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一障害児教育における「発達保障論」の再検討一

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(1)

一障害児教育における「発達保障論」の再検討一

      福 島

はじめに

 現在我が国において、 「障害児教育」や「障害者運 動」を支える諸理念には、さまざまなヴァリエーション を見出すことができる。だが、それらの諸潮流のなかで も、とりわけ際立った対立を示し、また重要な問題を提 起しているのは、障害児(者)の「発達保障」をめぐる 議論の動向ではないだろうか。

 この「発達保障」をめぐる意見の対立は、たとえば、

障害児教育の分野においては、 「養護学校義務化」や

「インテグレーション」(統合教育)のあり方をめぐる 議論に発展し、一方、成人の障害者に関しては、施設へ の入所や地域社会での「自立生活」のあり方をめぐる議 論へと現実的・具体的展開を見せている。

 このような「発達保障論」をめぐる議論の担い手には、

行政当局、障害児の親や教師、研究者、障害児(者)自 身、さらにはこうした人々がつくる障害者関係諸団体な ど、立場や意見を異にするさまざまなものをあげること ができる。

 こうしたなかで、本稿では、相対立する立場の代表例 として、 「全国障害者問題研究会」 (以下、 「全障研」、

1967年結成)と「全国障害者解放運動連絡会議」 (以下、

「全障連」、1976年結成)の二つに注目する。前者は、

「発達保障論」を活動の理論的支柱とし、障害者、障害 児の親や教師、研究者らを中心として結成された研究団 体であり、後者は、この理論を批判し、 「障害者解放」

の理念をそれに対置させて結成された、障害者自身を中 心とする運動団体である。この二っの団体は、それぞれ の成立の経緯やその後の活動の展開において、理論的に も実践的にも独自の性格を持っており、単純な比較・考 察は困難である。

 そこで本稿では、 「発達保障論」とそれをめぐる諸議 論の理論的考察を中心とし、 「運動体」としての両者の 分析は別の機会にゆずる。また、 「発達保障論」をめぐ る議論の現実的展開であり、それと密接な関係をもっ

「養護学校義務化」をめぐる議論、および「統合教育」

のあり方をめぐる議論にっいても、立ち入った考察をす るゆとりはないであろう。

 我が国の「障害児教育」と「障害者運動」内部に存在

する鋭い意見の対立を克服するための、一っの理論枠組 を提出する試みが、本稿の主たるねらいである。

1「発達保障論」

(1)「発達」と「発達思想」

 「発達保障論」を検討するにあたり、まず「発達」と いう概念を確認する必要があるだろう。

 r広辞苑』(第三版)では次のように定義される。

 「①発育して完全な形態にちかづくこと。(筋肉の発 達)②進歩して完全な段階に向うこと。 (産業の発達)

③(心理学)個体がその生命活動において、環境に適応 していく過程。人類の文化遺産の習得によって身体的・

精神的に変化する過程。成長と学習との二要因を含

む。」1}

 また、教育との関わりで「発達」をとらえた場合、次 のように定義される。

 「歴史的・社会的文化の選択的な獲得による身体的、

知的、道徳的、美的な変化の過程を発達という。」2〕

 このように見てくると「発達」とは、主体の内的・外 的諸条件との関わりによって相対的ではあるものの、人 類の文化遺産を獲得する方向をめざしての、身体的・精 神的変化の過程だととらえられるだろう。さらに、はじ めの定義との関連で言えば、そこには、 「人類の文化遺 産の獲得」がより「完全」に行なわれることを期待し、

その結果生じる身体的・精神的変化がより「完全」に達 成されることをめざす、という価値意識が一般に暗黙の 了解として横たわっているように思われる。

 換言すれば、 「発達」とは、人問にかかわる身体的・

精神的等のさまざまな「変化」を定向的にとらえた概念 であると同時に、その「定向性」に価値意識を付着させ た概念であるという「二重性」を持っと考えられるので はないだろうか。もしそうだとすれば、この「二重性」

という構造はきわめて重要である。なぜなら、 「価値意 識」にはさまざまな「価値尺度」が想定され、その相違 によって、 「発達観」、 「発達思想」にも根本的な差異 が生じると思われるからである。この点については、後 に触れることとする。

(2)

「教育科学研究」第10号 1991年6月

(2) 「発達保障論」と「発達保障運動」

 次に、 「発達保障論」と「発達保障運動」について検 討する。

 茂木俊彦は「発達保障」にっいて定義するなかで、次 のように述べている。

 「滋賀県大津市にある精神薄弱児施設、近江学園の糸 賀一雄、田中昌人を中心とする実践研究において1960年 頃から用いられるようになった言葉。精神発達の遅れた 子どもを健常児の発達研究のための比較対象群としての み扱ったり、実践とのかかわりを抜きにしてもっぱら r発達とは何か』を問う態度を批判するところから生ま れた。いいかえれば、この言葉には、子どもの発達の筋 道をできるかぎり明らかにし、その筋道にそってよりよ い実践を展開することによって、発達の筋道がいっそう 明確に把握されるとともに、次なる実践のあり方をも問 われていくという、動的な発達観、実践観がこあられて

いる。」3)

 また、 「発達保障論」の前提となる「発達的障害児理 解」について、茂木は次のように言う。

  「障害児はそれ自体社会的なものとの関連で相対的で はあるが、なお残る障害ゆえのハンディキャップその他 の条件によってこの困難(すべての人間に共通の発達上 の「危機」一福島)をいっそう増幅したかたちで経験せ ざるをえない子どもであると考えられる。」4}

 それでは、こうした「発達保障論」を中核とする「発 達保障運動」とはどのようなものだろうか。前述の「全 障研」を中心にすすあられてきている「発達保障運動」

について、清水寛は次のように述べる。

 「発達保障運動とは、…旧来の慈善・慈恵的、社会効 用的・社会防衛的障害者対策や能力主義的・社会適応

(順応)主義的特殊児童観・特殊教育観を批判し、どの ように重篤・重症の障害者をも含め、全ての障害者の障 害の軽減・除去と人格発達の可能性を確信し、その主権 者としての生きる権利、発達する権利の実現をめざして、

障害者・家族、教育・福祉・医療等の関係者、研究者、

学生、自治体職員、一般市民等、広範な人々の実践・研 究・運動によって創造され、発展してきた社会運動の一

つである。」5}

 さらに、この運動の性格・特徴として次の四点をあげ る。すなわち、第一は、「発達権」を生存権のひとつと して位置づける点、第二は、発達研究と発達保障の実践 を結合させる点、第三は、個人・集団・社会の「三つの 系」の発達の統一的実現をめざす点、そして第四は、研 究運動的側面と国民的要求運動的側面の結合をめざす点、

である6)。

 そして、 「発達保障」という立場からの、さまざまな 実践と運動の展開がなされたとして、いくつかの「成 果」をあげている。それはたとえば、障害児の不就学を なくし、すべての障害児に教育権を保障する運動、重症 児に対する療育の実践、障害の早期予知・発見、治療・

相談と自治体におけるその施策を促進するとりくみ、成 人障害者の労働・集団・生活の場づくりや発達に必要な 労働の中身などの検討、等であるT)。

 このように、全障研を中心にすすめられてきた「発達 保障運動」は、従来の古い「障害者観」を打破し、いく つかの点で革新的な成果をあげてきた。それは、広く一 般国民の共感を呼ぶものでもあった。だが、その一方で、

理論的にも実践的にもさまざまな議論を巻き起こすこと となる。とりわけ、1979年に実施された「養護学校義務 化」をあぐる問題と、現在も進行中の障害児の「インテ グレーション」(統合教育)をめぐる問題において、

もっとも多くの批判にさらされていると言えるだろう。

 それは多くの場合、 「発達の保障」か「『障害者』

(人間)解放」か、 「障害に応じた適切な教育」か「共 生共育」8)か、 「障害児学校」か「地域の普通学校」か、

といった二者択一的な対立の図式を作り出している。清 水は、こうした対立の図式が、たとえば、 「臨教審路 線」に対して共同戦線をはるべき議論の場においても顕 在化していると指摘する9)。

 それでは、このような対立はなぜ生じるのだろうか。

次章では、 「発達保障論」批判の議論を検討する。

2「発達保障論」批判

(1) 「権利論」の観点からの批判

 前章で述べた「発達保障論」に対して、現在までにさ まざまな批判が試みられている。そのなかから三つの立 場を選び考察を加えたい。まずはじめに、 「発達保障 論」を「発達権理解の混乱」の観点から批判する柴崎律 の主張を取り上げる。

 柴崎は、 「発達保障論」を全面的に批判しているわけ ではなく、その歴史的意義は評価している。すなわち、

「発達保障論」の歴史的意識が、 「障害者の生存と発達 を明確に権利の問題として捉えかえしたところにあっ た」として、その意義を次の二点において評価する。第 一は、旧来の(障害者の)発達限界説を打ちやぶったこ とであり、第二は、そうした限界説の反映ともいえる、

重度精神遅滞者らの教育からの切り捨てという教育政策 に対して、根底的批判を内含していた、という点である

10〕@O

 だが、その「発達保障論」には論理的な欠陥があり、

(3)

それが全障研の実践や運動にも影響していると指摘する。

氏の言う「論理的欠陥」とは、 「発達の筋道の共通性」

論と「発達保障」の権利論との混同である。そして、全 障研の指導的理論家のひとりである田中昌人が、重症心 身障害児も含め、すべての人間が発達の共通の筋道のど こかに位置しており、そうした「発達の筋道の共通性」

が、 「すべての人間の発達ゐ権莉性に理論的根拠を与 え」るm、と主張したことに対して、次のように反論

する。

  「現在、障害者が健常者と平等・対等な発達権を主張 しうる点に異存があろうはずはない。ただ、私は発達権 の根拠をr発達保障』論者のいうようなr発達する筋道 の共通性』などに求めないだけである。すべての人間に 平等たるべき発達権の根拠は、あくまで平等性概念の民 衆的定着という歴史的事実にこそある。」1 2)

 そして、いまだ「仮説」としての「発達の筋道の共通 性」が、普遍の真理であるべき「すべての人間の発達あ 権莉性」に理論的根拠を与える、という関係が、明らか な矛盾を含むものであると批判する。

 この指摘は、 「人間の平等性」に根拠を持っべき「発 達の権利性」と、いまだ研究の途上にある「発達の筋道 の共通性」という次元を異にする問題を、因果関係で結 びつけることへの批判だと受け取れる。その意味で、正 当な批判である。だが、 「発達保障論」そのものに対す る批判としては、次の理由から適切とは言い難い。

 第一は、 「発達保障論」を支持する立場が、 「発達の 筋道の共通性」を「すべての人間の発達の権利性」の唯 一の根拠にしているかどうかは議論の余地があるからで ある。実際、 「発達保障論」を支持する論者のなかから も、この「発達の筋道の共通性」論については疑問が出 されている。(たとえば、茂木は、障害児を含めたすべ ての子どもが共通の発達の筋道に従う、という主張には、

慎重な立場である1 3}。)

 第二は、 「発達の筋道の共通性」論以外にも、 「発達 保障論」の観点から「発達の共通の権利性」を主張しう る可能性が存在するという点である。たとえば、柴崎自 身も紹介している「発達保障論」の成果のなかに、 「発 達障害はすべての人が直面する」という命題がある1 4)。

これは、 「発達の筋道の共通性」をかならずしも要求し ないし、理論的には、 「すべての人が直面する」という 部分が持つ「普遍性」がゆえに、先の「権利性jの根拠 たり得る可能性を有していると思われる。

 第三は、仮に「発達権」を要求する根拠が不適切な根 拠であったとしても、その「権利」自体が正当であれば、

それを要求することは、根拠をどこに置くかを議論する

ことよりも優先されるだろうという点である。

 したがって、柴崎の指摘は、 「発達権」の要求をいか に行なっていくべきか、というレヴェルでの議論には貢 献できても、 「発達保障論」それ自体に対しての批判と

しては、有効性を持ち得ないと思われる。

(2) 「『障害者』解放運動」の立場からの批判  次に、 「r障害者』解放運動Jの立場からの批判を取

り上げる。

  「障害者」解放運動は、前述の「全障連」を中心にす すめられてきた運動である。 rr障害者』解放」の意味 について、楠敏雄は次の三点を提示する。第一は、 「障 害者」自身が強くなり、自らの「障害」を堂々と主張し ながら、自立をかちとっていくこと。第二は、 「障害 者」をとりまく「健常者」が、 「障害者」の生き方にふ れて、自らの「障害者観」、 「人間観」を変革していく こと。そして第三は、 「障害者」の自立と「健常者」の 意識変革を通して、利益中心の社会、人間をふるいわけ ていく社会そのものの変革をめざしていくこと、である

15}

 この「障害者」解放運動の大きな特徴は、つねに「障 害者」自身の生活実感が運動の根底にあることと、 「障 害者」自身が中心となって展開されてきた点であろう。

またそこには、 「障害者」を慈善・慈恵の対象としてと らえてきた古い「障害者観」に反発するだけでなく、特 別の教育や訓練を受けるべき対象、あるいは、発達研究

という「科学的研究」の対象とされることへの強い忌避 意識が伴っている。楠は「発達保障論」に対して、次の ように反論する。

 「…これは、一部でいわれているように、私たちが r発達』を拒否しているとか、訓練をいっさい否定して いるとかいうことを意味しているのではありません。あ まりにもr発達』r訓練』でr障害者』の24時間をしば ることへの反対として、r発達』ナンセンス、 『訓練』

いやだということがr障害者』自身の生の声として出て くるのです。」16}

 「もちろん、私たちも発達そのものを否定するもので はありません。…差別との闘いを通じてr障害者』自ら が自立することを要求し発達を遂げてゆくであろうし、

r障害者』の解放をめざして共に闘うもののみが真に

『障害者』の発達を保障しうるといいきってさしつかえ ないと思います。」1 T}

 これらは、障害者の発達を保障することを重視する

「発達保障論」に対して、障害者にとって第一に重要な ことが、彼らをとりまく差別の現実を見抜き、それに立

(4)

「教育科学研究」第10号 1991年6月

ち向かう力を養うことである、という主張だと思われる。

実際に差別を受けている側(楠自身視覚障害者である)

からのこうした発言には、差別を告発する重い響きが込 められている。

 だが、楠の主張は、 「発達保障」よりも「差別との闘 い」に力点を置くべきだ、という意味では重要な問題提 起を含んでいるものの、それが「発達保障論」それ自体 の批判として有効であるとは言いきれない。というのは、

「差別との闘い」と「発達の保障」は、少なくとも理論 的には矛盾を含まないと思われるからである。

 たとえば、全障研の結成大会における基調報告のなか には、次のような表現が見られる。すなわちそれは、獲 得した「操作の高次化」という「上への発達」のほかに、

その操作のしかたを志向的自由度をもって高めていく

「ヨコへの発達」が重要であるとしたうえで、この「ヨ コへの発達」とは、「他の人との創造的連帯のなかで、

差別にむかって矛盾を切り開き、解放をかちとっていく 主体的な闘い」である、という主張であるt8)。

 また、茂木は、障害児の諸能力の発達を保障すること は、 「差別を見抜き、それとたたかう力を形成していく ことと矛盾しないどころか、そのためにこそ必要であ る。」と述べ、差別問題への強い関心を示している1  )。

 こうした主張を見るかぎり、 「発達保障論」の立場か らの障害者差別問題への接近が、必然的に「障害者」解 放運動の立場からのそれと矛盾・対立する、という論理 を導き出すことは困難だと思われる。だが、現実には、

これらの主張の具体的展開において、両者は激しい対立 を見せるのである。その対立の構造を分析するためには、

 「発達思想」そのものにむけられた批判を検討する必要 があるだろう。

(3) 「反発達論」の立場からの批判

 ここでは、山下恒男のr反発達論』 (現代書館、1977 年)を取り上げる。これは、現代社会のすみずみまで浸 透している「発達一進歩」思想の抑圧的本質を分析し、

そうした「発達観」を根底で支えている「発達心理学」

等の「科学」の本質(そこには社会・経済的要請がはた らいているとされる)にも言及することをねらった野心 的な著作であった。その意味で、 「発達保障論」だけが 批判の対象にすえられているわけではないが、 「発達思 想」への批判は、 「発達保障論批判」にそのまま直結す

るものだと思われる。

 山下は、 「発達批判」を行なう場合の視点として次の 三っをあげる。

 第一は、 「発達の目標のあいまいさ」にっいてである。

それは、発達が何らかの理由(例えば「障害」)によっ て阻害された場合には、 「適切な発達」が志向されるが、

そもそも「良き発達」とはいったいととた発達すること をめざしているのか、という問題である。「つまり、発 達させていく過程とそこでの発達のさせ方に熱中してい る一方で、子どもをどこにっれていくのかは抽象的にし か語られないのである」と指摘し、発達の「目標」がき わめてあいまいであることを批判する。

 第二は、発達研究の有効性への疑問である。すなわち、

もし発達心理学等の発達研究が子どもの発達に寄与する のであれば、今の子どもや大人は、昔の子どもや大人よ り発達しているはずであるが、現実ははたしてそうだろ うか、という点である。

 第三は、労働概念の検討をぬきにした発達論の非現実 性についてである。つまり、発達は結局社会における労 働によって価値付けられているのであり、「労働概念」

自体の検討が必要である、という点である2°)。

 これらは、いずれも「発達論」を批判的に検討するう えで、重要な視点を提示しているといえるだろう。特に、

第一の視点は、発達に対するイメージが、その「プロセ ス」と「結果」において別の姿をとる傾向を指摘したも のであり、この両者をどのように統一的にとらえるかと いう問題と関わって、注目すべき論点を含んでいる。た だし、本稿のテーマである「発達保障論」の検討を行な う観点からすれば、次に示す「発達概念の抑圧性」につ いての考察が、最も大きく関わってくると思われる。

  「ほとんど発達が期待されない重度の障害者にとって は、発達は抑圧的な概念にならざるを得ない。発達する 存在だけが価値のある存在であるとすれば、その可能性 のない者は存在の価値がないということになる。」21}

 こうした主張に対しては、「いかなる人間でも発達す る可能性があり、発達を強調することがそのまま発達で きない人間の否定にっながるのではない」という意味の 主張が、反論として予想されるとしたうえで、それに対

して次のような再反論を試みる。

  「現実の社会では発達のスピードとか量のみが問題に されて」おり、 「給料は労働者の努力に対して支払われ るのではなく、彼のあげた生産性に対して支払われるの であるから、現実の社会では発達の絶対量(しかも、生 産性によって計量されるところの)以外は問題にならな い。」そして、「少しでも発達すれば、というようなこ とは、理念的に尊重されているにすぎない。」と述べる

22)

 山下の議論の特徴は、第一に、個人レベルでの「発 達」と社会レベルでの「進歩」の思想を貫く「価値尺

(5)

度」として「生産性」の概念を想定し、その概念自体を 問題にしている点にあり、第二に、これまで自明のこと として片付けられてきた「発達を肯定的に見る価値観」

そのものを検討対象にしている点にある。その意味で、

「発達保障論」を理論的に批判する重要なモメントを含 むものだといえよう。

 しかし、このような「発達思想批判」を踏まえて、そ れでは次にこの思想に対してどのような思想を対置させ るか、という議論になると、明確な立論を見出すことは 困難である。また、先に示した「発達の概念の抑圧性」

を批判するなかで、 「予想される反論」に対して行なっ た山下の「再反論」も適切なものだとは思えないので、

それにっいて検討する。

 もし、現実の社会で「発達のスピードや量」のみが問 題にされることを批判するのであれば、その批判は、そ うした「現実の社会の価値基準」自体に向けられるべき であり、先の「予想される反論」を直接の対象にするこ

とは不適切ではないだろうか。っまり、 「少しでも発達 することに価値がある」という理念が、現実社会におい て実際には通用しないからといって、その「理念」自体 の価値が否定されたことにはならない、ということであ

る。

 したがって、山下の批判は、 「理念」の現実社会にお ける適用のされ方に向けられたものではあっても、 「理 念」レベルでの批判が充分有効になされているとは言え ないであろう。

3「発達保障論」の再検討

(1)「能力の発達」をめぐる土葎背皮酌宿値意識  これまで「発達保障論」とそれに対する批判的主張を 検討してきた。これらの批判は、かならずしも適切なも のだといえない面を持っていたものの、他方で、「発達 保障論」が内包するいくっかの問題点を指摘するもので あった。

 ところで、このような「発達保障論」とそれを批判す る立場の主張とを対置した時、そこには、どのような未 賞的な対立構造が存在するのだろうか。この点を考える

うえで、竹内章郎の議論は注目に価する。

 竹内は、現代の教育と社会をおおう「能力主義」思想 を批判するために、主体と能力との関係を、 「人間存 在」と「能力〔差〕」との燦介的結合として把握するこ とにより、 「能力〔差〕による差別」に抵抗しうる立論 を試みている。だが、「能力」や「発達」をめぐる現代 の癌値意識には、いまだ解決されない土葎背皮の構造が 存在するとして、次のような分析を行なっている。

 「日常意識的に言って、能力の全面発達を志向する価 値意識は能力の発達による人格の豊饒化を意図し、この 点と相即して能力不全や能力が『劣る』ことに対する忌 避の意識や能力〔差〕と人間存在との無媒介的結合一 rである』という関係規定一を自明視する意識を育てざ るをえず、能力〔差〕による〈人間存在の平等性〉の否 定を内包せざるをえないであろう。しかしこの価値意識 に基づく諸課題が人類の解放にとって必須のものである ことも自明であろう。他方、〈平等な人間存在〉が能力

〔差〕を占有ナる・rもら』たナぎなぐ・として能力

〔差〕を捉えようとする価値意識は、確かに人間諸個人 の了解における〈人間存在の平等性〉を強く志向するこ とになるが、単なる抽象的ヒューマニズムほどではない にしても、能力の発達・陶冶に関しては消極的立論を提 示するにすぎないであろう。平等論を主題としている本 稿では後者を軸にしたうえで前者に接近するという方法 を示唆しているが、現在までの『人間社会』における現 実的問題・事実問題としては、能力〔差〕に関するこの 両者は、二律背反的価値意識・二律背反的知として存在 していると言わざるをえない。したがってより大きな観 点からは、この二律背反を保持しっつ媒介しうるような

メタレベルが文化の課題として求められているといえ

る。」23)

 この分析は、 「発達保障論」を検討対象とする本稿の 関心にひきっけて考えるとき、きわめて示唆的である。

すなわち、竹内の言う「能力の全面発達を志向する価値 意識」は、そのまま「発達保障論」の根底にある「価値 意識」としてとらえることが可能であり、また、〈平等 な人間存在〉が能力〔差〕を占有ナる・「もそ)」たナぎ なぺ・として能力〔差〕を捉えようとする「価値意識」は、

「反発達論」やrr障害者』解放運動」の「価値意識」

と共通する部分を多く含んでいると思われるからである。

 しかしながらその一方で、前者の「価値意識」が生産 力の増大を含む文明の進歩によって、人類を飢餓・貧困

・病苦等から解放する、といった営みに積極的た接続し ているのに対し、後者の「価値意識」が、そうした営み

に消極歯た関わる立場をとらざるを得ないという構造が 存在すると思われる。

 それでは、こうした二律背反を保持しっっ、両者を媒 介しうるような「メタレベル」の価値意識とは存在する のだろうか。筆者は、その「メタレペル」の価値意識と して、 「各人の幸福実現を志向する価値意識」を想定す

る。

 教育学を含む人文諸科学の検討対象として、 「幸福」

というきわめて観念的で主観的なテーマを持ち出すこと

(6)

「教育科学研究」第10号 1991年6月

に、筆者自身抵抗を感じることは確かである。しかし、

本稿の目的である「発達保障論」をめぐる諸議論の検討 を行なうなかで、そうしたさまざまな立場の主張は、そ もそも荷ゐたあたなされているのか、という問いに逢着 したのである。そこで得た結論が、各人(ここでは障害 児(者))の「幸福の実現を志向する価値意識」であっ た。筆者は、障害児教育や障害者問題の研究、種々の障 害者運動等、障害児(者)に関わるあらゆる営みの根底 には、本来この「価値意識」が横たわっているべきだと 考えるのである。

 そこで、従来の「発達保障論批判」の方法を反省し、

この「幸福実現を志向する価値意識」の観点から、 「発 達保障論」の批判的検討を試みる。また、あわせて障害 児(者)の「幸福の保障」にっながる教育や社会の条件 についても、若1:・の考察を加えたい。

(2)「発達保障論」が内包する二つの危険性 a.発達における「価値の序列性」

 障害児(者)の幸福を保障するという観点から、 「発 達保障論」を検討してみると、そこにはふたっの大きな 危険性が潜んでいるように思われる。まず第一に問題と したいのは、発達における「価値の序列性」についてで ある。つまり、障害児教育において「障害児の発達」に 至上の価値を見出すとすれば、そこには、常に「価値の 序列性」が生じる危険性が存在するのではないかという

ことである。

 ここでいう「価値の序列性」にはふたっの側面が考え られる。第一は、ある特定の個人内部における「序列 性」であり、第二は、ある個人と他者との間に存在する

「序列性」である。

 第一の側面は、例えばある障害児が、諸能力を発達さ せ、行動のレパートリーをふやすことに「価値」を見出 すような場合であり、これはいわば個体内部における

「継時的序列性」と考えられる。

 第二の側面は、ある障害児が、他の子どもと比較され たときに生じる「発達的価値の序列性」であり、これは 個体間における「同時的序列性」だと考えられる。

 第一の側面は、 「かってできなかったこと」が「現在 できるようになった」という事態を喜び、 「将来さらに 様々なことができるようになる」ことをめざすという素 朴な価値意識を背景にもっと思われる。これは「発達保 障論」の中核をなす価値意識だと考えられるが、そこに 生じる個体内部の「発達的価値の序列性」自体に、問題 があるわけではない。しかし、この価値意識が第一義的 に尊重されてしまうと、どんな発達段階においても最高

度の関心をもって考えられるべきである「個人の幸福の 実現」という自内が見失われてしまうのではないだろう か。さらに問題なのは、この第一の側面を強調すること は、 「能力〔差〕」による差別をともないやすい第二の

「序列性」の側面に、そのまま接続するという危険性を はらんでいることである。

 こうした主張に対しては、 「発達で重要なことは結果 ではなく、発達すること自体、発達のプロセス自体であ

る」という主旨の反論が出されるかもしれない。たしか に、 「発達の価値」を「結果」ではなく、 「過程」とし てとらえれば、少なくとも前述の第二の側面の個体間の

「価値の序列性」は生じにくい。しかし、第一の側面に ついてはどうだろうか。

 障害児教育において、障害児が「発達すること」に至 上の価値をおき、その価値を「結果」にではなく、 「発 達すること自体」におくとすれば、発達が自己目的化さ れ、自己完結的な価値概念として成立することになる。

そうすると、 「発達の主体」であるべき個々の障害児が、

「発達の価値を実現するための存在」としてしか把握さ れないという矛盾が生じてしまう。

 こうした問題は、 「発達」という内的変化(いわば

「運動」)にのみ価値を見出すところから生まれるので はないだろうか。障害児(者)の幸福実現にとって重要 なのは、 「運動」としての発達よりも、 「存在様式」と しての「生活の豊かさ」なのではないか。「発達の保 障」は、対象とする障害児(者)の「幸福の実現」とい

う第一の目的に真にかなっているという条件のもとでの み、意味をもっと思われるのである。

b. 「能力観」の一面性

 「発達保障論」が内包する第二の危険牲として筆者が 指摘したいのは、その「能力観」の一面性である。それ は、 「発達保障」の対象とその「保障」のあり方に関係 する。

 「発達保障論」が対象とするのは、障害児(者)の諸 能力と人格の全面的な発達である。しかし、人格の重要 な部分は「諸能力」であり、 「発達保障論」がおもに対 象としている部分も、 「広義の諸能力」ととらえてよい であろう。それでは、 「発達保障論」は、障害児(者)

の諸能力の発達をどのように保障するのだろうか。

 ここで筆者が注目したいのは、 「能力それ自体の発 達」をどのように保障しているかということではなく、

その「発達した能力の現実的な展開」を、どのように保 障しているかということである。

 前者について言えば、実証的な研究と実践の積み重ね により、一定の成果をあげていると思われる。しかし、

(7)

後者についてはどうだろうか。障害児教育における「イ ンテグレーション」の問題への対応が、ひとっの検討対 象となるだろう。

 ここで、 「インテグレーション」をめぐる諸議論にっ いて詳述する余裕はないが、 「発達保障論」の立場から の「イシテグレーション」問題へのアプローチの特徴を あげるとすれば、次のようになるであろう。すなわちそ れは、各障害児の「諸能力の発達」をもっとも効果的に

「保障」することが「障害児教育」の第一義的な目的で あり、どの学校で、どうしたかたちでの教育を行なうか は、その「目的」にかなうかどうかによって判断される べきである、という考え方だと思われる2 }。

 この考え方が持っ危険性は、先に示した「能力の現実 的展開の保障」に対する目的意識性の欠如にあると思わ れる。そもそも「能力」とは、「能力」それ自体では意 味を持たないのではないか。その「能力」が主体によっ て「現実に展開」され、外界や他者との相互交渉のなか で、具体的に発揮されてこそ、主体の生活にとって価値 あるものとなるのではないか。たとえば、障害児学校に おいて「適切な教育」を受け「書き言葉の能力」を身に っけたある障害児が、その能力を発揮すべく手紙を書こ うと思ったとき、その手紙を書くべき肝心の友人がほと んどいなかったとしたらどうだろう。それでも、この障 害児の「能力の発達」を保障したことになるのだろうか。

 そうした意味で「インテグレーション」の問題を考え るとき、そこには、 「障害児の能力の発達にとってもっ とも効果的である教育をめざす」ことにのみ力点が置か れるべきではなく、障害児がみずからの能力を発揮し、

それを他者との交渉のなかで、実瞭た震蘭渉る手辛シ烹 を最大限に保障することをめざす、という目的意識性が 求められるのではないだろうか。そして、そうであれば、

「能力を発揮する場やそれを響きあわす他者」の存在の 可能性がより広く保障された「健常児と共に学ぶ」とい う教育形態が、新たな意味をもって把握されるべきでは ないかと考える。

(3)「幸福の保障」をめざして a. 「価値意識」の変革

 ところで、これまで「幸福」という概念を、とりたて て定義せずに用いてきた。それは、本稿が「幸福論」の 検討を主たる目的としていないという理由の他に、本来 幸福は各人によって実現されるべき価値であり、その基 準や内容の選択の自由は、自ら各人に存するものだとい

う考えが筆者にあったからである。

 教育の本来の目的は個人の幸福実現に寄与することに

あるという趣旨の議論は、以前から繰り返しなされてお り、たとえば、次のような主張はその代表的なものの一 つであろう。

 「もちろん個人の幸福は、一様なものとしてはとらえ られないし、幸福の価値に対する確信や思想は、多様で ある。だからこそ、それは個人の内面にかかわる私事で あることを要求する。私事を組織するということは、す べての個入の幸福の追求と教育とが直接に結びあうこと であり、子どもの幸福追求の自主的能力の成長に、教育 が責任をもっということである。そして、なにを幸福と するかはすべて個人がそれを定めることを承認しっっ、

その能力の開花に平等の機会を保障する組織をっくるこ

とである。」25)

 教育の目的をこのように位置づけるとき、それは障害 児教育の目的としてとらえてもよいであろう。そのうえ で、我が国の障害児教育がどこまでこの「目的」にか なっているかが厳しく問われねばならないだろう。現代 の障害児教育のあり方を、 「個人の幸福追求」という観 点から、再び考えてみたい。

 もとより、幸福は「個人の内面にかかわる私事」であ る以上、障害児(者)の幸福の基準やその評価の仕方も、

全くの「私事jである。しかし、その大前提を確認した うえで、なお障害児(者)の幸福実現のために、筆者は いくっかの重要な条件を見出すことができるのではない かと考える。ここでは、そのうちふたっをとりあげる。

 障害児(者)の幸福実現を保障するうえで筆者が重要 だと思う条件のひとっは、 「価値意識の変革」である。

これは、前節で検討した「発達における価値の序列性」

に関係する。すなわちその価値意識とは、 「障害」や

「発達」、 「能力」といった概念に対する価値意識であ り、障害児(者)を含めた「人間存在」自体にっいての 価値意識である。そうしたものに対する自らの価値意識 を、障害児(者)自身や周囲の人間(家族や友人、教師 等)が直視し、そのなかに潜む「差別的価値意識」を変 革していくことである。

 上田敏は、リハビリテーション医学の立場からこの問 題に触れ、障害をもった患者の内面に現代社会の「価値 観」が浸透している状況について述べている。

 「現代の工業化し競争社会化した社会のもっ、もっと も支配的な価値体系、競争力・生産力・若さを中核とし た価値の序列(そこでは障害者や老人はそれだけで脱落 者にほかならない)に患者自身が心の奥底まで支配され てきたたあに、その価値基準に照らして自分自身をr無 価値になった』と感じざるを得ないのである。」26}

 そして、こうした「価値観」を逆転することが、真の

(8)

「教育科学研究」第10号 1991年6月

「障害の受容」にっながると述べる。このような「障 害」に対する価値意識の逆転をめざす姿勢は、 rr障害 者』解放」の立場から、特に強く主張されている。たと えば楠は、「寝たきりのr障害者』が自分でごはんを食 べるということ、あるいは自分でトイレに行くというこ と、それ自体がいっしょうけんめいだし、必死で闘って いる。生きるということを、そういう人たちほど真剣に、

いっしょうけんあい闘っている人はいないのではなかろ

うか。」27}と言う。

 また、 「発達保障論」の立場からも、たとえば大泉溝 は、障害者の「自立」を考えるうえでの第一の視点とし て、 「存在論的視点」をあげている。

 「この視点は、たとえどんな障害をもとうとも、かけ がえのない人間として存在し、今日の社会の中で実際に 生存しているということである」とし、 「障害者がそれ

自体として社会的に存在価値をもち、それゆえに人闇と してまさに自立した存在だ」という「障害者観」を提示

している2s} 。

 この「存在論的視点」が、 「発達」を志向する価値意 識との間で、どのような関係構造をもって把握されてい るかは、かならずしも明らかではない。しかし、この大 泉の主張は、 「発達保障論」の内部にあって、 「発達」

に至上の価値を見出す価値意識に変革を要請するモメン トを含んでいるものとして注目したい。

 障害児(者)の「幸福」を存在論的に考えるならば、

究極的には、 「人間存在」の無条件的価値の把握が必要 であり、そうした価値観を背景に持っ幸福観が要請され

る。その意味で、神谷美恵子の次のような思索は、傾聴 に価する。

  「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるも のではない。野に咲く花のように、ただr無償に』存在 しているひとも、大きな立場からみたら存在理由がある にちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられ ないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、

私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存 在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体 の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙の なかで、人類の存在とはそれほど重大なものであろうか。

…現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内にはみ いだしえず、r他者』のなかにのみみいだしたものでは なかったか。五体満足の私たちと病みおとろえたものと の間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。」29)

 障害児(者)の幸福を実現する条件としての「価値意 識の変革」とは、 「障害者観」、 「人間観」のなかから、

「発達に価値をおく意識」を完全に分離することではな

いだろうか。前節で述べた「発達保障論」が内包する

「価値の序列性」という危険性を厳しく自覚し、障害児

(者)の「存在様式」、すなわちその「生活のあり方」

をゆたかにする営みに文字どおりの最大限の価値を見出 す、という姿勢が必要だと思われる。換言すれば、「発 達」の概念が主体の存在に溶け込んそぐ、るのに対し、

「幸福」の概念は、常に主体と垂直歯な関係を保ってい るのであり、どのような主体の状態(発達の状態)にお いても、もっとも「貧しい」幸福の実現度から、もっと も「豊かな」幸福の実現度まで想定し得るということで

ある。

 筆者は「発達の保障」の意義を否定するわけではない。

「発達の保障」と「幸福の保障」を同一視する姿勢に抵 抗するのである。「発達の保障」と「幸福の保障」とを はっきりと分離し、そのうえで、前者がどのように後者 に貢献するかを、厳しく吟味する必要が障害児教育に求 められているのだと考えるのである。

b. 「能力の展開」の現実的保障

 障害児(者)の幸福を実現する条件として、もうひと っ重要だと思うものをあげれば、前節で指摘した「能力 観の一面性」を克服し、障害児(者)の能力を現実的に 展開することを最大限に保障する、ということである。

そこには、学校教育や社会福祉、国や地方自治体の行政 等に関わる様々なシステムや諸施策の問題などが関連す

る。

 例えば、学校教育のシステムにっいていえば、 「能力 の発達の保障」を第一の目的として組みたてられている 現在の障害児教育のシステムにかわって、障害児(者)

自身や家族に、 「学校選択権」が与えられるシステムが 必要だと考える。何故なら、 「教育」は、それを受ける 子どもの幸福に寄与することを本来の目的とすべきであ

り、そしてその幸福の内容や尺度の選択権は、第一義的 に当事者に帰属すると思われるからである。

 この他にも、障害児(者)が健常児(者)と日常的に 自然なコミュニケーションをもつことを保障するための 取り組みが求められる。そこで重要なのは、「能力の発 達」自体や「教育的価値の実現」という目的だけでなく、

むしろ障害児(者)の現在と将来の生活をどれほど豊か にするか、という視点である。端的な例でいえば、いく ら能力が発達しても、それを響きあわせ、現実に展開す る相手、っまり友人がいなければ、どんなにすぐれた教 育も、充実した社会福祉も、色あせてしまうだろうとい

うことである。

 障害児教育の第一の目的は、障害児(者)の現在と将 来の幸福実現に寄与することである。この「目的」にど

(9)

れほどかなっているか、あるいはもとるか、を障害児

(者)自身や周囲の人々が自圭的た判断しながらすすん でいく自由が実質的に保障されるという方向が、今後の 障害児教育がきりひらくべき地平なのではないかと考える。

おわりに

 本稿では、我が国の障害児教育や障害者運動内部に存 在する「発達保障論」をめぐる諸議論を検討した。そし て、そこにみられるさまざまな見解の相違を媒介しうる 上位d)衝値意識を考察し、その価値意識として、「各人 の幸福実現を志向する価値意識」を想定した。障害児教 育や障害者問題のあり方に関する議論は、常にこの上位 あ佃信意識にてらして吟味されるべきである、というの が、本稿の結論の要約である。だが、残された課題は大

きい。

 まず、「発達保障論」をめぐる意見の対立を生みだす 諸要因のさらに詳細な分析が必要である。次に、 「発達 保障論」と「幸福論」とをどのような全体的枠組の中で

とらえるのかという理論的研究課題がある。さらに、障 害児(者)の幸福が現実にどのようなかたちで実現され ているのか、あるいは、阻害されているのか、を実証的 に研究するとともに、彼らの幸福に貢献する教育や社会 のあり方を構想するという最も重要な課題が残されている。

 付言すれば、こうした諸課題の背景には、障害児

(者)に限らず、現代におけるすべての人間の幸福のあ り方、及び、個人の幸福に教育や社会がいかに関わるか、

という問題をめぐる広大な研究領域が横たわっていると 思われる。

【註】

1) r広辞苑』第三版 岩波書店 1983年

2) r岩波教育小辞典』 岩波書店 1982年「発達と教   育」の項参照

3) r現代教育学辞典』労働旬報社 1988年「発達保   障」の項参照

4)茂木俊彦「発達における障害の意味」 r岩波講座 子どもの発達と教育3』 岩波書店 1979年 P.190

5)清水寛「発達保障運動の生成と全障研運動」

  田中昌人・清水寛編r発達保障の探究』 全障研出   版部 1987年 P. 243

6)同前

7)田中・清水前掲書 P. 322

8) 「共生共育論」は、すべての障害児が地域の普通学   校(普通学級)で健常児と共に学ぶことを目指す教   育理念であり、障害児の発達に応じた教育形態の選

 択を主張する「発達保障論」に対立する。 「反発達  論」や「障害者」解放運動の理念とも基調を同じく  する部分を多く含む。本稿では紙幅の関係もあり、

 検討対象にできなかったが、例えば、篠原睦治r共  生・共学か発達保障か』 (現代書館、1991年)等参  照。

9)清水 寛r人間のいのちと権利』 全障研出版部   1989年 P. 230

10)柴崎 律rちえおくれと自閉一発達保障理論の批判   一』社会評論社 1985年 P. 111

11)加藤直樹「障害者教育の理論と実践」 r講座日本の  教育 第8巻』新日本出版社 1976年P. 195〜P. 200 12)柴崎前掲書 P. 114

13) T「発達保障論」の成果と課題』全障研出版部 197   8年 P.25〜P.26

14)柴崎前掲書 P.ll3

15)楠 敏雄r「障害者」解放とは何か一「障害者」と   して生きることと解放運動一』柘植書房 1982年   P.19

16)楠前掲書P.122 17)楠前掲書P.50

18) r写真でみる全障研20年のあゆみ』全障研出版部   1986年 P. 87〜P.88

19)茂木俊彦r障害児と教育』 岩波書店 1990年   P.180

20)山下恒男r反発達論』現代書館 1977年 P.27〜P.

  31

21)山下前掲書P. 20 22)同前

23)竹内章郎「能力と平等についての一視覚」

  藤田勇編r権威的秩序と国家』 東京大学出版会   1987年 P. 513

24)例えば、藤本文朗・鴨井慶雄編r完全参加をめざす   教育一障害児教育妨害の「理論」批判一』全障研出   版部 1983年 P. 140〜P.141参照

25)勝田守一・堀尾輝久「国民教育における『中立性』

  の問題」 堀尾輝久r現代教育の思想と構造』所収    岩波書店1971年 P. 411

26)上田敏「障害をどう理解するか」 r障害児教育実践 体系 1』労働旬報社 1984P.39

27)楠前掲書 P.・20

28)大泉溝「障害者の人間的自立」 田中・清水前掲書   P.125 〜P.126

29)神谷美恵子r生きがいにっいて』みすず書房 1980   年 P.268

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