長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第23巻 第1号 43‑58 (1982年7月)
何為覚え書
中田喜勝
A Note on "HE WEI"
Yoshikatsu NAKATA
まえがき
学生時代の旧友、張仁忠仁兄の紹介で、 1982年元旦、福州市で現代中国の散 文作家何為先生にお目にかかる機会を持つことができた。
外国旅行で未知の外国人と知り合うのも楽しいことだが、会いたいと熱望し ていた方と会えた歓びは誠に大きい。しかも元日の夜を先生の自宅に招待され たのは貴重な体験であった。
先ず先生の自伝を、次に私の会見記を挙げ、続いて先生の散文を二篇訳出し て参考に供したい。つまり、中国の作家たちが"抗日愛国''のために文筆を揮
っていた事実の一端を理解できればと考えるのである。
日中両国が再び戦火を交えない為にも、中国の作家たちの地道で不屈な文芸 活動があったことを理解しておきたいと者えるのである。
圧]何為先生の自伝
「中国現代作家伝略」 (徐州師範学院《中国現代作家伝略》編輯組1978年10月)の中 に何為の自伝があって、次のように述べられている。
本名は何振業、 1922年4月19日生れ、漸江省定海県の人。幼時に一家は上海 へ居を遷し、 30年余過ごしたが、上海光華大学附属中学と上海聖ヨハネ大学に 学んだことがある。少年時代に写作を学び、最初の作品《路≫が1937年6月号 の雑誌(中学生)に発表された。抗日戦争の時期には、救亡日報に投稿した。
大型の報告文学合集の(上海一日)が原稿を公募し、私の《溝撃戦士》という 散文‑篇が人選して載った。
1938年秋、高級中学で勉学中に、党の地下組織が編成した上海各界の人々か
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ら成る抗日救亡慰問団に参加する機会があり、新四軍の駐屯地を秘密裡に訪問 して、翌年の初春に上海に帰った。新四軍の対外宣伝の任務を与えられて、新 四軍の戦いの生活に関する散文特記と通信報道、約六・七万字を書いて、党の 地下組織が指導している《鐸報≫、 《鐸報周刊≫、村霊同志編集の文麿報の《世紀 風≫と大公報の《浅草≫などの文芸副刊に発表した。 1940年7月、最初の散文 特集《育文江≫を出版した。この時期に地下の党が指導している革命文芸活動 に参加して、文芸期刊《野火≫などを編集印刷をした。 《奔流文芸叢刊≫に新四 軍の戦士を措いた短篇小説《大地的脈息〉を発表したことがある。
抗日戦争が勝利してから解放前夜まで、前後して上海文湛報の記者及び上海 清華影片公司の劇編集の特別契約などの職務に任じた。この間にも、散文と小 説とを書いて、唐強・柑霊主編の《周報≫ ・文湛報文芸副刊の《筆会≫及びその 他の新聞や出版物に発表した。
全国解放後、上海電影文学研究所・上海電影劇本創作所及び上海電影局所属 の故事片蔽文学劇本の編集員を歴任した。 1959年初め、福建電影制片厳に転勤 になった。故事編集組副組長に任命された。同年に中国作家協会に加入した。
1964年に省と文朕に転じて専業作家となった。
この十年間の主要を作品には散文集《第二次考試≫ (1958) 《織錦集≫ (1962) 報告文学《張高謙≫ (1963)及び児童文学《前進把・上海≫ (1956)などがあり、こ れら以外に、散文随筆約数万字の未結の集がある。
林彪及び"四人組"が跳梁していた時期、十年間、摘筆した。
華主席を指導者とする党の中央が"四人組"を一挙に粉砕してから間もなく、
十年来の最初の散文《臨江楼記≫を発表したが、前後して英文・仏文に翻訳さ れ、同時に全国の多くの語文教材に編入された。その後、引続き《向無名英雄 問好≫ ・ 《従蘇家披到古田会祉≫及び《風雨夜航図≫など十余篇の散文を発表し た。
1977年、福建省第五次人民代表大会代表に選ばれ、同時に省の文朕の専業作 家の地位を取戻して、現在、建国以来の個人散文集を編遺している。
1978年9月7日
[司何為先生との会見配
張仁忠君は同志社時代の学友で、一緒に中国語劇を演出した仲間でもある。
昨秋、北大での全国学会からの帰途、電話を入れると、函館駅の待合室にすぐ
来てくれた。笑顔で、同時にお互いを認めあった。・卒業後40年ぶりの再会であ
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る。彼が自営の"福神楼''という立派な店の一室で、二時間あまり懐旧談の花 を咲かせた。来年の正月を福州で迎えることを知ると、彼は私に何為先生とぜ ひ会うように勧め、自分の名刺の裏に紹介状を書いてくれた。何為という作家 の名は初耳であった。北海道新聞社が招いて、一ケ月近く日本に滞在したこと があるという。張君はその時の接待を通じて面識を得たのだといい、何為先生 は今後も永く生き続けられる作家だと語った。
1981年12月31日大晦日、上海空港を7時2分に飛び立った中国民航5501便(双 発のプロペラ機)は2時間近くかかって、 8時55分福建省福活県郊外の軍用飛行 場に着陸した。一般旅客用の福州空港が修理工事中のためである。機外の朝風 は思ったより冷たい。周囲に沼沢地を埋立てたような草原が広がり、遥か北方 に連山が見える。禿山ではないが樹林らしいものは無い。国際旅行社福州分社 の方々が出迎えていた。何時ものことだが、有難いことだと思う。
熱いお茶の接待を受けてから、バスは9時20分に発車した。赤土の畑が道路 沿いに車窓の外を流れて行く。作物は麦が多い、所々に菜種の花が満開で、日
本の春を思わせた。二三十戸の緊落の中を通過したが、家屋も塀も石造である。
福活県の人々に華僑が多い理由が分かる。この地方は農業に適しない土地柄な のだ。
私は隣りの旅行社の人に何為先生と面会したいと早速申出て、張君が書いて くれた紹介状を示した。彼は無言でメモをとった。会えるとも会えないとも即 答はしない。少し不安ではあったが、何為先生へは出発前にすでに手紙を出し ており、中国のルール通りにしているのだから先ずうまく行くだろうと思った。
現在の中国で公式に人に全うには、事前に本人と旅行社とに連絡をしておかな いと、先ずその実現はむずかしい。住所が分かっていて、私的に会うのは、"四 人組"時代ほど面倒ではなくなっている。日本流に安易に考えていると失敗す る。
福州へ直行かと思っていたら、ベトナム華僑の難民の自活農場を見学するこ とになった。団員q)中に急に熟発患者が出たので、農場の医務室で診断を受け させるためである。 "東閣華僑農場"と呼ぶその農場に着いたのは9時40分。…機 械化養猪場"と門札のある高い門を入ると、工場のような石造の建物が幾棟も 堂々と立並んでいる。豚は成長別に大・中・小と分類されていて、いくつもの 枠に轟然と鎮坐し、壮観であった。枠内も清潔で、悪臭も発せず、豚は不意の 来訪者たちを不思議そうに細い目で眺めていた。
福州市内に入ると、 "慶祝1982年元旦"と赤い布の横断幕が数ヶ所にかけてあ
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る。中国はまだ"春節''(旧正月)の方が賑やかで、元旦の休みは一日だけだが 春節には三日もあるそうだ。デパートらしい店の飾り窓の片隅に"為四化只生
一個孫子" (四つの近代化のために子どもは一人だけ生もう)という横書きのスローガ ンがチラリと見えた。中国の人口問題は大変なことだと思う。その上に国家財 政の赤字が絡んで来る。
華僑大慶という宿舎に着いたのは11時少し過ぎ、昨秋一度泊ったことがある ので懐しい気持ちがする。庭園も池も亜熱帯の樹々もみな前の通りに迎えてく れる。玄関近くの広場には外賓用のタクシーやバスが数台駐車していて、出入 りする客は背広にスカートの男女で、華僑の里帰りらしい。
二階に在る食堂での.んびりした昼食を済ませて、自分の部屋に落着いたのは もう二時近くであった。ゆったりした椅子に腰を沈め、免税品のセブンスター を吸っていると、突然卓上の電話が鳴った。何為先生から頼まれて令息がロビ ーから掛けて来たのである.部屋の番号を教えると、間もなくしてドアをノッ クする音がしたので、どうぞと言うと、若い青年が楓爽と入って来た。きちん と折目のついたズボンにコートを着ていて、人民服を予想していた私は意外に 感じた。更に意外というよりも感心したのは、彼の正に眉目秀麗な顔と均整の
とれたスマートな体躯である。言葉も正確な標準語で、福建人の耽りは全く無 かった。
私は彼に椅子をすすめ、紙コップにセットされた即席コーヒーを出すと、そ の便利な商品に驚いた表情も見せず、落着いた動作で口にした。彼が福建話劇 団の俳優であることを知って、私はなるほどと思った。彼は何為先生が私の手 紙をすでに受取り、昨日から待っていると告げ、私の都合を尋ねた。日程表か ら割出して、結局、元日の午後四時に何為先生を私の部屋に彼が案内して来る ことになった。
1982年1月1日午後4時、何為先生父子が約束通り私の部屋に姿を現わした。
先生の其黒な頭髪、大きくピンと張った眉に厚い下唇が先ず私の目に入った。
服は人民服だが、布地は良質、色も濃紺ではなくて、黒みがかった薄い紺色で ある。背は私より少し低い。温厚な人柄とお見受けした。私は遂に何為先生と 面会できたのだ。先生は1922年生れで私より一歳若かった。年齢の近さから来
る親近感があった。
私はお二人を市内の適当な食堂にお誘いして、元日の夕食を摂る計画を立て
ていた。その食堂名も宿舎の服務貞から紙片に書いてもらっていた。この計画
を先生に伝えて、その紙片をお見せすると、妻が家庭料理を準備しているから
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ぜひ自宅に来て欲しいと言われる。私はしばらく考えて、先生の好意を受ける ことにした。中国の作家の家庭を訪問するのはやはり得難い経験だし、元日の 夜に家庭料理を昧あうのも楽しいだろうと考えた。豪華な宴会場での山海珍味 の接待よりも、個人の自宅の方が実は貴重なのである。中国の人は心を許した 相手でないと、家族一緒の食事は先ずしないからである。
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福州新市街の目貫き通り「五一路」には夕闇が迫りつゝあった。上海の南京 路のような雑沓は見られない。私が乗った「三輪タクシー」は車体を震動させ、
エンデンの爆発音を響かせながら走る。前方を先生父子の自転車が誘導される。
自分だけタクシーで相済まなく思う。しかし、最初は外賓用のタクシーでと先 生が言われたが、先生父子が自転車で来ているのを知って、私は歩るいて行く と言ったのだ。中間をとって「三輪タクシー」に乗ることになったのである。
私はふと昭和15年夏、北京で涼しい夜風の中を王府井へと走らせた洋車のこと を思い出した。あの夜は北海公園の画船から胡弓のやるせない亡国の音が微か に伝わって来ていた。車は巷の横道に入り、人波の中を警笛をしきりに鳴らし て徐行した。近くの劇場から溢れ出て来る人の波があった。
宿舎を出て車で10分ほどで、何為先生が住んでおられるアパート風の建物に 着いた。コンクリートの素肌のままの薄暗い階段を登って行くと、四階目が先 生の住いであった。体格のがっちりした夫人に愛想よく出迎えられ、室内に案 内されて、中型のソファーに腰を下した。部屋は12畳ほどの広さで、四角な机
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と椅子、食器棚そして書棚がある。勿論、ソファーの前には低い長方形の応接 台があって、早速そこにお茶と煙草とが出された。
私は夫人と改めて挨拶を交わしてから、早速、家族の記念撮影に取りかかっ た。元日の夜だし丁度、良い記念になると思った。フラッシュの閃光が数回光 った。ソファーに夫人と令息とが並んで坐った時、令息は右腕を夫人の肩に回 わして抱いた。いかにも俳優らしいポーズである。その時、カメラのファイン ダーからのぞいた夫人の微笑が実によかった。撮影が終ると、夫人は部屋に隣 接した台所に行って料理を始められた。油で妙めものをする音が聞えて来る。
何為先生は書斉らしい隣室から北海道新聞の切抜きと数冊の書物とを持って来 られた。新聞のは先生の訪日中の記事で、その中には竹内実先生の名前も見え た。書物は「臨窟集」という自著の散文集や先生の散文が載った「八十年代散 文集」 ・ 「漸江現代作家創作選」それに先生の略歴が載った「中国現代作家伝略」
である。いずれも後で贈呈を受けたが、それぞれに達筆な自署と押印とがして
あった。それらは前もって準備されていたようであった。
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私は先ず「中国現代作家伝略」の頁をめくってみて、一驚を喫した。先生に は1938年(昭13)、新四軍の駐屯地への慰問団に参加された経歴があったのだ。
若い頃から抗日運動の実践活動をされているのだ。それは驚くよりもむしろ当 然のことであろう。 1930代、上海では作家たちが「左朕」系の作家は特にそう だが、抗日愛国の情熱を文筆に託していたのだ。
私たち四人は食卓について、先ず乾盃をした。酒は焼酒に似た相当度数の強 いものだった。夫人手製の料理が次々に運ばれて、話も次第にはずんで来る。
先生は日本滞在中に憶えた片言の日本語を披露された。その中に「ハシゴ・ハ シゴ」ということばがあった。次々に場所を変えて飲みまわる日本人の習慣に 多分驚かれたことであろう。中国の人々の酒の飲み方には何時も感心させられ る。他人の面前では絶対に態度が崩れない。
私は白樺の「苦恋」という問題の小説を採りあげて、先生の意見をお伺いし た。先生はこの問題は日本滞在中にも度々質問を受けたが、中国ではもう解決 済みで、今更とやかく言う必要はないと答えられた。中国でこの小説はブルジ ョア的だと批判されたものである。
先生は上海時代は喉の疾患で苦しめられ、度々、呼吸困難に陥ったこともあ ったが、福州に来てからはすっかりよくなったと語られた。暖かい南方の気候 は喉にたしかによいのだと思う。先生が二十年以上も福川に落着いてねられる のもこれが原因かも知れない。
令息の名は堂堂といった。面白い名だと思う。発音が椅寛だと言うと、俳優 は正確な発音が要求されるのでと少し照れたように微笑しながら答えた。彼は 発音だけではなく、動作もきびきびしていて、いかにも舞台俳優という感じが
した。如才なく酒も勧めてくれる。
私は先生と一緒にベランダへ出た。福州の夜景が広がっている。日本のよう にネオンや明るい燈火はないが、落着いた雰囲気をかもし出している。眼下に は院子(中庭)のある古風な家屋が灰暗い夜陰の中に立並んでいるO昔、この一帯 は清朝時代、黄という姓の大官が住んでいたので、今、このあたりを黄巷と呼 んでいると先生が説明された。夜の空気は酒でほてった顔に快かった。
私は名残りを惜んで先生の家を辞去した。先生はわざわざ通りまで送って来 られ、堂堂は更に大通りの"三輪タクシー"の溜り場まで私を送ってくれた。
堂堂は右手を高く挙げて振った。私は車上から"再見"と大きな声で叫んだ。
何為覚え書 EE
⑨甑江夜渡(自漸江現代作家創作選)
夜航の船上である。年老いた舵取りは風雨灯(注1)を持ちあげて、マストの 高いところに掛けた。マストは秋も深い暗藍色の夜空にピーンと聾えている。
寂しい秋風の中にふくらんだ帆影は天際に貼られ、一片のとりとめもない雲の ようである。風雨灯の燦めく燈火は雲間に見え隠れする小さな星のようだ。
私たちの仲間、七・八名の若い学生と小店貝は日本軍の重囲下の"弧島"上 海を秘そかに離れて、長い道程を苦労して遠くへ行くのだ。光明と理想とを尋
し求めるために、長い間、憧れていた新しい世界に急ぎ赴くために。
その夜、甑江の江上の狭くて小さな船室の中で、私たちは床に延を敷き、一 緒にひしめき合って横になった。蔑蓬(注2)の下の豆のように小さが由灯は風 に揺れ、熟睡している顔を一つ一つ照らしている。なんと若々しく、なんと糸屯 異な顔であろうか。その十一月の甑江の夜に、遠くへ行く旅人たちは眠りの間
に青春の夢をみていたのだ。
しかし、私はどうしても寝つかれなかった。耳もとではしきりにザアザアと 水の流れる音がした。舷外には江の水が藍黒色を呈し、時には撫でるように明
るい小波が立ち、波の光は折り重なる山影をかすかに照らしている。
静かな山。ヨイショヨイショと櫓を漕ぐ声を聞いていると、あの小さを県城 は遠く離れてしまったのだと思った。旅の途中ではある場所に到着すると、い つも一寸停ってはすぐに離れるので、町や村が一続きのような錯覚に陥った。
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最もはっきりした記憶の∴っは甑江の岸辺にのめりこむような山間の小さな 町のことである。青田、明るく清らかな一幅の山水画であり、雑念がなく物静 かで一首の田園詩のような町。しかし、美しい青田石歴で世に知られた青田で は、先祖代々辛苦して遠く海を越えて労働者となっていた青田の人々が、私た ちを迎えたのはもはや牧歌でも悲しい歌でもなくて、時代の行進曲であったの
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私は船槍に仰向けになって、低い半円形の蔑蓬を見つめていた。私たちが青 田に到着した次の日の夜のことを思い出していたのである。感動的で盛大な夜 会に参加したのだが、白い横幕に"歓迎上海救亡同志過青朕合歌泳大会"と太 々と書かれた一行の文字が今なお目の前にあった。
県城の大講堂では群衆の歌声が捲き起こした愛国の潮が次々に高まった。百 人の大合唱の鋼鉄の音符がつくり出す旋律は澄んで鋭く周囲に流れ、秋の夜の 晴れた空にいつまでも響きわたった。
それが青田の息づかいであり、青田の脈縛であり、青田の心の声であった。
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私たちこの一群の上海の学生と職業青年とは人を窒息させる"孤島''に長い 期間住んでいたが、意外にも旅の途中、この小さな町で、失なわれた歌声をさ がし出すことができた。それは抗日救亡の歌声であり、民族解放の歌声でもあ ったのだ.!
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甑江を航行する船の中で、私はあちこちと寝返りを打って、永い間、眠りに つくことができなかった。船体は少し傾斜していて、江上には冷たい霧が漂っ ている。船は夜霧の中を進んでいた。ある友人が別れに際して贈ってくれた言 葉と彼女の敬虞な祝福とを私は記憶している。私たちはまた祖国の大地の上で、
声高らかに行進曲を唱うことができるようになるのだと私は彼女へほんとに手 紙を出したかった。彼女は喜ぶはずである。しかし、私は腰掛けることができ
ないし、やはりまたゆらゆらと揺れる灯影の下では手紙も書けない。
アメリカの版画家ケントの木版を憶えている。光と影とがはっきり分かれた 甲板の上で、スマートな青年が両腕を組み合わせて、天にも届く高いマストに 身を寄せていた版画を。彼は高々と頭をあげ、まさしく限りない天際の夜空を 凝視している。彼は全宇宙に向かって探し索めているのかも知れないし、遠く
にいる恋人を偲んでいるだけかも知れない。
悦惚となりぼんやりとしていると、版画のマストに寄りかかったその青年が 私自身でもあるかのような気がした。私には‑女性の低い声で唱う独唱がぼん やりと聞こえた。鳴っているのは暗い歌である。"わがふるさとはなくなりて一
〜"という歌声は風に消え、"孤島"も更に遠く離れてしまった。私は眼を閉ぢ た。年のいった舵取りが"雨だなあ‑"と言っているのがかすかに聞こえた。
眼をさますと、もう明け方で、船は永嘉の岸辺に着いていたが、果して膿鹿た る霧雨が漂い始めていた。
一九三九年九月作 一九八〇年八月修訂
注1風雨灯:ガラス窓のついた防風用手提ランプ。
注2蔑蓬:舟のとま、竹で編み、中に竹の皮をはさんで作ったもので、雨よけ日
よけのためかまぼこ型に舟や車を覆うもの。
何為覚え書 51
確度富集序(四・五・六・七)
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人間の一生は窓の下で過ごす時間が少をくか、。私自身の文筆生活に縁のあ るいくつかの窓を回顧すると、あの古い時代の窓は異なった住居の壁にそれぞ れ巌められていて、まだら模様の一幅の絵のようである。画面には色擬せた懐
しい生活の痕跡があって、追憶の中に悦惚として迷いこむようである0 最も早いのは揚子江の汽船の小さな舷窓であった1934年(昭和9)の晩秋初 冬の頃、祖母に伴われて上海から武漢へ行った。私の少年時代の忘れ難い船旅 であった。
江の汽船は汚れ混雑していた。毎年の兵火と水害とで、避難民が故郷を難れ、
群れをなし、隊む阻んで他処へ避難していた。招商局のこの客船はまるで一隻 の難民船のようである。上下に二三段ある甲板や通路も、船全体が、衷しみに 打ちひしがれ准禄を纏い、切符を持たね旅客でごった返えしている。
私たちは箱のような三等船室の一間に閉ぢこめられていた。船室の外側の鉄 柵付近や狭い通路は床に蓮を敷き腰を下した難民で溢れている。船室のドアは
なかなか開けられなかった。上海の黄浦江から呉光へ出て、漠口の江海関波止 場までの三泊四日ののんびりした航程を私は二段ベッドの上のベッドでずっと 横になっていたようだ。
この上のベッドの枕許にうまい具合に舷窓があった。窓外は揚子江の単調な 秋景色で、江上の晩秋は寒さが次第に加わりつつあった。囲い窓から射しこむ 光の小さな塊りの中で、私は人々を焦ら立たせる航行のことを忘れ去って、無 限に広い文学の世界の中に迷い沈んだ。旅行袋の中には"五四"以来の有名な 文学書を数冊入れてあった。その中の一冊が広く読まれていた「寄小読者」で
ある。
書中の美しい書信を幾通か読み終るごとに、私は上の段からそっと下りて、
共に遠い旅をする祖母に無言で寄りそった。封建的な家庭が私の灰色の幼い日 の中に拭い切れない濃い陰影を投げたことを知る人はいない。私が生まれた年
には祖母は五十歳。幼い頃から祖母に扱いてまわり、彼女の勇にいた歳月は長
いb気持ちの上では私は終生、祖母によりかかっているのである。彼女の身近
かに居てはじめて真の母のような愛を得た。しかもその母の愛は崇高な自己犠
牲と他人への愛を含んでいたことが分かった。私の成年に至るまで、私と私の
一家とを精神的にずっと守護していた。彼女は私の生命の中の善良で慈悲深い
永遠の守護神である。
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揚子江の旅程の中で、 「寄小読者」 ‑海外旅行者から祖国の母親へ捧げた 至情溢れる詩篇を涙ぐみながら読み終った。それはそのように相寄ることを運 命づけられた祖母への感情のためであるかも知れない。温かく美しくて実に私 を感動させた。ごく最近、第四回文芸工作者代表大会で、私は幸いにも泳心同 志と握手して挨拶を交わしたことがあった。彼女は当然、知るはずはないのだ が、私の心は彼女にひどく感激し、彼女の手紙が当時の江の汽船の上で、一人 の小読者にもたらした愛の温かみに私は感激したのであった。
汽船が九江の波止場に停泊して積荷を卸した時には、岸と船上に人声が湧き あがり、甲板の鉄ロープが軸をガラガラと鳴らす音、運送人夫の「ヨイショ・
ヨイショ」という掛声や荷物が地上にドスンと落下する音が交錯して、それは 熟のこもった暮らしの縮図であった。
顔に吹きつけて来る江の風にお構いなしに、私は堅く閉ぢていた舷窓を開け て、漠々と流れる揚子江を見つめていた。江の真申の大きな浮錨のそばに木の 盟が波立つ水面にゆらゆらと浮んでいる。木の盟のそばに小さな男の兄が二名 いて、大きいのは十歳ぐらい、小さいのは六・七歳ぐらいで、どちらも丸裸、
小さな肩をあげ、船上へ向かって物乞いをしている。波間に漂う可表そうな児
よ.′
暫らくして、ある船客がとうとう鉄柵の手摺りの上にうつ伏しになって、盟 めがけて銅貨を一杯投げた。当時の一番廉い貨幣である。銅貨は江の水の中
に沈んでいった。年上の方の子がすぐに盟から躍り出て、波立つ濁流の中に潜 っていった。まるで跳ねまわる鯉のようである。すると忽ち小さな頭が水面に さっと出て、指先に水底から拾い上げた銅貨を高々とあげている。その子は流 れの性状をよく知っていて、波浪を巧みに越え、浮き沈みしながら船側に次第 に近づいた。そこで又、数枚の銅貨が投げ落され、船上の客はこの小さい男の 子が風浪の中で、また潜水の妙技を演じるのを期待しながら眺めている。
江の風は肌を刺し、私は全身が急に寒さで懐えた。出航のドラが響きわたり、
ドラを打鳴らす船員が甲板を飛び廻り、汽船は錨をあげて出航した。私は囲い 窓口から波の中で戦っている二人の子どもを注視していた。終いにその盟は私 の視線から消えてしまった。ベッドに横になって、本をとりあげたが、どうし ても読み続けることができなかった。
揚子江は無尽の波浪が立ちそして流れ、あたかも無限の生活を記した大きな
書物のようであった。私はその中の‑頁を読んだのであった。
何為覚え書 53
五
上海の小さな部屋の暗い窓辺で、私は三十年代の中期から四十年代の後期ま での大部分の日を過ごした。
窓口の一角から目をあげると、十八階建てのビルの薄黄色い巨大な側影が見 られた。ビルはまるで市街地の中の峨峨たる山のようである。冬には陽光を遮 ぎり、夏には風を遮ぎった。私の′J、部屋は年中、陰影の中に閉ぢこめられ、ま るで峡谷の下の方にある小屋のようであった。
小さな窓は薄暗かった。窓の外の小通りの民家には陽光が無く、緑の生命も 無かった。そこで、熱帯国の天にも届く濃緑の樹々を渇望したのである。古代 の外国の哲人は菩提樹の下に喋目して坐し、沈思黙想したのだから、私は小部 屋に"菩提梯''と命名した。当然、幼稚で一笑に付されるものだが、このこと、
で、生活への渇望を表明したに過ぎない。
窓の内側に石鹸の梱包箱に板を取り付けて造った机が‑卓ある。低くて、脚 が無くて不安定をこの自家製の机は手工業の作業場の作業台に少し似ている。
この粗末な板の上に魯迅創刊の"訳文'こ鄭振鐸主編の"憧界文庫"その他の文 学書を展げた。大先生たちの燦然たる著作があるので、幡屋は神聖な殿堂とな った。ここで愚かで幼稚な文学修行者が手習いから始め、夜を日に継いで、机 のそばに寄りかかり、学校以外の初歩的な文学修行に打ち込んでいたのである。
抗戦前夜、あの寒い上海の冬に、私は貧窮と疾病から死に追いやられた国語 の先生、私に文学の道を歩くように啓蒙してくださったその先生のことを非常 に懐しく思って、五千字の散文一篇を書いた。それは石鹸梱包箱の上で書きあ げたもので、塵龍に投入されなかった‑篇の習作であった。開明書店発行の 1937年6月号の"中学生"という雑誌にこの投稿が入選採用されたのである。
出版物の主編は夏弓尊・菓聖陶らの先生方であった。
今回の文芸工作者代表者大会が終った時、記念撮影の後で、灯光の明るい人 民大会堂の宴会場に入った。幸運にも、私は"月光はコロラド河を照らす"の 悠揚迫らない音楽の音色を聴きながら茶会の席で菓聖陶同志と逢った。菓先生 は髭も眉も裏白で、頭も白髪一杯であったが、畢鍵としておられた。話を交わ す充分な時間が無くて、私の感激の気持を吐露することもできなかったが、心 の中でそっと先生に敬意を表しただけであった。菓先生、あなたは一代の師匠 です。あなたは中国の文学の大地に幾代もの人を育てあげました。あなたは終 始、前面に在って道案内をなさっておられます。と。
"路"は「中学生」に私が発表した文章の題目である。 "五四"以後の文芸界
54 中田書勝
の先輩たちからの直接間接の教育の下で、私は道を一歩踏み出し始めることを 学んだ。文学の道は生活の道でもあった。当然、当時は予側できなかったが、
後日、畢生の努力を傾けて長く段渉することになった文学の道は、平坦な道と いうよりもむしろ険しい道や分かれ道があったというべきである。
窓の内側の小部屋の天地は小さなものであった。思想と感情とが束縛されな い野鳥のようであったから、陽光の射し込まない部屋の中には閉ぢこめられた ままでいたくなかった。私はしばしばやるせない孤独と寂実とを感じた。とこ ろが或る日、愛情の花園から温かくて柔かな一陣の風が吹いて来て、私の家の 小部屋に吹きこんだ。私は椅寛な夢を織り始め、情熱的で色鮮やかな青春の花 を植え、奇異な風光の車に迷い入った。風が吹き去り、砕かれた花の影が鏡の 上にゆらゆらと落ちた。私は落ちこぼれた僅かな董色の記憶を拾い上げ、また 脚の無い粗末な木の机にもどって、私自身の小さな庭を耕やした。
間もなく、抗日愛国救亡運動の煙火が小部屋の小さな窓をも連日、明るく照 らした。私は虚無猟秒とした所謂人生の理想の中から身を脱出させ、次第に現 実の生活の土壌の上へ向かって歩いた。私は幾冊かの革命の書物と接触し始め た。その中の一冊がスノ‑のあの有名な…西行テ蔓記"である。中国の当時のイ
ンテリ青年の革命テキストであった。その影響を受け、進歩を願った青年が幾 人いたのが分からないほどである。この赤い布表紙の書物は憶憶の新しい世界 を開いていた。人々は先ず延安の紅星の光亡が中国を照らしていることを知っ た。毛沢東・周恩来・朱徳らの偉大な名前と彼らの偉大な革命の価値とを始め て知づたのである。中国革命へと航行する船のマストが北方の地平線上に出現
したこととを始めて知ったのであった。
1937年の晩秋、上海は陥落して"孤島"の時代となった。窓外の枯葉は風に 舞い、灰色の中通りには落葉が厚く散り敷いた。或る日、昔、私の幼年時代に 私の家と交際していた友人;上海と新四軍革命根拠地とを往来していた地下党 員が私の小部屋に入って来た。
彼の手引きで私は長い間、夢みていた旅がやっと実現したのである。地下の 党組織である上海各界人民救亡代表団に扱き従って、私は院南の新四軍司令部 へ秘密裏に慰問Lに行った。甑江の貨物船の上で、同行者にアメリカの進歩的 な記者、チェック・ベルトンがいるのを発見した。全国解放後に毛沢東同志と スノーとがある時の講演の中で、ベルトンの行方を問われたことを記憶してい る。私は彼が中国革命に関する多くの出版をしたことがあるのを知っている。
この外、アメリカの進歩的な作家、アグネス・スメッドレ.‑とは軍の病院で逢
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った。この時の訪問は後になって私に‑篇の訪問記の材料を提供してくれた。
私たちは新四軍司令部の所在地、雲蛤の群山の中に開けた空地に在る大きな桐 堂の中で、三十年代の最後の元旦を迎えたのである。
当時の短かい革命の道程が"育文江"という散文集を私に完成させた。青文 江とは新四軍の駐屯地を横断して流れている江の名称である。これが私の最初 の本で、 1940年に出版された。旧社会の暗黒勢力に呑みこまれた初級中学校の 国語教師、孫太禾先生を私はこの本で以て記念している。彼女は私の最初の文 学の道案内であって、私は彼女に深甚な感謝を捧げるのだ。
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最初の五星紅旗が上海の上空に風を受けて、励翻と揚った。私は繁華街の中 心部の病院に身を横たえて、病棟の縦長の窓から、一日中、湖水のように青い 窓外を仰いで、旗の星々に敬意を表した。
あの数年、私は慢性の病疾にひどく苦しめられていた。季節の変わり目に、
私は大半は病床にあって、酸素ボンベやリンゲル瓶それに大量の薬の世話にな り、晟日も呼吸痩撃の畳と夜とを過ごしたものだ。五月に上海は解放された。
十月が人民共和国の最初の国慶節であった。盛大な記念日であるのに、私は病 室の中でただ耳を澄まして、国歌代わりの《義勇軍行進曲≫を傾聴できただけ であった。行列の人の群れの歓呼のどよめきが窓口から入って来た。.私は窓外 の紅旗の星々が明るい陽光め下で、晴れやかに輝いているのを凝視していた。
社会主義の祖国を心から愛している中国人の一人一人にとって、これは歴史 上の偉大な時点であった。私にとっても同じで、古い道程の終点でもあり、ま た新しい道程の起点でもあった。前進する道路の道標は明らかであった。
五十年代初期に、 "菩提楼"と美称して名づけた小部屋から上海西部の楼屋 に転宅した。居室以外に貯蔵室があった。その名に負かぬ実に小さな部屋であ る。古くて小さな鉄の開き窓が室内への唯一の光線の釆源であった。昔の住人 が使い古しのテ二ブルを残していた。病院から帰る毎に、私はすぐ貯蔵室に入 ったが、字を書くほんもののテーブルをやっと自分が持つようになったので嬉
しかった。
昔、上海が"孤島"の時期、よく一緒に写作を学んだ数名の旧友は解放後そ
れぞれ全国の主要な新聞や出版物の文芸編集を担当している。彼らは貯蔵室に
潜んでいるこの私を忘れないで、再三、私のドアを敵いた。そこで、私はまた
元気を奮い起こして、心新らたにまた筆を握ったのである。
56 中田書勝
五十年代の後期から六十年代の初期までに、私は二冊の薄い散文集、《第二次 考試》と《織錦集》とを出版したが、大部分は貯蔵室の小窓の下で書きあげた
ものである。新中国の若い世代の道徳の様子と青春の美とを表現しようと試み たものであった。作品に描かれた人物が社会主義の土壌の上で、絢欄たる精神 の花となることを私は願ったのだニ1956年12月26日の《人民日報≫副刊に発表 した《第二次考試》は私の比較的早い試作であって、私自身が作っている荒れ た庭にひっそりと開いたものである。
私は《第二次考試≫を談ずと題する‑篇の文章の中で、次のように述べたこ とがある。
遅咲きの小さな花や稚く若々しい小さな草にしても、それらがこの地上に恐 る恐る生まれ出て、周囲の天にも届く大樹と地上一面に咲いた花とをそっと見 廻わして、生命の喜悦を感じ、同時に自分のあまりにも小さいのを恥ずかしく 思う。幸いにも大地は公平無私である。風和ぎ日東らかな春の日和の中で、小 花と中華とは自分たちの生きる権利をそれぞれ持っている。陽光が普ねく照ら す下で、万物はみな喜び栄え、それぞれが生存の規律に応じて向上生長してい
くのだ。
しかし、何時頃からか、鉛色の重苦しい暗雲が晴れ渡った空を次第に遮蔽し ていった。"左"の方から激しい逆風が次々に吹いて来たので、幾本かの大樹が 先ずふるえ声を出し、目を奪わんばかりの多くの美しい名花が、みな濃い陰影 の中に閉ぢこめられてしまった。空には予側できないある種の前兆が出現した。
小さな花も小さな草も芽をちぢこませたのである。
上記の‑篇の文章は教育界のある人々から異端の旧作だと一度はそう見られ たとしても、全一代の四分の一世紀の時間を隔てて、 1979年の夏季の全国高級 中学国語入試問題として採用されたのである。 《第二次考試≫の中に書かれた昔 の若者の物語りと今日の青年の一代とを考え合わせると、この短かい作品の長 い歴程にはしばらく触れないとしても、この人試問題自体は味わえばますます 味が出るわけである。
試験問題の題目はしばしば生活から回答が出るものだ。
七
歳月が過ぎ去り、上海の窓は私の目の前で、ゆっくりと閉ぢられた。それ以
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後の多くの年代、断えず入れ換った窓は私に向かって、開けられ、また閉ぢら れた。福州の湖畔の窓から椿城(福州の別名)近郊の新居の窓に至るまで、一瞬 にして十年が経過した。それから10年、天を椿がせる政治の巨浪が中国の大地 を席巻した。私の一家は初めは蜘妹の巣一杯の倉庫に転居することを強制され た。塵が詰まり、閉ぢられた窓は日くありげな陰険な眼のように見えた。私の 一家はその後、幾度も転居し移動した"学習斑"であった。私は地を切り拓い て監獄をつくった山区に来たが、屋内には川に面して木の窓があるだけで、そ れがかえって周囲からの毒々しい眼光を遮ってくれた。家族全部が山村に"下 放"した時、自分で薄いプラステックを泥壁に撮めこんで、野暮たい大きな窓
を作った。山住まいの泥壁の部屋には和やかな陽光が充満した。 10月の勝利の 嬉しい消息が伝わって釆た時、私は丁度、福建西部の紅軍革命根拠地を旅行し
ていた。歴史的な時に、私は革命の歴史の多くの窓を看たのである。
私はこの窓からあの窓へと、生命の中の最も貴重な時間を過ごした。歓楽の 時間もあったが、それよりも苦痛の時間の方が多かった。若い頃には私は独り しばしば窓の前に坐っ,たり、窓辺に倖んで、いつも考えごとをしたり、期待す るものがあるようであった。もはや若くもない時でも、依然としてそんな風で あった。
三十年このかた、細々と書いた文字は大抵はみな私自身の生活の中の窓内・
窓外と関係がある。このことが書名の由来である。
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