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『マーケティング経済論』をめぐって : 1つの覚え 書

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『マーケティング経済論』をめぐって : 1つの覚え

その他のタイトル On "Marketing Economic Theory"

著者 保田 芳昭

雑誌名 關西大學商學論集

巻 19

号 3‑4

ページ 518‑537

発行年 1974‑10‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021134

(2)

292 (518) 

『マーケティング経済論」をめぐって

-1 つの覚え書—

保 田

1970年代初期の日本経済は, 60年代の「高度経済成長」の破綻の諸徴侯が 顕在化するとともに,インフレーションと物価高騰が急速度に進行し,とり わけ73年秋以降第4次中東戦争を契機とする,いわゆる石油危機を通じて,

すでに進行しつつあった「物不足」や買占め,売り惜しみ,便乗値上げなど主 として独占資本による投機的,腐朽的な市場行動が露骨な形態をとって大規 模に展開されるにいたった。すでに有害・欠陥商品の製造・販売,巨額の広 告費・交際費の支出,計画的廃物化政策,中小商人圧迫等々,総じて独占の マーケティングの反社会的,不生産的,寄生的,価値浪費的行動が労働者階級 はじめ農民,およぴ動労人民に対する収奪,その生活と営業の破壊につなが っていた。最近とくに,数多くのヤミ・カルテルを主要形態とする独占資本 の価格政策は,独占利潤の現実的獲得の基軸的政策として展開されたが,こ うした諸々の事実は,独占のマーケティングの反国民的性格を露骨に示す結 果となった。すなわち,たぴかさなる大幅値上げをはかった独占価格政策を 中心とする独占のマーケティングが一方では,独占休に莫大な独占利潤を保 障するとともに他方では,労働者階級はじめ農民,およぴ勤労人民のかなり の部分の生活と営業を危機に投げ入れ,それが防衛闘争を広範かつ強力に展

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開させる主な要因ともなった。

いまや独占資本による生産と流通における独占的支配は,国家のインフレ 政策と深く結びついて,その反社会的,反消費者的,腐朽的性格がだれの目 にもはっきりと意識され,いわゆる「反企業意識」が世上邁延した。こうし た事態から,いわゆる企業の社会的責任論の論談が盛行し,さらに独禁法の 改正強化が重要な争点となってきている。インフレと不況が深まるなかで,

近代経済学の破産が明らかになりつつある。

測りしれない国民的規模での収奪をともなった資本主義的蓄積法則の現代 的形態とその進行は,商業・マーケティング・流通にかかわる研究分野に何 を問いかけ,どう応えようとするのか。旧態依然たるマーケティング美化 論,独占弁膜論をさらに展開するのか,その一種としての改良主義的な理論

・政策の展開をするのか,基本矛盾の革新的打開の方向性をもってすすむの か,いずれにせよ,改めてこの分野の研究者にも重大な問いかけがなされて いるとみなければならない。問題は,さまざまなプルジョア的立場の「理 論」・見解がきびしい国民生活の現実の前で批判されることは全く当然だと しても,他方マルクス主義経済学の立場からの研究に対してもその姿勢の再 検討をうながすものと受けとめざるをえない。後者のばあい,それはいかな

る点でそうなのか,その方向性と課題は何であるのか。

以下,かかる問題意識をもちつつ, 1つの覚え書をしるしてみたい。その 手がかりとして,まず戦後におけるこの学問諸分野の動向を簡単に素描し,

そうした中で公刊された『マーケティング経済論』(上・下巻)に対する諸論 評の紹介とその批判的摂取ならびに筆者による諸課題の提起という形をとっ てみよう。

2次大戦後,わが国の伝統的な商業論ないし配給論関係の学問分野に2 つの際立った潮流をみてとることができると述べたことがある(「関西大学商 学論集』第16巻第191ページ参照)。いま改めてみれば,この学問分野には,相

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294 (520)  『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

互に関連しながらも相対的に独自な3つの領域と基本的に対立する 2つ の 潮流を捉えることができよう。ただここでは学説史的に論ずる場でもなけれ ば,またその用意がいまあるわけでもないので1つのスケッチにならざるを えないことを断っておこう。

1の領域は,商業論ないし商業経済論である。戦前の商業論はもともと 広範な内容を取扱っていたが, ドイツ流のそれに加えて,やがて資本主義の 全般的危機の第1段階に入って配給概念の登場をみ,独特の配給論の形成と,

展開にすすむにいたるが,そこにはアメリカの当時のマーケティング論もす でに導入されていた。マルクス主義経済学の側からは,戦前すでに『資本論』

に依拠する若千の研究があったが,わけても日本帝国主義の崩壊と戦後の民 主化運動,民主的科学の一連の再興•発展に支えられて,『資本論』に依拠しつ つ独占段階の商業経済現象を科学的に解明することに大きく貢献してきた。

2は,マーケティング論の領域である。すでにみたように,第1の領域 において戦前導入されていたのであるが,それは全般的危機の第2段階,と りわけ「高度経済成長」下での独占の市場問題の激化に対処すべき独占の 要請に応えるもので,いわゆるマーケティング論の本格的な導入と展開で ある。戦前のそれが,どちらかというと外見的には社会経済学的色彩をも ち,その意味では,戦後の第 3の領域の出発点ともなっていた関連(流通合 理化)を有するのに対し,戦後導入されたそれは, 独占の主体的市場政策行 動の論理としての側面をより前面にうちだす管理論的色彩をつよくもつもの であった。その本格的導入期は,アメリカの指導の下でつくられた日本生産 性本部の「マーケティング専門視察団」がアメリカに出発した1956年前後と みてよいであろう。日本独占資本(=財界)の「マーケティング開眼」が本格 的に始まり,マーケティング研究が学界を風靡しはじめた。それは,その技 法と思想の直訳的導入から,近年一部にみられる資本家的実践に役立つ有効 な理論化,モデル化,休系化の志向にいたっている。そこには,戦後日本独 占資本主義の急速な復活・強化過程にみられる対米従属性がこの研究分野に 色濃く反映している。学界の主流があげてこの傾向にのみこまれていったの

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『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

は,けだし当然としても,そこには硯実の諸矛盾を反映して批判的潮流が形 成・展開されるにいたった。この点は後述する。

3のそれは,流通論ないし流通政策論にある。戦前すでに流通合理化論 があったが,戦後,重要な学問領域として登場するにいたったのは,第2 マーケティング論の本格的導入・展開よりやや遅れて,いわゆる「高度経済 成長」が「軌道」にのり,個別独占資本のマーケティング実践が社会経済的 矛盾を露呈しはじめる時期,ほぼ60年代初期からのいわゆる「流通革命論」

の登場を支える諸要因ー一その1つはスーパーマーケットの展開ー一の成熟 する時期であろう。この領域の主流は,戦後の流通問題を国家独占資本主義 的に打開・再編していこうとする方向性を明確にし,直接的に国家行政を通 じての流通の近代化,システム化へと進んでいる。この領域での批判的潮流 は若干でているが,まだ不十分な領域である。

以上みた3つの領域は,各々相対的に独自の対象をもつとはいえ,ばらば らに存在するのではなく相互に連関し,また補完の関係に立っている。あえ ていえば,商業論とマーケティング論との総合として流通論をとらえること ができるであろう。とはいえ.いずれも資本の流通過程を中心とする点で同 一性をもつとみてよい。

かかる3つの領域において,すでに若干ふれたように基本的に対立する2 つの潮流ないし学問的立場がある。それはプルジョア的立場とマルクス主義 的立場であり,その中間に小プルジョア的,動揺的,折衷的立場があるの は,他の経済諸科学の領域と同様.これまた客観的存在の反映である。

いま主題との関連で問題となるのは,第2のマーケティング論の領域であ る。プルジョア的研究が支配的潮流をなすなかで,すでに早い時期からマル クス主義経済諸科学.わけても経営経済学,商業経済学の科学的研究の土壊 の上に,独占のマーケティングとそのマーケティング論への批判的研究が育 っていた。それは,マルクス主義経済学の立場から.硯実のマーケティングの 本質の暴露,その発生史的研究,その反社会的,プルジョア的性格の批判,

プルジョア・マーケティング論の独占弁護論的,観念論的性格等々の批判と

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296  (522)  『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

いう,いわば批判的マーケティング論の生成•発展であった。かかる批判的 潮流は,その内部からも経済学一般理論からの超越的批判にとどまるとの指 摘もあった。だがそうした批判的研究のある程度の発展にうらずけられて,

学界のなかではきわめて少数の研究者が結集して公刊されたのが, 森 下 二 次也監修『マーケティング経済論』(上巻 725月刊,下巻, 735月刊,ミ ネルヴァ書房ーー以下で本書というのはこれを指す。)にほかならない。

本書には,全国から19名の研究者が執筆に参加された。すでに言及したよ うに,プルジョア的潮流の圧倒的比重のなかで,換言すれば,マルクス主義 経済諸科学のなかでも相対的に立ち遅れの目立つこの領域において,ともか くゆるやかな統一をもって結集されたのである。したがってこのばあい,必 ずしも方法論的一致を前提としたのではなかったし,ある程度幅広い結集で あった。それは,多くのばあいがそうであったように,ある意味では,当該 学問領域における科学的研究の発展水準•発展段階に規定されたものであっ た。これを別の視点から捉えていえば,執筆者がすべてマルクス主義哲学に 立脚していたのではなかったということである。

本書はつまり,「科学的マーケティング論の完成に近づく」(本書序文)方 向性をもちつつも,それがために「内外のマーケティング研究の支配的動向 に批判的見解をもつ研究者とりわけマルクス経済学の立場から研究を行なう 者を中心にして,科学的経済学の線に沿ってマーケティング経済綸を共同の カで確立していくこと」(本書,あとがき)を意図したのであった。

さて,『マーケティング経済論』(上・下巻)について, これまでいくつかの 紹介・書評・論評(以下まとめて論評という)がなされている。筆者の知るかぎ

り主なものは次の通りである。

これらの他に,「マーケティング・ニューズ』 (No.179. 19738月)におい て,望月光男氏による「下巻」についての書評がある。業界人である氏は,マー ケティング経済論というものがあるのかと思って読んでみた,というわけで,本 書は,マーケティングについて否定的ヽ批判的立場の研究者によるものであり,

難解で再々読が必要という。ここでは一応対象外とした。

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『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

(1)  松井清「『マーケティング経済論』(上巻)をよんで」(「ミネルヴァ通信』

第52号19726月)一ー以下, Mと略す。

(2)  竹林庄太郎「『マーケティング経済論』(下)を読んで」(「ミネルヴァ通 信』第6419736月)ー一以下, Tlと略す。同「森下二次也監修『マー ケティング経済論』(上)」(「同志社商学』第24巻第 2 号)—以下, T2 と略 す。同「森下二次也監修『マーケティング経済論』(下)」(「同志社商学』

25巻第1号)一ー以下, T3と略す。

(3)  風呂勉「森下二次也監修『マーケティング経済論』(上・下)」(「経済 評論』 197310月臨時増刊号)一ー以下, Fと略す。

(4)  荒川祐吉「日本における『商品流通研究』展開の潮流ー一日本商品流通 研究史序説ー」(荒川祐吉絹『流通研究の新展開』 19741月,千倉書房)――

以下, Alと略す。同「森下教授のマーケティング論方法論について一一 覚書的考察ーー」(森下二次也先生還暦記念『現代流通論の論理と展開』 1974

9 月,有斐閣)—以下, A2 と略す。

(5)  角谷登志雄「マーケティングの科学的研究ー一森下二次也監修『マーケ ティング経済論』(上・下巻)によせて一」(「愛知大学法経論集』第74 1974 5月)一ー以下, Sと略す。

以上の諸論評は,紙幅の長短,抽象度,問題視角,学問的立場などさまざ まであり,多くの教えられる点をもっている。ところで以下の覚え書をす すめるにあたって,とくにはっきり断っておくべきことがある。それは,本 書のごとき多人数の共同著作についてなされた諸論評に言及することに関し てである。各執筆者が当該箇所への論評に言及するばあいではなく,全体的 に諸論評を取り上げるばあいに,ある個人のなしうる限界と適性が問題とな ろう。もしもいまのばあいよくなしうるとすれば,筆者のごときものではな く,他に適任の方がおらわれることは明らかである。それにもかかわらず,

あえてかかる形で言及するのも筆者自身が科学的マーケティング論確立のあ り方について関心をもち,この際1つの覚え書を記しておきたいと思ったか らに外ならず,他意はないということ,およびいま述べた自覚をもちながら

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298 (524)  『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

ここでは本書の編集委員の1人として参加した筆者があくまで個人的立場か ら諸論評に言及するにすぎないのであって,したがってまたそこに生ずる限 界をご了承いただきたいと考えている。

ではまず,諸論評の概要をみてみよう。

(1)  松井清氏は,既存のマネジリアル・マーケティング論は国家独占資本 主義の下における企業活動の主体的論理であって,それは厳密ないみで理論 でも科学でもないとの立場に立っておられた。だから氏は,既存のマーケテ ィング論は「資本主義の客観的法則性を採ろうとする科学的経済学とは,明 らかに異質なもの」と考えられ,「本書の筆者たちは,このわたくしの考え方 とは,ややちがった考え方のようである」としつつも,本書(上巻)はこの考 え方を「さらに一歩前進」させて「客観的法則性を究明するマーケティン グ経済論を体系化しようとしている。」「わたくしは本書によるこれらの人ぴ とに敬意を表し, その努力が成功することを願うものである」(以上M.9 ージ)と結んでおられる。氏は本書下巻をみられる機会もなく,この書評の 数ヶ月後に惜しくも突然他界されたのである。松井先生に教えを受け,かつ この書評を依頼した者として,この場をかりて,先生のご冥福を祈ることを 許していただきたい。

(2)  竹林庄太郎氏は,のちにみる角谷氏とともに,内容に入って詳細な検 討と有益な示唆を与えられた。その特徴は,高い哲学的識見から方法論的論 評を試みられた点にあるといえよう。

竹林氏によれば,「マーケティング経済論に経済学の特殊な部門に位置する 一分科科学としての市民権を与えようとするのが,本書上下巻を通じての究 極の目標である。したがって本書がその立場を貫徹したかどうかは,一連の 責任をもつ執筆者諸氏の科学認識の方法論が,おのおの科学認識の方法論と しての市民権を獲得しているものであるかどうかを検証することにかかる」

(T3.73ページ)とされ,その検証の結果「俗流とは異なる次元にマーケティ ングをおくことに

t i

丘成功を収めた」 (T3.83ページ)といわれる。この点氏に

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『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

よれば,「哲学は自然科学と疎遠であってはならない」という氏の「要望に 完全な回答を得られなかった点,つまり筆者諸氏の自然観についての統一見 解が得られなかった点のみが,ほぼ成功を収めたという表現となったわけ である。しかし上述の若干の点を除けば,科学的なマーケティング経済論と しての地歩をかため得たというべきであろう」 (T3, 83 84ページ)。これが 別の表現では,「ニュートンカ学に例をとれば,少なくともケプラ一段階の域 に到達しつつあるものと考えられ,………マーケティング経済論の確立の近

きを感じさせられた労作」 (Tl.5ページ)と評されたのである。

(3)  風呂勉氏は,紙数の制約から内容に十分立ち入られてないが,本書の 基本的立場から一定の距離をもっている点で,客観主義的論評ということが できよう。

風呂氏によれば,本書は「全体の結構が編者のいう上向法によって配列さ れているという構成だけでなく,内実的にマルクス経済学の立場から『休系 的』なマーケティング経済論を呈示しようとする意図において極めて挑戦的 である。」だが「その挑戦性は『いわゆるマーケティング理論』への批判もさ ることながら,むしろそれはマルクス経済学の立場におけるマーケティング 研究のある停滞に対する自己挑戦への切実に要求に発している」 (F.186 ージ)と考えられた。結局そのいわれる挑戦的努力の結果についてはふれ ず,若千の問題点を指摘したのち,「この立場からするマーケティング研究が その出発点たるマーケティングの『成立』に費やした手間どりからいえば,

その『発展』と『死減』の法則的理解にはさらなる手間を要するのが自然で あるかもしれない」 CF.187ページ)と結んでおられる。

(4)  荒川祐吉氏のばあいは,真正面から本書を取り上げておられるわけで はないが,日本商品流通研究史序説なる副題をもつ論文(A1)およぴ森下教 授のマーケティング論方法論に対する論評(A2)のなかで,本書にかなり言 及されているのである。

荒川氏は,先の綸文のなかで,本書の執筆者19名のうち「森下教授自身お よぴ2 3の研究者を除けぱ」 (Al.67ページ, 68ページ)と慎重に区別した上

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で,氏のいう「森下モデル」(氏によれば,それはマルクス主義的立場からす る現代マーケティング理論の最高の成果であり,その後の諸研究者の研究の 出発点ともなりうるもの)のうち,戦前のマーケティングの基本性格規定を本 書の執筆者たちが「今さらのように」「再検討」らしきものを行なっているとし て,学界の「常識」への疑問をその限りで否定したうえでいわれる。「ここに みられるような『偏執柾的』・『自慰的』・『物神崇拝的』な志向は

J

‑―ーと本 書の大部分についての氏の認識レペルをかくのごとく表現されていわ<―

俗流マーケティング論の「『孫悟空的』・『変身怪獣的』志向と同様に,いずれ も,真に科学的探究とは無緑であり,少なくともわれわれの主題領域すなわ ち『わが国における商品流通研究の展開』に関する限り,現在までに,その 真の展開,理論水準の向上を著しく阻害してきた最有力要因である」 ( A1.  67 68ページ)と断定される。氏が本書をして基本的には 俗流 'と同次元にお

き科学的探究とは無縁であるばかりか最有力の阻害要因と規定されるのは,

全く氏の自由なる観念に属する問題である。それが客観的にいかなる立場と 役割を演ずるかはいま問わないとしても,すくなくとも具体性に欠如するこ の種の断言が独断と映るのはあながち筆者に限らないであろう。そのいみで 文字通り論評の限りに非ず,というほかないが,ついでに氏の本書に対する 基本的立場をより鮮明にするために,若干追跡しておこう。

荒川氏は,「マーケティング論の方法論をとりあげる場合『マーケティン グ経済論』のもつ『貢献』を徹底的に批判しつくすことは不可避の課題」

(Al.67ページ)と考えておられる。 さらに商品流通研究の科学化のためには

「上のような志向を超克することが不可欠である」 (Al.68ページ)と力説さ れる。批判は大いに歓迎されるところである。だが,いたずらに中侮的でか つ誇張したレッテルを貼り付けることが「自慰的」でなくて何んであろう

荒川氏は,あとの論文のなかで,「科学的経済学」の立場をとる研究者によ る「マーケティング論(マーケティングとマーケティング論とは進う)に対する実 体的貢献,すなわち,その方法論を明確にし,それに基づく豊富な内容を提

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『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

供すると

V

ヽうことは,現在までのところ,ほとんど達成されていない」と し,その理由のなかで,「『科学的経済学』の方法論的限界」 (A2.23ページ)

をあげるに至っている。氏の立場一・一失礼ながらこれまで如何なる立場か必 ずしも詳らかでなかった点もあったが,しかし上述してきた最近の論文はこ れまでになくある明確な傾向を打ちだされたとみられる一ーからすれば,ぃ われるところの「実体的貢献」がない事態はマーケティング論だけではない。

「商業論(商業経済論ではない)でも経営学でも同様の事態がみられる」(A2.  23ページ)と断定される。攻撃の対象は経営学にまで拡大されるにいたっ

た。こうした批難攻撃のエスカレートは,先の論文よりもすすみ「要する に,『科学的経済学』の立場からは,………森下教授の努力を除けば,あるの は,マーケティング論の従来の成果に対する,時には見当遮いの,批判のみで ある」 (A2.23ページ)とされた。先にみた「2 3の研究者」は一一今やど うでもいいのだが一どこへいってしまったのだろうか。そうしたことはと もかく,氏は,一方で「最高の成果」 (Al.67ページ)と崇められる森下氏の 研究と,他方での科学的経済学の方法論的限界との関係を基本的にどのよう に捉えておられるのか理解に苦しむ。また「実体的貢献」についていえば,

哲学的カテゴリーたる実体概念の問題を問わないとして,階級社会の下での 社会科学の階級性にかかわる問題であって,その理論的貢献の対象なり内容 なりが問題たることは言をまたない。ここに森下氏の言葉を借りていえば,

「もちろん何らかの実践に役立たないような科学はありえない。問題はそれ が誰の,どのような実践に役立つかということである」(本書上巻第1 12 ージ)。方法論確立の必要性は言をまたないが,科学的経済学の立場からは,

ブルジョア・マーケティング論のように現代のマーケティング主体のために

―この種の立場がどこまで「実体的貢献」をしているかは,ここでは問わ ないとしても一「豊富な内容を提供するということは」ありえないし,そ の限りでいえば「達成」を期待するのは無理といえよう。

荒川氏の再度にわたる論難攻撃的論評についとらわれて紙幅をとりすぎた きらいがある。しかし,わたくしたちがこれまでの研究をさらに謙虚に反省

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し,他のマルクス主義経済諸科学のレベルにまでひきあげ, 科学的マーケ ティング論の展開に多くの努力を要することはいうまでもないであろう。も ちろんそれはブルジョア・マーケティング論への批判をさらに強めることと 不可分である。竹林氏の勇ましい表現に従えば,それは「戦後,まさに雨後 の筍のごとく,あだ花を咲かせた俗流マーマティングに対して決定的な批判 を」,「俗流マーケティング論に再起不能の致命傷を加え」 (T2.102ページ)る ということを意味しよう。

(5)  最後に角谷登志雄氏の論評に移ろう。角谷氏は荒川氏と遮って,日本 資本主義の硯段階と経済諸科学の動向を端的に特徴づけ全体的に把みなが ら,本書の意義・役割およびその問題点を具体的に鋭く指摘したすぐれた研 究者的論評となっている。それは,マルクス主義経済学とくにマルクス主義 経営経済学の立場を基本とする内在的検討という特質をもっている。

角谷氏によれば,科学的経済学の立場からのマーケティング論の研究の形 成ど展開は,「わが国におけるマルクス主義経営経済学そのものの形成に類比 することができる。あるいは,その流通・販売面にかんする個別的研究の展 開過程を示すもの」である。「もちろん,そのような新しい研究の志向の成果 は,まだ萌芽的なもの」であるが,「しかし,マルクス主義経済学の歴史的役 割と社会的実践の要請からして,今後の発展・開花は必然的なもの,と考え られる。」本書は「以上のような研究の発展の成果の一表硯である」(以上

s .

74ページ)と位置づけられた。

角谷氏によれば,本書は「既存のブルジョア『マーケティング論』の批判 的摂取のうえに,かなり大胆に『科学的マーケティング論』の体系化を意図 している」が,「卒直にいって,現段階において,その意図が十分に達成され たとはいいがたいけれども,その指向性の正しさ,各所に散見される鋭い問 題意識などは,高く評価しうる。」 (S.79 80ページ)「しかし, 同時に,その 方法,論述の内容などにおいて,今後なお検討されるべきいくたの問題点を 含んでいる」 (S.80ページ)として,主として全体に共通な基本事項について の批判的論評がなされた。最後に,それにもかかわらず,「このことは,本書

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『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

の前進的意義をいささかもそこなうものではない。各執筆者が,今後,本書 で展開された基本的視角を堅持し,さらにその科学的方法の純化をはかり,

労働者階級・勤労人民の社会的実践をたすけることのできる真の『科学的マ ーケティング論』の確立•発展に寄与されることを強く期待するものであ (S.90ページ)と結んでおられる。

以上,かなり長くなったが,『マーケティング経済論』(上・下巻)について の諸論評の概要を紹介してきた。みられるごとく,現代資本主義世界におい てこの分野では例をみないような本書に対する諸論評が,発展期待型から論 難攻撃型にいたるまでさまざまであるのは一見奇妙にみえるであろう。だ が,基本的には,現代資本主義の階級矛盾を反映した,あの学界の潮流と現 実に深く結びついた諸立場を反映したもの,といえよう。

『マーケティング経済論』(上・下巻)についての概括的な論評をみてきた ので,次に本書の基本的視角をより前進•発展させる見地から,諸論評わけ ても詳細に論じられた竹林・角谷両氏の指摘された問題点を中心に若千の検 討をしてみたい。ただし既に述べたように各章の個々の論点にまで立ち入る ことは不可能であり,比較的共通の課題の若千について考察してみるにすぎ ない。加えて今後考慮すべき課題を筆者なりに若干の点にかぎって提起して みたいと考える。

まず,第1の問題点は,本書執筆者の間での自然観の不統一(竹林氏)ない し科学的方法論に大きな振幅がある(角谷氏)という点である。これは科学認 識の方法論の問題であり,同時に展開の方法につながる問題である。角谷氏 がマーケティング研究における科学的方法論の不統一を問題とされたのに対 し,竹林氏はより根源的な自然観を問題とされた。そこには論理次元の遮い はあるが,基底的には同じ性質をもつ問題と考えてよいであろう。

両氏の指摘は正しく,その不統一は甲らかである。すでに述べたように,

必ずしも方法論的一致を厳密に前提して出発したのではなく,また「執筆者

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304 (530)  『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

各人の見解をできるだけ尊重するという編集方針」(本書,あとがき)に基づい ていたので当然ありうべきことであった。しかしながら,科学的経済学の方 法論をとる研究者層が,他の経済科学の分野に比し相対的・絶対的に少な ぃ,この後進的な学問領域においては,ブルジョア・マーケティング論の支 配的動向に批判的な研究者が最大公約数的に結集することには,一定の社会 的,客観的意義をもつとの認識があったし,それを否定することは正しくな いと考えていたのである。

問題はしかし,今後どう統一し,方法論を深化・確立するかにある。一方 では,史的唯物論ー一弁証法的唯物論—自然弁証法にさかのぼり,つねに 自然科学の新しい発展に注目すべきであり,「哲学は自然科学と疎遠であって はならない」 (T3.83ページ)との竹林氏の要求があり, 他方では, ブルジョ ア・マーケティング論と大差のないものの克服の不可欠性と宇野理論的傾向 などとの「内部批判」の問題の重要性を指摘する角谷氏の要求(S.80 81 ージ)がある。

前者について言及すれば,たしかに重要な問題に逮いない。自然科学の新 しい発展は, 19世紀までの古典的原子観とニュートンカ学を基盤とした力学 的自然観が20世紀に入って量子力学の発展過程を通して新しい自然観へと変 った。それは,故坂田昌ー氏によれば,弁証法的自然観とよんでよい現代的 自然観である。それによれば,「すなわち自然界には質的に異なった多くの階 層が存在し,それぞれの階層ではそれに固有の法則が支配している。これら の階層は小は素粒子から大は星雲にいたるまで,すべてたえざる生成と消減 の中にあり,互いに関連し,依存し合って一つの連結された自然をつくって いる。」(坂田昌一『新しい自然観』国民文庫, 29ページ)また坂田氏は「学問の背 後に横たわっている自然観」(前掲書, 25ページ)の重要性を強調するととも に,現代の科学は自然から社会まで統一的に広く把握する新しい自然観,世 界観を背景にして発展しているのであって,「そういう統一的な自然観,ある いは自然と社会との統一した関連を意識することなく学問を進めることは,

学問そのものを創造する道でもなければ,また学問を人類の福祉のために正

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『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

しく発展させる道でもなくなってきている」(前掲書, 157ページ)といわれて いる。かかる自然科学の新しい発展は当然現代の哲学に規定的影響を与えず にはおかず一~社会科学の新しい発展もそうなのだが一ー,事実,弁証法的 唯物論の形態を発展させるし,それは従ってまた現代の史的唯物論の形態・

内容を一層豊富化するのに役立つ関係に立っている。

だが,「経済学の特殊理論」(本書.序文)としてのマーケティング論を科学 的に確立していく過程においては,自然科学の発展を摂取した現代哲学の発 展に依拠しつつ,マルクス主義経済諸科学の理論的発展をたえず追跡し摂取 していくなかで,マーケティング経済硯象の科学的解明,その発展法則を全 体との連関のなかで明らかにしていくことになるであろう。かかる立場に立 つかぎりは,そのように研究面での幅と深さを要求されるのであって,ブル ジョア・マーケティング文献をどれほど読んで摂取してみても,それがプル ジョア・マーケティング論についての 知識 を豊かにするとはいえ,そこか らだけでは科学的理論の構築は何ら達成しえないのである。かかる分野の科 学的研究の苦難は経営経済学の場合と同様であろう。

ところで後者についての角谷氏の指摘は,今後の課題としてはその通りで ある。ただその場合でさえ,理論分野での主要矛盾が何であり,副次的矛盾 が何かは,当該学問分野のおかれている位置,状況などとの関連で歴史的・

社会的に規定されねばならず,そのいみで教条的でも日和見的であってもな らない。これと関連して,指摘されたように,科学的経営経済学の発展した理 論の摂取は,今後より強めねばならないし,また「内部的 なれ合い 」 (S.82 ページ)の克服もその諸条件が次第に成熟しつつあるように思っている。

2は,第1と関連するが,マーケティング研究の科学的方法論の問題で ある。竹林,角谷,風呂,荒川の諸氏も言及されている。主要な問題は.マ ルクス主義経済学の下向と上向の方法論を,現代のマーケティング研究にい かに適用し確立するかである。 この問題は本書上巻第1章の対象と方法(森 下氏)と直接に関係している。 すぐれて資本主義の独占段階固有のマーケテ ィング経済諸関係の科学的研究,その発展法則の解明を任務とする現代マー

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306 (532)  『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

ケティング経済論が出発すべき点は,硯代国家独占資本主義の下でのマーケ ティング経済現象であることはいうまでもないであろう。だが叙述の過程で は,『資本論』でなされた19世紀資本主義経済の現実から出発して到達したと ころの,抽象的本質的諸規定から20世紀の独占段階へ独占規定を与えながら 次第に上向する方法,私流にいえばV型の方法論でいくのか,『資本論』の研 究を前提として『帝国主義論』が示したように,生産の集積から上向する論 理展開をとっていくか,いずれにせよ,どこまで下向した上で上向するのか 重要な明確にすべき問題であることはいうまでもない。

この点に関して参考すべきものの1つにレーニンの「党綱領の改正によせ て」なる191710月の論文がある(レーニン全集,第26巻)。そこでは, 1903 の党網領を改正するにあたって,新しい独占資本主義,帝国主義の諸規定を どうもりこむか,あるいは全く新しく書きかえてしまうのか,上向の過程で 新しい事実をバラバラに附加するかなどの方法論をめぐって,ブハーリン,

ソコルニコフの見解へのレーニンの批判的検討がなされている。(この点,吉 信粛「マルクスの『経済学批判体系』とレーニンの『帝国主義論」」「経済論叢』第74 巻第5号参照)

3に,国家独占資本主義に関する問題である。竹林氏は,本書上巻第8 章「国家独占資本主義とマーケティング」(近藤氏)こそ本書の核心でなけれ

ばならない,といわれる。なぜなら,「『国家とマーケティング』なる課題 が,硯段階におけるマーケティングの最も主要なる課題であるとの認識をも っているかどうかが,マーケティングが経済学のなかで市民権を与えられる 資格如何がとわれている。つまり,休制問題を止揚した理論は,もはや私達 の研究対象になり得ない」 (T2.99ページ)からだと強調される。 たしかにそ の基本的視角において筆者も同感である。だがしかし,本書上巻第4章,っ まり,方法論の展開と批判を行なった第1,2章につづいて,産業資本主 義レペルの研究,つまりマーケティングの端初の問題を扱った第3章に続く 4章「独占の形成と独占の市場行動」の所へ,前記第8章 を も っ て き て

「入替えが適当」との提言には納得がいかない。これまた方法論にかかわる

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問題である。たしかに,第8章の含意するところを「基軸としてマーケティ ング論の展開」をはかるぺきとの氏の見解(T2.99ページ)には同意しうるが,

問題はその展開の方法にあるように思える。

つぎに竹林氏のいわれる「哲学の心臓」(T2.102ページ, T3.75ページ)との 対決の問題である。それがいみするところは,貧困化の問題とされている。

本書が貧困化論を素遥りしたわけではないのだが,角谷氏が別の問題すなわ ちマーケティングの「不生産性」「寄生性・腐朽性・反社会性」を資本主義の 基本矛盾の展開・激化を基礎として「明示的かつ体系的に説明される必要が ある」 (S.82 83ページ)と批判されたことと同様に,全休として不十分さを 感じさせることに同意せざるをえない。付言しておけば,かつて筆者はアメ リカ資本主義と貧困化に言及しつつ,「貧困化とマーケティングの関係」につ いて, その二重性について重大な問題として提起したことがある(拙稿「戦 後アメリカにおける年令集団別細分市場とマーケティング戦略」「関西大学商学論集』

第10巻第 3•4•5 合併号, 129ページ)。科学的研究の遅れたこの学界では看過さ れたこともあって気懸りながら未展開の課題となっている。たしかに最重要 の課題の1つである。

4に,マーケティング経済論の位置づけの問題である。これはきわめて 厄介な問題といわねばならない。

森下氏は,明示的に,「マ・ーグティング経済論はいうまでもなく経済学の一 特殊部門である」(本書上巻第1章13ページ),また「マーケティング論は経済 学の一分野でなければならないが,それは一般理論のたんなる一部ではな く,あくまでも経済学の特殊理論として,相対的にせよ独自の理論休系をも つべきである」(本書,序文, 2ページ)と主張されている。

角谷氏によれば,このばあい,森下氏は社会経済学とも経営学とも区別さ れているが,経営経済学との区別,←関連が明らかでないとし,本書の執筆者 の中にはマーケティング論を経営学(経営経済学)の一分野と把握する見解も あるが, いったいどちらが真意なのか,と問われている (S.86ページ)。角 谷氏の理解では,「本書の全体的な傾向は,『商業(流通)経済学』と『経営経済

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308 (534)  『マーケティング経済論』をめぐって(保田)

学』との中間的なあいまいなもの(むしろ,前者寄りである……)となって しまっている」 (S.87ページ)。それでは角谷氏はこの問題をどう考えておら れるのか。氏によれば,「マーケティング論を独占資本の経営活動の一環とし ての販売活動(マーケティング諸関係)を研究対象とする(したがって,その限り において,市場・流通について考察する)経済学と規定するかぎり,それは, 営経済学の一特殊領域を形成するもの」 (S.86ページ)と考えておられる。

マーケティング論が独占資本の販売活動を対象とするかぎりでは,経営経済 学の一分科をなすであろう。だが,かかる「販売活動」が「マーケティング諸 関係」と同じであろうか。同じであれば問題は比較的簡単である。前者が後 者の最も重要な内容をなすことは明らかであるが,両者の差異性は今日この 分野では周知のことである。だから管理論的立場からは,販売管理からマー ケティング管理への発展として把握するが,経済と経済管理が異なるように マーケティングとマーケティング管理は異なる。われわれが直接問題として いるのはマーケティング管理ではない。マーケティングにかかわる経済的諸 関係を問題とするのがマーケティング経済論である。そのマーケティングが 独占資本の管理・統制の下におかれている点からいえば,管理されたマーケ ティング経済諸関係を問題としているといえよう。そのばあいでも,個別的 観点からではなく社会経済的観点から主として取り上げるのでなければなら ない。

私見では,社会の経済的士台にかんする科学は経済学であり,「マーケティ ング経済諸関係を対象とするマーケティング経済論は,科学的経済学の一特 殊領域をなす。科学的なマーケティング経済論の主要な課題は,独占資本主 義的生産諸閲係の重要な一痰をなすマーケティング経済諸関係の生成•発展

・消滅の発展法則を一般的経済法則との連関のなかで明らかにすることであ る。それとともに科学的・批判的研究のいま一つの課題は,経済的土台のう えにそぴえたつ上部構造の研究である。·……•• Cかくして〕マーケティング にかんする真に科学的・批判的研究の総休は,その土台と上部構造の弁証法 的・唯物論的研究でなければならない」(本書.下巻,第14250 251ページ)。

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科学分類論に入るならば,当然,物質の運動諸形態の質的な特殊性によっ て分類せんとしたエンゲルスの見解(「自然の弁証法」,マルクス=エンゲルス全 集,第20 550ページ以下)をはじめ現代の科学論(たとえば,その1つとして,

K・マルクス大学哲学研究集団,岩崎允胤訳『科学論』とくに第VI章)の検討が不可 欠である。これまた方法論にかかわる問題でもあり,今ただちに結論をだす 用意も能力もないから今後の課題としておきたい。ただ少なくともそれが商 業経済学と同じではないし,独占資本主義の下での独占資本の,したがって 特定産業部門に特化しないいみで横断的な,経済学の一特殊領域であるとい いうる。また必ずしも,シェーマティックな分類の枠のいずれかにおちつか せる必要もないとの考え方も場合によっては成立しうるであろう。

5に,マーケティングと技術革新との関連の分析にあたって,とくに技 術の研究の重要性の指摘である。竹林氏が指摘されるように,これまでの技 術論争や近年の「科学=技術革命」(ここに革命という表硯の成否は別として)の 研究の成果に深く学ぶ必要があろう。

その他に,資本主義の基本矛盾の理解の問題,中小資本の販売活動の問 題,労働組合・中小商工団休•生協・消費者団休の運動との連関の問題,そ の他等々多くの論点について啓示をうけた。諸論評者に深い謝意を表したい と思う。

以上,諸論評の主要な若干点についてコメントを行なってきたが,そのほ かに,あえてマーケティング経済論をかの物理学の発展になぞらえていえば,

つまり竹林氏流の比喩でいえば,ニュートンカ学段階の確立からさらに量子 力学の段階へと発展させていくうえで必要な多くの課題がなお存在する。

そうした諸課題の若干について言及すれば,第1に労働論の欠如の問題で ある。この問題は,『資本論』レペルの「商業労働論」では明らかに不十分で あって,その発展が必要であろう。それはある研究会で4年余り前に提起し ながら未展開の「マーケティング労働論」の研究である。この点,角谷氏も この用語を使用されている (S.85ページ)。

2に近年の大収奪にみられるように,独占価格論の正しい位置づけの問

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310 (536)  『マーケティング経済論』をめぐって.(保田)

題である(上休貞治郎編『経遮経済学総論』ミネルヴァ書房,第14章角谷稿参照)。非 価格競争論によって独占価格論を矮小化することも,単なる独占価格の設定

・維持論も正しくない。たびかさなる独占価格の大幅引上げとその民主的規 制が,国民大衆の立場から検討されねばならないであろう。

第 3に,マーケティング主体としての独占資本の問題である。外見的には 個々の個別独占資本(企業)がそうであるのだが,その奥にある金融資本ない し金融寡頭制との関連の解明,それとの連関で竹林氏のいわれる国家との関 連の問題の研究である。

4に,第3の問題などと関連するのだが,戦後,対米従属下での日本独 占資本主義の急速な復活・強化の過程で,日本独占は市場問題(内外の)にど のように対処してきたか,それは同じ問題をどう深化させてきたかという科 学的な実態分析の課題である。

5に,独占本位の政治経済のあり方とその矛盾激化の反映としての国民 大衆の革新を求める広範な民主的革新的運動の発展に規定された問題であ る。このばあいいうなれば,独占のマーケティングに対する民主的規制(な いし統制)の理論的課題,つまり一言でいえば民主的反マーケティング論の 課題である。さらにはそのごの課題となろうが,独占のマーケティングの廃 絶と社会主義下の問題がある。これらの諸課題は,資本主義体制を永遠のも のとして固定的に認識する反動的立場,つまりマーケティングを特定の歴史 段階の産物として,かつその生成•発展・消滅の過程,そのより高次の段階 への転化の問題として理解しえないさまざまのプルジョア・マーケティ ング 論者の形而上学的認識の立場,変化や動態を問題としてもその弁証法的発展 を認識しえない立場からは,到底承服しがたい,従って論難し圧迫すべき対 象と映ずる問題であり,逆にいえば,マルクス主義哲学に立脚する研究者な らぴに真面目に硯実の諸矛盾の革新的打開を考える研究者にしてはじめてよ く対処しうる可能性をもつ民主的革新的課題といわねばならないであろう。

問題は山積している。そのためにも革新的な共同研究の一層の発展が期待さ れるのである。

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『マーケティング経済論』をめぐっーく(保田) (537) 

a n  

最後に,立場を超えて論評された方々に敬意を表したいし,とくに多くの 有益な論点を啓示された方々に謝意を表したいと思う。また文中,誤解と浅 学非オに基づく非礼がありはしなかったかと思慮するところである。 そし て,山崎紀男教授の退職記念号をかかる未熟な覚え書でもって間に合せざる をえなかったことに遺憾の意を表したい。

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