• 検索結果がありません。

山田琢山田琢

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "山田琢山田琢"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

204

一公羊伝の書法解釈例

①隠公元年︑春︑王正月︑

昌為先言王而後言正月︑王正月也︑何言乎王正月︑大一統也︑

何故に先ず王と言ってその後に正月と言うのか︒王の正月であ

る︒何故に王の正月と言うのか︒一統を重大なることとなすの

である︒

右は春秋の開巻第一章の公羊伝であって︑﹁王正月﹂という春秋の書

法を解釈してその意義を述べ︑一統の王法を尊ぶ春秋の義を唱えたも

のである︒これは公羊伝の作伝者の春秋解釈であるが︑このように春

秋の書法に独自の解釈を加えることによってその主張を述べるのが︑

公羊伝を一貫する態度である︒

②桓公十有五年︑五月︑鄭世子忽復帰子鄭︑

局為或言帰︑或言復帰︑復帰者︑出悪︑帰無悪︑復入者︑出無悪︑

入有悪︑入者︑出入悪︑帰者︑出入無悪︑

何故﹁帰﹂と言ったり﹁復帰﹂と言ったりするのか︒﹁復帰﹂

とは出るのは悪く︑帰るのに悪いことはない︒﹁復入﹂とは出 本論集の前号︵第一集︑一九六三年︶に︑春秋の書法を解釈する上 からの三伝の特色について論考を発表した︒然しそこでは﹁不書﹂と ﹁主書﹂という特殊な二書法の解釈についての考究が中心になり︑そ の他の一§般的な書法の解釈についての説明が十分でなかった︒そこで 今回はこの部分について補述する︒ 春秋三伝研究

るのに悪いことはなく︑入るのには悪いことがある︒﹁入﹂とは

出入ともに悪く︑﹁帰﹂とは出入ともに悪いことはない︒

右は或る事情で一時国を離れていて再び帰国した場合に︑春秋ではそ

の帰国のことを記すのに書法が異なるので︑それぞれの意義を解した

ものである︒内容を説明すると左のとおりである︒

㈹復帰と記した場合︵ここの鄭忽の例︶は︑出国したのが悪くて︑

帰国には悪いことのないのを示す︒

㈲復入と記した場合︵成公十有八年︑夏︑宋魚石復入干彰城︑の例︶

は︑出国には悪いことはなく入国には悪いことがあるのを示す︒

例入と記した場合︵桓公十有五年︑秋︑九月鄭伯突入干櫟︑の例︶

は︑出国入国ともに悪いことを示す︒

目帰と記した場合︵僖公三十年︑秋︑衛侯鄭帰干衛︑の例︶は︑出

国入国ともに悪いことのないのを示す︒

このように書法を厳密に説くのは︑それによって春秋に記されている

ことの意義を明らかにしようとするに他ならない︒君位継承やその他

種々の紛争をめぐって︑慕奪や出奔や入国などが繰り返えされている

ことについて︑公羊伝の独自の批判が春秋の書法の解釈を通じてなさ

れているのである︒﹁乱世を治めてこれを正しきにかえす﹂︵哀公十

四年公羊伝︶のが春秋の目的だとなす公羊伝の立場からの論議だと言

うべきである︒

⑧荘公十年︑二月︑公侵宋︑

島為或言侵︑或言伐︑輔者日侵︑精者日伐︑戦不言伐︑園不言戦︑

一一

山田琢

(2)

203

春秋三伝研究︵山田琢︶

入不言園︑減不言入︑書其重者也︑

何故に﹁侵﹂と言ったり或は﹁伐﹂と言ったりするのか︒

心の用い方が粗なる場合は﹁侵﹂と言い︑心の用い方が密な

る場合は﹁伐﹂と言う︒﹁戦﹂と言った場合には更に﹁伐﹂

とは言わない︒﹁幽﹂と言った場合には更に﹁戦﹂とは言わ

ない︒﹁入﹂と言った場合には更に園とは言わない︒﹁減﹂

といった場合には更に﹁入﹂とは言わない︒何れもその甚だ

しいものを記すのである︒

右は春秋の戦伐の記述についての書法を解釈してその意義を述べたも

のである︒内容を更に説明しよう︒

伽侵と記した場合︵ここの例︶は︑国境線まで兵を出して深入りし

なかったことを示す︒

伺伐と記した場合︵隠公四年︑春︑王二月︑筥人伐杷︑取牟婁︑の

例︶は︑国境線を越えて深く入ったことを示す︒

例戦と記した場合には更に伐と記さない︒︵桓公十年︑冬︑十有二

月︑丙午︑斉侯衛俟鄭伯来戦干鄭︑の例︒若し桓公十有二年︑十

有二月︑及鄭師伐宋︑︑丁未︑戦干宋︑のように戦と伐とを併せ記

した場合は︑別に意義があるわけである︒︶

㈲園と記した場合には更に戦と記さない︒︵宣公十有二年︑春︑楚

子園鄭︑の例︶

㈱入と記した場合には更に園と記さない︒︵僖公二十有八年︑三月

丙午︑晋侯入曹︑執曹伯︑昇宋人︑の例︶.

例滅と記した場合には更に入と記さない︒︵襄公六年︑十有二月︑

斉侯滅莱︑の例︶

このように戦伐についての春秋の書法を厳密に解するのは︑戦伐の

一一一

罪過を重視しているからだと言うべきである︒﹁書其重者也﹂と言っ

ているのによってそのことがわかる︒それについては﹁宣公十年︑

冬︑磯︑﹂の公羊伝に﹁何以書︑以重書也︑﹂と言っていることを参

照しなければならない︒この重は禍害の重いことを意味している︒そ

こで戦伐のことにもどって︑公羊伝の言うところに従って試みにその

罪過の重いものからあげると︑減︵国を減す︶︑入︵城郭に入る︶︑

剛︵兵をめぐらして開む︶︑戦︵兵刃を交え戦う︶︑伐︵国境線を越

えて深く入る︶︑侵︵国境線まで兵を出す︶の順序になる︒公羊伝は

戦伐の罪過の軽重をこのように差別していると言うべきである︒

また公羊伝では﹁春秋伐者為客︑伐者為主︑﹂︵荘公二十八年伝︶

とも言う︒この伝意は︑春秋においては戦をしかけて他国を伐ったも

のは客鵠の扱いを受け︑伐たれたものが主篭の扱いを受けるというの

である︒例えば荘公二十八年の﹁斉人伐衛︑衛人及斉人戦︑﹂の書法 をみると︑﹁斉人伐衛﹂によってわかるように︑戦をしかけたものは

斉である︒ところが﹁衛人及斉人戦﹂という書法をみると︑伐った斉

が伐たれた衛の下に記されていて︑客鵲の扱いをされているというの

である︒ここには戦伐の挑発者に対する批判がなされている︒前の侵

伐等の解釈と併せてみて︑公羊伝の戦争に対する考え方を知ることが

できる︒ 側隠公三年︑三月︑庚戌︑天王崩︑

局為或言崩︑或言莞︑天子日崩︑諸侯日莞︑大夫日卒︑士日不

禄︑

何故に或は崩と言ったり或は莞と言ったりするのか︒天子には

崩と日い︑諸侯には莞と日い︑大夫には卒と日い︑士には不禄

と日う︒

右は死去についての春秋の書法を解釈したものである︒身分の差によ

(3)

202

って書法の異なること言うのであるが︑その基本には正名という考え

方がある︒なお公羊伝ではまた﹁春秋貴賎不嫌︑同号︑美悪不嫌︑同

辞︑﹂︵隠公七年伝︶とも言う︒この伝意は次のとおりである︒春秋

では身分の貴賎の別がまぎらわしくなければ名号を同じくする︒例え

ば滕の本来の爵は子であるが︑隠公七年では﹁勝侯卒﹂と記されてい

て︑斉などの侯爵と名号を同じくしている︒然しその勝侯の名前を記

さないことによって実は微国であることがわかり︑また桓公二年では

﹁滕子来朝﹂と記してあることによって︑その本来の爵は子であるこ

とがわかり︑その貴賎の別にまぎらわしさはないから︑名号を同じく

してあるというのである︒また春秋では事柄の美悪がまぎらわしくな

ければ書法を同じくする︒例えば﹁荘公十有二年︑冬︑十月︑宋万出

奔陳︑﹂と﹁荘公二十有四年︑冬︑戎侵曹︑曹驫出奔陳︑﹂とをみる

と︑ともに出奔と記されていて︑文辞︵書法︶を同じくしている︒そ

うすると宋万と曹蕊との行跡は似ているもののようにみえる︒然し宋

万は﹁宋万試其君接﹂と記されていることによって︑試君の悪人であ

ることは明らかである︒これに対して曹蕊は︑曹という小国ながら蕊

というその名前を記して︑大国の大夫なみの書法で記されている︒元

来春秋では小国には大夫のあることを認めないのであって︑この書法

によって彼の賢人であることがわかる︒そこで宋万と曹罵との両人に

ついて同じく出奔という書法を用いても︑その行跡の美悪はまぎらわ

しくないから︑同じ書法にしてあるというのである︒隠公七年の伝意

は上のとおりであるが︑このことはまたまぎらわしいことはその嫌疑

を明らかにするということでもある︒ここにも公羊伝の正名思想を知

ることができる︒

右に数例をあげて説明したように︑春秋の書法に独自の解釈を加え

春秋三伝研究︵山田琢︶ さて次には︑これまでの諸例とやや異なった形式で類似のことを述 べる例があるので︑それを採り上げよう︒ ⑤春秋不待艇絶而罪悪見者︑不瞳絶以見罪悪也︑艇絶然後罪悪見者︑

艇絶以見罪悪也︑︵昭公元年伝︶

春秋は艇絶を待たないでその罪悪のあらわれるものは︑賎絶しな

いでそのまま罪悪をあらわす︒艇絶して始めて罪悪のあらわれる

ものは︑艇絶して罪悪をあらわす︒

⑥春秋君試賊不討︑不書葬︑以為無臣子也︑︵隠公十一年伝︶

春秋は君侯が試せられて賊がまだ討たれなければ︑その君侯の葬

は記さない︒臣子なしとなすのである︒

例春秋君試︑子不言即位︑︵荘公元年伝︶

春秋は君侯が試せられた場合は︑その嗣子には即位を記さない︒

右の⑤⑥例の三例をみると︑何れも﹁春秋云々﹂という形式で春秋の

書法を解釈している︒先ずそれぞれの意味を説明しよう︒⑤の艇絶の

瞳とは︑艇去躍損の意味である︒例えば春秋昭公八年をみると﹁陳侯

之弟招殺陳世子堰師﹂と記されている︒招は世子を殺した悪人である

から弟と称すべきではない︒昭公元年の場合のように﹁陳公子招﹂と

記すべきである︒然るにここには弟と称して親愛を示す書法がなされ

ているのは︑招の試逆の罪悪は親縁関係でありながら殺したというこ

とでいよいよ甚しいことになるから︑弟ということを賤去しないでそ

のまま記した︒このように碇去しないで罪悪のあらわれるものは︑艇

去しないでそのまま記して罪悪をあらわすというのである︒なお瞳絶

一一一一

て託せられた意義を明らかにして︑そしてそれを春秋の義として唱え るのが公羊伝を一貫する態度である︒

(4)

201

春秋三伝研究︵山田琢︶

の絶とは︑桓公六年の﹁陳佗﹂の例の如く︑罪悪によってその国を断

絶するということである︒次に艇絶して始めて罪悪のあらわれるもの

は艇絶して罪悪をあらわすというのは︑例えば宣公十一年の﹁楚人殺

陳夏徴笥﹂をみると︑楚の君侯であるのに楚子と称せず楚人と記して

あるが︑これは他国を伐った罪悪をあらわすために特に艇損したので

ある︒このように艇絶して罪悪のあらわれるものは︑吃絶して罪悪を

あらわすというのである︒このような公羊伝の賤絶の論議について

は︑別に詳説しなければならないが本篇では省略する︒次に⑥何の意

味を説明しよう︒春秋隠公十一年には﹁公莞﹂と記されているが︑然

し他公の場合例えば﹁葬我君荘公﹂の例のように︑﹁葬我君隠公﹂と

いうことが記されていない︒それは隠公は試せられ︑そしてその試し

た賊はまだ討たれていないから﹁葬﹂と記さなかったのであって︑こ

の書法によって臣子たるものは直ちに試君の賊を討つべきであること

を示したというのが⑥の意味である︒mは︑試せられた君侯に嗣いで

君位に即くものは︑先君の死を痛んでその即位を記さないというので

ある︒ さて上の⑤⑥例の三例が︑それぞれ春秋の書法を解釈して託せられ

た意義を明らかにしていることは︑既に述べた⑩l側の諸例と同様で

ある︒ただ﹁春秋云々﹂という形式をとっていることが異なる︒春秋

全般の通則という形式で示されているのである︒然し⑩I側の諸例も

やはり春秋全般に適用されるべき通則であることは同じである︒この

ように同様のことが異なった形式で述べられているのは︑この両種の

伝文の作られた時期の相違によるのではないかと思う︒公羊伝はその

全伝文が或る一時期に一人の手で作られたものではなく︑その間には

時代的先後が認められるが︑これもそのことを推知し得る一つの材料

一四

である︒﹁春秋云々﹂の形式のものが︑時代的には後代に属するので

はなかろうか︒なお公羊伝の成りたちについては更に詳説を要するの

で︑本篇ではこれ以上に述べない︒

公羊伝ではなお﹁春秋云々﹂の形式の伝文があるので続いてあげよ

ア︑ノ○

⑧春秋伐者為客︑伐者為主︑︵荘公二十八︑僖公十八年伝︶

側春秋貴賎不嫌︑同号︑美悪不嫌︑同辞︑︵隠公七年伝︶

右の二例の意味は前の③側の中で説明した︒

⑩春秋為尊者韓︑為親者諄︑為賢者諄︑︵閏公元年伝︶

⑪春秋為賢者諄︑︵荘公四︑僖公十七︑同二十八︑昭公二十年伝︶

⑫春秋賢者不名︑︵襄公二十九年伝︶

右の例における諄とは︑悪を諄むことである︒この諄ということは三

伝に通じてみられ︑その全般にわたっては別に詳説しなければならな

いがここでの意味は次のとおりである︒⑩は︑春秋は尊者と親者と賢

者とのためにその悪を謹んで直書しないというのである︒⑪は賢者に

ついてだけ言われている︒然しその悪を蘆したり看過したりするので

はなくて︑その悪はやはり悪となすのである︒ただ尊親賢三者のため

にその悪を惜しむという特殊な感情が作用して︑その悪を謹んであら

わには記さないというのである︒尊親賢三者の中でも主眼は賢者にあ

る︒⑫は︑賢者は敬って名を言わないというのである︒賢者を敬うこ

とは儒家の伝統思想であろう︒

⑬春秋内其国而外諸夏︑内諸夏而外夷狄︑︵成公十五年伝︶

⑭春秋録内而略外︑於外大悪書︑小悪不害︑於内大悪諄︑小悪書︑

︵隠公十年伝︶

右の二例中の⑬における﹁其国﹂とは魯を指す︒春秋では魯と諸夏と

夷狄との三者の取り扱いが異なり︑またその書法も異なることを言

(5)

200

うのである︒近きより遠きに及ぼし︑魯において最も手厚く夷狄に最

も疏略である︒なおこの卿は︑後代の公羊学では三科九旨中の第三科

三旨とされている︒つまり魯と諸夏と夷狄との三者の関係を一科三旨

としているのである︒次に側における﹁内﹂とは魯を指し︑﹁外﹂

とは魯以外の国を指す︒春秋は魯については精しく記し︑外国につい ては疏略にする︒そこで外国については大悪事は記すが小悪事は記さ

ない︒魯については大悪事は諄み︑小悪事は謹むにも及ばないので詳

しく記すというのである︒内外の別による書法の相違を言ったもので

ある︒この⑬⑭の二例は︑魯を中心とする春秋の特殊な書法について ある︒この⑬側の二例は︑魯を中心とする春軸

言っている︒

⑮春秋敵者言戦︑︵荘公三十年伝︶

右は春秋で﹁戦﹂と記されているのは︑双方︵

合であることを言う︒この解釈は前の③の侵坐

った方面から言われている︒

㈹春秋辞繁而不殺者正也︑︵僖公二十二年伝︶

右は︑例えば﹁僖公二十有二年︑冬︑十有一月︑己已︑朔︑宋公及楚

人戦干泓︑﹂の如く︑時月日等の辞︵書法︶が詳しくて鉄けるところ

のないのは︑その事柄が正道を得ていることを示すというのである︒

これは直接には宋の襄公について言われたものであるが﹁春秋云々﹂

という形式で春秋の通則として言われている︒

⑰春秋見者不復見也︑︵哀公三年伝︶

右は春秋において或ることの意義を示すのに︑その意義を託す事例が あればそこで示し︑他において特に示さないというのである︒例えば

哀公三年の﹁桓宮僖宮災﹂という書法をみると︑桓宮と僖宮とは毅廟

であるから火災がおこる筈はない︒そうすると哀公が桓宮と僖宮とを

再び立てたことがわかる︒そのことをこの﹁桓宮僖宮災﹂という書法

春秋三伝研究︵山田琢︶ ︵荘公三十年伝︶ と記されているのは︑双方の勢力が比敵している場 う︒この解釈は前の③の侵伐等の解釈とはまた異な で謡っているのである︒そして桓宮と僖宮とを立てたことは別に記さ なかったのは︑ここだけで譲る意は示されているからであって︑一個 所で示せばよいというのである︒ ⑱春秋錐無事︑首時過則書︑︵隠公六年伝︶ ⑲春秋不書晦也︑︵僖公十六伝︶ 右の二例中の㈱は︑例えば春秋の﹁隠公六年︑秋︑七月︑﹂という書 法の如く︑記述すべき事柄はなくても︑春夏秋冬の四時の始めがめぐ ってくればその始めを記すというのである︒それは公羊伝の言うころ によれば﹁春秋編年︑四時具然後為年︑﹂︵隠公六年伝︶という理由 によるのである︒⑲は春秋には朔は記すが晦は記さないということで ある︒ さて公羊伝で﹁春秋云盈﹂の形式で春秋の書法を解釈する例は︑ほ ぼ上にあげた諸例につきる︒ここで公羊伝についての説明を止めて︑ 次には穀梁伝にうつろう︒

二穀梁伝の書法解釈例

①僖公二十有八年︑六月︑衛侯鄭自楚復帰干衛︑

復者︑復中国也︑帰者︑帰其所也︑

復とは中国に復るのである︒帰とはその所に帰るのである︒

右は復帰という春秋の書法を解したものである︒春秋の書法に独自の

解釈を加えることによって春秋に記されていることの意義を明らかに

し︑そしてそれを春秋の義として唱えるのは︑穀梁伝を一貫する基本

的態度であり︑その点で公羊伝と全く同じである︒このことは公羊穀

梁二伝が︑春秋の学問の上で同じ系統に属するものであることを示し

ていると言うべきであって︑公羊穀梁二伝の性質を知るについて重要

一五

(6)

199

人民をいけどり牛馬をかりたてるのを侵と日い︑樹木を斬り宮

室も壊するを伐と日う︒

右は春秋の侵伐の書法を解したものであり︑前の公羊伝の⑧と比べて

みると解釈されている内容はやや異なるが︑書法を解釈することによ

ってその意義を述べる基本的態度は同じである︒

なおまた穀梁伝では﹁伐国不言園邑︑挙重也︑﹂︵襄公十二年伝︶

と言い︑或はまた﹁伐国不言園邑﹂︵僖公六年︑同二十三年︑同一一十

六年伝︶﹁非国不言園﹂︵昭公二十六年伝︶とも言う︒これらも前の

公羊伝の③の解釈例と類似している︒ただ公羊伝では総括的に述べら

れているのが異なる︒

⑧隠公三年︑三月︑庚戌︑天王崩︑

い︒

②隠公五年︑冬︑十有二月︑宋人伐鄭︑園長葛︑

苞人民︑殴牛馬︑日侵︑斬樹木︑壊宮室︑日伐︑ 春秋三伝研究︵山田琢︶

なことである︒

然しこの復帰という書法の解釈を︑公羊伝のそれと比べてみると︑

相違する点もまたある︒公羊伝ではその②で説明したように﹁復帰﹂

﹁復入﹂﹁入﹂﹁帰﹂などを併せて総括的に解釈しているが︑穀梁伝

では個別的な書法として扱っている︒このような相違はここだけでは

なく全般にわたってみられることであって︑穀梁伝の書法解釈は公羊

伝に比べて個別的に多様である︒

なおまた穀梁伝では﹁大夫出奔反︑以好日帰︑以悪日入︑﹂︵大夫

が出奔してまた国に反った場合に︑その事が好かつたら帰と日い︑悪

かったら入と日う︶︵荘公九年伝︶とも言う︒これは﹁帰﹂と﹁入﹂

との書法を解釈してやや総括的であるが︑やはり公羊伝ほどではな

例春秋不以嫌代嫌︑︵昭公十三年伝︶

⑤春秋成人之美︑不成人之悪︑︵隠公元年伝︶

⑥春秋貴義而不貴恵︑信道而不信邪︑︵隠公元年伝︶

例春秋著以伝著︑疑以伝疑︑︵荘公七年伝︶

⑧春秋有三盗︑微殺大夫︑謂之盗︑非所取而取之︑謂之盗︑辞中国之

正道以襲利︑謂之盗︑︵哀公四年伝︶

⑨春秋有臨天下之言焉︑有臨一国之言焉︑有臨一家之言焉︑︵哀公七

年伝︶

右の諸例について先ずそれぞれの意味を説明しよう︒その㈱は︑昭公

十三年の﹁楚公子棄疾殺公子比﹂という書法について言われたもので

ある︒これについては同年の﹁楚公子比自晋帰干楚︑試其君戻干乾

一一ハ

高日崩︑厚日崩︑尊日崩︑

高いものに崩と日い︑厚いものに崩と日い︑尊いものに崩と日

﹂声︑ノ◎

右は春秋の崩という書法を解したものである︒更に説明すると︑﹁成

公五年︑夏︑梁山崩︑﹂における梁山︑﹁僖公十有四年︑秋︑八月︑

辛卯︑沙鹿崩︑﹂における沙山の麓などのように︑高いもの厚いもの

について崩と日い︑また天子の尊位についても崩と日うとなすのであ

る︒前の公羊伝の㈱の解釈と比べてみると︑解釈された内容は異なる

が︑書法を解釈することによってその意義を明らかにするという方法

は同じである︒

上に数例をあげて説明したが︑春秋の書法解釈において穀梁伝は公

羊伝と同様の方法をとっているのである︒更にまた穀梁伝には﹁春秋

云々﹂という形式のものもみられるので︑次にその例をあげよう︒

(7)

198

渓︑﹂という春秋の記述と併せて考えなければならない︒この記述に

よると︑公子比はその君を試したとされているのであるから︑試君の

嫌疑がある︒ところが穀梁伝は︑公子比はたまたま試君の事件に遭遇

しただけであって︑公子比には試君の嫌疑はないとするのである︒穀

梁伝はつとめて公子比を辨護している︒然し公子棄疾が比を殺したの

は︑比に嫌疑ありとして殺したのである︒そして自分は自立したので

あるが︑そうすると棄疾にもまた当然墓奪の嫌疑がある︒嫌疑ある者

が嫌疑ある者に代るということは︑春秋の許すところではない︒そこ

で﹁楚公子棄疾殺公子比﹂と記したのであって︑若し嫌疑ある者が嫌

疑ある者に代ることを認めるならば﹁楚棄疾殺公子比﹂と書いて︑棄

疾に国を冠する書法をなすべきである︒㈱の意味は上のとおりであ

るが︑嫌疑をわかつ正名思想に基づいている︒同様のことは公羊伝の

㈱でもみられた︒

次に⑤と⑥とは魯の隠公のことに関連して言われたものである︒隠

公の譲位については穀梁伝に独自の論議がみられるが︑このことにつ

いては﹁春秋学の展開﹂︵東洋文化︑復刊第八号第九号︑昭三九年︑

無窮会︶という卑稿で述べたので︑ここでは省略する︒

次に側は荘公七年の﹁夏︑四月︑辛卯︑昔︑恒星不見︑夜中星限如

雨︑﹂について言われたものである︒﹁夜中﹂とは夜の真中の時刻で

あり︑一瞬時にも及ばない時間である︒何故にそのような﹁夜中﹂で

あることがわかったのかというと︑漏刻の実測にあらわれたとおりを

記したというのである︒実測による顕著な事実を伝えたとい意味であ

る︒桓公五年伝には﹁春秋之義︑信以伝信︑疑以伝疑︑﹂と言うのも

同意である︒

また次の⑧は︑﹁盗﹂という春秋の書法に三様のあることを言った

春秋三伝研究︵山田琢︶ ものである︒すなわち﹁盗殺陳夏区夫﹂︵哀公十三年︶︑﹁盗窺宝玉 大弓﹂︵定公八年︶︑﹁盗殺察侯申﹂︵哀公四年︶の三書法である︒

最後の⑨は︑春秋には天下︵王者︶の立場からの立言︵例えば僖公

二十八年の﹁天王守子河陽﹂の例︶︑また一国︵諸侯︶の立場からの

立言︵例えば昭公二十六年の﹁公至自斉︑居干郭︑﹂の例︶︑及び一

家︵大夫︶の立場からの立言︵例えば文公元年の大夫の﹁毛伯﹂のよ

うに采邑の毛を冠する例︶があることを言う︒

穀梁伝で﹁春秋云々﹂の形式で書法を解釈している例は上の数例で

あるが︑この書法解釈の方法もまた公羊伝と同じである︒さてこれま

でには公羊穀梁二伝について述べてきたが︑次には左氏伝について考

えてみよう︒

三左氏伝の書法解釈例

左氏伝では﹁凡云々﹂という形式で春秋の通則を述べている例が五

十条あって︑左氏伝の凡例或は五十凡などと呼ばれている︒これは左

氏伝の書法解釈例と言うべきである︒そこで五十凡について考察を加

えてみよう︒

①凡去其国︑国逆而立之日入︑復其位日復帰︑諸侯納之日帰︑以悪日

復入︑︵成公十八年伝︶

②凡師有鐘鼓日伐︑無日侵︑軽日襲︑︵荘公二十九年伝︶

⑧凡師敵未陳︑日敗其師︑皆陳日戦︑大崩日敗續︑得鰐日克︑覆而敗

之︑日取某師︑京師敗︑日王師敗續干某︑︵荘公十一年伝︶

側凡勝国︑日滅之︑獲大城焉︑日入之︑︵文公十五年伝︶

⑤凡克邑︑不用師徒︑日取︑︵昭公四年伝︶

⑥凡書取︑言易也︑用大師焉︑日滅︑弗地日入︑︵襄公十三年伝︶

一七

(8)

197

春秋三伝研究︵山田琢︶

例凡師出︑與謀日及︑不與謀日会︑︵宣公七年伝︶

⑧凡師能左右之︑日以︑︵僖公二十六年伝︶

⑥凡師一宿為舎︑再宿為信︑過信為次︑︵荘公三年伝︶

⑩凡獲器用日得︑得用焉日獲︑︵定公九年伝︶

⑪凡自虐其君日試︑自外日状︑︵宣公十八年伝︶

⑫凡民逃其上日漬︑在上日逃︑︵文公三年伝︶

⑬凡邑有宗廟先君之主日都︑無日邑︑邑日築︑都日城︑︵荘公二十八

年伝︶

⑭凡在喪︑王日小童︑公侯日子︑︵僖公九年伝︶

⑮凡諸侯之女︑帰寧日来︑出日来帰︑夫人帰寧日如某︑出日帰干某︑

︵荘公二十七年伝︶

㈹凡太子之母弟︑公在日公子︑不在日弟︑︵宣公十七年伝︶

⑰凡称弟︑皆母弟也︑︵宣公十七年伝︶

⑱凡雨自三日以往為雰︑︵隠公九年伝︶

⑲凡平原出水︑為大水︑︵桓公元年伝︶

剛凡火︑人火日火︑天火日災︑︵宣公十六年伝︶

右に二十条の凡例をあげたが︑先ずこれらの内容をしらべてみよう︒

㈹は﹁入﹂﹁復帰﹂﹁帰﹂﹁復入﹂などの書法を解したものであって

公羊伝の②︑穀梁伝の仰と類似の解釈例である︒その解釈された内容

には互に多少の出入がある︒これは三伝それぞれに解釈しているので

あって︑このように種々の解釈があり得るのであり︑必ずしもその中

の何れかを改めるを要しない︒次に凡例の②は侵伐等の書法を解した

もので︑公羊伝の③︑穀梁伝の②と類似した解釈例である︒なお凡例

の②から⑫までは主として戦争に関係のある解釈例であって︑その内

容は詳密をつくしている︒然し類似の解釈例が公羊穀梁二伝にもみら

れる︒左にあげるのがそれである︒

一八

︵公羊伝の解釈例︶

㈹君死子位日滅︑生得日獲︑大夫生死皆日獲︑︵昭公二十三年伝︶

㈲其言取之何︑易也︑︵僖公三年伝︶

例其言入何︑難也︑︵隠公八年伝︶

㈲入者何︑得而不居也︑︵隠公二年伝︶

㈱国日漬︑邑日叛︑︵僖公四年伝︶

︵穀梁伝の解釈例︶

㈹取易辞也︑︵荘公九︑昭公二十五︑哀公九︑同十三年伝︶

何入者︑内弗受也︑︵隠公二年伝の外十二例︶

例及者何︑内為志焉爾︑︵隠公元年伝の外五例︶

㈲以者︑内為志焉爾︑︵桓公二年伝︶

㈱公大夫在師日師︑在会日会︑︵成公十三年伝︶

㈹両夷狄日敗︑中国與夷狄亦日敗︑︵昭公十七年伝︶

㈹逃義日逃︑︵荘公十七年伝︶

右の公羊穀梁二伝の解釈例を左氏伝の凡例の②l⑫の諸例と比べてみ

ると︑その内容には多少の相違はあるが︑類似のことを言っている︒

その中でも﹁取﹂の解釈は三伝同義である︒

また凡例の⑬から剛までには種々の解釈例をあげたが︑公羊穀梁二

伝にも左のような類似の解釈例がみられる︒

︵公羊伝の解釈例︶

㈹直来日来︑大帰日来帰︑︵荘公二十七年伝︶

何大者日災︑小者日火︑︵襄公九年伝︶

︵穀梁伝の解釈例︶

㈹国而日城︑︵僖公二年伝︶

㈲高下有水災日大水︑︵荘公七︑同十一︑同二十五年伝︶

(9)

196

例国日災︑邑日火︑︵昭公九年伝︶

類似しながらも三伝それぞれに解していてその解釈例は多様である︒

また前の公羊伝の﹁入﹂の解釈例の如く︑同一伝において同一書法に

ついて両様の解釈もある︒何れもそれぞれの場合にあてはまるのであ

り︑その中の何れかを改めるを要しないのである︒

次に左の凡例をみよう︒

伽凡試君称君︑君無道也︑称臣︑臣之罪也︑︵宣公四年伝︶

幽凡君不道於其民︑諸侯討而執之︑則日某人執某侯︑不然則否︑︵成

公十五年伝︶

蜘凡自周無出︑︵成公十二年伝︶

伽凡諸侯之女行︑唯王后書︑︵桓公九年伝︶

右の中の伽は︑穀梁伝の﹁称国以試其君︑君悪甚芙︑﹂︵成公十八年

伝︶という解釈例が内容的には類似する︒また剛は公羊伝の﹁称侯而

執者伯討也︑称人而執者︑非伯討也︑﹂︵僖公四年伝︶の﹁称人而執﹂

が︑その﹁日某人執某侯﹂ということと類似している︒次の倒伽は

周王に関連のあることである︒公羊伝では﹁王者無外﹂︵桓公八︑僖

公二十四︑成公十二年伝︶と言い︑穀梁伝では﹁天子無出﹂︵僖公二

十四年伝︶﹁天子無外﹂︵桓公八年伝︶と言っているが同義である︒

さてこれまでに説明したように︑左氏伝の凡例の中には公羊穀梁二

伝の解釈例と同義のものがかなりある︒なおまた解釈された内容は異

なっていても︑春秋の書法を解釈している点では同じである︒すなわ

ち左氏伝の凡例は︑春秋の書法解釈例として公羊穀梁二伝の解釈例と

同類のものであることがわかる︒

次にはまた左の凡例をみよう︒

鯛凡諸侯同盟︑於是称名︑故莞則赴以名︑告終称嗣也︑以継好息民︑

春秋三伝研究︵山田琢︶ 謂之禮経︑︵隠公七年伝︶

蜘凡諸侯同盟︑死則赴以名︑禮也︑赴以名︑則亦書之︑不然則否︑辞

不敏也︑︵僖公二十三年伝︶

伽凡崩莞︑不赴則不書︑禍福不告︑亦不害︑︵文公十四年伝︶

剛凡諸侯之大夫違︑告於諸侯日︑某氏之守臣某︑失守宗廟︑敢告︑所

有玉帛之使者則告︑不然則否︑︵宣公十年伝︶

卿凡諸侯有命︑告則書︑不然則否︑師出臓否︑亦如之︑錐及滅国︑滅

不告敗︑勝不告克︑不書干策︑︵隠公十一年伝︶

右にあげた五条の凡例は何れも赴告に関するものであり︑赴告の有無

による﹁書﹂或は﹁不書﹂の書法を解している︒赴告の有無による書

法の相違を唱えるのは左氏伝における独自の特色であるが︑このこと

については本論集の前号の卑稿﹁春秋三伝の研究l書例についてl﹂

の中の﹁左氏伝の不書例﹂の項で述べたので︑ここでは再説しない︒

なおまた次の三条の凡例は︑赴告以外の﹁不書﹂の書法を言ったもの

である︒ 剛凡諸侯会︑公不與不書︑諄君悪也︑與而不書︑後也︑︵文公十五年伝︶

剛凡会諸侯︑不害所会︑後也︑︵文公七年伝︶

鯛凡物不為災不書︑︵荘公二十九年伝︶

このような不書例についても︑前にあげた卑稿﹁春秋三伝の研究l書

例についてl﹂の中で述べた︒この不書例と赴告の有無による書法の

解釈例とがともに凡例の中に取り入れられていることは︑左氏伝の凡

例の内容が多様であることを示すと言うべきである︒

さて次に左の凡例をみよう︒

鯏凡諸侯即位︑小国朝之︑大国聰焉︑以継好結信︑謀事補顕︑禮之大

者也︑︵襄公元年伝︶

一九

(10)

195

春秋三伝研究︵山田琢︶

則凡君即位︑好舅甥︑修婚姻︑嬰元妃︑以奉築盛︑孝也︑孝禮之始也

︵文公二年伝︶

鬮凡君即位︑卿出並聰︑践修旧好︑要結外援︑好事隣国︑以衛社榎︑忠

信卑譲之道也︑忠徳之正也︑信徳之固也︑卑譲徳之基也︵文公元年伝︶

鯛凡君莞︑卒突而耐︑耐而作主︑特紀於主︑蒸嘗諦於廟︵僖公三十三年伝︶

剛凡諸侯莞干朝会︑加一等︑死王事︑加二等︑︵僖公四年伝︶

剛凡諸侯之喪︑異姓臨於外︑同姓於宗廟︑同宗於祖廟︑同族於禰廟︑

︵襄公十二年伝︶

剛凡夫人不莞干寝︑不蹟干廟︑不赴干同︑不耐干姑︑則弗致也︑︵僖

公八年伝︶

鯏凡諸侯嫁女︑同姓膳之︑異姓則否︑︵成公八年伝︶

伽凡公女嫁子敵国︑姉妹則上卿送之︑以禮於先君︑公子則下卿送之︑

於大国︑雄公子上卿送之︑於天子︑則諸卿皆行︑公不自送︑於小国︑

則上大夫送之︑︵桓公三年伝︶

幽凡公行︑告干宗廟︑反行飲至︑舎爵策勲焉︑禮也︑特相会へ往来称

地︑譲事也︑自参以上︑則往称地︑來称会︑成事也︑︵桓公二年伝︶

鯏凡諸侯有四夷之功︑則献干王︑王以警干夷︑中国則否︑諸侯不相遣

俘︑︵荘公三十一年伝︶

側凡侯伯救患分災討罪︑禮也︑︵僖公元年伝︶

㈱凡杷︑啓蟄而郊︑龍見而雲︑始殺而嘗︑閉蟄而蒸︑過則書︑︵桓公

五年伝︶

㈱凡天災︑有幣無牲︑非日月之告不鼓︑︵荘公二十五年伝︶

剛凡分至啓閉︑必書雲物︑為備故也︑︵僖公五年伝︶

㈱凡土功︑龍見而畢務︑戒事也︑火見而致用︑水昏正而栽︑日至而畢

︵荘公二十九年伝︶ 二○

㈱凡啓塞従時︑︵僖公二十年伝︶

㈱凡馬日中而出︑日中而入︑︵荘公二十九年伝︶

右にあげた十八条の凡例は︑禮制によって書法を解釈したものであ

る︒その中の㈱帥鯛は即位の禮︑㈱剛剛㈱は莞葬の禮︑㈹伽は婚嫁の

禮︑また鯏鯏側は君侯の諸般の行動に及んでいる︒そして側から剛ま

では祭紀︑暦法︑士功その他についてである︒

さて上にあげたような禮制を説くのは︑左氏伝だけではなく公羊穀

梁二伝も同様であり︑そのことについては︑別にまた詳述しなければ

ならない︒然しながらそれらが左氏伝では凡例の中に取り入れられて

いることは︑左氏伝の凡例の内容が多彩であることを示すと言うべき

である︒ 以上において左氏伝の凡例の概要を述べ終ったが︑ここで全体的に

要約してみよう︒①から側までは︑公羊穀梁二伝と類似の内容を有す

る解釈例である︒そして鯛から剛までの五条は赴告に関する左氏伝独

自のものである︒次の帥剛倒の三条は﹁不書﹂の書法を解したもので

⑩l例の諸例とはまた異なる解釈例である︒左氏伝の凡例にそれらが

取り入れられていることは︑左氏伝の凡例の内容を豊富にしている︒

また次の剛から剛までは禮制に関するもので︑これまた凡例の内容を

豊富多彩にしている︒

さてこのように考えてくると︑左氏伝の凡例はよく整備されたもの

であることがわかる︒種々の特色ある解釈例を総合してできている︒

また五十という数にまとめられていることも偶然ではないであろう︒

左氏伝における書法解釈例を別に取り出すならば︑この五十条だけに

限らない︒まだ数多くあるのであるが︑それを五十条にまとめて示し

たのは︑整備の手を経たものであるう︒

(11)

194

最後に左氏伝にこのような凡例の備わっていることの意義について

考えてみよう︒左氏伝が公羊穀梁二伝とともにこのような書法解釈例

を備えていることは︑この三伝が春秋の書法解釈の上で共通の方法を

有していることを示すものである︒その点で三伝は春秋の学問として

同じ系統に属すると言うくさである︒然しまた公羊穀梁二伝と左氏伝

とでは︑かなり異なった性質を別に有している︒その問題については

稿を改めて詳説しなければならない︒︵昭三九・一○・二○︶

春秋三伝研究︵山田琢︶

一一一

参照

関連したドキュメント

智美が陽一の誘いに応じられないという想定は,彼女の発話の真理条件に

 ポスト植民地主義や民族文化再興運動などの流れで、アフリカの思想家や活動家

) 岡田功氏は春秋時代の 「貸」 は本来 「施す」 「与える」 意味の行為だったが, 戦国時代になるにつ れて本来の 「貸借」

 まず,徳田秋声の作品として,長編の中で代表作とされる『黴』と,その前編にあたるといわれる『足迹』 4)

白雪姫には、キリスト教的罪がたくさんかくされている。それは妃の行動に表れている。

から気管支を介して散布されたような

「春華秋実」 (春の華と秋の実り)は私の好きな言

ucker 埋め込み を構成することで示される. 体的な埋め込み