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一公羊伝の書法解釈例
①隠公元年︑春︑王正月︑
昌為先言王而後言正月︑王正月也︑何言乎王正月︑大一統也︑
何故に先ず王と言ってその後に正月と言うのか︒王の正月であ
る︒何故に王の正月と言うのか︒一統を重大なることとなすの
である︒
右は春秋の開巻第一章の公羊伝であって︑﹁王正月﹂という春秋の書
法を解釈してその意義を述べ︑一統の王法を尊ぶ春秋の義を唱えたも
のである︒これは公羊伝の作伝者の春秋解釈であるが︑このように春
秋の書法に独自の解釈を加えることによってその主張を述べるのが︑
公羊伝を一貫する態度である︒
②桓公十有五年︑五月︑鄭世子忽復帰子鄭︑
局為或言帰︑或言復帰︑復帰者︑出悪︑帰無悪︑復入者︑出無悪︑
入有悪︑入者︑出入悪︑帰者︑出入無悪︑
何故﹁帰﹂と言ったり﹁復帰﹂と言ったりするのか︒﹁復帰﹂
とは出るのは悪く︑帰るのに悪いことはない︒﹁復入﹂とは出 本論集の前号︵第一集︑一九六三年︶に︑春秋の書法を解釈する上 からの三伝の特色について論考を発表した︒然しそこでは﹁不書﹂と ﹁主書﹂という特殊な二書法の解釈についての考究が中心になり︑そ の他の一§般的な書法の解釈についての説明が十分でなかった︒そこで 今回はこの部分について補述する︒ 春秋三伝研究
るのに悪いことはなく︑入るのには悪いことがある︒﹁入﹂とは
出入ともに悪く︑﹁帰﹂とは出入ともに悪いことはない︒
右は或る事情で一時国を離れていて再び帰国した場合に︑春秋ではそ
の帰国のことを記すのに書法が異なるので︑それぞれの意義を解した
ものである︒内容を説明すると左のとおりである︒
㈹復帰と記した場合︵ここの鄭忽の例︶は︑出国したのが悪くて︑
帰国には悪いことのないのを示す︒
㈲復入と記した場合︵成公十有八年︑夏︑宋魚石復入干彰城︑の例︶
は︑出国には悪いことはなく入国には悪いことがあるのを示す︒
例入と記した場合︵桓公十有五年︑秋︑九月鄭伯突入干櫟︑の例︶
は︑出国入国ともに悪いことを示す︒
目帰と記した場合︵僖公三十年︑秋︑衛侯鄭帰干衛︑の例︶は︑出
国入国ともに悪いことのないのを示す︒
このように書法を厳密に説くのは︑それによって春秋に記されている
ことの意義を明らかにしようとするに他ならない︒君位継承やその他
種々の紛争をめぐって︑慕奪や出奔や入国などが繰り返えされている
ことについて︑公羊伝の独自の批判が春秋の書法の解釈を通じてなさ
れているのである︒﹁乱世を治めてこれを正しきにかえす﹂︵哀公十
四年公羊伝︶のが春秋の目的だとなす公羊伝の立場からの論議だと言
うべきである︒
⑧荘公十年︑二月︑公侵宋︑
島為或言侵︑或言伐︑輔者日侵︑精者日伐︑戦不言伐︑園不言戦︑
一一
山田琢
203
春秋三伝研究︵山田琢︶
入不言園︑減不言入︑書其重者也︑
何故に﹁侵﹂と言ったり或は﹁伐﹂と言ったりするのか︒
心の用い方が粗なる場合は﹁侵﹂と言い︑心の用い方が密な
る場合は﹁伐﹂と言う︒﹁戦﹂と言った場合には更に﹁伐﹂
とは言わない︒﹁幽﹂と言った場合には更に﹁戦﹂とは言わ
ない︒﹁入﹂と言った場合には更に園とは言わない︒﹁減﹂
といった場合には更に﹁入﹂とは言わない︒何れもその甚だ
しいものを記すのである︒
右は春秋の戦伐の記述についての書法を解釈してその意義を述べたも
のである︒内容を更に説明しよう︒
伽侵と記した場合︵ここの例︶は︑国境線まで兵を出して深入りし
なかったことを示す︒
伺伐と記した場合︵隠公四年︑春︑王二月︑筥人伐杷︑取牟婁︑の
例︶は︑国境線を越えて深く入ったことを示す︒
例戦と記した場合には更に伐と記さない︒︵桓公十年︑冬︑十有二
月︑丙午︑斉侯衛俟鄭伯来戦干鄭︑の例︒若し桓公十有二年︑十
有二月︑及鄭師伐宋︑︑丁未︑戦干宋︑のように戦と伐とを併せ記
した場合は︑別に意義があるわけである︒︶
㈲園と記した場合には更に戦と記さない︒︵宣公十有二年︑春︑楚
子園鄭︑の例︶
㈱入と記した場合には更に園と記さない︒︵僖公二十有八年︑三月
丙午︑晋侯入曹︑執曹伯︑昇宋人︑の例︶.
例滅と記した場合には更に入と記さない︒︵襄公六年︑十有二月︑
斉侯滅莱︑の例︶
このように戦伐についての春秋の書法を厳密に解するのは︑戦伐の
一一一罪過を重視しているからだと言うべきである︒﹁書其重者也﹂と言っ
ているのによってそのことがわかる︒それについては﹁宣公十年︑
冬︑磯︑﹂の公羊伝に﹁何以書︑以重書也︑﹂と言っていることを参
照しなければならない︒この重は禍害の重いことを意味している︒そ
こで戦伐のことにもどって︑公羊伝の言うところに従って試みにその
罪過の重いものからあげると︑減︵国を減す︶︑入︵城郭に入る︶︑
剛︵兵をめぐらして開む︶︑戦︵兵刃を交え戦う︶︑伐︵国境線を越
えて深く入る︶︑侵︵国境線まで兵を出す︶の順序になる︒公羊伝は
戦伐の罪過の軽重をこのように差別していると言うべきである︒
また公羊伝では﹁春秋伐者為客︑伐者為主︑﹂︵荘公二十八年伝︶
とも言う︒この伝意は︑春秋においては戦をしかけて他国を伐ったも
のは客鵠の扱いを受け︑伐たれたものが主篭の扱いを受けるというの
である︒例えば荘公二十八年の﹁斉人伐衛︑衛人及斉人戦︑﹂の書法 をみると︑﹁斉人伐衛﹂によってわかるように︑戦をしかけたものは
斉である︒ところが﹁衛人及斉人戦﹂という書法をみると︑伐った斉
が伐たれた衛の下に記されていて︑客鵲の扱いをされているというの
である︒ここには戦伐の挑発者に対する批判がなされている︒前の侵
伐等の解釈と併せてみて︑公羊伝の戦争に対する考え方を知ることが
できる︒ 側隠公三年︑三月︑庚戌︑天王崩︑
局為或言崩︑或言莞︑天子日崩︑諸侯日莞︑大夫日卒︑士日不
禄︑
何故に或は崩と言ったり或は莞と言ったりするのか︒天子には
崩と日い︑諸侯には莞と日い︑大夫には卒と日い︑士には不禄
と日う︒
右は死去についての春秋の書法を解釈したものである︒身分の差によ
202
って書法の異なること言うのであるが︑その基本には正名という考え
方がある︒なお公羊伝ではまた﹁春秋貴賎不嫌︑同号︑美悪不嫌︑同
辞︑﹂︵隠公七年伝︶とも言う︒この伝意は次のとおりである︒春秋
では身分の貴賎の別がまぎらわしくなければ名号を同じくする︒例え
ば滕の本来の爵は子であるが︑隠公七年では﹁勝侯卒﹂と記されてい
て︑斉などの侯爵と名号を同じくしている︒然しその勝侯の名前を記
さないことによって実は微国であることがわかり︑また桓公二年では
﹁滕子来朝﹂と記してあることによって︑その本来の爵は子であるこ
とがわかり︑その貴賎の別にまぎらわしさはないから︑名号を同じく
してあるというのである︒また春秋では事柄の美悪がまぎらわしくな
ければ書法を同じくする︒例えば﹁荘公十有二年︑冬︑十月︑宋万出
奔陳︑﹂と﹁荘公二十有四年︑冬︑戎侵曹︑曹驫出奔陳︑﹂とをみる
と︑ともに出奔と記されていて︑文辞︵書法︶を同じくしている︒そ
うすると宋万と曹蕊との行跡は似ているもののようにみえる︒然し宋
万は﹁宋万試其君接﹂と記されていることによって︑試君の悪人であ
ることは明らかである︒これに対して曹蕊は︑曹という小国ながら蕊
というその名前を記して︑大国の大夫なみの書法で記されている︒元
来春秋では小国には大夫のあることを認めないのであって︑この書法
によって彼の賢人であることがわかる︒そこで宋万と曹罵との両人に
ついて同じく出奔という書法を用いても︑その行跡の美悪はまぎらわ
しくないから︑同じ書法にしてあるというのである︒隠公七年の伝意
は上のとおりであるが︑このことはまたまぎらわしいことはその嫌疑
を明らかにするということでもある︒ここにも公羊伝の正名思想を知
ることができる︒
右に数例をあげて説明したように︑春秋の書法に独自の解釈を加え
春秋三伝研究︵山田琢︶ さて次には︑これまでの諸例とやや異なった形式で類似のことを述 べる例があるので︑それを採り上げよう︒ ⑤春秋不待艇絶而罪悪見者︑不瞳絶以見罪悪也︑艇絶然後罪悪見者︑
艇絶以見罪悪也︑︵昭公元年伝︶
春秋は艇絶を待たないでその罪悪のあらわれるものは︑賎絶しな
いでそのまま罪悪をあらわす︒艇絶して始めて罪悪のあらわれる
ものは︑艇絶して罪悪をあらわす︒
⑥春秋君試賊不討︑不書葬︑以為無臣子也︑︵隠公十一年伝︶
春秋は君侯が試せられて賊がまだ討たれなければ︑その君侯の葬
は記さない︒臣子なしとなすのである︒
例春秋君試︑子不言即位︑︵荘公元年伝︶
春秋は君侯が試せられた場合は︑その嗣子には即位を記さない︒
右の⑤⑥例の三例をみると︑何れも﹁春秋云々﹂という形式で春秋の
書法を解釈している︒先ずそれぞれの意味を説明しよう︒⑤の艇絶の
瞳とは︑艇去躍損の意味である︒例えば春秋昭公八年をみると﹁陳侯
之弟招殺陳世子堰師﹂と記されている︒招は世子を殺した悪人である
から弟と称すべきではない︒昭公元年の場合のように﹁陳公子招﹂と
記すべきである︒然るにここには弟と称して親愛を示す書法がなされ
ているのは︑招の試逆の罪悪は親縁関係でありながら殺したというこ
とでいよいよ甚しいことになるから︑弟ということを賤去しないでそ
のまま記した︒このように碇去しないで罪悪のあらわれるものは︑艇
去しないでそのまま記して罪悪をあらわすというのである︒なお瞳絶
一一一一
て託せられた意義を明らかにして︑そしてそれを春秋の義として唱え るのが公羊伝を一貫する態度である︒
−
201
春秋三伝研究︵山田琢︶
の絶とは︑桓公六年の﹁陳佗﹂の例の如く︑罪悪によってその国を断
絶するということである︒次に艇絶して始めて罪悪のあらわれるもの
は艇絶して罪悪をあらわすというのは︑例えば宣公十一年の﹁楚人殺
陳夏徴笥﹂をみると︑楚の君侯であるのに楚子と称せず楚人と記して
あるが︑これは他国を伐った罪悪をあらわすために特に艇損したので
ある︒このように艇絶して罪悪のあらわれるものは︑吃絶して罪悪を
あらわすというのである︒このような公羊伝の賤絶の論議について
は︑別に詳説しなければならないが本篇では省略する︒次に⑥何の意
味を説明しよう︒春秋隠公十一年には﹁公莞﹂と記されているが︑然
し他公の場合例えば﹁葬我君荘公﹂の例のように︑﹁葬我君隠公﹂と
いうことが記されていない︒それは隠公は試せられ︑そしてその試し
た賊はまだ討たれていないから﹁葬﹂と記さなかったのであって︑こ
の書法によって臣子たるものは直ちに試君の賊を討つべきであること
を示したというのが⑥の意味である︒mは︑試せられた君侯に嗣いで
君位に即くものは︑先君の死を痛んでその即位を記さないというので
ある︒ さて上の⑤⑥例の三例が︑それぞれ春秋の書法を解釈して託せられ
た意義を明らかにしていることは︑既に述べた⑩l側の諸例と同様で
ある︒ただ﹁春秋云々﹂という形式をとっていることが異なる︒春秋
全般の通則という形式で示されているのである︒然し⑩I側の諸例も
やはり春秋全般に適用されるべき通則であることは同じである︒この
ように同様のことが異なった形式で述べられているのは︑この両種の
伝文の作られた時期の相違によるのではないかと思う︒公羊伝はその
全伝文が或る一時期に一人の手で作られたものではなく︑その間には
時代的先後が認められるが︑これもそのことを推知し得る一つの材料
一四である︒﹁春秋云々﹂の形式のものが︑時代的には後代に属するので
はなかろうか︒なお公羊伝の成りたちについては更に詳説を要するの
で︑本篇ではこれ以上に述べない︒
公羊伝ではなお﹁春秋云々﹂の形式の伝文があるので続いてあげよ
ア︑ノ○
⑧春秋伐者為客︑伐者為主︑︵荘公二十八︑僖公十八年伝︶
側春秋貴賎不嫌︑同号︑美悪不嫌︑同辞︑︵隠公七年伝︶
右の二例の意味は前の③側の中で説明した︒
⑩春秋為尊者韓︑為親者諄︑為賢者諄︑︵閏公元年伝︶
⑪春秋為賢者諄︑︵荘公四︑僖公十七︑同二十八︑昭公二十年伝︶
⑫春秋賢者不名︑︵襄公二十九年伝︶
右の例における諄とは︑悪を諄むことである︒この諄ということは三
伝に通じてみられ︑その全般にわたっては別に詳説しなければならな
いがここでの意味は次のとおりである︒⑩は︑春秋は尊者と親者と賢
者とのためにその悪を謹んで直書しないというのである︒⑪は賢者に
ついてだけ言われている︒然しその悪を蘆したり看過したりするので
はなくて︑その悪はやはり悪となすのである︒ただ尊親賢三者のため
にその悪を惜しむという特殊な感情が作用して︑その悪を謹んであら
わには記さないというのである︒尊親賢三者の中でも主眼は賢者にあ
る︒⑫は︑賢者は敬って名を言わないというのである︒賢者を敬うこ
とは儒家の伝統思想であろう︒
⑬春秋内其国而外諸夏︑内諸夏而外夷狄︑︵成公十五年伝︶
⑭春秋録内而略外︑於外大悪書︑小悪不害︑於内大悪諄︑小悪書︑
︵隠公十年伝︶
右の二例中の⑬における﹁其国﹂とは魯を指す︒春秋では魯と諸夏と
夷狄との三者の取り扱いが異なり︑またその書法も異なることを言
200
うのである︒近きより遠きに及ぼし︑魯において最も手厚く夷狄に最
も疏略である︒なおこの卿は︑後代の公羊学では三科九旨中の第三科
三旨とされている︒つまり魯と諸夏と夷狄との三者の関係を一科三旨
としているのである︒次に側における﹁内﹂とは魯を指し︑﹁外﹂
とは魯以外の国を指す︒春秋は魯については精しく記し︑外国につい ては疏略にする︒そこで外国については大悪事は記すが小悪事は記さ
ない︒魯については大悪事は諄み︑小悪事は謹むにも及ばないので詳
しく記すというのである︒内外の別による書法の相違を言ったもので
ある︒この⑬⑭の二例は︑魯を中心とする春秋の特殊な書法について ある︒この⑬側の二例は︑魯を中心とする春軸
言っている︒
⑮春秋敵者言戦︑︵荘公三十年伝︶
右は春秋で﹁戦﹂と記されているのは︑双方︵
合であることを言う︒この解釈は前の③の侵坐
った方面から言われている︒
㈹春秋辞繁而不殺者正也︑︵僖公二十二年伝︶
右は︑例えば﹁僖公二十有二年︑冬︑十有一月︑己已︑朔︑宋公及楚
人戦干泓︑﹂の如く︑時月日等の辞︵書法︶が詳しくて鉄けるところ
のないのは︑その事柄が正道を得ていることを示すというのである︒
これは直接には宋の襄公について言われたものであるが﹁春秋云々﹂
という形式で春秋の通則として言われている︒
⑰春秋見者不復見也︑︵哀公三年伝︶
右は春秋において或ることの意義を示すのに︑その意義を託す事例が あればそこで示し︑他において特に示さないというのである︒例えば
哀公三年の﹁桓宮僖宮災﹂という書法をみると︑桓宮と僖宮とは毅廟
であるから火災がおこる筈はない︒そうすると哀公が桓宮と僖宮とを
再び立てたことがわかる︒そのことをこの﹁桓宮僖宮災﹂という書法
春秋三伝研究︵山田琢︶ ︵荘公三十年伝︶ と記されているのは︑双方の勢力が比敵している場 う︒この解釈は前の③の侵伐等の解釈とはまた異な で謡っているのである︒そして桓宮と僖宮とを立てたことは別に記さ なかったのは︑ここだけで譲る意は示されているからであって︑一個 所で示せばよいというのである︒ ⑱春秋錐無事︑首時過則書︑︵隠公六年伝︶ ⑲春秋不書晦也︑︵僖公十六伝︶ 右の二例中の㈱は︑例えば春秋の﹁隠公六年︑秋︑七月︑﹂という書 法の如く︑記述すべき事柄はなくても︑春夏秋冬の四時の始めがめぐ ってくればその始めを記すというのである︒それは公羊伝の言うころ によれば﹁春秋編年︑四時具然後為年︑﹂︵隠公六年伝︶という理由 によるのである︒⑲は春秋には朔は記すが晦は記さないということで ある︒ さて公羊伝で﹁春秋云盈﹂の形式で春秋の書法を解釈する例は︑ほ ぼ上にあげた諸例につきる︒ここで公羊伝についての説明を止めて︑ 次には穀梁伝にうつろう︒
二穀梁伝の書法解釈例
①僖公二十有八年︑六月︑衛侯鄭自楚復帰干衛︑
復者︑復中国也︑帰者︑帰其所也︑
復とは中国に復るのである︒帰とはその所に帰るのである︒
右は復帰という春秋の書法を解したものである︒春秋の書法に独自の
解釈を加えることによって春秋に記されていることの意義を明らかに
し︑そしてそれを春秋の義として唱えるのは︑穀梁伝を一貫する基本
的態度であり︑その点で公羊伝と全く同じである︒このことは公羊穀
梁二伝が︑春秋の学問の上で同じ系統に属するものであることを示し
ていると言うべきであって︑公羊穀梁二伝の性質を知るについて重要
一五
ー
199
人民をいけどり牛馬をかりたてるのを侵と日い︑樹木を斬り宮
室も壊するを伐と日う︒
右は春秋の侵伐の書法を解したものであり︑前の公羊伝の⑧と比べて
みると解釈されている内容はやや異なるが︑書法を解釈することによ
ってその意義を述べる基本的態度は同じである︒
なおまた穀梁伝では﹁伐国不言園邑︑挙重也︑﹂︵襄公十二年伝︶
と言い︑或はまた﹁伐国不言園邑﹂︵僖公六年︑同二十三年︑同一一十
六年伝︶﹁非国不言園﹂︵昭公二十六年伝︶とも言う︒これらも前の
公羊伝の③の解釈例と類似している︒ただ公羊伝では総括的に述べら
れているのが異なる︒
⑧隠公三年︑三月︑庚戌︑天王崩︑
い︒②隠公五年︑冬︑十有二月︑宋人伐鄭︑園長葛︑
苞人民︑殴牛馬︑日侵︑斬樹木︑壊宮室︑日伐︑ 春秋三伝研究︵山田琢︶
なことである︒
然しこの復帰という書法の解釈を︑公羊伝のそれと比べてみると︑
相違する点もまたある︒公羊伝ではその②で説明したように﹁復帰﹂
﹁復入﹂﹁入﹂﹁帰﹂などを併せて総括的に解釈しているが︑穀梁伝
では個別的な書法として扱っている︒このような相違はここだけでは
なく全般にわたってみられることであって︑穀梁伝の書法解釈は公羊
伝に比べて個別的に多様である︒
なおまた穀梁伝では﹁大夫出奔反︑以好日帰︑以悪日入︑﹂︵大夫
が出奔してまた国に反った場合に︑その事が好かつたら帰と日い︑悪
かったら入と日う︶︵荘公九年伝︶とも言う︒これは﹁帰﹂と﹁入﹂
との書法を解釈してやや総括的であるが︑やはり公羊伝ほどではな
例春秋不以嫌代嫌︑︵昭公十三年伝︶
⑤春秋成人之美︑不成人之悪︑︵隠公元年伝︶
⑥春秋貴義而不貴恵︑信道而不信邪︑︵隠公元年伝︶
例春秋著以伝著︑疑以伝疑︑︵荘公七年伝︶
⑧春秋有三盗︑微殺大夫︑謂之盗︑非所取而取之︑謂之盗︑辞中国之
正道以襲利︑謂之盗︑︵哀公四年伝︶
⑨春秋有臨天下之言焉︑有臨一国之言焉︑有臨一家之言焉︑︵哀公七
年伝︶
右の諸例について先ずそれぞれの意味を説明しよう︒その㈱は︑昭公
十三年の﹁楚公子棄疾殺公子比﹂という書法について言われたもので
ある︒これについては同年の﹁楚公子比自晋帰干楚︑試其君戻干乾
一一ハ高日崩︑厚日崩︑尊日崩︑
高いものに崩と日い︑厚いものに崩と日い︑尊いものに崩と日
﹂声︑ノ◎
右は春秋の崩という書法を解したものである︒更に説明すると︑﹁成
公五年︑夏︑梁山崩︑﹂における梁山︑﹁僖公十有四年︑秋︑八月︑
辛卯︑沙鹿崩︑﹂における沙山の麓などのように︑高いもの厚いもの
について崩と日い︑また天子の尊位についても崩と日うとなすのであ
る︒前の公羊伝の㈱の解釈と比べてみると︑解釈された内容は異なる
が︑書法を解釈することによってその意義を明らかにするという方法
は同じである︒
上に数例をあげて説明したが︑春秋の書法解釈において穀梁伝は公
羊伝と同様の方法をとっているのである︒更にまた穀梁伝には﹁春秋
云々﹂という形式のものもみられるので︑次にその例をあげよう︒
198
渓︑﹂という春秋の記述と併せて考えなければならない︒この記述に
よると︑公子比はその君を試したとされているのであるから︑試君の
嫌疑がある︒ところが穀梁伝は︑公子比はたまたま試君の事件に遭遇
しただけであって︑公子比には試君の嫌疑はないとするのである︒穀
梁伝はつとめて公子比を辨護している︒然し公子棄疾が比を殺したの
は︑比に嫌疑ありとして殺したのである︒そして自分は自立したので
あるが︑そうすると棄疾にもまた当然墓奪の嫌疑がある︒嫌疑ある者
が嫌疑ある者に代るということは︑春秋の許すところではない︒そこ
で﹁楚公子棄疾殺公子比﹂と記したのであって︑若し嫌疑ある者が嫌
疑ある者に代ることを認めるならば﹁楚棄疾殺公子比﹂と書いて︑棄
疾に国を冠する書法をなすべきである︒㈱の意味は上のとおりであ
るが︑嫌疑をわかつ正名思想に基づいている︒同様のことは公羊伝の
㈱でもみられた︒
次に⑤と⑥とは魯の隠公のことに関連して言われたものである︒隠
公の譲位については穀梁伝に独自の論議がみられるが︑このことにつ
いては﹁春秋学の展開﹂︵東洋文化︑復刊第八号第九号︑昭三九年︑
無窮会︶という卑稿で述べたので︑ここでは省略する︒
次に側は荘公七年の﹁夏︑四月︑辛卯︑昔︑恒星不見︑夜中星限如
雨︑﹂について言われたものである︒﹁夜中﹂とは夜の真中の時刻で
あり︑一瞬時にも及ばない時間である︒何故にそのような﹁夜中﹂で
あることがわかったのかというと︑漏刻の実測にあらわれたとおりを
記したというのである︒実測による顕著な事実を伝えたとい意味であ
る︒桓公五年伝には﹁春秋之義︑信以伝信︑疑以伝疑︑﹂と言うのも
同意である︒
また次の⑧は︑﹁盗﹂という春秋の書法に三様のあることを言った
春秋三伝研究︵山田琢︶ ものである︒すなわち﹁盗殺陳夏区夫﹂︵哀公十三年︶︑﹁盗窺宝玉 大弓﹂︵定公八年︶︑﹁盗殺察侯申﹂︵哀公四年︶の三書法である︒
最後の⑨は︑春秋には天下︵王者︶の立場からの立言︵例えば僖公
二十八年の﹁天王守子河陽﹂の例︶︑また一国︵諸侯︶の立場からの
立言︵例えば昭公二十六年の﹁公至自斉︑居干郭︑﹂の例︶︑及び一
家︵大夫︶の立場からの立言︵例えば文公元年の大夫の﹁毛伯﹂のよ
うに采邑の毛を冠する例︶があることを言う︒
穀梁伝で﹁春秋云々﹂の形式で書法を解釈している例は上の数例で
あるが︑この書法解釈の方法もまた公羊伝と同じである︒さてこれま
でには公羊穀梁二伝について述べてきたが︑次には左氏伝について考
えてみよう︒
三左氏伝の書法解釈例
左氏伝では﹁凡云々﹂という形式で春秋の通則を述べている例が五
十条あって︑左氏伝の凡例或は五十凡などと呼ばれている︒これは左
氏伝の書法解釈例と言うべきである︒そこで五十凡について考察を加
えてみよう︒
①凡去其国︑国逆而立之日入︑復其位日復帰︑諸侯納之日帰︑以悪日
復入︑︵成公十八年伝︶
②凡師有鐘鼓日伐︑無日侵︑軽日襲︑︵荘公二十九年伝︶
⑧凡師敵未陳︑日敗其師︑皆陳日戦︑大崩日敗續︑得鰐日克︑覆而敗
之︑日取某師︑京師敗︑日王師敗續干某︑︵荘公十一年伝︶
側凡勝国︑日滅之︑獲大城焉︑日入之︑︵文公十五年伝︶
⑤凡克邑︑不用師徒︑日取︑︵昭公四年伝︶
⑥凡書取︑言易也︑用大師焉︑日滅︑弗地日入︑︵襄公十三年伝︶
一七
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