著者 坂野 明子
雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇
巻 34
ページ 91‑103
発行年 1984‑03‑22
出版者 静岡大学教育学部
URL http://doi.org/10.14945/00008407
く宙ぶ らりん〉か らの脱出 : サム ラー氏の場合
The Release from "Suspense"
:A Case Study of Mr. Sammler
坂 野 明 子
Akiko SttmNO
(昭和58年10月 11日 受理)
SYNOPSIS
Saul Bellow made it clear in」 И″S榜″り″況♭″七f認♭%θ′published in 1969 that the l■ ost important of all is survⅣ alo Al■ ough the thelne of suⅣ Ⅳal is persistent throughout hお novels,it is noteworthy that〃 ″
S解
%ル″七Pttπι′presents it in a wider perspective.For the author is concerned not only with the hero's fate but with the mankind's destiny.In thismeaning we may consider that this work indicates Bdlow's growth as a novelisto What
perplexes us,however,is the discrepancy between the theme and the substance ofthe woFk.Why did this phenomenon happen?
It is generally admitted that Bellow has been always pursuing the same probleln,that is,the struggle of self in search for the right attitude toward the world.There are tWo alternatives:the one is,as it were,the I"attitude which makes inuch of the individual;
the other is the
we"attitude which emphasizes the totality of hШ
ankindo Wonderlng which is better,most of Bellow's heroes surer vacillation.They sway from side to side,andwhen the廿 energy is eXhauSted,they coIIle tO Choose the love toward others,which is appro対
mate to thewe"attitude.But,stFiCtly speaking,thヽ choice seems merely
a lull of the mental tempest"and therefore powerless in the real world.Bellow,being probably aware of this weakness of his Works,must have got very
anxious to intensify the theme of surv市 al.Thus Sa―
ler repeatedly claims the in‐dividuality should not be overestllnated,and inoreover,he prays to God that He save us hlmlanbeings because each of us k■ ows the contract between man and God.Needless to
say,this is the demite we"attitude which abolishes completely the
I"attitudё.Thisrernarkable change of Bellow's literary world may be ascribed to the author's reaCtion toward the world‐ wide riotous tendency in the latter half of 1960's when,in Bellow's eye,
the
I"attitude caused the confusion and deteriorated man's morality.However,the emphasis on the author's ethical belief has led to the failure of the book.So now we should expect Bellow and his heroes to struggle attain over the radical question,even though thereis no hope of answeringit.Because we believe that to continue questioning is none other than the aim of literature。
Chirantan Kulshresthaは
ソウル・ベローの小説の質の変化に注目し,初
期から順 に,〈犠牲 者〉を描いたもの,〈冒険者〉を描いたもの,〈生 き残 り〉を描いたものと二種に分類 しているg)当然のことながら,〈犠牲者〉から く冒険者〉への変化を画 しているのは『オーギー・マーチの 冒険』であり,そして
,生
き残ることが主要なモチーフとなった最初の作品は『ハーツォグ』である。確かに,犠牲者意識が強 く,その思いに捉われているだけのジョウゼフやアサに対 し, オーギーやヘングソンの行動力は目を瞳るものがあり,また,「本当の自分」を探 し出すため数 多の経験をしなが ら,なお道の途上にあったオーギーと較べれば
,今
はもう誰に手紙を書 く必 要 もないと感 じ,自然に囲まれ,或
る種の自足を見い出したハーツォグは,や
はり「生 き残っ た者」と考えることができるだろう。つまり『ハーツォグ』でベローはsurv市alの
テーマヘの 第一歩を踏み出した と言えるのである。そして『ハーツォグ』の5年後に出版 された『サムラー氏の惑星』ではsurv市
alは
一人主人 公だけではな く,〈サムラー氏の惑星X口ち地球全体の命運にも関わってお り,その意味では同じstlrv市
alの
テーマが深さと広が りを増 して追求されていると言つてよい。また,ベローはこの作品の申で,今までの彼の主人公達を苦 しめてきた自己中心的な自我を完壁なまでに否定 し, そのような個別の自我 よりも人類全体の方が大事だ という主張を明確 に打ち出 して もいる。
従って,テーマという観点から考えるなら,これは疑いな く発展であり
,ベ
ローの作品中『サムラー氏の惑星』は一つのメルクマール となった とさえ言えるかも―知れない。 しかしなが ら, 作品そのものを虚心に味わおうとするとき
,我
々は奇妙な困惑を覚えはしないだろうか。 というのも,自我の卑小さの認識を通 じて,よ り大 きな世界へ繋がるべきだという
,高
邁な筈のベ ローの信念が,不
思議なほど作品の実体から浮 き上がってお り,各
々のディテールがテーマを 裏切 っているのである。もともとテーマ とプロットの分離については
,ベ
ローの作品の特徴 (或いは欠陥)と して,しばしば指摘 されてきている。 しかしこれほどまでに
,作
家の意図 と作品の実質がずれていた ことは,これまでの作品ではなかつた ことのように思われてならないま)例えば,ハーツォグが ロマンティックな自我を否定 しなが ら,なお自我のレベルで苦 しんでいることは,論
理を重視 する立場から見れば,明
らかに矛盾だ と言えるだろう。 しかし,ハーツォグの苦悩は読者の共 感を呼び起 こしうる質のものであつて,そ
の結果 として,最後に見出された安息の中から,我 々 は作者の静かなメッセージを受け取つた筈である。一方,サ
ムラー氏は作品中一貫 して,冷
たい眼で若者達を眺めている。そして,その冷たさに慣れてしまった読者には
,騒
々 しいニュー ヨークの中で,サ
ムラー氏の足跡をどんなに辛抱強 くたどつたところで,最
後の場面の愛情温 れる,祈
りにも似たサムラー氏の呟きをどこか唐突に感 じられはしないだろうか。ではどうしてこのようなことが起 きたのだろうか。 このガヽ論ではその原因を探るとともに,
あわせて
,欠
陥の多い作品の故にこそ明 らかになるベローの作家 としての特質を考察 してみた い。〈宙 ぶ ら りん〉か らの脱 出
サムラー氏 は且ては「英国好 きの知的ポーラン ド系ユダヤ人」
(p.243)13Jでぁった。文化への 憧憬の強い母親 に甘やか された彼 は ,書 物 を通 して世界 を理解す るような類 の文化人 に成長 し て
,やがてイギ リスに移 り住み
,ブルームズベ リー・グループの知識人達
,特に
H.G.ウエルズ と親 し く交際することになつた。 もしナチスの拾頭 ,第 二次世界大戦の勃発 とい う歴史の大変 動 に巻 き込 まれなかつた ら ,サ ムラー氏の人生 はその まま ,知 的香 りに包 まれ ,平 穏 の うちに 終 ることになったか も知れない。 しか し現実はそれ を許 しはしなかづた。
1933年に
H.G.ウエ ルズの回想記で も書 こうとポーラン ドヘ帰国 した彼 を待 っていたのは ,収 容所 ,妻 の死 ,生 き 埋 め
,そこか らの生命か らが らの脱出 ,地 下墓所での不安 に充 ちた逃亡生活
,とい う一連 の苛 酷 な運命だつた。そして これ らの経験 を通 して ,且 ての く 知〉の意味 を疑 うことを知 らなか つ た若 きサムラー氏 は死 に果てることになった。一方
,「生 き残 った」サムラー氏 は ,妻 の甥であ るエ リヤ ・グルァナーに難民収容所か ら救い出され
,現在
,彼の援助で細々 と大都会ニ ュー ヨー クに暮 している。だが肉体 としては生 き残 ったサムラー氏が ,精 神的 にも生 き残 ったかは大い に疑間のあるところである。とい うの も
,作品中
,現在 の
,即ち
,1960年代後半のアメ リカの
,忌わ しい ,吐 き気 を催す ような混乱や退廃 に触れ る度 に ,彼 は自分 を一種の死者 と感 じるので ある。従 って
,サムラー氏 は今
,もう一つの survival,精 神の suⅣ市alが 必要な状態 にある と 言 えるだろう。
サムラー氏の
survivalのプロセスを作者ベ ローは彼の目の機能 を通 じて明 らか にしている。
両眼 とも健全な知識人サムラー氏 はナチの兵士の一人 に撃たれて ,片 目‐ の視力 を失 う。 しか し 片 目となって初 めて ,サ ムラー氏 は自分が且て ,知 識人 とい う眼鏡 をか け ,説 明す るばか りで 何 も見 ていなかった ことに気附 く。だか ら現在 の彼 は知識人 を「説明す る動物」
(p.5)とみな さざるを得 ない。〈 知〉は様々な現象 に説明 を加 えることはで きる。 しか しそれは加 えているだ けであって ,人 間 にとって最 も根源的な魂の問題 には
,〈知〉は何 ら触れ得ないのである。言 っ てみれば
,「魂独 自の知識」
(p.5)には
,く知〉 は盲 目なのである。
こうして片 目のサムラー氏 は
,目開 き盲 ともい うべ きヨーロッパ的 く 知〉の欠陥 を ,鋭 く批 判することになる。 ここで不幸 にも択 ばれたのは
H・G・ウェルズである。 ウェルズは「少数者 の文明」 鯛口ちヨーロッパの く 知〉
)が「大衆 に移 しうる」 (p.171)こ とを無邪気 に信 じていた。
しか し ,第 二次世界大戦 の勃発 に絶望 したウェルズは ,人 類 を「袋の中で必死 にな って もが き 噛みつ く鼠 に喩 える」 (p.171)よ うになる。 そ うい うウェルズに対 し ,サ ムラー氏 は興味 を失 い ,今 は回想記 を書 く気持ちにもなれない。恐 らくここで彼 に とって問題 となるのは
,自分の く 知〉が限定的な恵 まれた条件の許でのみ可能 な種類の ものであることについてのウェルズの 無知 と
,それが破壊 されたか らといって ,す ぐに人類 を鼠に結びつける短絡的発想である。 こ れは ,奇 妙 な表現だけれ ども
,<知〉の無知 とで も名付 けられるべ きものか も知れない。
いずれにせ よ ,サ ムラー氏 は呵責な くこの種 の 〈 知〉の無知 を非難 し続 ける。だか ら ,全 て
の書物 を間違 っていると考 える彼が今 ,読 む ことに耐 えられるのは
,せいぜい ,13世 紀 の神学
者エ ックィヽル トと聖書だけである。だが彼 に とつて ヨーロッパのく 知〉の不毛以上 に嘆かわ しい
のは
,そのような く 知〉に盲 目的 に追従す る現代 アメ リカ人の無知である。サムラー氏 はそれ
を
,H・G・ウェルズの回想記 を父親 に書かせ るため盗みまで働 く娘のシューラ
,ドイツ観念論
の影響 を受 けて議論好 きな姪のマーゴッ ト
,フランス文学 を専攻 したためか ,極 度 に性的冒険
心の強 くなった ,甥 エ リヤの娘アンジェラの中に見出さぎるを得ない。彼女達はそれぞれに
,〈 文化的教養〉 とい う眼鏡 を通 して自分 を見 るためにっ真の自分 を発見で きず ,サ ムラー氏の 日か ら見れば ,哀 れな人生の迂回路 を通 つているのである。
く 知〉の空 しさをサムラー氏 は片目を失 うことによつて知 った。 しか し知識人か ら く 知 )を
取 り上 げて ,残 るのは何なのだろうか。生気 を失 った精神的死骸だけではあるまいか。事実サ ムラー氏 は ,苦 しい戦争体験 の後
,自分 を一種 の死者 と考 えるようになった。 そして
,こうい う精神的植物人間 ともい うべ きサムラー氏 に とって
,彼を取 り巻 く
60年代後半のアメ リカの騒 擾 はひ どく耐 えがたい もの となってい る。無論
,戦争当時飢餓 と貧困の苦 しみをなめたサムラー 氏 は ,現 在のアメ リカの物質の豊かさを評価 しないわけではない。だが
,その豊か さ故 にアメ
リカが失 った ものは余 りにも大 きい。ニ ュー ヨークでは毎 日のように重大な犯罪が起 きてお り
,サムラー氏が警察 にス リ行為の目撃 を報告 した ところで ,返 り見 もされない。 また学生達 は展 望のない反乱 を繰 り返 し ,若 者 はセ ックスに湯れているのである。だか らヨーロ ッパが 〈 知〉
の無知故 に否定 される一方で ,退 廃 を極 めたアメ リカ もまた否定 されねばな らない。
ところで
,アメ リカをそのような混乱 に陥 らせた ものは何なのだろうか。サムラー氏 はそれ が「独創性への熱中」
(p.184)に帰因す ると考 える。且て人間は自分が全体の一部であること に満足 し
,それ以上 を望みはしなかった。 しか し近代以降 ,個 性神話 を信奉す る人間が増 え
,その結果 ,誰 もが 自分が特殊で ,注 目に値 する人間だ と大声で喚 き立てる ,騒 音過剰 の世界が 出来上が った。別の言い方 をするな ら ,全 体 の ことを配慮せず
,日立 ちたが りやの 自分勝手 な 個人が鳥合の衆 を形成 しているのが現代のアメ リカなのである。従 って根源的 に否定 されるベ きは
,そのような自己中心的な肥大 したエゴである。その例 をサムラー氏 は
,自分 を大学の講 演者 に依頼 してお きなが ら ,講 演会がサムラー氏への抗議で騒然 となった時 には姿 を消 してい たフェッファーに
,また性的な野次 を飛ばしてサムラー氏 をや つつけたつ もりの学生 に ,父 が 重態だ とい うのに
,自分の欲望 を満足 させ るために
,別荘の水道管 を壊 して水 を浴れ させた り
,小型飛行機 を墜落 させた りするウォンスの中に見出す。
こうして
,自身の過去であるヨ‐ ロッパ と
,自身の現在であるアメ リカの双方が否定 され る ことになつた。即ち
,く知〉の無知 と ,肥 大化 したエゴが ,世 界 を混乱 に導いた罪で告発 された のである。だが告発す るだけな ら容易である。肝要なのは ,ど うした ら世界 を望 ましい方向に 持 ってい くか
,そのためのヴ ィジヨンではないのか。無論 ,サ ムラー氏 はそれを熱心 に探 し求 めている。 しか し片 目のサムラー氏 には ,今 の ところ世界の諸々の欠陥がはつきり見 えるだけ である。つ まり現在の彼 は「
short‐viewのスペ シャリス ト」
(p.131)に過 ぎない。だか ら ,説
明 をあれほどまでに嫌いなが ら ,彼 はやは り説明にた より ,彼 に助言 を求 める人間達 に棘 を含 む知的見解 を披露することになるのだ。
そうい う意味で
,現在のサムラー氏が求めているのは
,long‐viewである。人間の生 と死
,人類全体の運命 ,地 球のあるべ き姿等の ,広 範囲にわたる事柄 まで 目の届 ぐ視野 を彼 は獲得 しな ければな らない。それは著 しくむずか しい ことだが ,少 な くともその方法だけはサムラー氏 に はわかっている。く説明〉をリト 除 し
,〈区別〉 (distinguishing)(p.52)す ることがそれである。
〈 説明〉 と く区別〉の相違 に関 して ,JON・
Harrisは「く 説明〉はまだ完全 にはわか っていな
い ことをはっきりさせ ることであ り
,〈区別〉は既 に説明 された ことの中か ら
,その ことについ
ての何 らかの明確な本質 を識別することである」
C4bと述べている。 ここで注 目したいのは
,〈説
明〉 は依然 として 〈 見 る〉 とい う行為 を前提 としてお り ,一 方 〈区別〉 は く 見 る
>こととは直
接関係 ない とい う点である。寧 ろ
,く見 る〉ことによって ,逆 に く区別〉の能力が曇 らされ る危
〈宙 ぶ ら りん〉か らの脱 出
険があるとさえ言えるだろう。更に論を進めれば,〈区別〉するためには盲目の方が適 している と考えられるかも―知れない。 こうして,この作品が内包する一つの逆説構造が次第に明 らかに なって くる。即ち,日開きの知識人が魂の真実に盲 目であり
,盲
目の人間の方がより深 く識 る ことができるという逆説,この逆説を演 じることこそ,実
はサムラー氏が作者によって振 り当 てられた役割なのである。しかしなが ら
,方
法はわかつているにしても,今
のところサムラー氏は依然 として,片
目の 眼光ばか り鋭い,知
識人を嫌 う知識人の一人に過 ぎない。彼が「魂独 自の知識」を く区別>す
るには
,換
言するなら く盲目〉になるためには,重
大な何 ものかが欠落 している。それは一言 で言えば,く生〉の実感である。く生〉の実感や く生〉を真に愛1階しむ気持ちがあれば,人
は言 葉でものを知ろうと<視覚〉に頼 る必要はない。別の言い方をするなら,く生〉の実感を己れの 核 としてもつている時,人
は目をつむっていても真実がわかるのである。だからサムラー氏は 今,〈生〉に目覚めなければならない。そして主人公を く生〉に目覚めさせるために作者が用意 したのが,黒
人スリのエピソー ドである。バスの中でたまたま見かけたダンディーな黒人スリ に奇妙に惹かれたサムラー氏は,自分でもよく く説明)で
きない欲望に促されて,何
度 も同じ バスに乗 り,ス リを見ようとする。恐 らくそれはサムラー氏の失った,(或いは最初か ら持つて いたか どうか疑わしい)生
の無言のエネルギーをその黒人が持つていたからだろう。やがてス リの方でもサムラー氏に気付 き,逆
にサムラー氏を追跡 し,彼
のアパー トのロビーの壁際まで サムラー氏を追いつめる。そこでスリは自分の性器をサムラー氏に見せるのだが, この時彼は サムラー氏のかけていたサングラスをわざわざはずしている。つまり,片
目の上にサングラス をかけ,ニユーヨークの街を徘徊 しては,く死〉の臭いのするshort‐viewの説明ばか りしていた サムラー氏に,この黒人スリは く生〉を直接見るように強いたのである。サムラー氏の言葉を引用するなら,ショーペンハウエルは 〈生〉の「く意志〉のある場所は性 器」(p.168)で あると考えていた。従って
,サ
ムラー氏が この時見たのは,当代の若者の観念 化された性ではなく,生
命力の直接の表現 としての性だつたと言えるだろう。それはサムラー 氏にとって,自分の中の埋 もれた く生〉の感覚を呼び起 こすことでもあつて,第
二次世界大戦 を契機 に真の意味での く生〉を失っていたサムラー氏は,今
,自分にもまた「生物 らしさ」(creatureliness)が あることを
,痛
切に感 じるのだつた。だから彼はスリの行為に驚 きはしても
,決
して嫌悪を覚えてはいない。そして後 にこの同じスリが彼の義理の息子に殴 り殺されそ うになると,必
死に助けようとさえするのである。こうして自分 もまた生 きていることを再発見 したサムラー氏は,く生〉を支えるものとしての く愛〉の重要さも知るようになる。物語の初めから終 りまで
,他
の出来事に振 り回される一方 で彼は自分を今 まで世話 して くれたエ リヤが死にかかっていることに深 く心を痛めている。エ リヤはもと産婦人科医で,それをやめてからは株式の売買で財産を増やしてきたビジネス志向 の人間であつて,決
して清 く正 しく生 きてきた人間 とは言いかねるのだが,それで も根源的な もの としての 〈愛〉を知つているという意味で,サ
ムラー氏を取 り巻 くエゴセントリックな多 くの人間 と異なっている。だから,アメリカの堕落,混
乱に触れ,す
つか り嫌気がさし,自分 を「外国人だ と感 じ」(p.270)る
サムラー氏 も,エ
リヤとなら対話できると考えるのである。だがそのエリヤは
,誰
にも看 とられずに,気
狂いじみた娘 と息子のことを心配 しなが ら死ん でいった。その姿の中に人間の く愛〉の本質を認めるサムラー氏は,エ
リヤの亡骸 を前にして, 心の中で神に次のように祈るのである。…。
lRemember God,the soul of Elya Gruner,who,as willingly as possible and
as well as he was able, and even to an intolerable point, and even insuFocation and even as death was coming was eager,even childishly perhaps lmay l be fOrgiven for thi9,even with a certaii se面
lity,to do what was reguired of him.… lp.251)引用中の
childishlyとい う言葉が示す ように,サ ムラー氏の祈 りには
,まだ片眼故の皮肉つぽさ
が混 じつている と言 えな くはない。 しか し ,せ いいつぱいの努力 をして人間 として必要な こと をしたエ リヤの魂 を救 つて くれるよう神 に祈願するサムラー氏 に ,我 々は
<愛〉 を 〈 生 きる〉
人間の姿 を見出す ことがで きるのである。
そしてサムラー氏 は更 に祈 りを続 ける。
1...He was aware that he must meet,and he did meet一through all the confusion and degraded clownlng of this life through which we are speeding
一
he did meet the tems of his contract.The te.11ls which,in hisimost heart,each man knows.As l know lnine.As all knowo For that is the truth of it 二
that we all know,God,that we know,that青 e knOw,we know,we know。'い。
252)こうしてサムラー氏の思いは一人エ リヤだ けでな く
,「サムラー氏の惑星」上で生 きるすべての 人間へ と広が つてい き ,神 に向かって
,そうぃ う人間達 を哀れむよう懇願するのである。確か に人間は愚かな ことばか りしている。 しか し本 当は心の底では神 との契約の条件 を誰 もが知 っ ているのだ と呟 き続 けるサムラー氏の姿は
,もう知識人嫌いの知識人で もなければ
,またアメ リカの現実 に眉 をひそめる外国人で もない。彼 は今
,そのような表面上の差異 に惑わされず
,人
FE5のく 生〉の最 も奥深い ところを把握 したのである。言 うまで もな く
,この認識 こそ く区別〉
の結果獲得 した ものであつて
,この とき我々は ,サ ムラー氏がその眼光鋭い片 目をつむって
,鯛口ち現実の目は盲 にして )静 かに瞑想 している姿 を思い描 くことさえで きるだろう。
以上 のように見て くれば ,両 眼 とも健全であ りなが ら実 は何 も見ていなかった若 きサムラー 氏が ,片 目を失い
,自分の誤 ちを悟 り ,更 には他者への愛 と自身の生の欲望の認識 を通 じて
,知覚器官 としての目の代 りに
,ぐい〉で もって人間の真実 を把握するようになっていったプロセ スが
,それな りの論理整合性の うちに描 き出された とみなして もよいか も知れない。 しか し
,残念 なが ら ,最 初 に述べたように ,作 品の実体 はサムラー氏の最後 の祈 りを少 しも納得のゆ く
ものにしていない。 とい うの も
,ヨーロッパ的 〈知〉の楽園か ら追放 された後 ,瀕 死 の精神 と 肉体 を引 きず りなが ら ,片 目でアメ リカの現実 を苦々 しい思いで眺めて きたサムラー氏が ,突
如愛情温れた祈 りを呟 くようになるにしては
,その動機が余 りにも微弱なのである。確か に黒 人 ス リの一件がある。 また愛するエ リヤの死 もある。 しか しそれ らのエ ピソー ドは ,現 実否定 のサムラー氏 をいつきに肯定へ と導 くほ ど ,サ ムラー氏の精神の
1内部 に喰い入 つてはいない。
実際 :エ リヤにして も黒人 ス リにして も ,サ ムラー氏 との直接の深い関わ りは ,作 品中殆 ど描 き出されていないのである。だか ら
,Claytonの指摘
,「小説 を終 らせ る美 しい文章」は「小説 自体か ら出た ものではない」
C5Dとぃ ぅの も無理か らぬ ところなのである。また
,作品のデ ィテー ルに支 えられないサムラー氏の祈 りは ,宗 教的 とい うより ,寧 ろ神秘主義的 と言つた方が よい のではないだろうか。
だが作品の欠陥をあれ これ と並べたてて も何 も始 まるまい。寧 ろ我々は ,ベ ローが どうして
く宙ぶ ら りん〉か らの脱 出
この ようにテーマだけ浮 き上が った作品 を
,この時期 に書 くことになったのか
,それ を検討す
る必要があるだろう。
ベ ローの作品 については今 までに多 くの ことが語 られて きている。 しか しなが ら ,大 概 の作 家 と同様 ,ベ ローの場合 も ,最 初の作品 『宙 ぶ らりんの男』 にその後の作 品のすべての鍵が あ る と言わな くてはな らない。
Ko M.Opdahlはこの作品に関 して
,ベローは近代小説のように「 自 我 と世界 との衝突」を描いたのではな く
,「世界 に対す る二つの態度の間の葛藤」
0を提示 したの だ と述べている。 しばしば我々はそれを ,過 剰 な自意識 と他者への愛 との確執だ とみな して き た。確かに
,主人公 は真の 自分 を確立 しようとしなが ら
,それが うまくいかない不安 に苛立 ち
,最後 には自己放棄 して ,他 者の側 に立つ こと ,即 ち軍隊への入隊 を決意す ることになる。 その 意味ではぅ 自分 を大切 にするか ,或 いは他人 を大切 にするかの二者択一の問題である と言 えな くもない。 しか しなが ら
,ここで見逃 してはな らないのは ,主 人公 ジ ョーゼフが求 めてい るの は ,本 当は自分 も他人 も含み こんだ世界観 である とい う点である。何 も彼 は純粋 に形而上的 に 自意識 を探究 しようとしているのではない。もし単 に彼が頭でつかちの哲学青年であつたな ら
,「善良な人間は如何 に生 きるべ きか」(p.32)0な どと問いはしないだ ろう。要するに彼 は自分で あ りたい と同時 に ,他 人 ともつなが っていたいのだ。だか ら問題 は ,実 存主義で言 うような
,対 自 ,対 他 とい うような論理の問題ではない。或いは ,利 己主義か不
J他主義か とい うような倫 理の問題で もない。喩 えてみれば ,相 互 に翻訳不可能 な ,全 く種類 の異なる二つの言語が ,彼
の内部で まじわることな く渦 まいているのである。 そして この二つの言語 を何 とか一つに統一 したい とい う己れの欲望 こそ ,彼 の苦 しみの根源なのである。
ところで この二つの言語 を最 も端的に表現 しようとするな ら ,二 つの代名詞 `
I″
と ` We″ が 適切であろう。人 はどんなに自意識が強い人間であつて も
,`I″だ けでは心 もとな く
,`We″ に なろうとし
,`We″ として思考 した り ,発 言す ることを欲する。 しか し同時 に
,`We″ の中に 呑 み こまれ ることを嫌 う `
I″
も否定 しがた く存在 し続 けるのである。だか ら人 はしばしば `
I″
と ` We″ の間を振 り子の ように揺れ続 けな くてはな らない。そして ,容 易 に想像 され るように
,誠実であること ,厳 密である ことを希求す る人 間ほどその振幅は大 きくなる筈である。 その う
え
,`I″の欲求が強 ければ強いほど
,`We″ への欲求 も強 まるとい う関係 にあるために ,ベ ロー
のように
(或いはベ ローの主人公達のように )強 い 自意識 をもつ人間‐ に とっては ,本 来 自分の 心の内側 にあって ,従 ってさほど大 きくはない筈の二つの間の距離が ,両 者 を近づ けようとも が けばもが くほ ど
,ます ます拡大するとい う皮肉な事態が生 じることになるのである。
歴史的 に考 えるなら
,この ような悲喜劇 を人間は古代か ら演 じてきたわけではない。世界の 中心 を神話や宗教が定位 し
,それ を疑 うことな く受 け入れていた時代 には ,人 々 は恐 らく
,この ような `
1″
と` We″ の分裂 に苦 しむ ことはなかったであろう。 その場合 は
,`I″はその まま
,` We″ の一部であったのだか ら。 しか し ,近 代 になって合理主義がそのような世界観 を徐々に 崩 していつた時 ,人 間は独力で 自分 を位置づ けることを欲す るようになった。だが
,それ は同
時 に `
I″
の ` We″ か らの分離 を意味 してお り ,人 は初 めて
,`I″と ` We″ の距離の大 きさに 愕然 とす ることになったのである。 とはい え
,`I″と ` We″ の分裂の苦 しみを回避する方法が 全 くない とい うわけではない。 その一つは ` We″ の側 に立つ こと ,即 ち `
I″
と ` We″ の間の
亀裂 に目をつむつて ,ひ たす ら抽象的な論理の世界 に生 きることであ り
,その典型 は科学的思 考であろう。 い ま一つは `
I″
の側 に立つ こと
,`We″ は切 り捨て ,徹 底的 にエゴイステ ィック に生 きること ,富 の追求や
,(或いは異論の向きもあろうが
)ロマ ンティックな芸術の世界 に生 きることもこれに当たるだろう。そして
,その どち らも嫌だ という人間のためにもう一つ選択 の道がある。つ まり
,`I″も `
Wё″ も包含する可能性のある宗教の世界 に身を投ずることであ る。
無論 ,誰 もがそのように真貪」に考 え ,己 れの道 を定 めて生 きているわけではない。恐 らく多 くの人 は ,今 述べた三つのすべてをない まぜ にして ,最 後 まで悩むのは回避 して生 きている と い うのが現状 であろう。別 にそれが悪い とい うのではない。寧 ろその方が健康 とい うものだ ろ う。ただそうい うことに真剣 になって しまうベ ローのような人間 もいるとい うだけである。 そ うい う人間は ,三 つの うちの どの一つ も不満足 に思い ,ど れ も選択で きず ,か といつて問題 を 放 り出す こともで きずにうろうろする羽 目になる。彼 は絶 えず動 き回 らねばな らない。止 まっ て しまった ら
,自分 に一つの姿勢 を強いることになるか らだ。 こうして彼 は `
I″
を保持 しつつ
` We″ で もあ りうるような世界観 を求 めて
,`I″に偏 つた価値観
.にも
,`We″ に偏 つた論理 に も欺 され まい と ,必 死の抵抗 を続 けるのである。
以上の ことか ら ,ベ ローの主人公達の共通の特徴が明 らかになるだろう。言 つてみれば ,彼
らは く 動 き回 る宙ぶ らりん〉 を己れの意志で択ぶのだ。 そしてベ ローが 自身の精神構造 を本 当 の意味で理解 した時 ,彼 はそれに見合 う方法 を発見することになった。それは『宙ぶ らりんの 男』のような論理 に偏 つた ものではな く
,また『犠牲者』の ような倫理 に偏 つた もので もない。
何 よりも先ず
,そういう己れの不器用 さを突 き放 した ところか ら ,生 々 しく
,しか し滑稽 に描 き出 してみること,(Schazlirは これを selidistanced m∝
kerと表現 している
C8D),そしてその 抵抗の果てに
,もう少 し意地悪 く言 うな ら ,抵 抗 に疲れ果てた後 に ,或 る種 の均衡の とれた世 界 に主人公が到達す るように もってい くこと
,それがベ ローが採択 した方法である。 この とき 避 けるべ きは ,旧 来のシ リアスな リア リズムの手法である。 もし主人公の苦悩 を余 りに もリア ルに描 けば
,はっきりと答 えを出す必要が出て くるだろう。 しか し `
I″
と ヽ 、 ″ の両方 を満足 させ る答 えな ど最初か らある筈 もないのである。だか ら抵抗 はなるべ くコ ミカルに描かれた方 が よい。 しか もなるべ く派手な方が よい。何故 なら
,それ こそが `
I″
で もあ り ` We″ で もあ り たい とい う ,途 方 もな く欲張 りな人間 にはふ さわ しいのだか ら。 またそれは答 えのない問い と い うやや もすれば単調 にな りかねないテーマを扱 った作品に ,色 彩 りを添 えることにもなるだ ろうか ら。 こうしてオーギー・ マーチは恋人 とメキシコまで行 き ,鷲 を訓練 してイグアナを捕 えようとし ,ヘ ングソンはアフリカまで出かけて
,ライオ ンの真似 をしてその高貴な生命力 を 吸収するべ く努 めることになった。更 にハーツォグは狂 つたように古今東西の知識人達 に ,果
ては神 にまで手紙 を書 き散 らす。だが これ らの主人公達 はいずれ も
,そうい う狂乱の時期 を通 過 して初 めて
,`I″と ` We″ が危 うい均衡 を保つ世界 にた どり着 けるのである。その意味で こ れ こそがベ ローが模索の果てに見出 した唯―の有効 な戦略であると言 えるだ ろう。
ところで
,`I″と
Ve″が均衡 を保つ世界 とは
,そもそ もどうい う種類の世界 なのだろうか。
Iw狙 J I wttu l want!"と い う内心の声 に突 き動かされて
,アフ リカまでや ってきたヘ ンダ ソンは ,愛 す る友ダーフエ を失 った後
,アメ リカで待つ妻 に次のような言葉 を書 き送 る。
...̀I had a voice that sald,I I want!I want'IP It should have told me she
wants,he w朦
,they want.And moreover,itヽ
love that makes redity reality.く宙ぶ らりん〉 か らの脱 出
The opposite makes the 6pposite。
'0.267メ "
上の引用では,一見,利他的な愛が強調されているようだが,よ く読んでみれば,今までの`
I″
が否定されているだけであつて,それに代わつて愛すべき具体的な他者が明示されているわけ ではない。寧 ろ他者は,she,he,theyと代名詞が列挙 されるに伴い
,抽
象化の度を強め,その 結果,ヘングソンの思考が`We″
の側に少々近づきやす くなった というだけではないだろうか。確かにヘンダソンはこの時,シユバイツァーのような未開地の医者になるため
,医
学の勉強を始めることを決意 している。しかし,この行為は抽象的な愛の行為であつて,その抽象性が`
I″
と`
We″
の双方を含み込む可能性 を暗示しているだけのようにも思われる。だ とすれば,ヘ
ンダソンは`
I″ と `
We″
の観念上の中間地点を択ぼうとしているに過ぎないのではなかろうか。そのうえ
,彼
は今の ところ決心 しているだけである。現実に彼がそのような慈愛に充ちた医者 にならていくのか,或
いはなつたとして`I″ の問題は完全に消滅するのか,読
者は何も知らさ れないまま,作
品は終わつている。Fハーツォグ』以前のベローの作品は,このように
,主
人公が`I″ と `
We″
の間を振 り子の ように大 きく揺れ,その運動に主人公 も読者 も俗み果てた頃,`I″ と `We″
の両極から等距離 の場所を主人公が安息の地 に定め,平
穏な境地 に入って終わるというのが大方のパターンで あった。これをもってs―
ivalと呼ぶことも,また肯定 と定義することもそれなりに可能であ ろう。しかしなが ら,よ くよく考えてみれば,これは余 りにも抽象的な肯定であり,従
つて,真の解決 というより
,単
に主人公のエネルギーが一時的に弱まって,物
語が く停止〉 しただけ とみなした方がよいようにも思えて くる。Tomy Tamerは
,『'ヽ
―ツォグ』―の最終場面の「抒 情的解決」に関連 して,「牧歌的な瞬間はこれを拡大 して生活全体 とすることはできない。牧歌 的な瞬間のなしうることは
,精
神力を回復 させ,都
市の非牧歌的現実に新たに立ち向かわせることである」00と述べて
,作
品内部で真の解決が見出されたわけではないことを示唆 している が,今
までの議論から明 らかなように,このことはベローの作品一般について,程
度の違いは 多少はあるが,言
いうることなのである。だが批評家に指摘されるまでもな く,そのことを一番 よく知っていたのは恐 らくベロー自身 であったろう。そして己れの作品の欠陥を悟つた彼は,suw市
alの
思想をより明確に力強 く提示 する作品を書 く必要を感 じたのではないだろうか。そう考えれば,『サムラー氏の惑星』におい て,主人公が既に疲れ切つた状態から出発すること,そして地球を見捨てないという作者のメッ セージが直接読者に伝わるような状況設定が択ばれていることの理由が納得できるように思わ れる。事実,ヨーロッパ的 く知〉の否定,肥
大化 したエゴに対する攻撃,アメリカの物質文明 への嫌悪等,ハーツォグとサムラー氏の思想は奇妙なほど類似 している。ただ一つ異うのは, ハーツォグはそういう思想にたどりつき,そこにやすらぎを見い出すのに対 し,サ
ムラー氏は最初からこの思想を抱いてお り,そこから出発 しなければならないという点である。即ち
,サ
ムラー氏は己れの思想の有効性を
,60年
代後半のニユーヨークで,混
乱 に充ちた「非牧歌的現 実」 という試金石によって試されるのである。精神的死者
,サ
ムラー氏はどのように蘇生 したのだろうか。先に述べたように,それは人間 と神 との契約を直観的に了解することによってであった。テーマはそれでよいとしよう。 しかし ,繰 り返 しになるが
,『サムラー氏の惑星』は ,ベ ローの他の どの作品にもまして
,テーマ と
作品の内実 との分離が甚 しい。第一 ,ベ ローの作品に共通 に見 られる諸特徴が この作品には殆 ど認 められない。サムラー氏 は少 しも滑稽 に描 き出されてお らず
,`I″と ` We″ の間を振 り子 のように揺れることもない。また,ハ ーツォグやヘ ングソンの ように
,狂つた ようにエネルギー を発散 させ もしない。一言で言 うな ら ,ベ ローの主人公 としては ,異 例 と言 ってよいほ ど ,静
かな人物なのである。 この ことはこの作品の一つの傾 向 ,植 物のイメージが頻 出することと無 関係ではない。 もともとベ ローの作品 には ,実 際の動物
(ライオ ン・熊・豚・etc.)が しばしば 登場するが
,そうでな くとも主人公 は自分 を動物 に見立てる癖があった。それは恐 らく作者が 意図的に狙 った もので
,そうい う動物のイメージが主人公の過激 さとよく共鳴 し ,独 得 の作 品 世界 をつ くり出 してきた ように思われ る。 ところがサムラー氏 は植物 に近 い存在であって ,作
品中にもそれを示唆する表現が多い。また
,その ものずば り
,サムラー氏 を
an idea of stabil‐ity"(p.93)と
述べた箇所 さえある。 これは ,主 人公の心の動揺がモチーフであった以前の作 品 と比較 して ,際 立 った特徴 と言わざるを得 ない。だが
,それだ けベ ロー作品独得の魅力が減
じたの も
,また否 めない事実なのである。
しか しなが ら ,サ ムラー氏 をそのような人間 として設定す ることによって ,作 者 には今 まで の作品 と異なる展開が可能 となった。つ まり ,植 物 に近い ,生 命 エネルギーの微弱な ,従 って 無関心
(disinterested)の状態のサムラー氏 は
,自意識過剰 の これ までの主人公 と異なって ,容
易にしか も徹底 して
,肥大化 した現代人 のエゴを攻撃で きるのである。また同時 に
,70過ぎの 老人であるサムラー氏 は b且 ての主人公達の ように悪魔的魅力の女達 に惑わされることもない ので ,若 い女達の性的退廃 を自分には何の痛 み もな く慨嘆す ることになる。更 に ,サ ムラー氏 は本質的 に外国人であって
,アメ リカの物質文明 に部外者的態度 をとってお り,こ れ も
60年代 後半のアメ リカの現実への嫌悪 を表明 しやす くしていると言 えるだろう。
要言するなら ,ベ ローはサムラー氏 を可能な限 り
,アメ リカの現実か ら遠い所 に位置づ けた のである。 その結果 ,サ ムラー氏 は良心の疾 ましさを覚 えることな く自分の信念 を言明で きる ようになった。実際 ,彼 は作品中
,しきりに秩序や上品 さや 日常的な努力の大切 な ことを説い ている。 これ らは
,自ら気狂 い じみた行為 に憂身をやつ していた以前の主人公 には
,とて も言 える科 自ではなかったろう。 その意味でベ ローの戦略 は間違 つてはいない。 しか しサムラー氏 の言葉 には彼の苦々 しい思いは感 じ取れて も
,己れの体験 に根 ざした言葉の重みが欠けている。
つまり ,ど こか道学者の臭いがするのである。恐 らく ,作 家 としてのベ ロー ,人 間の
struggleこそ
real■yだと考 えるベ ローがその ことに無 自覚であったわけではあるまい。ただ彼 には こ
の とき
,それ以上 に警世家サムラー氏が必要だったのだ。
Mark Harrisは ,彼
がベ ローの伝記作家 にな りそこねた経緯 を描いた書吻
1。の中で
,ベトナ
ム戦争が泥沼化 していつた時代 のベ ローの姿 を明 らか にしている。
60年代後半 と言 えば
,世界
的な規模で学生運動の興隆 ,若 者の既製価値への反抗
,それ に伴 う風俗の素乱が見 られた時代
だが
,そうい う現象 をベ ローはひ どく苦々 しく思 っていた らしい。 それは単 に若い世代への苛
立ちに帰せ るような ものではな く ,ベ ローはベ トナム反戦の知識人達 にさえ批判的であつた と
い う。また
Harrisの本 の中に
,ベローがサ ンフランシスコ州立大学で講演 した時 に
,学生 に卑
猥な言葉で野次 られた とい うエ ピソー ドが出てお り
,『サムラー氏の惑星』のコロンビア大学で
の主人公の体験 と重なって興味深い。 しか し ,言 うまで もな く ,ベ ローはそんな些末な ことに
怒 っていたのではないだ ろう。
〈宙 ぶ らりん〉か らの脱 出
問題は60年代後半の「反乱」が
,方
向性のない自己主張の「氾濫」のようにベローの目には 映ったことにあると考えられる。つまり,先
に弓1用した『雨の王ヘンダソン』の一節にある:the oppoStte makes the opposite"の 最悪の現象が
,一
つの巨大な潮流 となって当時のアメリ カを席拾 していたのである。一度その流れに身を投 じてしまえば,人
は人を敵 として,大
声で自己主張しなければならな くなる。そうなれば
,本
来は`We″
の論理を欲 していた筈の人間が 無自覚 とはいえ実は`I″ のレベルで声高に語ることになってしまう。そのからくりを熟知 して いたからこそ
,ベ
ロァは反戦の署名に頑 として応 じなかったのではなかろうか。いずれにせよ
,ベ
ローにとって諸悪の根源は自己主張のための自己であつた。そのような自 己は世界を混乱に陥れるだけであつて,何
も建設 しはしない。だからベローは『サムラー氏の 惑星』におて,そのような自己主張をする人'間と,そうでない人間 とをはつきり色分けして描 き出している。当然のことなが ら,主
人公は前者を糾弾 し,後
者に愛情を抱 くことになる。 こ うして若い世代は現実味が欠けるほど,そのエゴイズムが強調され,一
方,サ
ムラー氏が好感 を抱 くグループは,エ
ゴイズムを何 らかの形で超越 した人物達 となっている。例 えば,黒
人ス リはアフリカの面影を残す高貴な野蛮人であり,人
類の月への移住を主張するラル博士は,ア ジア的博愛精神の持ち主であり,また,サ
ムラー氏に死を悼まれるエリヤはユダヤ人特有の家族愛 を保持 している。 ここで気附 くのは ,二 人が二人 とも非 ヨーロッパ人 ,非 アメ リカ人であ ることだが
,それ を更 に一般化するな ら,サ ムラー氏の好悪の選択の基準 は,何 よ りも先ず
indi‐vidualか
non‐ind市idualか とい う点 にあると言 えるだろう。別の言い方 をするな ら
,`We″ を 装 つて結局 は `
I″
で しかない若い世代 は否定 され
,`We″ の中に `
I″
を消滅 させ うる ,旧 来 と は別種の自我 をもつ人々が賞揚 されているのである。実際サムラー氏 自身 ,作 品中で独 り言 を 呟いている。個人 とは「真実 を獲得す るための道具」
(p.188)である。或いはまた ,人 間一人 ひ とりは く真実〉 を く 媒介す るもの〉 に過 ぎないのだ とも。 ここには
,自ら <全体〉であろう とす る傲慢 な自意識への作者の苛立ち、く部分〉であることを容認で きる新 しい自我 を求 める作 者の祈 りが はつき り読み取れる と言わな くてはな らない。
以上の ことか ら ,ベ ローが『サムラー氏の惑星』を執筆 した動機 は ,60年 代後半のアメ リカ の病の原因 を究明 し
,それを根治するための処方箋 を書 くことにあった と考 えられる。 それは 恐 らく
,この時期 に ,ベ ローの内部で文明崩壊の危機意識が著 しく高 まっていたか らだ ろう。
しか しなが ら
,まが りな りにも書かれた処方箋が有効であるか どうかは極 めて疑わ しい。 とい うの も
,この作品が学術論文ではな く小説である以上 ,実 体 としての人間が ,処 方箋の指示内 容であるテーマを支 えな くとはな らない筈である。ベ ロー 自身が主張するように ,新 しい人間 観 は 「血 と肉の中に見 られなけれ ばな らない」 0の だか ら。 ところが
,サムラー氏 とい う人物 は ベ ローのメッセージを人間の肉声で もつて伝 えるには ,余 りに も空虚なのである。 その結果
,多 くの読者 は ,ベ ローの主張 を寧 ろ ,拡 声器で増幅 された耳障 りな響 きの ように聞 きとつてい
るとい うのが実状ではないだろうか。
考 えてみれば皮肉な ことだが ,現 代 のアメ リカの欠陥を鋭 く指摘す るためには ,サ ムラー氏 の人物設定 は効 を奏 している。片眼はみごとに役 に立 っているのだ。 しか し ,肯 定的な新 しい 人間観 を提示 しようとい うことになれば ,内 部が空洞でで きてい るようなサムラー氏 に とつて それは重す ぎる任務だ と言わな くてはな らない。サムラー氏 に とって何 よりも不運 なのは ,作
者が 自分 自身解決で きない矛盾 を一身で解決すべ く ,全 く相反する二種類の期待 を背負わされ
た ことである。 こうしてサムラー氏 は ,方 では ,心 と身体 の双方か ら人間の臭いを消 されて し
101まい,他方では,そ れでもなお脳細胞 に温かな人間‐愛を根強 く残 しているという,奇妙な,言つ てみれば一種の宇宙人 として読者の前に登場することになったのである。
だが
,人
間の臭いのしない,宇
宙人サムラー氏が とどまることを択んだ惑星 とは,本
当に地 球なのだろうか。寧 ろそれは,ど
こにも存在 しない,虚
構の く知〉 と虚構の 〈愛〉によってで きあがった架空の星ではないだろうか。だ とすれば,我々が作品の最後のサムラー氏の祈 りに, 人間‐愛や現実肯定を見る代 りに,現
実忌避,唐
突な超越志向を感 じ取るのも無理からぬことな のである。勿論,超
越志向は人間誰にでもあるものであり,また文学の否みがたい一つの伝統 でもある。 しかし超越志向は地上に強 く縛 られた人間が抱いてこそ,輪
郭をもつて表れ出て くるのであって,そうでなければただつかのまの自日夢
,蜃
気楼 に過 ぎない。そしてサムラー氏 の祈 りにはこの種のたよりなさがあって,実
際我々は,サ
ムラー氏なら一人,ふ
わふわ と架空 の星 まで宇宙旅行に出かけてしまいそうな気がするのである。だが,そうなってしまったら, サムラー氏は地球にとどまったことにはならず,最
終的には,この作品は作者の意図 と正反対 の効果しか上げなかったということになるのである。作品のrealityに関して鋭い感覚を持つている筈のベローに,自らの意図を裏切 るような作
品『サムラァ氏の惑星』を書かせたのは
,彼
自身の強い危機意識であつた。 もともとベローは 時代に対する感受性が強 く,同
時代の風俗 を巧みに取 り入れてきた。 しかしそれはあ くまで素 材 としてであって,彼
が真に描いたのは,終
始,`I″ と `We″
の間で揺れる自意識の強い人間 の悲喜劇であつた。無論その悲喜劇を通 じて,彼は人間性や愛の大切 さを訴えてきたわけだが, にも拘 らず,彼の作品の実体 となっているのは何 と言つても,Earl Rovitが いうところの,「自 意識が生み出すダイナ ミックで心理的なそれ自体の動 き」。つだと言えるだろう。ところが『サム ラー氏の惑星』ではベローは,作
品の素材である現代的風俗 と彼のテーマを直かに結びつけて しまったのである。 これは,喩
えてみれば,ジャーナリス トのや り方である。確かにベローに はジャーナリスティックな側面 も根強 くあり,最
新作『学部長の12月
』‐もそれを感‐じさせるが, しかしジャーナリス トと小説家が両立 し得ないことを,この最新作 もまた冷酷なまでに証明し ているのである。従つて
,ベ
ローが固有の世界を大事にしたいと思 うなら,やはり`I″ と`We″
の間の振 り子 運動,先
に述べた く動 き回る宙ぶらりん〉にとどまって,それを冷徹 に,しかもコミカルに描 き出す従来の方法が最良であろう。 もし く宙ぶらりん〉の苦 しみに辟易 して,或
いはまた何か しら安直な答えを求めて,〈宙ぶらりん〉から一気に脱出しようとするなら,サ
ムラー氏のように架空の星へ と羽縛かねばならないだろう。そしてそれは間違いな く
,作
品 としての生命力を 失うことに繋がるのである。だから彼は宙ぶらりんの Song of Mysdf竃14)を,20世
紀の大都 市の Song of Myself"を 歌い続けな くてはならない。決 して `I″ と `
We″
との対立に,早
急に終止符を打 とうとしてはならないのだ。何故なら,ベ ローにとつて間うことこそrealityな のだから。無論
,己
れの問いに対 して答えを求めてもよい。 しかし決 して答えを捏造するよう なことがあった りしてはならない。た とえ答えのない問い,ただ間うだけの問いで終わったと しても。考えてみるがよい。 ドス トエフスキーの作品に真の意味で答えがあるのだろうか。 トルス トイは一生かけて何を答えたというのか。畢党