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キプ リア ヌス神学 の歴 史的意義

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(1)

キプ リア ヌス神学 の歴 史的意義

田 行 雄

A Hi st or i calSi gni f i cance ofCypr T an' sTheoJ ogy

YUKI O M ocHI DA

A bs t r a c t

′ mi spa pe ri sa na t t e mptt oc o ns i de rwha thi s t o r y

lS

,r e S e a r C hi ngi nt oahi s t o nc a l s i gni f i c a nc eo fCypr ia n' St he o l o gy.

Cypr ia nwa sbo r npr o ba bl ya tCa r t ha ge , a bo ut2 0 0.Hes pe nta l lhi sl i f ei nt ha tc i t y.

Abo ut2 4 6hewa sc o nve r t e dt ot heChr i s t i a nf a i t h,a ndt woo rt hr e eye a r sュ a t e rwa s ma debi s ho po fCa r t ha g e.h t heDe c i a npe r s e c u t i o nO f2 5 0hee s c a pe dda nge rbymght

,

buti nVa l e r i a n' spe r s e c ut i o no f2 57‑8hes t o o dbo l dl ya ga i ntt ho s epe r s e c ut o r sa ndwa s ki l l e da sama r t yrbybe he a di ng.

Dur i ngt heDe c i a npe r s e c ut i o nt henumbe ro fma r t yr sa ndc o nf e s s o r swa sve r yg r e a t . Sowa st henumbe ro ft he" l a ps e d. "Ma nyo ft he s el a ps e d,whe nt hepe r s e c ut i o nwa s o ve r ,r e t ume dt os e e kr e a dmi s s i o nt ot hec hur c h.Theque s t l O nO fho wt ot r e a t仇e m c a us e dal o ng,e ndur i ngs c hi s m i nCa r t ha g e.

Mo s to fCy pr ia n' swr it l ngSde a lw it ht hes o l ut i o nO fque s t l O nSO ft hed a y.The y a r o us et hr o ug hpe r s e c ut i o na ndt het hr e a tt oe c c l e s i a s t i c a luni t y血. o m s e c t a r i a ndi vi s i o ns . h Cypr i a n' st he o l o gyt hec o nc e pt i o no ft he" Ca t ho l i c "c hur c hf o undi t sf u l le xpr e s s i o n.

Go di so ne ,a ndChr is ti so ne ;Hi sChur c hl SO nea ndt hef a i t hi so ne; a ndt hec e 一 me nto ff e l l o ws hi pbl ndsa l日h epe o pl et o ge t he ri nt ot hes o l i duni t yo fabo dy. Tha t uni t yc a nno tbebr o ke n.Hewhot umshi sba c ko nt heChur c ho fChr i s twi l lno tc o me t oChr is t ' sr e wa r ds .Hel Sno taChr i s t i a nwhoi sno ti nt heChur c h o fChr is t . " Sa l us e xt r ae c c l e s i a m no ne s t . "

Thec hur c hi sf o unde do nt hebi s ho pa ndt hea dm ini s t r a t i o no ft hec h u r c hl Sd e v o l v e d

o nhi m .Thebi s ho pi si nt hec hur c ha ndt hec hur c hi nt hebi s ho p,a ndhewhoi sno t

wi t hbi s ho pi sno ti nt hec hur c h.Thebi s ho psc o ns t i t ut et hee pi s c o pa t eupo nwhi c hi s

ba s e dt heuni t yo ft hec hur c h.Thee pi s c o pa t ei so ne,o fwhi c he a c hh o l d shi spa r ti ni t s

(2)

t o t a li t y.Thi suni t yo ft hee pi s c o pa t ei sba s e dupo nt hedl Vl nee l e c t i o na ndt hee ndo w‑

me nt swhi c ht hebi s ho psha vei nc o n皿O na SS uc c e s s o r sO ft hea po s t l e s .h f a c t ,a llt he bi s ho pss t a ndo nt hes a mel e ve r

Cypr i a nr e g a r de da l lbi s ho psa se qua ls ha r e r si nac o mmo ne pi s c o pa la ut ho r i t y.Ye t e ve ni nhi st i met hi st he o r ywa sbe c o mi ngi mpr a c t i c a bl e.TheRo ma nbi s ho pSt e phe n

,

i npa r t i c ul ar ,C l a i me dt her i g hta st hes uc c e s s o ro fS t . Pe t e rt oo ve m l ehi sbr o t he r bi s ho ps .

Al t ho ug hCypr i a nf ul l yr e c o g ni z e dt hehi s t o r i c a li mpo r t a nc eo ft heRo ma nChur c h

,

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it

.Thi sc o n丑i c twa si nt e m pt e dbyt hepe r s e c ut l O nO f2 5 7 .

TheCypr i a ni ct he o l ogyha sbe e nt heg r e a tr e s o ur c eo fma nyChr i s t i a nt ho ug ht si n t heWe s t e r nhi s t o r y.No bo dyc a nunde r s t a ndt hehi s t o r yo fLa t i nChr i s t i a ni t y wi t ho ut c o mpr e he n血I gt hes y s t e m o fCypr i a n' st he o l o g y.

Hi st he o l o gyr e s o l ve dt heque s t i o no fhi sda y,butt her e s o l ut i o nbe c a meane w q ue s t i o nl nt hef o l l o wi ngag e s .Hi s t o r yc a nno tbeunde r s t o o dby仇ei de ao fpr o g r e s so r de ve l o pme n t .I ti st hepr o c e s si nwhi c ht hepr o bl e m o fa nagei sr e s o l ve d a ndt he

r e s o l ut i o ni t s e l fbe c o me sane wpr o bl e m i nt hes ubs e que nta g e s .

は じ め に

歴 史 を知 る。何 の ため に。 その問 いは, す でに答 えを予 想 させ る。 「未来 の ため に」 で ある。

従 って, これ は, 一層厳密 には次 の ようにな る。歴 史の認識 を通 して未来 の予 測 は可能 であ る か。 も し可能 で あ るな らば,過 去 ・現 在 ・未来 は直 ちに連続 す る。 それ は, 時 間の形式的 な連 続 であ るばか りでな くて,実 質的 な連続 で もあろ う。 そ して, その連続 を可能 にす る根拠 は,

進歩」 あ るいは 「発展 」 の観 念 であろ う。歴 史 は進 歩 す るか。 また,歴 史は発展 す るか。進 歩す るな らば, その進歩 の経過 をた どって, 未来の予測 が可能 にな る。同様 に, 発展 す るな ら ば, その発展 の経過 をた どって,未来 の予 測 も可能 にな る。

しか し,予測 の可能 な未来 は, すで に決定 されてい る。決定 され てい る未来 は, もはや真 の 未来 ではあ り得 ない。確 か に,予 測 の可能性 は,歴 史学 を科学 にす る。 しか し, この決定論 は, 今 日まで歴 史認識 をめ ぐって費や され て きた一切 の人間的 な努 力 を, すべ て無効 にす るだろう。

歴 史 を進 歩 とか発展 とかの観 念 に よって捉 え ようとす る場合,遠 い過去 は,近 い過 去 に よっ て乗 り越 え られ るこ とにな る。過 去 は,古 くなるほ ど未発達 で,価値 も少 な く,新 し くな るほ どよ く発達 して,価値 も多い。そ して,その進歩や発展 は,やが て無 限の未来 に至 って 「完成」

す る。前 の時代 は, 後 の時代 の準備 を行 い, 後 の時代 が到来 す る と,古 くなって棄 て られ る。

しか し,例 えば, 「キ リス トの出来事」 を進 歩 とか発展 とかの観 念 を用 いて理解 す るこ とが, 果 た して可能 で あろ うか。 キ リス トの出来事 は, 単 に次 の世 を準備 しただけであったか。 も し

そ う考 えるな らば, この出来事 は, あの歴 史的一 回性 とい う性格 を棄 て去 って, ただ一度 しか 生起 しなか った まさにその こ とが決定 的 な意 味 を もつ永遠 の真理 であ る とい う唯一 の特質 を失 うこ とにな る。 そ して, も しそれが, シーザーが ル ビコン河 を渡 った とい う歴 史的 な出来事 な どと全 く同様 の解釈 を許 す な らば, ほぼ二千年 にわ た って営 まれて きたキ リス ト教 の歴 史 は, すべ て無意味 な もの にな る。乗 り越 え られ て古 くな った真理 は, もはや永遠 の真理 にはな り得

(3)

ないか らであ る。

この考察 は,進歩 とか発展 とか い う観念的 な枠組 を用 いて歴 史認識 を体 系的 に整理 しよ うと す る試 みが, 間違 ってい る (あ るいは, 少 くとも問題 であ る) こ とを端的 に教 えて くれ る。事

,1 8

世 紀 の啓蒙主義 よ りも

1 9

世 紀 の歴 史主義 の方 が一 層進 歩 した思 想運動 で あ ったろ うか。

カ トリシズム よ りもプ ロテスタ ンテ ィズムの方 が一層 発展 した宗教思 想 であ ったろ うか。今, 歴 史認識 の成立根拠 につ いて,新 しい思考 が求 め られ て こよ う。

1 迫

3

世 紀後半 は,北 ア フ リカの キ リス ト教 史 に とって, 迫害 と平和 との交錯 す る激変 の時代 で あ った。 この時 期 の迫害 の最 大 の特徴 は,迫害 が教 会 に対 して

g e ne r

alな もの で あった とい う こ とであ る。以前 の迫害 は,一般 的 には, 地方的 な要 因 に基づ いていた。 しか し,今 で は ロー マ皇帝 自身の個 人的 な態度 が, 教会全体 の運 命 に対 して次 第 に決定的 な もの にな って きた。 そ して, そ う した時代 の転換 を告 げ る もの は

,De c i us

( 2 4 9‑2 5

1)の迫害 であ る。彼 は

,2 5 0

年 に皇帝 と して ローマ入城 を果 たす と共 に組織的 な迫害 を命 じて いる。最初 の勅 令 は, 高位聖 職 者 を対象 と し, 第二 回の勅 令 は,一般信 者 を も対 象 と した もの であ るO キ リス丁数運動 の完 全 な絶滅 を目指 したかの よ うに見 える彼の勅令 に よって, キ リス ト者達 は, ローマ帝 国 の到 る 処 において, 男女 の別 な く,証 言 を行 う前 に, 異教 の神 々に犠牲 を捧 げ るよう強要 され,また, 神 油 を注 ぎ,供物 を食わ なけれ ばな らなか った。 もちろん, これ に従 わ ない者 には死刑 な どの 極刑 が待 っていた。 しか も, 各地 に供犠 を監視 す るため特別 に派遣 され た各委 員 の前 で, 犠牲 を捧 げ た とい う証 明 書 (

l i be l l us

) を持 つ こ とが, すべ ての 人々に要 求 され て いた。 これ らの リベ ル スの い くつ かは, エ ジプ トの砂 漠 に保 有 され, 発見 され て いる。

デキ ウス帝 の迫害 は, 教会 史 におけ る最初 の真 に全般 的 な迫害 の到 来 を告 げるものであった0 それ は, ローマ帝 国全体 にわ た って行 われ た教 会 に対 す る最初 の普 遍的 な迫害 で あ った。 おそ

ら く, キ リス ト教 が直面 すべ く求 め られ た最 も厳 しい試練 の

1

つ で あったろ う。 この迫 害 に よ って, ローマの司教

Fa bi a nus

は,皇 帝 自身 の審問 を受 けて処刑 され,殉教 した。 ア ンテ イオ キアの司教

Ba byl a s

とエルサ レムの司教

Al e xa ndr o s

とは獄中に死 に, 著名 な神学 者の

Or i ge ne s

はカエサ レアで拷 問 を受 け, 釈放 後 わずか

3

年 でテ ィロスに死 んだ。 また, ア レクサ ン ドリア の 司 教

Di o nys i o s

は リビアの砂 漠 に身 を隠 して,行動 の停 止 を余儀 な くされ, カル タゴの司教

Cypr i a nus

は, 隠れ家 に逃 れ て ひそか に教会 を指導 した。

一般信者 の中 には,死 ‑ の恐怖 か ら神 々へ の供桟 に参加 した者 も多 くいた。アフ リカ教 会 は, その ような犠牲 を捧 げた人 々, あ るいは,友好 の あ った委 員 か ら リベ ル ス を買 うこ との で きた 人 々 を, 「離教者

」 (l a ps us)

と呼 んで, 自分達 か ら区別 した。離教 者 の数 は, 財産所有者や 社会 的 に著名 な人々の間 に多か った。進 んで殉教 したの は圧倒 的 に下 層階級 の人 々 であ る。迫 害時代 の キ リス ト教 史 は,確 か に,「殉教者 の血 が教会 の種子」 であ った こ とを立証 して い る。

しか し,殉教 は,決 して現実 の カエサル的体制 に抵抗 す る政 治的行動 ではない。 そ こに殉教 に よる死 の特殊 な意義 が あ った。 多 く書 き残 され た この当時 の 『殉教録』 か ら,殉 教者達 が どの ような人々であ ったか, また, どの よ うに して死 んで いったか を考 えてみ るべ きであろ う。

デ キウスは,離教 に よる教 会 の廃絶 を望 んだ もの と思 われ る。当時,キ リス ト教 と異教 とは, 概 して言 えば, ほ とん ど均衡状 態 にあ った。 その教会 を叩 くこ とに よって, ローマの伝 統 に立

ち戻 らせ,帝 国 内 に精神上 の一致 と団結 とを もた らそ うと したの で あろ う。事実,帝 国 は, 内 外 か らの騒乱 や天 災 な どに よって動揺 し, 未 曾有 の難局 に直面 して いた。従 って, 教会 に対 す

(4)

る迫害 を通 して,帝 回 内の全 力 を結集 しよう とす るデキウスの この よ うな政策 は, その後 も, キ リス ト教 が公認 され るまで,迫害者達 の従 うべ きモデル になって い く。 もっ とも, デキウス の迫害 は

, 2

年 間 で終結 し, その 目的 を果 たせ ず失敗 した。失 敗の原 因は, 第一 には, デ キウ ス自身 が

,25 1

6

月末, ゴー ト族 と交戦 中,叛 乱 にあ って殺 され た こ とであ るが, 第二 には, 迫害 に対 して教 会側 が弾 力的 に順 応 したことである。迫害 す る者 の側 には,一度離教 した者 は,

もう教 会 か ら棄 て られ て しまうだ ろ うとい う予 想 が あ った。 しか し,その前提 は簡単 に崩れ て しまう。教 会 は,様 々な条件 を付 しは したけれ ども, とにか く, 離教 者 を再 度受 け入れ るこ と に したの であ る。 そ こか ら,新 しい問題 が生 じた。教会 は, リベ ルス を入手 す るため に信仰 を 否認 した人 々 をどう扱 うべ きか。離教 者問題 の発生 であ る。 キプ リア ヌスが最 も悩 まされ た難 問の

1

つ であ った(ol)

デ キウス を殺 して帝位 につ いた

Ga l l us( 251‑25 3)

も迫害 を再 開 す る。古 くか ら為政 者達 に よって培 われて きたキ リス ト者 に対 す る民衆 の憎悪 が, デ キウスの統 治下 において最初 に現 れ た黒死病 (

pe s t i l e nc e

)の一層 の拡大 に よってあお り立 て られて,迫害 が復 活 したので あ る。

教会‑ の迫害 に よって, 帝 国 内 に精神 的統一 を図 ろ うとす るや り方 は, デキウスの それ に従 っ た もの であろ う。 この迫害 に よって, ロー マ の 司教

Co r ne l i us

は,エ トル リアの海岸 に追放 さ れて死 んだ。 キプ リア ヌスは, 黒死病 に襲 われ た人々の ため に組織的 な救援 活動 を続 けたが, 彼 自身 に も危険 は迫 って いた(.2)しか し,教会 に とっては幸運 な こ とに, ガル スの治世 は

3

年 に

して終 わ る。 ガル ス自身 が暗殺 され たの であ る。

続 く

Ae mi l i a nus

も, わずか

2

ヶ月間の統 治 の後

,Va l e r i a nus( 25 3‑2 6 0)

に よって追 われ て いる。

ウ ァ レ リア ヌスが治め た初 めの

4

年 間 は,教 会 に とっては平和 な時代 であ った。この平和 は, 彼が 自己の帝位 を確 実 にす る準備 の ため に もた らされ た もの であろ うか。アフ リカの教 会 では, この期 間 に,再 洗礼 問題 をめ ぐって論争 が展 開 し, キプ リア ヌスは

, 3

回 も宗教会議 を召集 し てい る。

突然 の迫害 は

,25 7

年 の

8

月 に始 まった。第一 回の勅令 は, 司教管 区内か ら高位聖職 者 の追放 を命 じた もの であ る。 これ に よ って, キプ リア ヌスは, カル タゴか らほぼ

40

マ イル離 れ たアフ リカの町

Cumbi s

に追放 され た。 しか し,勅 令 は, ほ とん ど効果 が なか った。追放 され た司教 達 は, その追放 地 にお いて,新 しい教 会 を簡単 に組織 したか らであ る(.3)

第二 回の勅令 は,聖職 者 ばか りでな く一般 信者 を も対象 と した。 キプ リア ヌスの最後 か ら

2

番 目の手紙 が その 内容 を伝 えて い る。

司教,長 老,助 祭 は,直 ちに処刑 され るべ きであ る。元老院議 員, 有 力者, ローマの騎士 は, その地位 を失 い,財産 を没収 され るべ きであ る。 そ うされ て もなおキ リス ト者 であ ることを固 執 す るな らば, 斬首 され るべ きで あ る。婦 人 はその財産 を没収 され, 流刑 に処 せ られ るべ きで ある。更 に,宮廷 にい る人々は, 以前 の告 白者 であれ,現 在 の告 白者 であれ, その財産 を押収 され, 鎖 につ ながれて,帝董領 の強制労働 に送 られ るべ きであ る(O4)

こ う して, あ らゆ る階 層の キ リス ト者達 が, 没収, 降職 ,苦役,死刑 と様 々に変 わ る迫害 に 脅 か され たの で あ る。追放地 か ら戻 ったキプ リア ヌスが カルタ ゴ郊 外 において斬首 の刑 を受 け たの は, この迫害 の時 であったOアフ リカ教会 史 では,殉教 の栄冠 に輝 く最初 の司教 であ った。

もっ とも, ローマ帝 国 は,侵 入民族 との戦争 や帝 国内部 の権 力争 いな どに よって概 して 多忙 であ った。 この ため, 迫害 も, 教会 に対 し永久的 な

da ma ge

を与 え得 るほ ど持 続的 で も組織的 で もなか った。 事 実, ウァレリアヌスは

,2 6 0

年 にベ ル ンアの捕虜 にな って死 ぬ。 そ して, それ か ら

Di o c l e t i a nus( 2 8 4‑30 5

)に よって最 後 の大迫害 が開始 され るまでの約

40

年 間 は,概 して

(5)

言 えば,教 会 には平和 が享受 され てい る。従 って,迫害 が残 した最悪 の遺産 は,教 会 の内部分 裂 とい う副産物 であ った と言 って よい(.5)それ は また, キプ リアヌスが最 も心 を砕 か なけれ ばな らなか った難問 で もあ った。 キ リス トの権 威 に従 うか, それ とも, カエサルの権威 に従 うか と い う教 会 の本質 にかかわ る問題 で あったか らであ る。

2 生 涯 の 素 描

Tha s c i usCa e c i l i usCypr i a nus

,2 0 0

年 頃 (あ るいは

21 0

年 頃 ), 多分, カル タゴに生 まれ た。両親 は身分 も財産 もあ ったの で, 充分 な教育 を受 け るこ とがで きた。改宗 前 は,修 辞学 と 雄弁術 との教師 であった

。2 4 6

年 頃,新 しい信仰 につ いて長 老

Ca e c i l i a nus

と行 った議 論 を きっ か けに して入信 す る

。Ca e c i l i us

の名 は, この長 老 か ら得 てい る。いか に彼 が この長老 か ら大 き な影響 を受 けたかが理解 され よ う。 (

Th a s c i us

の名 の由来 は不 明 であ る。 )回心 後

, 2

年 足 ら ず で長 老 にな り, その後間 もな くカル タゴの司教 に選 ばれ た。熱心 に教 会の仕事 を行 った結果 であろ う。 まだ司教 には早過 ぎる とい う反対 も多か った よ うであ る。 反対 派の人々は, 教会分 裂 の危機 を招 いて, 彼 を生涯苦 しめ るこ とにな る。

キプ リア ヌスは読 書家 であ った。 と りわけ

Te r t ul l i a nus( C.1 5 5‑2 2 5)

の作 品 をよく読 んだ。

彼の秘書 は, 後 に次 の よ うに報告 して いる。 す なわ ち, キプ リア ヌスはテル トゥリア ヌスの も の を読 む こ とな しには決 して

1

日も送 るこ とが なか った し, また, しば しば 「私 に師 を持 って 来 て くれ」 と語 ったが, この 「師」 とい う言葉 でテル トゥ リア ヌス を意味 していた とい うの で あ る(.6)もっ とも, テル トゥ リア ヌス と個 人的 に面識 が あ った とは考 え られて いない(07)キプ リア ヌス とテル トゥリア ヌス との関係 をめ ぐる問題 は,今 なお多 くの研 究者 の興 味 を引 く問題 にな って いる。

2 5 0

年 の デ キウ ス帝 の迫 害 に際 して は, おそ ら く,事 前 に ローマか らのニ ュー スに よって警 告 を受 けたの であろ う。 カル タ ゴ を離 れ て隠れ家 に逃 れ て い る。 この行為 は,初 め烈 しい批判 を受 け, 後 に弁護 され た。 キプ リア ヌス自身, 多 くの手紙 の 中で 自己の行為 に弁 明 を与 えて い る. また, 著名 な 『離教 者 につ いて

』 (DeLa ps i s

)の 中 では,一般論 の形 を借 りて, 次 の よ うに語 っている。

勝 利 の ための第‑ の名誉 は, 異教徒達 の手 に捕 えられなが ら, なお主 を告 白す るこ とで あ り, 栄光 ‑ の第二の立場 は,注意 深 く離 れ て遠 くに難 を避 け,主 の ため に身 を守 られ る ことである。

前者 には,一層 よ く覚悟 の で きた勇気 が,後者 には,一 層 よ く万全 を期 した配慮 が必要 で あ る。

前者 は, 自分 の時 が近づ いた こ とで, その時 の熟 して いた こ とを知 ったの であ り,後者 は, ほ んの少 し遅 れ ただけで あ る。後者 は,財産 を棄 てて遠 くに難 を避 けたが, それ は,信仰 を否認 した くなか ったか らであ る。 も し捕 え られ て いたな らば, もちろん, 告 白 していた こ とであろ

つ。

更 に, 次の よ うに も言 う。

殉教 の栄冠 は, (自発的 に求 め る もの ではな くて)神 の御座 か ら下 って くる ものであ るか ら, も しそれ を受 け取 るべ き時 が まだ至 って いないな らば,受 け入れ られ るこ とはで きない。従 っ て, キ リス トの うちに留 まる者 は,誰 もが その間 は離 れ去 って,決 して信仰 を否定 す るこ とな

く,時 の至 るの を待 つ の であ る(.8)

キプ リア ヌスは,逃亡 に よって その生 命 を守 ろ うと望 んだわ けではな くて, 「単 に肉体上 は 不 在 になるが, その精神 にお いて は不 在 にな るこ とな く」, 彼 の職責 を果 たす用意 を したの で あ った。旅立 ちの ため に, 彼 は 自己の個 人財産 か ら資金 を準備 していたが, い ま彼 は, その中

(6)

か ら多 くの金額 を教 会 に送 る。 これ らに よって 自己の信仰 に忠実 な教 団の貧 しい人達 が救 われ るべ きであ る。迫害 の直接 の嵐 す ら手 の届 き得 なか った もの を,最 後 に飢餓 が邪魔 して しまう ような こ とが あ ってはな らないか ら, とい うの であ る(09)しか し, 彼 の最 後 の殉教 に よる死 が, この逃亡 の意 味 を何 よ りもよ く説明 す るであろ う。

隠れ家 に逃 れ たキプ リア ヌスは,幸運 に も手紙 や使 者 な どを通 して カル タゴの教会 との接触 を保 つ こ とに成功 した。 ひそか に隠れ家 か ら教会 を指導 す るこ とがで きたの であ る。 デ キウス 帝の迫害 は,贈賄や欺臓 な どに よって教会 内 に多 くの離教者 を作 ったが, キプ リア ヌスの留守

中, 彼等 は北 アフ リカの教 会 に, いわ ゆ る 「平和 の手紙

」 ( l i be l l uspa c i s

)問題 を引 き起 こ し てい る。迫害 の ため に一度 は離教 した ものの,再 度 の入会 を望 んだ人々が,殉教者や告 白者 の 手紙 を持 って,教 会 にや って来 たの で あ る。 この推 薦状 は,初 め は執成 しの手紙 と してのみ意 図 されて いた。 しか し, 間 もな く命令 の力 をもつ よ うになった。 この ため,北 アフ リカの教会 は, 次の

2

つ の難問 をめ ぐって揺 れ動 くこ とにな る。 第一 に, 離教 者 は悔 い改めのわ ざの実行 な しに教 会 との平和 を回復 で きるか, 第二 に,殉教 者や告 白者 の推薦状 は教 会の権威 を超 えて いるか, とい う問題 であ る。 これ らは,教 会及 び司教 の ほか に人の罪 を赦 す権威 を認 め るか と い う教 会存立 の根底 にかかわ る問題 で もあ った。 この難局 に臨 んで, キプ リア ヌスは,非常 に 厳格 な態度 を とる。 「平和 の手紙」 を単 に推薦状 と してのみ評価 し,法律 の力 をもつ教会 の決 定 を代 表 しない もの とみ な して,悔 い改 めのわ ざの必要 を説 いたの であ る。 もちろん, これ に は反対 す る人々 も多か った。 そ して,

5

人の長老 と

Fe l i c i s s l mu

Sとい う人物 の指導 の下 に

1

の反 対 派 が形 成 され た。長老 の

No va t us

は 「煽 動 の権 化」 で あった とい う。や がて彼等 は,

Fo r t una t us

を対立 司教 に選 出す る。 この司教 は, ローマ教会 のコルネ リウスに承認 を求 め たが, 拒否 され てい る。反対 派 の人々の

mO t t

Oは, 「離教者達 を呼 び戻 して教 会 を元 の状 態 に返 す こ

と」 で あった。 この問題 につ いて, 彼等 は, 司教 の決定 に反対 し, また,悔 い改めの ため に従 来 よ りも一 層長 くされ た期 間 に対 して も反対 した。彼等 は,殉教者や告 白者 の古 くか らの特権 に従 って, その ような人 々か ら推 薦 され た者 を,直 ちに仲 間 として認 め たの であ る(010)この反対 派の宥和 主義 とキプ リア ヌスの厳格主義 とは, や がて北 アフ リカ教会 を分裂 の危機 に まで追 い 込 む こ とにな る。

す で に

251

年 には,デ キウス帝 が死 に,迫害 は終結 して,カル タゴ教 会 に も暫時の小康 が訪 れ ていた。 この年 の

Ea s t e r

に隠れ家 か らカル タゴに戻 ったキプ リアヌスは,司教 会議 を召集 す る。

アフ リカの 多 くの司教達 が出席 したこの会議 では, 離教者 に対 して, 厳 しい悔 い改めのわ ざが, 満場一致 で要 求 され てい る。 す で に, キプ リア ヌスは, 隠 れ家 か ら教 団 に対 して次の ような指 令 を与 えて いた。 それ は,離教者 を見捨 ててはな らないが, 当分 の間 は,頗 罪者 と して取 り扱 い, 決 して受 け入れてはな らない,再 受 入れ は, 臨終 の座 にお いてのみ許 され る, とい うもの であ った。 ここで彼 は, 司教 の職 務 を, 教 会 を支 える

1

つの決定的 な役 目 として示 してい る。

カル タゴ会議 の決定 は, この キプ リア ヌスの基本線 を確 認 した もの であ った。

もっ とも, 間 もな くキプ リア ヌスは, この厳格 な態度 を幾分和 らげている。 カリレス帝 の下 で 新 しい迫害 が始 まったため であろ う。 この迫害下 で開 かれ た

25 2

年 の第二 回 司教 会議 は, もし 離教者 が, 離教 の 日か ら悔 い改めのわ ざ を始 めて いたな らば,彼には教会 の

pa

X‑の入会 を認 めて よい とい うこ とを決定 した。主 の教 会 か ら離 れ なか った人々 と同様 に,離教 した 日以来, 悔 い改 め と悲嘆 と主‑ の祈 りとを止め なか った人々に も,教会 の平和 が与 え られ るべ きで ある

とい うの であ る。平和 な時 の慣行 をその まま維持 で きる状 況 ではなか った。何 よ りも教 会の統 一 の強化 を必要 として いたの で あ る(.ll)

2

回 にわた る会議 の結果, キプ リア ヌスの勝利 は確 定 した。反対 派 グループは, ほ とん どそ

(7)

の重要性 を失 い,北 ア フ リカ教会 の分裂 も辛 う じて回避 され た。 しか し, その時 す でに, もう

1

つ別 の分裂 問題 が キプ リア ヌスに迫 って いた。 ローマか らであ るO

離教者 問題 は ローマ教会 の問題 でもあった。 ローマ で は長 老

No va t i a nus

が,殺 人,不義, 育 教 な どの罪 を犯 した者 に対 して,教会 は,最 後 の審判 の時 に,神 の慈 愛 の た糾 こ執成 しを行 う こ とが で きるだ けであ って,赦 しを与 えるよ うな いか な る力 を も持 ってはいない と主 張 して い た。 これ に対 して,長 老

Cαne l i us

は, 司教 はその よ うな重 罪 をす ら赦 す こ とが で きる とい う 見解 を取 っていた

。251

年 の この分裂 は, コルネ リウスの勝利 に終 わ ってい る。彼 が 多数 派 に よ って ローマの司教 に選 出 され たか らで あ るO キプ リアヌスは, 幾分 ため らって後, コル ネ リウ ス側 に立つ。 そ して,教会統一 の重要性 を説 き,教会 の統一 は司教 団の一致 にあ るこ とを主張 した。

しか し, 問題 はキプ リア ヌスが考 えていた よ りも簡単 ではなか った。 ノヴ ァテ ィア ヌスの分 派か ら, いわゆ る 「再 洗礼 問題」 が生 じたの であ る。 この問題 をめ ぐって, 今度 はカル タゴ と

ローマ とが完全 に対立 す るこ とになる

。25 4

年 か ら

25 7

年 までの約

4

年 間,教 会 は比較 的平和 で あ った。 しか し, その間, キプ リアヌスは, この再 洗礼 問題 に非常 に多 くの精 力 を割 いてい る。

25 4

年, ローマ とアフ リカ との ノヴ ァテ ィアヌス支持 者達 は, 彼等 の指 導 者が他 の どこにおいて も承認 を得 るこ とがで きないの を知 るにつ れて, 彼 の もとか らひそか に去 っていった。そ して, 多 くの人 々が教 団の再 承 認 を申 し入れ て きたので あ る。 キプ リアヌスは,彼等 に対 して, 異端 者 の行 った洗礼 は決 して認 め る こ とが で きな い こ とを主張 して,再 洗礼 の必要 を説 いた。 しか し,新 しいローマの司教

St e pha nus ( 25 4‑ 6

)は,三位一体 の名 にお いて水 中で与 え られ る洗 礼 は どこで与 え られ よう とも有効 で あ る として,再 洗礼 は必要 ない こ とを強調 した。一度 洗礼

を受 けた以上,按 手 を通 しての聖霊 の分与 だけで充分 であ る とい うの であ る。

しか も, ステフ アヌスは, 自己の見解 を他 の司教達 に徹 底 させ るべ く,使徒 ペ テ ロの後継者 としての権 利 を (おそ ら く歴 史上初 めて)要 求 して, 同僚 司教達 の支配 を目指 してい る。 それ は,彼 に よれば, ローマ の司教座 の歴 史的重要性 に基づ く当然 の結論 であった。

これ に対 して, キプ リア ヌスは, ローマ教会の歴 史的重要性 は充分 に認 めつつ も, なお, そ の優 越的権 威 に関す る結論 は否定 した(.12)これ らの問題 を解 決 す るため に, カル タゴでは前後

3

回 にわ た って司教 会議 が開 かれ てい る。 第‑ 回会議 は

,25 5

年 春, ア フ リカの司教 達 に よ って 開かれ た。第二 回会議 は,その

1

年 後 に開かれ, これ には

Numi dl a

の司教達 も参加 した。出席 者数 は71人 に ものぼ った とい う。 第三 回会議 は, 同年

9

1

日に開 かれ,これ には更 に

Ma ur e‑

t a ni a

の司教達 も出席 して い る。 そ して, これ らの会議 の結果, 次 の こ とが可決 され た。す なわ ち,戻 って きた分派主義 者達 は再 洗礼 を受 け るべ きであ るが, も し個 々の司教 が異 な ったふ う に考 えるな らば, その寛容 の恩 恵 を受 け るこ ともで きる, とい うもの で ある。 カエサ レアの司

Fi r mi l i a nus

は,キプ リアヌスに賛成 の手紙 を送 っている。 しか し, ステフ アヌスは, ア フ リ

カの司教達 を破 門 した

( . 13)

この ため, ア フ リカ教会 とローマ教 会 との対立 は決定的 にな る.

しか し, この論争 は

,25 7

年 に突然始 まったウアレリアヌス帝 の迫 害 に よって中断 され た。 ス テフアヌスは, この年 に殉教 す る。 キプ リアヌス もまた,逮捕 されて

,Cumbi s

に追放 され た。

そ して, 翌年, 第

2

回の勅令 に よって, 彼 の殉教 は決定 した。官憲 は, カル タ ゴでの混乱 を避 け るため に,彼 を

Ut i c a

に召喚 しよ うと したが, あ くまで もカル タ ゴでの殉 教 を望 んだ キプ リ ア ヌスは, 彼等 の手 か ら逃亡 してい る。 そ して,新任 の地 方 総 督

Ga l e r i usMa xi mus

がカル タ ゴに着 くの を待 って

, 9

月 にか レタゴに戻 り, 出頭 して逮捕 され た。彼 は,今 では もう, 自立 して発展 す る教 団の力 を確信 で きた。従 って,今度 は, いか に して人は キ リス ト者 として, ま た, 司教 として殉教 を甘受 す るか とい う実例 を人々に与 え よ うと決心 したの で あ る(014)

(8)

戦車 で護 送 されて きた キプ リア ヌスは, 簡単 な審問の後, 死刑の 判決 を受 けた。判決 を聞 い た彼の最 後の言葉 は

,De ogr a t i a s

であった という。翌 日

( 2 5 8

9 月 1 4

日), カル タ ゴ郊 外 にあ る地方総 督官邸 の裏庭 で斬首 の刑 に処 せ られ た(015)こ う して, ア フ リカでは殉 教 の栄冠 に輝 く最 初 の司教 と して, その生涯 を終 えたキプ リア ヌスは, や がて, 「古 カ トリック時代 の独立 司教 の原型」 にな って い く8.6)自発的 な独 身生 活 は

6 0

倍 もの結果 を生 み, 殉教 は

1 0 0

倍 もの結果 を生 むO それが キプ リア ヌスの 殉 教 観 であ った(.17)事 実 , 彼 の死後

1

世 紀以上経 ってなお

,Augus ‑ t i nus

は, キプ リア ヌスに深 い尊敬 を払 いなが らも, 彼 の著作 を聖 書 と同等 に み な して ほ なら

ない と警告 しなけれ ばな らないほ どであ った(018)後 代 か ら彼 よ りも一 層高 い評価 を受 けて い る古 代教 会の指導者 は, ほ とん ど存在 して いない(019)

3

教 会 統 一 の 理 論

キプ リア ヌスの教会論 は,思弁 的 で あ るよ りも, 優 れて実践的 であ る。 ほ とん ど常 に,信仰 に基づ く道徳的課題 の解 決 をめ ぐって展開 され た。時代 の要 求 や現実 の問題 に応 えよ うとす る 努 力の 中か ら形成 され たの であ るO と r)わ け, カル タゴ教 会 におけ る分 派主義 者 との対決 を通 して, 彼 の教 会統一 の理 論 は確 立 す る。 その理論 に よって, カ トリック教会 の発展 の 中で例証 され た ような傾 向 が, その完全 な表現 を獲得 す るこ とにな った。

キプ リア ヌスに とって, 教会 は, キ リス ト者達 の唯一 の正 統的 な見 える教 団 であ る。神 は唯 一, キ リス トも唯一, 教 会 も唯一, そ して, その信仰 も唯一 であ る。会衆 もまた

, 1

つ の堅 固 な肢体 をなす統一

(uni t a s)

‑ と一致 (

c o nc o r d i a

)の ニ カワに よって接着 されて い る(.20)も し 彼が キ リス トの相 続 人 (

he r e s)

であ るな らば, 彼 はキ リス トの平和 の うちに留 まるべ きであ り, も し神 の子 であ るな らば,平和 を もた らす もの でなけれ ばな らな い(.21)従 って, キ リス トの 教会 を棄 て去 る者 は, キ リス トの報酬 (

pr a e mi u m

)に到達 で きない。教 会 を母 と して持 たな い者 は,神 を父 と して持 つ こ とが で きない。教会 の統一 を持 たない者 は, 神 の法 を持 たない。

また, 父 と子 との信仰 を持 たない者 は,生命 も救 い も持 たない(.22)信 じる人々に とっては, 唯一 の教 会 よ り外 に, いか な る家 もあ り得 ない(023)教会 の 中 にいか 、者 は, 殉教者 で あ るこ とす らで きない。彼の死 は,信仰 の栄冠 (五

de ic o r o na)

ではな くて,不信 の懲罰

(po e nape r f i di a e)

であ ろ う(024)結局, 彼 が誰 であろ う と, また, 彼 が何 であろ う と, キ リス トの教 会の内 にいない 者 は,キリス ト者 ではない(025)教会 の外 にいか な る救 い もない (

s a l use xt r ae c c l e s i a m no ne s t)

か らであ る(.26)

教会 員達 は, 子供 が父親 に村 す るように, 司教 に関係 す る㌘ 司教 は使徒 の後継者 であ る。従 って, 司教 達 は, 使 徒 達 と同 じよ うに, 主 自身 に よ って選 出 され, 自 らの職務 に,指導者

(pr a e po s i t us

) と して, あ るいは, 牧師 (

pa s t o r)

と して就任 す る。 そ の職 務 は, 神的権威 によって一般信 者 を統 治す るこ とであ る。従 って, 司教 は,誰 が教会 に属 す るか, また, 誰 が 教会 の仲 間 と して再 び呼 び戻 され得 るか を決定 す るこ とが で きる(028)この ように教 会 は司教 に基 づ いて いる。教 会の管理 は司教 に任せ られ て いる。教会 は司教達 に よって構成 され,教 会の あ らゆ る行為 が, これ らの指 導者達 に よって コ ン トロール されて い る(.29)従 って, 司教 を批判 す る 者 は, まさにそ うす るこ とに よって, あえて神 とキ リス トとの審判 の上 に審判 を下 そ う とす る 者 とな る。

司教達 は同僚 団体 (

c o l l e gi um )

を構 成す る。これが司教 団 (

e pi s c o pa t us

,司教職 )である。

教会 の統一 は, この よ うな司教 団 の一致 に基づ いている。司教間 の一致 が教 会 の統一 を保証 し, 代表 す る

。e pi s c o pa t us

は唯一 であ り,その各部分 は,全体 にお いて,個 々の司教 に よって維持

(9)

され て いる。 この よ うに,教 会 は唯一 であ り, それ は, 多産 な子孫 に よって, 多数 へ と更 に拡 大 され てい く。 ち ょうど太陽 の光 線 は 多数 であ るけれ ども, しか し, その光 は

1

つ であ るの と 同様 であ る。太陽光 線 の

1

部 分 をその全体 か ら切 り離 してみ るが よい。光 の統一性 は, それ に よって何 の分割 を も受 けは しない。教 会 もまた, 主 の光 に溢 れて いて, 全世 界 にその光 線 を扱 げてい るが, しか し,到 る処 に撒 き散 らされ てい るの は, 唯一 の光 で あ って, その全体 の統一 性 は分割 され るこ とが ない(030)結局, 神 の教会 において

1

つ心 で あ るこ と (

u ni a n l mu

S) を望 ま

ない者達 は,神 と共 に留 まるこ とが で きないの であ る(031)教 会 は司教 の うちにあ り, 司教 は教 会 の うちにあ る。司教 と共 にいない者 は,教 会 の うちにいな い(032)この よ うに,教 会統一 の 中心 は 司教 であ る。従 って, 司教 を棄 て るこ とは教会 を棄 て るこ とであ る。

再 び教団 に戻 るこ とを望 んだ離教 者達 が, 迫害 中 に も確 固 として耐 えていた告 白者達 の推薦 状 を利用 した こ とに よって,告 白者達 は,教 会 の中で大 きな威信 を獲得 す るようになった。 キ プ リア ヌスは, この告 白者達 の威信 の高 ま りに直面 して, 教 会 におけ る司教職 の権威 を, 改め て強調 し直す必要 に迫 られ たの であ る。離教者達 の見境 もない再 入会 とい う教会 のだ ら しな さ に対 して, キプ リア ヌスは, アフ リカ教 会の悔 い改めの伝 統 を断 固 と して保守 した。 そ して, ただ

1

つ の教 会 だけが あ り, それ は司教達 の教会 であ って, 司教 と共 にいない者 に救 いはない と主張 した。おそ ら く,彼 は,教会 におけ る司教 の役割 に最 高 の重要性 を与 えた人物 であろう(033) 事実, 彼 は, 司教職 にあ る者の下 した決定 に従 わ なか った長 老達 を教 団 か ら破 門 してい る。 こ の出来事 は,司教職 の権 威 と告 白者 の特権 ・長 老 の職務 との対立 が表面化 したことを意 味す る。

告 白者 の手紙 をめ ぐる問題 は,悔 い改めの実践 に関 す る不一致 の問題 で あ るばか りでな く, 司 教 と長 老 との対立 の問題 で もあ った。

カル タゴ会議 の結果, キプ リアヌスの教会観 ・司教観 は, 原則 と して,最 終的 な勝 利 を得 る。

それ は, やが てアフ リカ教 会 の正 統的教義 になって い く。

この論 争 に よって, キ プ リア ヌスの教 会概 念 は完成 した。以後, 彼 は, 熱狂的 に聖職 位階制 度 の確 立 に身 を捧 げてい く。 司教 を頂点 とす る巨大 な どラ ミッ ト型 の支配体制 が形成 され てい

くの であ る

3

世 紀 の キ リス ト教 は

, 2

世 紀 が形成 した教義 に直接連続 して い る。 そ して

, 2

世 紀 に展開 され る理 念のルー ツは,大抵 の場合,使徒 後教 父達 に まで戻 って い くこ とがで きる。

2

世 紀 には, キ リス トにおけ る神 との生活,悔 い改め と信仰 とを通 しての神 との心 の交 わ り とい う原初のキ リス ト教的理 念 は,福音 の一般 的道徳化

( t heg e n e r a lmo r a l i z i ngo ft heg o s pe

l) に もかかわ らず, なお, 絶 えず主 張 されて いた。 しか し

, 3

世 紀 には, 特 に西方教会 では, こ れ らの理 念 は, ほ とん ど完全 に背景 に押 しや られて しまって い る。 目前 に迫 る実践上 の 目的 が, す で にキ リス トの精神 やパ ウロの教 えに よって命 じられ た もの とは異 な って しまって い るの で あ る(.34)

この変化 は, おそ ら く, キプ リア ヌス神学 にお いて最 も明確 に現 れ る。 そ こにお いて,一般 的 な教 会概 念の重大 な変形 (

t r a ns f o r ma t i o n

) を見 て とるこ とがで きるのであ る。 キプ リアヌ

ス神学 にお いては, この教会 とい う語 に よって, もはや, イエ ス ・キ リス トを信 じる神 の聖 な る民 が理解 されてはいない。 か えって, 司教権 に従属 す る人々の グルー プが理 解 されて い る。

彼等 が司教 団 に従 うの は, 司教 団 が使徒達 に よって述 べ伝 え られ た真理 を代弁 して い るか・らで はな くて, 司教達 が会衆 の指導者 であ るこ とを,神 に よって与 え られ約 束 され て,神 の名 にお いて,神 的権威 に よって会衆 を支配 して い るか らであ る。司教 団の下 での この従属 は,教 会 に お いては本質的 な特徴 であ る。 なぜ な ら, それ は,教会 の統一 を構成 す るか らであ るO ただ司 教 に従 う者 のみが,教会 に所属 して, 神 の救 いにあずか るこ とが で きる。

(10)

この ように して,教 会 の神聖性 が, 次 第 にはっ き りと教 会 の

S a c r a me nt

に結 び付 け られ る よ うになった。教 会 につ いての福 音書的定義 に代 わ って, この カ トリック的定義 が出現 したの で ある。教 会 は, もはや本質的 には,信 者達 と聖 人達 との集 会 で はな く,信仰 の対 象 で もない。

今や それ は, 見 える肢 体

(avi s i bl ebo dy)

,神 に よって権威づ け られ た 「教 会 法 」 に よって コン トロール され る もの に 変 わ る。宗 教 にあっては最 も困難 な もの に (す なわ ち,悔 い改 め と 信仰 とに),善 いわ ざ (

g o o dwo r k)

が取 って代 わ ったの であ る。東方教 会 では

,O r t ho do xy

がその発 展 過 程 を続 けてい く中で, 西方教会 では

,hi e r ar c hy

が その形成 の コー ス を着実 にた

どって い く。 そ して,両者共 に, やが て真 の信者 には言 い難 い悲 しみ (

unut t e r abl es o 汀O W)

をもた らす ようになる(035)キプ リア ヌス神学 においては, 多 くの こ とが まだ

C r ude

な状態にあるo Lか し, す でに基礎 は置 かれ てい る。

教 会の外 にいか な る救 い もない。」 そ うキプ リア ヌスは定 式化 した。 この定 式 は, 神聖 な 教会 と世俗 の社 会 との間の対立 とい う古 くか らの伝 統 を総 括 す る もの であ る。 キプ リア ヌス神 学 は, この よ うに, 内 と外,聖 と俗 な どの‑対 語の二元論 に よって支配 されて いる。例 えば, 彼 は, 「虚偽 と真理, 闇 と光 ,死 と不 死, 反 キ リス トとキ リス トとの間 に何 の共通 した もの も あ り得 ない(036)」 と語 る。 この よ うな二元論 は, 異教哲学 を排 斥 して,1即答社会 と敵対的 に対決 す る孤立的 な姿勢 を取 り続 けたテル トゥリア ヌスの伝統 に従 うもの で あろ う。 そ して, キプ リ アヌス神学以後 も, アフ リカ教 会 は, 概 して, この世 俗社会 との非連続 とい う特徴 的 な伝 統 を 保守 してい くこ とにな る。 しか し, 「この世 において キ リス ト者 であ るこ とは何 を意味 す るか」

に答 えようとするこの理 念は,世 俗権 力 との妥協 を図 ることによって教権の拡長 を目指 す

Co ns t a n‑

t i ni a n Re v o l ut i o n

以 後 の キ リス ト教 とは, 決 して単 純 には一致 し得 ない もの であ った. キ リ ス ト教 の ア フ リカにおけ る

br a nd

, す なわ ち, テル トゥ リア ヌス とキプ リア ヌス との それ は,

4

世 紀 の新 しい世 界 にお いて は,必 然的 に抗議 の宗教

(r e l i gi o no fpr o t e s t)

とな るよう運 命 づ け られ て いたの であ る(.37)

4

法 王至 上 主 義 へ の反 論

キプ リア ヌス的教会概 念の もう

1

つ の帰結 は, 彼 が異端 者 に よる洗礼 の有効性 を否定 した点 に兄 いだせ る。 この異端 者 洗礼 問題 をめ ぐって, ローマ とカル タゴ とが分裂 す る。

す で に, キプ リアヌスは, ローマ か ら分離 した

No va t i a ni s t s

に対 して, 次 の ように反論 して いた。

聖霊 に満 た された教 団 の範 囲外 で行 われ た洗礼 は, いか な る洗礼 で もあ り得 ない。従 って, 分 派主義 者達 は, 決 して認 め られ るこ とがで きない。霊 を欠 く者 に, どう して霊 の賜物 を授 け るこ とがで きよ うか。異端者 に よる洗礼 は不 潔 ・不敬 な水浴 で しか ない。水 は まず キ リス トの 司祭 に よって清め られ聖 別 され る(.38)そ して, ただ教 会の指導者 だけが,聖霊 を受 け取 り, 罪の 放 しを分 け与 える力 をも 。神 の聖 霊 が受 け入れ られ るの は,教 会の 内 にお いてのみで あ る(039) 従 って, 異端 者 か ら受 洗 した人々 を受 け入れ るに当 た って用 い られ るべ き語 は, 「再 洗礼 」 で

はな くて, 「洗礼」 であ るべ きであ る(04Q'

キプ リア ヌス神学 におけ る教 会概 念の論理 的結論 に従 えば, 自分 自身が教 会の外 にい る者 は 教会 の内 に誰 をも受 け入れ るこ とが で きない とい うことは,全 く自明 な ことであった。 司教 に 対 す る反抗 は, 神 に対 す る反抗 なの であ る。正 しい司教 に従 わ ない者 は, まさにその こ とに よ って,教 会 との交 わ りと自己の救 い とを失 うこ とになる。 この よ うに,教会 に統一 を保 ってい

杵 (bo nd)

は司教 団 であ るO司教 団 の この統一 は,神 の選 び と, 司教達 が使徒 の後継者 と

(11)

して共通 に所有 している資質 (

e ndo wme nt)

とに基づ いてい る。(41)

この キプ リア ヌスの赦格 主義 的 な見解 に対 して, ローマの ステフ アヌスは, もっ と宥和主義 的 な立場 か ら, 次 の ように反論 した。

伝 承 に よって, 三位一体 の名 にお いて水 中 で与 え られ る洗礼 は, どこで与 え られ ようとも有 効 で ある。教 会の外 であれ,一 度受 洗 した者 は,再 び洗礼 を受 けな くて よい.彼等 は,教 会内 での悔悟 者達 と同様 に,鞍 手 に よって和解 され るべ きであ る。サ クラメ ン トは,教会 の もの で はな くて, キ リス トの もの なの であ る。従 って, その有効性 は, 牧師 の正 しさにでな く,形式 の正 しさに依存 してい る(.42)

このサ クラメ ン ト的神学 にお いて, 二 人の根本的相違 をめ ぐる論争 は, ステフ アヌスが キプ リア ヌス を反 キ リス トと して公 然 と非 難 した こ とに よって白熱化 した。 しか も, 彼 は, キプ リ アヌ スが 召集 して

,87

人以上 もの司教 が出席 した

25 6

9月 1

日の第

3

回 カル タ ゴ会議 の結果 を, 完全 に無視 したばか りで な く, アフ リカの司教達 を破 門 して しまったのであ る。 こ う して, ステフ アヌスは, ローマ にお け るペ テ ロの椅子 (

c a t he dr aPe t

ri)の保持者 と して, 全 司教 に 対 す る支配権 を要求 す るこ とにな る。おそ ら く,彼 は,ローマの司教 がペ テ ロの後継者 と して,

その首 座 大 司教 とい う地位 を主張 す るため に, 「マ タイ伝 」 におけ る

Tue sPe t r u

Sとい う章 句(43)に訴 えた最初 の実例 であろ うO法王至上 主義 の始 ま りであ った。

もちろん, キプ リア ヌスは, 彼 の司教主義 の立場 か ら, ローマの この ような要求 には真 っ向 か ら反対 した。彼 に とっては, ち ょうど使徒達 が平等 であっ た ように, すべ ての司教 が理 論上 平 等 であ り, いかな る司教 もただ神 に対 してだけ責任 が あ るにす ぎなか った。

彼 もまた,確 か に 「汝はペ テ ロな り」 の テ キス トか ら, 司教職 の使徒 的権威 を引 き出 してい た(044)しか し, 彼 の場合

,c a t he dr aPe t

riは, どの司教 に も平等 に当てはめ られ得 る もの であっ た。 もっ とも, キプ リア ヌス 自身, この テキス トをローマ に対 して特別 に適用 す るこ とを認め てはい る。彼 に とって も, ペ テ ロは典 型的 な司教

( 払et y pi c a lbi s ho p)

であ る。 また, ロー マ を 「司祭的統一 が その始 源 を取 り出 してい る主要 な教 会」 であ る と見 な して もい る(045)ローマ 教会 は明 らか に, 彼 に とって も, その尊厳 において

(i ndi g ni t y)

最 高の教会 であ った(046)

使徒職 を保持 した者達 の 中で, ただペ テ ロだけが客観的, 合法的 に特別 の立場 にあ った。そ の立場 の優位性 は, ただ彼 だけ に分与 され た もの を結合 した り解放 した りで きる彼の力 に基づ いてい る。 しか し, キ リス トが ただペ テロだ けに教 会 の建 設 をゆだね たの は, それ に よって, ローマ の教 会 に,他 の教 会 に対 す る支配権 を与 えるため ではな くて, か えって,教 会 は常 に統 一 の うちにあって 1つ であ るこ とを示 す ため であ った。 この こ とが キ リス トに よってただ

1

の使徒 ペ テ ロにゆだね られ た とき, キ リス トが教会 の ため に望 んだ統一 は, 永久 に確 立 され た の であ る。

キプ リア ヌスは, ローマ教 会 には, ペ テ ロが ローマ にお いて働 いて死 んだ とい う事実 に基づ いて, 名誉 の位 置 が属 して いる と考 える。 しか し, 彼 はきっぱ りとローマの指導権 を拒絶 す るO 彼 は, イエ スの言葉 か らペ テ ロの他 の仲 間達 に対 す る有効 な管理権 を引 き出 してはいない。 ま た, ペ テ ロが ローマの司教 と して彼 の個 人的 な特典 を自分 の後継者 のみ に手渡 して きたな どと い う考 えを も引 き出 してはいない。彼 は, ローマ の司教 に他 の司教達 の上 にあ る司法権 的 な権 威 を認 め よ うとは しなか った し, また,彼 を平 等 な人々の 中の第一 人者 (

pr imusi nt e rpa r e s)

以上 の者 としてみ なそ うとも しなか った。事実

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もまた, 彼 においては, まだ司法権 的 な含意 を獲得 してはいな いの である。

キプ リアヌスに とっては, あ らゆ る司教 が共通 の司教 的権 威 に等 しく与 か る者 で なけれ ばな らなか った。 この権 威 は, それ ぞれの司教 が, しか も, す べての司教 が等 しく所有 す る もの で

(12)

が ナれ ばな らなか った。彼 は次 の よ うに語 る。

キ リス トは, ただ

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人の人間の上 に教会 を建 てた。彼 は,教 会 の統一 を明示 す るため に, こ の統一 の始 源 が ただ

1

人の人間 か ら始 まってい る とい うこ とを,彼 自身の権威 に基づ いて定 め たの であ る。確 か に,他 の使徒達 もまた, ペ テ ロの場合 と同様 であ った し, 名誉 と力 とを与 え られ た同 じ仲 間 であ った。 しか し始 源 は,ただ

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人の 人間 か ら由来 しているのであ り, それ は, キ リス トの教 会 が唯一 であ るこ とが示 され るため で ある(.47)

キ リス トは, 後 にすべ ての使徒達 に託 したあの鍵 の力 を,最初 はペテロ 1人のみ に託 したが, それ は,統一 が教 会の本質 であ るこ とを示 す ため で あった。従 って, 教 会 は本性上分割 され な い。使徒達 はペ テ ロ と同 じ地位 と名誉 とを持 っていた。 しか し, キ リス トが最初 にそれ をペ テ ロに与 えたの は, 教会 は

1

つ以上 の もの ではあ り得 ない ことを示 す ため であ った。 この ように 統一 の中心 は使徒職 を継 ぐ司教 であ る。 そ して, あ らゆ る司教 が (教義 的 には)全 く同 じレベ ル に立 って いる。

こう して, キプ リア ヌスは, ローマか ら独立 した行動 と見解 との権 利 を主 張 し, ステフ アヌ スが首座大 司教 の座 を要 求 した こ とに断固 と して反対 した。 この村立 は, いわ ば 「カル タゴの 法王」 と 「ローマの法王」 との対立 であ った といって よい。事実, キ プ リア ヌスは, 当時 すで に, アフ リカ教 会 の範囲 をは るか に越 えて 1つの権威 にな っていた。彼の手紙 と著作 とは, 西 方 ラテ ン世 界の到 る処 で読 まれ て いた。 また,遠 くか ら助 言や方 策 を求 め て彼 に手 紙 をあて る 者 も多 くみ られ た。

他方, ステフ アヌスは, ペ テ ロの椅 子 の保持 者 と して, 他 の司教達 に,彼等 が ローマの司教 よりも一層低 い地位 にあ るこ とをは っ き りと注意 していた し, また, 彼 に対 して従 うこ とを義 務づ けて もいた。

ステフ アヌスは, 司教権 の

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な解釈 を もって, 全教 会 に対 す るいわば最初 の法王 に なって い く。 これ に対 して, キプ リア ヌスは, 同等 の権 利 を もつ 司教達 の堅 固 で 自由 な愛 の同 盟 とい う考 え を もって, 司教主義 の古典 的 な代弁者 にな って い く。

司教 団 の一致 に よる教 会 の統一 を何 よ りも重視 したキプ リア ヌスが, その主張 に よって, か えって, 分裂 の一万 の旗 頭 にな って い く。歴 史の

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とで も言 えよ うか。 もっ とも, どんな に強調 され た教会組織 の統一 も,教 会 人の間 の争 いの もとでは,事実上 いか に簡単 に破 られて しまうかは, 今 日では全 く周知 の事柄 であ る。 しか し, その ため に, キプ リア ヌス神学 に固有 な歴 史的意義 を誤解 すべ きでは ないで あろ う。彼 に とって教 会の統一 は,決 して最初 か ら不動 で単純 な所与 と してではな くて, む しろ,聖職 者 の使 命 と して, す なわ ち, 危急 の際 には,莱 際 に教 会への信仰 を自己の 人格 的決断 を もって試練 にか けて提示 しなけれ ばな らない指 導者達 の道徳的 な課題 と して, 考 え られ てい るの である(048)

この抗争 は突然 の迫害 に よ って中断 され た。 しか し, その後 も法王至上権 の確立 は着実 に進 め られ, その過程 に対 して

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Oとい うキプ リア ヌスの

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は絶 えず不吉 な影 を投 げかけてい く。 この ため, 彼 の格率 は, まだ ラテ ン教会 を

Ec c l e s i ai nPa pa

とい う完 全 に新 しい原理 に従属 させ るこ とが で きる以前 に,西方 にお いては, 事実上破 壊 されなけれ ば

な らなか った。 この新 しい原理 に対 してキプ リア ヌス神学 の体系 は, 本質的 に対立 して いたの であ るO事実, 間 もな くローマ教会 は, 異端 者洗礼 に関す る彼等 の教義 をアフ リカにお いて も 原則 とす るこ とに成功 した。 この成功 は, 多分

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年 の

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会議 において決定的 にな った。

国家 権力 の 介 入 に よる成功 で あ った。 しか し, この時 に もうー度教 会 は分裂 した

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論争 で あ る。 この分 派 は, 彼等 の重要 な教義 の ほ とん どをキプ リア ヌスの遺産 か ら引 き出 して いた。 しか し,ほ

1世 紀 もの間 アフ リカ教 会 を混乱 に陥れ た この大 きな分 派運動 も

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参照

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