間主観性とコミュニケーション
ルーマンと現象学
村 中 知 子
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P 問題の所在と限定 の直接的対決をとおしてその理論を練り上げてき 2 フッサールの自己批判的理性 ている。現象学もその例からもれていない。かれ 3 フッサールの理論決定一超越論的主体 は,初期からその最晩年に至るまで折りにふれて 4 間主観性一複数主体の関係性 現象学,とりわけフッサールに立ち返っている。
5 間主観性からコミュニケーションへ そして,死に先立つ3年前の1995年の5月に,奇 6 むすびにかえて しくもフッサールと同様に,ウィーンにおいて
「現代科学と現象学」と題する講演を行っている2。
1 問題の所在と限定 その講演の冒頭でルーマンは以下のように述べ
「ルーマンが長い間観察されると,彼がけっし ている。フッサールのウィーン講演以来60年の歳 てシニカルな距離と屈折をもって語ることのなかっ 月が経過し,社会情勢も,またそれをどのように た唯一の言葉が思い起こされる。それが理論であ 観察し,描写するかといったことも重要な点で変 る。理論的な思考発展の成果に賭けるその無条件 化した。社会学的に見ると,解釈学的なテクスト さにおいて,彼は若き日のマックス・プランクに 解釈によってそれほど多くの分析の成果があげら 似ている」 ルーマンの数少ない弟子の一人 れるわけではないという点で,この60年の隔たり であるスティヒヴェーは,ある書物のなかでこう は重要である。テクスト解釈の代わりに,テクス 書いている1。彼によれば,社会学に,それまで トはまず第一にその時代のコミュニケーション状 経験することのなかった「論理的思考のラディカ 況に連れ戻されなければならない。そうすること ル性」を持ち込んだのがパーソンズとルーマンで により,そのテクストが何に向かって書かれたの あり,たとえこの両者の理論が古典になるとして かをその著者以上に明らかにすることができると・
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焉Cその理論へのかまえは,知的行動の可能性と ところで,最晩年までもちこされたルーマンの 亡そ社会学に残り続けるはずだという。 現象学,とりわけフッサールへのこだわりの中身
たしかに,ルーマンは終始一貫して「社会につ はいったい何であるのだろうか。言葉を替えるな いての理論」の彫琢へと自己をかりたててきた。 ら,ルーマンは現象学の成果から何を引き出し,
そのさい彼がとりわけ確保しようとしたのは,自 それをどのように自己理論の展開の素材にしたの
己の理論をもその理論的検討の対象になしうるよ か?ルーマンは先の講演のなかでも,自分の試み ● ■ ● ● ● ● ■ ● ● ・ ● ・ ・
、な「理論の再帰性」の要請であった。このいわ がフッサール哲学の批判でないことを繰り返し強 ばオートロギー(Autologien)にもとついた「理 調している。問題とされているのは,哲学的な方 論の普遍性要求」を阻むほんのわずかの徴候もルー 法でフッサールを検討することでは無論ありえな マンは見逃さなかった。あらゆる領域の論理の曖 い。ましてや,めざされているのは,進歩への努 昧性,論理の胡散臭さをこの理論の再帰性という 力でもないし,知の改善や増殖でもなく,固有の 観点から暴き続けてきた。まさにこの視角から, 意味の解釈学的発掘でさえもない。「フッサール ルーマンは主導的影響力をもつ当代一流の理論と のテクストをコミュニケーションとして解読する」
ことによってもたらされるものは,ルーマンの言 いるのは,「理論的再帰性への関心」である。「理 o ● o 騒 ● ● ● o ● ● ■ ● ・ ・ ■
章を借ワれば,ある描写についてのなんらかの新 論的再帰性についての関心がいかにして救済され しい描写であり,つまりは「再描写」である。再 るのかを知りうるのなら,われわれは理性すらも 描写(もとより再観察と言ってもよい)は,フッ 喜んで断念するだろう」とルーマンは述べてい サールの時代に必然であったものをコンティンジェ る3。
ンシーに継続的に変形すること,換言すれば,知 以上から推察されるとおり,フッサールの自己 識や行為の自然的な枠組み条件を人為的枠組み条 批判的理性をルーマンは「現代の科学の課題」と 件に継続的に変形することと解される。再描写に いう文脈に連れ戻して吟味している。そうする
よって可能となるのは,自明で生活世界に受け入 ことが可能なのは,無論のことフッサールの提言 れられていたことがらのいわば「観察方法の特殊 が現代の時代状況を逆照射する内実をそなえてい 性」を暴いて視野に収めるζとである。この点に るからにほかならない。だが,自己批判的理性と こそ,「理論の再帰性」の含意が生かされうる。 いうただそれだけのことであれば,社会理論の構
この作業をとおしてルーマンがまず第一に注視 成というルーマンの野心に振れる領域はほんのわ したのは,フッサールの時代的危機意識すなわ ずかでしかない。結局のところ,ルーマンは,フッ ちヨーロッパに固有の「自己批判的i理性」(Selbst一 サールの自己批判的理性をてがかりにして,自己 kritischen Vernunft)であった。近代化へのプ 批判的理性そのものを機能させている理論装置そ ロジェクトに対する信頼が色槌せ,現実の理性性 れ自体,つまりは現象学的理論構成の全体と対峙 と希望のことごとくが否定され,もはや人びとを しているのである。その具体化が超越論的主体概
納得させるメタ物語はないというメタ物語が語ら 念および間主観性概念の批判的な検討へとつながっ o . ● ● ● 9 ● ■ o
れるポストモンダン状況において,60年前のフッ ている。
サールのウィーン講演に立ち返るその意義は, 本稿は,社会理論の構成という視角からルーマ
「自己批判的理性」というアッサールの基本的考 ンが現象学から何を学んだかという点を中軸にし え方の塵をはらい,それをあらためて「コミュニ て,ルーマンのいわば現象学論の一端を浮き彫り ケーションのテーマとする」ことにある。簡単に にすることをめざしている。ルーマンは「現象学 飛び越えられないフッサールのテクストは,60年 における他者認識の問題」を問い続け,フッサー の問に二次的,三次的コピーによって,またもと ルの提起した課題(意識の自己準拠性についての もとのフッサール自身の表現形式によりかえって, 厳密な考察)を受入れつつも,理論構成,認識論 フッサールの企図した「理論への関心の疑念や絶 概念用語等々の点で明確にフッサールと一線を 望からの救済」という厳格な帰結に到達しえない 画し,フッサールの問主観性概念を退ける形で,
ままでいる。そしてなによりも興味をひかれるの 理論の代替案を提示している。この意味で,ルー は・哲学の名のもとで長らく受け入れられてきた マン理論とフッサール理論との関係は,「課題に 無条件な理論関心が,変化した条件に直面しても おける継承,理論における断絶」とでも言うこと なお(ポストモダンの現代においてなお)続行さ が可能である。とはいえ,当然のことながらルー れうるのはなぜなのかという点である。少なくと マンの現象学への言及は多岐にわたり,その全貌 もこの問いはルーマンにとってきわめて現実的で をみわたすことはおぼつかない。特に本稿では ある。 「生活世界論」には紙幅の関係上言及していない。
だが・自己批判的理性ということで,ルーマン カーバーされている範囲は超越論的主体をと間主 が問題にしようζしているのは,当然のことなが 観性をめぐる議論に限定されている。
らもはや「ヨーロッパ的人間の救済」ではありえ ない。すでに指摘したように,ルーマンを導いて
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2 フッサールの自己批判的理性 比較可能性にさらされ,比較可能性という終わり およそ60年前の1953年5月,フッサールは「ヨー のない地平が「比較がなされる立脚点への問い」
ロッパ科学の危機と学問」と題する講演をウィー をあらわにするばあい,哲学は問いへの探索を ンで行っている。ルーマンはこの講演のテクスト 「精神」とか「超越論的主体」のような終了形式 の特徴として,次の4点を析出している。 で終わりにするわけにはいかないからである4。
その第一は,20世紀においてほとんど匹敵する 第三点目は,フッサールが上記の問題,すなわ ものを見出せないような「ヨーロッパ中心主義」 ちほかならぬ文化であるはずの哲学がもつ盲点
(Eurozentrismus)である。フッサールの捉えた (このばあいより明確にはヨーロッパ文化的バイ 危機は,ヨーロッパ人が陥っている危機であり, アス)と折り合う形式への探求という問題を,あ
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?[ロッパ人がみずからで救済しなければならな る一定の区別技法(Unterscheidungstechnik)を い危機であった。ヨーロッパ以外の他の人種への 用いて解決ないし排除していることである。しか
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まなざしはそこにはない。したがって,地球上の もこの区別は,組み込まれた非対称(eingebauter ヨーロッパ以外の政治事情や経済事情を勘案した Asymmetrie)を有している。組み込まれた非対 り,ヨーロッパ的伝統が,別様に構造化される世 称とは,区別の一方の側面が区別を用いる者,す
界社会的な事情に埋没してしまう可能性が入り込 なわち観察者(観察者はなんらかの区別を用いて ■ ■ ● ■ ・
む余地もない。ヨーロッパが他のものになる可能 しか観察しえないがゆえに)によって選好されて
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性を明確に否定した上でのすべてのもののヨーロッ いるということを意味する。この非対称のゆえに,
パ化がごく自然に前提されているそのかぎりで, 区別の選好された側面が区別それ自体を制圧する
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そこにはヨーロッパの精神的優越意識(geistigen ことになる。フッサールが自然的構え(natU r一 Uberlegenheitbewu B tsein)がひそんでいる。 lichen Einstellung)と理論的構え(theoretische
第二はフッサールの文化概念の援用に関連して Einstllung)を区別をするさいには,明白に後者,
いる。普遍性に志向する哲学が文化に定位してい すなわち理論的構えがヒエラルキー上優位を占め ることは容易に納得されうる。今日用いられてい ている。同様に,精神科学と自然科学の区別その る文化概念は,18世紀後半の発見,しかもヨーロッ ものを制圧しているのは,精神科学なのである。
パ的発見である。当時問題であったのは,近代社 なぜなら精神科学だけが,自然科学がいかなる精
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会の比較史をある概念的コントロールのもとにお 神においてその研究をおこなっているかの問いを くことであった。つまり,あらゆる人間的人工物 たてることができるからである。区別をしている にとどまらず,自然の観照の仕方ですら今や文化 観察者は区別のなかには見出されない代わりに,
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であると宣言され,文化の名のもとに比較にゆだ この観察によって選好された側面においてその地
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ねられうるのである。こうした事態には,すでに 位を確保している。
セカンド・オーダーの観察(観察の観察)が含意 だが,こうしたアンヴィヴァレンツを明確にす されている。観察の観察とは,ある成果ないし帰 ることなしに,哲学がそれを生産し受け入れるば 結を,それをもたらした観察とは別の観点から観 あい,哲学は何を隠しているのかの問いの前に立 察することにほかならない。文化に即して言えば, たされる。すなわち,ヨーロッパ近代の固有の主
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無自覚的に体現されている文化内容を他の文化的 導的な考え方は,どのようにしてフッサールにも
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潤@ ● ● ● マ点から,すなわちコンティンジェンシーから眺 たらされたのか。また危機問題の解決がヨーロッ ・ ・ ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ・ ●め,その盲点を明示化することである。そうであ パの自己救済の筋道においてのみ見出されるかの
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るのなら,哲学が文化であろうとし,また文化で ように見ることは,どのようにして納得されうる なければならないばあいに,哲学はこの作業を避 のか?との問いは,フッサールが駆使する区別の けることができない。なぜなら,あらゆるものが なかに隠されている観察者としてのフッサールに
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謔闡I好された側面はいかにしてもたらされてい わる問題であるはずなのである。ルーマンの言う るのか,と言い換えることができる。 「理論的再帰性」とはまさにこの点に収敏してく
第四の点は,フッサールの伝統との関係にかか るのである。
わっている・ここにもまたルーマンは理論戦略的 以上四つの析出点を確認したあとで,ルーマン に位置づけられたアンヴィヴァレンツを見つけ出 はさらに以下のように問題をたてている。すなわ している。ヨーロッパ的理性の中核部分は,「批 ち,フッサールの心理的動機や社会学的イデオロ 判的態勢の固有の普逓性である。この批判的態勢 ギーの疑いだけを追求するのであれば意味はない。
の普遍性は,直ちに,完全に伝統的に与えられた その代わりに,自己批判的理性を歴史的な遺産で 宇宙の代わりに,もともと真なるもの,なんらか あると宣言し,その自己批判的理性をふたたび自 のアイデンティティを探求するためには,いかな 己批判的な再帰によって採り入れることができる る所与の意見も,いかなる伝統も,疑問なく受け のかを問うことも可能である。だが,そうするた
入れないことを決心している」5ことに存するの めには,フッサールの主導的な考え方である「超 ・ ・ g o ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ・
として捉えられ,伝統によって正当化されている。 形態が要求されざるをえない。なぜなら,フッサー 反伝統主義というこうした伝統は,ひとりフッサー ルによって主張された形式のもう一つの側面を問
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汲セけではなく,近代科学の総体にも当てはまる うことの排除が理性へのアピールによって可能に
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ニルーマンは言う。むしろ哲学に期待されなけれ なっているのなら,やはりこの理性へのアピール ばならないのは,こうした事態をも哲学は省察し を「脱構築」し,非批判的で自己批判的理性 なければならないということであるだろう。 (unkritisch−selbstkritischen Vernuft)のパラドッ
ヨーロッパ哲学の伝統から出発しているフッサー クスに立ち向かわなければならないからである6。
ルは,つねになお可能で確かに求められうる動機
としての起源の現在性と,際限のないもののなか 3 フッサールの理論決定一超越論的主体 に存している目標のイデーの現在性とを同時的に フッサールの理論決定の核心が「超越論的主体」
その理論のなかに組み込んでいる。そのことによ (transzendentale Subjekt)にあり,そのことが り,たとえばある都市の起源から,あるいは貴族 理論上の制約を導いているとルーマンは見てい 社会の起源から,現在生活している人びとの徳に る7。第一世代の現象学は,ザッへそれ自体にい 対する要求を推論したりすることが矛盾なく受け たるという要求を文字どおりに理論がないままに 入れられる。フッサールにとっては,過去は過ぎ 追求したのだが,そうした第一世代の現象学から 去ったものではなく,未来も開かれたものとして のあらゆる偏流に直面して,フッサールは現象学 は捉えられていない。フッサールにとって問題と の超越論的基礎づけを主張した。矛先が向けられ なっているのは,完成と退廃であり,規範的なア たのは,19世紀に始まるいわゆる「心理学主 イデンティティと逸脱である。フッサールは無自 義」8である。フッサールは,当時無視できない 覚的に伝統にくみすることの拒否に,本来の学問 影響力をもちつつあった心理学主義の奢臨圭義内
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フ使命をみいだしたのであるが,伝統を拒否しよ で精神を欠如した科学把握を断固拒否して,それ
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、とすることと,なんらかの伝統をすでに抱え込 それの意識の独自のオペレーションを明示しなけ んでいることとは厳密に区別されざるをえない。 ればならないと考えていた。ルーマン的表現をす また,伝統を無条件に許容しないと言明すること れば,フッサールの関心は,「意識のオートポイ と実際にそのことに成功しているかどうかとは異 工一シスの基本構造」の把握に向けられたのであ なるとも言い得よう。要するにそれは,力強い言 る。
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明にではなく,理論装置としての理論の機能に関 意識のオペレーションの形式は,フッサールに
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よって志向性(lntention)と名づけられている。 誰によっても否認されず,またまさしく否認され ● ● ■ ● ● o ● ● ● .
この志向性は,今日的考え方に従えば,ある種の ないがゆえに現象として現れるということが意識
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因果帰属,すなわち意図に対する帰属(誰がそう の不可欠の要因としてみなされてきたのである。
しているのか)を前提にしている。ルーマンによ したがって,フッサールにとっては,意識以外の れば,フッサールはこの誰に帰属するのかという 他の形式において知見を要求することは意味がな 問題に注意しないまま,結局のところ志向性を一 くなる1°。
般的形式において説明してしまっている。一歩譲っ この意識によってのみ知識を要求することは,
て,フッサールは厳密な意味でもっぱら自己帰属 アプシャテゥング(Abschattung)の概念を用い だけを考慮に入れたのだとしても,自己帰属と他 てなされている。アプシャテゥングは,現象を事 者帰属は食い違いうる,つまりはパーソンごとに 実として確認しうることをもたらず一種のはたら 帰属は異なりうるという問題は残り続けるはずで きである。つまり「いっさいの規定性はアプシャ ある。したがって,志向性は,意識がそれ自体で テゥング・システムを有している」11。だが,こ 何か一定のことがらを言い表したり,考えたりす うしたアプシャテウングそのものは,アプシャテウ
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るということを動機づけるさいの,ある差異の設 ングされるものと同一のものではありえない・ア 走(das Setzen einer Differenz)以外の何もの プシャテゥングは体験である。しかしながら,体 でもないと考えることができる。意識の第一の, 験は体験としてのみ可能である。だがそのさい,
しかも不可避の指示は,「区別をすること」であ 体験はいかにして体験として可能となるのだろう り,意識的な形式においては,「意識の自己再生 か。この問いに対して,フッサールは,超越論的 産という固有のはたらき」以外の何ものでないこ 事実性と体験の自己接近可能性を引き合いに出す
とになる。しかもこのばあい,区別一般ではなく, ことで回答しているとルーマンは言う。したがっ 特走あ医加を含意せざるをえない。 て,ルーマンからすれば,フッサールの提起した
他方フッサールの「世界」は,たえず新しい可 課題は,十分な理論的解決を与えられずに中途で 能性を有する際限のない地平であり,そこでは志 終わっていることになる。この半ばの道をさらに 向されるすべてのことがらが規定されることにな 追求できるのが,ルーマンによれば,システム論 る。「地平の非規定性は,固定的に指示された様 的再定式化なのである。
式の規定可能性をたしかに不可避的に意味してい ノエシスとノエマの差異,つまり表象すること る」・。ルーマンによれば,このことから,規定 と表象されたことの差異は,世界の描写可能性を
できない地平を志向性によって規定するというこ 保証しており,規定可能な対象を構成している。 ・ ・ ● ● 騒 ● ● o ● ■ ■ ● ● ● ■ o ● ● ● ● . ● ・ ・ o ・
とを,志向性それ自体がいかにして可能にしてい この差異を自己準拠(Selbstreferenz)と他者準 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● o ● ● ■ ・ ・ ● .
るのか,という問いがたてられることになる。こ 拠(Fremdrefernz)の区別にとってかえれば,
の問いはまた,規定できないことがらが規定可能 意味喪失なしに両者の準拠が互いに条件づけあっ なことがらとして扱われるリスク,そのリスクの ていることを定式化できるはずである。というの 補償が問題になることを含意している。この問題 も,意識は意識以外の何かからみずからを区別す もフッサールによってあらわになってはおらず, るのでなければ,みずからを表示できないからで
♪土ジ玄と.〉土÷あ土重構造によって解決されて ある。つまり意識が自己準拠と他者準拠(あえて いるとルーマンは言う。この区別は,あらゆる経 言えば,自己意識とそれ以外の意識であろうもの)
験的明証から独立して, いわば超越論的証 を区別できないのなら,意識にとって意識という 明によって一自己再帰の結果として導入されて 現象はありえない。それゆえ,意識の志向性によっ
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「る。そうした区別をおのおのの個人は自分自身 て操縦されるオペレーション様式は,自己準拠と
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フなかに見出すことができるがゆえに,今日まで 他者準拠の区別にもとついてのみ可能である。志
向的オペレーションは,ルーマン的に表現すれば, テムの認知能力は,環境に直接的に接近できない 自己準拠と他者準拠のたえざる「いきつもどりつ」 というまさにそのことに依拠している。つまり,
(Oszillieren)なのである。 システムは,直接環境に接近できないにしても, o ● ● ・ ・ o ● ● ● ● ● O o ■ ● ・ フッサールは,意識のオペレーションの独自性 みずから選んだ区別の助けを借りて環境を観察し
を超越論的主体から,つまりは一般的形式から分 たり,環境についてのイメージを作り出したりす ■ ● ●
析した。もともとのフッサールの課題が個々の独 ることを可能にしている。したがって,たとえ,
自の意識のオペレーションの把握であったにもか こうして得られたリアリティがリアリティ・イリュー かわらず・その個々の意識を超越論的主体という ジョンであったとしても,それを判定する基準は 一般性において考察したと言えよう。しかし,フッ 絶対的でないし,そうした判定の試みはたいてい サールのそもそもの課題設定は適切であったので のばあい失敗するにちがいない。問題なのは,イ あり,志向性は一般性には解消されえない。この リュージョンであるかないかではなく,「認識の ことは,ある形式の一方の側面の選び出し(自己 自己訂正の可能性」であるだろう。なぜなら,認 準拠でなく他者準拠,主体でなく客体,観察され 知に対して耐性力のあるリアリティの区別はそも
るものでなく観察するもの,あるいはすべてその ぞも存在しないからである。認識から自由に存在 逆)が,もう一つの側面を不可避的に処理しえな するリアリティというフィクションは,すでにハ ければならないことを含意している。別言すれば, イゼンベルグによって破棄されている。
超越論的主体ではなく,複数の主体のそれぞれの このことは近代社会のありようを考えると容易 意識のオペレーションが取り扱われなければなら に納得されうる。多中心的で,多コンテクスト的 ない。すくなくとも理論構成はそれを可能にする なシステムである近代社会は,それぞれはまった ようしつらえられなければならない。 く異なるコード,異なる主導的区別を用いて観察 この課題を解決するものが,意識/現象の区別 されている。そうした事態に鑑みると,そのつど を自己準拠/他者準拠の区別に翻訳する戦略であ しかるべきオペレーションにとってわれわれがい
る。この戦略に依拠すれば,経験的認識論,つま かなる区別を受け入れるのか,あるいは拒否する ・ . . ● o ● ● ● o ● ● ● oり経験的システムにもとついた認知科学への道が のかをたえず可能にするトウシ守クジ当チル老冴
・ o 昌 ● ■ ●
リり開かれることになる。先に指摘したとおり, ペレーションがなくてはならないのである。ルー
認知能力のあるシステムは,自己準拠と他者準拠 マンによれば,リアリティはパラドックスと同様 ● ● ●
の区別を用いてオペレーションしており,他者準 に「展開」に依拠している。リアリティはなんら層 o ・ . ● ● o ●
畢をζ挙レてのみ(つまりは「現象学的にのみ」) かの構築物から別の構築物へいたる補助手段にほ環境の表象を産出しうるからである。システムの かならない。したがって,六ラトウ多烹としそ与
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Iペレーションによっては環境に接近できない。 えられているリアリティは,けっしてシステムの なぜなら,システムは環境においてはオペレーショ みでは条件づけられないものであり,無条件に与 ンできないからである(オペレーションはシステ えられている唯一の知識なのである。
ム内部的出来事である)。他方で,システムは現 そうであるなら,フッサールの選択した超越論 実にそうである環境とそのシステムが捉えた環境 的主体はフッサールの意図した個々の意識のオペ とを区別できない。ベイトソンが指摘するように, レーション様式の解明という課題に届いているか
「われわれは,現実にある世界を指しているのか, が再度問われなければならない。
われわれが見ている世界を指しているのかを決し
て明確にはできない」12のである。この困難性な 4 間主観性一複数主体の関係性
いし制約は・リアリティについてのあいまいな表 ルーマンによれば,主体という概念は,いまな 象の使用によって隠されている。ところが,シス お真剣に取り扱われており,記憶を銘記したり,
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9 ・ ● o ● o ● ● ■ ● ● ■ ● ● ● ● ●
理論上の立場を表示するのに必要とされている。 の主体は,それぞれ自分自身の問主観性を有して
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主体は存在するものすべての基礎になっており, いるのであり,間は比喩的にすら主体を横断する かつ同時に,諸メルクマールのいっさいの担い手 ものとしては考えられないのである。ルーマンに に主体概念を適用することが拒まれている。この よれば,このことはすくなくともパーソンズのダ
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ことは,主体概念の近代的なラディカリゼーショ ブル・コンティンジェンシーの公理において認め
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ンの意義となっている13。このことのインプリケー られている。すなわち,それぞれの行為者は,行 ションを勘案すると,問主観性(lntersubjek一 為するエージェントであると同時に,自分自身と tivitat)という概念のもつ矛盾性が明らかにされ 他者の行為の客体でもありうるのである。つまり,
るとルーマンは言う。結論的に言うと,間主観性 問主観性に関して,何についてのどんな意識が共 はパラドックス概念であり,つまりはこの概念が 有されているのか,と問うても不毛なのである。
言い表していないものを表象している概念となっ 主体ということでフッサールが捉えたのは,意 ている。フッサールの問主観性問題は,当然のこ 識は意識それ自体のオペレーションによって意識
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とながら主体理論の文脈において構成されている。 それ自体に直接現存しているという「意識の自己 ところが,主体概念に固執しそれを維持しようと 準拠性」であったとみてよい。意識は表象を用い
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すると,結局のところ困難な状況に陥り,その結 てオペレーションし,けっしてコミュニケーショ
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果この困難な状況を打開しようとして問主観性概 ンに還元されえない。このことのなかに,フッサー 念が選び出されることになっているとルーマンは ルは意識の作用の超越論的地位の証明を見定めて 見ている。つまり,間主観性は,意識の主体性を いる。そして,ほかならぬこのことのゆえに,主 重視する理論のなかに,その理論からは考えられ 体という用語の使用の正当性が確保されているの ない何ものかを導入するのに役立っている。フッ である。だが,ルーマンによれば,自己準拠性か サールは,デカルトの努力にもかかわらず,問主 ら独自の経験システムを推論可能である。そうし 観性の問題を解決しなかったとしてシュッツによっ た経験的システムは,なんらかのオートポイエー て非難されているが14,この非難は当たらない。 シス的システムの前提条件を充たしており,つま ルーマンによれば,フッサールは間主観性の問題 り,回帰的閉鎖性において,システムがそれから を解決しなかったのではなく,間主観性を理論化 成り立つ諸要素を,諸要素の助けを借りて,シス すれば,主体概念の放棄になることに気づかなかっ テム自身で再生産しているシステムなのである。
たのである。つまるところ,問主観性の問題は主 したがって,ルーマンによれば,意識哲学の
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体理論が受け入れなければならない修正の必要性, 「自己準拠的再生産」という考え方は,意識以外 すなわち主体概念を放棄することなしには受け入 のものにも適用可能であり,かつそのさいには,
れることのできない修正の必要性を体現している よりいっそう精鋭化された理論上の諸問題を取り のである。 扱い可能にしていることになる。それらは,①シ たとえばハーバマスのように,問主観性に独自 ステムと環境の構造的カップリング問題②閉鎖 の妥当性水準を要求すると15,そのことにより, 性と開放性の相互強化の関係(自己準拠と他者準
「間」(inter)と主体(Subjekt)とは相容れず分 拠の関係),③システムのオートポイエーシス的 裂してしまう,というのがルーマンの言い分であ 再生産と「区別を用いての観察」との関係である
る。より詳しく言えば,主体と問とは矛盾してい (この諸点については以下の行論において明らか
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ることになる。なぜなら,主体が一つの統一体で にされる)。
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あるのなら,そもそもそれらを横並びにつなぐこ 問主観性という概念で考えられている問題は,
との意味はどこにあるのかという疑問が提起され より一般的な文脈でパラフレーズすると,ある主 ることなるからである。統一体としてのそれぞれ 体が他者をいかに考慮するかの「他者問題」,あ
るいは「諸主体の関係づけ問題」と把握されよう。 サスかディッセンサスかという二つの可能性は可 ところが,そもそも関係づけは,関係されるもの 能性としていずれにも開かれていなければならな を前提とすることなしにはその対象を主張できな い。
いという難点をもつ。そこから,関係が変化した 以上のような関係づけにまつわる難点を避ける さいに,関係づけられたものも変化するのかどう ために有効なのが,システム理論的戦略である。
か,またどの程度変化するのかについては正確な システム理論は,同一性が環境に対する差異性の
に陥る。この不鮮明さをフッサールは先験化 図式),先に述べた関係づけの同一性と差異性間
(Apriorisierung)をとおして解決している。関 題の困難性を避けることができる,というのがルー一 係化可能性は,対象がリアリティとして現象する マンの主張である。また,コンセンサス問題に関
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ということのためのアプリオリな条件となってい 連させれば,自己選択/他者選択にそれぞれ拘束 る。そうであるのなら,間主観性という条件のも されている主体が自分自身のアイデンティティを とでは,主体の観察者に,試行的行動を提供する 集合的アイデンティティに合わせているというこ ことが可能である。デカルト的自己確認と平行し とを無理に推論しなくてもよくなる。システムは て,観察者もまた,他の諸主体が問主観性と関わっ それぞれの区別を用いてオペレーションしている ているがゆえに,そうした主体も主体であるとい のだが,そうしたシステムはそれ以外のシステム うことをつきとめることができる。しかし,諸主 の観察に委ねられる。つまり,複数の主体の存在 体の間に関係というものがないとするならば,い は,諸観察の観察,すなわち第二次観察を避ける かにして問主観性が観察されうるのか。観察者に ことができない。しかも,第二次観察は,諸シス とってみれば,主体というものは,彼の観察のパ テムの観察をするための多価的論理学を要求して ラドックスを指摘するはずの客体であると考えら いる。
れる。
ところで,なんらかの関係は二つの可能性,つ 5 間主観性からコミュニケーションへ
まりポジティヴな可能性とネガティヴな可能性が 以上見てきたように,問主観性概念に依拠して
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あると考えられる。そのことから,間主観性はコ 社会的なものを追求することは生産的でないとみ ンセンサスであったりディッセンサスであったり られる。意識の自己準拠性が「独自の様式の主体
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する。いずれにせよ,いわば相互性は疑われない。 的なもの」に受け入れなれなければならないのな つまり,意見が一致しないという点で意見が一致 ら,社会的なものそれ自体も意識の外部において しうるのである。別言すれば,そうした意見の一 生起しうるだろう。「間」として言い表されるも 致は,コンセンサスのばあいもディッセンサスの の,すなわち問主観性は諸主体間の関係であり,
ばあいも必要とされるのである。したがって,同 それはとりもなおさず社会的なものである。そう 一の諸対象の世界が前提とされざるをえない。間 した関係はシステム境界を越えて観察されうるし,
主観性は,コンセンサスとディッセンサスの分岐 したがってすでに注意を喚起したように,それぞ 点の構造の一つである。にもかかわらず,根拠つ れのシステムにとっての固有の「間」がありうる。
けるのが困難なかたちで,コンセンサスはディッ すなわち,個々のシステムから独立して,自由に センサスよりもよいとか,より間主観的であると 客観化可能な世界や存在論的な世界というものは かという考え方がすべりこんでいる16。往々にし ありえないのである。
て問主観性問題が諸主体におけるコンセンサス問 したがって,社会的なものをつくりあげている 題にすりかわっている。このことはすでに価値含 統一体というわれわれの問題は,より精確に特徴 意的である。理論構成上の問題として,コンセン づけると,いかなる種類のオペレーションによっ
村中:間主観性とコミュニケーション 81
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ト一現実に意識でないのなら一その統一性が エーシス的なオペレーションにほかならず,情報, ● ● ・ ● ■ ○ ● ● ● ● ● ● ● ・ ● o ● ●
生産され,再生産されるのかという問いに変形さ 伝達,理解の三つの選択の総合の創発なのである。
れうる。この問いへの答えとしてルーマンによっ つまり,コミュニケーションは,諸選択の選択な
て準備されたのが,コミュニケーションである。 のである。コミュニケーションが成立するのは, ・ ■ ● ● ● ● 9 ■ ■ ● ● ● ● ・ . ● o ・
もとより,従来のコミュニケーション概念のよう これらの諸選択が選択的に相互に関係づけられる に,ある主体から別の主体へと何か(たとえば情 ばあいにかぎられる。コミュニケーションが生起 報)が移転するといった捉えかたが退けられるそ すると,社会システムがオペレーションするよう のかぎりにおいて,コミュニケーションは,社会 になり,コミュニケーションが生起しなければ社 的なもの,つまりは社会システムの要素として位 会システムはオペレーションしない。このオペレー 置づけ可能となる。ベイトソンがすでにコミュニ ションは,それ以前のコミュニケーションとそれ ケーションを「リダンダンシーの増殖」として把 以後のコミュニケーションを前提条件にするとい 握しているが,それはあるコミュニケーションに う回帰的な仕方で生起しうるからにほかならない。
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おいて何がコミュニケートされたのかを一つ以上 社会システムは,自律的に作用しているのであり,
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フ箇所において問い合わせることが可能であるか その環境についてのコミュニケーションとしての らにほかならない。このことは同時に,システム みその環境を把握しうるのであり,情報の処理と が雑音に対して感受的になりうることを言い表し いう形式においてのみ,つまり,コンテンジェン ている。なぜなら,新しいものに適応することは, シーを前提としてのみ,その環境を把握できる。
蓄えられた知識の喪失に必ず帰着するわけではな それゆえにこそ,社会的なものの統一体は,諸主
いからである。 体「問」としては把握されないのであり,社会的 ● ● ● ● ・ ●
それでは,どんな仕方でコミュニケーションは なものの統一体というものは,このオペレーショ ● o ● ● ● ● ● ■ ● ・ ・
統一性を生み出すのだろうか。そのためには,言 ン様式の自律性と閉鎖性以外のなにものでもない 語の三つの機能の区別が根底にすえられなければ のである。
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ネらないとルーマンは言う。コミュニケーション ルーマンによれば,主体を前提とし,諸主体間 あ看んらふあ内容は,そのコミュニケーションの の関係を問うという難点の多いアプローチに代わっ 内容でありうるであろうものとは別のものである て,システム/環境一図式を採用することにより,
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にちがいない。誰かがいずれにしろこれを知らせ 諸システムの同一性とその差異性を明確に区別し
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謔、としなければならない。とはいえ,それを止 て,関係づけることが可能になる。また,システ めることもできる。さらに誰かが(情報と伝達の ムを独自のオペレーションにもとつく統一性と捉 差異を含めて)他の誰かに知らせようとするこの えることにより,オペレーシヲ≧ζレで明攣レく
o来事を珪晦しなければならない。とはいっても, いるがゆえに統一性をもち,その閉鎖性に依拠し ●その人はまったく別のことがらを把握したり,そ て環境(それは意識システムでも社会システムで
れそれの差異や選択を見落としたり,あるいは把 もありえる)から情報を入手しうることになる。
握しなかったりしうる。そのさい,意識は,コミュ システムと環境の関係は構造的カップリング ニケーションにおいて,みずからでみずからを決 (strukuturelle Kopplung)として把握されてい 定している主体として利用されているのではなく, る。つまり,オートポイエーシスからなる自律的
コミュニケーションに対してコンティンジェンシー システムは互いに別々にオペレーションするので を寄与し,同時にコミュニケーションをとおして あり,どのような比喩的な意味においても重なり
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カ右される環境のオペレーションとしての性格を あったり,融合したりするのではない。自律的と
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Lするものとして利用されている。 いうことで言い表されていることは,システムの したがって,コミュニケーションはオートポイ 刺激方法はつまるところ自己刺激でしかないとい
うことである。馬に無理やり水を飲ませることが 多くの意図や意欲などが直接関係づけられないこ できないように,馬ではない人間はおそらくより とに変りはないし,それ自体の統一性をもつ社会 多く他者の意図を感受できるかもしれないが,そ 的なものへの認識が深まるわけではない。むしろ,
れを積極的に勘案して水を飲むかどうかはわから 社会理論の構成にとって不可欠なのは,まさに社 ない。人間のばあい,時にはその意図の裏をかい 会的なものを捉える理論装備の先鋭化であるだろ たり・ばあいによっては悪用することさえ可能で う。人間の主体性をいくら強調しても主体概念を あるにすぎない。これが当事者の主体的自己決定 主軸にした社会についての理論が形成されるわけ と言い表されてきた事態である。つまり,人間は ではない。むしろ,たんなる主体性の強調は理論
他者の意図に簡単に順応したりはしないのであり, を情緒の世界に引き戻すだけであるように思われ 9問われているのは,繰り返しになるがそうした自 る。
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律的にオペレーションしているシステム同士の関
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係である。それは,みられたように,コミュニケー 6 むすびにかえて
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ションを通じて構成されるしかないのである。し 以上のことから明らかにされるとおり,ルーマ かも,そのコミュニケーションは,最低二つの意 ンはフッサールの意識の自己準拠的再生産という 識システムを環境にした新たな統一体である。そ 考え方を高く評価しているのだが,超越論的主体 れそれがそうした統一体である意識システムと社 およびそれから構成される問主観性概念に対して 会システムは決して融合したりはしない。意識シ は根本的疑問を呈し,フッサール現象学のルーマ ステムは意識を要素とし,社会システムはコミュ ン的再構成をめざしたと言ってよい。終わりにあ ニケーションを要素としたそれぞれ別の統一体で たって,なお二つの問題,すなわち,自己準拠の あるからである。 パラドックスと自己批判的理性の問題に言及して
さらにまた特に重要なことは,ルーマンの主張 この小論の締めくくりとしたい。
するシステム理論的アプローチのさらなるメリッ 自己準拠の問題は古くからトートロジーやパラ ● ● ■ ● ●
トは,意識システムのみならず,社会的なものを ドックスにさらされる可能性を指摘され,多くの も自己準拠的にオペレーションする統一体として ばあい排除されてきた。すなわち,自己準拠を可 捉える理論構成にあるということである。ルーマ 能にしている区別それ自体にその区別が適用され
ンはフッサールの意識の自己準拠性を社会的なも るばあいに陥るパラドックスである。たとえて言 のへと拡張しているのである。そうすることによ えば,よい/悪いの区別それ自体はよいのか悪い り,フッサールのように意識の自己準拠性から出 のかを決定できないというものである。通常この 発して,そこからは説明不能の問主観性概念を導 パラドックスは行為不能あるいはオートポイエー 入するといういわば竹に木をつぐ理論アプローチ シスの停止として把握されてきた。しかし実際に を採用しなくてもよくなるとルーマンは考えてい はオートポイエーシスは停止されず,続行される。
る。統一体としてオペレーションしているものが そのさい,パラドックスの脱パラドックス化がな 唯一意識に限定されないのであれば,意識の統一 されている。つまり区別はオペレーションの盲点 体にだけいわば特権的に主体概念を割り当てる必 となっており,この盲点を利用してシステムはオ 要性もなくなる。 ペレーションするのである。しかも,システムの 意識化された意図性が果たす役割を過度に採り オートポイエーシスを妨げるものとしてパラドッ 入れる理論の構成にルーマンは意義を申し立て, クスがあるとすれば,それはシステムの観察を刺 そういってよければ等身大の意識の役割を透徹し 激するとルーマンは言う17。つまり,システムの た眼で追いかけているように思われる。必要以上 十分な描写をしようとしているそのシステムの自 に人間の意図やら意欲やらを強調したところで, 己観察を刺激する。
村中:間主観性とコミュニケーション 83
無制限に自己準拠的なシステムのパラドックス したがって,こうした区別は,オペレーションの 的構成という基本問題に関係づけられて,観察者 相互的観察が想定されるのなら,対話的ないしは は自己準拠の自然的制約と人工的制約とを区別す 「相互主義的」に取り扱われうる。だがそうであ ることができる。自然的制約は,それを用いてい るにもかかわらず,問主観性的な意味での完全な るシステムには必然的なものとして現れるが,人 意思疎通ができるとか,そうした点に社会的なも 工的な制約を用いているシステムにとってはその のの理性がみられるということを密かに導入する 制約は人工的なものとして,すなわちコンティン におよばない。すべてのオペレーション,すべて ジェンシーとして出現する。そうした区別は,シ の観察が他の観察にさらされるということで十分 ステムの自己パラドックスの諸形式と関係してい である。
るがゆえに,つねにシステム相関的に処理されな 最後にフッサールの自己批判的理性にたいする ければならない。また,そうした区別は学習的な ルーマンの態度表明を押さえておかなければなら ものとしても把握される。すなわち,システムは ない。理性による啓蒙に替えて,はやくから「社 ばあいによっては自然的制約と人工的制約の境界 会学的啓蒙」18を提唱してきたルーマンからすれ
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をずらすことができるのである。システムが新し ば,フッサールの自己批判的理性を文字どおり受 い「侵されていない水準」(ホフスタッター)を け入れるわけにはいかない。このことについては 構築するのであれば,必然的なものはコンテンジェ すでにみてきたとおりである。批判ということに ントなものになる。観察者は,この区別を用いて 対して,ルーマンは以下のような回答を準備して 他のシステムを観察し,そのシステムにとって必 いる。批判一それが意味しているのは,同様に 然的な脱パラドックスの形式をたずねることによっ 観察可能な観点からの諸観察の観察,描写の描写
て,その観察者自身の観察を脱パラドックス化で であるにすぎない19。理性はヨーロッパ的遺産に
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きる。要するに,そうした観察者は脱パラドック もとついて自己批判的であるのではなく,理性が
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スの機能を知ることができる。つまりはシステム その固有のリアリティ信念を別のものと取り替え
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が不可視化に依拠していることを知ることができ ることができ,したがって理性が理性それ自体を る。そうした観察者は「人は見ることができない 信じ始めることがないばあいにのみ,またその限 ものを見ることができない」ということを知るこ りにおいてのみ,理性は自己批判的な理性であり とができるのである。そのことにより,そうした うる2°。これがルーマンの言う「非批判的な自己
● 層 9 ● ■ o ● ■ ● o ● ● ● o ● ● ●
観察者は,啓蒙が完全な自己透明という方向で可 批判的理性」のパラドックスの中身なのである。
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能なのではなく,新しい「侵されないレベル」に 以上にみてきたように,ルーマンは「理論の再
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代替することによって可能となることを知ること 帰性」を組み込んだ社会を描写しうる理論の彫琢 ができるのである。 を一貫してめざしてきた。その過程で現象学とも とはいえ,観察とオートポイエーシスの区別を 正面から対決し,その成果もルーマン的改鋳をと 前提にしてはじめて,以上のことはよりいっそう おして貧欲にとりこんだと言えよう。ルーマンは 明確になる。それは観察もオートポイエーシス的 ヨアヒム・リッターを引用して書いている。「哲 なオペレーシヲンであることである。第二次観察 学はその時代の社会問題によってインスパイアさ も当該システムの第一次観察でありかつオートポ れうる。だがそのさい,そのことは哲学の議論の イエーシス的オペレーションであるがゆえに,他 あり方やその議論に直接表現されることはな のシステムの観察を免れることはできない。また い」21。ルーマンは哲学的方法でフッサールのテク
どんな観察でもオートポイエーシスであることを ストを解釈したのでも批判したのでもなかった。
免れることはできないという点で,特権的観察も 彼がなそうとしたのは,社会理論の文脈のコミュ 特権的オートポイエーシスもありえないのである。 ニケーションにそのテクストを位置づけることで