徳が要求されるのであろうか。
この問いに対しては,色々な視点が考えられるが,私は現在わが国が標榜している民主主
義の立場から民主化の方向で考察すべきであると思う。民主主義は人間尊重の精神を基本
として,自由・平等の二つの理念から成り立っている。この理念を実現するために,わが 国の現実に照らして特に要求される基本的徳は何か,というのがここでの問題となる。そ こで私は自由と平等の理念の実現に対してそれぞれ表裏一体の一対つつの徳を,そしてさ らに両者に共通する基本的徳を一対,次のように提示し,一つの試論として展開してゆく ことにする。
(1)自主と責任
自主とは自由を確立し自由を生き抜く精神の卓越性を意味し,責任によって裏付けられ る。自由とは徒らに他人に依存せず自己に由ること,いいかえれば主体性を確立すること である。自己に由るというときの自己は,カント的にいうと恣意的自己でなく純粋意志を 意味し,ハイデッガーのいう中性化された一般的自己ではなく本来的自己を指す。した がってこの自己に由るとは,カントの自己立法,自律と同義であり,ハイデッガーのダス
・マン(das Man)からの滋強を意味する。カントでは感覚的な恣意性や主観性を普遍性 としての道徳法則によって自ら律することである。つまり本能的衝動や感覚的欲求に対し,
ま
これを自ら立法した普遍的客観的道徳法則によって律し得る自己を確立することである。
理性的人間像を背景とする道徳的観点に立つと,自主は自律と同義と考えられる。これに 対し実存の観点からは主体性の確立ということになる。ハイデッガーによると,通俗的
「ひと」の隠蔽性をはぎとって本来的自己に立ちかえることを意味する。彼によると「ひ と」は,このひととか,あのひととかでもなく,又ひと自身でもなく幾人かのひとでもな
く万人の合計でもない。いわゆる「人は言う」という時の人である。そこでは「何人も 何も言わぬ」と等しく痛烈に責任を感ずる主体はなく,「ひと」はつまり「だれでもない もの」である。このような「ひと」の欺良性を否定し本来的自己を取り戻し「自立せる自 ま
己」に由って生きる姿勢を自主というのである。
今日は大衆の社会である。大衆の中にあっては人は,多数に抗して独り毅然として立つ というよりは,多数につく安易さや多数に流される弱さをもっている。その方が自己の小 さな幸せを守るために都合がよく,平穏無事だからである。しかし「何より大切なこと は,家畜のように先を行く群れに従い,行くべきところへではなく,行かされるところに ついて行くことをしないことである。」大衆の中にあって自己に由るという自主の徳を修
得するには必然的に勇気が要求される。プラトンによると「勇気ある人」とは,「その人 の意気地の部分が恐るべきものとそうでないものとに関して,理性が報らせてくれたこと を,苦楽を通じて保持し通す場合」と規定している。大衆の賛成が得られ快くあろう
と,或は反対にあって苦しかろうと,その苦楽の織れにおいても理性の命令を保持し得 る徳が勇気であるから, 自主は勇気を伴う。アリストテレスでは勇気は無謀でも無論 怯儒でもなく,平然と恐怖の中庸二とされている。つまり真実を守り抜く強さと解し得る 註⑤
であろう。
ところで,このように自己が行為の主体となりその主体性を確保するということは,当
然その行為に自ら責任を負うことである。逆に言えば,責任は行為者が真に主体的になっ
たことの必然的帰結である。行為の責任を自ら負い得る主体は人格にほかならない。カン
トによると「人格とは,行為の責任を負うことのできる主体である。したがって道徳的人
格性とは,道徳法則の下にある理性的存在者の自由にほかならない。このことから人格
は,自分が自分自身に与える法則以外の他の法則には服従しないという結論になる。」つ
註⑥
まりカントでは自由と責任は人格において主体的統一的にとらえられている。もともとカ ントにとって「意志の自由は自己自身にとって法則であるという意志の固有性つまり自律 よりほかのものではない。」そして「自律は人間及びあらゆる理性的存在者の尊厳の根拠
である。」要するに,自主と責任は自由又は自律の概念に基づいて表裏一体の徳を形成し
ている。いいかえると自由の理念を実現するために各人がまず修得すべき徳は自主と責任 ということになる。それは同時に自らの人格の尊重である。今日,組織の巨大化と大衆化 によって人は自主性を喪失し,いわゆる無責任時代を現出せしめているが,この自主性の 喪失,他人任かせ,無責任は現代の悪徳といわるべきものであろう。
(2)正義と寛容一平等と同等の問題
平等の理念は,すべての人間に対し人間としての尊さを等しく認あようとする人間尊重 の精神に基づく。そして人間の尊さを平等に認めるのには二つの観点があると考えられ る。第一は理念的観点からみた理念的平等である。すなわち人間を人間であるというその こと自体でその尊さを等しく認めるもので,その場合は具体的能力や環境的条件,権力,
地位等一切を捨象することになる。ここでは人間は抽象的・形式的概念によってその平等 が確保されるといってよい。この意味ではヘーゲルの人格概念すなわち抽象法の下におけ る権利能力としての人格と同義である。「人格は一般に権i利能力を含み,そして抽象的そ れ故に形式的法の概念及びこの法のそれ自身抽象的な基盤をなす。それ故に法の命令は
り コ コ り コ り り り
『一個の人格であれ,そして他人を人格として尊敬せよ』となる。」第二の観点は人間の
現実性と具体性に即して,その人の能力や努力,働きに応じて等しさを確保するものであ る。事実人間はその能力,努力,まじめさ等において差異をもっている。優劣強弱は人に よりその違いは歴然としている。この事実,具体的現実をそのままに認め,それ相応する 等しさを確保しようとする観点である。これは第一の理念的平等に対し,現実的平等とで
も言うことが出来よう。いずれにせよ両方ともに,人間の等しさ,平等を確認し,あら ゆる行為においてこの平等を確保し,これらの意味を具体に即して適確に判断し,両者を 混同することなく各人を等しく取り扱おうとする心構えが,「正しさ」であり, 「正義」
なのである。いいかえると正義の徳とは,人間をそれ自体として,あらゆる具体性を捨象 して平等に扱う場合と,単に頭割りの形式的抽象的平等でなく,各人の能力や働らきや努 力に比例して等しく扱う場合とを明確に,しかも具体に即して区別し,共に等しさを確保
しようとする心構えである。このような心構えを修得するためには,私情を超え理性に由 らねばならない。つまり「正義」の徳は,元来主観や私情を超え理性に基づく徳なのであ
る。
さてこのように,理性に基づく平等の二重性と正義の概念について最も古典的で決定的 な究明をしたのはアリストテレスである。そこで『ニコマコス倫理学』によって平等の二 つの面と,それに応ずる正義との内的関係について考察しておきたい。アリストテレスに よると「正義δ乙καωσり〃η とは,ひとびとをして正しきを行なわしめ,正しきを願望せし めるような『状態6ξ s』の謂いである。」更に正しさには二つの意義が考えられている。
「正δ猛αωりとは,適法性〃6μぴμoりと均等性多σ・〃ということとの両義を含み,不正 凌δ6κ・ンとは, 違法的παρの・μ・ッということと不均等的伽σ・ンということの両義を含 む」としている。この正しさの概念は,単に個人の魂における徳ではなくポリス的徳であ
註⑪
る。すなわちポリスという共同体に住む住民の幸福またはその諸条件を創出し守護してゆ く行為の基準である。アリストテレスはこれを広く対他的関係において「完全な徳」と よび,これに対し「特殊智徳」を考えている。これは更に「配分的正義 δ α略μη7 κヵ
&καωσ加η」と「整正的正義 δωρθω7 吻 δ粥αωσ加η」とに分けられている。これらは 註⑫
共に「均等zσ・ひ」すなわち等しさを守ろうとする正しさなのである。「正とは均等を意 味する」。そして反対に不正は「操りπλε・〃εξ狡」すなわち過分の所有ということにな 註⑬
る。社会の成員が過・不足なく働きに応じて「ひとしさ」を実現してゆくことが正しさの 基本となっている。ところで「配分的正義」は,財貨や名誉や権力等を共同体の成員の間 に分配する場合の正しさである。成員の一人が他の人に比して平等な分け前にあつかって いるかどうかが問題となる。物の配分に際して多いと少ないの「中」は等しいことすなわ ち平等である。ただしこれは配分せられる「物」に即して考えられた場合である。したが って配分に当っては物だけでなく,物の分け前にあっかる 「人」が考えられねばならな い。ところが人は強弱優劣さまざまあって決して等しくはない。等しくない人に対して等 しく分配したのではその配分は正しいとはいえない。より厳密には,功績や能力の有無を 問わず無条件的な等しさを求めるのは正しくないことになる。つまり配分に際しては無条 件的・形式的頭割りの等しさは正しくないのである。そこで「大には大を,小には小を」を 原則として人と物との間の比例的平等が確保されねばならない。価値に比して不当に「過 分」なものを与えたり,又受けたりするのが不正であるように,不当に「不足」したもの を与えるのも不正である。アリストテレスはこの「配分的正義」を,幾何学者の言う「幾 何学的比例4〃αλo惚αγεωμεγρ κり」1こ即した等しさと呼んでいる。
註⑭
これに対し「整正的正義」は人と人との間のさまざまな交渉における正しさである。商 品や労働を交換したり貸借したりするような自発的な交渉や,窃盗,姦淫,暗殺,または 侮辱,略奪,詐欺等のような自発的でない交渉において被害者と加害者の聞を正しく調整 することが問題となる。このような貸与,交換,賠償,刑罰の問題にあっては,幾何学的 比例ではなく,単純な「算術的比例のαλoγ故6ρ θμη7砺」 に即しての均等でなけれ
ばならないのである。このいわば算術比例的平等は上述の問題に対して,同等のものを返 還し,等価物を交換し,損害や罪に相当する責めを負わしめる正義である6これは千円の 借金に対しては,金持ちであろうと貧乏人であろうと千円返えせばよいし又返さねばなら ない。盗みをすれば,役人であろうと失業者であろうと同じ罰をあたえねばならない。取 り引きや裁判の正しさは,このような算術的比例に即しての均等,いわば算術的同等を基 礎にもたねばならない。このような正しさについてアリストテレスは裁判官との関連で次 のように敷衡している。「紛争の生じたときにひとびとが窮余裁判官に訴えるのもこのゆ えである。裁判官に訴えるということは『正しきδ薦αω姻 に訴えることにほかならな い。裁判官δ κασ7船=正しきをつかさどるひと)はいわば生きた『正』たるべき意味を もっているのである」。正しい裁きとは,失われた不正を算術的比例に即した均等によっ
て正しさに迄回復させることである。この正しさは配分的でなく,整直的であり報償的で あり調整的でなければならない。
以上のようにアリストテレスの等しさと正しさは,配分的正義と整正的正義との二つに
区分されており,事に即し時に即し所に即して中庸を得,その等しさとしての正しさが確
保されねばならないのであって,両者が混同されてはならない。基本的には次の様に言わ
れている。「然るべきときに,然るべきことがらについて,然るべきひとに対して,然る べき目的のために,然るべき仕方において中を得ること」である。ここでアリストテレス 註⑯
の正義論を通してわれわれが最も注目すべきことは,自由の概念がとかく我儘勝手ととり 違えられ,誤解され易いように,平等に関しては,一律の形式的平等つまり悪平等ととり 違えられる危険性がひそむことである。この悪平等はアリストテレスの配分的正義と整正 的正義の区別を知らぬか或はそれを混同したところがら生まれてくるものである。今日平 等の問題は最も尖鋭的に「差別」の問題として追求されている。これはわが国が民主主義 を標榜し,まずはその形式的受容の段階から実質的深化の段階への進化とみることができ る。しかし現実的問題点としては基本概念としての平等の理解が形式的同一性へ強く傾き すぎており,その傾向は益々強くなってゆくように思われる。しかし既に考察したよう に,平等を単に人間の一律平等の方向へのみ解するならば,この平等観は人聞を画一化 し,個性を無視し,やがて人間を形式化し平均化する悪平等へ正してしまう。端的に言っ て人聞には素質的能力的に優劣の差があるのが現実なのである。更にまじめさにおいて,
努力の度合においても差がある。これも被い隠くすべくもない現実である。われわれはこ の現実を卒直に直視しなければならない。この冷厳なる現実から敢て目をそらし,あくま で一律平等を主張する安易なヒューマニズムには,平等という概念にかくれて自己の無力 や不誠実さをカムフラージュする自己二三性があると思う。ここで最も大事なことは,能 力の差が決して人間それ自体の差ではないということである。能力の上からいかに差があ れ,人間それ自体の差ではないということである。能力的に如何に差があれ,人間それ自 体としてはカントが倫理学的に基礎づけたように,すべて尊厳をもつものとして等しいの である。しかし尊厳の等しさは能力の差を無視したり平均化した等しさではない。言葉の 最も厳密な意味において平等は画一的形式的同等ではなく,個性尊重の精神に基づく自由 と相互に調和するものでなくてはならない。他人といかに能力的にまた努力の度合におい て差があるにしろ寧ろそれを直視し,その意味で真実ありのままの自己を知ること,この
自己認識こそが自己発展のために重要となる。すべて事物は相対的であり他と比較なしに 自己認識はあり得ない。われわれにとって大事なことは能力的に高かろうと低かろうと,
高慢になったり又は卑下することなく,誠実さにおける人間的誇りをもっことである。こ の心の姿勢が平等の理念に対する「正義の徳」として私が提唱するものである。厳しく否 定さるべきはこの高慢と卑下であって現実ありのままの能力差や誠実さの自己認識又は他
との比較,評価などではない。然るに現代は平等を盾にして自己認識,他との比較など一 切を否定し一律化し画一化しようとする風潮がある。これはまさしく現実無視であり理念 的平等の悪利用であり,真実の自己をありのままに知ろうとしない自己欺隔をかくしもつ 現代病であると私は思う。
この問題について,既に生の哲学の立場から弱者の自己欺隔としてルサンチマンの現象 分析を中心に鋭い解明を行ったのがニーチェである。周知のようにニーチェはこの病根を キリスト教にあるとし,これを「奴隷道徳Sklavenmora1」とよんだ。ここには自己の無 力の故に「平等」を盾にし自分より価値あるもの,力あるものを引下げ平巧化しようとす る傾向つまり奴隷根性がひそむとする。「奴隷道徳は最初から『自己でないもの』に対し
ナイン
て否と語る。……奴隷道徳の行動は根本的に反動である。」そして「弱さは価値」として 註⑰
「強さを価値」とする生の拡張・増大を否定し,価値を逆転させようとする。これは無力
からくる強いものへの嫉妬・猜忌・復讐の感情すなわちルサンチマンRessentirnent(怨 恨)にほかならない。これは強いものに対し心を開いて讃美するのではなく,逆な形でこ れを誹嘉し,価値なきものをさも価値あるもののように見なす態度である。ここに「価値 の転倒」が生ずる。そしてこれが人を益々屡小化し,やがて無気力なニヒリズムの到来を 招くとする。ここでわれわれはニーチェに深入りすることは出来ないが,ともかく,この 現代の病根としての悪平等に対して,平等の真義は単なる同等ではなく,理念的及び現実 的という二面性に即してその等しさ一正しさが確保されていなければならない。警戒さる べきは平等の概念の下に人間の個性や主体性を無視し自由を否定する一律悪平等に堕さぬ こと,幾何学的・算術的比例関係に即した均等さを確保するために,理念と現実を混同し てはならないことである。
さて次に「正義」の徳の裏づけとなる徳が考えられねばならない。思うに正義の徳はア リストテレスの場合でも理性(ことわり)に基づくロゴスの道徳であった。したがって,
これには実践的愛に基づくパトスの道徳が裏づけらるべきであろう。いいかえれば,す じみちによる裁きには愛による包容が組み合わさるべきだとすれば,私はここに「寛容」
の徳をあげたいと思う。自らは正義に叶い,すじみちを立てたつもりでも,人はその有限 性の故に,絶対に誤りを犯していないとは言い切れない。自らの見識と判断に関しては誤 りはなく,又その動機において純粋であることを信じても,全体的立場からみ,又心を透 してみれば我執的要素が微塵もないとは言えず,我欲の裏返がえしであるかも知れない。
他人への親切が自己愛の裏がえしの場合もあり得るからである。しかし有限なるが故に こそ人間は自己の良心の声や理性の命令は自己信頼,自己確信の最後のよりどころとせざ るを得ない。有限なるが故に自己の行為に責任をとらずにすむわけでなく,自己の行為に あくまで責任をとろうとするならば,自己の良心や理性や自由を信頼する以外にない。こ う考えるとわれわれは自己を信じながらも謙虚でなければならず,他に対しても正しさを 要求しながら他方寛容でなければならない。かくて寛容とは,ヒューマニズムを基本とし て相手の立場に立ち,その真意を理解すべく努力し,単にその過失を答めだてしない心の 優しさであり広さである。しかし注意すべきことはそれが単なる安易な同情や不正の黙認 ではなく,共に正しさを求めようとする厳正な実践的愛を基盤とするものである。一般的 に,人間は自分が可愛いく,自らに寛大であり,その割に他人に極めて厳しいが,相互信 頼を基本とする民主主義社会では,寧ろ自らに厳しく,そして他に寛大なる徳つまり寛容 が不可欠である。社会や国家を民主化してゆく推進力は,独善的力や暴力による破壊では なく,相互信頼による理解と建設である。暴力は理性の挫折であり放棄であり破壊以外の 何ものでもない。この寛容の徳を特に強調したい理由は,民主主義の基本となる言論の自 由において,今日自己主張と独善的傾向が強過ぎるために,「言うこと」と「聴くこと」
のバランスがくずれ,発言と論理が空転していることが余りにも多いからである。ここで は寛容の徳は「聴くこと」にあらわれる。対話にあって自説を明確に述べることは基本条 件であるが,自説のみに執着し他はすべて非とする態度は対話を否定することになる。プ ラトンが言うように我儘な人には対話は出来ないのである。今日は「言うこと」に対して
「聴くこと」の姿勢に欠ける。元来言うことは聴くことによって成り立つ。まず他人の声 を耳できかねばならない。ところが現在「声」という当用漢字が「耳」を欠落している
ことが象徴しているように,現代人は耳を失いつつある。否,既に失っている。そのた
め声だけが大きくなり,人の言うことは聴かず,言うだけのことを言って自己満足してい る。キケルゴールが警告しているように,われわれは「沈黙し,そして傾聴すること」を
「野の百合,空の鳥」から学ばねばならない。この現代における問題点も基本的には,人 註⑱
間尊重の精神の未熟さと,具体的には,自己と同時に他人をも認容し共同して真理を求め ようとする寛容の徳の欠如にあると私は考える。
(3)誠実と謙虚
人が自らに主体性をもち正しく生きるためには「真理」に即して生きねばならない。その たあ基本的には真理を追求し知ろうとする心構えと,いかなる障害があろうと真理に基づ いて生きようとする心構えが要求される。これらの心構えが「誠実」の徳である。そしてこ の場合前者を知的誠実,後者を実践的誠実として分けることが出来ると思う。今日われわ れは極めて複雑な社会組織や国家機構の中で生きているが,その中に自らの人間性を理没 させることなく自由にしかも正しく生きるためには,社会の組織やその動向に無関心では あり得ない。寧ろその真実を知る努力がなければならない。政治を単に政治家に放任する のでなく,自己との連帯において社会の真相を知らねばならない。そのためにはイドラや 先入見を避け偏見と独断を警戒する「知的誠実」が要求される。そして知的誠実は単なる 情熱や熱意に対する冷静なる方向づけの意義をもつものである。われわれは既に情熱や激 情が徒らに先行して冷静なる知性や判断を欠くとき,如何に危険な道へ突走るかを自らの 歴史の上で知っている。そこで具体的には教育の上でも就職のための学歴,学歴のための 学問ではなく,生涯にわたる知的追求,自己及び社会の認識を深める生涯教育の形をとる
ことになる。この知的誠実はつきつめれば実践的誠実に結びつく。人はよく知らなかった ということで自らの行為に対する責任をのがれようとし,又他人に対してもそれを容赦し ようとする傾向がある。しかし道徳的責任はそれ程安易でいい加減なものではない。知ら ないということ自体責任を負うべきなのである。「徳は知なり」というソクラテスの言葉 はこのような厳しさを表現したものと解される。つまり知と行は分離したものではなく,
知行合一であり,ここに知的誠実と実践的誠実の接点があると思う。ところで「実践的 誠実」 は真実に生きんとする心構えである。 したがって知的誠実が知性にかかわるのに 対し,この実践的誠実は意志の強さにかかわり,共に真実を基本とする。誠実一般につ
いてカントの定義をかりると次のように規定されている。「自分の意思表示において真 実であること Wahrhaftigkeitは正直Ehrlichkeitとも名づけられ,それが同時に約 束である場合には忠実Redlichkeitともいわれるが,一般には誠実Aufrichtigkeitと いわれる」。さらにカントは自己に真実であることの反対すなわち悪徳として「虚言」を 註⑲
あげる。「虚言は自己の人間たる尊厳の放棄であり絶滅である。他人に向って言うところ を自ら信じない人は,彼が単に物件であるにすぎない場合にも劣る価値しかもっていな い」。このように誠実に対する悪徳である虚言は人間の尊厳の放棄として厳に否定されて
ゆ
いる。したがって逆に言えば,誠実の徳は自己の人間たる尊厳を維持する心構えであり意 志の強さということになる。そして対他的関係における誠実すなわち忠実は人聞と人聞を 真実において結合し人間の連帯を可能にする徳となる。
さてしかし真実への信念は真実そのものとはいえない。ここに「汝自身を知れ」という
無知の知が要求され,同時に誠実の裏付けとして「謙虚」があげられる所以である。民主主
義的方法としての話し合いやディスカッションでも,ただ信念の故に自己は絶対,非は相
手にあるとし,さらに相手の考えを粉砕しようとする態度は傲慢というほかない。「現代 はまことに批判の時代である。一切のものは批判を受けねばならない」というカントの言 註⑳
葉はわれわれの時代にもそのまま妥当する。成程わが国でも単に権威に盲従せず,事の真 実を見極め,これを客観的に批判しようとする風潮は熟しつつある。しかしそれはまだ一 般に他への批判にのみ向けられ自己批判の媒介を経ていない。批判は真の意味において他 への批判のみならず自己批判によって成り立つ。寧ろ厳しい自己批判の媒介が要求さるべ きである。誠実は謙虚の裏付けを得てはじめて正当な自己主張と同時に他人の意見尊重の 姿勢を可能にするといえよう。ここで注目さるべきことは,謙虚は卑屈ではないことであ る。カントによると謙虚は,道徳法則と比較して自己の道徳的価値が微々たることの意識 及び感情である。これに対し卑屈は自己自身の道徳的価値を引下げる偽善,追従であり,
道徳的まやかしの謙遜である。「真実の謙虚」と「嘘の謙虚」の区別をカントは「自己の 人格性の自己尊重と蔑視のいずれか」の区別とみている。このように誠実と謙虚の徳も基
本的には人間尊重に基づき,いわばカントの「本来的自己」に由って生きる人間の心構え と意志の強さを意味するものといえる。かくして知的誠実に対しては,偏見,独断,独善 が,実践的誠実に対しては虚偽,不遜,傲慢,卑屈等が悪徳としてあげられる。
以上民主主義の実現という立場と方向において,自由という理念実現のために自主と責 任を,また平等という理念実現のために正義と寛容を,そして更に両者を包括するものと して誠実と謙虚の徳をあげた。これを私は現代が要求する基本的徳の体系と考える。勿 論これに尽きるものではない。これらの徳は必然的に他の徳を伴っている。例えば大衆社 会にあって,衆に抗して真実を主張する「勇気」は自主と誠実とに相伴うものであり,ま た正義と誠実を貫くためには必然的に「知恵」の徳が要求される。人間関係における寛容 と謙虚は,自己の生存と生長に関係する人々に対する「感恩」に結びついている。このほ かに物質文明の中における「節制」等も物質に対する人間の優位の姿勢として今日重要な 徳である。いずれにせよ現代の徳の要件は,人間尊重の精神を基本として自由・平等の理 念を実現するときに要求される主体的卓越性でなければなら奉い。したがって徳目を徳目 として形式化せしめないためには,自他敬愛の精神が徳の根本であることを各人常に銘記 すべきであると思う。
皿 徳 の 要 因
上に提示した現代の基本的徳が単なる実践目標に終ることなく,現実的実践との結びつ きをもっために,最後に徳の成立として必然的に要求される条件を考察しこの小論の結び としたい。
徳はその成り立ちからみると,第一に,実現され主体化さるべき倫理又は道徳的価値を 前提としてもつ。徳目体は倫理を基礎づけたり価値を序列づけるものではなく道徳的価値 の主体化すなわち価値実現にかかわる。したがって徳論は原理論ではなくむしろ実践論で ある。それは原理の具体的実践として義務論の形もとり得る。その場合は義務を遂行する 意志の強さが徳として考えられる。また価値の実現としては,その実現を可能にするよき 性格が徳である。逆に道徳的意志の強さとよき性格の欠如は不徳であり,更にそれが悪し き方向へ積極的に働く場合は悪徳となる。アリストテレスでは魂は価値を実現し得る魂の
ヘクシス
「状態」であり,その意味の魂の卓越性であった。したがってアリストテレスでは徳はた
だちに能力ではない。「すべて『アレテ一如ε吻』 (露ないし卓越性)とは,それを有す るところのもののよき『状態』を完成し,そのものの機能をよく展開せしあるところのも のである」。ここから「中庸」や「選択の体制」ということがいわれる。つまり善や価値
実現という内的発展または自己実現を容易にし,自己の固有なる機能を十分に発揮せしめ る精神的体制である。ところがカントは「徳は道徳的強さ」とみて「自己の義務を遵守す ま
るに当っての人間の格率の強さdie Starke der Maxime」と規定している。このように
アリストテレスの徳の概念が自己実現を意味するのに対し,カントでは自己規制すなわち 自律を可能にする必須条件としての意志の強さを意味している。しかし両者とも道徳的価 値を前提しその主体化,実践化における心構え,価値実現の不可欠の具体的要因を意味し
ている点では共通しているといえよう。
第二に,徳は行為と不離の関係にある。徳は道徳的価値の現実化,実践化のための心的状 態であり意志の強さであるから,この価値実現は行為を通す以外にない。いいかえれば道 徳と行為を結びつける必須条件として徳があげられるのであるから,徳は行為をまって価 値実現という本来の機能を果すことになる。徳なしには道徳的実現は不可能であり,行為 なしには徳は無意味となる。また徳は道徳的行為を可能にすると同時に道徳的行為によっ て体得される。徳は得なりとはこの意味である。ただし一回や二回の道徳的行為によって 徳は体得されるものではなく,繰り返し繰り返しなされる習慣の集積によってはじめて形 成されるものである。この点に関してはアリストテレスが次のように述べている。「倫理 的な卓越性ないし徳は,本性的に生まれてくるわけでもなく,さりとてまた本性に背いて 生ずるものでもなく,かえってわれわれは本性的にこれらの卓越性を受けいれるべくでき ているのであり,ただ習慣づけによってはじあて完成されるにいたるのである」。徳は元 ゆ
来本具のものではないが,しかし本来体得し得るように仕組まれており,それを可能にす るのが行為である。習慣づけられた行為はいわば第二の本性として身につくものである。
つまり,徳の修得は有限的人間にとっては不断の努力すなわち習慣づけを必要とする。こ のことは人間にとっては畢寛するに人格の持続性にかかわる問題である。そこで次のよう に言わねばならない。
第三に,徳は人格と結びついている。徳は元来人間にとってだけ問題となる。徳は神に も動物にも,ましては物には存在しないし又問題にもならない。しかも徳は人間に自然に 備わっている本絹的本能的なものでもなく,むしろ本能的傾向性や欲望にうち克ち自ら形 成してゆく道徳的性格である。したがって徳は単に人間にかかわるというよりは人格に直 結しているといわねばならない。それは人間の主体的努力,それも不断の努力によって形 成される内的主体的価値世界である。元来われわれは徳への可能性は賦与されているが,
その現実化は人間自体の意欲と意志の強さにかかわる。その意味でまさしく「徳は得であ る」。「われわれはもろもろの正しい行為をなすことによって正しい人となり,もろもろの 節制的な行為をなすことによって節制的な人となり,もろもろの勇敢な行為をなすことに よって勇敢なひととなる」。このようにみてくると,徳は得なりという体得の内容は道徳
的性格すなわち人格の内実をなすものとなる。この意味で有徳者はまた人格者とも呼ばれ
る。この場合の人格概念はヘーゲルの法の下における権利概念としての人格でもなく,又
カントのいうような責任能力をもつ主体としての人格概念や人格性という道徳的理念でも
なく,極めてレアールな修徳者の意味である。私が徳は人格と結びついているという意味
はこのような人間的修徳者を指すものである。
要するに,徳は倫理ないし道徳的価値を各個人が実践し実現しようとするときの性格の よさ,意志の強さである。これなしには壮大な倫理学体系も華麗なる道徳理論も空論に終 る。空論をいわば活論に転じ得るのは結局徳を体得するという極めて地味な道徳的精進以 外にはない。そしてこの修得を支える精神は自他の人格の尊重つまり人間への尊敬以外に はないと私は考える。
、 1975. 10. 26
註1.Kant, Kritik der praktischen Vernunft, S.42 ff.,Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,3Abschnitt,(Akademie Ansgabe).
2.Heidegger, Seirl und Zeit,§.27. Das alltagliche Selbstsein und das Man.
3.Seneca, De Vita Beata,11.ちなみに,カントは卒業論文『活力測定考』の緒言の冒頭にこの 文章を引用し,自己の学問の自由を宣言している。K:ant Werke l. S.7.(Akademie Textausgabe,)
4.Platon, Respublica,442b.
5.Aristoteles, Ethica Nicolnachea, W.1107b.
6.Kant, Metaphysik der Sitten, S.223.
7.Kant, Grundlegung zur M. d. S.,S.447.
8.Kant, ibid. S.436.
g.Hege1, Grundlinien der Philosophie des Rechts. Erster Thei1. Das abstrakte Recht.§.36. S.72f,(Gans.1854.).
ユ0.Aristoteles, E. N. V。1129 a.
ll. ibid. f.
12.ibid. l131a,1131b.
13.ibid.
14.ibid.
15.ibid.1132 a.
16.ibid。1106 b.
17.F, Nietzsche, Zu.r Genealogie der Mora1,1,10.
18.キルケゴール著作集18.(白水社)185ページ参照。
19.Kant, Metaphysik der Sitten, der Tugendlehre, S.429.
20.ibid.
21.Kant, Kritik der reinen Vemunft. Vorrede. A. X旺. Anm.
22.Kant, M. d. S. S.435.
23.Aristoteles, E. N.1106 a.
24.K:ant, M. d. S, S.380.
25.ibid. S.394.
26.Aristoteles, E. N.1103 a.
27,ibid. 1:LO3 b.