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315

日常生活史 ‑ A 氏の場合

宝 福 則 子

は じめ に

本 稿 は, マ ール ブ ル ク大 学 (ドイ ツ) の プ ロ ジ ェク ト ・チー ム 「 1900 年 か ら 1933 年 まで の ブ ラ ウ ン シ ュヴ ァイ ク にお け る労働 者 の 日常 生 活 」 の イ ンタ ビュー資料

(1)

の 中 の ひ とつ を分 析 して ま とめ た もの で あ る 。 当該 資 料 は,1980 年 3 月 に被 イ ン タ ビュアー の 自宅 で 4 時 間 にわ た って行 わ れ た イ ンタ ビュー を, A 4 タイ プ用紙 144 ペ ー ジ に書 き起 こした もので あ る 。 この 資 料 を分 析 し, ま とめ る に当 た って,私 が以 前 に書 いた論 文

(2)

で提 起 した イ ンタ ビュー資料 の分析 法 を使 った。

A 氏 はイ ンタ ビュー の間, 実際 に はブ ラ ウ ンシ ュヴ ァイ ク地 方 の方言 や 口 語 で語 って い るが,本 稿 で は A 氏 が 1 人称 で標 準 語 で語 る形 式 を とった。 こ

(1)G.Ha r da c h ( プロジェク ト主任/マールブル ク大学教授) ,S.Ba j o hr ( 現在 ノル トライン・ヴェス トファーレン州政府), B . H宜 nd l e r ‑ Lac hma nn ( 現在歴史 ワーク ・ショップ ・マールブル ク)か らなるマールブルク大学の研究 プロジェク ト 「 1 9 00 年か ら 1 9 33 年 までのブラウンシュヴァイクにお ける労働者 の 日常生 活」が,以下の ように行 ったインタビューを録音 したカセ ッ ト テープか ら,香 き起 こした ものである。調査対象者 は ,1 89 0 年か ら 1 91 4 年 までに誕生 し,ワイ マール共和国末期 まで同地 で生活 していた労働者家庭 出身で, 自身 も労働者で あった 2 1 人 の男女。イ ンタビュー は 同地 出身で,方言 に通 じている Ba j o hr に よって,1 9 8 0 年初頭 に各々 3 時間か ら 8 時間,1 例 を除 き,対象者の自宅で実施 された。イ ンタビューの大枠か ら外れないようにとの意図か ら,共通 のテーマ項 目か らなる質問表が使用 され,かつ臨機応変 に自由な対話ができるような態勢が とられた。

(2 )宝福 則子 ( 1 9 88 ) :インタビュー資料 の分析 ‑ 「 1 9 00 年か ら 1 9 33 年 までの ブラウンシュヴァイクにおける労働者 の日常生活」を手がか りに,岩手大学人文 社会科学部 『 テクス ト分析 の研究 ‑ 日 ・独 テクス トの対照研究 を中心 に』‑

昭和 6 2 年度科学研究費補助金 ( 総合研究 A)研究成果報告書

(2)

316 人 文 研 究 第 91 輯

こで,参考 のた め, まず A 氏 の略歴 と家族 について簡単 に記 してお く。

1 90 3 年 6 月 7 日誕生

職業 電気工マイスター

1 91 8 年‑1 9 25 年 ドイツ工場 ・農業 ・未熟練労働者 同盟組合員 1 92 5 年‑1 9 6 8 年 ドイツ金属労働組合員

1 9 22 年頃か ら ドイツ社会民主党員

1 9 25 年 8 月 1 日レス トラン手伝 いのエルナ と結婚 1 9 68 年 エルナは結婚後 は主婦

年金生活 に入 る

子供

1 8 57 年 ブラウンシュヴ ァイクで誕生,同地で1 9 24 年 に死亡 職業 は道路舗装工,工場臨時工,季節労働者 を転々 とす

ドイツ工場 ・農業 ・未熟練労働者同盟組合員 ドイツ社民党員, ドイツ独立社民党員

1 8 6 9 年 ブラウンシュヴァイクで誕生,同地で1 9 34 年 に死亡 職業 は縫 い子,缶詰工場労働者,未組織

出産 7回 2 男 2 女 1 .両親 につ いて

父 は ,1 8 57 年 1 2 月 4 日にブラウンシュヴ ァイ クで生 まれ,職業 は徒弟修

行 の修行資格 のある道路 の敷石 の舗装工 で した。 で も夏 の間 は舗装工 として

働 きましたが,雨続 きの 日や冬 の間 は野菜 のチ コ リ (:白菜 を小 さ くした よ

うな形 の苦 みのある西洋野菜)か ら代用 コー ヒー を作 るチコ リ工場 で働 きま

した。今 とちが って,仕事 が ない と,賃 金 は貰 えなかった のです。1 90 9 年

に仕事 中 に眼 を怪我 して,道路舗装工 としては働 けな くな りました。眼 に石

が入 り,石 を取 りだすために何度 も眼 を焼 かれた り,長年苦 しんだ末 に,片

(3)

日常生活史 ‑ A 氏 の場合 317

眼 を摘 出 され ました 。1 92 4 年 に亡 くなった時 に解剖 され,死 因 は脳腫癌 と わか りましたが, この眼 の怪我が直接的な原因か どうかはわか りません。

1 9 09 年以 降 は, ブラウ ンシュヴ ァイ クのハ ウス ヴ ァル ト社 や ブ ライブ ト ロイ社, グロ トリア ン& シュタイ ンヴェ‑ク社 な どの代用 コー ヒー工場 で仕 事がある と,臨時 の包装工 として働 きました。ず っ とブラウンシュヴァイク で働 いてい ましたが ,1 9 0 5 年 の 3 8 週 間大 ス トライキの時 だ けは, レ‑アテ ヘ行 って稼 ぎました。土曜 日にだ け,家 に金 を持 って帰 って きた とい うこと です 。

母 は 1 8 69 年 にブラウンシュヴ ァイ クで生 まれ ました。職業 は縫 い子 です が, どこかで働 いていたのか どうか はわか りませ ん。私が知 ってい るの は, 自分や他 の娘 さんたちの服 を縫 っていた とい うことだ けです。結婚後 は,早 朝 のパ ン配達 とアスパ ラガスの缶詰工場 で皮 む きを してい ました。私 が 1 0 歳 の頃,朝 出か けて夜 の 9 時か 1 0 時 に帰 って くる彼女 を待 っていた もので す.華著 な体 で したが, 出来上 が った缶詰 を 1mXlm の大 きな箱 一杯 に 入れて, リアカーで坂 の上 の倉庫 まで運 ぶのです。馬 の ように働 きました。

第 1 次世界大戦 の直前 に, もう子供 たちが大 き くなってい ましたか ら, この 仕事 をやめ ました。 それで も少 しアスパ ラの皮 む きの仕事 をしてい ました。

1 93 4 年 に亡 くな る前 の数年間 は,年金 を受 けて い ま した し, ・私 も,仕事 を やめて家 にいるように言 い ましたか ら,仕事 はしてい ません。

両親 のなれ そめは, カイザー通 り 4 番 の母 の家で した。つ ま り,私 の母方 の祖父母 の家 です。祖父 は鉄道 の機関車 の運転手で した。 そ こへ私 の叔父が 下宿 して,父 が叔 父 を訪 ね た時 にマ リーちゃん と知 り合 って, 1 8 8 8 年 に結 婚 した とい うわ けです。

2 . 兄弟 姉 妹 につ いて

私 は, 1 9 0 3 年 にブラウ ンシュヴ ァイ クの ウイルへル ム通 りで生 まれ まし

た。両親 は私 の他 に長兄 のヘルマ ンを 1 889 年,ルー ドル フを 1 8 95 年,姉 の

ゲ ル トルー トを 1 8 97 年,妹 の イ ル ゼ を 1 909 年 に生 み ま した。 そ の他 に

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318 91 輯

1 8 91 年頃 に生 まれた兄が い ました。彼 の名前 はわか りませ んが,脳膜 炎 で 9 歳 で亡 くなったそ うですO ケ‑テ とい う妹 もい ましたが, この子 は生 まれ て まもな く亡 くな りました。

長男 の‑ルマ ンは 1 90 7 年 に事故死 しました。彼 は道路 の敷石 の舗装工見 習いだったのですが,仕事 中, 山積 みの石 の上か ら足 をすべ らせた ところへ 電車 が来 て,足が車輪 に巻 き込 まれたのです。彼 は 「 電車 をバ ックさせて く れ,バ ックさせて くれ」 と言 ったそ うです。 そ こへ消防隊が来 て

昔 は 馬で来た ものだそ うです ‑ 彼 らが電車 を持 ち上 げて,やっ と電車 か ら解 放 され ましたが,足 のあち こち と腰 の上 まで も骨折 していて, それか ら 3 ,

4 時間 はまだ生 きていた そ うです 。 しか し出血多量 で亡 くなったのです。

イルゼはジュー ト工場 で未熟練労働者 として働 いてい ましたが,肺結核が も とで 2 0 歳 の誕 生 日の 2 日前 に亡 くな りま した。彼 女 は小 さい頃 か ら ジュー ト工場 で働 いてい ました。工場 の機械 の前で 2 回 も暗血 したの に,誰 も注意 しなか ったのです。知識 もなか った し, それ に第 1次世界大戦 の頃 は 栄養状態 も悪かったか ら, その影響 もあるので しょう。 2 人 とも若か ったで すか ら,結婚す ることもな く亡 くな りました。

ルー ドル フは 2 度結婚 しました。最初 は戦争直後,1 91 9 年頃 で, 2 回 目 は 1 94 6 年頃で した。 どち らの奥 さん も働 いて はい ませ んで した。彼 は職業 教育 は受 けていなかったので,臨時工 として建設現場やパ ン屋で働 きました が,戦争 で 怪我 を して 5 6 歳 で亡 くな るまで, ほ とん どを年金生活者 として 暮 らしました。

ゲル トルー トは缶詰工場 で働 いてい ましたが,や は り未熟練労働者 として

ですが,子供 の面倒 を見 て くれ る人がいないので,仕事 をや めました。子供

は 3 人 です。彼女 の夫 も臨時工 としてあち こちで働 きました。最後 は公 園の

番人 をしていて,仕事 中に車 に摸 かれて亡 くな りました。彼女 はまだ健在で

す。

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日常生活史 ‑ A 氏 の場合 319

3 .子供 時 代 の住 居

私が生 まれた 1 9 0 3 年 には,両親 はウイルへルム通 り 6 9 番 に住 んでい まし た。屋根裏部屋で,屋根 の下 にはすずめが巣 を作 ってい ました。 ここに両親

と子供 4人 で住 んでい ました。 6歳 くらいの時 にはルー ドヴ ィッヒ通 りで し た。 ここも屋根裏部屋 で した。台所兼居 間,細長 い部 屋,寝 室が あ りま し た。 トイ レは 1 階下 か, 1 階半下 の階段 の踊 り場 にあ りました。風 呂はあ り ません。両親 と小 さな妹 と私 は両親 の部屋で寝 て,兄 と姉 は別 の部屋で寝 ま した。屋根裏 の洗濯物干 し場 と地下の物置 もあ りましたが,地下の物置の こ とはよ く覚 えてい ません。同 じ階 にはその他 にまだ部屋が あ りました。下 の 階の住人 の所有の居間 と台所か らなる住 まいが 2 つ と, まだ もう 1 つ部屋が あ りました。 それ はさらに もう 1 階下の住人 の もので,又貸 しされてい まし た。各家専用 の廊下 はな くて,独立 した住 まいではあ りませ ん。妹 はここで 生 まれ ました。丁度 その年 に,父が仕事 の石割 りの時 に,事故 にあったので す。彼 は,か な り長 い間,仕事がで きな くて,家賃 を滞 らせたので,私たち はその家 を追 い出 され ました。家財道具 か ら何 か ら手 当た り次第,何か ら何 まで窓か ら下 の道路 に,文字通 り放 り出 されたのです。寝場所がな くて,公 園のベ ンチで夜 をあか した ものです。兄 のルー ドル フは木 の上 に座 って寝 ま

した。

父 はあち こち馬 区けず り回 って家 を探 しましたが,子供 のい る貧乏 な家族 な ので,敬遠 され ました。 それで,私たちはプフレーゲハ ウス通 りの児童養護 施設 に入 りました。私 の末 の妹 は乳児室へ,姉 は少女室 に,兄 は少年室 に入 りました。私 はまだ学校へ行 っていなか ったので幼児室 で した。母 は, ここ の婦人宿泊所 に入 りました。父 は友達 の ところに身 を寄せ ました。家族が ば らば らになったのです. 日曜 日中 こ父親が訪 ねて来 る と,家族全員が揃 い,私 たちは父 と母 について回った ものです。父 には 「 親玉 のフ リッツ」 とい う友 人 がい ました。L シャツハ とい う名前で したが,仕事仲間で はあ りません。 ど

うい う関係で知 り合 ったのかは知 りませ ん。父 はよ く日曜 日に 2時間か 3時

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320 9 1

間,彼 と森へ鳥 を摘 まえに行 きました。 そ うい う時, シャツハ は小壕 を持 っ てい ました。途 中で飲 んで しまうのです。 ある時,母が その場 の中の酒 を捨 てて,酢 を入れ ました。今 もあのルー ドヴイッヒ通 りが 目に浮かび ます。父 はこのシャツハの ところに身 を寄せたのです。

この養護施設 に半年 くらいいた後,マダーメ ン通 り 45番 に越 しました。

私の小学校入学直前ですか ら ,1 9 1 0 年 3 月頃です。

マダーメ ン通 りの住 まいで は,大 きな居 間 に部 屋 が 2つ と台所 が あ りまし た。 トイレは中庭 にあ りました。階段 を降 りると長 い通路が あって,中庭 の 家 の裏側 に トイ レが あ りま した。風 呂はあ りませ ん。外 で水浴 び を しまし た。 それか らそ こらへんを走 り回って乾かすのです。 ここも独立 した住 まい ではあ りませ ん。階全体 で ドアが 2 つあ りました。階段室 の ドアか ら台所へ

1 つ と居間へ 1 つ。居間か ら 1 つの部屋へ, そ して台所 か らもう 1 つの部屋 へ通 じてい ました。地下室 と屋根裏 の洗濯物干 し場 もあ りました。 ここには

1 9 1 4 年の初 め まで,戦争が始 まる前 まで住 んでい ました。

その次 は中州 のケ トゲ ン‑ ‑ゲ ン 2 番 に住 み ました。今度 も屋根裏部屋 で す。 2 階建 ての家で,私たちの屋根裏部屋 は 3 階で した。父が亡 くなって, 結婚後 も母 と妹 と一緒 に ここに住 み ました.私 の上 の子供 2 人 もここで生 ま れて ,1 9 2 8 年か 2 9 年 まで ここにい ました

この住 まいにはベ ッ トが 3 台入

る大 きな居間があ りました。居間の壁 だ けが垂直で した。 4 人 の子倶たちの 部屋 は壁が傾 いた小 さい斜 めの部屋で した。ベ ッ トは 2 台入 りましたが,並 べ て は置 け ませ んで した。 もうひ とつ本 当 に小 さな部 屋が あって,小 さな マ ッ トレス を置 いて寝 ましたが,す ぐ横 は固い壁です。つ ま り, 3 部屋 の住

まいで, 1 階下 の階段 の踊 り場が トイ レで,風 呂はあ りませ んで した。

この家 の持 ち主 は何度 も変わ り,私た ちの他 に 5 家族が賃貸で住 んでい ま

した。家賃 ははっき りとは覚 えてい ませ んが,当時 は週給分 といった もので

す。住人 はみんな労働 者 で した。 1 人 は機械工 で, MI AG 社 で働 いて い ま

した。彼 の息子 はプロペ ラ工 として昔 のアムメ ・ギーゼ ッケ&コネゲ ン社 に

い ました。私たちの向かいの部屋 には説教屋 のツイーム トとい う男が住 んで

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日常生活史 ‑ A 氏の場合 321

い ました。私 た ちの さ らに上 の本 当 の屋根 裏部 屋 には フアウベ ル社 で働 く ツ イー グラー とい う男が住 んでいて, その娘 はブラウ ンシュヴ ァイ クの市 の 出張所 にい ました。下 の階 には牛乳屋 のおかみ さんが い ました。彼女 は自営 業 とい って も牛乳缶 は自分 で洗 っていた し, 自分 で リアカー を曳いて牛乳 を とりに行 き,ふ うふ う言 いなが らマダー メ ン通 りで牛乳 を売 って歩 いてい ま した。 ですか ら彼女 の状態 も労働 者 よ り良い とはい え ませ んで した。 そ して 大家 のア ンナ‑ シュタイ ン一家 です。 この一家 は小 さな雑貨屋 も営 んでい ま したが, つ けで買 い物 をす る客 ばか りで した。 中庭 の小 さな家 には屑屋 の家 族 が,大 きな子供 も一緒 に住 んでい ました。彼 はぼ ろ布 や骨 を集 めてい まい たが,本物 の軍 隊ベ ル トをベ ッ トのふち に掛 けて, それで首 をつ って死 んだ のです。私 は 11 歳 か 1 2 歳 で したが,忘 れ られ ませ ん。

1 92 8 年 か 1 929 年 か ら 3 2 年 まで はカイザー通 り 1 番 に住 み ま した。私 た ちの他 に大家 と 2 家族 が住 んで い ました。家 賃 は多分 2 0 マル クで した。 こ こには大 きな居 間 と広 い部屋 が あって, それ 自体 は長 い住 まいだったのです が, 2部屋だ けで した。私 の 3番 目の子供 はここで生 まれ ました。 ここも独 立 した住 まいで はな く,階段室 の横 に小 さな台所 が あ りました。 トイ レ も 1 階下 の階段室 にあって,風 呂は水浴 びです。 4階 に屋根裏部屋のあ る 3階建 ての古 い家 で,半地下 の物置 が あ りましたが, この物置 は,各戸毎 に仕切 ら れ てい ませんで した。間仕切 り壁 は太 い梁 に立 てか け られ ていたのですが, その梁が その うちに折 れて家 の真 ん中が落 ち こんで きたのです。家 は倒壊寸 前 だ った ので す。 そ こで私 た ち は この家 を出て, ユ リウス通 りに越 しま し た 。

4 .学校生活

私 は国民小学校 を出ただ けです。私 は 1 91 0 年 に 1 年遅 れで ビュル ガ一通

りの小学校 に入 学 し ,1 91 4 年 に中州 の ライ ヒス通 りの小 学校 へ転校 し, そ

こを 1 91 7 年 に卒業 しま した。小学校 は 6 学 年 までですが,私 は高等科 へ も

う 1年通 ったのです。

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322 人 文 研 究 第 91

ビュルガ一通 りもライ ヒス通 りもどち らの学校 も楽 しか ったです よ。私 は 教師 とは良い関係 にあって,私 の受持 ちだったマ ッテ ィース先生 は,私 の結 婚後 も時々訪 ねて くれ ました。学校で は生徒が行儀 を悪 くした り,悪戯 す る

と, それ に応 じて,教師の性格 に もよ りますが,パ イプの棒 で尻 を殴 られ ま した。 ひ どい悪戯 をした時 にはしたたか に殴 られ ましたが,で もそれ にあた いす ることをしたのな ら,仕方が あ りません 。 私 は 1 度,作文 の時間 に,梶 学 に 「いんや」 と答 えて殴 られた こ とが あ ります。「いいえ」 と答 えるべ き だったのです。

同級生の中で はい くつかのグループが あ りましたが,私 は友だち とよ く遊 び,何 をす るに も一緒 に行動 しました。殴 り合 いな どもあ りましたが, それ は普通 の ことです よ

ライ ヒス通 りとニ ッケル タル ク地域 の学校 は,貧乏人 の子供 が通 う学校 だ ったか ら, ブラウンシュヴ ァイクで もっ とも評判 の悪 い 学校 で した。で も貧乏だった けれ ど,不運 にあった時 も結 び付 きが強か った か ら,助 け合 って何 とか切 り抜 け られたのです よ 。 よそか らの評価 に反 して 他 の地 区よ りも住民 どうLが平和 に仲良 く暮 らしてい ました。労働者 の子供 の他 に自営業者 の子供 もい くらかい ました。私が 自分 を労働者 の子供 と意哉 した の は学校 です。 自営業者 や ホ ワイ トカラーの経済状 態 は,例 え安 サ ラ リーマ ンで も労働者 よ りはず っ とまLで したか ら,彼 らの子供が優先 され ま す。教師だ けで はな く,子供 自身が親 の影響 で労働者 の子供 を区別 す るので す。

5 .子 供 時 代 の 労働 と遊 び

貧 しかったので,家計 の足 しにす るために私 も小 さい時か ら働 きました。

6 , 7 歳 の頃 は,母 のパ ン配達の手伝 い をしてい ました。朝 の 4 時か ら 1 時 間か 1 時間半,母 についてパ ンを配達す るのです。で も,手伝 いなのでいつ もというわ けで はあ りませ ん。規則 的 に働 いたの は, 1 1 歳 で徒弟見習 い に 入 るまでの間, ヴェンデン通 りの ドラッグ ・ス トアー 「ヴェ‑ゲ」 で使 い走

りの仕事 をしました。当時 は 1 0 歳 か ら働 けたのです。 その他 に朝 は, 4 時

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日常生活史 ‑ A 氏 の場合 323

にブラウンシュヴ ァイクのはずれのハーグ ン通 りの牛乳屋 に行 って, 3 輪 の 荷車で 1 0 0 キロか ら 1 5 0 キロの牛乳壕 を家 に運 んで くるのです。家 でイルゼ が その場 を洗 った ら, またそれ を届 けに行 きました。 この時 に学校 の道具 も 一緒 に持 って家 を出て, 7 時 に学校へ行 きました。疲れて学校 で居眠 りをす

ることもあ りましたが, 遇 3 マル ク稼 ぎました。 1 時 に家 に戻 り, ヴェ‑ゲ の ところで は 3 時か ら 6 時半 まで働 きましたが,仕事 の大半 は 2 輪 の大 きな

リヤカーで中央駅へ荷物 を取 りにい く事 で した。

その他 には遊 び仲 間 と一緒 に壕や馬糞 を集 めては売 りました。鋳物工場 で 馬糞 を使 うので,結構 いい値だったのです。だか ら誰 もいないのを確かめて か ら馬車屋の馬小屋 に入 り込 んで は馬糞 を集 めた ものです。鋳物工場 で出た 鉄 カス も集 めて屑屋 に売 り渡 しました。 あるい は石炭屋 の配達 について回っ て, ブ リケ ッ トの荷 お ろしを手伝 い ました。昔 はブ リケ ッ トはここのロー レ ンで袋詰 めされていたのです よ 。 あ とはク リスマスツ リーの片付 けを羊伝 つ て貰 った数ペ ニ ヒで,操 り人形が書かれている厚紙 を買 って,操 り人形 を作 りました。 また これ を売 った り, いろんな方法 でお金 を稼 ぐことを考 えつい た ものですが, これ らは遊 び仲間の友達 と遊 びの延長 でや った ような もので す。稼 いだお金 は母 に渡 しましたが, このお金で学校 のノー トやペ ンな どを 買 ったのです。た まにはパ ン菓子 な どをい くつか買い食 いす ることもあ りま

した し,働 いてばか りいたわ けで もあ りません。

近 くの山へ行 って, くだ らない戦争 ごっ こをした り,往来や市場 で遊 び ま した。公 園な どまだなかった時代 です。市場 で は管理人 にいつ も追 い出され ました。彼 は棒 を持 って追 って くるのです。 とて も足 が速 いので,彼 には注 意 しました。ガ ウスの山に も行 きましたが, ここの森番 も足が速か った もの です。街 を出て,マ ッシャーローダーの畑やエ クセル ツイーア広場 に も遠征

しました。

女の子たち とも結婚式 ごっ こを しました よ。 それか ら野球 とバ レーボール

を合わせた ような遊 び もあ りました。 これ に も女 の子 は加 わ りました。 ある

い は 「 誰 が ボール を もっている」 な ど,女 の子 もほ とん どの遊 びに加 わ りま

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3 24 91

した。 みんな労働者 の家庭 の子供 で した。

6 .職 業

私 の職業 は電気工です。学校 を出て,1 91 7 年 か ら 21 年 まで ブラウ ンシュ ヴ ァイクのオ ッ トー ・ゲ‑ルケ社で見習 い修行 を しました。 その後 い ろんな 会社 で働 きま した。 当時 は例 えちっぽ けで も電気屋 とい うもの はなか った し,電気工 も職業 として確立 してい ませんで した。電気工 のマイスター もい なか ったので,私 は建設現場 で足場 の組立工 な ど建設労働者 の ような仕事 も させ られ ました。1 9 25 年か ら 26 年 にか けて市 の公共事業局 で電線施設工 と して働 き, この時代 に結婚 しました。ナチの台頭 す る直前 の 1 9 3 0 年か らフ ランク&ハ イデ ッケ社 に勤 めて, そ こで 1 9 3 2 年か 33 年 にマイスターの資格 を とりました。 この職業 は 4週 間の仕事が終 わ る と放 り出 されて しまうよう な職業で した。戦争末期 に運転手 の口を見つ けて きたのですが, それで兵役 免除 の措置が取 り消 され ました。 そ こで,ザル ツギ ッタ‑の製鉄所 の発電所 へ行 きました。免除措置が無効 になった当 日に, ここの高圧発電所 と変電所 担当のマイスター にな り, また兵役免除 にな りました。戦争が終 わ るまで こ の職 についてい ました。敗戦で製鉄所 は解体 されたので,独立 しようか とも 考 え ましたが, また AEG社 で働 きは じめ,1 9 6 8 年 に年金 生活 に入 りま し た。

この間,何度 も失業 しては新 しい仕事 につ きましたが,失業 中は失業手 当

て を受 けてい ました。手 当ては半年 にわた り支給 され,今 の病気休業手 当て

の ように,稼 いでいた分 くらいの額 は貰 えました。 その間 に臨時 の仕事 で稼

いだ ら, その分 は差 し引かれ ました。 しか し ,1 9 24 年 か ら 2 7 年 は,私 たち

が経験 した もっ ともきび しい時代 で した。子供 たちが生 まれて,健康保 険 に

入 っていなかったので,お産 の費用 の工 面 が大変 だった こ とを覚 えて い ま

すO私笹 は貯金 な どあ りませ んで した。母 は年金生活で した し,妻 の実家 に

も 1 1 人 の子供 がい ましたか ら,援助 な ど受 け られ るはず もあ りません。だ

か ら,息子が 1 9 25 年 に生 まれて, 2 年後 に娘が生 まれた時 は大変で した。

(11)

日常生活史 ‑ A 氏 の場合 325

7.親 子 関係

両親 とは とて も良い関係 で した。何か困った問題や心配事 を抱 えた ら,具 体的 には今で はもうどんな事が あったのか覚 えてはい ませ んが, いつで も両 親 の どち らに も話 を聞いて もらえる と,感 じてい ました。

お金 の ことは, どっちみちいつ もぎ りぎ りの生活 をしてい ましたか ら,浴 金の心配 について家 で話 した ことはあ りません

結婚後 の私 の家庭 で もそれ はあ りません。妻がお金が ない と言 えば,私 は 「 喜べ,金 を払 う心配 をしな

くてすむ よ」 と言 った ものです。

両親 が喧嘩 をしているのに気付 いた ことはあ りませ ん。私 自身の家庭 で も 何か問題が あった ら,子供 たちが寝 てか ら寝室でゆっ くりと話 しあった もの です。 そ うす ることによって,家族関係 が うま くい くものなのです よ 。 両親 の喧嘩 を子供 が気付 いた ら,大人 は気付 かない と思 っていて も,子供 は本 当 に苦 しみ ます。

悪戯戯 して,お仕置 きに拳骨で殴 られた ことはあ りませ ん。父 は平手で叩 くだ けです。 それ も丁度 良 い加減 でお尻 を叩 くのです。最後 に叩かれた の は,中州 のケ トゲ ンハ‑ゲ ンで した。 その時,私 は屋 根 の樋 に登 った ので す。家 に鍵がかか っていたので,屋根 か ら私たちの家 の窓 を開 け, 中に入 ろ

うとしたのです。 とて も幅 の広 い 3 0c m ほ どの樋 だったのですが, 3 階 の 高 さです。下 の道路 で は中州の住人 たちが立 って見てい ました。父 は私 を締 まえる と, まず 中 に入 れ て,す ぐにお仕置 きしました。で もこれ は当然 で す。母 に叩かれた記憶 はあ りません。彼女 は優 しいひ とで,子供 を とて も愛

してい ました。 自分 が飢 えて も子供 に食 べ させ て くれ ました。

8 . 自分 の親 子 関係

私 には子供 が 4人 い ます。みんな中学 を卒業 し,現在,立派 な仕事 につい

てい ます。私 と妻 は無か ら始 めて, 4 人 の子供 たちを自分たちの力 だ けで大

き くしました。 そ してお互 いに経済的 に も依存 してい ません。子供 たちは私

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326 人 文 研 究 第 91 輯

たちに良 くして くれ ます し,孫たち も祖父母 を尊敬 して くれ ます。彼 らにつ いて愚痴 をこぼす ことな ど何 もあ りません。

長男 の ウイル‑ルム は 1 92 5 年生 まれで, ブラウ ンシュヴ ァイ ク市役所 の 役職 についてい ます。戦争 に行 って, ロシアで 1 1年間捕虜 として抑留 され てい ました。 その間 に,私たちは知 らなか ったのですが,娘 の友達 と文通 し ていて,帰還後 に彼女 と結婚 しました。で も彼女 には私 生児 が いた のです よ。彼女 の子供 を引 きとり, その間 に子供 を 1人 つ くりました。私 は,す ぐ 結婚 しな くともよい, と反対 したのですが,「 僕 は 1 1 年間 も捕虜生活 をして

きて,家庭 に憧 れていたのだか ら」 と言 い ました。で も今 で は, 「 父 さん, あの時,父 さんは正 しかった よ」 と言 ってい ます。

長 女 の ローズマ リー は ,1 9 27 年生 まれです。今 は,結婚 して,働 いて い ませ ん。彼女の夫が働 かな くて もよい と言 うか らです。次女 のロ ッテ ・ロー レ も働 いてい ませ ん。彼女 は 1 9 3 3 年 に生 まれ ました。 そ して末息子 のベー ター は 1 9 3 6 年生 まれで, ドイツ航空研究機関のエ ンジニアです よ

8 .結 婚

私 と妻エルナが 1 9 25 年 の 8 月 1 日に結婚 してか ら,今年でち ょうど 5 6 年 にな ります。私が 2 2 歳 で,彼女 は 20 歳 で した。私 たちはブラウンシュヴ ァ イクのヴ ィル‑ルム通 りとカ トリーネ ン教会 の角 にあった結婚登録所 で結婚 しました。教会 の結婚式 よ りも, その方がす ぼ らしい ことだったのです。で も,結婚 した時,彼女 はまだ新教 の教会 に所属 してい ました。

妻 は 1 90 5 年 1 0 月 1 日に,ハル ツ地方のブランケ ンブル クで生 まれ育 ち, 旧姓 はクレゲ リンです。曾祖父がスイス出身で, クレゲ リンとい うの はスイ スの名前です。彼女の父親 は,ハル ツのデ ィー レンブル クで墓地 の庭師 とし て働 いてい ました。母親 はデ ィー レンブル ク出身で,主婦で した。

エル ナ は,美容 師 の職 業 教 育 を受 けて い ます が ,2 4 年 にブ ラ ウ ンシュ

ヴ ァイクに出て きて, ヴェンデ ン通 り 60 番 の叔母 さんの家 にい ました。当

時 はヴェンデ ン通 りとボ ックス トヴェ‑テの角の,彼女の従姉妹が経営す る

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日常生活史 ‑ A 氏 の場合 327

レス トラ ン 「アル ト ・ハ イデルベル ク」 を手伝 ってい ました。隣 は映画館 で した。結婚 して, 中州 のケ ッ トゲ ンハ ‑ゲ ンの私 の母 の住 まいで一緒 に暮 ら しました。私た ちの部屋 は小 さ くて, ようや くベ ッ トをタテ とヨコに 2台置 くことがで きました。太 陽が差 し込 んで くる と,一人 は出ていかなけれ ばな らないほ どに小 さか ったのです。彼女 は結婚後 は働 いてい ませ ん。私が 「お 前 は,家 で子供 た ちのそばにいな さい」 と言 ったのです。 ともか く私 1 人 の 稼 ぎで 4 人 の子供 を大 き くし,家 を 1 軒建 て ました。

私 たちの は一 目惚 れの恋で した.正式 の婚約 は しませ んで した。彼女 との 結婚前 に,私 には一度,数 日間, いや数週 間の恋愛 ごっ この ような ことはあ りましたが,彼女 に とって は私 との恋 が初恋 で した。私 は 「アル ト ・ハ イデ ルベ ル ク」 の向かいに住 んでいて, そ この電灯 の修理 な どもしていたので, 彼女 とは顔 見知 りだ ったのですが, あ る朝 10時頃 に行 くと,彼 女 は食 器戸 棚 の掃除中で した。 そ こで私 は中へ入 って行 って,彼女 の肩 をつかみ, こち らに向かせ てキス を しました。彼女 の従姉妹 が, エルナ を遊 び に連 れだ して くれ とい うので, 当時 まだ私た ちは 「あなた は」 とい う礼儀正 しい呼 びか け を して い ま したが, マ ッシュへ行 った り,市 電 のパ ーテ ィーや, こ この イ エーガ‑ホ‑ フの見本市 に も行 きました

そ して森 へ行 って,彼女 を誘 惑 し

ました。 その時 に長男 を妊娠 したのです。

それ を知 った母 は 「 何,お前 はあの子 を畢 ませた って ? じゃあ結婚 もし な け りゃあ ! 」 と言 い ました。彼女 は, そ うい うことに厳 しい人 で した。

9 .性 ・避 妊

性 に関 しては少年 の時, もちろん関心が あ りましたか ら,家 にあった母 の

医学書 を隠れて こっそ り読 み ました。 そ こには どうす る と, どうや って子供

が生 まれて くるか な ど何 で も書 いてあ りました。他 の子供 たち も同 じような

こ とをしていて, お互 い に話 し合 った ものです。 コン ドームの ことも ,1 3 ,

4 歳 の時か ら知 ってい ました。両親 か ら何 か性 に関 して聞かせ られた とい う

ことはあ りませ ん。私 の妻 は娘 に 「ここへ来 なさい。 つ ま り, こうこうこう

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328 人 文 研 究 第 91

だ・ ・ ‑・ 」 と教 えましたが,昔 は今 と違 って, そ うい うことは恥ずか しか った ので しょう 。 私 の妻が初潮 を見 た時,母親 は 「これか らは,お前 は,男 と一 緒 にい る ときには気 をつ けるのだ よ」 と, それだ けしか言わなか った そ うで す。

子供 の時,両親 が 1 台 のベ ッ トで寝 ていた ことは知 ってい ますが, そ こで 何が起 こってい るのか は知 りませ ん。 ただ,養護施設 か らマダーメ ン通 りへ 越 した時 に,昔ルー ドヴ イッヒ通 りで していた よ うに,両親 の間 に,真 ん中 に寝 たい とせがみ ました。父 は最初 の数 日間 はそ うさせ て くれたのですが,

「お前 も別 の部 屋 で寝 れ るね」 と言 って追 い出 され て しまい ました。 当時 は 何 も見 なか った し,聞 こえ もしませ んで した。私 は両親が キス をす るの さえ 見 た ことはないのです 。今 とは まった く違 い ます。

私 たちは,結婚後 は じめて避妊 とい うことを しました。 ウイルへルムの出 産後 に, 当時 として は近代 的な洗浄器 を買 い ました。で もまた子供 はで きて しまい ました。 ゴムのペ ッサ リー とメタルの リング もあ りましたが,妻 の体 質 には合 い ませんで した。 コン ドーム も買 い ましたが, そんなにた くさんは 買 えませ んで した。 だか ら,性 交渉 の途 中でや め ました。 これだ とお金 はか か りませ ん。両親 の時代 に も避妊具 を買 うようなお金 な どなか ったか ら, こ れ以外 の方法で避妊 はしていなか った はずです。

当時 は今 の ように避妊 の情報 もあ りませ んで した し,結構,私生児 もい ま した。未婚 で子供 を生 む と,世 間で は軽蔑 され ました。妻 の服 を縫 って くれ ていた娘が,ハ ノー ファーへ行 って,私生児 を生 み ました。彼女 はその子 を 家 に連 れて帰 る こともで きず に,首 を紐 で絞 め殺 して,刑務所 に入れ られ ま した。 このブラウ ンシュヴ ァイ クで そんな こ ともあったのです。 中産 階級 の 家庭 で は私生児が生 まれ る と,誰 も気付 かない よ うに取 り繕 い ましたが,労 働者 の家庭 で は子供 を受 け入れ ました。祖父母 な どが面倒 をみ るのですが, ただ,子供 は酷 い扱 い を受 けてい ました。外 で余所 の家 の子供 と遊 んでい る

と, その子 の祖母 が遊 んで はい けない と叱 った りして。

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日常生活史 ‑ A 氏 の場合 329

1 0 . 宗教 ・政 党 ・労働 組合

私 は 1 9 1 7 年 に堅信礼 を受 けてい ます。 その直前 に洗礼 を受 けました。他 の兄弟姉妹 も堅信礼 を受 けました。両親 は,二人 とも社会主義者 で,反教会 の立場 を とっていたので,教会か ら脱会 してい ました。私 の母方の祖母 は, アイ ヒェスフェル トの出身です。 そ こに彼女 の家 は農場 を所有 してい ました が, 1 84 8 年 の革命 で彼女 の両親 は命 を失 い ま した。叔母 さんが農場 を管理 していたのですが,彼女が学校 をでてみ る と,農場 もそれ に付属す るすべて もカ トリック教会 に飲 み込 まれていたのです。 それで,私 の母が生 まれた時 にカ トリックの牧師が来 て,彼女 を洗礼 しようとしたのですが,祖母 は牧 師 を追 い出 しました。 その時代 に彼女 は牧師 を追 い出 したのです。だか ら彼女 が どれ ほ ど攻撃的だ ったか は想像 出来 るで しょう。

両親 は私 に,堅信礼ではな く成人式 をすれ ばよい と言 ったのですが, その 年頃 になる と,学校 で も同級生が みんな堅信礼 を受 けます。受 けない と 「 彼 は堅信礼 を受 けないんだって よ」 と彼 らに言われていやな思 いをします。 そ こで,両親 は子供 た ちの希望 を尊重 して くれ ま した。 しか し私 は, 1 91 9 年 には教会 を脱会 しました。妻 も結婚後 に,脱会 しました。

父 は第 1次世界大戦前か らの工場労働者 同盟組合員 で,社民党 の古参 の党 員で した。社民党が分裂 して独立社民党 の党員 とな り,合同後 また社民党 に 戻 りました。母 は党員で はあ りませ んで したが,父 よ りもラジカルで した。

組合員で も党員で もなかったのは,党費 や組合費 を払 う余裕 がなか ったか ら です。 とはい え,父 はどんなに困 って も貧民救済金 は受 けませ んで した。選 挙権 を失 って しまうか らです。第 1 次大戦前 は労働者 の場合, 3 人 で 1 票 の 投票権 しかなかったのですか ら,貴重 な権利で した。

私 は徒弟修行 を終 えた 1 9 22 年頃 に社民党員 にな り,ずっ と党員 として残

りました。名誉手帳 も持 ってい ます。私 の家族 はみんな党員で した。労働組

合 は,徒弟見習 いの時代 の 1 91 8 年 に父が手続 きをして,工場 労働 者 同盟 に

加 入 しました。25年か らは金属労働組合 です。父 が活 動家 で したか ら,衣

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330 人 文 研 究 第 91

庭 で労働組合 に加入す るように教育 されてい ました。私 の妻 は,結婚前 は従 姉妹 の ところで働 いてい ました し,結婚後 は働 いてい ませ んか ら,組合員で

も党員で もあ りません。

労働組合 は労働者 の権利 を守 って くれ ますか ら,実際 あ りがたかった もの です。第 2 次世界大戦後,突然解雇 された時 に,私 は労働裁判所 に提訴 し, 労働組合が この裁判 の面倒 をみて くれ ました。 その結果,未払 いの賃金 と 7

日分 の有給休暇分 の賃金 を貰 えました。

労働組合 で は特別 な活動 は しませ んで したが,第 2 次世界大戦後, AEG 社 で工場委員会 の委員 になった ことはあ ります。党 で も役職 にはつ きませ ん

で した。昔 は選挙 が あ る と,私 た ち若者 が,投票 してい ない人 の ところへ 行 って,投 票 に行 くよ うに頼 んで 回った ものですが, その程度 の活動 で し

た。

当 時,父 が読 ん で い た新 聞 は 「 民 衆 の友」で した。 この新 聞 は,私 も

1 9 3 3 年 に廃刊 され るまで読 んでい ました。 その他 に は労働 組合 の機 関紙 な ども読 んでい ました。

父 が尊敬 し,影響 を受 けた人物 として は, ア ウグ ス ト・ベ‑ベ ル, ヤス パ ー, ヴェ‑ゼマイア‑ を挙 げてお きます。特 に父がベ‑ベルの ことを褒 め て,盛 んに彼 の ことを話 していた ことを覚 えてい ます。 ブラウンシュヴ ァイ クの人物 で は,ア ウグス ト・ユ ンケを挙 げますが,父 は彼 とは表面的に面識 が あった程 度 で した。 ブ ラウ ンシュヴァイ クの党支部 長 だ った エル ヴィン

は,両親 と親 しい労働者仲間で した。

ll.祝 い事 ・余 暇

私 の両親 の家庭 で は,誕生 日 と復活祭, ク リスマ ス,年越 しを祝 い まし た。待 降節 (:ク リスマス前 の 4 週間)や聖霊降臨祭 (:復活祭後 5 0 日目 か らの . 8 日間) は私 たちに とっては宗教 的な意味 は何 もあ りませんで した。

年越 しには新年 にか けて夜 どお し起 きていた ものです。当時 は,夏至祭 りの

習慣 はあ りませ んで した。待 降節 には, 山か らク リスマス ツ リー用 の木 を

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日常生活史 ‑ A 氏 の場合 331 持 って きて, それ を売 って,お金 を稼 ぎました。

私 の家 では,誕生 日,復活祭,聖霊降臨祭 にはケーキが焼 かれ, コー ヒー を飲 んで祝 い ました。私た ちの結婚式 の祝 い も盛大 で素晴 らしか った もので す。で もそれ は何度 もす る もので はあ りません。

労働組合や党が主催す るメーデーのお祭 りには行 きました。 メーデーの集 会 は,第 1 次世界大戦前か らあったのですが,当時 は迫害 されてい ましたか ら,秘密集会 で した。第 1 次世界大戦後,団体 ごとに大々的 にメーデーの集 会や行進 をしましたが, その後 またふたたび中止 しなければな らな くな りま

した。 そ して, ヒッ トラーがメーデー を祭 日に したのですが, そ こで はみん なが望 む と望 まないにかかわ らず,行進 しなけれ ばな らなか ったのです 。

私たちが小 さかった時 は,両親 だ けが労働組合や党 の祭 に行 きました。 そ こでダ ンスを踊 った りしたのです。少 し大 き くなる と,一緒 に連れていって もらい ました。郊外 のエルパ ー門 で開かれ る この祭 りは,私 た ちの家族 に とって楽 しい催 し物 だった と言 えるで しょう 。 私たち子供 も大人 と一緒 に踊 ろうとしました。第 1 次世界大戦前 は, メーデー は祭 りではあ りませ んで し た。社民党が禁止 されていた時 は,男たちだ けが職場 ごとに森へ遠足 をし, そ こで会議 を開いたのです。

私 たちの両親 は子供 をつれてよ く近郊 の森へ出か けました。ケ‑ゲルの玉 も持 っていって遊 び ました。当時,私 た ち は中州 に住 んで い ま したが, ク ヴェルマ‑の森や クヴェルマ一 ・ホ) t 'ツが 目的地で した。ニ シン漬 けや ソー セージな どの家 にあるか ぎ りの食料 をみんな持 って, ピクニ ックを して,晩 の 7 時か 7 時半 に家 に帰 って きました。季節 はアスパ ラガスが 出 る頃 で し た。 5 月頃です。 その当時の缶詰工場 で は, アスパ ラガスの皮 むきをす る女 のひ とた ちの仕事 が終 わ る と, それ ぞれ の工場 が催 す アスパ ラガ ス ・パ ー テ ィが あ りました。 その仕事 についてい る奥 さんたちの夫 も招 かれて, そ こ で はすて きに陽気 なワルツを踊 った り, ワイ ンもた くさん飲 んだ とい うこと です 。

子供 の頃 は,復活祭 とク リスマスが もっ とも楽 しみで した。復活祭 とク リ

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スマス にはプ レゼ ン トを貰 い ました し,誕生 日には子供 たちは銅貨 をい くつ か もらえた のです。 それだ けで も大喜 びだ った ものです。 当時 は,今 の よう な大 きなプ レゼ ン トはで きませ んで したか ら 。

大人 になってか らはダ ンス を踊 りに行 くのが大好 きで した。結婚後 もよ く 踊 りに行 った ものですが,今 で もまだで きるか ぎ り行 きます。昔 は例 えばコ

ンサー ト ・ハ ウスや郊外 のカール通 り,エルパ ーや郊外 の レー ン ドル フの公 共 のダ ンスホールで, いつ も土曜 日にダ ンス ・パー テ ィー あ りました。結婚 前 は 1 人 で行 った り, あ るい は娘 さん を連 れ て行 き,終 わ る と作法通 りに, 家 に送 ってい きました。

それか ら昔 はブロイツェムや リュニ ンゲ ンや リュ‑ム な どの在 へ まで も踊 りに行 き ま した。エルパ ーの 「 森 の家」 で のダ ンス はいつ も素敵 で した か ら,好 きで した。 ブラウンシュヴ ァイクの コンサー ト ・ハ ウス に大 きなダ ン スホールが 2 つあ ります。 それか ら 「ホ‑ フイ ェ‑ガ‑」 と 「ゾルバ ー」 も 大 きなダ ンス ホール で す。 「ゾルバ ー」 は もうあ りませ ん。 「コ ンツェル ト バ ー ン」 には裕福 な人 た ちが集 まるので, そ こで人 に見 られ るのがいやだ っ た ことを覚 えてい ます。

2 0 年代 には私 た ち はよ く飲 み にでか け ま したが,父 は,金 が なか ったか ら居酒屋で酒 を飲 む とい うこ とはなか った と思 い ます。母 の工場 のアスパ ラ ガス ・パ ーテ ィがせ いぜ いの楽 しみだ ったので し ょう

私 たちの結婚 当初 は, いつ も妻 の従姉妹 の 「アル ト ・ハ イデルベル ク」 に 行 きました。 「アル ト ・ハ イデルベル ク」 は,店 の奥 にケ‑ゲル場 はあ りま したが, レス トラ ンだ けで, ダ ンスはで きませ んで した。 それで その後 は,

「ブ リュこ ング ・ザール ブ ロイ」や, 日曜 日には映画 に も行 きま した。 キ ャ バ レーの 「ブル ク ・リンデ」 に も行 った もので す。今, 「シュタ ッ ト ・ブ ラ ウンシュヴ ァイク」 が建 ってい る ところにあ りました。 ここは, ジンタカ音 楽 や踊 りの あ るダ ンス ホール で,少 し低 級 で した. ダム のパ サー ジュに は

「ダム ・バ ラス ト

が あ りましたが, これ も少 し低級 なダ ンス ホールで した。

「カ フェ ・マル クアル ト」や 「カ フェ ・ワグナー」 に も行 き ま したが, これ

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日常生活史 ‑ A 氏 の場合

は普通のカフェーです。

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参照

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