サルトルにおける暴力論の位置 : ―サルトルーバタイユ問題にも寄せて
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(2) 8 7 サルトルにあって暴力という主題は、裏返しにいうとく相互性のユマニスム〉という主題に ほかならない。この表裏一体の関係に結ぼれた二つの主題がまさにいましがた述べた二つの 問題契機・モティーフの緊密な総合のなかで追求されてゆくという事情にこそ、私はサルト ルの思想の全体性を把握する鍵を見いだす。またその事情にこそサルトルの思想の独創性と 今も失われぬアクチュアリティーを見いだすのである。. I I. W弁証法的理性批判~における暴力論の位置. まず、第一の問題契機についていささか考察しよう。 『弁証法的理性批判JC 以下『批判』と略)にかかわって注目すべきは次の事情である O すなわち、この著作のいわば議論の関節を形成するサルトルが独自に構築した諸概念一一. r. r. r. r. r. r r. 「稀少性J 実践的惰性態J 反=目的性J 集列性J 集合態J 溶融集団J 誓約J 同 胞 性 = テロル」等々一ーはみな暴力の存立論理にかかわる諸概念であるということ、そして、サル トルはこの著作のなかで暴力の存立論理を「他者性の回路Jとして把握した自分の見地を、 人間の社会的な行為連関を貫く弁証法的な論理に関する重要な一つの発見であり、マルクス 主義の暴力論を補完し修正し得る意義をもつものであって、それこそがこの著作の誇り得る 独自な理論的価値をかたちづくると考えていたという事実である ω 。それほどに、暴力論 という主題は『弁証法的理性批判』において中心的位置を与えられているのである。 サルトルの暴力論のエッセンスはこの著作のなかで与えられる暴力に関する次の定義のな かに凝縮されていると思われる O 彼はこう述べている。. 「暴力とは、内面化された稀少性であるかぎりで、の、人間の諸態度の恒常的な非人間性のこ とであって、要するに、各人が各人のうちにく他者〉および〈悪〉の原理を見るようにさせ るものなのである。それゆえ一一稀少性の経済学が暴力であるためには一一殺裁または投獄 といった、自に見える実力行使のおこなわれることは必要ではない。それどころか、実力行 使の企図の現前する必要さえもない。生産諸関係が不安と相互不信の風土のなかで、『く他 人〉は反=人間で異種族にぞくする』と信じようといつも身構えている諸個人によって打ち 立てられ、追求されさえすれば、換言すればく他者〉はどんなものでもく他者〉にたいして く先に手をだした者〉としていつもあらわれることができるのであれば、それで十分なのだ」 C W 批判J 11 7 3 ).
(3) 8 8. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN O . 2( 1 9 9 7 ). 「他者性(他性 a l t e r i t e) J とはサルトルにとって『存在と無』以来決定的な重要性をも っ概念で、あった。まさにそれは、人間存在が抱え込む存在論的次元に食い込んでいる疎外の. l i e n a t i o n J 概念の概念的な中核 関係性を表わす概念としてサルトル的な「疎外=他有化 a をなすものであった。この概念について『存在と無』ではおおよそこう論じられていた。 く他〉であるとは、つねに何ものかの他であるということだから、. く他〉という規定はその. 本質からして自己の存在をつねに自分がそれの他であるところの何ものかから借り受けるの であり、. く他〉という規定は、もしそれだけとして自体的=孤立的に考察されるならば、消. 失してしまわねばならない規定である。こうしてく他〉とは、まさにその存在が根源的に他 者依存的であるという意味で、. I<他〉は、それ自身にたいして他であり、存在にたいして. 他であることにつきる J(~存在と無J) と。 『批判』では、この「他者性」の関係性が暴力が自分自身を暴力として打ち立てるときの 存立論理、暴力が自己を意識し正当化する際の必然的な意識の回路・自己把握の論理として 登場することになる。暴力はつねに自分の存在を自分から出発して理解するのではなく、 く他者〉から出発して理解しようとする。つまり、自分の暴力を自分が始めたものではなく、 「先に手をだした」. く他者〉の暴力に対するやむを得ざる正当防衛的な「対抗=暴力」とし. て、つまりそもそもはく他者〉が始めたものとして理解しようとする O この暴力の自己意識 のなかでは自己はつねにく他者〉から出発してそのく他者〉のく他者〉として把握される。 サルトルはこの関係性こそが暴力の自己意識の固有の形式だというのである。 こうした問題把握をとおして彼は暴力に本質的に貼りついている、暴力に固有な「自己欺 踊」の構造というものを扶りだしたのである。そしてこの暴力に内在化している「自己欺臓」 とは、彼によれば、社会的存在である人間をたえまなく誘惑し唆す自己欺臓、われわれがつ ねにそこに陥る危険にさらされた自己欺蹴にほかならない。 この点で、サルトルの問題把握に関してわれわれの注意を引くのは次の三点である。 第一に、彼はこの暴力の「他者性の回路」の成立を「相互性の悪魔的転倒」として把握す るという点。『批判』はこう述ぺている。「純粋な相互性においては、私と別な者[他者]も、 また私と同じ者である。ところが稀少性によって変容された相互性においては、その同じ人 間が根本的に別の者く他者> (つまり、われわれにとっての死の脅迫の保持者)として現れ るという意味において、その同じ者がわれわれに反=人間として現れる J(~批判J 1152) と。彼のうちに我を認め、我のうちに彼を認めるという彼我の相互性の関係、人間の意識に 本質的に内在しているこの相互主観性の構造が、暴力の論理のなかではくそれゆえにこそ彼.
(4) 8 9 はわれわれにとっての脅威の塊以外の何ものでもない〉という認知へと悪魔的に転倒すると いうのだ。そしてまた、暴力を相互性の疎外、その悪魔的転倒として把握するこのサルトル の問題構成に関して同時に注意されるべきは、. く他者〉がわれわれにとってまさしくまった. き異邦的く他者〉として現れるときのその他者性を、サルトルがここで. r 反=人間」という. 極めて普遍的な問題の水準、まさしく「相互性のユマニスム」が語られるべき普遍性の水準 。 で押さえていることであ る F. 第二の点は、この「相互性の悪魔的転倒」の論理はサルトルにあって「く悪〉のマニ教主 義的構成」という問題と不可分に結び、ついていることである。『批判』のなかでサルトルは. r. この相互性の転倒を「倫理的なるものの第一段階 J 倫理の最初の運動 Jと呼び、それは 「根本的な悪とマニ教主義との構成」にほかならないと述べている(~批判j. 11 5 3 )。そし. て極めて重要なことは、この問題への視点はわれわれに『批判』の暴力論と『聖ジュネ』で 繰り広げられる思索の世界とを媒介し結び、つける一つの内在的な通路を暗示するということ である。その通路とは何かといえば、それはく悪〉のマニ教主義的構成の論理がいわば呼吸 している投影論的機制に関するサルトルの洞察にほかならない。 く悪〉のマニ教主義的構成という主題は『批判』に先んじて、既に『聖ジュネ』において、 しかもこの著作の決定的な主題にかかわる問題として登場する O 周知のとおり、『聖ジュネ』 においてジュネはみずからく悪人〉であることを意欲するという、そういう実存的選択をお こなった人間として問題にされる。そしてく悪〉というカテゴリーあるいは観念の成立の論 理に関してはサルトルはこう述べている。「善人が自己の自由を前にして抱いた恐怖からで たものである悪は、根源的には投影であり、カタルシスである。したがって悪はつねに客体 だJ(~聖ジュネ j 14 6 ) と。注目したいのは次のことである o つまり、人間は自分をく善 人〉へと構成するためにはく悪〉を自分の外側へと投影的に産み落とさねばならない、そし て人間はそうした自己欺騎的な欲望に絶えず絡めとられる、この問題をサルトルが思索の主 題に据えているということである。 『聖ジュネ』のなかでサルトルはこう書く。「平和時のために、社会は賢明にも職業的な 悪人を創造した、とわたしは思い切っていおう。…..ー悪人とは、固定性の腫物だ。ただ一人 の噌虐性色情倒錯者がいることで、いくたりの人々が気持ちを鎮められ、良心晴朗となり、 安堵しただろうか。したがって悪人を選び集めることは、非常に注意深く行われるのである。 ……だから人は好んで、共同社会のまっとうなひとたちがなんら対等の相互関係を結んでい ない悪人を選びたがる。というのは、これらの悪人たちが、われわれに同じ仕打ちで仕返し.
(5) 9 0. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S .T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 19 9 7 ). したり、われわれが彼らについて考えることをわれわれについて考えたりすることを,思いつ かないためだ。そして、. 〈悪〉は、否定、分離、解体であるから、人々は悪の当然の代表者. を、孤立させられた人達と孤立派のなかに、そして同化しえない好ましからざる被圧迫者達 のなかに、求めにゆくであろう JC f 聖ジュネ I J 1-4 1 4 2 )と 。 ここで『批判』に立ち戻るなら、次のようにいうことができる。一一この『対抗=暴力』 の論理においてく他者〉に投影・投射されるのは、稀少性の環境のもとで自分の身を守るた めに「余計者」を自分以外の者のなかに生みだそうとすでに身構えている(また身構えざる をえない)諸個人のおのれ自身の暴力性にほかならない。諸個人がく他者〉のうちに見いだ しているものは実はく他者〉のうちへと投影されたおのれ自身にほかならない。だが、にも かかわらず、それはまさしくく他者〉のそれとしてけっして自分自身のものとはみなされな い一一と。 暴力に固有な「自己欺臓」とはこのく他者〉あるいはく悪〉の投影論的な構成論理のこと にほかならない。そして、この点にかかわってもう一つ重要なことは、先のサルトルからの 引用にもすでに明白なように、この主題はく供犠〉論的主題にそのまま重なるものだという プルジョワ. 点である。まさしくジュネを一個の供犠として屠ることで、「市民社会」はおのれのく善〉 性への自己確信を手に入れ、互いのく善〉性を称揚しあうく善人〉共同体としてみずからを 実現するのである O ジュネをいわばく悪〉の受肉化がそこで生じるところのく悪〉の依代と して構成する「市民社会」の論理は、「市民社会」がおのれの自己肯定に達するための必要 不可欠なる自己浄化の祭儀にほかならないというわけなのだ。 さて第三の点は、サルトルが暴力の自己意識性を強調したことである。そして、この点は これまで述べてきた二つの特徴点と切り離しがたく結び、ついている。サルトルは『批判』の なかで、こう指摘する。「人間を一匹の犬として取り扱うためには、まずはじめに彼を一人の 人間として認知しておかねばならない JC f 批判I J 11 2 5 ) と。人間の意識の本質的な相互 主観性の構造はこの「認知」を必ず人間に強いるものとしてサルトルによって問題にされ る。この観点からすれば、暴力の自己意識とは、まさしくこの「認知」から一ーかのく悪〉 のマニ教主義的構成へと一一自己欺臓的に逃亡する試みとして把握される。とはいえ、まさ しくそうしたものとして、それはこの「認知」をうちに苧んだものでもあるわけなのであり、 暴力の意識は本質的に自己欺蹴的構造をもっというのだ。サルトルは『批判』のなかでくり かえし強調している。. F 暴力とはいずれにしても、外面的惰性の媒介によって(相互的ある. いは包括的な)自由と自由の否定とを相互的に認知すること」であり、それゆえ「自己とそ.
(6) 9 1 の対象について意識している実践として構成される」のであり、「自己を意識したものであ り、故意に選択されたものである J(~批判j. m-201"""'202) と。. では、以上の考察からわれわれは何を引き出すことができるだろうか。 暴力の存立論理を相互性の悪魔的転倒劇のうちに捉え、暴力の固有の存在様式をく他者性 の回路〉が生む「対抗=暴力 Jという存在様式のうちに見いだすサルトルの観点は、その観 点自体のうちに、一つのモラルを内蔵しているといえよう。そのモラルこそ私が「相互性の ユマニスム」と呼ぶサルトルの根本的な倫理的観点、モラルである。そしてこのモラルこそ が、サルトルにおいて暴力を人間の根本事象の一つをかたちづくるく問題〉として浮かび上 がらせる際の認識上の根本観点としてはたらくものなのだ。 暴力を相互性の悪魔的転倒と捉えることは、同時に、相互性の解き放ち、回復こそが今日 の人間がおのれに課すべき倫理的当為の核心であると主張することである。その悪魔的な転 倒劇のなかで凶々しい異邦的な「絶対他者」へと疎外されたく他者〉のうちに、しかしあら ためて自己自身を再発見することで、したがってまた自己のうちにく他者〉を見いだすこと で、自他を切り裂くマニ教主義的断絶を、またこの断絶が双生児的に生みだすそれぞれにマ ニ教主義的に硬化した自他の像の呪縛性をともにのりこえ、ある新たな人間的交流・相互性 の過程の開始を自分自身のために要求すること、かかる倫理的当為の提出である。 暴力の存在様式を「対抗=暴力」と捉えることは、あげて暴力はく他者〉から由来するも のとみなす自他の関係意識に潜む自己欺蹴を自覚して、. く他者〉に投影されたおのれ自身の. 暴力性こそをみずからが対決すべきく問題〉として一一「対抗=暴力」の地獄的循環の呪い の輪から脱出する、自他の関係性の根本的転換を図る跳躍の契機として一一自覚すべしとい う倫理的当為を自分に課することである。 そして、この倫理的な問題の視点から見れば暴力の「人間的性格」をなすその自己意識性 という問題の契機が、暴力の存立論理に原理的にはらまれる一一暴力がおのれを正当化する にあたっての一一意識の自己欺繭性の批判的解体という鋭い倫理的意義を帯びて浮かび上がっ てくることは、これまでサルトルの論理を跡づ、けてきた我々には十分予想がつくことである。 私は、以上述べてきた意味でサルトルの暴力論の根底に据えられている倫理的前提を「相 互性のユマニスム」と名づける。そして私は、このユマニスムから生まれるく他者〉を理解 しようとする情熱こそサルトルの思想の最重要の要素のーっと考える。そしていうまでもな くそこで問題となるく他者〉とは、サルトルがそこに帰属する「暴力の風土J 、つまり西欧 プルジワ. 白人「市民社会」が生みだす異邦的く他者〉であり、あるいはこの社会にとっての「敗者」.
(7) 9 2. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 19 9 7 ). や「死者」あるいは「見えざる人間」であるく他者〉にほかならない。 この点で、また私はこういいたい。暴力がく戦後〉サルドルの思考の中枢的主題になうたと いうことは、裏返しにいえば、相互性が彼の哲学の原理となったということだと。暴力への 問題感受性の深度は、それゆえ、相互性への問題感受性の深度と対応しており、両者は相互 に条件づけあって切り離しがたい統ーをかたちづくっているのである。この思考の統一性こ そが、. く戦後〉サルトルの,思考の統一性そのものであり、存在論的考察とモラルとが表裏一. 体となっているサルトルのユマニスムの統一性なのである. (3) 0. m r 否定性のナルシシズム」、その審美主義的宇宙の暴力性 さて、ここで第二の問題契機の検討に移ろう。先に私はく悪〉のマ ニ教主義的構成の論理、 E. そこにおける投影論的視点というものは『批判』と『聖ジュネ』とをつなぐある内在的な通 路を示唆すると述べた。そして、いましがたサルトルの暴力論の根底におかれた倫理的立場 としての「相互性のユマニスム」について述べた。 この観点からあらためて『聖ジュネ』を振り返るなら、この著作はまさにサルトルの「相 互性のユマニスム」の極めて見事な範例的な意義をもっ文学的=哲学的実践にほかならない と思われる。紙数の関係上ここでは指摘だけにとどめざるを得ないが、『聖ジュネ Jの最終 章「ジュネの善用のための祈り」はまさにこのユマニスムのいわば信仰告白のごときものと して書かれていると思われる。先にヲ│いた一節のなかでサルトルはこう 書いていた。「だか s. ら人は好んで、共同社会のまっとうなひとたちがなんら対等の相互関係を結んでいない悪人 を選びたがる J(前出)と。自分をく善人〉へと構成するためにこそく悪〉を自分の外側へ と投影的に産み落とさねばならないという、人間に取り滋く自己欺蹴的な欲望が、「市民社 会」のく他者〉たるジュネ、娼婦の生んだ私生児ジュネをまさに絶好の投影の標的として捉 える。ジュネはそこではいわばく悪〉の依代である。暴力がく相互性の悪魔的転倒による相 互性の絶対的拒絶〉として定義されるとするなら、まさしくここで問題となっていることは く悪〉の暴力ではなくて、. く悪〉をおのれの陰画的く他者〉として生みだすく善〉のマニ教. 主義的暴力にほかならない。そして、最終章「ジュネの善用のための祈り」が雄弁に告げる のはこのマニ教主義的暴力に対する異議申し立て、その解体の意志こそがサルトルのこの著 作の根底におかれた倫理的エートスであったということである。 そして実はこの点にかかわって、さらにわれわれが注目すべき重要な問題が一つ『聖ジュ ネ』に関して浮かび上がる。それは、サルトルがこの著作のなかでジュネの「自己解放」の.
(8) 9 3. 軌跡をジュネが一ーもちろん彼の「宿命」が彼に負わせる限界内のことであるとはいえ一一ー 相互性の感受性を獲得あるいは回復する過程として描き出しているということだ。この過程 は、一一ここでは問題を極めて単純化していうのだが一一同時にサルトルによってジュネの 文学行為が「詩」から「散文」へと転調し移行してゆく過程として把握され、かっ、この移 行はジュネの「世界・内・存在Jとしての実存様態が「否定性のナルシシズム」の審美主義 的宇宙から他者との現実的な行為的な粋に満ちた相互性の倫理的宇宙へと一一完全なる転換 を遂げることなどありえないにしろ一一一転換してゆく過程として把握される。このサルトル の視点、からすれば、ジュネの実存のドラマは、ジュネをジュネたらしめた最初の実存的局面、 そして彼にとってその状況を生き抜くことができるためには「想像的人間」への自己変身、 つまり「詩人」となることが必須の問題となった局面、すなわち、「市民社会」が私、生児ジュ ネに加えた相互性の拒絶を自負において引き受けることが生みだす彼の側から発する相互性 の拒絶という「単独化」の実存の局面から、まさしくそこでの唯一の活路としてあった文学 行為をとおして、しかし逆説的にも、その文学行為を産んだ当のこの「相互性の拒絶」とい う単独化の実存選択から次第に自分を解脱させる過程、つまりナルシスティックに内閉して いた自己を他者にむけて、いいかえれば相互性にむけて開いてゆく過程、そのような逆説的 な過程として描き出されていることなのである。 しかもサルトルは『聖ジュネ Jのなかで、このジュネの重要な実存的=文学的変化を見落 とし、その意義を評価し得ず、ただ詩人ジュネの「否定性の徹底性」だけを愛してる「批評 家たち」を批判している. c w 聖ジュネ j I I 2 51)。この「批評家たち」とは誰であろうか?. そして、ここに暗示されているジュネをあいだに挟んでのサルトルと「批評家たち」との論 戦的状況とはいかなる思想的な対決をうちに苧む状況なのであろうか? 実はここに、サルトルの暴力論を考える場合に欠くことのできない一つの問題の環が浮か び上がっている。それは、この最初にジュネがたてこもった「否定性のナルシシズム Jの審 美主義的宇宙の湛える暴力性に対する批判という問題にほかならない。サルトルの「相互性 プルジョワ. のユマニスム」は、たんにジュネに加えられた「市民社会」の暴力、. く善〉の暴力に対抗す. るだけではなく、実は、この審美主義的なナルシシズムの苧む暴力、みずからく悪〉たらん とする暴力に対しても対抗するものなのである。 では、いましがた問題とした「批評家たち」とは誰のことだろうか?私見では、パタイユ こそ彼らを表象=代表する人物にほかならない。.
(9) 9 4 I V. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 1 9 9 7 ). r 道徳論ノー卜 Jとバタイユ、あるいは「存在欲望」の暴力性について. ここでわれわれはサルトルの死後初めて公刊された彼の『道徳論ノート』を取り上げなけ ればならなし 1。この彼の倫理学草稿が書き綴られたのは 1 9 4 7年から 4 8 年にかけてだといわれ ている。『シチュアシオン. 第二巻ムすなわち『文学とは何か』が書かれた時期とほぼ同時. 期に書かれたわけである O 『道徳論ノート』には原頁で二五頁ほどの分量の「暴力について」と特別に題された一章 が含まれている。サルトルの思想の全体性を暴力論を視点、に据えて問題にしようと試みる本 稿にとって極めて重要と思われるのは、『道徳論ノート Jが息づいている次の問題文脈であ るO すなわち、このノートは一方からいえばまさに『存在と無』がその終結に際して予告し た「浄化的反省」に基づく新たなる実存的モラルの展開の試みと現れるわけなのだが、他方 では、後に『弁証法的理性批判』に結実していく暴力論の最初の探求の試みとして登場して もいるのである。このノートは「暴力の実存的ないし存在論的条件」の究明という課題をみ ずからに掲げるのである。そして先に紹介した「暴力について」という一章を読むならば、 そこで展開されるサルトルの暴力の現象学がいかに『存在と無』での考察と深く通底したも のかがわかる。私見によれば、『存在と無』の独創性の一つは、この著作をとおしてサルト ルが人間の深部に癖く彼が「存在欲望」と呼ぶところの実存的欲望の位相を発見したところ に、かっこの「存在欲望」の支配からの脱自的解放に新たな人間のモラルの支柱を見いだそ. r. うとしたところにある o 浄化的反省」とは、この強迫的な「存在欲望」の支配からの脱自 的解放を人間に可能にさせるものとしてサルトルが構想した、一種の精神分析学的な自己治 療的な意義を苧んだ自己解読の方法の構想にほかならない。そして今ここでわれわれが注目 すべきは、『道徳論ノート』において「存在欲望」からの脱自的解放という『存在と無』以 来の主題と暴力についての存在論的考察という課題とがまさに結合されるのだという事情な のである。「存在欲望」のもつ本質的な暴力性に関する考察が暴力の現象学として展開され る。実にこの点こそ先に紹介した「暴力について」という一章の極めて興味深く重要な性格 をかたちづくる点なのである。 そして、以上の『道徳論ノート』の注目すべき性格にかかわってさらにわれわれが注目す べきことがある。それは、そこでの暴力の現象学と『文学とは何か』の第四章「一九四i 七年 における作家の状況」におけるサルトルの激しいシュルレアリスム批判との密接不可分な関 係である。 残念ながら、ここでは「暴力について」の章でのサルトルの暴力の現象学がどのような運.
(10) 1 ! 5. びをもって展開するものなのかについて詳しく紹介する紙数の余裕はない。が、そこでの彼 の考察のパースペクティヴというものを示唆する印象的な一節だけを紹介することにしよう。 たとえばサルトルはこう書いている。 「強迫的な形をとった欲望は出現するやいなや暴力となる。というのも、この目的のまな ざしからみれば、世界全体は非本質的なものとなってしまっているのだから。他方では、絶 対的なものとして掴まれた欲望の意味そのものが次の点に、すなわち、存在することの絶対 的完成、いいかえれば、全体性が、欲望者と欲望しうるものとの合体がなされるや出現する ということにあるのだから。そこには融合があり、. く存在〉の出現が非本質的なものの崩壊. の上に生じる。当然ながら、欲望は身体から生まれ身体を通じて存在する。それは、欲望に その厚みを与える事実性である。しかしながら、欲望を抵抗しがたいものに変えるのは、欲. e s p o i rd ' a b s o l u ) である O この絶対的なもの 望の底に横たわる絶対的なものへの希望(l' は個人自身の純粋な正当化であると同時に世界の意味である。この瞬間から、世界のあらゆ る抵抗は空しくなる。あらゆる手段を使ってもと。力が好まれる。というのも、力の使用は. .1 8 7 ) 準一直接性の実現を可能にするのだから。 J(~道徳論ノート J p サルトルによれば、. く存在〉の出現を渇望し、「絶対的なものへの希望」に身をゆだね、. 「融合」的な「全体性」の「直接性」の実現を希求する欲望は、本質的にその現実世界に対 する態度において「マニ教主義」的であり、かつあの「永遠の今」のためにのみ全てを榔っ て生きょうとする審美主義的世界態度の掲げる「瞬間主義」をおのれの時間性の様態とする ものである. (4) 0. そしてサルトルはこうした観点から、ある特殊な実存的なあるいは審美主義的な色彩をもっ た犯罪の欲望、たとえば淫楽殺人の欲望の世界観の構造、そのコスモロジーを次のように分 析する。 サルトルはこう問いを出す。何故往々にして凶悪な強姦は殺人にまで至るのかと。そして 彼はこう考察する。一一それは常識が考えるように被害者の口を塞ぐためではない。そうし プラグマティック. たいわば功利的な(それゆえ自分の未来を当てにした、「実践的」な)理由からではなく、 むしろ反対にそこで問題になっていることは、殺人によってその被害者にとってもまた自分 にとっても(というのは、殺人は犯罪者自身の死を導きいれるだろうから〉もはや「未来と いうものがないであろうという確実さを引き入れる」ことで、その強姦を「絶対的な出来事 として永遠化する」ことなのだと(同前p .1 8 8 )。サルトルによれば、殺人等の重犯罪には 「その行為自体のうちに生き残ることの拒否が存在する J(同前p .1 8 8 )。ただし、そうかと.
(11) 9 6. Memoirso fT h eS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN O . 2( 19 9 7 ). いって犯罪者がその犯行の後で自殺することが稀なのは、その犯行をとおして欲望している のは世界の無化を通じての自己一致であり、自殺そのものではなく、この自己一致の実現の. .1 8 3 ) だからで ためにはかえって実は「世界は無化すべき障害として不断に必要J(同前 p ある。いいかえれば、そこでは暴力は「人間的宇宙への大いなるネメシス J(同前 p .1 8 8 ) として成立しており、その行為自体をとおして「敵対的な宇宙が暴力のまわりへと集められ るJのであって、この関係性の維持のうちにこそ犯罪行為の永遠化が成立するとすれば、犯 罪者は生き残ることを拒否しつつ同時に生き残らねばならないといえるのだ。おおよそその ようにサルトルは3 命じる。 ここではただ指摘するだけにとどめるが、ここに描き出されたネメシス的な関係性の構造 は、実はサルトルがボードレール、ジュネ、フローベールのなかに共通に見いだしてゆく、 く想像的人間〉の生きる審美主義的宇宙の「怨恨」的構造そのものにほかならない. (5) 0. そして、サルトルはこのようなネメシス的関係性のうちにく存在〉の出現を渇望する欲望 意識、いわば最高度に過剰化し張りつめられた「存在欲望」の意識を、シュルレアリスムの なかにも見いだすのである。彼は『文学とは何か』のなかでシュルレアリスムの生きるコス. .1 6 8 ) との表裏一体性によっ モロジーを「静寂主義と永久的暴力 J(~シチュアシオン IIJ p て織りなされるものと把握しつつ、またジャン・ポーランの言葉を借りてそれを「テロリス. .1 4 4 ) とも呼びながら、その ムJ(同前p. f 革命」的な身振りにもかかわらず、その「否定. 性」は本質的に「歴史の外に…、瞬間と永遠とのなかに同時に維持されている J(同前p .1 7 1 ) こと、したがって「社会的実践」への本質的関与をおのれの思考の原理に据える立場に対し て原理的に敵対的であることを批判する。しかもまた、サルトルはシュルレアリスムがいわ ばその思想的体質においては本質的にファシズムに親和的であったことを強調する(同前p .. 1 7 4 )。そしてこうした問題把握は実は『道徳論ノート』の先程来取り上げてきた「暴力につ いて」という章のなかでもくりかえされているのである。きわめて興味深いことに、サルト ルはファシストとシュルレアリストを同一平面に置いてこういうのである。 「暴力はみずからの世界秩序が与えられていることを信じるが、ただし、この秩序は悪し き意志によって偽られ隠されているものなのである。この秩序を顕させるためには障害を破 壊するだけで十分であり、それはユダヤ人を痛めつけることで世界の秩序を解放しようとす る反ユダヤ主義者や、破壊の地平の上に超現実的なものを顕させようとするシュルレアリス. . 1 8 2 ) トにおけると同様である。 J(~道徳論ノート J p しかもわれわれにとって興味深いことは、このシュルレアリスムとファシズムとの親和性.
(12) 9 7 あるいは共振性はサルトルにとって自分たちの世代の自己批判という意義をもって回顧され もするということである。まさしく暴力という主題にかかわってサルトルは. r 方法の問題J. のなかでこう自分たちの世代の青年時代を回顧している 0, 「われわれはいまだ自分ながらに正体がわかっていなかった左翼思想の名に於て、多元論 (この右翼の概念〉をわれわれの先生たちの楽観的で一元論的な観念論に対抗して転用する ことをおぼえた。われわれは人間をお互いに隔絶したいくつかの集団に分かつような教義な ら何でも熱心に採用した。 が、われわれは好んで、. くプチ・ブル的〉民主主義者たちは人種的差別感を拒否していた く未開人の精神状態〉、子供や狂人の世界はわれわれには完全に不. 可解であると考えた。戦争とロシア革命の影響下にわれわれは一一勿論、単に理論上でだけ のことであるが一一一先生たちの甘い夢に暴力をもって対した。それはわれわれをファシスム. r c. に導く危険もあった悪しき暴力であった J 方法の問題Jl p .2 7 )と 。. V サルトルとバタイユ さて、最後にここで私があらためて想起したいのは、サルトルにとってこうした欲望意識 プレザンヂシオン. r cシチュアシ. を表象三代表する哲学者こそほかならぬ「シュルレアリスムのチャンピオン J. オン I Il Jp .2 4 7 ) たるパタイユであったという事情である。そしてパタイユもまた、そのよ うにこの「存在欲望」を聞において自分とサルトルが真っ向から対立していることを極めて 鋭く自覚していたのである ω 。 ノてタイユのいうかの「侵犯」の快楽、「至高性」の快楽、彼が「瞬間の君臨」と呼ぶとこ ろのニーチェ主義的な快楽、その構造の理解においてパタイユにとってサルトルは卓越した 理解者として現れる。この点でまずわれわれの興味をかきたててやまないのは、「罪につい て」というタイトルで公表されたパタイユをめぐる討論会の全記録、そこに示されているサ ルトルおよびイポリットとパタイユとのあいだに取り交わされた論議であろう。サルトルは その討論会でパタイユのいう「至高性」の快楽とはく存在〉への欲望で、あることを指摘する。 たとえばサルトルはこう述べる。 「…(前略)…あなたが求めているのは存在であって、虚無ではない、ということ、悦惚と いうのは存在の内に於ける消耗なのであって、虚無における消耗なのではない、ということ. r c. .5 4 7 ) である。 J パタイユの世界Jl p 討論会のなかでイポリットは、またガブリエル・マルセルも、このサルトルの指摘を支持 する。パタイユも事実上それに同意したかに見える。.
(13) 9 8. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 1 9 9 7 ). そして、たとえば『至高性』のなかの「第四部. ニーチェにおける至高なもの Jの最終節. 「ボードレールの悪魔主義とサルトルの解釈」において、パタイユはサルトルが「侵犯」的 快楽の一一先のサルトルの暴力の現象学で、の概念を使えば一一「ネメシス」的あるいは「怨 恨」的関係性の構造を把握した点を事柄の本質を把握したものとしてその明敏さを称賛して さえいる。 一九七一年に公表されたパタイユのテクスト「反キリスト教徒の心得Jは総じて社会主義 運動が、とりわけ二O世紀のマルクス主義運動がキリスト教的精神の本質的な継承者だとみ なすニーチェ的観点一一それが事柄の本質的ー側面を突くものであることはいうまでもない のだがーーから左翼的立場に対するパタイユの関係を規定しようとしたものであるが、この テクストは、サルトルのパタイユ批判が問題の把握において極めて適確であったことをパタ イユの側から端的に確証するものといえる。そこではパタイユは自分の「至高性Jの快楽追 求の立場が、いいかえれば彼のニーチェ主義が本質的に反・社会主義的であることを認めて いる。 ニーチェ的観点に立つパタイユにとって唯一重要なことは現実の人問、あるがままの人問、. r. 「きみがいまあるもの J きみがいま生きている実存」の自己欺臓なき大胆不敵な絶対的な自 己肯定である。とはいえ、その現実的な人間とは、パタイユによってひたすら破壊的暴力の 暗黒的様相においてのみ把握されたところの人間である。それは、あらゆる反暴力的な「理 想」一一人間の自由と平等と平和の調和的一致を求めるがごときーーをつねに自己の否定者 としてしか見いだし得ないところの人間である O そして、この反「理想」の態度に立つ限り においてマルクスはパタイユにとって評価し得る人物となるのだが、現実のくマルクス主 義〉運動が「理想」的情熱、道徳的情熱、によって鼓吹され、その点で二 O世紀のキリスト 教とみなされる限りにおいて、それはパタイユにとって批判の対象でしかないものとなる。 「たしかに社会主義は、その起草段階においては、『きみがいま生きている』実存とははっ きり無縁なさまざまな大原理から、隔絶していた。きみは、理想的なものと関係があるすべ てのものを自分の理論から峻拒しているマルクスの態度を、きみが体現している峻烈な憧'操. .4 4 6 4 4 7 ) への、手向け草と見ることもできる。 J(~パタイユの世界Jl p とはいえ、パタイユはすぐさまこう付け加える。 「しかし、諸理想に対するマルクス主義の留保的態度も、その主義を奉ずるひとたちが、現 実の人聞社会を動かしているいっさいのものの不道徳性を訴えるキリスト教的態度に、また おちこまないようにすることはできずにいる J(同前p .4 4 7 )と 。.
(14) 9 9 「社会主義は、あらゆるニュアンスを含みながら、完全にただしく公平な未来社会を楯にとっ て、でき損ないのこの世界に働きかけ、干渉しようとしている。キリスト教の場合と同様、 マルクス主義を介して、『存在しないし、存在し得ないもの』が『いまあるもの』を裁き、. . 4 4 り 犠牲者でないものすべてが、断罪さるべきものとしで扱われているのである。 J(間前p 注目すべきはこのパタイユの批判の水準である。あるいはその性格である。この批判にお いては現実のくマルクス主義〉の経験的な諸欠陥や矛盾がこの運動が掲げる「理想」との関 係で批判されているのではなく、むしろそもそものくマルクス主義〉運動の道徳的性格その ものが批判されているのである。重要なことは、したがって、ここではくマルクス主義〉の みならず、およそなんらかの社会的「理想」一一多かれ少なかれ原理的にユートピア的性格、 カント風にいえば「統制原理」的性格をもっ-ーを掲げ、そこから発して社会的現実の変革 を実践的に追求する立場一般が批判と拒絶の対象となっていることである。 ノてタイユが唯一肯定する左翼的行動が、極めて審美主義的な性格のもの、先のサルトルの 観点からいえば「テロリスト」的な見地からのそれであることは明白である。当然ながら、 彼にとっては「至高性」、かの「瞬間の君臨」のみが問題であり、「革命」なり左翼的行動が 肯定されるのは、あくまでそれがこのニーチェ主義的快楽をわれわれに与える限りにおいて のことである。 ノてタイユは「反キリスト教徒」たらんとする人間、いいかえればパタイユ主義者たらんと する人間にこう勧告する。 「きみは社会主義革命のために戦いもしたろうが、それはたちまち、きみが実存しながら 『きみがいまあるもの』を実現する権利を、奪い去るものであることを忘れてはならない。 それというのも、社会主義革命は、きみの奥深い撹乱に釣り合うものだとしても、やはり、 あれこれの大原理や一般的尺度のいわゆる『かなた』に属する、起伏のない影像としての人 間的な秩序の確立を、目的としているからである。惰性は、ことごとにあらゆる人間的な企 てを食いものにしているものだが、社会主義は、キリスト教と並んで、惰性をまさにその目 的としている点で、特色づけられるものである。つまり、革命に象徴されている行動と祭り. .4 4 8 ) とは、社会主義にとって、ひとつの手段でしかないのだ。 J(同前p 極めて重要なことは、このパタイユの審美主義的な「至高性」の観点からすれば、ファシ ズムも共産主義も等価的であり、否むしろ、ファシズムは「撹乱の欲求」にダイレクトに応 える点でむしろいっそう嘘がないことなのだ。このパタイユのエッセーの結語はこう結ばれ ている O.
(15) 1 0 0. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 1 9 9 7 ). 「ただファシズムは、撹乱の欲求を拠りどころとし、共産主義は、権威の欲求を拠りどころ 間 としている O だから、対立関係の価値は、単に強調法の相違に基づくものでしかない。 J(. .4 4 9 )と 。 前p 周知のように、パタイユの存在はフーコーやデリダにとって極めて重要である。サルトル 以降のいわゆる「フランス現代思想」の展開にとってパタイユは極めて重要な、いうならば そのニーチェ主義的な根源的エートスをかたちづくった源泉的存在であるかに見える。サル トルとパタイユの対決関係を軸にとって考察すれば、フランス現代思想の展開において二十 世紀の最後の四分の一世紀は、まさにサルトルの敗北とパタイユの勝利という光景を呈して いるかのように見える。そして、パタイユに関しては昨今彼こそ二十世紀において暴力につ いて最も注目すべき哲学考察をおこなった思想家との評価がとみに高まっているのである。 だが、パタイユにかかわって私はこれまでの考察の上に立ってこう聞いたい。はたして彼 からほんとうに暴力に関する深刻な思想が生まれるのであろうかと。パタイユが暴力の批判 者ではなく、暴力の賛美者であることは、彼の言葉からして明白なことである。彼の「瞬間 の君臨」を求める審美主義的な快楽原理は本質的に暴力肯定的である。では、その暴力の賛 美が苧む暴力の本質についての車越した認識から暴力を根底から批判し暴力に対決する思想 が逆説的に生まれてくるのだというのだろうか。そうであるならば、パタイユからの思想摂 取は同時にパタイユに対する激しい批判と一体となるはずではないだろうか。しかしながら、 私は、パタイユを暴力に関する現代最大の思想家だと賞賛する人々の間でパタイユに対する 本格的な批判が同時に展開されている光景をまだ目にしたことがない(7)0 そしてこうした パタイユ称賛の陰でサルトルの存在はまったく黙殺されている。このパタイユをめぐる問題 状況はまたたぶん今日のニーチェをめぐる問題状況でもあろう o だが、それははたして問題になっている事柄に真に相応しい問題状況であろうか?. 註. サルトルの著作からの引用は、まだ未邦訳の『道徳論ノート』を除いて、全て人文書院から 出版されている邦訳サルトル全集からのものであり、引用文の末尾につけてある括弧内の数. a h i e r spour une morale,G a l l i m a r d, 字が引用頁を示す。『道徳論〆ート』のそれは、 C 1 9 8 3の原頁を示す。また、パタイユからの引用は『パタイユの世界.s (青土社)からである。 (1)拙著. r<受難した子供〉の眼差しとサルトルj (御茶の水書房、. 1 9 9 6 )1 9 7頁、なおサ. ルトルの暴力論に関しては同書五章「実存と暴力Jを参照されたし。.
(16) 1 0 1 (2)参照、前掲の拙著、 2 1 6頁。『批判Jl 11 7 8 (3)参照、前掲の拙著、第五章、三「相互性の悪魔的転倒」 (4)参照、前掲の拙著、第五章、四. I r存在欲望』と暴力一一『道徳論ノート』の視界か. ら 」. (5)シュルレアリスムあるいはパタイユとジュネの「詩性」とのあいだにサルトルがどの ような関係を見ていたかという問題に関しては、『聖ジュネ』での次の議論を見逃す わけにはいかなし」サルトルの考察によれば、シュルレアリスムにとって詩的言語は 「啓示作用の道具」として考えられている。つまり、シュルレアリスムは日常的な現 実界の彼方にそれこそが真の実在、言葉の卓越した意味におけるく存在〉といい得る 世界が控えており、自分たちの詩的行為がそれを啓示するのだと考えている。この点 でサルトルはこういっている。「言葉の火災の背後には、 r聖ジュネJl 彼らはテロリストなのだ J(. く存在界〉がほの見える。. n-207) と。あるいはまた「超現実主義者. 同 の詩性は充実した世界から由来し、それ自身も充実性あるものとしてとどまる J( 前p .2 0 9 )。他方、ジュネはこうしたく存在〉との一体化の欲望の成就を信じてもい ないし、願ってもいない。彼の詩性がくりかえし向かうのはなんであれ自分を正当化 された存在として構成するく存在〉ではなく、自分の絶望的にまで徹底化した非正当 性・贋物性・相対性(反対的存在、. く善〉に対するその否定としてのく悪〉のごとき). の自己意識、あらゆるく存在〉的なものから無化的に後退して自分はあるいるという 自己意識、つまりく虚無〉であると。とはいえこのことは、ジュネがあらゆる唯我独 尊的自足から遠ざかって、自己を拒絶した「市民社会」につねに否定的な仕方で結び つけられ、コミュニケー卜しようとしていることを示す。サルトルはこういう. o. の詩性は散文をペテンにかけることでしかありえなかった。散文とは、すなわち、 〉であり、. 〈自然〉であり、. く現実界〉であり、. 〈効用的存在〉であり、. I 彼 く 善. 〈正当派〉. たちのく社会〉の象徴である。……ちょうどく悪〉がく善〉に対して相対的であるよ うに、詩性は散文に対して相対的であり、それはまた、同時に、ちょうど悪人がく善 〉を、. 〈悪〉を実現するための単なる手段として通用させるとまったく同様に、散文. . を、詩的陰謀の選ばれた犠牲として通用させずにはすまぬのである J(同前 p. 2 1 4 )。. またこうもいっている。「ジュネの詐術の奥底には、ふかい誠意に匹敵するものがひ そむ。あの絶対絶命の存在への必然、性、彼を閉め出した社会の枠のなかへ立ち戻ろう とする抗すべからざる内的要求、みずから称して彼の判事となった連中に対する現実.
(17) 1 0 2. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S .T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 19 9 7 ) 感あふれた怨恨の念、これである J(間前p .2 1 4 )。. (6) 周知のようにサルトルとパタイユはまったくの同時代人であった。パタイユについて サルトルが書いた重要なテクストは『シチュアシオン. 第一巻』に収録されている. 「新しい神秘家」というタイトルの一九四三年に発表されたエッセーであるが、後に 触れるように、今日振り返って極めて興味深いのは、この前期サルトルのエッセーが 次の主張で終わっていることである。彼はパタイユを評して、パタイユは「不可能な 試みのもつ酸性の、精も根もつきはてるような魅力をなによりもつよく感じとる精神. Wシチュアシオン 1Jp .1 5 6 )人物だと特徴づけた上でこう述べ 種族に属している J( る。かかる人物に対しては「普通の文芸批評の方法はおのれの限界に気づく. Jことに. ならざるを得ず、それは新しい方法としてある種の精神分析、まさしく『存在と無』 がその存在論的基礎づけを担うものとして現れるところの、かの「実存的精神分析」 をその方法として要請することになるのだと ( p .1 5 7 )。まさしくそれがこのエッセー の結語なのである。われわれがここでおこなっている「存在欲望Jにかかわっての問 題の分析にとって、そのようにパタイユに関するエッセーが結ぼれたということ、こ のことは極めて暗示的で示唆に富んでいる。 公表されたもののなかでパタイユについてサルトルが書いた重要なテクストはたぶ んこの戦中に書かれたテクストだけであるが、他方パタイユはサルトルに関していく つもの重要なテクストを書いている。しかもそれらを読むと、パタイユがいかにサル トルを自分の対決者として重視していたかがわかる。パタイユは彼の原理である「至 高性」の概念、そのニーチェ主義的な快楽の構造に関してサルトルが示した理解を極 めて鋭く本質を突いたものとして評価し、ほとんど全面的にそれに同意しているかに 見える。パタイユのサルトルへの批判は、サルトルは極めてよく事柄を認識している が、にもかかわらず、この「至高性」の快楽に敢えて心を閉ざして、「有用性」の原 理、いいかえれば「行動の実効性」の原理が支配する「社会的秩序」の世界に臆病に も順応化しようと心を決めてしまったのだ、といった趣旨の批判であるかに思える O サルトルについてパタイユが書いた重要なテクストは、評論集『存在と悪』に収録 されている、サルトルの『ボードレール』と『聖ジュネ』を論じた二つのエッセー 「ボードレール」と「ジュネ」、および『至高性』のなかの「第四部. ニーチェにおけ. る至高なもの」の最終節「ボードレールの悪魔主義とサルトルの解釈」であろう O ま た、一九四五年に公表された、その一年前になされた「罪について」というタイトル.
(18) 1 0 3 のパタイユをめぐる討論会の全記録 e Wパタイユの世界』に収録)、そこに示されてい るサルトルおよびイポリットとパタイユとのあいだに取り交わされた論議もまた極め て重要なテクストといえるであろう。. (7) ここで一つの事例として今村仁司氏の「暴力のオントロギーI JC 勤草書房、 1 9 8 1 )を 取り上げてみよう。もとよりここでは今村氏の暴力論の全体を論評する余裕はないが、 これまでの私の議論にかかわるかぎりでいくつかの本質的な問題と,思える点をあげて おこうと思う。彼の暴力論の核心は、彼自身が強調するように、彼いうところの「第 三項排除Jの論理をもって暴力の基底的な(存在論的な)存立論理とする主張にある。 彼はこの「第三項排除」の論理を暴力の基礎論理として極めて印象的に浮かび上がら せた思想家としてルネ・ジラールの名をあげ、暴力の存立論理をく供儀〉論的観点か ら捉えるジラールの研究は「暴力の社会哲学的研究の道すがら出会った最も卓抜な研 究のひとつ JC W 暴力のオントロギーム p .2 3 4 ) と評す。ついで、彼はジラールの師 たるパタイユを論じ、「瞬間の君臨」のうちに「存在の連続性」の実現、いいかえれ ば「至高性」の実現を渇望するパタイユのニーチェ的ヴィジョンを「パタイユのユー トピア Jと肯定的な調子で紹介しつつ、パタイユのいう「供儀の暴力」を全面的に肯 定しつつ、こう述べている。 「供儀の暴力は、人間に加えられるのではなく、何よりも物に加えられるもので、そ れをとおして人間的生の豊かさへと到る通路なのである。あるいはこうも言えよう。 すなわち、超越の暴力は、物の秩序をおとしめ、悪いもの一隷属的なものとして維持 するために発動する。それが理性とモラルの判断である。反対に、供儀の暴力は、物 の世界(過剰分)を破壊するが、それは物からも人聞からも失われた『親密性アンチ ミテ Jを再び見いだし、同時に物の秩序の本源性(聖性との循環)を回復し維持する ために発動する。供儀とは、祝祭の暴力であり、それをもって人間は『内在』界、聖 性、神性あるいはエステティックなものへと接近し、そこであの不可能なもの、存在 の連続性にわずかでも触れることができる JC 同前、 p .2 0 3 ) ノてタイユにおける「供儀の暴力」が「人間に加えられるのではない」というのは、 今村氏の勝手な独断であろう。現に、彼はパタイユの最大の後継者としてジラールを あげるが、ジラールにおける「供儀の暴力」とはいうまでもなく人間が自分たちを共 同体へと構成するために自分たちから排除したひとりの犠牲者に加える暴力なのであ る。では、このジラールの「供儀の暴力 Jがパタイユのそれ一一人間に加えられるの.
(19) 1 0 4. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN o . 2( 1 9 9 7 ). ではない、祝祭の暴力とされる一ーとどう関係するのか、遺憾ながら、この点につい 同前、 p .2 0 6 ) とされ、与え ての説明はこの著作のなかでは「今後の課題とする JC られていない。しかしながら、パタイユの著作を読めば、至高性のニーチェ的な快楽 がなによりも「侵犯」を本質的な契機として成立するものであり、そこにはサドへの 賞賛に明らかなように凌辱の観念や殺人の快楽が明らかにイメージされている事情は 否定すべくもない。今村氏はパタイユの「供儀の暴力・祝祭の暴力」を紹介するにあ たって、その暴力が苧むサデイズム的性格を意図的に削り落とし、そのようにして、 ノイタイユ的ユートピアの暗黒性を解毒し、覆い隠そうとしている。とにかく、この本 のなかでの彼のパタイユ論にはパタイユの思想が苧む暴力性、またそれが本質的に 「社会的実践」の立場に対しでは敵対的な審美主義的立場であることについての批判 的考察は何一つ展開されていない。そして他方、サルトルの存在はまったく黙殺され ている。 今村氏自身の「第三項排除」を論理的基軸とする暴力論についてはとりあえず 次の諸点だけ指摘しておきたい。彼が「第三項排除」の論理を導き出してくる論 理的手続きは、いわばレヴィナス的なく存在〉の暴力論をホッブズ的な社会契約論理 で一一「戦争状態」としての「自然状態」を方法的に仮構したうえで、この「自然状 態」からの相互契約的な脱出論理として「社会状態」の契約論的構成の論理を提出す る一一脚色するところに成立するといえよう。そこでは、「社会契約」ならぬ「第三 項排除」のく供儀〉論的論理によって諸個人は「自然状態」を脱出し、自分たちのあ いだに制度的暴力としての社会的共同体を組織することになるわけである。 彼は「人間的現存在の原初的暴力」から論理を出発させようとして、「人間関係の 根源を考える場合、まだ規則も秩序も発生していないと仮定するムそうしたホッブ ズ的な「自然状態」仮説を方法的に採用するわけだが. r c 近代性の構造ム講談社、 p .. 2 1 6 )、こうした方法論的仮説の採用はマルクスに学んだ今村氏にはふさわしからぬブ ルジョワ・イデオロギー的な分析主義的世界観、原子論的分析主義への後退である。 原理的・本質的に共同体的な存在である人間は、自己保存の力に突き動かされつつ、 同時につねに、自己の存立基盤たる共同体を保持しようとする原初的な力に突き動か される。その二つの衝動のどちらも等根源的なはずである。自己を共同体として組織 し維持する必要を自分の存在本質として感じると同時に、そうであるからこそ一一稀 少性という環境においては一一、「余計者Jの排除という問題を契機として「万人の.
(20) 1 0 5 万人に対する戦争状態」に入り込みつつ、. 《異邦的〈他者〉ー〈我々〉共同体》ない. しは《供儀ー〈我々〉共同体》の他者性の回路を構成するということ、つまり、そこ には共同性の悪魔的転倒という疎外的な契機がつねに働いていること、この事情を今 村氏の「自然、状態」仮説から出発する「第三項排除」の論理では適切に把握すること は出来ないのではないか。 これに対して、サルトルははじめから「相互性」のうちでこそおのれを存立させて いる社会的=共同体的存在としての人聞から論理を出発させ、暴力の存立論理を「希 少性」の環境のもとで引き起こされる「相互性の悪魔的転倒劇が生む相互性の拒絶」 として把握し、暴力の存立論理を. r<悪〉のマニ教主義的構成が生むく他者性〉の回. 路」の成立のうちに捉えるのである。暴力はなによりも自分たちの共同体の外部的く 他者〉にこそ最も無慈悲かっ徹底的にふるわれてきたこと、そもそも人間にとってく 他者〉の概念の淵源は異邦的他者に対する共同体の自己投影的な恐怖に求められるで あろうということ、こうした暴力の原初的事態に適切に接近する道ははるかにサルト ルの側にあると思われる。 今村氏はレヴィナス的モティーフをホッブズ的に脚色することで、レヴィナス的モ ティーフのそもそもの精神的内容一一サルトルが問題とした「存在欲望」と重なる側 面をもっーーを希薄化させている。そのことは彼の議論がフーコーの「アンチ・ヒュー マニズム」の線で進行してゆくことにも大いに関係する。サルトルにおいては、その 暴力論の倫理的帰結は私の呼ぶところの「相互性のユマニスム」であるが、今村氏の 場合は反対に「人間中心主義」の超克である。ここで一言註釈を加えておけば、サル トルの「相互性のユマニスム」は「人間的本質」の普遍性に立脚した一ーしたがって、 この「本質」にもとる人間を「非人間」として排除し駆逐する誘惑に絶えずさらされ た一一ユマニスムではなく、「人間の条件」の普遍性に立脚した「実存」のユマニス ムである。サルトルの「相互性のユマニスム」が対抗しているのはパタイユ的にいえ ばまさに聖性の暴力一ーなんらかのく絶対〉・く存在〉・く全体〉への自己融解的欲 望を背後に秘めた一ーである。 今村氏は自分の考察を導く倫理的理念に「異者の共同体」というヴィジョンを掲げ て、こういう。「異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共 同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作る消極共同体は、たとえ無 力ではあっても、すくなくともそこでは排除と差別のない生活の実質が実現している.
(21) 1 0 6. Memoirso fTheS c h o o lo fB . O . S . T .o fK i n k iU n i v e r s i t yN . o2 ( 1 9 9 7 ). c r. ことだろう。そこでは人間か非人間かの問いが一切の意味を失うだろう J 近代性の. 構造ム p .2 0 9 )。しかしながら、このような共同体は実現するはずもなく、理念とし ても無力なものだと思われる。それより、サルトルのいわば普遍性と独異性との永遠 的で、つねに自己批判的な相互媒介運動を人間に義務づける「相互性のユマニスム」の 理念の方がよほど社会的=歴史的現実性の地盤を離れず、それに執働に対抗する意志 をもった力ある理念だと思える。. Summary Thep o s i t i o no ft h ep h i l o s o p h i c a lc o n s i d e r a t i o nonv i o l e n c ei nS a r t r e 'st h o u g h t -inr e f e r e n c et ot h er e l a t i o n s h i pbetweenS a r t r eandB a t h e i l l e Thep h i l o s o p h i c a lc o n s i d e r a t i o nonv i o l e n c ea c q u i r e sg r e a timportancei nS a r t r e ' s h a ti s,t h ep o s i t i o nu n i f i e st h et o t a l i t yo fh i st h o u g h t . Ass u c himportant t h o u g h t,t ti sc o n s i s t e di nt h ec r o s s i n go fS a r t r e 'stwomainp h i l o s o p h i c a li n q u i r i e s, theme,i twopr 、 o b l e m a t i q u e s .Thef i r s tonea t t a i n ssummiti n“ " C r i 1 ' ‘ 比 t i q u eo fd i a l e c t i c a lr 、 easo ぜ n l γ " whichgr ‘ a s p e sv i o l e n c ea st h ei n e v i t a b l es o c i a le l e m e n tf o rhumanb e i n ga r r e s t e d c a r c 1 江 t y "a st h eo n t o l o g i c a lc o n d i t i o n . From t h i sp o i n to fv i e w,v i o l e n c ei s 1 n “s graspeda st h er e f u s a lo fr e c i p r o c i t ywhichi so c c u r r e dbyd i a b o l i c a li n v e r s i o no f t h e r n e s s " produced by t h eM a n i c h a e i s t r e c i p r o c i t ythrough t h ec i r c u l a t i o no f “o e v i l " .Thes e c o n donea p p e a r sa st h ec o n s i s t e n tthemei nS a r t r e ' s c o n s t r u c t i o no f“ “e x i s t e n t i a lp s y c h o a n a l y s i s "i n q u i r yo ft h eFrencha u t h o r ss oc a l l e d“ t h ec u r s e d “ Ba u d r e l l e" , “S a i n tJ e n e t " and “L i d i o td ef a m i l l e " ,w hich o f f e r su st h e p o e t s ", c r i t i q u eo ft h ev i o l e n c eo fe s s e n c i a l l ya e s t h e t i c “n a r c i s s i s mo fn e g a t i v i t y "t h a t “i m a g i n a t i v eman" l i v e sandt a k e sonh i m s e l f .S a r t r e ' s“ ' e x i s t e n t i a lp s y c h o a n a l y s i s " -j u s tt h ei n t e n t i o no f“ B e i n gandn o t h i n g "i st oo f f e rt h eo n t o l o g i c a lbasef o ri t a t h e i l l ei s an i sv e r yt h emethodf o rt h i sc r i t i q u e .Andv i e w e da ti nt h i sl i g h t,B i m p o r t a n tr e p r e s e n t a t i v e man o ft h i sv i o l e n tw o r l d v i e wf o rS a r t r e . The p h y l o s o p h i c a lc o n f r o n t a t i o n between S a r t r a and B a t h e i l l ei sv e r yi n t e r e s t i n g and i m p o r t a n tf o rt h i sm a t t e r . Thesetwoc r i t i q u e so fv i o l e n c ebyS a r t r ej o i nt o g e t h e ri nonetheme,whichformes ani n n e rr e l a t i o n s h i p between two c r i t i q u e s,t h a ti s,t h e theme “humanism o f r e c i p r o c i t y " ,t h ec o r ei d e ao fS a r t r e ' smoralt h o u g h t ..
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