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中田喜勝

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第24巻 第2号 47‑59 (1984年1月)

何為覚え書II

中田喜勝

A Note on "HE WEI" (II)

Yoshikatsu NAKATA

まえがき

"文革"は貴重な時間の損失であった。その十年の歳月は十年以上の重みが あり、特に中国の科学界の発展を停頓させ、"知識分子"を沈黙させた。実に"空 白の十年''であった。

この間、中国の作家も多くは迫害を受けて言尤黙し、労働を強制された作家 も多い。しかし、彼らは公然とは多くを語ろうとしない。

そこで、散文作家、何為の述懐を通して、当時の作家の胸裡に遍在していた と思われる情念を別出してみることにする。目次は次の通り。

田何為の自伝

B] "第二次考試" (何為の散文)

B] "第二次考試"について‑現在と過去

[召何為先生の自伝

「中国現代作家伝略」 (徐州師範学校《中国現代作家伝略≫編輯組1978年10剛の中 に自伝があって、次のように述べられている。

本名は何振業、 1922年4月19日生れ、漸江省定海県の人。幼時に一家は上海 へ居を遷し、 30年余過ごしたが、上海光華大学附属中学と上海聖ヨハネ大学に 学んだことがある。少年時代に書くことを学び、最初の作品《路≫が1937年6 月号の《中学生≫という雑誌に発表された。抗日戦争の時期には、救亡日報に 投稿した。大型の報告文学合集の《上海一日≫が原稿を公募し、私の《溝撃戦 士〉という散文一篇が人選して載った。

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1938年秋、高級中学で勉学中に、党の地下組織が編成した上海各界の人々か ら成る抗日救亡慰問団に参加する機会があり、新四軍の駐屯地を秘密裡に訪問 して、翌年の初春に上海に帰った。新四軍の対外宣伝の任務を与えられて、新 四軍の戦いの生活に関する散文特記と通信報道、約六・七万字を書いて、党の 地下組織が指導している《訳報》、 〈訳報周刊≫、村霊同志編集の文湛報の《世紀 風≫と大公報の《浅草》などの文芸副刊に発表した。 1940年7月、最初の散文 特集《青文江》を出版した。この時期に地下の党が指導している革命文芸活動 に参加して、文芸期刊《野火≫などを編集印刷した。 《奔流文芸叢刊≫に新西軍 の戦士を措いた短篇小説《大地的脈息》を発表したことがある。

抗日戦争が勝利してから解放前夜まで、前後して上海文港報の記者及び上海 清華影片公司の劇編集の特別契約などの職務に任じた。この間にも、散文と小 説とを書いて、唐強・村霊主編の《周報≫ ・文麿報文芸副刊の《筆会≫及びその他 の新聞や出版物に発表した。

全国解放後、上海映画文学研究所・上海映画シナリオ制作所及び上海映画局 所属の歴史物語制作所の文学シナリオ編集員を歴任した1959年初め、福建映 画製作所に転勤になった。物語り編集組の副組長に任命された。同年に中国作 家協会に加入した。 1964年に省と文朕に転じて専業作家となった。

この十年間の主要な作品には散文集《第二次考試≫ (1958) 《織錦集≫ (1962) 報告文学《張高謙≫ (1963)及び児童文学《前進把・上海≫ (1956)などがあり、こ れら以外にも、散文随筆約数万字の未結の集がある。

林彪及び"四人組"が跳梁していた時期、十年間、欄筆した。

華主席を指導者とする党の中央が"四人組"を一挙に粉砕してから間もなく、

十年来の最初の散文《臨江楼記≫を発表したが、前後して英文・仏文に翻訳さ れ、同時に全国の多くの語文教材に編入された。その後、引続き《向無名英雄 問好≫ ・ 《従蘇家披到古田会祉≫及び《風雨夜航図≫など十余篇の散文を発表し た。

1977年、福建省第五次人民代表大会代表に選ばれ、同時に省の文朕の専業作 家の地位を取戻して、現在、建国以来の個人散文集を編還している。

1978年9月7日

[司第二次考試(臨画集所収・百花文芸出版社1980)

著名な声楽の大家蘇林教授は一つの不思議なことに気付いた。今度受験した 200名あまりのコーラス専攻の学生の中に陳伊玲という二十歳になる女子学生が

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何為覚え書Ⅱ 49

いたが、最初の試験ではずば抜けた成績で、発声・楽譜に基づく歌唱・聴き取 りそして音楽理論の科目はいずれも"倭"であった。ところが、二回目の試験 では大いに失望させられたのである。蘇林教授の教え子は全国到る処にいて、

中には国際的な名声を博している者も少なくなかった。しかし、年若くしてこ のような才能がある学生はやはり初めてであり、そのような事態にもやはり初 めて遭遇したのであった。

その時の公開試験は古色蒼然としたあの大ホールで実施された。試験委員の 中の数名の有名な声楽大家の面前で、陳伊玲が落着いて洗星海のかの有名な

"二月裏釆"を唱い終った時には、ドアや窓の外は黒山の人であったし、無 表情な教授たちもそっと眼くぼせしないではおれなかった程である。規定によ って受験生は更に外国歌曲を一つ唱うことになっていたので、彼女はイタリヤ の歌劇"お蝶夫人"の中の詠嘆的な調子の"ある晴れた日に"を鳴った。その 時の彼女の張りのある音色と深い理解とは周囲の人々を驚嘆させ感動させた。

評価が厳格をことで有名であった蘇林教授でさえも無条件に讃美し、そのきび しい眼も.とにもかすかな微笑がのぞいていた。皆、息をのんで彼女を注視した。

薄縁のジャケツと体にぴったりの茶色のズボンの陳伊玲はまるで春の朝にすく っと立っている小さな樹のようであった。

第二次試験は一週間後に実施された。これで合否が決まるのである。この時、

一人の生涯の仕事が決定されるのだ。第一次試験を終って残った人はごく僅か 数名になっていた。そして第二次試験で色々な角度から‑そう厳格にテストさ れるのである。その都市の音楽界の有名人がみな到着した。これらの試験委員 と傍聴者とは評価選択の際に、感情がはげしく対立するようであった。しかし、

陳伊玲については全体の人が次のような予想を持っていた。合格の条件に合う 者がただ一人しかいないなら、その唯一の一人は疑いも無く陳伊玲であるはず だと。

ところが何としたことか意外なことが起こったのである。陳伊玲は第二次試 験を最後に受けたが、唱ったのはやはりあの二つの歌曲であった。しかし、歌

声は淀みがあり、少しも精彩が無くて、まるで別人が唱うのを聴いているよう であった。怯えたのが慌てたのかそれとも体調が悪かったのであろうか。人々 は彼女の生活態度に慎重さを欠くところがありはしないかとさえ疑った。居合 せた人々は互いに顔を見合せ、問い糾すような疑惑の眼をあげて彼女を眺めた。

彼女は自分の顔の疲れの色を隠せず、賢こそうな二つの瞳は暗くて生気がないよ

うに見え、いたずらっぽい口許にも訴えようもない焦りの色があった。全体から

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見ると、全く明るく、あっさりしていて人々から信任されていたのにである。

ところが一寸した意外な事故で、彼女が挫折したのは理解できないことであっ た。彼女は気の毒そうに皆へ笑顔を見せてから、そそくさと立去ったのである。

蘇林教授は大変立腹しているようであった。真に人々から愛される芸術家に なるには、先ずあらゆる面で模範的な人物、高尚な人物でかすればならなぬと いうのが彼の従来の考えであった。声楽家も決して例外ではあり得ないのだ。

だがこのような自暴自棄の娘は永遠に声楽家としては成功できない。彼は腹立 たしさのあまり窓の外を振り向いて眺めた。その都市はその年最大の台風から 襲撃されたばかりで、窓外には折れた木の枝や落葉が地面一杯に散乱し、竹垣 は水浸しの地上に倒れ、見るも無残な光景を呈していた。

陳伊玲へ対する試験委員会の意見は二つに分かれた。一つは陳伊玲の音声は 不安定で、堅実性がなく、成功し難いことが二度の試験を通じて分かったとい うのである。別の意見は彼女にもう一度の機会を与えてはどうかというのであ る。蘇林教授には自分なりの考えがあった。前と後とで音声に違いが出た根本 原因を究めることが重要だと考えた。彼女の仕事や生活についての態度に問題 点があるならば、たとえ声楽の才能があっても不合格にするのだ。それがすべ ての条件の中で優先するのだと。

しかし、結局、何が原因であったのだろうか。

蘇林教授は秘書のところから陳伊玲の受験票を取って来て、住所の書きこま れた初めの欄に赤鉛筆で太い線を引いた。表紙の受験写真は感じのいい顔をし ていた。小さくて可愛いらしい口許、明るくてさっぱりした瞳、笑うとまわり に小紋でもよりそうな鼻をしていた。これらのすべてが生命や、思想があり、

感情のある一人の人間を簡単に処理してはいけないとその有名な声楽家に注意 を喚び起こしているようであった。少なくとも眼前のこの娘について具体的な 事情は簡単なこの表紙の上からは理解できないのだ。もし、今度の選者に洩れ てしまったら、この娘はずっと一生涯、声楽家への縁が切れるかも知れない。

彼女の天賦の才は今後、埋没されるだろう。しかも学生を教育することを責務 としている音楽教授として、もしも彼女に深い事情があるのにそうなれば、自 分の落度となるのである。

翌日、蘇林教授は朝一番のロータリーバスに乗って出掛けた。受験票の住所 を頼りに、楊樹浦のその辺郡な大通りをやっと捜し出した。露地に入って、思 わずドキリとなった。

その露地は数ヶ所の壁が傾き、焼け焦げた棟は無気味に黒く、割れ残った煉

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何為覚え書Ⅱ 51

瓦塀の間には焦げ残りの黄色いポロ布がはみ出ていて、その露地は台風の破壊 だけでなく、明らかに火災も起ったことがはっきりしていた。この被災地の瓦 礫の上には、朝早くから忙しそうに後片付けをしている人々もいた。

蘇林教授は紙片を手にして、何処から捜し始めたらよいのか分からないでい ると、突然、向い側の二階家の窓から、子どもがごく自然に大きな声を出して いるのが聞こえた。

"ミ‑イ‑イ‑イ‑、アーアーアーアー''。歌手が発声練習をしている かのようであった。蘇林教授は思わず微笑んだ。予想通りその子どもはなるほ どやはり陳伊玲の弟で、忽体ぶって姉の発声練習の真似をしているところであ った。

子どもの口から判明した。彼の姉は職業軍人で、文芸工作団から帰って来た ばかりの頃で、上海に来てからは工場に配置されて行政の仕事を担当していた。

彼女は一人の若い団員‑積極的で熱心な人であり、工場の中でも居住地区で も何か用事があると陳伊玲に頼んでしてもらうと全く失敗がなかった。二三日 前に、この附近はやはり台風の襲撃を受け、電線の漏電で火事が発生して、多 くの人家が被害を受け、一時は帰るに家がないほどであった。陳伊玲は居住地 区の幹部に協力して、被災民を収容し、一晩中忙しくて眠ることもできず、遂 に喉をやられてしまった。その翌日が生憎なことに二次試験の日であった。彼 女は"駄目だわ.!"と思ったがやはり受験したのであった。

以上がなりゆきの全貌である。

"ホラ、姉さんがあそこで忙しそうにしているよ。"と子どもは窓の外へ手を あげて言った。 "僕が呼びます。呼びに行って来ます。"

"いや、姉さんに伝えるだけでいいよ。二次試験はちゃんと合格しているとね。

優秀な声楽家になる条件を完全に具えている。そうでしょう。私が間違ってい たようだ。"

蘇林教授は独り言を言いながら、子どもが目の前で不思議そうに眼をパテク リしているのにお構いなく、急いで陳伊玲の家から出た。足取りがこころよか った。そうだその日の朝は何かしら感動させるものが彼の胸裡に充ち溢れてい た。急いで帰って自分が知ったこの音楽学生のこととその出来事を一人一人に 知らせてやりたいと思った。

B]第二次試験について‑現在と過去A琵慧監198冒)

今年の高額入試の意外な出題

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今年は夏が早く訪れたようだ。私が住んでいるこの南方の都市は夏に入ると 早速、蒸せかえる暑さに取り囲まれてしまった。

7月7日正午、ある人が私に、 1979年の全国統一試験の国語の問題中の作文 は題が《第二次試験≫から《陳伊玲の故事》へと改題されたものだと教えてく れたので、私は大いに驚き奇異に感じた。

数日後のある夜おそく、省都へ行き採点に参加した数名の教師が突然訪ねて 来て、採点に関連して私に若干の質問をした。それから間もなくして、関係機 関が国語を採点した500名あまりの教師と会見させることを約束し、同時に答 案の書き込みのない国語の試験問題を一部、記念として送ってくれた。採点が 終った段階で、最高点をとった答案を二三部送り届けてくれ、受験生たちの成 績を知る機会を私に与えてくれた。それで私はやっと分かった。すべてのこれ ら書き改められた故事、全国で今年多くの受験生が取組んだこの試験の故事は、

実に私と切り離すことができないものであったのだ。

それはまるで童話の中の秋の樹や、冬迫る頃の木がある麗らかな春の朝に、

若い縁の葉を枝に突然つけたようであった。茂り合い、重なり合い、いきい きと躍っている生命は全く夜明けの露のように新鮮であった。一陣の春風が吹 き去る頃には、小さな木は古い物語りを話す自分のことばを学びっ、あった。

そうだ、大多数の受験生について言えば、この故事は彼らが生まれる前、と っくに存在していたのである。私の二十三年前の旧作であった。まるまる人一 代の時間を隔て、四分の一世紀に近い後になって、今また新らしい青年一代の 入学試験の題目とされて、この過去の物語りに新らしい生命が注入され新らし い意義が付与されたわけだが、このこと自体は人々を深く考えさせるに値する のである。

一個人の一生は必ず幾度かのいろいろな試験を経過しなければならないのだ。

学生は国家の選択に直面して、先ずこの国語の入試に提示された問題に答えね ばならない。正に文中に書き及んだように、この第二次試験は智憲と精神力の 試験であり、生活と仕事の態度について一つの試験であり、 "紅"と"専"の関係 を正確に処理する一つの厳格な試験でもあった。

生活の中では、試験問題がしばしば意外なものであるのだ。

二十三年前のある小さな事から述べる。

もしも、過ぎ去った生活の影の集まりの中で、多くの映像が変色して暖味模 糊としていたり、真相のつかめないぼんやりした斑点を僅かに留めているとし

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何為覚え書I 53

ても、それなりに生活の残影であり、記憶の深層では色が槌せるはずはないの である。

最もはっきりしている記憶の一つはある小さな事である。

1956年の夏の盛りに強い台風が上海を襲った。暴風雨がやっと過ぎ去ると、

繁華街は勿論のこと、市の周辺まで、ビルの下の低い路面は水浸しで泥沼にな った。その頃、合唱団が声楽のメンバーを公開試験で募集したが、応募者の中 に二十歳の若い娘が一人いて、成績抜群であった。ところが、思いも寄らず災 害救助の徹夜で、彼女は眠っていなかったので、その喉がやられることが目に 見えていた。翌日が生憎、二次試験の日であった。彼女は自分のつぶれた声に、

"駄目だわ。"と思ったが、上海の東部、楊樹浦の被災地区から市街を横切って、

西部にある試験場へ駈けつけ、彼女の前途を決定するもう一つの試験に臨んだ のであった。

この偶然、耳にした生活の中の小さな話とはかくも簡単なものであった。

五十年代の初期と中期にあっては、世の中に新しい人物や新しい事件が次々 に出現する中で、そのような話はごくありふれたことであった。何故か分から ぬが、この小さな生活の楽曲の中に、私は美しい音符を聴きとり、別に完全で はないが、それでも人々を感動させる音楽の美しさを耳にしたのである。

最初、私は食卓で家族の一人が何気なく話題にしたのを偶然、耳にしたので あった。彼女自身もその年にむずかしい声楽の試験を二度受けたことがあった。

興奮させる試験場やその緊張した雰囲気について彼女は語り、多くの声楽の大 家や音楽学校の教授たちが試験の時にはミスを厳密にチェックする様子につい ても語った。私は全国最大の都市に二三十年間、生活の足跡を留めたことがあ る。異なった歴史の時期に挙行された音楽会に参加したことがあるので、私は 音楽関係者の生活や人物や舞台の様子など多少は理解している。だからその二 次試験に話題が及んだ時には、その様子が眼前にありありと見えるようであっ た。

私が気になったのは、その音楽学生は結局、合格したか否かということであ った。その後の回答は簡単である。彼女はついに合格していたのだ。

しかし、私は合唱巨酎こ合格したその音楽学生にそれまで会ったこともなかっ た。彼女のモデルは"偶然、逢って、すぐに別れた人"であった。私の生活の 中に"すみれ色"のストーリーを記した一人の人であった。彼女は秋空に輝く 一本の花を私に持って来てくれたことがあった。私は感情をこめたタッチで、

そして青春の若々しい色調で陳伊玲の画像を描いたが、彼女の肖像画もその中

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に含まれていたのだ。実は医学校の若い実習女医の真実の姿がその中に含まれ ていたのだ。

それにしても、私に筆を動かしてこの作品を書くよう促したのはやはり強い 台風の中で起こったあの小さな出来事であった。最初の音符から次第にあるリ ズムが形づくられ、最後の譜は生活の讃歌となった。その中で、最も重要な点 はその音楽学生の崇高な精神と心霊の美しさとである。まるで、花火の閃光が パッと散って、深く隠れていた私の思想と感情とをさっと明るく照らし出した ようであった。

私はこの音楽学生とその物語りとを一人一人の人に知らせようと思った。そ れで私は腰を下ろして書いたのだ。上海の西区の小楼の秋の窓辺で、いつも苦 労し、ゆっくりと書いていた習慣に反して、三千字余りの散文を一気吋戊に書

きあげたのである。

書写と添削の一例

さて、ある原稿を書き終えたとする。それは急いで輪郭を画いた見取図であ る。芸術的魅力があるわけでもなく、文学作品に多かるべき思想的内容も映乏 していて、その量を充たしているのは僅かに生活の原野からつみ取ったそのま まの姿をした小花に過ぎない。.書き終ると勝手に抽斗の中に入れ、感情を思い 切り述べ終ったかのような気分になって、内心いくらか落着くのである。

或日、 "人民日報''の文芸部から約束の原稿をしきりに催促する手紙を受取っ た。その終りに新聞の副刊は貞数に限りがあるので、二千字を超えないのがよ いと特に記してあった。そこで、私は抽斗からその原稿を捜し出して、どのよ うに改作したらよいのかと考えた。三千字余りから二千字以内に改めるのは単 純に削っても、うまくはいかない。唯一の方法は、もとの枠を取り払って、別 に"かまど"を作って、構想を新たにし、どうしたらよりよく削減できるかを マスターすることである。

声楽の大家蘇林教授は虚構の人物であった。

しかし、頼りになるそのような知人が私の生活の中にはいないというのでは

ない。私には多年、ある考えがあった。韓食が言った"世に伯楽ありて、然る

後に千里の馬あり.千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず'という考

えである。伯楽と千里の馬は相互依存の関係にある。伯楽がいても、千里の馬

がいく目すればならないし、その逆もまた然りである。私は今の伯楽は何処にい

るのだとよく慨嘆したものだ。蘇林教授は私の理想の人物であり、人材発見を

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何石貨えr'f ll 55

自分の任務としている一一人の専門家として注意深く創りあげたのだ。作者に思 うところがあったからである。

だが、人物の主従の関係について言えば、生活から創作に至るまで、陳伊玲 が作品の主要人物であり、私は専ら彼女と彼女を発見した人物とを同時に讃え た。謙譲は一つの美徳である。ある人が良い事をしたら、他人に語らせるのが やはり一番よい。他の人々に棟伊玲の試験の"諺"を解かせる方が、彼女自身 のLは)、らはっきり言うよりも、いっそう可愛いいし、尊敬もできるのである。

なぜならば、第三者の眼光を通して、社会主義の土壌の上に輝く精神の花が眼 を奪う光亡をいかにして放つのかを知らせるように、作品の中に配慮がされて いるからである。蘇林教授のすべての行動と彼が起こす作用とはいずれも陳伊 玲を表現するために有意義である。それから先は誰が主となって論争するのか、

それは私の考え及ぶところではない。

"人民日報"の副刊が提供できる頁数には限りがあるというこのことが、芸 術的処理を探求せざるを得ないように作者にそうさせたのである。異なった角 痩(一・人と数人の注視)を選び、異なった場面を配置転換させ、 (試験場の全音乃至は 受腺票の写真の顔の部分の"特写"),変化した色調と光り(きびしい試験場と無残な被災 地区)とを動員して、焦点を陳伊玲の身の上に集中させ彼女を浮き出させ、誇張 し、浮彫りにして描写した。読者が読んだ瞬間、比較的鮮明な印象を持つよう にしたのである。

文章の改作を終って、字数を数えてみると、二千字を超えていなかった。こ の小文について言えば、私はやはり"人民日報"文芸部の編輯者が手紙で出さ れた要求に対して非常に感激している。もしあの原稿催促の手紙がなかったら、

三千字の書き下しの初稿は単なる素材の記録に止まっていたであろうし、世間 の人の眼に触れても、必ずやすぐに消え失せていたであろう。

烈しい北風の中の小さな花や草

《第二次考試≫は1956年12月26日の"人民日報"第8期の副刊に発表された。

その後、数年間、次々に多くの文学選集に収められ、二三ヶ国語に翻訳され、

映画や放送劇に改編され、同時に語文教材に編入された。この外にも各種の"版 本"が多く出現したが、作者には大半は知るすべが無いのである。

遅咲きの小さな花や稚く若々しい小さな草にしても、それらが恐る恐る生ま れ出て、周囲の天にも届く大樹と地上一面に咲いた花とをそっと見廻わして、

生命の喜悦を感じ,属噂に自分のあまりにも小さいのを恥ずかしく思う。幸い

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にも大地は公平無私である。風和ぎ日麗らかな春の日和の中で、小花と小さな 革とは自分たちの生きる権利をそれぞれ持っている。陽光が普ねく照らす下で、

万物はみな喜び栄え、それぞれが生存の規律に応じて向上生長していくのだ。

しかし、何時頃からか、鉛色の重苦しい暗雲が晴れ渡った空を次第に遮蔽し ていった。"左"の方から激しい逆風が次々に吹いて来たので、幾本かの大樹が 先ず震え声を出し、目を奪わんばかりに美しい多くの名花が、みな濃い陰影の 中に閉ぢこめられてしまった。空には予測できないある種の前兆が出現した。

小さな花も小さな草も芽をちぢこませたのである。

以上述べたのは美しい童話でもなければ、深い意味を持った寓話でもない。

50年代後期の厳しくて残酷な現実なのだ。

《第二次考試≫が1958年に全国の中学語文のテキストに選ばれたのはどのよ うな選択によっているのか私は知らない。要するに、その後、教育界に激しい 論争を引起こしたのである。長い大論文、千万の語は作品自体の字数を遥かに 超えた。一つの文芸作品への異なる見方は元来、正常な現象である。多くの善 意による評論や分析は作者の頭を醒まさせ得るだけでなく、自分の作品の成功 失敗、得失を考える助けとなり、その褒月乏は必ず、Lも気にはならない。

教育界の論争は58年と59年のある語文出版物の上に出ている。一つの意見は この文章が語文教科書に選び入れられたことをよしとする考えである。他の一 つの意見は全く反対の立場であって、語文教材としての資格を断固取消すべL

というのである。拡がる厳しい非難の声の中で、この小文をめぐって、文段毎 に、文章毎にそして字毎に審査をした論者が何名かいた。そして四つの罪状を 意地悪くつくり出したのである。 "事実を歪曲している"、 "党の政策を軽視し ている"、 "集団の力を否定している"、 "個人の力を誇大視している"というの だ。

最も典型的なものとしては、統計上の数字による簡略化の方法であった。描 写人物の字数の多寡によって推論し、断固として"蘇林が主要人物である"と 宣言なさったのである。この主観的唯心的な臆断の下では、作品中に登場した 社会主義時代のこの"伯楽"は忽ちにして"資産階級のインテリ"だという帽 子をかぶらせられてしまった。この大家は意外射舌況に直面して、人材を埋没 させるのを心配し、試験委員会の結論が出る前の重要な時期に、そっと受験生 の家庭を訪問し、遂に問題の正しい答案を捜し出したし、また得難い人材を得 たことを深く喜んだのだが、その矢先に"資産階級の大家が学校運営をすべき だと言いふらしている"、 "音楽学校に於ける党の指導を取消すべく企図してい

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何為覚え書Ⅲ 57

る"という二つの大きな帽子をかぶらせられたのであった。文中に天才という 二字を用いていたので、 "天才宣揚論"だと目された。若い女子学生の青春時代 の容貌や色鮮やかな服装のことを書いたので、 "働く人民の形象ではない"とき めつけられた。強い台風の襲来後の様子を書いてはいけないのだ。書いたのは 社会主義生活の真実を歪曲するものだったのである。 "作品の芸術性は当然、比 較的高度なものと認められる"と一言、無理して発言はしているが、舌先も乾 かぬうちに威張った口調で判決を言い渡したのだ。"しかし、少なくとも毒液が 充満している"と言ったものだ。このようにあれこれと言い、その"左"ぶりも 全くおかしくもあり、可衷そうでもあり、恐るべきものでもあった。

私は大変驚き不思議に思った。二千字にも足りない小文がなぜ逆にあのよう な帽子をかぶらされ、あん射こ多くの梶棒で殴られたのかと。今、思い出して みると、長い間、持続した極左路線の寒い流れのもとでは、狂風が吹きまくり、

大樹がたくさん根こそぎ引き抜かれ、ひらひらと散った多くの落花が泥にまみ れたのである。まして、土中から顔を出したばかりの小花や小さな草はなおさ らのことだ。

《第二次考試≫は烈しい北風の中で、まだ落ちてはいないのだ。

なぜなら、それから間もなくして、羅議同志が多分、出版物への約束に応え てであろう、しめくくりの文章を書き、公平な言い方をした。つまりあのいく つかの飛んで来た帽子は全く寸法が合っていなかったので返えされた。 ‑場の 風波はおさまったと考えると。一昨年、上海の作家協会で羅諒同志と会い、久

しぶりであったが、話題がまた昔のあの論争に及んだ。彼は笑って言った。 "あ の時、君が書いたのは別に間違ってはいませんでした。今日のように乱を治め、

正しきにかえすというような大袈裟なものではなかったですしね。"

"梶棒"の下で幸いにも‑篇の小文が生き残り、この七月の暑い日に、つい に多くの青年と試験場で相見えたとは、思いを凝らせば、なんだか隔世の感が するのである。

深い感謝の気持を述べる

これまで、私は作品自体に語らせ、実際の試練を受ける方が作者自身が自分 の作品について語るよりも遥かに有益だと考えて来た。従って、 《第二次考試≫

が発表されてからは、私は長い間、耳を傾けかつ考え、これについては一言も

言ったことがない。昔も今も熱心な読者から手紙を戴いたが、一々は返事をし

ていない。主として上に述べた理由からであって、ここに謹んで手紙をお寄せ

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になったすべての読者へお詫び致したい。

ところが最近、二通の読者からの手紙を受取って、又、私の胸は騒いだ。そ の‑通は知らない上海の読者からので、手紙の中には自分が'封交の紬こ《策二 次考試≫を教材に選んだので、文化大革命が始まると"大字報"に貼り出され て罪名も軽いものではなかったと書いてあった。手紙を書いた人は多分、女の 教員であるが、あの数年間の彼女の境遇は推して知るべきである。"文責は自ら が負う"べきであるのに、罪も無い女教師をどうして巻き込むのだろうか。そ のような例はきっとまだあるのだ。

もう‑通の手紙は一つの問題点を提起していた。 "それは四人組が文芸作品を 抹殺した罪であるはずなのに、ある国語教師はこの作品の時代背景さえ間違え てしまったのです。"と書いてあった。それが近年の作品だと誤認する読者がな ぜいるのだろうか。二つの手紙はいずれも極左思想の巨大な陰影が中国の大地

にずっと何年問かたちこめていたことを実際に明らかにしている。今や長かっ た酷寒の日が過ぎ去り早春の空、繁りと厳しさを帯びた一片の暗雲が偶然、掠 めても、結局は春が大地にめぐり来るのを遮ることはできないのだ.!

《第二次考試≫の苦難の歴程を回顧する文章は終りにし射すればならなくな った。私にとって言えば、これも一つの厳しい試験の経歴である。この機会を 借りて、小さな花や小さな草を植えてくれた年老いた庭師たちへ謹んで敬意を 表したい。

一九七八年八月 何為は1978年12月、江蘇師範学院で"散文と私"と題して講演をしたことが ある。その中から〈第二次考試)に言及した部分の一部を抜き出して更に参考 に供したい。

〈第二次考試》は1956年秋に書いて、同年の十二月六日の〈人民日報》の副 刊に発表されました。当時、私は上海の映画製作所に働いていました。この散 文は読者の注意を引きまして、外国語に翻訳されたり、国語の教科書に入れら れたり、いろいろな本にも載せられました。その後、書き改められて映画や放 送劇にもなりましたが、それがまた論争の種となりまして、あやふく"白い旗"

(ブルジョワ思想のたとえ)だときめつけられそうになりました。まさかそんなこと になろうとは考えてもいませんでした。

三十年代、四十年代と五十年代には私は上海で読書し、生活しそして仕事を

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何為覚え書Ⅱ 59

していました。解放前には"十里洋場" (外人と無頼の悪の撃咲く街。)と言われたこ の上海に、私は多くの足跡を残こしました。私は全国第一のこの大都市をよく 知っています1956年に上海合唱団が団員を募集したことがありましたが、私 の家族の一人も応募して合格しました。それで、試験の経過情況が私は分かり

ました。二三ヶ月後に、ある女子団貞が楊樹浦の火災救援の活動で、喉をやら れてしまいました。試験の成績も危ぶまれていたのでしたが、しまいには合格

したのだということを耳にしました。私は感動しました。当時、私は病気で入 院がちでしたが、医学院のある実習医師と知り合って、朝晩よく顔を合わせて

いました。この若い女医さんはすらりとしていて、立てば弓薬という風でした。

うすいグリーンのジャケツと茶色のズボンを愛用していました。全身これ青春 という感じで、まるで、春の朝に陽光を浴びている緑の木のようでした。これ が私が生活の中からつみ取った素材です。約、二昼夜をかけて、三千字の散文 を書きました。書き終って抽斗の中にしまいこみ、頭を冷してから、時々、取 出して看てみましたが、どうも理想には程遠い出来だと感じました。

以上の講演は「作家談創作」 (花城出版社1981)の下冊、 880頁881頁に収め られている。

1983年9月27日干樟東書屋記

(昭和58年9月29日受理)

参照

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