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中川喜雲覚書

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Academic year: 2021

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(1)ゴr) (ゴ. 23イ. 喜   壬〓   覚 書. ∧ は  じ   め  に ∨. ,││. 生 的 に私 見 を 記 す のみ。覚書 と 題 す る所 以 であ る。. 世 界 を 崩 す よう な私 見を 持 って いるわ け では な いが 、少 し付 け加 え る べき と ころも あ るかと 思 う ので、 こ こ では断 片. 後 の二論 は卓 越 し ており 、中 川 喜 雲 に つい ては言 い尽 さ れ て いる感 がす る。 新 資 料 も なく 、 松 田氏 の描 く中 川 喜雲 の. 川 喜 雲 の文 壇 進 出 と 貞 徳夢 想 百 韻 出 版 の事 情 ﹂ ﹁貞門俳諧自註百韻︱翻刻と研究︱﹄所収︶を 挙 げ る こと が でき る。 特 に. 、 大観﹄第 一巻所収︶、 松 田修 氏 ﹁ 中 川 喜雲 ・あ る名 所 記 作 家 の場 合﹂﹁日本近世文学 の成立﹄所収︶ 近世初期 文 芸 研 究会 ﹁ 中. 喜 雲 に関 す る主 た る論 考 は水 谷 不倒 氏 ﹁ 中 川 喜雲 ﹂ ︵新撰列伝体小説史前編し 、 鈴木 行 三氏 ﹁ 中 川 喜雲 ﹂ ﹁棚紬近世作家. 存 在 と ま では いえ な くとも 、 こ の時期 の重 要 な作 家 であ る こと は疑 いな い。. い って スト レー ト に喜雲 を持 ち 上 げ るわ け では な いが 、 近世 初 期 の作 家 の第 一人者 と 目 さ れ る浅井 了意 と 肩 を 並 べる. 明 治 以後 す べて活 字 化 され てお り 、更 に近 年 になり す べて複 製 刊行 さ れ て いる。 勿 論 、 こ のよう な現象 があ る から と. 中 川 喜 雲 は いう ま でも なく 、 ﹃ 京 童﹄ など の名 所 記 で著名 な近 世初 期 の作 家 であ る。 板 本 にな った 喜雲 の著 作 は 、. 中.

(2) ゴ2)233 (ゴ. 市 古 夏 生. ∧ 没 年 及 び 家 系 に つい て∨. 明治二十四年刊︶ に、 中 川喜雲 が北村季吟 松 田修氏 によれば 、角 田竹冷閲、牧野望東 ・星野麦 人共著 ﹃俳諧年表﹄︵ 、 、 、 門 で宝永 二年十月 二 日、享年七十、 で没したと いう記事 が載せられ 以後 の喜雲 に関し て触れる書 は この没年 享. 、 ぎ 年を 踏襲し て、通説と化したと のこと である。と ころがそ の根拠が不明 なことと 通説 では 二十 四歳 に過 な い万治.  コ日予弱冠 のころ、愚父とさが にまかりし事有﹂ と 二十歳頃 の出来事を懐古的 に表 現し て 二年刊 の ﹃私可多咄﹄ に、. 老 の身﹂など の語を詳細 に吟味 し て、 壮年﹂ ﹁ 若冠﹂ ﹁ いる こと など に疑間をも たれ、氏 は喜雲 の著作 にあらわれ る ﹁. 、 。 宝永 二年、七十歳 没﹂より割り出し た喜雲 の年令と は餌嬬をきたすと いう結論を出した そ の結果 従来生年を寛 ﹁ 、 。 永十 三年とし ていた のを十年程繰り上げ、寛永 三年頃とす るが適当とされた この見解 は そ の後岡雅彦氏 の賛 同が 、 ︶ 。 あ吋 現在 では松 田氏説が通説と な っているよう に思う 私もまた この説 に賛意を示すも のであるが 竹冷閲 ﹃俳諧 、 。 俳諧年表﹂ 年表﹄ 以前 にも ﹁宝永 二年十月 二 日七十没﹂ がありはしな いかと調査 してみた すると  大野洒竹編 ﹁ 、 っ ︵ 俳諧文庫 ﹃芭蕉以前俳諧集上巻﹄ 所収 、 明治三十年刊︶にも季吟門とし て同様 の記事 が見出せるし 更 に遡 て三浦若 都立中央図書館東京誌料蔵︶に 俳諧 人物便覧﹄ ︵ 海の ﹃. ム州広島 人 後住京 宝永 二年十月 二 日卒 七十 喜雲  中 川氏 山桜子 季吟門 士. 、 俳諧 人物 便覧﹄ は写本 とし て流布す る のみ で、成立年も不明 であ るが 明治二十年以前 に成立し て いた こ と あ る。 ﹃ 、 と は確か であ る。記事 の体裁が いず れも似 ている ので 若海 の記述 が洒竹や竹冷 の年表 に影響を与えた ことと思われ. 、 る。 喜雲 の俳諧 の師を季吟とす る のは、 この書 以前 には見られなか った説 であり かたがた洒竹などが ﹃俳諧 人物便 、 覧﹄ を利用し ていた ことを暗示し て いるよう であ る。管見 では若海 以前 にかかる記事を載せる文献 は見出 せな いが 。 、 。 勿論若海も何ら か の書 を利用し ていた可能性 はあ る しかし 今 は若海 の説と考え ておく.

(3) 書 喜 雲 覚 中 川. 232(ゴ ゴ3). さ て、 それ では こ の若 海 の記述 はど こに由 来 し て いる の であ ろう か。従 来 の論 に引 かれ て いるも のであ る が、 丈 石 編 ﹃誹 諧 家 譜﹂ に は貞 室 門 と し て. 中 川 氏  士ム州広 嶋 ノ人  後 住 一 京師 一   号二 山桜 子 一   家書 有 一 京 童部   同後 編 一 一   没 年 不 レ詳   非 二 点者 一 一 と あ り 、 春 明 編 ﹃誹 家 大 系 図﹄ にも貞 室 門 と し て. 中 川 氏 通称吉 左 衛 門 名 重 治 動篠薙 髪 シ テ喜雲 卜号 ス  又山 桜 子 と称 ス  室 史 高 弟 ナリ  士 ム州広島 ノ人  一 示師 二住. ス  ︵ 中 略 ︶ 没 年 詳 ナ ラズ案 ズ ル ニ延 宝 中 欺   寛 文 七 年 跡 追 二高 年 ナ ル ヨシ見 エタ リ. と 、 いず れも 没年 は不 詳 な の であ る。 と ころ が ﹃誹 諧 家 譜﹄ を 具 さ に見 て いく と 、 や はり 貞 室 門 で喜雲 の隣 にあ る乾. 貞 恕 の項 に ﹁宝 永 二年 乙酉 十 月 三 日没 寿 七 十 ﹂ と の記 述 を 見 出 す 。 三浦 若 海 が 記 す と ころ の、 そし て当面 問 題 にし て. いる 喜 雲 の没 年 月 日、 享 年 と全 く 一致 し て いる では な いか。 これ は何 とも 不 思 議 と ﹃誹 家 大 系 図﹄ の貞 恕 の項 を 見 る と. ︵ 前 略 ︶ 元禄 十 五年 壬午 二月 四 日没行 年 七 十 歳   上 鳥 羽邑実 相 寺 墓 アリ  家 譜 二宝永 二年 乙酉 十 月 二 日没 行 年 七 十歳 ︵ 中 略 ︶ 此 説 甚 イブ カ シ. と 、 ﹁大 系 図﹂ は ﹁ 家 譜 ﹂ の記 事 を不 審 に思 って いる。 寺 田貞 次 編 ﹃ 京 都 名 家 墳 墓 録﹂ にも 貞 恕 の墓碑右 側 に ﹁元禄. 十 五年 壬午 二月 四 日﹂ と 刻 す ると の報 告 が あ る の で、 ﹁ 大 系 図﹂ の方 が正 し いと いえ る。 と す ると、 ﹁ 家 譜 ﹂ の ﹁宝 永. 二年 云 云﹂ な る記 事 は 、 た だ の誤り な のか 、 或 いは本 来 中 川 喜雲 のも のを 間違 え て貞 恕 の項 に記 し てしま った のか 、. こ のど ち ら か だ と 思 わ れ るの 中 川喜雲 の没 年 を 記 し た文 献 が ﹁ 家 譜﹂ 以前 にあ る こと を 聞 か な いし 、 ﹁ 大 系 図﹂ でも. 不 詳 と し て いる の で、前 者 即 ち 、﹁ 家 譜 ﹂ の編者 丈石 の単 純 な ミ スであ ったと 考 え て い いよう に思 う 。. 以 上 の こと か ら 、 ﹁ 宝 永 二年 十 月 二 日七 十 歳﹂ な る喜雲 没年 説 は、丈石 が貞 恕 の項 で犯 し た ミ スの上 に、 更 に 三浦. 若海 が ﹁ 家 譜 ﹂ の貞 恕 の項 と 喜雲 の項 を見 誤 って ﹃俳 諧 人物 便 覧﹄ に記 載 し た こと に由来 し て いると 推 測す る。 そ れ.

(4) ゴイ)23ゴ. 故 、 現時 点 では喜雲 の没 年 、 享 年 は不 明 と す る のが妥 当 と いえ よ う 。. 大 系 図﹂ に喜 雲 の没 年 を ﹁延 宝 中 欺 ﹂ と す るが、  恐 ら く そ の通り では な か ったか。 後 述 のよ う に、寛 文 十 なお、 ﹁. 一年 の歳 旦 二 つ物 を 貞 室 、 了味 と 組 ん で いる のが 、 喜雲 の足 跡 の最 後 であり 、 以 後 の、西鶴 編 ﹃古今 誹 諧 師手 鑑宍 延. 宝 四年 刊 ︶な ど の撰 集 に入集 し て いる句 の製 作 年 代 が明 確 で は な い ので、喜雲 生 存 の決 め手 と は なり 得 な い。 喜雲 と い. う 人物 、 松 田氏御 指 摘 の如 く 、名 所 記 や咄 本 の範 囲 を 逸 脱 し て異 常 と 思 われ る程 自 己 の感 慨 に筆 を費 す こと度 々であ. り 、生 き て いる限 り 筆 を 絶 つと は考 え難 い。 し かも 喜雲 は懇 意 な出 版書 卑を 少 な く とも 二軒 ︱︱ 秋 田屋 平左 衛 門 ﹁私. ﹃ 京 童﹄ 及 び ﹃跡追﹄ の板 元 ︶︱︱ は持 って いた し 、 ジ ャー ナリ 可多 咄 ﹄ 及 び ﹃案 内 者 ﹄ の板 元︶、 八文 字 屋 五兵 衛 ︵. ステ ィ ック な才 能 も 持 ち合 せ て いた。 か か る点 か ら 、生 存 し て いさ えす れば 、新 た に何 ら か の書 を 出 版 し て いた はず. 大 系 図﹂ など に広 島 出身 と す る のは後 年 の広 島 への田合 わ たら いを 家 譜 ﹂、 ﹁ 喜 雲 は 丹 波 国 桑 田郡 馬 路 村 の出身 、 ﹁. と 考 え ても 無 理 は な か ろ う 。 そ こで延 宝 年 中 没 と いう 説 に私 は 傾斜 し ている。. 家 譜 ﹂以下 に踏 襲 す る山 桜 子 な る別 号 の有無 は判 然 誤 ったも の。 名 は重 治 、 通 称 吉 左 衛 門 、 喜 雲 は そ の号 であ る。 ﹁. ハ月 廿 六 日  同 仁 右 衛 門 夏 山 宗 雲 信 士   ︹妙 ︺  エ. 秋 月 清 心信 女   ︹妙 ︺  七 月 五 日  中 川 仁 右 衛 門 ツ マ. な い︶ の寛 文 五年 の条 に. 原簿焼失 のため明治以後の写本しか 定 に関 す る こと は窺 え な い。 重 定 の生 没 年 も 未 詳 であ る が 、 馬 路 村 長 林寺 の過去 帳 ︵. 。 し か し 遠 州 の側 か ら 、例 えば 遠 州 の主 催 し た茶 会 の記 録 など から は、重 ﹁ 私可多咄﹄巻 三︶ いる よ う な 人物 であ った ︵. 室編 ﹁玉海集し と い い、 松 永 貞 徳 に つき 俳 諧 の点 を 受 け て いた 。 ま た茶 人と し ても 著名 であ った小 堀 遠 州と面 談 し て. ﹁ 一 昼 里﹂序︶。父 は中 川 仁 右 衛 門 重 定 翁私可多咄﹄巻二、 貞  い つの頃 か 医学 を修 業 す る べく京 都 に出 て来 た ︵ と し な い。. 古 夏 生. (ゴ. 市.

(5) 書 喜 雲 覚 中 川. と あ る。 ︹妙 ︺ と は妙 雲 庵 の略 号 で、 現存 し な い。  これ が重 定 の こと な のか 決 定 し 難 いが 、 参 考 のた め に記 し てお. く 。重 定 は牢 人 し て貧 困 であ った よう だ が 、 何 を 生 業 と し て いた か は定 か でな い。 恐 ら く家 名 を 揚 げ る た め、牢 人 が. 世 に満 ち て仕 官 の困 難 な時 代 でも 、比 較 的 仕 官 の途 が開 か れ て いた医者 に仕 立 てる べく 、息 喜雲 を 伴 い上京 し 、 医学. を 修 め さ せ た の であ ろ う 。 医 学 の師は徳 昌 庵法 眼慶 雲 と いう ︵ ﹃ 私可多咄﹄巻一じ。松 田氏 は水 野 慶 雲 の こと かと さ れ る. が 、水 野 慶 雲 は伊 藤 仁 斎 のと ころ に出 入り し て いる儒 医 で、﹃ 貞享 二年刊︶に外 科 と し て登録 され て いる。 京 羽 二重﹄ ︵. 少 し時 代 が 下 り す ぎ る よ う に思 う 。近 衛尚 嗣 の 日記 ﹃尚 嗣 公 記﹄ 寛永 二十 一年 十 一月 二十 二 日 の条 に 今 日昼 茶 湯 、法 印 道 作 法 眼慶 雲法 橋 歴 庵道 乙等 也. と あ る。 や はり 儒 医 であ った法 印 山脇道作 や 儒 者 三宅 道 乙など と 一緒 に近 衛 尚 嗣 の主 催 し た茶 会 に招 かれ た法 眼慶 雲. こそ中 川 喜 雲 の師 では な か った か 。法 眼位 を 所 持 し て い て時 代 的 にも び ったり し てお り 、 堂 上 の名 家 近 衛 家 に出 入 り. し て いる な ど 如 何 にも 喜雲 の師 に相応 し い。後 に俳 号 と し て使 わ れ る喜雲 な る号 も 、 慶 雲 より 命名 され た医者 と し て のも のな の であ ろう 。. さ て、 家 名 を揚 げ る た めと 先 に述 べたが 、 昼量 巻六、  喜 雲 の述 懐 によれ ば彼 の先 祖 は嵐 山 城 主 であ ったと いう ︵一. ﹁私可多咄﹄巻一じ。 嵐 山 城 に つい ては ﹃二水 記﹄、 ﹃細 川 大 心 院 記﹄、 ﹃ 香 西 記﹄ な ど諸 書 に記 さ れ て いるが、 いま 黒 川道 ] 貞一 子元年刊︶ に載せられ て い る記事 の意 を つま む と 、 祐 の ﹃雅 州 府 志﹄ ︵. 永 正 四年 六 月 に細 川 政 元 の家 臣香西 又 六 が 政 元を 殺 し 、 それま で養子細 川 澄 元 を 嗣 と し て いた のを廃 し て、勝 手. に九 条 関 白 尚 経 の子 を 嗣 と し て細 川澄 之 と 号 さ せ た。 そ こ で戦 乱 と なり 、 香 西 は 嵐 山 に城 を構 え た が 三好 長 輝 に. と いう の であ る。 これ 以後 嵐 山 に城を構 え た者 を 文 献 に見 出 せ な い ので、 喜雲 の言 が事 実 と す れば 、 この香西 又 六 が. 殺 さ れ 、 澄 之 も 自 害 す る と ころと な った。. (ゴ. 鈴木行三氏 ﹁ そ の祖 先 と な るわ け であ る。 早 く柳亭種 彦 が 喜 雲 の祖 を ﹁香 西 又 六郎 元親 ﹂ と し て いる ︵ 械紬近世作家大観﹂. ゴ5). 23θ.

(6) (Iゴ δ. )229 古 夏 生 市.  中 川家 の 第 一巻所引 の コ昼邑 柳亭書き入れ︶が、   松 田修 氏 は ﹁香 西 氏 は ︵ 中 略 ︶ 丹波 とも 馬 路 村 と も 関 係 は な﹂ く 、 家 系 伝 説 かも し れ な いと書 か れ て いる。.  領 地 は讃 岐 国 に のみ あ ったわけ では な か った。 ﹃香 西 記﹄ の ﹁ 讃 州藤 家 香 香 西 氏 は讃 岐 国 の豪 族 の雄 であ った が、 西 氏 略 系 譜 ﹂ に、 。 後 略︶ 丹波 一 加二 在京 ︵ 賜食 邑 一 元直   備 前 守 、本 領 讃 州 綾 北 条 郡。於 二. 、而於 嵐 山 城 一 、 本 領讃 州 北 条 郡 、 輔 二 戦 死、 断 絶焉 。 佐於 細 川 澄 之 一 元継   又 六 、後 号 二 備中 守 一 二. と 記 さ れ て いる。 元直 は 又 六 の父 であ るが 、本 領 の他 に丹 波 を 食 邑 地 と し て与 え ら れ 、 し かも 在 京 し て いた のであ っ. た。 又 六 の項 には食 邑 地 の有 無 が 記 さ れ て いな いが、 又 六 も 同 様 に細 川家 の在京 の重 臣 であ り 、 引 続 いて食 邑地 を 賜. って いた の で は な か った か 。 こ の食 邑 の中 に馬 路 村 が 入 って いた かも しれな いc 事 の当 否 はと も か く と し て、少 なく. と も 丹 波 と 香 西 氏 は無 関 係 では な い。 戦 い に敗 れ た 又六 の 一族 が 氏 を 中 川と変 え 、片 田舎 の馬 路 に土着 す るよう にな った こと は十 分 考 え ら れ る こと であ る。. 喜雲 が自 己 を 嵐 山 城 主 の末 葉 であ ると常 に意 識 し て い て、 そ の祖 先 の華 やか さ に比 較 し て彼 自 身 の境 遇 が経済 的 に. 苦 し く 、 し か も 社 会 的 地 位 を 何 も 有 し て いな い牢 人 と いう 身 分 であ った ことを 考 え合 せ てみ ると 、祖 先 が嵐山城 主 と.  喜 雲 の文 学 活 動 及 び そ の精 神 構 造 を 考 え る場 合 に重 要 な意味を持 つこと 、 松 田氏 の御 指 摘 の通り であ いう こと が 、. る 。 医者 を 志 し た が そ の故 に仕 官 でき たと いう 形 跡 も な く 、法 印 法 眼 はおろか法 橋 にす ら な った痕 跡 も なく、従 って. 医学 で名 誉 の者 と なり 得 な か った 喜雲 が、 明 暦 四年 以後 四、 五年 の間 に四作 を 集 中 的 に執 筆 刊 行 す ると い った離 れ技. を なし と げ た のは、 医 学 方 面 で功 を なす こと を あ き ら め た故 の所 産 と も考えら れ る。 そし て、作 品中 に楼 々述 べると. ころ の懐 旧 的 か つ自 嘲 気 味 の感 慨 は、 この祖 先 と 自 己 の零 落 し た 境 遇 に主たる原 因 が あ った と 思 わ れ る のであ る。.

(7) 書 雲 覚 中 川 喜. 228(117). ∧ 俳   諧   に   つ  い  て ∨. 喜雲 の俳 諧 に つい ては ﹃貞 門 俳 諧自 註 百韻 ︱ 翻 刻 と 研 究 ︱﹄ に詳 細 であ り 、付 け加 え る べき こと は ほと んど な い。. 同 書 及び 松 田氏 が言 及 さ れ て いるも のを合 め て、 喜 雲 の俳 諧 関 係 の簡 略 な年 譜 を 左 に記 し てお く。 o寛永 十 九 年 ︵Iハ四一し 慶安四年刊﹃ 昆山集し。 歳 旦発句 あ り ︵ ○ ○正保 三年 ︵エハ四工 。 歳暮 発 句 あ り ︵コ昆山集﹄︶ ○正保 五年 ︵Iハ四八︶ 明暦二年刊 ﹃玉海集﹄、延宝 二年刊 ﹃ 歳 旦 発句 あ り ︵ 歳旦発句集し 。 o慶 安 四年 ︵Iハ五 こ 八月. 良 徳 編 ﹃昆 山 集﹄ 刊 。 京 住 と し て中 川吉 左 衛 門 重 治 など の名 で十 一句 入集 。 他 に ﹁ 重 治 ﹂ と し て 三句 あ るが、. ﹁黒 瀬 重 治 ﹂ も あ る の で、 ど ちら のか未 詳 。 ﹁ 大 系 図﹂ に ﹁ 重 徳 ﹂ も 喜雲 の名 と す る が、 ﹁ 中 川吉 左 衛 門 重 徳﹂ で. 八句 入集 。 通 称 ま で同 じ く す るか ら 喜雲 の こと か と も 思 わ れ る が、 同 じ撰集 で同 一人物 に 二種 の名 を使 う のも お かし い の で、 別 人と考 え る べき であ ろう 。 こ o承 応 二年 ︵Iハ五一 歳 旦 発 句 あ り ﹁歳旦発句集し 。 ○ o明 暦 二年 ︵Iハ五工. 歳 旦 二 つ物 を 喜雲 の号 で重 頼 ・宗 恵 ・安 重 と 組 む ︵ ﹁ 知足書留歳旦帖﹂、発句は ﹁ 歳旦発句集﹂にあり︶。.

(8) ゴ8)227 (ゴ. 古 夏 生 市. o同 年 二月. 貞門談 令 徳 編 ﹃昆 山 土 塵 集 ﹄ 刊 。中 川 重 治 の名 で発 句 二句 入集 η近世文芸資料と考証﹄三号所収 の榎坂浩尚 o今栄蔵 ﹁ 。 林俳人大観0による︶ o同 年 八月 貞 室 編 ﹃玉 海 集 ﹄ 刊 。中 川 喜 雲 の号 で発 句 六 句 入 集 。 以後 は専 ら 喜 雲 号を使 用 。 o明 暦 三年 ︵Iハ五七︶ ﹃ 知足書留歳旦帖し。 歳 旦 二 つ物 を 恵 佐 ・貞 室 、 元 春 ・貞 室 、寿 硯 ・貞 室 と 組 む ︵ o明 暦 四年 ︵Iハ五八︶七 月 ﹁示童﹄ 六 巻 を 執 筆 刊 行 。 喜 雲 の発 句 八十 六 、 狂 歌 二十 五首 を 収 め る。 o万 治 二年 ︵一六五九︶七 月. ﹃鎌 倉物 語 ﹄ 五 巻 を 執 筆 刊 行 。 喜 雲 の発 句 二十 五 、 狂 歌 六首 、基 春 の発句 九 、重 貞 の発 句 一を それ ぞ れ 収 め る。 o同 年 八月. 卑野田基春︶刊 。 貞 徳 が 喜 雲 に与 え たも のを板 行 し たも の。 ﹃貞 徳 百 韻 独 吟 自 註﹄ 釜口 o同 年 九 月 ﹃私 可多 咄 ﹄ 五 巻 を 執 筆 刊 行 。 喜 雲 の発句 十 二 、 父 重 定 の発 句 二を 収 め る。 o同 年 十 月 梅 盛 編 ﹃拾 子 集 ﹄ に発 句 一句 入 集 。 o万 治 三年 ︵Iハ六〇︶九 月 重 以 編 ﹃百 人 一句 ﹄ に発 句 一句 入集.

(9) 書 雲 覚 中 川 喜. 226(ゴ ゴ9). o同 年 十 二月. 宗 賢 ・信 房 編 ﹃源 氏 煮 鏡﹄ に発句 一句 入集 。 巻 末 の俳 系 図 に重 頼 門 と し て掲 出 さ れ る。 o寛 文 二年 ︵Iハ六一じ 正月 ﹃案 内者 ﹄ 六 巻 を 執 筆 刊 行 。 喜雲 の発句 五十 六 句 、 狂 歌 八首 を 収 め る。 ハ七︶九 月 o寛 文 七 年 ︵Iハエ. ﹃京 童 跡 追﹄ 六 巻 を 執 筆 刊 行 。 喜 雲 の発句 百 十 六 句 、 狂 歌 二十 三首 を 収 め る。 巻 四 に貞 徳 、 立 圃 、 令 徳 、西武 、 貞 室 、重 頼 など 有 名 無 名 俳 人 の句 を 収 め て いる。. 貞 室 編 ﹃玉海 集 追 加﹄ に発 句 五句 、 付 句 七 句 入集 。 ﹁ ﹁ 近世文芸資料と考証﹂七号所収︶ では 貞 門 談 林 俳 人大 観 0﹂︵ 発 句 四と す る が 、 五 の誤 り であ る。 o寛 文 十 一年 ︵Iハ七 こ. 歳 旦 二 つ物 を 貞 室 o了味 と 組 む 。 即ち 、 ﹁ 寒 空 は酒 し てた つる今 朝 の春   貞 室 / よ ひ の年 より さ か る市 町  一 二 口 雲. / つる に つき 金 ほ る山 は 雪 消 て  了味﹂ ﹁ 老 の身 も き ゝは て御 座 れ若 夷   了味 / 鯛 のほ ね さ る節振 舞  貞 室/花. の賀 によ め る こと の 葉 本 腎 取 て  一 二 口 壼至 ﹁ 数 年 田合 に侍 り 旧冬 帰京 し て/ 屠蘇 の台 はか へり都 のと さ ん哉   一 ユ ロ 雲. /無 事 に て花 の春 にあ ふ友 了味 /若 葉 にも 筆 の蝶 /ヽ 舞 つれ て  貞 室﹂ と あ る ︵ 神宮文庫蔵 ﹃寛文十 一年歳旦﹂、 喜 。 雲 の発句は ﹃歳旦発句集﹄にもある︶ o同 年 六 月 重 徳 編 ﹃新 独 吟 集 ﹄ に百 韻 一巻入集 。 o寛 文 十 二年 ︵Iハ七一じ 正 月. 生 白 堂 行 風 編 ﹃後 撰夷 曲 集 ﹄ に狂 歌 三首 入集 。 ﹃案 内 者 ﹄、 ﹃ 鎌 倉 物 語﹄、 ﹃ 京 童 跡 追﹄ 所 載 狂 歌 の再 録 。.

(10) o同 年 六 月. 貞 室 門 と し て喜 雲 を 掲 出 。. 正 辰 編 ﹃続 大 和 順 礼 ﹄ に発 句 九 句 入集 。 ﹃ 京 童 跡 追﹄ 巻 三及 び ﹃源 氏黍 鏡﹄ 所 収句 の再 録 。 o寛 文 末 年 頃. 種 寛編 ﹃ 誹諧作者 之名寄﹄ o延宝 二年 ︵Iハ七四︶五月. て いな い。 喜 雲 の句 も 貞 室点 のも のが 一句 、 残 り 二句 は いづ れとも 判 断 しか ね る。 それ はと も か く と し て、製 作 年 代. 斜 し て い った様 子 が窺 え る。 ﹃新 玉 海 集﹄ には貞 室点 のも のと貞 恕 判 のも のと あ るが、 そ の区 別 は 必ず しも は っき り し. 以 上 の如 き であ る 。 松 永 貞 徳 直 門 では あ る が、令 徳 、重 頼 な ど貞 門 古 参俳 人 にも つき 、 明 暦 三年 前 後 より 貞 室 に傾. 貞 恕 編 ﹃新 玉海 集 ﹄ 刊 か。 所 見 本 巻 一、 巻 二 のみ であ る が、 発 句 三句 入集 。. o貞 享 元年 ︵王ハ八四︶. 風 黒 編 ﹃高 名 集 ﹄ に発 句 一句 入集 。 ﹃古今 誹 諧 師 手 鑑 ﹄ のに同 じ 。 ﹁ 広嶋 中 川 喜雲 ﹂ と あ り 。. o天 和 三年 ︵Iハ八一し 四月. 宗 臣 編 ﹃詞林 金 玉 集 ﹄ に発句 六 句 入集 。 ﹃ 昆 山 集 ﹄、 ﹃玉海 集 ﹄、 ﹃玉 海集 追 加 ﹄ の再 録 。. o延 宝 七 年 ︵Iハ七九︶八 月. 西 鶴 編 ﹃古今 誹 諧 師 手 鑑﹄ に発 句 一句 入集 。 ﹁ 広 嶋 中 川 喜壼こ と あ り 。. o延 宝 四年 ︵一六七六︶十 月. こ の年 、 ﹃ 歳 旦 発 句 集 ﹄ 刊 。 発 句 四句 入集 。. に ﹁南 都 に て﹂ と す る誤 り が あ る。. 蘭 秀 編 ﹃後 撰 犬 筑 波 集﹄ に発 句 二句 入集 。 いず れ も ﹃鎌 倉 物 語﹄ より再 録 。 し か る に金 沢 八景 を 詠 じ た句 の詞書. 刊. )225 (12θ. 古 夏 生 市.

(11) っ の明 確 なも のは寛 文 十 一年 の歳 旦句 が最 後 と いう こと に なり 、 以後 の喜雲 が俳 諧 か ら 遠 ざ か た と いう 印 象 を 受 け. 、 に る。 これ は 田合 わ た ら いし た こと によ って俳 壇 か ら序 々に脱 し て い った こと 更 に貞 室 が寛 文 十 三年 に没 し た ため 。 いよ いよ縁 遠 く な った の であ ろ う し 、 既 述 のよう に延 宝 年 間 に は 喜雲 が 死去 し た こと に よ る の では な か ろう か 。 広 島 な ど への田合 わ た ら いは 、 医 師 と し て、 ま た俳 人 と し てな さ れ たも のと 思 わ れ る そ し て広 島 に定 住 し たわ け 。 け︶ では なく 、京 へ何 回 か往 来 し た 、 或 いは 九 州方 面 へも 舌 耕 のた め に行 って いるよ う であ る ﹃京 童 跡 追﹄ に発句 が 。同 収 め ら れ て いる無 名 俳 人 の中 には、 長 崎 の人 が 二名 い る し 、 ﹃案 内 者 ﹄ に次 の如 き 記 事 があ るか ら に他 なら な い. 。 記事 市 近 辺 にあ り 、肥 前 国 では有 名 な祭 礼 ら し いが、 それ に し ても ﹃案 内者 ﹄ に書 く 程 のも のでは な い いま前 者 の. 、 賀 行 事 に較 べると知 名 度 の点 で大 分 劣 って いる。 ﹃肥前 叢 書 ﹄ 所 収 の ﹃肥前 風土 記﹄ によ ると 両 明 神 と も 現 在 の佐. 、 書 巻 五 の ﹁九月廿 八 日  肥 前 国 余 迦 大 明 神 祭 ﹂ と ﹁九 月 廿 九 日  肥 前 国本 荘 大 明神 ﹂ と の二項 は 他 の大多 数 の年中 書.  一方 余 迦 大 明 神 祭 の方 は 、祭 そ のも のに つい て簡 略 な がらも 的 確 に ん で いる こと か ら 伝 間 であ る こと を示 し て いる。 。 描 写 し ており 、 ど う み ても こ の記事 は 喜雲 が こ の祭 を実 見 し た こと を示 し て いる. と いふ﹂ と 結  そ の記 事 は祭 そ のも のには ほと んど 触 れ て いな く 、 ﹁ ら れ て いる全 国 的 に有 名 な祭 礼 にも か か わ らず 、. に せ と いう 記 事 と較 べると 、 次 のよ う な こと が判 明 す る。 金 比 羅 祭 は寛 永 十 三年 成 立 の ﹃は な ひ草 ﹄ 以 下 の歳時 記 載. 王 権 現 なり 、 此 祭 礼 には大 法 事 のお こな ひあり と い ふ、. 十 月 十 一日、讃 岐 国 金 比 羅祭 ﹂ の か なり 克 明 に記 し て い る。 これを ﹁ 、 山 此 神 は 天竺 国 の霊 神 と し て伝教 大 師 入唐 帰 朝 の時 勧 請 し 給 へり 、本 朝 素 蓋烏 尊 の変 作 と し て 大 比 叡 大 明神 則. を 引 用 し てみ る。 、 、 ぶ を着 城 下 より 八町 のう ち 、 御 こし 一社 鉾 三本 、幡 天蓋 を さ し か く る 大 松 明 あり 役 人 は祢 宜 神 主 み な鳥 か と 、 、 す 、 を よ そ伶 人 の出 たち の如 し、 八 町 のあ ひだ た ゞ管 絃 に て御 こし を ま つる 殊 勝 の神 事 祭 礼 なり. 中 川 喜 雲 覚 2ゴ ) (ゴ. 22イ.

(12) 22)223 (ゴ. 古 夏 生 市. 長 々と 説 明 し てき た が 、 喜 雲 が余 迦 大 明 神 のあ る佐賀 あ たり ま で来 て いた こと は確 か であり 、 長 崎 にも 俳 諧 の弟 子. ら し き 人 が いた こと も 考 え ると 、 田舎 わ た ら い の 一環 と し て肥 前 国 に行き 舌 耕 に つと め て いた の では な か ったか。 寛. 文 十 一年 刊 ﹃新 独 吟 集 ﹄ 所 収 の百 韻 の跛 に ﹁二十 年 あ ま り いな か わ た ら ひし舌 耕 のみを つと め し かば 今 は わ す れ にけ. り ﹂ と 述 べる。 俳諧 を ま ったく 忘 れ た 日 ぶり であ る。 し か し 、 これ は貞徳 門 の高 足達 と俳交 を 結 び 、 盛 ん に修 練 を つ. ん で いた時 期 に較 べる と と い った意 味 あ い であ り 、 こ の 百は そ のま ま 信 用 でき な い。 こ の百 韻 の成 立 年 代 は明示 され. て いな いが、  刊年 と そ う 隔 た ら な い寛 文 十 年 前 後 と 察 せ ら れ る 。 と す ると 、  そ の二十年 前 と は慶 安 年 間 に相 当 す る. が 、 恐 ら く こ の頃 か ら 舌 耕 を 目 的 と し た 田舎 わ たら いを 何 回 と なく し ていた のであ ろう。 そ の 田舎 わ たら いも 広 島 に. 限 定 でき るも のでは な く 、 万 治 二年 以後 にし ても 広島 に定 住 し たと 確 定 し う る資 料 は な い。 そ し て、 九 州方 面 に舌 耕. のた め に出 掛 け た こと も 、 十 分 考 え ら れ る の であ る。 ﹁ 舌 耕 ﹂ に つい て具体 的 な記述 がな いが、  喜 雲 の ﹃新 独 吟集﹄. い  て∨. の言 と は裏 腹 に、 医 師 と し て講 釈 し俳 諧 を も 教 授 し て いた こと と 思 う 。. Ш  に ∧ 作  口. ﹃ 京 童﹄六巻六冊は、山本泰順 の ﹃ 洛 陽名所集﹄ がそ の 一か月後 に刊行 され ては いるが、とも かく近世 の 一連 の名. 所 記 ・地誌類 の嗜矢 であ る。諸本 に ついては近世文学資料 類従 の古板地誌編 ﹃ 京ユ こ の拙解題 を参 照され たいが、 い. ま簡単 に要点 をしるし ておく。初板は八文字 屋五兵衛より 刊行 されたが、 この時 には序文末 に ﹁ 中 川喜雲撰﹂なる文. 字 は刻 され ていなか った。次 に山森六兵衛 が寛文七年九月 以後 い つの時か、 この板木 を取得した。山森は使用可能 な. 板木 は そ のまま用 い、 使 用不可能 なも のは新 たに覆刻し、  更 に序文末 に ﹁ 中川喜雲撰﹂を入れ て ﹃ 京童﹂ を再 刊し た。 この種 の本 に二種 類あ る。次 に山森は、前 に使用した八文字 屋 の板木 の部分も覆刻し、先 に覆刻 したも のを合 せ. て刊行 した。 この時 に題策 の板木も新 たにし ﹁ 新板﹂と角書 を つけ ている。最後 に、山森六兵衛 が全面的 に覆刻した.

(13) 書. 板 木 を平 野 屋 佐 兵 衛 が取 得 し て、 刊記 の書 卑名 の部 分 のみ に手 を 入 れ て刊行 し た のであ る。 恐 ら く 貞 享 末 年 頃 かと 推 定 さ れ る。. 以 上 の如 き 、 磨 滅 し た板 木 のみ を彫り 直 し て改 題 も せず に出 版 し て いく と い った諸 本 の在 り方 か ら 、 ﹃京 童﹄ が当. 寛文五年刊︶でも ﹁ 巻 二︶の如 き も のだ 同 じ 了意 作 の名 所 記 ﹃京 雀﹄ ︵ 御 霊 八所 の神 の こと京 童 に いひあ ら は せり﹂ ︵. 思 わ れ る が、 浅 井 了意 が か なり ﹃京 童﹄ を意 識 し 、 そ の影響 を 強 く 受 け て いた こと は明 白 であ る。. に基 づ いて出 来 た行 文 であ る こと 、 ほ ぼ間 違 いあ るま い。 こ のよう な表 現 上 の模 倣 は精 査 す れば ま だ ま だ 出 て来 ると. ○ は ﹁か ん ふり のか け 緒 の いと ゞのど か に右 往 左 往﹂ 翁一 昼墨 巻 こ ひ給 ひし 冠 の緩 は左 往 右 往 ﹂ 翁東海道名所記﹄巻工. と指 摘 し て いる よ う に、 京 の四条 河原 の文 章 を 江 戸 の木 挽 町 の歌 舞 伎 を 叙 述 す る場 面 に使 ったり 、 ﹁ 治 浪 の水 に て洗. 侵 シタ ル也. ﹁ 昼 量 のこと︶四条 河原 ノ文 卜同 ジ 、 一  彼 ハ此 ノ文 ヲ マタ名 所 記 巻 一サカ ヒ町 歌 舞 妓 ノ コト フ書 タ ル処 全 ク此 書 ︵. 国会図書館蔵︶に に江 戸 時 代 の考 証 家 喜多 村 信 節 の所持 本 ﹃京 童﹄ の書 入 れ ︵. に伝 は れり ﹂ な ど と 、﹃ 京 童 ﹄ の名 を引 く こと す べて六 か所 、 ﹃ 京 童 ﹄ で言 及ず み の こと は省 略 し た か に見 え る が、 既. こ の京 童 は 所 謂 ﹁ 京 童 ﹂ では なく、 喜雲 執 筆 す ると ころ の ﹃京 童﹄ を さ し て の こと 、 或 いは ﹁そ の縁 起 は京 童 の回. る故 に産 寧 の二字 子 産 む こと やす じと 読 む な ど 、京 童 は あ ら そ ひ侍 べる. 三年 坂 と い ふ事 は ︵ 中 略 ︶ 大 同 三年坂 なり と 申 し伝 へし 、 又産 寧 坂 と いふ 人あ り 、 こ の坂 は子 易 の観 音 に続 き た. え る。. も のがあ った 。 万 治 二年 頃 刊 の浅 井 了意 作 ﹃東 海 道 名 所 記﹄ を 経 く と 、京 都 の名 所 を描 く 巻 六 には次 のよ う な例 が見. る影 し い名 所 記 ・地 誌 群 の出 現 は ﹃ 京 童﹄ や ﹃洛 陽名 所 集﹄ に刺 激 さ れ て の こと 、 就中 ﹃京 童﹄ の影 響 は少 な から ぬ. 時 の読 者 に 迎 え ら れ 、 ベ スト セ ラー的存 在 であ った こと は確 か であ ろ う 。 そし て以後 の、 現在 古 板 地 誌 と 称 さ れ て い. 喜 雲 覚 中 川. 222(ゴ 23).

(14) 2イ )22ゴ (ゴ. 市 古 夏 生. け になり 、文章 を盗んでく る こと はなくな る。やや ﹃ 京童﹄ の影響 を脱したと いう べき であろう。. 延宝 二年刊 の坂 内直頼 作 ﹃山城 四季物語﹂ は京 の年中行事 に ついて記す書 であ るが、 ﹁ 京童 の小野笙 の作と いふは. あ やまり なり﹂ ︵ 巻 三︶など 三ケ所 ﹃  いずれも ﹃ 京童﹄ に言 及す る。 京童﹄ の誤りを指摘 し ている のであ るが、 執筆. の際 ﹃ 京童﹄ を参考 にした様 子 が窺 える。 年中行事 の本とは いえ、名所記とよく似 た内容 な のであ るから、 ﹃ 京童﹄. の痕跡を見出 し ても不思議 はなく、も って ﹃ 京童﹄ の影響力 の大き さ が察せられよう。. ﹃ 洛陽名所集﹂ と比較して、俳諧的だとされる。確 か にそ の通り で 京 童﹄ の性格 に ついて、松 田氏 は山本泰順 の ﹃. あ って、 それは喜雲、泰順両者 の教 養 の相違 によると思われる。 この両者は親より引き続 いての牢 人 であり、とも に. 仕 官を望 ん で いた節 があると いう具合 で、共 通点も みられる。喜雲 は前述 の如く に、医も学びながらも、貞徳 など に. つき俳諧 に のめり こんでいた。貞徳 は いうま でも なく 二条家 の歌学 を継承した人物 であ ったし、和歌 の門 人も多数 い. た のであ ったから 、  喜雲 の周辺 に和歌 の雰囲気 がな いわけ ではなか ったが 、  和歌方面 に立ち入 った様子は皆無 であ る。即ち、喜雲 は俳諧と いう滑稽文 芸を バ ックボー ンにして作品 を執筆していた のであ る。  一方 の泰 順は早くから冷. 泉為景 や松永 尺 五 に ついて和歌 や漢学を修得 し ており、﹃ 洛陽名所集﹄ 以外 の著述も漢学、漢詩関係 のも のば かり で、. 滑稽 のこと に携 った様子はみられ な い。 こうした点 から みて、同 じ京都 の名所記 であ っても執筆者 の教養 やそれ に培. われ た意識 、精神 を相当異 にす る ので、作品 の性質 を異 にする こと当然と いわなければならな い。. ﹃ 京 童﹄ 刊行 の翌年万治 二年 七月 に第 二作 ﹃鎌倉物語﹄ 五巻 五冊を出版した。 ﹁ 物語﹂とは題す るも のの、  やはり. 鎌倉 の名所案内記 であ る。従来初 板本 は安 田十兵衛板とされて いるが、書卑名下 の匡郭 が乱れ ている こと などから、. 初 板 は別 の書 率 が刊行したと いえ るかもしれな い。諸本 の概略 は森川 昭氏執筆 の ﹃鎌倉物語 ・沢庵順礼鎌倉記﹄解題 を参 照され た いc.

(15) 雲 覚 書 中 川 喜. 25) (ゴ. 22θ. さ て自 序 に. しば し旅 た ち た る こそ 目さむ る こ ゝち す れ と 古 人 い へる、 それも さ る事 に て、 又 ゆ かず し て名 所 を し るも 猶 お か. し 、︵ 中 略 ︶ 誠 に 腫 を めぐ ら さず し て彼 地 を ま のま へにな が め、故 を と は ず し て独 由 緒 を お ぼゆ るは此 草 子 なり 、. と 述 べる よ う に、名 所 案 内 と は い いな がら本 書 を携 帯 し て鎌 倉 を 遊覧 す る た め に執 筆 し た のでは な く 、 飽 く 迄 も 机 上.  三 田浄 久  こ の自 序 と 同 趣 旨 を 一無 軒 道 冶 の ﹃高 野山 通念 集﹄、 の娯 楽 的 読 み物 と し て作者 喜雲 は書 い た の であ った。. 京 の ﹃河 内 鑑 名 所 記﹄、 大 田叙 親 、 村井 道 弘 の ﹃南都 名 所 集﹄ でも 説 い て い る が 、 こ の時 代 の名 所 記 類 は前 に触 れ た﹃. 童﹄ も 含 め て、 概 ね携 行 す る には適 し て いな い大 本 の板 式 な ので、出 版者 も 作者 も 机 上 の読 み物 を提 供 す ると いう意 図 があ った のであ ろ う 。. 道 草﹂ の鎌 倉 の条 を中 心 にし て執 筆 し たも のと 、 巻 一に成 ﹃鎌 倉 物 語﹄ は 、 以 前 に京 より 江戸 へ下 った折 の紀 行 ﹁. 道 草 ﹂ を 骨 子 と し て、 そ れ に幾 分 か肉付 け を し た わ け であ る。 現在 のと ころ 喜 雲 の江 戸 立 事 情 が説 明 さ れ て いる。 ﹁. 道 草﹂ の旅 し か考 え ら れ なく 、 恐 ら く 鎌 倉 を 遊覧 し た のも 一回 限 り の こと と 思 わ れ る。明 暦 四年 、 万 治 二年 行き は ﹁. と京 都 に住 し て いた よ う であ るか ら 、 ﹁道 草 ﹂ の記 事 で頼 り な い箇 所 があ っても 、 わ ざ わざ 東 国 の鎌 倉 に再 調 査 に出. 掛 け る こと はま ず 不 可 能 な こと であ った。 や はり 旧稿 を 基 にし て書 いたと 思 わ れ る ﹃京 童﹄ の場 合 は京 都 の名 所 記 で.  それ故 に、 ﹃鎌 倉 物 語﹄ と ﹃京 童 ﹄ と が、 同 じ作者 の手 にな る同 じ 名 所 記 あ る か ら 、 再 訪 は 何 度 でも 可能 であ った。. 京 童﹄ にはあ まり 見 ら れ な か った先 行 であ っても 、質 的 に 異 った面 が出 て来 る のは 止 む を得 な い。 そ の相 違 と し て ﹃. 太 平 記﹄、  そ の他 に ﹃平家 物 語﹄、 ﹃ 文 献 の利 用 が甚 だ し いと いう点 が挙 げ ら れ る。 全 体 に渉 って ﹃東 鑑﹂ を 引 用 し 、. 道 草﹂ を 骨 子 と し てそ ﹃十 六 夜 日記﹄、 コ 日我 物 語﹄、﹃沙 石 集 ﹄ な ど 鎌 倉 に縁 のあ る文 献 を多 数 引 い て いる。 つま り ﹁ の肉 付 け は これ ら の先 行 文 献 によ った と 推 測 さ れ よ う 。. ﹃京 童﹄ には名 所 記 と し てそ の範 囲 を 逸 脱 し た部 分 が︱ 例 えば 自 己 の出 身 を 説 いたり 、自 己 の眼疾 に触 れ る な ど ︱.

(16) 26)2ゴ 9 (ゴ. 古 夏 生 市. か な り 含 ま れ て いる が 、 ﹃鎌 倉 物 語 ﹄ に は 逸 脱 し た部 分 は ま ったく な い。﹃鎌 倉 物 語﹄ が名 所 記 と し て甚 だ整 然 と し た 印 象 を 与 え る所 以 であ る が 、   これ を 名 所 記 作家 と し て の喜 雲 の成 長 と み て い い のであ ろう か 。 も し成 長 と み る な ら ば、  約 十 年 後 の寛 文 七 年 に刊 行 さ れ た ﹃京 童 跡 追﹄ に見 受 け ら れ る ﹃京 童﹂ と 同 質 の逸 脱 は説 明 のし よ う が な い。 ﹃京 童 跡 追﹄ の巻 一、 巻 二 は京 都 、 巻 三は奈 良 、 巻 四 、 巻 五 は主 と し て大坂 及 び そ の周 辺、 巻 六 は主 と し て有 馬 近 辺 と 厳 島 に つい て記 し て いる。 と ころ が 巻 一、 巻 二、 巻 三 に 限 って. 若 かり し年 の 回ず さ び を おも ひ出 、今 此 折 ふし老 の身 の甘 な ひ ぬ る に、 淡 く覚 て句 一つあ ら た に書 つけ ゝる ︵ 巻 頂妙寺﹂ の条︶ 一﹁. の如 き 箇 所 が幾 つか 見 出 さ れ る のであ り 、 対 照的 に巻 四、 巻 五 、 巻 六 には な く な る。 こう いう点 を考 慮 し てみ ると 、. ﹃鎌 倉 物 語﹄ に多 数 の先 行 文 献 利 用 が あ り 、 か っち り と し たま と まり を見 せ て いる こと 、名 所 記 と し ては逸 脱 と 見 ら. れ る自 己 の感 慨 や 脱 線 し た咄 が な い こと は 、 偏 に地 域 によ る問 題 と考 え た い。 喜雲 が長 く居 住 し て いた京都 及 び度 々. 訪 問 し て いたと 考 え ら れ る奈 良 など と 、   一度 程 し か 見 物 し て いな い鎌 倉 と の熟 知度 の差 、京 都 及び そ の周 辺 の名 所 に. は若 か り し時 の思 い出 ︱ それ は父 と の散 策 や俳 人仲 間 と の交 遊 など であ る が ︱ が ふ んだ んと あ る のに対 し て、 鎌 倉 に. は そ れ が な いと いう 差 、 こ のよ う な差 が ﹃鎌 倉 物 語﹄ の質 的 差 を生 み出 し、 名 所 記 作家 と し て の喜雲 の成 長 と 目 さ れ る よ う な整 然 と し た名 所 記 に な った の であ ろう 。. ﹃鎌 倉 物 語﹄ 出 版 か ら 二か月 、万 治 二年 九月 に ﹃私 可多 咄 ﹄ 五巻 五 冊 が刊 行 され た。 次 に記 す ﹃案 内者 ﹄ の出 版書. 率 が秋 田屋 平 左 衛 門 であ り 、本 書 も 元禄 九 年 書 目 に ﹁ 秋 田平 ﹂ と あ るか ら 、 秋 田屋 が板 元と 思 わ れ る。 ﹃国書 総 目 録 ﹄. に よ れ ば 初 板 であ る万 治 三年 板 は現 存 し な いよ う であ る。 それ を受 け て、寛 文 十 一年 に江戸 の鱗 形 屋 が出 版 し たも の. を 初 板 か と 書 く 人も い る が、 喜 雲 が そ う 縁 のな い江 戸 でわ ざ わ ざ 出 版 し たと は考 え難 い。 事 実 、柳 亭種 彦 は ﹃骨 董 集.

(17) 中 川 喜 雲 覚 書. 8(127) 2ゴ. 上 編 上 之 巻 ﹁旧吉 原 の雨 中 のさま﹂ の条 に杏 花 園蔵 本 ﹃私 可多 咄﹄ を 引 い て い る箇 所 があ る が、 そ の奥書 の部 分 を 模. 刻 し て ﹁万 治 弐 妃年 季 秋 吉 日﹂ とし て い る か ら 、 ま ず 万 治 二年 九月 刊行 は間 違 い のな いと ころ であ る。. ﹃私 可 多 咄﹄ な る書 名 が付 さ れた のは 、 こ の頃 仕 方 咄 が流 行 し て いた こと を 反 映 し て の こと であ ろう 。 管 見 では 明. 暦 三年 刊 の山 岡 元隣 作 ﹃他 我 身之 上﹄ 巻 三 の ﹁ち ん ぷ んか んと いは れし し か たば な し 、 ゆ めば かり覚 え侍 れば 、其 し. か た を 少 ま ね し て こ こに し るし侍 る べし﹂ を 初 出 と し 、少 し後 の寛 文 二年 刊 ﹃為 人抄 ﹄ 巻 一の十 一 ﹁ 仕形 ば な し に 日 を 暮 し ﹂ など の用 例 が見 ら れ、 この頃 に流 行 し て いた 一証 と いえ よ う。 本 書 収 載 の咄 は、 必 ず しも 喜雲 が作 ったも のば かり では な か ろう が、 巻 二 に あ る. 昔 在 江 戸 し侍 る頃 、 さ るお ほんか た の具 足 の餅 いは ゐ にま かり け る に、 な んぢ が ち ゑ を た め し の具 足也 、 は や く 狂 吾 なく ては餅 た う べる事 かなは じ な ど と お ど さ れ て 君 が代 のひ さ し か る べき ためし に は か ね てぞう れ し おぐ そく の餅. と いう 咄 が、 喜 雲 の御 咄 衆 的存 在 を暗 示 す ると いう こと 、 既 に ﹃貞 門俳 諧 自 註 百 韻﹄ に触 れ て いる通り で、彼 自 か ら 語 った咄 も 数 多 く あ る の であ ろう。. 喜 雲 は ﹃私 可 多 咄﹄ 出 版 前 後 より 田合 わ た ら いを し た が、寛 文 二年 に京 の書 卑秋 田屋平 左 衛 門 から年 中 行 事 に つい て記 し た ﹃案 内者 ﹄ 六 巻 六 冊 を 刊行 し た 。 そ の自 序 に いう 、. 広 き 日本 の国 /ヽ のし げ き品 /ヽ 。 お も ひ よす るも 胆 の大 け れば 。 大 内 の年 中 行 事 に。 これ か れ柳 ま じ へo綾 に. て止 ぬ。 そを だ にま だ見 聞 ぬ人 の心 ざ す に。 ま よ ひ な か ら し め ん た め。 案 内 者 と なし ぬ。 さ は い へど 。 のぼ る べ. き た つき なき 。 雲 井 の御 あり さま は 眼 のよ そな れ は。諸 書 の良 材 を を のが ま ゝに は つり と り 。 こ ゝに ぬす む 。. ﹃案 内 者 ﹄ は内 裏 の年 中 行 事 を描く部 分 があ るが、自 分 で見 る こと が不 可 能 な の で文 献 に依 拠 し たと 述 べて い る。 そ.

(18) 28)2ゴ / (ゴ. 古 夏 生 市. の文 献 と は ﹃公 事 根 源 ﹄ 及 び ﹃年 中 行 事 吾合 ﹄ であ る。 こ の二書 は文 章も類 似 し て い て、 いず れ から 盗 ん でき た か判.  一例 と し て 二月 四 日に催 さ れ る新 年 祭 の条 を そ れ ぞ れ掲 出 し てみ る。 断 す る のに困 難 な場 合 が多 い。. 中 略 ︶神 祇 官 に てお こな 是 は太 神 宮以 下 三千 一百 汁 二座 の神 を ま つら せ たま ふ、 其 所 々たしか な ら ざ るも 有 、 ︵. は る、 弁 か ね てよ り 諸 国 のめ し物 を も よ ほ し と ゝのふ、 自 猪 白 鶏 やう の物 也 、 天 武 天 皇 四年 二月 には じ め て此 祭 下 略 ︶ ﹁公事根源﹄慶安 二年村上平楽寺板︶ 有、︵. 右 と し こひ のま つり は太 神 宮以下 三千 七 百 三十 二座 の神 を ま つり て年災 を い のり 申 さ る ゝゆ へに、と し こひ のま. ﹃ 年中行事可合﹄慶安二年沢田庄左衛円 中 略 ︶ 天 武 天 皇 四年 二月 には じ め てと し こひ のま つり あ り ︵ つり と 申 侍 り 、 ︵ 板︶. 太 神 宮 以 下 三千 七 百 三十 二座 の神 を祭 り た ま ふ て、年 災 を い のり 除 き た ま へる事 なり 、と し こひ のま つり と も い. ふ なり 、 天 武 天 皇 四年 二月 ょり はじ め て こ の祭 あ り 、神 祇 官 に てお こな は る、 弁 か ね てより 諸 国 のめ し物 をも よ ほ し と ゝの へら る、 自 猪 白 鶏 やう のも のなり 3案内者し. 一読 す れば 、前 半 は ﹃年 中 行 事 耳合 ﹄ に、 後 半 は ﹃公 事 根 源﹄ に依 拠し て い る こと 歴然 と し て いる。 以下 一々例 示 し な いが 、 全 体 と し て ﹃公 事 根 源﹄ より 盗 む こと が少 なく な い。. これ ら 先 行 二書 に出 て来 な い行 事 、 即 ち 民 間 の年 中 行 事 は 喜 雲 のオ リジ ナ ルと 考 え て い いし 、 こ の書 の面 白 さも そ. の点 に存 す ると い って い い。 中 に年 中 行 事 の枠 には収 ま ら な いよ う な記事も あ る が 、 ま ったく 無 関 係 のも のは なく 、 総合 的 に扱 った年 中 行 事 書 と し て完成 度 の高 いも のであ る。. 京 童﹄ は京 都 の名 所 案 内 記 であ るが、 そ の 喜 雲 が本 書 を 執 筆 す る に至 った動 機 を幾 つか数 え挙 げ ら れ る。 処 女 作 ﹃. 中 に寺 社 の祭 礼 に触 れ て い る箇 所 が少 な か ら ず あ る。 名 所 と し て寺 社 を記す場 合 、 そ の寺 社 の主 だ った祭礼 を 記 す の.  巻 鞍 馬寺 の事 は京 わ ら べに かき つけ は ん べる﹂ と あ り 、 は当 然 と いえば 当 然 であ る。 ﹃案 内者 ﹄ 巻 一の初 寅 の条 に ﹁.

(19) 四 の六道参 の条 に. 因縁 の事、此六道 にかぎらず、京 わら べならび にあとお ひと名 づけ侍 る、追加 に書 べき分 は このさうあ んにもら し つ、. 京 童跡追﹄を指している。名 所記と年中行事 の親近性を示すも のであり、﹃ 追加﹂とは ﹃ とある。﹁ 案内者﹄執筆 の 一. 因が名所記 にあ った ことを予想 させる。また、喜雲 は貞徳 など の周辺にいた俳人 であ った。俳人 にと って年中行事は. 基本的な知識 であり、知 っていなければならな いも のであ った。﹃はなひ草﹄、﹃ 誹 諧初学抄﹄など俳諧作法書 には、概. ね ﹁四季 の詞﹂とし て年中行事 に関す る簡略な説明 が施され ている。 こう い った面 でも 喜雲 が ﹃ 案内者﹄を執筆す る. 最後 に ﹃ 案 内者﹄ の影響 を受 け て成立した 一無軒道冶作 ﹃ 延宝八年刊︶ に ついて触れる。影響を受けたと 難波鑑﹄ ︵. 因があ ったと思われる。. 書 いたが、端的 にいうと盗 んで来 た箇所が幾 つかあ るのであ る。盗むと いえば ﹃ 案内者﹄も先行文献 に依 っていた こ. 二月朔 日﹂ の条 には 難波鑑﹄ 巻 二 の ﹁ 瓢箪町夜見世 一 とあ るが、﹃. 後略 ︶ のなり ふりま で心 にかけ潜上する こそ ︵. かきす ゑさせ、内より出 るめん/ヽ 、宿 の首 尾しすましたりとうれしげ にほそ溝をとび こえ、あと に つれたる僕. ︱ こ川割洲司国利団 丹波 口におろしあるは二人塚 に 川 かたま つかたあれば にやとおしはから る ゝ、剰例目 廓︲ の引ョ ー. かちより ゆく若も のは、足どりはやくえも んひき つくろひ、あ み笠ふかくか ぶり さし扇したるは、さながらし の. 案内者﹄ 巻二の二月廿 一日御影供 の条 に 内者﹄ の文章 を盗んだ 一例を示 そう。 やや長文 になるが、﹃. と既述 の如 く であり、同じ文献 に依 って執筆したために似たも のとな っていると いう場合もありう る。明らかに ﹃ 案. 覚. 書 雲 中 川 喜. 29) (ゴ. δ 2ゴ.

(20) 5 3θ )2ゴ (ゴ. 古 夏 生 市. と う れ し げ に、 跡 に つれ た る僕 のなり ふり ま で に ︵ 後 略︶. と あ る。 傍 線 の部 分 がま ったく 同 文 であ る。京 の島 原 へ行 く 人 々 の様 子 を大 坂 の瓢 箪 町 の場 面 に置 き 換 え て いるわ け. で、 こう い った 類 のも のが散 見 でき る のであ る。 道 冶 が ﹃難 波 鑑﹄ 執 筆 の際 に ﹃案 内者 ﹄ を机 上 に置 い て参 照 し て い た こと は ほ ぼ間 違 いあ るま い。. 跡 追﹂と のみ刻 京 童 跡 追﹄ を 刊行 し た 。外 題 は ﹁錬あ と を ひ﹂、 ﹁ 術廠述 を ひ﹂の 二種 、内 題 は ﹁ 寛文 七 年 に第 五 作 目 ﹃. さ れ て いる が 、 こ こでは従 来 よ り 呼 称 さ れ て い る ﹃京 童 跡 追﹄ な る書 名 を使 用す る。 諸 本 に つい ては近 世 文 学資 料 類. 従﹃ 京 童跡 追﹄の拙 解 題を 参 照 さ れ た いが、 いま 簡 単 に要 点 を 記 し てお く 。寛 文 七年 九月 に ﹃ 京 童﹄ を 出 版 し た書 卑 八. 中 川 喜雲 撰 ﹂ な る署 名 があ る。 そ の後 、山森 六兵 衛 が こ の板 木 を 取 得 し、 そ の 文 字 屋 五兵 衛 が 刊行 し た。 序 文 末 に ﹁. 際 に全 面 的 に覆 刻 の板 木 を 作 成 し た。 即 ち 、 山 森 は 二組 の ﹃京 童 跡 追﹄ の板 木 を所 持 し て いた こと にな る。 そし て原.  一は 刊記 の書 卑名 部 分 刻 と覆 刻 を 挿 絵 の有 無 によ って 二分 し、 互 い に補 完 す る形 で 二種 の ﹃京 童跡 追﹄ を 作成 し た。. に匡郭 が な く 、 他 は匡 郭 があ る。 後 者 は 二次 ま で確 認 済 み であ る。 そ の二次 の板木 が そ のま ま 平 野 屋 佐兵 衛 に譲渡 さ. れ 、書 卑名 の部 分 に ﹁ 平 野 屋 佐 兵 衛 開 板 ﹂ と だ け 入木 し 、他 は 何 の改 変 も加 えず に出 版 さ れ た。 山 森 の段 階 で何故 に. 覆 刻 の板 木 を こし ら え 、 そ れ を 原 板 木 と 混 ぜ て、 二種 の ﹃京 童 跡 追﹄ を出 版 し た のか 、 そ の事情 は 不 明 と し か い いよ う が な い。. 自 序 によ れば 、 ﹃ 京 童﹄ の欠 け た部 分 を 補 う た め に、万 治 二年 には本 書 の初 稿 が成 立 し て いた。 と ころ が本 屋 に初. 稿 を渡 す前 に、 喜 雲 は 田舎 わ た ら いし た た め に未 刊と な ってし ま い、 十 年 程 経 過 し てし ま ったと いう 。 こ の間 公 刊 の. 意 志 を持 ち 続 け て いた こと は 、﹃ 案 内 者 ﹄ に つい て述 べた時 に引 用 し た ﹁ 六道 参﹂ の条 の 一文 によ って明 ら か であ る。. こ の期 間 に初 稿 を手 直 し し て いた のであ ろう 。 そ し て、芸 州厳 島 等 新 し い項 目を幾 つか書 き加 え て、 寛 文 七年 五月 頃.

(21) 書 覚 中 川 喜 雲 ). イ (r3ゴ 2ノ. 。 に頻 り と清書 を し て いた のであ る ︵ 巻三 ﹁ 春 日﹂ の条︶. た だ 、初 稿 に手 直 し を し た こと は確 か であ るが、初 稿 が ﹃鎌 倉 物 語﹄ のよう に引 用文 献 の多 い名 所 記 であ ったと は. 考 え 難 い。 ﹃鎌 倉 物 語 ﹄ の項 で述 べた よう に、 鎌 倉 と いう 土地 であ るか ら こそ の引 用文 献 の多 用 と 見 る べき であ る。. ﹃ 京 童 跡 追﹄ の初 稿 にも 刊本 と 同 じよ う な、名 所 記 と し て逸脱 し た自 己 の感慨 を述 べる部 分 があ ったと 思 わ れ る。. 寛 文 十 年 刊書 籍 目 録 に ﹁三 冊  女筆 往来 中 川 喜 雲 作 ﹂ と あ る。 こ の書 は未 見 であ る が、 石 川謙 氏 編 ﹃女 子 用往 来 分 類 目 録﹄ に寛 文 頃 刊と し て載 せら れ て いる。 ﹃国 書 総 目 録﹄ によ れば 同名 の 一冊本 が東 京 教 育 大 学 附 属 図書 に 館 蔵 さ れ て いる由 、 た だ し これ ま た未 見 のた め喜雲 の作 なり や 否 や は不 明 であ る。 延 宝 三年 刊 ﹃新 増 書 籍 目 録﹄ に 一   道中 付 一   同誹 諧 入 一   同大 全 ユ ハ  同名 所 記  中 川 喜 雲. と あ る。 ﹁ 道 中 名 所 記 ﹂ な る六 冊本 が中 川 喜雲 の著 作と す る のであ る が、如 何 なも のであ ろ う か 。  これ 以前 の書 目 に は 寛 文 六年 頃 刊 ﹃和 漢書 籍 目録﹄ に 一冊  道 中 記 一冊  同 絵 入 六 冊  同 名 所 記. な る記 載 を見 る が、 作者 名 は刻 さ れ て いな い。 さ て いま 記 し た 二書 目を 具 に見 ると 万 治 二年 頃 刊 ﹃東 海 道 名 所 記﹄ 六.

(22) 32)213 (ゴ. 古 夏 生 市. 冊 の記 載 が なく 、 そ れ 以外 の寛 文 十 年 、 寛 文 十 一年 刊書 目 な ど には載 せ ら れ て いる。 逆 に ﹃東 海 道 名 所 記﹄ の載 せら. 道 中 記﹂ は大 体 、 東 海道 れ て いる書 目 には 、 ﹁道 中 名 所 記﹂ の記 載 がな い のであ る。 更 に考 え て みると 、寛文 頃 の ﹁ の道 中 記 し か出 版 さ れ て いな い。 寛 文 十 一年 刊書 目 には 一冊   東 海 道 中 記 下略︶ 六 冊   同名 所 記     松 雲 作 ︵. 道 中 名 所 記 ﹂ と は 東 海 道 の名 所 記 の こと に相違 なく 、 そ れ は 浅井 了意 作 ﹃東 と あ る。 以上 の こと か ら 判 断 す る に、 ﹁. 海 道 名 所 記﹄ を指 す も のに他 な ら な い。 そ し て延宝 三年 書 目 の作 者 附 は書 目 にしば しば 見受 け ら れ る誤 り と いう こと に な り 、中 川 喜雲 に ﹁道 中 名 所 記 ﹂ の著 作 は な か った と いう こと にな ろう。. 4︶ 中川喜雲 の年令 について﹂ 翁北大近世文学研究会会報﹂1 注 ︵1︶ ﹁ ︵2︶ 後述するよう に推定 である。 延宝三年より貞享四年まで︶に、 法橋、法眼 御湯殿 の上 日記﹂巻十 ︵ ︵3︶ 位を所持していれば署名 に使用するはずだし、 ﹁ などを授けられた医者が御礼 に来る記述がおびただしくあるが、喜雲の名は見出せな い。. 案内者﹂も寛文 二年に京都で刊行されているからである。 案内者﹂ には万治三年 の京都 の叙述が幾 つかあるし、﹁ ︵4︶ ﹁.

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参照

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