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法 と 人 間 (1)

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(1)

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法 と 人 間 (1)

野  阪  滋  男

目 次      い人には右へ,左へ往きたい人には左へ,それぞ 1 はじめに       れ「わが道を行かせること」が個性の尊重にほか 豆 道徳的人間と法的人間       ならないとする。人間は一列一体に行動しなけれ

一キリスト教的婚姻制にみる一     ばならない理由はないのである。わが憲法で認め 1・変りゆく性倫理      られる個人主義はまさしくこのことを表白したも a キリスト教的結婚       のであるといえよう。つまり個人の尊厳とは佃性

3.離婚法変遷史にみる法的人間像       の尊重であり,結局国民一人一人の価値を相対的

皿 政治的人間と法的人間      にとらえようとする寛容の精神によって基礎づけ  一法家韓非の所説にみる一

       られるのである。いわゆる精神的自由を内容とす1.法治主義

2.度量衡としての法       る自由権的基本権は・まさに異なりたる精神を 3.重刑主義と必罰主義       もった個人の存在を前提にしてはじめて理解しう

る。この意味で,この人間像こそ,わが憲法の予 定している人間そのものである。

1 はじめに       「『法と人間』の課題は,結局,人間そのもの

「すべて国民は,個人として尊重される」(日  の理解に帰着することである。そして・人聞はわ 本国憲法第13条)とは,民主主義が個人主義に立  れわれ人間にとって自明のことでありながら・そ 脚していることを明言したものである。一般に  の自明性の脚下に無限の問題を隠している。いわ

「個人の尊厳」ともよばれ・人間社会における価  ば・幾十の扉を開いても・なお新たな扉が立ち奮値の根元が個人にあるとする立場である。個人主  さがっているといったような・謎の充満である。」

義とはどんな内容をもつものであろうか。よく,  昨昭和56年度人文学科で開講された総合科目「人 個人主義とは,他人の犠牲において自己の利益の  性論」において・法学分野からわたくしが・「法 みを主張する利己主義や,個人を超えた「全体」  における人間像」と題して三回授業を担当した。

価値のために個人を犠牲にしてかえりみない全体  そこでは,自然的秩序・法的秩序と人間の関係を 主義と区別される,と説明される。個人主義とは  述べたうえで,主として「法の目的」を通じてな 何か,一言にして表現すれば,制服的思考あるい  がめた「法における人間像」を展開したのであっ は一列一体的思考を排する思考によって基礎づけ  た。本稿は,これを一つの契機として,またこれ られようか。人間を尊重するということはその人  までのわたくしの研究テーマの一部分を占める 間のもっ個性を尊重することにほかならない。す  「法の非倫理(道徳)化」という方面からの問題

(ii)

べての人の心に「制服」を着せる,そしてそれを  把握を契機として,「法と人間」の問題を考究せ 着る人間と着ることを好まぬ人間との間に価値の  んとしたものである。専門外の分野にもわたり,

優劣をつける,こうした状況の下では厳密な意味  能力及び使用しうる文献等非常に限られているの での個性の衝突はありえず,この二者間に価値の  で,どこまでこの問題を解明しうるかはなはだ心 差があるのみである。あるいはまた,右へ往きた  許ないが,これはこれなりに自分自身の研究の里

(2)

20       茨城大学政経学会雑誌  第46号

程標にはなるであろうとの淡い希望を持っている  (「神のあわせたまいしもの,人これをわかつべ のである。       からず」)の三つとされ,西欧キリスト教社会の 国家法は,この宗教規範に基礎をおいて制定され 皿 道徳的人間と法的人間        た。キリスト教徒は・教会法と国家法に二重に規 一キリスト教的婚姻制にみる_       律され・基本的には・一夫一婦制の下に・一方で

は姦通が禁止され,他方では夫婦の性的結合はつ

婚姻法におけるほど,「理念が素材によっ      ねに子供の出産に適した行為のみが正当化される て規定されること」,さらにまた,「理念」       という宗教規範に遵ってきた。そのキリスト教的 が法の「実体」に依存することが,明瞭に      結婚C性)倫理が,この半世紀の間に空中分解寸

現われているところはない。婚姻において  前に追いやられているのであ潔

は,強度の自然主義的・社会学的自己法則      ところで,法は文化的所産であるから,過去の 性を有する自然的。社会的事実が法に対立       社会から伝承・遵守されてきた習俗・道徳に深く し,法はその事実を自主的に形成すること      根ざしている。しかし,法が創造されるとき,法 はできず,むしろそれに協調しなければな      は,なによりも現在の習俗・道徳に根ざしたもの らないのである。……法哲学の任務は,所      でなければならない。法が規制しようとする社会 与とみなされる婚姻の自然的・社会的事実       は現今のそれであり,来るべき社会であるからで に法がどのようにして調和しうるか,また      ある。法が習俗もしくは道徳をとりこむ場合,現 どのようにして調和すべきか,ということ      に在るものとしての習俗・道徳を追認するような

を示すことに限られている。       (、)   形でとりこむか,あるいは在るべきものとしての

一グスタフ・ラートブルフー

@      高き理念の形でとりこむかである。このいずれの 途をとるか,結局は,法が人間をどのようなもの ω変りゆく倫性理       として把握するかにかかっているといえよう。婚 いま世界では・男女(夫婦)間の倫理が激しく  姻(離婚)法の変遷をみていると,そこにはキリ 地殻変動をおこしているようである。      スト教道徳の期待する道徳的人間観が,無残にも

1975年12月・ローマ教皇庁教理聖省は・ついに  その期待を裏切られ,世俗的人間観によってとっ

『性倫理の諸問題に関する宣言』を発布し,これ  てかわられていく姿が認められる。いかに,法に まで忠実に守られていた道徳基準と正しい生活形  よる道徳の強制がむつかしいかを教えてくれるの 態が・キリスト信者の間でも非常に動揺してきて  である。

いることを憂慮し・性道徳に反する重大な誤り  (2)キリスト教的結婚

や・至るところにはびこっている異常な乱行に対   旧約聖書の創世紀には天地創造の由来がのべら 抗する急務に追られ・教会の教えを確認した。た  れている。神は天を造り,地を造り,海を造り,

とえば,婚前交渉は,当然のこととしてキリスト  山を造り,人を一人造り,それは男に造られ,ア 教義に反し,性的結合は,男と女との間に決定的  ダムとよばれた。アダムは,孤独の故か楽しま な生活共同体がつくられた時にのみ正当であると  ず,神は獣や鳥を造ったが,なお梢然としてい する。この教えは,1930年に発布された教皇ピ  る。そこで神は,アダムの眠っている時に,その オ11世回勅『カスティ・コンヌビイ』や,1965年  あばら骨をとって人を造り,女と名づけた。これ 12月第ニバチカン公会議により制定・公布された  がイブであり,二人は,エデンの楽園に永く共棲

『現代世界憲章』のそれを確認している。     したという。

何世紀にもわたり,キリスト教的結婚のもたら    「これこそ,ついにわたしの骨の骨,わたし す善は,子供の出産と教育,夫婦間の忠実,秘蹟   の肉の肉,男から取ったものだから,これを女

(3)

野阪:法と人間(1)      21

と名づけよう」・それで人はその父と静離れ てはいない・樋が常に彼の思想の中にあって・て凄と結び合い・一体となるのである・」 彼磐的鯉の一切がこれと関係して排列されて

この記述から・女が男から出来た・女こそ男の  いる。」というのは極言であるにしても,一切の ために造られたものであり・男が首位にたつもの  私通を罪悪視し,その防止策として結婚を勧めた と解されている。使徒パウロは説いている。「す  かのようにも解しうるのである。初期の教会で べての男のかしらはキリストであり,女のかしら  は,このパウロの見解が強調され誇張され,「独 は男であり・キリストのかしらは神である。……  身生活は神聖と考えられ,人びとは沙漠に退い jは,神のかたちであり栄光であるから,かしら て,色慾の悪魔とたたかっ謝とさえいわれる。

に物をかぶるべきではない。女は・また男の光栄  しかし,アウグスティヌスは,これと異った解釈

である。なぜなら,男が女から出たのではなく,  をしている。結婚が私通と比べて選ばれたのだと       (4)女が男から出たのだからである。」母権制社会か  したら,私通よりは罪は軽いが,やはり罪悪であ

ら父権制社会への歴史的変遷が,濡ダ)神話によっ  る。だから,結婚と節制は二つとも善であるが,て示されているともいわれているが・ともかく・  後者のほうがより善いと考えるべきである。それ

男尊女卑の思想を示すものとされ・これが長いこ  は,後者のほうが,神への全面的服従とその貞潔

と・夫婦間の道徳や法制度に大きな影響を及ぼし  の厳守という点でより善いと考えられるからであ      (9,

ていたものと思われる。      る。現在の教会では,このアウグスティヌスの見

@1930年に発布された教皇ピオ11世回勅『カステ  解のほうを肯認してい器?      (6)イ・コンヌビー」(Casti connubii)は最近の婚姻   かようにして.キリスト教的結婚による聖なる

に関するカトリツク倫理をいかんなく表現してい  結合は,神の意志と人間の意志との協同によるも る。いまこれを手懸りとして,キリスト教におけ  ので,それ故に,結婚制度,その目的,その諸法 る結婚の意義をながめよう。      則,その諸善は,すべて神から由来し,人間が,

ところで,キリスト教において結婚は肯認され  その神の定めた種々の義務と善を引き受けるにす てはいるが・それは少々奇妙な理由によっている  ぎない。たしかに,人間には,結婚する自由が与 ようにも思われる。パウロはいう。       えられており,その限りにおいて,その当事者に

「男子は婦人にふれないがよい。しかし・不  意志の合致が必要であるが,「結婚の本質そのも 品行に陥ることのないために・男子はそれぞれ  のは,絶対に人間の自由の将外にあるのであっ

自分の妻を持ち・婦人もそれぞれ自分の夫を持  て,これを結んだ者は,ただちに,その神的な法 つがよい。……未婚者たちとやもめたちに言う  則と根本の要求とに服さなければならな、1ゴ)とさ が,わたしのように,ひとりでおれば,それが  れる。ラートブルフは,これを評して,超個人主 いちばんよい。しかし自制することができない  義的婚姻観だとし,この立場では,婚姻を夫婦の

なら,結婚するがよい。情の燃えるよりは,結  契約意思を超越した夫婦の身分とみる結果,夫婦      (7)婚する方が,よいからである。」       の法的平等,契約違反や反対の契約による婚姻の

この章句を素直に読むかぎり,キリスト教的童  解消可能性という,婚姻の契約的性格から引出さ        (12)

蜷カ活は,それ自体としては結婚生活より高い価  れる二つの帰結が否定されることになる,として 値が与えられているが,私通の防止のために結婚  いる。

をしてもよいというように読める。「彼(パウロ)  キリスト教的結婚に関するカトリック教義の大 は,結婚になんらかの積極的善があるとか,ある  全は,聖アウグスティヌスの以下の言葉によって いは夫婦間の愛情は美しく望ましいものであると  十二分に表現されているといわれる。

かいうようなことは,一言も言っていないし,ま    「子供,夫婦間の忠実,秘蹟,これらはみな た彼は,家族というものにいささかの関心も抱い   善いものである。なぜなら,これによって結婚

(4)

22       茨:城大学政経学会雑誌  第46号

が善いものとなるからである。」        は,時として,厳しい意味となる。「しかし,わ

「〈夫婦の忠実〉のなかには,夫婦は夫婦の  たしはあなたがたに言う。だれでも,情欲をいだ 縁以外においては,いかなる性的関係をも避け  いて女を見る者は,心の中ですでに姦淫をしたの

(16)

なければならないという義務がふくまれている  である。」

し,〈子供〉のなかには,夫婦は子供を愛をも   ところで,今日では,夫婦間の忠実義務が一夫 って迎え,心をつくしてこれを養い,宗教的に  一婦による結婚を要請するものとされている。た これを育てなければならないという義務がふく  だキリスト教においては,当初から,これ以外の まれており,最後に,<秘蹟》のなかには,  一夫多妻,一妻多夫をも全面的に禁じていたもの 夫婦は共同生活を破ってはならないという義務  かどうか(後者については消極的であるが)すご と,離別した夫または妻は,子供のためであっ  しく疑わしいともいわれている。それは暫く措く ても,他の人と結婚してはならないという禁止  として,アウグスティヌスは,一妻多夫,一夫多

とがふくまれているからである。これが,自然  妻,そして一夫一婦について,つぎのように説い の生殖力に光栄をもたらし,邪淫の放婚にくつ  ている。

(13)

わをもたらす結婚の掟である。」      「ひとりの夫が多くの妻をもつことが許され アウグスティヌスによって示されたキリスト教   ていたようには,ひとりの妻が多くの夫をもつ 的結婚の善は,今日までに公的な形ですでに確認   ことは許されていなかった。妻には子を生む能 されている。       力があるが,夫にはその能力がないということ

第一の善,子供の出産と教育については,教会   がたまたまあったとしても,たとい子孫のため 法1013条の1で,「結婚の第一の目的は,子供の   であれ,許されていなかった。なぜなら,自然 出産と教育である」とされているし,『現代世界   の隠れた法によって,かしらとなるものは単一 憲章』においても,第二の忠実義務に関連させな   性を愛するが,服従するもののほうは,ひとり がら,「婚姻と夫婦愛はその本性上,こどもを産   がひとりに服するだけでなく,もし自然ないし み育てることに向けて定められている。実にごど   社会の道理が認めるならば,多くの者がひとり もは婚姻の最も貴重なたまものであり,両親自身   に服しても何ら美しさをそこなうことがないか

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の善のためにも大いに寄与する」としている。    らである。」

第二の善,夫婦間の忠実義務については,性的    「昔の父祖たちの多数の妻が,ひとりの夫で 忠実義務がその核心をなす。教会法1081条の2に   あるキリストに仕える,あらゆる民族から成

よれば,「結婚の承諾とは,夫婦がこれによって,  る,来たるべきわれわれの教会を表示していた 相互に贈与し合い,その性質上子供の出産に適し   ように,ひとりの妻の夫であるわれわれの指導 た行為を果すため,その肉体に関する永続的で独   者は,ひとりの夫であるキリストに仕える,あ 占的な権利を相互に受諾し合う意志の行為であ   らゆる民族から成る統一を表示している。・一・・

る。」かようにして,一夫一婦による結婚が要求   それ故,当時の一夫多妻の結婚のサクラメント され,配偶者以外の者との性的関係(姦通)は禁   が,地上のあらゆる民族において,やがて神に 止される。また,『現代世界憲章』では,夫婦愛   従う者たちが多数になることを表示していたよ は二人の人間(ペルソナ)が与え合うことであり,   うに,われわれの時代の一夫一婦による結婚の その実現としての結婚による性関係は品位あるも   サクラメントは,一つなる天の国において,や のであるとしている。そして,「この愛は,順境   がて神に従うようになる,われわれすべての統

(玉7)

においていも逆境においても,心においてもから   一を表示している。」

だにおいても忠実であり  姦通をまったく排除   第三の善,秘蹟はつぎの言葉で表わされ,結婚

(15)

する」ところとなる。しかもここにいう姦通(淫) の不解消性と再婚の禁止を内容としている。すな

(5)

野阪:法と人間ω      23

わち,「神が合わせられたものを,人は離しては  ように思われる。たとえば,姦淫を犯した妻を離 ならない」のであり,「だれでも,不品行以外の  婚しうるとしても,離婚せねばならないのか,ま 理由で自分の妻を出す者は,姦淫を行わせるので  た離婚しても夫又は妻は再婚は許されるのか等々 ある。また出された女をめとる者も,姦淫を行う  問題はつきない。アウグスティヌスにしてもかな のであ8雪」またこうもいう。「妻は夫から別れ  りの懐疑的態度でこれに望んでいる。たとえば,

てはいけない。(しかし,万一別れているなら,  「姦淫を犯した夫と別れても,妻は他の男と結婚 結婚しないで、・るか,それとも和解するかしなさ  してはならないのに,姦淫を犯した妻と別れた場 い)。また夫も妻と離婚してはならない。…・・妻  合,どうして,夫のほうは他の女と結婚亥丞こ は夫が生きている問は,その夫につながれてい  とが許されうるのか,わたしにはわからない」と る。夫が死ねば,望む人と結婚してもさしつかえ  いった調子である。アウグスティヌスは,この

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ないが,それは主にある者とに限る。」      『結婚の善』より7年前に著わした『主の山上の 旧約時代においては,「秘蹟」の観念がまだはっ  ことば』(393−394年)において,「男女の権利 きりしていなかったようであるが,結婚が自然の  は同等である」(1巻16章)としてこれらの難題

(23)

制度であるとしても,すべてそれらは神に由来  に挑戦している。

し,聖的なものへと高められ,それ故に結婚は祝   先づ,姦淫という理由がある場合妻を去らせる 福されるものといわれる。ピオ11世回勅によれば,  ことができるというとき,ここにいわゆる「姦淫」

「この語は,夫婦の縁が解くことのできないもの  という言葉の意味が多義的であることに注目す であること,および,キリストがその契約を祝聖  る。人々が普通に用いる意味では淫行を意味する

して,聖寵の効果あるしるしの地位に高めたも  が,聖書が普通に用いている意味では偶像崇拝や うたことを示す」としている。アウグスティヌス  貧欲,その他,ありとあらゆる許されない道徳上(20)

は,結婚の善の一つにこの秘蹟性を掲げることに  の腐敗,さらに,不正な欲望ゆえになされる律法 よって,結婚の契約が聖なる約束であり,その絆  の違反のすべてを意味する。アウグスティヌス は配偶者が死んだ場合を除いては解きがたきもの  は,姦淫の意義をすぐには定義せず,使徒パウロ と明確に説いている。      のことばを調べながら使い分けをしている。それ

「ひとたび結婚がわれわれの神の国において  を要約することはむつかしいが,アウグスティヌ 始まると,そこではふたりの人間の最初の結び  スの一っの見方はつぎのように言えようか。

●   ●  ■  ■  ●  o  ●

つきから,結婚はある種のサクラメントの性格   キリスト者夫婦に対して主の命ずることは,

をもち,彼らのうちの一方が死ぬ以外には,   ①主の許された理由があれば,妻は夫と別れ けっして解消されることができない。  した    ることができる。ただしこの場合再婚をしな がって,現在結婚している者たちは,自分たち    いか,和解をするかである。夫についても同 に子供ができないことがわかっても,子供のこ   様である。

とを理由に離婚し,他の者と結婚することは   ②夫は,姦淫という理由がなければ,妻と離 許されない。もし彼らがそのようなことをすれ    婚してはならない。またたとえ姦淫という理 ば,新しくいっしょになった相手とは姦淫を犯    由があっても,離婚しなくてもよい。この場 すことになり,彼らはあくまでも夫婦としてと    合,両者とも再婚は許されない。妻について

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どまるのである。」       も同様に考える。

ここで問題になるのは,忠実義務違反としての   夫婦のどちらかがキリスト者でない場合・キリ 姦淫と,秘蹟としての離婚・再婚禁止との関係で  スト者でない者が同居するのを承知しているなら

■   ●   ●   ●   ●   ■   ■   ●   ●   ■   ●

ある。この点に関しては,聖書の章句や聖博士,神  ば,使徒パウロが勧めることは,

学者の口から,統一的な答をきくことはできない   ③離れないほうがよい。しかし離婚すること

(6)

24       茨城大学政経学会雑誌  第46号

(24)

もできる(掟違反でないから)。ただし再婚  教会法のそれに依拠しているといわれる。このう は両者ともできない。       ち,もっとも基本的要件として,婚姻には,両当 以上②と③とを調和させるため,アウグスティ  事者の意志(思)の合致が必要どされるのは,前 ヌスは,「主の命令によって姦淫という理由がな  述のように,結婚がサクラメントとされるからに ければ妻を去らせてはならないとすれば,不信仰  ほかならない。また諸種の婚姻障害,たとえば婚 そのものも姦淫である」としている。同じような  姻適齢,近親婚の禁止,重婚の禁止(一夫一婦制)

理由から,偶像崇拝,貧欲,不正な欲望も姦淫の  等の規定も,キリスト教道徳と深い関係にある。

一種だとする。要するにアウグスティヌスによれ  近親婚の禁止をとりあげてみても,婚姻を禁止す ば,離婚が許される理由としての姦淫とは,「他  る「近親」の範囲をどこまでとするかに各国の法 の男や女と淫行によって犯される不正な欲情のゆ  制にちがいはあるにしても,近親間の結婚は,ほ えだけでなく,肉体を悪用する魂を神の法から逸  とんどの民族でタブー視されてきたものであっ 脱させ,破滅とみにくさと堕落におとしいれるす  た・近親婚が・経験的に・奇型児の出産に影響あ べての欲剛としてとらえるのである。     りと考えられたか・道徳的退廃を招くほど道徳上

④姦淫の理由で妻を出そうと思っている者は  不品行・不適当と考えられたか,あるいは他の動 みな,まず自分が姦淫の汚れのないものであ  物とは異なる人間の本性に根ざすと考えられた ると証明されなければならない。女について  か・その根拠はかならずしも明らかではないが・

も同様である。      いずれの時代にあっても・キリスト教は・これら

⑤ 女は離別された場合であろうと,死別した  の習俗を受容しつつ・さらに厳しい態度でこれを

(25)

場合であろうと,いずれの場合にも再婚しな  禁止してきたのである。

いでいるか,夫と和解するかしなければなら   また重婚の禁止(一夫一婦制)が,キリスト教 ない。       道徳と密接に関係することは,前述のキリスト教

⑥ もしも妻が石女であったり,性交に耐えよ  的結婚観から明白なことである。そして・「教会うまずめ

うとしない場合,夫が妻の許しを得て,他人  は・それが宣教をする先々で必ずといってよいほ の妻でもなく夫と別れた女でもない女と性交  ど一夫一婦制が守られていない社会状態に当面し するならば,姦淫の罪に問われる。妻の場合  たが一夫一婦制を一貫して主張してきた。そし においても同様である。      て,少くとも歴史上の経験によれば,一夫一婦制 以上のことから,アウグスティヌスはいう。   が守られていない場合にその人格を無視ないし軽

「婚姻がそれほど強いきずなで結ばれているにも  視され,社会的不平等に苦しめられたのは女性の かかわらず,唯一の例外的理由である姦淫によっ  側であったから,教会は一夫一婦制を推し進める て婚姻が解消されるほどに姦淫が悪いことを最も  ことによって女性の人格の向上と男女(夫婦)の

(26)

深く心にとめなければならないのである」と。   平等化の役割を果たした。」

(3)離婚法変遷史にみる法的人間像        さて,キリスト教社会においては,結婚は善と ヨーロッパ諸国では,久しきにわたり,婚姻に  され,その善なるものが,結婚をなす者の義務 ついてはキリスト教がこれを支配し,教会法に  (掟)をなしている。このうち,なんといっても 従って成立し,教会の手によってその適否が決め  重要な掟は,結婚がサクラメントであることに られてきた。近世になって,いわゆる婚姻の還俗  よって,一度その絆が結ばれると決して解くこと 運動が起こり,婚姻も国家法によって成立すると  ができないということであった。たとえ,結婚を

ころとなった。かようにして,歴史的には,ヨー  して子供がない場合であっても,第一の掟違反と ロッパ諸国の国家婚姻法制は,教会法の伝統を  して,結婚を解消することは許されなかった。た 引きついでおり,婚姻成立要件についてみても,  だこのうち,姦通による夫婦間の忠実義務違反に

(7)

野阪:法と人間(1)       25

ついては,それを原因とする離別を認めるという  家(王)の手に移されるところとなり,いわゆる 例外はあったが,それも離婚そして再婚を許すも  婚姻の還俗とよばれる一一大転機が訪れた。かくし のではなかった。今日世界諸国で広範囲に認めら  て,国家法が婚姻を扱うことに伴って,離婚も れるようになった離婚が,教会法そして国家法に  また国法上認められるようになった。それ以後近 登場してくるようになったのは,16世紀,ルター  代・現代,いくつかの紆余曲折を経ながら,離婚 等の宗教改革後であったとされる。今その簡単な  原因は拡大され,やがて,ついには,今日の国法

(27)

変遷史をながめることにする。         上認められるように,夫婦の道に背く行為が一方 キリスト教国においては,離婚は神意に背くも  になくても,婚姻が破綻して回復見込がないとき のとして,これを絶対禁止という厳しい態度を守  にも離婚を認める破綻主義さえ出現するところと

り続け,長い間それを教会の手で実行してきた。  なり,さらに,当事者の意思によってこれを解消 もっとも当初ゲルマン人やフランク族に対しては  する協議による離婚も登場したのである。まさ 例外的であったし,またいくつかの例外的事情は  に,離婚原因の拡大史は,有責主義から破綻主義 あった。それが,前述の,夫婦の一方が,姦通も  へのそれでもあった。かようにして,ここにいた しくは遺棄により,他の掟違反になった場合に  り,長いことキリスト教社会を支配してきたキリ は,離縁状を与えて離別を認めた。しかし,これ  スト教的結婚観は,国家法上の地位も保ち得ず,

はいわゆる別居制度であって,再婚のできない離  道徳上の地位も徐々に弱まりつつあるといっても 婚(別)とよんでもよい。がしかし,とにもかく  過言ではない。

にも,聖書において,姦通と遺棄を原因とする   こうした現象は,カトリック教徒の王国イタリ 離別が認められていたことが,離婚法の突破口と  アにおいても,たしかに一っの歴史的な流れとい なったといってよい。       うことができる。ユ970年遂に有責的絶対離i婚原因 ルター一派によって,離婚史(新教会)の幕は  を認める離婚法が成立し,いわゆる二元的婚姻制 切っておろされた。「離別後における無責配偶者  度を採用,離婚も二元的に解決,教会法上の離婚 の再婚を禁ずるは非なり」(1537年『シュスルカ  はあくまで認めず,民事法上の婚姻に対しては離 ルデン箇條書』)別居制それは,無責配偶者にとっ  婚を認めたものであった。この法律の廃止・存続 て,過(有)責配偶者と同居する苦痛を免からし  は後の国民投票によるとした試験的なものでは めたが,再婚ができず結局酷であるというにあっ  あったが,当時のマス・コミは,「中世的な教皇 た。しかし,何が離婚原因となるかについては,  権に対する世俗国家の勝利」と騒がれたそうであ 宗教改革家の間にも種々様々あったが,当初彼等  る。それから4年後の1974年4月の国民投票の結 は,いわゆる「聖書主義」に束縛されていた。そ  果,6割の国民が,離婚法の存続を支持すること のため,結局のところ,「『神では救はれなかった  となり,かってのキリスト教的結婚倫理は,教会 のである』。神学から離婚原因を引出すことは絶  法上のそれに止まるところとなった。

望であったのである。新しき離婚法は新しき方向   このようなイタリア離婚法の流れをさらにおし から導来せねばならなかった/自然法の運動は, 進め,「時代の先取」とさえ思われるのが,1974年 聖書そのものを揚棄しようとした運動であった。」  1月から施行されたスウェーデンの婚姻法であ 離婚の原因を姦通および遺棄に限る聖書的厳格主  る。法律上の結婚・離婚がより自由化され,その 義が一方で寛大化しつつある間に,寛大派はさら  手続の緩和,法律婚と事実婚の差別(子供の法的 に一層寛大になり・姦通・遺棄・虐待・殺害企図・ 地位を含む)解消等,当事者以外の社会や国家や 性交拒否・性交不能。終身懲役等々にまで拡大さ  教会による介入を最小限にしている点が特徴であ れていった。      る。事ここに到り,もはや,夫婦間の道徳とのか 18世紀,名実ともに,婚姻は教会の支配から国  かわりにおいてもまた,法は消極的な態度  法

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2G       茨城大学政経学会雑誌  第46号

の非倫理化  を取りはじめているといえよう。  諦であるという。

本章を終えるにあたって,中川善之助博士の言    民の本性は,混乱状態を好み,国の法に親し を引用して一応のまとめとしたい。        まない。されば明君が国を治める場合,恩賞を

昔一つの小道を開いた人々は皆行儀よくその   明らかにすれば,民は手柄を立てようと励む。

上を歩いた。所が人口が増え交通の繁しくなっ   刑罰を厳密にすれば,民は法に親しむようにな

しんど

た此の頃では,人々は車を除け人を避けるため   る。(心度)

に屡々道の外を歩かねばならなくなった。或人   韓非ばかりでなく法家にあっては,道徳をもっ は通行人の無作法を難じ,或人は昔人の端正を  て治政を行なういわゆる人(徳)治主義は排斥さ 賞めた。併し他の或人は何故今の人が道の外を  れる。今の人民と昔の人民とでは,その知恵にお 歩く様になったかを考へた末に別の大きい道を  いて異なり,今の人民は,君主の徳によっては制 開かうとした。私はこの最後の人に味方をした  することはできない。ここでは人民に,己れを利 い。       する心があると考える。

だから言ふ,今は,もしくは是からは,結婚    昔の人民は,鈍感で,口が重く,愚昧であっ が軌道無しになるのではなく,今までの軌道で   た。だから,仁義といった虚名で天下を取るこ は間に合はなくなったのだ,と。今迄の軌道だ   ともできた。今の人民は,弁が立ち,はしこく,

けが軌道ではない。而して何故新らしい軌道に   知恵がある。自分の思う通りしたがり,お上の 変らねばならぬかは全く法律の問題ではない。   いうことを聞かない。お上としては褒美で釣る 功罪共に法律の関せざる所である。少くとも随   必要がある。そうして始めて進んで働かせられ

(28♪

従的・助成的原因以上のものではあり得ない。   る。また刑罰でおどして,始めてお上の仕事を 逃げ廻らなくなる。(忠孝)

      「法を尊んで賢者を尊ぶな」(忠孝)と主張す皿 法的人間と政治的人間      ることにより,賢人なる者は特別な人物であり,   一法家韓非の所説にみる一

@       こういう者のみが行いうるような道を考えるので すべての立法者は・人間というものは・も  なく,通常一般の者を目安にするのでなければな しもそれに対して法律的制限が課せられてい  らないとみる。その通常の民には,打算的なとこ なかったならば・見境いもなく自己の利益を  うがあり,「安泰と利益に就き,危険と貧窮を避 追求するであろうほどに利己的であり・ま  ける」( と五露)ものと思っておけというのである。

た・そのような制限になにかの隙き間でもあ  親子間,夫婦間にあってすら,この打算的関係は れば・すぐさまこれを看知するくらいに狡猜  認められるというのである。

なものとして・その法律をつくるべきであっ   父母が子に対する場合でも,男の子が生まれ て・その法律は・(カントの言をもってすれ   れば,互いにめでたがり,女の子が生まれると,

ば)理陸さえそなえているかぎり・悪魔の一   これを殺す。ひとしく父母の胎内から出たにか 族に対しても通用するものでなくてはならな   かわらず,男子は祝われ,女子は殺される,と い。……@      (2g)    いうのは,あとあとの便宜を考え,長い先の利 一グスタフ゜ラートブルフー    益を勘定するからである。されば父母が子に対

してさえ,勘定ずくの心でこれを迎えるのであ

(30)

(1)法治主義       る。まして親子の恩愛のない場合に於いては,

りくはん

韓非によると,民は,安逸を好み,混乱状態を   なおさらのこと。(六反)

好む。これを治めるには,法によって,功ある者    医者が人の傷をなめ,人の血を吸い出すこと に恩賞を,過ある者を重刑にすることが治政の要   さえしてくれるというのも,患者と骨肉の親し

(9)

野阪:法と人間ω       27

みがあるからでない。利益がついてまわるから   であろう。(二柄)

である。されば車作りが車を作れば,世の人が   明君は,この権能をうまく用いなければならな 富貴の身分になればよいと思い,桶屋が棺桶を  い。功なき者に賞を与え,罪なき者に罰を加える 作れば,人が早く死ねばよいと思う。車作りが  ようなことがあってはいけない。君子が,好悪で 善人で,桶屋が残酷だというのではない。人が  これを判断すれば,恣意にながれるし,姦臣がは 良い身分にならねば車は売れないし,人が死な  びこることにもなる。それを避けるには,法を定 なければ棺桶を買う人もない。桶屋の気持とし  め,何事もその法に照らし合わして賞罰を行なう て,他人が憎いのでない。他人の死に己れの儲  ことこそ,治政の要だとするのである。

けがかかっているからである。(備内)      昔,弥子蝦は衛の君に寵愛された。衛国の法びしか

「備内」とは,内に備えよという意味で,人主   では,勝手に君の車に乗った者は足切りの刑に たる者,家の内にある妻妾やわが子にさえも心許   処せられる。弥子璃の母がたまたま病気になっ してはならない,というのである。まして,君臣   た。人が夜ひそかに弥子にそのことを知らせに 関係においては,「人主の弊害は,人を信ずるに   行った。弥子は君命と詐り・君の車を走らせて ある。人を信ずれば,人に制せられる」(備内)   見舞いに出掛けた。君はそのことを聞いて,偉 こともあるから十分に臣の利益を考えてやらねば   いやつじゃと思って言った。「何と孝行者では ならない。      ないか。母のために足切りの罪さえ忘れると

左右の臣は,正しいまごころでは安全と利益   は/」またある日,弥子は君と果樹園に遊んだ。

が得られないことを知れば,必ずや次のように   桃を食ったところ甘かった。食い尽くさずに・

言う,「私が忠誠を以てお上に仕え,功労を積   食いかけの半分を君に食わせた。君が言う・かみ

んで安泰な身分を求めるのは,盲目のくせに黒   「何とわしを愛してくれることよ。自分の食い と白の区別を知ろうとするようなもの。とても   たさを忘れて,わしに食わせるとは!」後年・

及ぼぬことだ。あるいは人を感化する道でもっ   弥子の容色衰え,寵愛が薄れるに及んで,君に て正義を行ない,富貴の門に走らず,お上に仕   お答めを蒙ることになった。君が言うには・かみ

えて安泰を求めるのは,聾のくせに音の清濁を   「こやつはもともとわしの命令と詐って,わし 聞き分けようとするようなものだ。いよいよ及   の車に乗ったことがある。またわしに食い余し ばぬことだ。両方ともわが身の安泰が得られぬ   の桃を食わせたことがある。」 (説難)ぜいなん

となれば,いっそ仲間同志語らって主上の目を   この話は,いわゆる「余桃の罪」とよばれると

●   ●

眩まし,悪を働いて重臣と腹を合わせたがまし  ころとなったが,韓非も指摘しているように,弥 ではないか。」 この人々は人主の要求する道義  子の行ないが,君主が寵愛している時は褒められ

かんきよう ししん

を顧みないようになろう。(姦劫斌臣)    賞となり,寵愛が薄れた時には罪に問われ罰せら それ故に,君主は,臣に対して,二つのハンド  れるのは,相手の愛憎の変化によるものである。

ルすなわち賞と罰をもってこれに望むものとす  「朕は国家なり」という時代ではあるが,かよう る。      なことで,君が臣の賞罰を決することは乱れをよ

賢明な君主が,それによってその臣を制御す  ぶことになろう。「最も賢明な政治方針とは,法      えるところのものは,二つの柄にほかならない。  にまかせて人にまかせないこと」(制分)だとさ

二っの柄とは刑と徳である。何を刑といい,何  れる。

ものさし

を徳というか,というに,殺鐵を刑といい,褒    尺度が備われば,物の大小長短すべてまぎれ 賞を徳という。人の臣たる者は,刑罰を畏れて   ることがない。賞すべき者は賞し,罰すべき者 褒i賞を利とする。故に君主が自ら刑と徳を用い   は罰する。それぞれのしわざによって報いがあ れば,群臣は刑罰の威を畏れ,褒賞の利に就く   る。つまり善行には必ず賞が,悪行には必ず罰

(10)

28       茨城大学政経学会雑誌  第46号

がっいてまわる。こうなれば誰もがその賞罰を   法に度量衡的性質があるとするから,一旦定立 信ずるであろう。矩尺でもって正方形の一角を  された法は,客観的存在として,貴賎上下の区別かね

正せば,他の三っの角もおのずと正しくなるも  なく,治者・被治者の区別なく,厳正に適用され のだ。(揚権)       るわけである。韓非は,これぞ治政の要諦なりと いうのである。換言すれば人治主義(儒教)では

(2)度量衡としての法      なく,法治主義こそが社会を(法的に)安定させ 韓非において法はしばしば 度量 (ものさし)  る術だというのである。法という「秤」にかけて として当場する。国を強くするためには・公の法  軽重を知り,法という「ぶんまわし」によって円 に従い私利に走らない臣を重用しなければならな  を知ることが〃万全の道〃である。ここには,客 い。しかし多くの国では群臣は・自らの権力伸張  観的存在としての法に対する絶対なる信頼という

を図るのみで治政の道を選ばない・君主にしたと  より,人間への不信(とりわけ功利に走る人間)

ころで・名は君主であっても・実は群臣に寄食し  感が看取される。権勢をめぐって展開される飽く ている。したがって・群臣の上に・一定の法度を  ことなき人間の争闘,これを事前に抑制,事後に 有する者を据えようとする場合には,どうして  規整する法を観念している。

も恣意的にならざるをえない。これをさけよとい   韓非はまたこの法を主軸にして「術」の必要性 う。      を説く。ここにも法と度量と規矩とのアナロジー

賢明なる君は,法に人を選ばせる。自分では  が展開されている。

選ばない。法に手柄を計量させる。自分では量    法術をさしおいて,一人の心で治めようとす らない。……君主が何事も法に照らして考え合   れば,尭といえど,ただ一国をすら正し得ない。

わせればよい。(有度)      規矩(曲尺とコンパス)を捨てて,よい加減に        けい

@この言は近代法の原則とされる法治主義の思想   目分量したのでは,笑仲傷鰍)ですら,一つの       ものさしの呈示ともとれよう。治者にとっても・法は,人   車輪も作り得ぬ。尺寸をやめて,長さを見比

      おうじ選び・人の巧過を量る一定のものさしである。   べたのでは,王爾傷姪人)といえども,材木を 換言すれば・法は・一方で被治者の恣意(私意)   半分にしたり真中をきめたりできない。たとえ

を抑えるとともに・治者のそれをも抑える機能を   凡庸な君主でも法術を守るならば,万に一つの はたすことになる。      失敗もないであろう。(用人)

墨響季も亨んと張れば・曲がった木は切られ   ここにいわゆる「法」もしくは「術」とは何か。

る。水準器を平らに置ければ凸凹は削られる。  韓非の言葉によれば,それは成文法もしくは制定       へてんびん秤の釣り合いをとれば・重いほうは減  法であり,公布され,周知のために官庁に備えつ

らされ,軽いほうは殖やされる。桝でならせば,  けられたもので,内容は明確なものほどよいとさ      た多いのはへつられ・少ないのは足される。    れ,「術」はまさに群臣をコントロール(統御)

すなわち・法でもって国を治めれば,手を下  する術ということができようか。

さずとも法の命ずるままに行なわれ,法の禁ず    人君の大事は,法もしくは術である。法とは るままに止む。法は貴人にもおもねることはな   書物に記録し,役所に備えたうえ,人民に発布 い。墨縄が曲がった木に遠慮しておのれを曲げ   するもの。術とは,これを胸中に隠し持ち,衆 ないように。一旦,法にかかれば,知恵者も言   人の口の端々を照らし合わせて群臣を暗黙裏に い抜けはできない。勇者も抵抗できない。過ち   制御するものである。されば法は明らかなほど

を罰するにあたっては大臣をも避けない。善行   よい。術は現われないのが望ましい。そこで明 を賞するにあたっては賎民をも忘れない。(有   君が法を述べれば,領内の賎しい者でも聞き知 度)       らぬはない。 (難三)

(11)

野阪:法と人間{1)      29

明主が,賞罰に関する法を定立するにあたっ    時世が移っているのに,法の変わらない国は て,臣民の心に頼るのではなく,簡単なめじるし   乱れる。智能の士がふえているのに,禁令の変 を用いて,臣民に見させ,知らせ,行わしめるこ   わらない国は削られる。されば聖人が民を治め とが必要である。これがため,法は,見易い,知   る場合,法は時世とともに移り,禁令は政治と り易い,行ない易いものでなければならない。今   ともに変わる。(心度)

日法哲学上の理論からいえば・法的安定性を確保   このかぎりで,法的安定性は尊重されないこと

するために必要な条件ということができようか。      にはなる。しかし,万代不易の法というものは,

まさに法の実定性の保塁である。これが欠けれ       多分ありえようはずはなく,この韓非の主張には

ば・上では怒りが・下では怨みが積もり・上下と  相対的態度が看取される。

もども危ういとされるのである。

明主の表(標識)は見易い。故に約束が守ら   (3)重刑主義と必罰主義

れる。明主の教えは知り易い・故に言うことが   韓非は,毅の法の重罰主義をとりあげ,孔子と 聴き入れらる。明主の法は行ない易い。故に命  その高弟子貢との問答で,厳刑重罰主義を主張し 令が実行される。三っのものが成り立って・お  ている。

上に私心がなければ,下々は,法に従って治ま り,裁望硯働き,す

      を治める術を心得たものじゃぞ。そもそも灰を 人主が,実際に行ない難い掟を立てて,力及       街に棄てれば,定めて入の思わぬときに灰をかばぬ者どもを罪したならば,私怨が生ずる。人

       ぶったでは,人は必ず怒る。怒れば喧嘩になる。臣が,得意のわざを伸ばせないで,いくら差し

       喧嘩すれば,孫子の代まで連坐して仕置きにな出しても満足してくれぬ君に奉仕したのでは,

      る。灰を棄てるは三代まで崇るもとじゃ。死刑人知れぬ怨みが積もる。苦労している者をいた

      にして苦しゅうない。それに重罰とは,人が厭わらず,憂い悲しむ者を憐れまず,喜べば小入

       がるもの。されど灰を棄てるなという掟は,人を褒めて,賢愚の別なく,ともに賞し,怒れば

      が従いやすいものじゃ。人に,従いやすいこと君子をそしって,伯夷と盗拓と一緒に罪する。

      をさせて,厭なもの(重罰)に罹らぬようにさかくては臣のうちに,君に叛く者も出て来る。

法が度量衡的機能をもって社会生活を規律する   われわれの法理論・法感情からは・軽罪は軽く とき,法は,非個人的,客観的,自主的な性格を  罰することによって均衡がとれるとする。孔子の もつことになる。君主の賢愚に関係なく,ただた  あげる前段の理由(「風吹けば桶屋が儲かる」方 だその法が行なわれていれば,法的に安定した社  式の論理)はともかくも・軽罪こそ重く罰せよと 会が実現される。「そもそも法令を立てるのは,  いう見解は・逆説的で面白い。灰を棄てるのをや 私を廃しようとしてである。法令が行われれば,  めることは人間としてやさしいことである。軽罪

   すた

?ケは廃れる。私とは法を乱すもとである。」(誰  を犯かして重く罰せられるのは人間として好まな 使)それ故に「好んでさかしらで法を曲げ,時に  いであろうから・灰を棄てなくなるだろうという は私情を公事に混え,法律はよく変わり,政令が  の雰ある。韓非は・さらに続いて・法家の一人公 たびたび下るような国は,亡ぶであろう。」(亡徴)  孫鞍(商君)の言に及び・基本的にその所説を発

しかし他方では法は不易のものであってはなら  展させ・さらにこれを強調する。

ぬという。       公孫軟の法というのは,軽い罪を重く罰した。

(12)

30      茨城大学政経学会雑誌  第16号

重い罪は,人の犯しにくいものである。小さい   道は,国を乱すのでなければ,民の陥穽を設け 過ちは人の避けやすいものである。人をして,   ることである。(六反)

避けやすいものを避けさせ,犯しにくいものに   あるいはそうかもしれない。しかし,それでも,

かからぬようにさせる一これが国を治める道  人々は,重い刑罰が犯罪を抑止することはむつか である。そも,小さい過ちが生ぜず,大きな罪  しいというであろう。ただ,この韓非の所説を認 が起こらぬとなれば,人は罪なく,乱は生ぜぬ  めざるをえない事態が時折ある。たとえば,誘拐 こととなる。(内儲説上)      事件が続発する,贈収賄事件が頻発すると,立法 韓非によれば,刑が重いことによって悪事を思  者はかならず法改正をしーて,刑を加重することを い止まる人間に対しては,軽い刑ではそれを思い  考える。立法者の心底に,韓非と同じ人間観が看 止まらせることはできないし,また軽い刑でも思  取しうる。しかし,そういう場合でも,刑罰を重 い止まる人間であれば,刑が重ければ,必ずそ  くさえすれば犯罪がなくなると思っているのでは の悪事を思い止まらせることができる。そうすれ  なく,刑罰が軽いと人民の心のなかに,刑が軽い ば,まさに「刑を以って刑を去る」ことができる  のだから,その程度の悪事をしたところでたいし というのである。       たことはない,という傲慢な反規範的態度がつく

重刑主義を人民に徹底させ,法制の大綱に  られていくことをおそれるのである。その意味で よって人を使えば,お上の利益があがる。刑罰  は,処罰規定を欠いた行為禁止規定を設ける場 を行なう場合,軽い罪を重く罰すれば,軽い罪  合,国家は,その法に対する国民の態度にこそ注 を犯す者もなくなるから,重刑に陥ることもな  意せねばならない。

くなる。これを「刑を以って刑を去る」という。  田中耕太郎博士も指摘されるように,法家の主 罪が重いのに刑が軽ければ,犯罪事件が頻発す  張する重刑主義は,その人の性を悪とみる性悪説 る。これを「刑を以って刑を致す(まねく)」  的人間観に由来する。しかも,一方ではいわゆる

ちよくれい

という。かような国は必ず削られる。(筋令)  一般予防主義に立ってそれを重刑にすることによ はたしてそうであろうか。犯罪と刑罰との関係  り効果あらしめんとする。他方目的主義的刑法観 は,むかしもいまも,韓非のいうほど単純なもの  にしたがってその実を威嚇するにありとするので ではない。ただむやみに厳しく重い刑罰が,重大  ある。韓非は,「法を険しく,その刑を厳しくす な犯罪をすべて抑止しうるなどと本気で考える者  る」ことこそ賢明なりとして,つぎのように説く は今日まずなかろう。韓非自身もそう信じていた  のである。

とも思われない。ただ韓非の真意は,いまもし刑    今ここに,できの悪い子がいるとする。父母 を軽く定めておくと,人民はそれを見くびり,悪   がこれを怒っても改めようとはしない。村人が 事を止めようとはしなくなるというところに求め   責めても動こうともしない。師匠・長上が教え

られよう。      喩しても態度を変えない。……しかるに州長の

つまず    ありつかつまず

昔の聖人の諺に「山に蹟かずして姪に蹟く」   下役が官兵を引きつれ,公法に照らして悪人を とある。山は大きいから,人はこれを慎む,姪   探索する段になれば,始めて傑え上って操行を は小さいから,人はこれを悔る。今,刑罰を軽   改めるであろう。つまり父母の愛は子を教育す

くすれば,民は必ずこれを悔る。法を犯して罰   るには足りず,どうしても州長の厳罰に待たね せぬでは,国全体を見捨てるようなものである。  ばならぬ。というのが,民はもともと愛されれ さりとて,悔られるような法をかかげて置いて   ば驕慢になり,威されれば服従するものだから。

      じん       ろうき       おとしあな

ニした者を罰するのでは,民のために陥穽を   僅か十偲(伽は七尺)の城を楼季儲劉がよう越えない 設けるようなものである。故に軽刑とは,民に   のは,険しくそそり立っているからである。

とっての姪である。つまり刑を軽くするという   ……そこで賢明な王は,その法を険しくし,そ

(13)

野 阪:法と人間ω      31

の刑を厳しくする。一尋(八尺)一常供麹ばかり   科学警察研究所のグループによる,非行・犯罪 の布片が人知れぬところに落ちていれば,普通  の抑止要因の一つとしての刑罰の威嚇的効果に関 の人でも見過ごして通れまい。きらきら光る黄  する諸研究は,この韓非の言をより科学的に説明

  、、つ

熾S総(鵯二)が市場に落ちていれば,盗蹄(莫窪) しようとしたものだといっては失礼にあたるかも でもよう拾わぬ。必ずしも罰せられぬとなれ  しれない。しかし,これらをつきあわせてみると ば,僅かな布片でも見過ごさぬが,罰せられる  大変興味深いものがある。科警研グループの一連 ときまっていれば,百総もよう拾わぬもの。さ  の研究結果は要約するとつぎのようなものだとさ

(21)

れば明君は,その罰を免れようのないものにす  れる。

る。すなわち……罰は,重くて逃げ場がなく,   (1)高校生を対象にして行った調査によると,

民皆が恐れるようなのがいちばんよい。法は,  不正行為(主として軽い盗み)の成功率と,発覚

万人に一様で揺るぎなく,民皆が理解し得るよ  した場合自分自身が愛ける罰の見通しとの関連を       とうなのがいちばんよい。(五轟)       分析したものだが,成功率が高くても重い罰を予

この言や如何。韓非の説くところによれば人間  測するときはかなり行われにくく,逆に成功率が はきわめて不信にみちている。先王が徳をもって  低くても予測する罰が軽い場合は行なわれやすい 民にのぞみ,父母が愛をもって子に対する。これ  傾向を見い出し,罰の重さが不正行為決定に与え によって国は治まるものか。もしそうであるな  る影響はかなり唾要であるという結果を得てい

ら,天下に乱はなく,仲の悪い父子はいないこと  る。

になる。そんなことをいっていたら,「まるで手   (2)実際に犯罪を犯した初犯少年を対象にして 綱・鞭なしで騨馬を駅する」ようなものである。  行った調査では,犯行前に,発覚,警察による逮

まこと現実を知らぬ者といわねばならないという  捕,つかまった後の罰(処置)について考えてい のである。       た者は少なく,特に,逮捕,罰について何も考え

さらに韓非はつぎのように述べて,誰でも見つ  ていなかった者が,各々半数以上占めているとい からず罰せられもしないということがわかってい  う結果を得ていながら,この事実は,逮捕の確率 れば,誰でも犯罪へと走り行くものと指摘してい  や罰の重さは犯罪を行なう者にとって,犯罪の抑 る。      止要因となりえないという短絡的な結びつきを示 いかなる大悪人でも,必ず見付かるとなれ  すものでなく,逆に,もし彼らが犯行前に逮捕や ば,用心するし,必ず罰せられると知れば,止  罰の恐れを考えていたら,かなりの者が犯行にお める。察知されねば,したい放題をするし,罰  ちいらないですんでいたものと考えられるとして せられぬと知れば,やってのける。そもそも小  いる。

銭を隠れた場所にころがして置けば,曽参・史   今日・わが現行法では・たとえばタバコの吸いそうしん

魚嘆突)でも怪しいもの。百金を市場にかかげ  がらを路上にすてても・酒に酔って路上に嘔吐し けて置ば,大泥棒でもよう取らぬ。見付からぬ  たとしても,すぐにこれが犯罪となるわけではな と思えばこそ,曽・史も隠れた場所では怪しく  い。発生した結果をみるかぎり,軽犯罪にあたる なる。きっと見付かると知ればこそ,大泥棒も  とされてもよい由々しき事態ではある。しかし,

市場にかかげた金を取らないのである。(六反)  その事態を招いたのが,長い間わが社会で命脈を これらの韓非の言を読みながら,昔も今も,犯  保ち続けている喫煙・飲酒という風習であること 罪や刑罰そして人間をどうとらえるか,というこ  が厄介なのである。いまもし,韓非の言のよう

とにそれほどの変化はないと思われる。ここでは  に,これらを法の関心事として犯罪となし,しか この問題をすこしく異なった観点からの調査成果  も軽罪だからこそ重刑を科すか,これはわれわれ を紹介しつつ私見をのべておきたい。      の法感情に反する。しかしいつまでも,法が,こ

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