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盗跖説話源流考

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盗跖説話源流考

 中国の古典に.﹁盗蹄﹂或は﹁堕しなる人物が見られる事は.周

知の通りである︒而して︑一般には︑この盗聞︑或は顕は︑泥棒の

既として理解されて居る如くである︒立国でも時代が後になれば︑

やはり泥捧の闘と言われるようになったが︑此の説話の原初形態は︑か﹂る解釈とは相当に距離があり︑殊に孟子に於ては︑其の中

心理念である仁義を明らかにせんが為に語られた如くである︒今こ

れについて︑孟子を中心として︑一二の点より検討して見たい︒

 こ﹄で︑吾女は便宜上︑此の説話を盗蹟説話と呼ぶことにする

が︑先づ後代に語られた盗顕説話を眺めて見たい︒

潅南子に︑

 ﹁柳下恵見愛日︑可以養老︑盗言動離日︑重富勲牡︵韮︶し

とあり︑叉呂氏春秋︑孟冬紀︑異用篇に︑

 門︐仁人謝辞飴︑以養疾侍老也︑密男企足得飴︑以開閉取櫨也.﹂

と語られて居る︒これを見ると盗顧は人の聖画を窺う所謂穿寄之盗

の類の如くに語られて居る︒︵二︶今日に於ても一般にはこの盗難は ﹁泥棒の顕﹂として理解されて居るのではないかと思われる節がある︒例えば︑ ﹃東洋の古典の一である﹁潅南子﹂に出てくる飴の話がありま す︒昔シナでだれか貸飴を発明した︒ところが柳下恵という大へ ん親孝行な人がこの飴を見.て︑これで年老いた親を︑喜ばせること ができるといった︒もう↓人盗露という男︑泥棒の露という男は 飴を見て︑これで他人の家の閉った戸を外すのに利用できるとい って︑北嬰笑んだという伝説があります︒ ﹁飴テ得テ以テ老ラ養 ヒ︑飴テ得テ以テ閉テ開ク﹂と申します︒︵三︶﹄と言うが如き解説がこれである︒此の如く盗顕を泥棒の踊とする型の説話が見られるのは︑右の准南子直前春秋の他に︑史記︑荘子等がある︒而して︑ζれらの申で盗顕の行為が相当具体的に記されて居るのは︑史記の伯馬歯である︒然し最も詳細に語られて居るのは︑荘子盗踵篇である︒然らば︑これらに︑この盗踵について︑夫々如何様に語られて居るか︒

 古より史記が︑学者必読の書であったことは︑著名な事実であり︑又此の史記の列伝の第一に位するのが伯夷伝であること言を倹

たない︒伯夷曲は︑周知の如く︑伯夷の伝記と言うよりは︑寧ろ大

観して列伝六十九巻全体の大序的な性質を有して居るもので︑其の中には司馬遷の歴史観︑人生観が吐露されて居るが︑とくに司馬遷

は歴史家の任務の重大さを強調して︑人物に対する評価もその筆に

左右される事を述べ︑伯夷叔斉の如きも全く孔子の記録によって名

を後世に残す事が出来たとし︑更に不遇を極めπ夷斉に対する深い

同情が示されて居る︒司馬遷はこの極力同情を惜しまない伯虚器斉

に対立する人物として盗廊をとりあげて居るのである︒曰わく︑

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 ﹁盗既日殺不享︑肝人葉肉︑暴戻恣唯︑聚党数千人.横行天下︑

 寛聖寿終﹂

と︒こΣに語られて居る豊艶は︑もはや准南子の飴を見て喜ぶ盗距

ではない︒暴戻翰墨︑聚単数千人︑天下に横行する大盗である︒ともかく太史公の此の筆によって︑導師の悪名が彌が上にも高まった

であろうと想像される︒叉一方では︑清廉潔白なる伯夷叔斉が極め

て不遇であり︑孔子の推賞措かなかった顔淵が何等の酬もなく短命

に終ったのに対して︑極悪無道の盗踊が︑栄華を極め︑天寿を完うした事に対する世人の憤りが︑一層盗顕の名を忘れ難いものにした

であろう︒而して適合の具体化は荘子盗販篇に於て更に顕著であ

る︒この罪すべて三章︒其の第一章千七百四十三字︒即ち二野と孔

子との問答を記したものであるが︑其の要所を掲げると次の如くで

ある︒ ﹁︐孔子与柳下季為友︑柳下季弟名日干踵︑盗脈従卒九千人︑横行天

 下︑話説諸侯︑穴室枢戸︑駆人牛馬︑取人婦女︑声望忘親︑不顧父母

 兄弟︑不祭先祖︑所過之邑︑大国守城︑小国入保︑万民苦之︑⁝⁝ ⁝⁝⁝⁝脈之為人也.心如涌泉︑意如瓢風︑強燃費拒敵︑弁足以

 飾非︑順其本則喜︑逆蛇心則怒︑易辱人多言︑⁝⁝⁝⁝⁝⁝盗踵

 乃方休卒徒太山之陽︑韓人肝︑而舖之︑⁝⁝⁝盗踊聞之大怒︑目

 如明星︑髪上指事︑⁝⁝⁝下熱以子肝心黒黒之膳︑⁝⁝⁝盗賑大

 怒︑両誰其足︑案劔噴目︑声如乳虎︑日丘来前︑若所言順吾意則

 生︑逆吾心則死⁝⁝⁝⁝今将軍兼此三者︑身長八尺二寸︑面目有

 光︑唇如激丹︑歯如斉貝︑音中黄鐘﹂

 此の丈によって︑盗脈を想見するに︑先づ身長八尺二寸︑面目光

りあり︑唇は激丹の如く︑歯は斉貝の如し︒音は黄鐘に中り︑且つ

強大の力と宏大の弁がある︒而して其の心意は旺盛驕揚︑実に当る

べからざるものがある︒叉常に卒九千人を従え︑天下に横行し︑諸 侯を侵過し︑室の枢戸に穴し︑人の牛馬を駆り︐人の婦女を取り︑得を貧り︑親を忘れ︑父母兄弟を顧みす︑先祖を祭らすと言われて居る︒正に大盗たる左辱しめねものがある︒又孔子の目のあたり見た盗距の挙動は︑人肝を瞼にして舗し︑声は乳虎の如く︑目は明星の如しと言う︒かくて吾々は略説盗蹟の人間像を脳裏に描くことができるが︑此の如く具体化された盗踊は︑此の篇以外では見ることが出来ない︒そこで吾汝は︑此の荘子盗難篇を以て盗顕説話の集大成とし︑その完結点と考える︒ これらの関係に就いて考えてみるに.潅南子は周知の如く︑准南王者の編纂にか﹄るものであるが︑安が自殺した.のは︑漢の武甲の元狩元年︵しσ・OH卜9悼︶であり︑司馬遷の史記は武帝の天漢年間︵四年︑じσ・Oゆ刈︶に終って居るからして︑時代的に考えれば野々同時と言っても差支えないように思われるが.前に既に見た如く︑同じ盗蹟であり乍ら︑史記は大盗として之を描き︑潅南子は所謂陣容⁝の盗であるからして︑此の二者は其の伝諦の経路を異にするであろう︒而して︑准南子は︑呂氏春秋の ﹁仁人之追再耳蝉疾風老也︑唐音要脚得飴以開閉取腱也﹂と言う説話の系統に属すると思われる︒恐らく准南子の丈はこの呂氏春秋の話から脱化したものであろう︒然るに史記と荘子は︑此の関係が極めて密接である︒即ち皮記と荘子の丈左比較すれぼ︑自ら明かである様に︑両者には共通の語彙︑又は喧々同一の色調を有った熟語がある︒荘子の一横行天下﹂は︑そのま﹂史記に出て居るが︐其の他にも﹁従卒九千人﹂は︑史記では﹁聚党数千人﹂とあり︑荘子の﹁腕人肝﹂は︑史記では﹁漁人之肉﹂に作って居る︒︵四︶而して荘子にある一︐侵暴諸侯云々﹂を︑史記では﹁暴戻恣睡﹂なる語で表現したのであろう︒⁝僅か三十数字の中に︑これだけ共通した語彙を

有って居ることを考えると︑伯評伝申の盗踊に関する記事は︑この

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荘子を本にして書かれたものであろう︒

 以上が一般に後代に語られたと思われる盗蹄についての説話であ

るが︑この説話の原初的形態は如何なるものであったであろうか︒

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 管見によれば︑古筆なる語が見られる最古の典籍は孟子である︒

膝丈公章句下に ﹁︵陳︶仲子長居国宣︑伯夷之所築与︑抑亦盗趾之所築三︑早食

 之粟︑伯夷之所馬廻︑抑亦盗厨之所樹与︑是未可知也︑﹂

とあり︑叉胆心章句上に︑ ﹁孟子日︑鶏鳴而起︑華々為善者︑舜之徒也︑鶏鳴細粗︑箪女為

 利者︑斎砂徒也︑欲知舜与跣之分︑無他︑利与善之間也︑﹂

と言って︑﹁賑﹂の語があり︑趙岐は之に﹁乱撃蹟也﹂と注して居

るからして︑前掲の盗蹟と同一人物である︵五︶ことは明らかである︒

 以上の他に先秦時代の典籍に盗距或は斯の名が見えるものには︑

筍子があり︑次に荘子韓非子等に語られて居る︒しかしこしでは.

最も古い孟子に見える盗野に就いて︑一一三考察の歩を進めてみたい

と思う︒

 荘子盗距篇では濁酒の性格行動を如実に描いて︑如何にも大盗らしい趣を表わして居る事は︑既に前に見たが︑瀧子に示された盗蹄

も︑荘子の如き意味に於て使われて居ると断定するのは早計であ

る︒孟子では闘は一︐利﹂を計るものとして語られて居る︒而して此

の場合︑脈は舜と比べられて居り︑舜が﹁善﹂を為すのに対して︑

踊は利を為すと言われるのである︒この﹁利﹂は︑梁恵王章挙上

で︑孟子が王に対して仁義を説くに当って援引した﹁利﹂であるこ とは疑う余地がない︒この利について孟子は︑ ﹁孟子見惑恵王︑王目︑竪不遠千里而来︑亦将有戦利吾国乎︑孟 子対日.王何二日利︑髪型仁義而己突︑﹂と言い︑叉 ﹁後義而先利︑不奪不饗︑﹂とも言って︑極力利を排除する︒乙のように孟子は利を捨て︑義を取るべき事を教えるのであるが︑然し利といふ事も必ずしも排除すべき理念ではなかった様である︒例えば左伝︵六︶では︑ ﹁利義之和也﹂とあり︑又﹁義利之本欄﹂とも言われている︒易︵七︶では︑﹁利者義之和也﹂とか︑或は﹁利物足以和義﹂とされ︑更に墨子に撃ては︑﹁義利也﹂︵入︶と説かれて居る︒ 以上の事から考えると︑利を退けるのは︑孟子自身の学問上の理論から出た意見の如くである︒そこで︑孟子が極力退けた﹁顕﹂なる人物も︑他の学派︑例えば墨子等にあっては︑さほど措撃すべき人物ではなかったかも知れない︒これは照なる人物が墨子︑老子︑或は荘子の内篇及び其の初期に成立した丈献には全く現われない事は︑この推定の過ちでない事を思わせる︒ 次に﹁盗踊﹂なる語は︑膝交公章句下に見られる︒日わく︑ ﹁︵陳︶仲子所居之室︑伯夷之所築与︑抑亦盗顕之所築与.所食 之粟︑伯夷之所樹与︑抑亦盗顕之所樹与︑是未可知也.﹂と︒こ﹂では盗蹄は伯夷と対比されて居るが︑周知の如く伯爵は孟子が屡々援引し称揚する人物であり︑ 一︐聖之清者也﹂と評されて居る︒同じ箇所で孟子は︑伊サには﹁任﹂︑柳下恵には﹁和﹂︑孔子には﹁時﹂なる一字左以て批評し︑伊サの任︑柳下恵の和︑出塁の清を集めて大成したのが孔子であると論じて居る︵九︶︒然らば︑聖人孔子をして聖人たらしめる価値契機には︑ ﹁清﹂なる要素があることは明らかであって︑孟子が伯夷を極力推賞する理由も実はこの点に

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存するのである︒即ち聖人たるべき要素の一には︑清なる価値契機

が不可欠であって︑之を伯夷は有して居り︑聖之清者と称せられ

た︒之に対する盗既は︑清に相反する非価値的な要素を保持して居

たと考えられる︒さしづめ常識的に考えて︑ ﹁清﹂なる人物に対立

するものは︑言わば一︑濁﹂なる性格の保持者であり︑聖なる概念左否定する非価値的な要素をもつ人格者︑即ち俗悪人とでも言うべき

者であると思われる︒前には一章しに対して⁝利﹂を追及すると言

われ︑今こ﹂では﹇︑清﹂に対して﹁濁﹂なる人物とされる︒これが

盗距の保持する本質的な性格である︒

 かく考えてくれば︑盗既の ﹁盗﹂も再考の余地があるようである︒前に見た潅南子︑史記︑荘子盗既篇は再び繰り返すまでもない

が︑盗踵は盗賊として語られて居た︒今日に於ても一般に盗距即ち

翌旦であったというように理解されて居る如くである事は︑既に前

述して置いた︒ところが文字は其の原義の他に種々の意味に使われ

る︒︵一〇︶時代によって異なり︑思人によって異り︑叉其の使用場所

によっても異るものである事は周知の如くである︒かくて其の交羽

の現代的意義を以って︑直ちに古昔の丈字語句を解することは正し

くない︒この場合でも.盗即泥捧であると断定する事は如何であろ

うか︒果して然らば︑盗既の盗は如何なる意味に使われたものであ

ろうか︒

 先づ盗の原義を見ることにする︒盗字の最も古いものは︑管窺に

よれば︑周遊王石鼓丈の第二鼓にある﹁鞭こ字である︒金石葦編に

よれば︑ ⁝︐翌翌云︑盤亦作手︑読与岨同︑施氏云︑按説文側余反︑臨也﹂

と解し︑叉銭大琳︑潜 研堂金石交を引いて︑  ﹁銭轡︑当是麺字︑説丈次即事字︑則笈与鑓通︑糟丈加皿︑叉加 一水耳︵=︶﹂と言って︑ 或は鑓の字と解して居るが︑呉大澱及び郭沫若は︑之を﹁︑盗﹂と釈すべきことを論じて居る︒︵=.︶これに就いての郭沫若の見解は次の如くである︒ 濡溢字解或釈殖︑或釈莚︑叉或釈灘︑塾側草食魚一面着想︑不知 築石通途所叙者乃游魚之楽︑片食魚之楽界︑郭昌宗釈盗︑至聖︑ 単簡有盗字翠玉︑云出碧落碑︑趾復杁竹︑乃鱗丈︑以盗多聚干蓬 符也︑意謂小魚在水中︑盗食豊漁鮮明︑しこれによれば︑薙は盗の繁文である︒ 説丈には ﹁野ム利物也︑杁汰皿︑汝欲也︑欲皿為盗︑﹂とあるが︑次は欲望を表わし︑巫は皿である︒皿は再び説丈を見ると︑ ︷︐並飯食之用器也︑象形︑低湿同意︑しとあるからして︑食器を指して居るのである︒そこで﹁欲皿﹂とは︑ ﹁食器を欲する﹂ことであり︑之が説丈に言う盗の原義であ        コ      る︒これから所謂ぬすむの意が出でたであろうが︑其の原初は⁝食物をぬすむ﹂の意であったと思われる︒これは人類進化の過程から考えても原始社会にあっては︑生命の維持ということが第一義であろうし︑其の為には其の有にあらざる食物を手に入れて食することもあった事が老えられ︑この意味が義としては最も古いものではないかと考えられる︒然るに︑左伝文革十八年置は︑ ﹁︐羅.賄為盗﹂とあり︑叉僖公二十四年では︑ ﹁聖人之財︑思至之盗﹂と言われて居り︑筍子修身篇に於ては﹁籟貨日盗﹂と言うが如き定義が下されて居る︒説文によれば﹁金玉日貨︑布引吊日賄﹂と言われて居るが両者何れも﹁貝﹂に従う事から考えて︑社会生活の進化するにつれて貨

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幣制度が生じて︑此の貨幣を﹁ぬすむ﹂ことを盗と言うようになっ

た事を物語る︒これは前の食の時代よりも余程進んだ社会で︑物を

手に入れるのに金玉布吊を必要とした時代の言語が残存したもので

あろう︒然るに︑国語周語に

 ﹁匹夫専利猶謂之盗︑﹂

という語がある︒この定義は﹁利﹂という抽象名辞左使用して︑広

範囲の事象を其の中に包含する解釈で︑前記の定義よりも一層進ん

だ段⁝階に於て言われたものであろう︒謡講苑政理篇には︑

 ﹁孔子日︑夫以不肯伐賢︑是謂奪也︑以賢伐不麿︑是選良也︑緩

 其令︑急其詠︑是認暴也︑取人善以自為己︑是謂盗也︑君子之

 盗︑山豆永当財幣乎︑し

とある︒周知のように︑津西は漢の劉向の撰ではあるが︑孔子の語

として伝えられた此の言葉は盗の意義内容の変遷の上から見れば︑

実に注目すべきものがある︒人の善を取ることを以って盗と定義し

た事は︑物質の世界から精神の世界への移行を示すものである︒こ

れによって吾々は︑皿から貝へ︑貝から利へ︑利から善へという如

く︑盗の包含する意義が時とともに漸次拡められて来たことを知る

のである︒ところが孟子の時代にも盛んに所謂拡張解釈が行われた

らしい事は次の文によって明らかである︒

  ﹁夫謂非其有︐巳時之者盗也︑比類至義之尽也︑﹂

 これは︑朱子が注するように︑一つの事柄を出来る限り拡張して

解釈を試みる事に他ならない︒コ三﹂之た類似の解釈は他にも見られ

 るつ例えば︑左伝褻公二十六年の条に声子の語として︑

  ﹁善為国者︑賞不乱︑而刑不濫⁝⁝詩日︑人之云亡︑邦国珍痺︑

 無善人之謂也︑﹂

とある如きがそれである︒  かくて黒身伝を見ると︑春秋三筋の説がある︒曰わく︑ ﹁春秋有三盗︑無爵大夫謂之盗︑非所取組取之謂六盗︑辟中国之 正道以襲利運之盗で四︶と︒春秋は孔子の遺吉であり︑孟子が孔子学の正統を継承し︑熱烈な春秋学者で︑春秋思想の顕揚に力を駅したことは︑吾々がこ﹂に事薪しく述べる必要はない︒孟子によれば︑春秋の精神は乱臣賊子をして催れしめるにある︒然らば春秋は大義名分を正すという事が主たる者で︑之によって天下の綱紀を正して行くのである︒︵芒︶この春秋の義を伝えるものとして公羊︑左氏︑穀梁の所謂春秋島伝がある︒左回が古文であるに対して︑公二二伝は今丈であるの相違はあるけれども︑等しく春秋の義を伝えたものであることに変りはない︒この三伝の中︑公羊は特に孟子の学派に近い人によって書かれたものであると言われて居る︒例えば武内義雄博士の如きは︑ ﹁公羊春秋説は孟子一斉の後︑斉に伝はったものである︒⁝⁝⁝ 公羊が丈王を尊ぶのは孟子が丈王の治を理想としてみるのに似て みる︒その他公羊伝の申には孟子の丈を敷増したらしく見える丈 章が所々に散見するから︑公羊学は孟子の影響が斉にのこったも のに相違ない︒﹂ご五︶と為される︒而して王家はこの公羊の義をとくに多く受けて居ると言われて居る︒陳澄の東回読書記には︑ ﹁邸君云︑穀梁近孔子︑公羊正当六国濃縮︑釈丈序録則云︑公羊 高受之於子夏︑穀梁赤乃後代伝聞︑灌案宣十五年︑公羊伝云.多 乎什一︑大踊小桀︑叢叢什一︑大絡小絡︑需用孟子語︑公順当六 国之亡︑此其重罪︑僖二十二年︑穀梁伝云︑落日︑礼菰野不答︑ 則反顎下︑愛人而不親︑則反其者︑治人而不治︑則反霊知︑此亦 用孟子語︑則不得先於公羊也.且穀梁不但不在公羊之先︑実在公

 羊之後︑︵一六∠

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文・ ﹁︐公羊営業溌墨同者︑隠公不漁即位︑公羊鴻業公意︑穀梁云︒成

 公志︑鄭伯克⁝汐干郡︑空態殺之︑如此者不可枚挙突︑⁝⁝蓋最期

 以公羊之説為是而録取之也︑穀梁詩思羊之後︑研究公羊之説︑或

 取之.或不取︑或駁之︑或与己説兼存之︑其伝尊公羊扁平正者以

 此也.︵モ︶﹂

と論じて居る︒果して然らば︑公羊は孟子を承け︑穀梁は公羊の説

を継いで居る事は明らかである︒かくて穀梁の春秋三悪の定義は孟

子の義を伝えた極めて尊重すべきものであると︑言うことができ

る︒そこで穀梁伝で﹁辟中国之正道以襲利謂之盗﹂と言うのは︑孟

子の努めて排除ぜんとする利と深い関係にあると考えられる︒孟子

尽心章に於ける践は一︐利﹂を追及する人物であり︑叉膝丈尺に於て

は﹁濁﹂なる盗師である事は︑正しく中国の正道を回避して利を追

うて居るものと言うべきである︒

 春秋三伝がいつれも孟子の影響下にある事は前述の如くである

が︑この申に所謂盗に就いて如何に論ぜられて居るか︒三塁に﹁盗

云々﹂の記事は枚挙に暇ないが︑その中で︑今日の所謂盗賊の類と

思われるものは︑僅かに左伝に語られて居る左の二例に過ぎない︒

即ち一は心具公十六年に︑ ﹁書侯請干王︐戊申以激量命士会難中軍学為大傅︑於是晋国之盗

 逃奔増増︑羊舌主日︑吾聞酒︑萬称善人︑不善人遠︑露営謂也

 夫︑﹂とあり︑又他の一は昭公二十年に︑

 ﹁郵子産有疾︑⁝⁝⁝理数月而卒︑大叔為政︑不忍些些寛︑郵国

 多盗︑取人於崔符之沢︑大叔悔之日︑吾早従夫子︑不及此︑興徒  兵以攻荏待乏盗︑尽殺之︑盗少止︒﹂とあるのが之である︒以上の二例は︑党を組み︑人をかすめ.物を取った所謂盗賊の類であると解するが至当である︒然るにか㌧る例は︑公羊穀梁には全く見られない︒定置八年冬に︑ ︻︐盗霧宝玉大弓.﹂という経丈が見える︒これは今日の三伝に全く同一の丈があるが︑伝によれば.輝国代々の国宝であり︑国の象徴とも遷れて居たものが綱まれた事を述べて居るのである︒︵天︶而して之を経には唯﹁盗﹂とのみ書して︑何者が籍⁝幽したのかを明言しないのであるが︑左伝では︑ ﹁盗説服三焦︑家臣賎名氏不見︑主日盗︑︵一九︶﹂と釈し︑公羊には︑ ﹁盗者敦謂.謂陽虎也︑陽虎上掲為世事︑季氏之宰也︑亡母丁場 則微者也︑﹂と言って︑微賎なるが故に盗と称した事が明らかにされて居る︒周知のように魯には季孫氏︑孟孫氏︑叔孫氏の三家があって︑国政を執り︑魯国の実権は家臣であるこれら三家の聾断ずる所であり︑孔子もこれらの家が八雲を以て庭に粗し︑雍を以て徹し︑或は泰山に旅した不遜をせめて居る事は︑論語︵=o︶に見られる事であるが︑此の季氏の宰が陽型であって︑魯公より見る時は所謂陪臣である︒故に之を賎しみ︑盗と書し微者なる事を明らかにしたと言うのである︒かxる例は極めて多く︑公羊穀梁に接ては例外なく︑左伝もその大部分は此の範疇に入るものである︒三豊に共通した経文に次の条々がある︒     . ﹇︐裏公十年冬︑盗殺鄭公子麟︑﹂ ﹁哀公四年春王二月︑庚戊︑盗殺藝侯申︑﹂ この経は何れも

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 ﹁賎者故称盗︑不言忌事君.賎盗也︑︵三︶し

という立前から︻︐盗﹂と書した事は言うまでもない︒以上の外︑三

伝に共に見られる哀公+有三年︑及び左伝の桓公十年.僖公二十四

年︑定公四年︑宣公三年の﹁盗殺云々﹂の記事は︑賎者なるが故に

盗と書したものである︒

 左伝昭公二十年秋の経文に.

 ︷︒盗殺衛侯之兄紮.﹂

とあるが︑之を杜預は︑

 ﹁斉豹作而不義︒故書日盗︑し

と言っている︒これに依れば︑ 簡盗﹂と書するは︑業者のみでな

く︑其の人の行為をも考慮に入れる事がわかる︒而して︑春秋学的

な立場から考えると︑これこそ其の本質的なものと言うべきである

が︑左伝昭公三十一年には次の如く論ぜられて居る︒

 ﹁冬邪黒肱以濫来奔︑賎而書名︑当地故里︑君子日︑名之不可不

 慎也如是︑夫有所有名︑而不母君已︑以地叛︑錐賎必要地︑以名

 其人︑終為不義︑指導滅巳︑是故君子動則思礼︑行則思義︑不為

 利回︑不為義疾︑或声名而不得︑或欲蓋而記章︑懲不義也︑斉豹

 為衛司冠︑守嗣大夫.作而不義︑其翠蓋盗︑邪庶其︑男運夷︑邪

 黒黒以土地出︑求肥而已︑不求其名︑賎而必書︑此二物者︑所以

 懲難而去貧也︑若難難其身︑以険危大人︑而有名章徹︑攻難之

 士︑将奔走之︑若霜邑男君︑以微大利而無名︑貧冒之民︑将寅力

 焉︑是以春秋書斉豹日盗︑三叛人名︑以懲不義︑数悪逆無礼︑其 善志也︑故日︑春秋之称︑微而顕︑娩而弁︑上之人能使昭明︑善

 人勧焉︑華人擢焉︑是以君子貴之︑﹂

 これを要約すれば次の如くなるであろう︒即ち春秋の理念は正名

である︒正名は義であり︑不正名は不義である︒君子の行動は︑礼

適うべく︑義であるべきである︒不義は何によって起るか︒利の為 めである︒利に左右せられて︑義に外れた時︑春秋に於いては其の正名の理念に基いて之に褒既の辞を加えるのである︒即ち其の名を求めざるも︑之を書して其の下劣の行を天下に公表し︑或は当然史上に残るべき地位身分の者にも盗と書して︑其の悪逆無礼を責あるのであり︑か﹄る筆諒を加えるが故に乱臣賊子は之を濯れ︑善人は愈々其の行を励むと言うのであるρこの左伝の一交は︑所謂春秋の義を最もよく解明して居ると言う事ができよう︒

 以上の事から老えて︑孟子の所謂盗は世に言う強盗︑泥棒とは異

り︑政治的に潔白でなく︑其の君を早して政権を掌握した如き人物

を指して言ったものではあるまいか︒従って︑盗距を泥棒の顕と解することは誤りである︒もともと孟子の立場は︑その性善論︑四聖

論︑良知良能論の如きも︑要するにその政治論の由って生する根源

に論及して居るまで貸あって︑畢寛政治に関する其の主義を明かにし︑且つ之に根拠を与えんとするに他ならない︒然して︑其の政治

論の要は王道であり︑それは叉実に仁義によって行われるものであ

る︒︵..入︶果して然・らぼ孟子の所謂盗距は其の政治主義である王道仁

義に反した人物であったと考えられる︒而してか﹂る政治的不潔に

対して荘子は︑

 ﹁羅釣昌吉︑霧国者為諸侯︑諸侯之華墨仁義存焉︒︵一三︶﹂

とか︑或は

 ﹁為之品等以量之︑則並与斗斜而蠣之︑為之権衡以称之︑則並与

 権衡而籍之︑為之符璽以信之︑軍需雪踏嘗試羅之︑為之仁義以矯

 之︑則並与仁義而羅之︑︵﹁.三︶﹂

と言い︑更に具体的に例示して︑

 ﹁田成子 旦殺其君而盗其国︑所盗者貴物読属耶︑並与其聖知之

35

(8)

法両盗之︑︵・一四ざ.︑︐

と論じて居るのであ蒼︒これは︑歪しく孟子の所謂盗の反面を物語

つたものど言うべきである6而してζの盗の発生する根源につい

て︑﹁孟子︒ぼ義利の弁別なき為であると考えたが︑荘子は聖知の所為

であ.為とじ.. ﹁絶聖域知︑大盗園丁︑︵孟ど

と言っ海の︑であろう︒

 次に孟子の交法に就いて考えて見るに︑前述の如く︑尽増悪では

駈は舜と比べられ︑膝丈公章では伯夷に対比されて居る︒舜も伯夷

も儒家教説上︑その論説を有力づけ︑或はその論理の正当なること

を誰するに当って︑常に援引される人物であって︑所謂聖人であり

儒家にあっては実に重要なる地位を占める人擦である︒由来聖賢先

哲は︑之を儒学的立場から見れば︑−儒家教説及び経の成立に無関係

の人物は有り得ぎると同時に︑総べての賢哲は本質上︑全く等質で

ある︒そこで︑かkる賢哲に対比される人々も亦本質上総べて同等

であり︑何等σ差異なきものと思われる︒即ち盗顕は祭紺と同質で

あり︑舜伯夷は之と対称の地位にある賢哲である︒︵三二︶さればであ

る︑一子勧学に於て︑ ﹁酒田盗既﹂と言って盗師を桀紺と蛇べ論じ

ているのは︑此の考えめ正しいことを裏書きするものではないか︒若し此の場合︑所謂穿矯の盗や泥棒に対比したと考えるのは如何で

あろちか︒全く比較にならない比較であって︑鈎衡を失することこ

れより甚しきはない︒

 かく考えると躁なる人物は︑卸量夷に比べられる如き︑政治的存

在の大なる所謂大立物であったと想像される︒もし顕が実在の八物

であり︑之が説話化されたものであったとしたら政治的に考えて相 当の地位身分0人物であったと思われる︒

 以上の論考によって︑盗照が所謂泥棒の顕と考えられるに至った

のは︑余程時代が降︐っセからであってその原初形態は.孟子学の申

心理念である王道仁義に背反するものを指して名づけたものである

事が明らかになった︒.殊に﹁盗﹁一とは︑孟子の着秋思想によって︑

政治的な意味を含めたものである︒従って︑盗露が﹁泥棒の踵﹂と

して語られるのは.此の説話の後次形態である︒で自ら興味は.此

の説話の展開の問題に移るが︑それはまた別の機会に譲ることにす

る︒註一︑潅南子説林訓

 二︑論語︑盲評に飛宇Z盗︑孟子尽心像食下に穿鍮の語がある︒

 三︑勝部真長氏著道徳教育︑一八六頁︑爾これは註︵一︶と共に河合浩教

   授の示教による︒勝部賃の示された﹁開閉﹂という潅南子は如何なる

   本に依られたものか明らかでない︒呂氏春.秋.孟冬紀︑異用篇に﹁開

   弓取健﹂の語がある︒又呂氏春秋では﹁仁人しとなっているが灘南子

   は﹁柳下季﹂に作っている︒勝部氏の示された原文はこの二者を適当

   に折中した如くである︒濫南子の意は勝部氏の言の如く泥棒の顕であ

   るが︑然し伝説上の盗断が泥捧であったか否かは遽かに決定し難い問

   題であって︑習々がこれから論ぜんとする所である︒

 四.︑肝入之肉と作る史記の文では意味が通じ難い︒そこで索隠では︒ ﹁劉

   氏云︑謂取人肉為生肝︑非也︑荘子去︑染方休卒太山之陽︑胸八肝而

   鋪之﹂と云って︑荘子の如く人生を膳にした事と噛すべきであるとし

   て居る︒この句は史記の交章に託誤があると思われる︒

 五︑説文には駈︑蹴ともに細石反とし︑索隠にも蹴与奪同︑蛇音之石反と

   ある︒

 六︑左伝嚢網九年︑及び昭公十年︑

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(9)

七︑易︑乾文言伝︑

八︑墨子︑経説下

九︑孟子︑万章々句下︑

δ︑〜盗字は種々の音心味に使われる︒例えば韓非子の狗盗︑史組孟嘗書伝の

  鶏鳴狗盗は所謂間諜の事である︒夜間等に狗皮を以て偽装し目的地へ

  潜入して探偵に従事した者の事である︒

=︑王艇著︑金石葦葺巻一︑郵氏云々は巻一︑二丁表︑銭大照の説は八丁

  表にある︒

三︑郭沫若著︑古代銘刻彙孜︑石鼓文研究第苔冊二十六丁表︒呉大激著︑

  説文古籍補附録第二冊三十二丁表︒

董︑孟子︑万章々句下︑ これを朱子は﹁乃推其類︑至於義之至精至密之

  処︑而極言之﹂と解している︒

壷︑穀梁伝︑哀公四年春︑

蓋︑武内義雄著︑支那思想史 七十七頁︑

宍︑陳灘東塾読書記︑巻十︑七丁表及裏︑

毛︑同  上

穴︑この宝は公羊によれば﹁玉︑弓︑亀しの三者であり︑何休の注では︑

 ︐魯侯が始めて魯に封ぜられた時に︑天子より錫はった品である︒而し

  て魯侯始封の記事は︑左伝定公四年の条に詳かである︒これによれば

  ﹁昔武王克商︑成王定之︑選建明徳.以蕃屏周︑故周公相王室︑以男

  天下︑於周為睦︑分魯公以大路大族︑夏后氏之瑛︑封父之繁弱︑段民六

  族云々﹂とあって︑公羊とはや玉異るが︑魯国の象徴であることに変

  りはない︒

充︑陽虎は季氏の家臣で︑名は虎︑字は貨︑季桓子を拘執して国政を専ら

  にしている時の事が論語に見える︑又論語に陽賃扁があって︑ ﹁陽貨

  欲見孔子︑孔子不見﹂の文がある︒

二〇︑論語の中で三家に関しては︒八僧︑雍也︑先進︑顔淵︑季氏の諸篇で

  論じられている︒

三︑左伝哀公四年杜注︑ 一三︑荘子朕簾.二三t同上二四︑同  上二五−同  上二六︑重沢俊郎氏著︑原始儒家思想と経学︑二三五頁︑夢照︒毛︑本田成之著︑麦那経学史論︑九七頁︑参照︒天︑狩野直喜著︑中国哲学史︑一五二一一五三頁︑滲照︒

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