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中田喜勝

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第24巻 第2号 1‑46 (1984年1月)

艾蕪覚え書VI

中田喜勝

A Note on "AI Wu" (VI)

Yoshikatsu NAKATA

はしがき

艾蕪のビルマ時代は1927年9月から1931年1月までの3年3ヶ月で、 23歳か ら27歳までの時期であった。多情多感な青春の3年有余をビルマで過ごしてい る。

ビルマ以前にも3年近くの歳月を雲南省で過ごしている。故郷の四川省新繁 県を離れたのは21歳の時であった。異郷や異国でそれぞれ3年、合計6年間を 過ごしたことになる。

この期間、雲南の昆明、ビルマのラングーンでの生活を除けば、実に"漂泊"

の旅であった。しかも戦乱を避けた旅ではなくて、文蕪自身の意志による旅で あった。彼のi票泊・流浪の旅が一般のそれと異なる点は何処に在るのであろう か。

この問いに答える資料として、文蕪の次男湯継湘とその妻王沙が《艾蕪児童 文学作品選≫ (四川少年児童出版社1983年・成都)に寄せた序文がある。

"流浪"という二字は一般の人にとっては苦痛と絶望とを意味しているが、拠 りどころと退路を全く失くした文蕪にとっては却って真理を追求し、幸福を追 求する出発点であった。だからこそ、雲南から南洋群島まで彼はまる6年間流 浪したのである。僅間の辛酸や苦労を経た彼の人生の中で、彼は世の中のこと が分かり、いろいろな人々のことがよく分かった。農民・馬子・馬泥棒・荷物 担ぎの苦力・山見廻りの役人・威張って甘い汁を吸う帝国主義者などに接して、

いろいろと経験した。彼の胸裡にはこれらの人々や出来事がいつも力強く生き

ていた。遂に彼は筆を執って自ら経験した生活や見聞した人物を描いて、自分

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中田喜勝

の愛と憎しみとを強烈に表現した。社会の最下層で働いている人々を愛し、明 るく光るものや美しいものをすべて愛した。人間を食いものにするような人々 を恨み、暗黒なものや醜悪なものをすべて憎んだ。かくして、文蕪は文学と切 り離せない縁を結んだのである。

以上の序文から分かるように、文蕪の旅は真理を追求し、幸福を追求する起 点となっていたのである。決して一般の"流浪"・"漂泊"の旅に見られるよう な苦痛や絶望に由る悲哀感は無い。むしろ、自ら人生を開拓する鋼鉄のような 意志を発見する。

しかしながら、意志がいかに箪固であっても、それだけでは暮してゆくこと はできない。人生に於いて"人''との出逢いがいかに重要な意義を有するかは 賛言を要しないO文蕪がビルマのラングーンに漂着すると、先ず万慧法師に助 けられ、次に黄緑卿という印刷工に助けられた。彼は文学を愛好した植字工で あった。万慧法師は自分の家に文蕪を住まわせ、新聞社へ投稿させ、生計の維 持を計らせた。黄締卿は陰に陽に文蕪を援助した。特に文蕪と黄緑卿との間の 友情は麗わしいものがあった。

文蕪を支えた彼らの人情と友情とに焦点を絞って、以下述べてみることにす る。そうすることによって、文蕪の人柄も自ら解明されるであろう。

今年の夏、成都へ再び行って英蕪先生を訪問した。当日の先生との対話の内 容も参考として加えたい。"文蕪研究"の一助ともなれば幸甚である。

最後にビルマに関係した散文と短篇小説とをそれぞれ‑篇ずっ訳出して挙げ る。項目は次の通り。

[ヨビルマに於ける文蕪 [司ビルマに漂泊した文蕪 β]黄締卿・万薯法師への追悼 回文蕪先生との対話

匡】 "ビルマ事変紀略"と"我的愛人"

皿ビルマに於ける文蕪

"四川作家研究" (四川大学学報叢刊第十二輯)に基づいて、文蕪がビルマから上海

へ帰るまでの足跡を追ってみることにする。

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文蕪覚え書Ⅵ

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1927年(民16・昭2) 23歳

1927年9月に北ビルマの商都バモーに帰って、苦力だけが寝泊りするあばら 屋に宿泊した。昼間は歩き廻り、夜間はものを書く練習をした。詩《イラワジ 河畔≫はこの時期に書かれた。 9月25日、バモーを離れて船に乗り、シェグ (Shwegu)経由でカサ‑ (Katha)へ出て、そこから更に汽車でビルマの旧都マン ダレ一に行った。 10月にはビルマの首都ラングーンに到着して、五十択路 (Moung Khine street) 4号の騰越旅館に泊った。銭も無く、病気にも躍ったので、

旅館の主人から追い出されたが、幸運にも人の好い一人の雲商人に出逢った。

彼は早速、仏学を研究している同郷の万慧法師(原名は謝善、字は希安、四川の楽至 の人で、書道家の謝無量の三番目の弟)の所へ英蕪を送り届けた。万慧法師の親切な 思いやりと心のこもった激励,を受けて、文蕪はものを書くことを始めた。ビル マ印度国境の̀̀ナカ族"が祭両用に人を殺す風俗について万慧法師が語った珍 らしい話を書きとめたのが、最も早い‑篇の書きものであった。これが《ラン グーン日報≫の華語版に載ったので、著述への情熱がいっそう湧き立った。万 苦法師は彼の為に更に多くの資料を借りてやり、それに基づいて、文蕪は中国 とビルマの歴代の関係を述べた《中緬関係史資料≫及びその外、《漬系記載緬旬 的花花累架≫を書いたが、 《ラングーン日報≫創立一周年記念の特別号に載せら れた。万慧法師との関係で、彼は《ラングーン日報≫編輯主任の陳蘭星、副刊

《波光≫の編輯員の雲半楼(雲光南、海南島の人、解放の初期には海口市文朕で指導者と しての仕事を担当したことがあった。)と知り合った。 《波光≫には短篇小説《毛粁子≫

・《老懲人≫及び流浪生活を記した《漂落八莫≫・《野人山中》・ 《万山叢中的匪窟≫

・《暴動前後≫などの散文や、詩の《墓上夜時≫・ 《逃婚之夜》などを発表した。

〔内外の出来事〕

三月、毛沢東同志は《湖南農民運動考察報告書≫を発表した。二十一日、上 海の労働者は三回目の起義を発動して、上海を解放した。二十三日、北伐軍が 南京を取戻した。四月六日、李大別ら二十名の同志が北京で張作霧に逮捕され て二十八日に英雄的な死を遂げた。十二日、蒋介石は̀̀四・一二"反革命の政 変を起こした。七月十五日、荘精衛は"分共会議"を主催した。八月一日、周 恩来、朱徳らの同志が南昌起義を指導した。七日、中共中央委員会は緊急会議 を召集して、陳独秀の右傾投降主義路線を清算し、陳の総書記としての職務を 解任した。九月、毛沢東同志は"秋収起義"を指導した。十月、毛沢東同志は 起義部隊を連れて井南山へ行き、最初の農村革命根拠地を樹立した。十二月、

南京政府はソ咲との絶交を宣言した。

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中田喜勝

1928年(民17・昭3) 24歳

一年の上半期は万慧法師の紹介で、華僑新聞の《覚民日報≫へ行って、校正 の仕事を担当した。そして、この新聞の若い植字工の黄兆湊や《ラングーン日 報≫の植字工の黄緯卿(広東の台山の人、ラングーン生れ、父は大工で家は貧しかった。

小学校を卒業後、直ちに少年工となったO植字をしながら勉強して、思想が進歩し、ラングー ンのマルクス・レーニン主義のグループに参加した。)と知り合った。同時に、呉景輿ら が作ったビルマ共産主義グループ(マレー共産党の指導下にあった。)に参加して、王 思科(本名、建安、雲南の保山の人、以後長沙のソ咲区で工作したことがあったが、後に犠 牲となった。) ・段叢桂と知り合った。

十一月、ソ朕の十月革命を視賀するために、万慧法師の自宅で、黄緯卿と共 に英文の標語を印刷した。文面は"Down with English Imperialismの類で、

署名はC.P, C.Yとした。万慧法師がこれを知って立腹し、累が及ぶことを 心配して彼に出て行くように求めた。十二月十一日、万慧法師の家を離れ、黄 緑卿の紹介で一軒の仕立屋に行って泊り、後に五十択路上段151号の喫茶店の 二階の小部屋へ転居し、職無しの生活を過ごしながら、 《漂流曲≫を書いた。そ の後、百m尺路の或る平民学校で教え、数名の仲間とアロンのスパソン街に家を借 りて住み、そこを党の活動基地にした。この頃、呉懐世が編輯している《ビル マ新報≫に投稿したことがあった。

〔内外の出来事〕

一月、清光慈・銭杏郁・孟超が発起人となって《太陽社≫が成立した。本月 から太陽社・創造社と魯迅との間で革命文学に関する激烈な論争が展開されて、

翌年の下半期まで続いた。三月に新月社の《新月≫月刊が創刊され、編輯主任 の徐志摩が執筆した《新月の態度≫が発表され、左翼文化へ対して攻撃した。

四月、南昌の起義部隊は転戦して井南山に到着し、毛沢東同志が指導する工農 紅軍と合流した。五月、工農紅軍第四軍が成立した。三月、日本帝国主義ば̀済 南事変"を演出して北伐を阻止した。六月、中国共産党第六回全国代表者大会 がモスコーに召集され、機会主義と盲動主義とを批判し、中国革命のブルジョ

アヂ‑民主主義の性格が確認された。張作霜が山海関から退出し、皇姑屯で煤 死させられた。魯迅と郁達夫合編の《奔流≫月刊が創刊された。十月、蒋介石

が"国民政府"の主席に就任した。茅盾は論文《従粘嶺到東京≫を発表した。

1929年(民18・昭4) 25歳

この年は依然としてラングーンに居住し、引続いてマレーシア共産党ビルマ

支部(後にビルマ地区委員会と改称された。)の活動に参加し、書きものに従事した。

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文蕪覚え書Ⅵ

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〔内外の出来事〕

二月、国民党反動派は創造社の出版部を封鎖し、 《宣伝と検閲に関する法律≫

を公布した。三月、第一次蒋桂戦争が発生。九月第二次蒋桂戦争発生。十一月、

中国共産党中央政治局は《陳独秀の党籍剥奪の決議案≫を通過させた。

1930年(民19・昭5) 26歳

四月中旬、マレーシア共産党ビルマ支部代表に選出され、マレーシア共産党 代表者大会に参加するために、シンガポールへと出発した。ところが、当時、

東南アジアの多くの地区に疫病が流行していて、ボンベイ・マドラス・ラング ーン及びカルカッタはいずれも"悪疫汚染の港"と宣言されていたので、ラン

グーンから乗船してペナン島に到着したら、そこから上陸してマレーシア咲邦 の汽車を利用するつもりであった。しかし、当地の衛生局は彼と同船の三等船 客をすべてある小島へ送り、一週間にわたって消毒を行なった。そのために、

手間どってしまい、シンガポールに到着した時には、大会はすでに散会してい た。彼はシンガポールに一ケ月近くを過ごしたが、牛車水区の広東人が経営す る"偲偲居楽部"に宿泊した。この旅行は彼の見聞を博め、資本主義社会の経 済的危機が東南アジア諸国をいかに捲きこんでいるのか、それを目のあたりに 看たのである。マレーシアからラングーンに帰って、数名の植字工と一緒に河 浜街のある二階に泊り、林環島(漸江の玉環県の人、上海の大学に学んだことがあり、

抗戦期には子供劇団を指導したこともあったが、すぐに世を去った。)を助けて《新芽小 報≫の発行準備をした。十二月二十二日、ビルマのタラワデイ(Tharrawadyラ

ングーンから68哩)県で農民が起ち上がった。 《新芽小報≫がこのニュースを報道 したので、文蕪は遂に王思科・林環島らと共に嫌疑をかけられ、同時に逮捕さ れた。彼らは百[尺路の警察派出所に留置されたが、 "罪名"は"タラワデイの農 民暴動を支援する記事を書いたので、共産党員の嫌疑がある。"というのであっ

た。彼らは当時、王思科と一緒に平民学校の校長察悼成先生の家に泊っていた。

〔内外の出来事〕

一月、毛沢東同志は《星星之火、可以僚原≫を発表した。二月に、中国共産

党が指導した"中国自由運動大同盟''が上海に成立した。三月二日に"中国左

翼作家連盟"が上海に成立した。五月に、茅盾の最初の長編小説《蝕≫が出版

された。七月、中国共産党が指導した文化団体"中国左翼文化総同盟"が上海

に成立した。十月、国民党中央宣伝部は"朕を取締り、魯迅ら左朕の盟員を逮

捕せよ。"という密命を出した。十二月、蒋介石は中央革命根拠地に対して第一

次の反革命的な"常勤"を発動したが翌年一月には粉砕された。

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中田書勝 1931年(民20・昭6) 27歳

一月、王思料・林環島・郭蔭堂(福建の人、共産党の嫌疑で逮捕された。)は英国植 民主義者当局から追放され帰国させられた。国民党はラングーンの党の機関新 聞《覚民日報≫に他人の災を喜ぶかのように"英国政府は四名の共産党員を追 放した。"というニュースを載せたので、ラングーンの華僑社会は動揺した。逮 捕されている間に、万慧法師は彼のことを探りに行ったことがあった。彼が英 国の太古公司の汽船"太原号"でラングーンを離れる時には、万慧法師は自ら 見送りに行った。帰国後、万慧法師は彼を懐しむ思いを詩に書いている。"有文 皆苦、無食不酸、茅草地来、別我江干"(文有るも皆苦しく、食無きもかなします、茅 草地より来りて我と江ぎLに削る。)船が香港に着くと、また、一晩拘留されてから

5as

釈放された。王・郭の両名と一緒に香港から麿門に行き、同安県の田舎に住み、

そこで散文《香港的一夜≫を書いた。春に度門から上海へ行き、王乗心(当時、

宝山県の湘喬労働大学農学院の園芸科で学んでいた。)の援助によって酒塘橋のある農 家の一部屋を借りて、住居の問題は解決された。しかし、仕事が見付からず、

生活は苦しかった。この頃、上海の"現代文学評論"が原稿を募集していたの で、彼はシンガポールを背景とした短篇小説を投稿、応募した。第三席に入選 したが原稿料は貰えなかった。ラングーンの黄緯卿は上海で彼が困っているこ とを知って、華僑労働者にカンパをしてその都度、送金して彼を援助した。万慧 法師も自分の詩集《悪業精舎吟草≫十冊あまりを郵送し、売って急場を凌がせ た。

夏のある日、彼が北四川路を俳個していると、偶然、四川省第一師範の同級 生の沙汀と出逢った。沙汀は彼の数奇な経歴を耳にして、文芸創作に従事する よう彼に勧め、自分の家に住まわせて、心配なく書かせようとした。

六月に散文《香港的一夜≫を《読書月刊≫に発表した。帰国後、最も早く発 表した作品であった。

七・八月の間に彼は《ビルマ漫画≫という題名で十篇あまり集めた散文集を

"荷裳"・"無文''などのペンネームを使い、 《時事新報≫の副刊《青光≫に発表 した。

冬に彼は北四川路の沙汀の家に転居し、沙汀と文学創作の問題をしばしば討 論した。いくつかの作品は真実性がなく.、中には文芸創作を出世の手段とみな

しているものさえあるように感じられた。彼らはいずれにも賛成しなかった。

そこで、魯迅先生へ教えを請う決心をした。十一月二十九日、彼らは連名で魯

迅先生宛に手紙を出し、小説の題材に関する問題(この手紙は文蕪が書いた。)につ

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文蕪覚え書Ⅵ

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いて教えを請うた。十二月二十九日、魯迅先生は彼らへ返事を出し、次のよう に助言した。 "創作を豊かで楽しいものにするためには、材料の選択を厳密にせ ねばならぬ。掘り下げを深くせねばならぬ。無意味なストーリーで‑篇を填め てはならぬ。" "現在書けるものは何でも書き、時勢に阿讃せず自ら急変する革 命英雄をひたすら作り出して、"革命文学"だと自称するには及ばぬ。しかし、

この一点にいやしくも安住して、改革がなければ、自己を埋没させてしまう。

時代への助力や貢献も無くなってしまう。"小説の題材に関するこの通信はいず れも左咲発行の《十字街頭≫三期(1932年1月5日)に発表され、その後更に魯迅 の《二心集≫の中にも収められた。

彼らは返事を受取ってから、更に自分たちが書いた小説を魯迅先生へ送って 教えを請うた。その後、魯迅先生は許広平と一緒に返事と小説の原稿とを手ず から彼らに渡した。魯迅の文蕪の《大原船上≫への評価は"写得朴実"であっ た。

この期間に短篇小説《伏伴≫を書きあげて、丁玲が主編している《北斗≫に 投稿したが、 《北斗≫はすぐに封鎖されたので、丁玲は原稿を周揚に手渡して《文 学月報〉に発表させた。投稿を通じて、丁玲が主催し召集した"《北斗≫読者座 談会"に参加するようになり、その関係で、丁玲と"左咲"の幾名かの指導者

たちと知り合い、左朕との関係が生じた。

〔内外の出来事〕

一月、左朕の青年作家柔石・殿夫・胡也頻・李偉森・鳩鍵の5人は国民党に 逮捕され、二月七日に上海の龍華偽警備司令部で秘密裡に殺害された。三月、

左朕への支援出版物《文芸新聞≫が創刊されて、五人の作家が殺害されたニュ

ースを暴露した。四月、蒋介石は二十万の兵力を動員し、中央革命根拠地へ向

けて、第二回目の反革命的な…圃削"を発動したが、五月には粉砕された。七

月、蒋介石は三十万の兵力を動員し、自ら総司令官に任じ、第三回の反革命的

杏"園削"を発動したが、九月には粉砕された。九月十八日、日本帝国主義が

我が東北を侵略し、 "九・一八"事変を発動した。蒋介石が無抵抗主義を実行し

たため、東北全部が陥落し、植民地となった。この日に"左咲"の出版物の《北

斗≫が創刊されて丁玲が編輯責任者となり、 《北斗≫は創作の討論関係の論文を

次々に発表した。十月、国民党は《出版法施行細則二十五条≫を公布し、反革

命的な文化"園削"を強化した。十一月、中華ソビエット共和国臨時政府が江

西省の瑞金に成立した。毛沢東同志が主席に選出され、項英同志が副主席、未

徳同志が紅軍総司令官となったo十五日、 "左咲"の執行委員会は《中国無産階

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中田喜勝

級革命文学の新任務≫という決議を出し、 "文芸大衆化問題の解決こそ実に新 任務が求めるすべてのことを完成させる道である。"ことを指摘した。同時に、

文芸大衆化委員会を成立させて、労働者・農民の主張を書くことを提議し、彼 らの"通信運動"を押し進めた。《北斗≫二巻には魯迅・郁達夫・茅盾・葉聖陶

・丁玲ら二十三名の筆談《創作不振の原因及び其の出路≫という文章が載せら れた。十二私通俗文芸綜合小報の《十字街頭≫方i上海で創刊された。これは

"左咲"の機関紙で魯迅が編輯責任者となった。この目、魯迅・周揚・鳩雪峰 らが文章を書いて、 "自由人"の胡秋原と"第三種人"の蘇沫らを批判した。

以上の"文蕪年譜"からそのビルマから上海までの足跡を要図にすると次の 通りである。

文蕪足跡要図

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文蕪覚え書Ⅵ

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[到ビルマに漂泊した文蕪

黄脚

少し前に、 《イラワジの流れ≫がx.蕪兄の南行記続篇の中の《野牛纂≫を転載 したので、ビルマの中国青年はラングーンに住んだことのあるこの老作家の作 品を読むことができた。文蕪は電野牛蕃≫の中で、彼自身がビルマ国境に近い 一軒の馬宿で、馬糞の掃除をしたことがあり、そこの主人の息子や娘に本を教 えたことがあると書いている。これは全くの事実である。この村はハモ一地方 の茅草地である。彼は四川・雲南から多くの山々を歩いて越え、方々で辛いア ルバイトをしながら、ビルマへと辿り着いたのだ。

それは一九二八年の春のことだが、文蕪は初めはラングーンの五十P尺路四番 地の騰越旅館に宿泊していた。しかし、宿代が払えず、それに病気にまで揮っ たので、旅館主の張天生は彼を編まして大きな病院へ診察にやり、帰って来る と、彼の包みを門口に放り出してしまった。彼がこのようにして追い払われて 困っていた時、幸いにも旅館のある人が同郷の万薯法師のところに彼を連れて 行った。その僧侶は人に本を教えて生計を立てていた和尚であったが、文蕪が 好んで文章を書くのを知って、ラングーン日報の副刊《波光≫に彼を紹介し、

彼に原稿を書かせた。これが彼の作家生活の始まりである。僧侶はまた彼を覚 民日章鋸こ紹介して校正の仕事に当らせたが、彼は一ケ月もすると辞めてしまっ た。法師に食事の僅話をするかたわら、《漂流在八莫≫ ・ 《野人山中≫ ・ 《万山叢中 的匪窟≫ ・ 《暴動前后≫を書き、 《墓上夜暗》 ・ 〈逃婚之夜≫などの詩を書いたが、

苦しい生活環境のせいで、書かれた詩には悲哀感があった。例えば"回首眠滝的 故郷、涙滴在異国的湖上"(ふりむけば眠・滝のふるさと涙は異国の湖畔に滴たる‑) というようであった。彼が四川の"新繁"の家から結婚を嫌って逃げ出し、更 に政治的な圧迫を受けたりして、遠く万里を漂泊しているということを私は後 になってから知った。こういうわけで、彼の作品には個人的な情緒が比較的濃 厚に表われている。彼はまた私の父親の生活をモデルにして《厨子≫を書いた。

当時、彼は湯道耕という本名で書いたが、後には荷裳・愛吾(文蕪)そして劉仁 というようなペンネームを用いた。私たちは彼をただ老湯と呼んだ。

文蕪は覚民日報で校正を担当していた時に、貴重遠見と知り合った。私がラ

ングーン日報の副刊に発表した数篇に彼は注目し、私も彼の作品を読んだこと

があった。重遠の紹介で私たちは"ルイチ"湖畔のガラバステイ区にある彼の

寓居を訪問した。文蕪がその時、着ていたのは雲南の兵端病院の雑役夫の制服

(注1)で、小さなテ‑ブルには数糖の本が置いてあったが、その中に馬寅初講

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演集があった。この書物は彼がバモーに辿り着いた時、旅費が無くなっても手 放さなかったものである。彼はこの書物の資本主義経済理論や唯物論・人生観

にまで言及した。というのは、当時、重遠が丁度、人生哲学の問題について思 索中であったからである。文蕪はこの私たち二名の十八・九歳の労働者と非常 に楽しく話をした。当時、彼も二十歳あまりに過ぎなかった。東方雑誌が創刊 されたその年に出生していたのである。

それ以後、私たちは殆んど毎週、 "ルイチ"湖畔の草地に腰を下ろして夜話し をした。当時、交際していた者は外に王思科̀段叢桂ら二・三人の雲商人がい た。時には帰宅する文蕪を私は市内の大通を約二哩歩いて送った。学校へ進学 できない私たちのような青年は友人と考えを交流する中から知識を得ていた。

だから大通りを歩くのを"大通り大学"の学習と呼んだ。四五年前、私は華僑 青年団員の友人の寝室に"他界、大学也:困苦、良師也"(世界は大学であり、苦し みは良師である。)という題字が懸っていたのを見て、なるほどと考えさせられた。

文蕪はゴォリキーを紹介した英字紙ラングーン公報の文章を読んで、すぐに華 語の新聞に発表したので、ゴォリキーの経歴は私たち数人の若い労働者を励ま

してくれた。華字紙がゴォリキーを紹介したのは恐らくその時が始めてであろ

う。

1928年12月11日のこの日から、文蕪は"ルイチ"湖畔には住まないようにな った。彼は市内の五十D尺路上段の151号の喫茶店の二階の小さな部屋に転居し て、失業者として暮らしていた。この期問に彼は《漂流曲≫を書いた。この詩 の一節を後に挙げておくが、彼の当時の心境を知ることができる。その後、彼 は百択路の平民学校で教えたことがある。間もなく、アロンのスパソン街に転 居した。この時の家は皆が銭を出し合って借りたものである。今では三十年あ

まりも前のことになるが、私は九文台のバスで通り過ぎると、やはりあのポロ の平屋建ての家を発見することができる。

この一年間に、ビルマ新幸酎ま中華工党に接収されたので、呉懐世・王思科そ してx.蕪によって編輯された。翌年に彼らはなお週報のようなものを作って二 期だけ発行したことがあった。 1930年に文蕪はマラヤから帰って来ると、林環

島が丁度、新芽小日報の発行準備をしていたので、編輯を手伝った。この頃、

彼は数名の植字工と河浜街にある家の二階に住んでいた。ここは後の印刷労働 者互助会の前身であって、私たちは、ここに訓練斑を作った。

1931年四月(注2)に文蕪たちは終に"熔印"を押されてビルマを離れた。彼

らの最後の寓居は当時の平民学校校長の察悟戊の家であった。彼の多くの住所

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文蕪覚え書Ⅵ

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についてこれまで特に書いたのは、彼が異常にまで移り変わり、不安定な生活 をしていて、とりわけ群衆の中に暮らしている一人の漂泊者であったことが分 かるからである。文蕪たちは帰国し、一度、度門へ行き、同安県の田舎に入っ て住んだ後、彼は上海へ行き、やっと文筆生活を始めたのである。

文蕪は1938年上海で、旧作の《漂流曲≫を選んで、魯迅先生に看ていただい たが、小ブルジョアジー的だと批判された。(注3)この詩の冒頭は次の通りで ある。

両天不曽吃飯二日、飯にありつかず 三天不曽睡眠三日、眠りもせず

十日看人家塀脇人と顔を合わせるのも嫌だし Jll日向人家乞憐人に憐みを乞うのも嫌だ。

文蕪自注:注(D:制服ではない。私が昆明で買った短衣で、一般の労働者 が着るものである。色は淡い藍色であった。 =兵端病院'つま"昆明赤十字社日と すべきである。注②:一月。注(㊨:このような事実は無かった。締卿の記憶違 いである。

上記B]の文章は「中国普代文学研究資料文蕪専輯」 (四川大学中文系編1979)に 収められている。

橿]華僑の詩人・翻訳家の黄縛卿を悼む。

文蕪

1928年の上半期に、万憲法師の紹介で私はある華僑新聞《覚民日報≫へ校正 の仕事に行った。それは華僑が経営している新聞であった。 1927年以前には、

この新聞は革新的な新聞で、かつてモスコ‑の留学から帰って来た高相琴に編 輯主任となってもらったこともあった。しかし、 1927年後は反革命路線へと走 って行った。私はその新聞の副刊へは文章をあまり書かないで、《ラングーン日 報≫の副刊にアルバイトで書いた詩や散文をしばしば投稿した。《ラングーン日 報≫は"五・四"運動が引起こした新しい文化に対して好意を寄せていた。そ

れが私がそこへ投稿した理由であった。或日、新聞のニュースを校正している

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中田喜勝

と、一人の若い植字工が私に会いに来た。彼は《覚民日報≫の植字工で黄兆湊 という名だと自己紹介し、《ラングーン日報≫のある植字工が《ラングーン日報≫

の副刊《波光≫に発表された私の詩が気に入って、私に会いたがっているとも 語った。私は仕事が終ったら会いに行くと答えた。その人の名は黄緯卿といっ た。当時、ラングーンの華僑新聞はみな日報と呼ばれていたが、実際には午後、

5・6時に印刷され、英文で書かれたものがイブニング・ポスト(Evening Post) であった。私は校正の仕事を終えて、 《覚民日報≫が在る五十択街から《ラング ーン日報≫が在る河浜街へ行った。黄兆湊が私を案内してくれた。彼は《ラン

グーン日報》の通用門から入ってから、すぐに一人の青年を連れ出して来た。

肥えていて、みたところ、十八歳に足りないようであった。彼の両手は黒く汚 れ、丁度、植字の仕事中で、素足であった。仕事中だったので、私たちは挨拶 を交わしてすぐに別れた。 《覚民日報≫の社長林宝華はEg民党側の人であったが、

私が国民党反対の文章をしばしば書くので、奇怪な対策を採用した。私の仕事 机の上に私宛の手紙が置いてあったので、開けて看ると、紙一面まっ黒に塗り つぶされてあって一字も分からなかった。私にはこの意味が分かった。私の辞 職を求めているのだ。私は早速、新聞社を辞めた。失業してしまったので、《ラ ングーン日報≫へ投稿する原稿がいっそう多くなった。黄緯卿は会いに来て、

私の文章は大部分を自分が組んだのだと言った。当時、私は万慧法師と一緒に ラングーンの郊外のカラパス第126条街に住んでいたが、そのあたりは殆んど が印度人の居住地区であった。"ルイチ"湖から離れていず、湖畔の大きな黄金 のパコダはその金色に輝く姿を見せていた。特に夜間には塔身に一連の電燈が

ぐるりと取付けてあったので、いっそう壮厳、華器に見えてすばらしかった。

私は黄緑卿とこのような湖畔で幾度か思い出に残る夜を過ごした。私たちは、

気に入った文学作品、祖国の重大な政変、華僑労働者の悲惨な生活そして帝国 主義のビルマ人への残酷な支配についていつも語った。彼は広東台山県出身で、

父母がラングーンに来てから生まれ、ラングーンが彼の生れ育った処であるこ とがそのうちに分かって来た。彼の父親は一生、大工で、生活は貧しく苦しか った。黄緑卿は小学校を卒業するとすぐに少年工の身分でラングーンの社会に 入った。彼は《ラングーン日報≫社で植字の仕事をしながら、組みあげる文章 からいろいろと学んだ。《ラングーン日報≫の副刊《波光≫は毎日、一回印刷され、

それには国内の進歩的な文章がたくさん転載されていて、黄緯卿の思想は進歩

し、自覚が促がされ、彼の知識のレベルも‑日毎に向上した。彼はソ咲を擁護

し、スターリンを擁護し、毛主席が江西・福建に建設した「ソビエット」地区

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文蕪覚え書Ⅵ w

をも擁護していて、一人の革命的な労働者として持つべき認識に到達していた。

ラングーンに成立していたマルクス・レーニン主義グループに彼は参加してい i&nm

1928年11月、ソ朕の国慶節を慶視するために、私たちは「手のひら」大の宣 伝ビラを印刷する準備をした。内容は英文のスローガンが二・三行書いてあっ た。例えば、 "Down with EnglishImperialism"のような類であった。印刷の 場所は私が万慧法師と住んでいた寓居であった。英語の活字はある印刷所から 盗んで来たもので、私ともう一人の人とで自分たちで印刷した。このことが万 慧法師に知られてしまって、"まきぞえ"になるのを避けるために、私は立去る ように求められた。私は住む場所が無いので、黄緯卿がある仕立屋に相談して、

職人たちが昼間に用いる長い裁縫台を夜間ベットとして私が使用することにな った。費用は僅かであった。熱帯地方のお蔭で、蒲団は要らず、本を二・三冊 枕にすればよかった。それはほんの一時凌ぎで、昼間は書きもの、をする場所が 無かったのでいつも困った。当時は《ラングーン日報≫の《波光≫という副刊 への投稿に全く頼っていて、その射二がしかの原稿料を生活費に当てていたの で、ものが書けなくなればどうして暮らしていけるだろうか。黄緯卿はまた対 策を考えて、五十呪路のある喫茶店の二階に一部屋見つけてくれた。この部屋 は仕切板で中間が仕切られていて、片方には福建人の夫婦二人が住み、片方に

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は私が住んだ。床の上は狭くやっと眠れるほどで、テーブル一台も置くことが できなかった。昼間は膝の上に硬い紙板を載せて書きものをして、住と仕事の 問題を全面的に解決した。その後、黄緯卿は《ラングーン日報≫の同僚である 二人の植字工を紹介してくれた。知り合いになったので、彼ら二人の独身者が 借りている比較的広い部屋に入って、私はやっと書きものをする机を持つこと

ができた。

1931年、私はビルマを支配しているイギリス帝国主義から追放されて帰国し て、上海に住み、全くの失業状態に陥った。手紙をやりとりしている海外の友 人は黄締卿一人だけであった。手紙の文面から彼は私が生活に困っていること

を知ると、華僑の労働者からカンパをして、いつも送金して私を助けてくれた。

私の生活が成り立つようにしてくれた。当時、何か仕事をすべきであったが、

左翼作家咲盟は私へ楊樹浦へ行き、漣文小学校の教師となるようにと依頼した。

王という校長には八元の銭を支払い、 (校長は授業を担当せず、渉外の仕事だけであっ

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中田喜勝

た。)私はすべての時間を教え、昼間は子どもに教え、夜間は男女労働者に補習 授業をしたのに、報酬は一銭もなかった。すべて友人から借金したりしていた が、殆んどは黄緯卿がビルマから送金し、援助してくれたものであった。 1931 年から1933年の春までは、自力で自分を養うことがやはりできなかった。 1933 年3月3日、逮捕されて、 9月27日に出獄してからは、私は書くことに全精力 を傾けた。生活書店発行の《文学≫や《申報・自由談≫などの出版物が原稿料 を出してくれるようになったので、やっと黄締卿の援助を求めなくてもよいよ

うになった。この時期の便りを通じて、彼がラングーンの新聞に書いた記事の 切抜きや新聞をよく受取った。新詩は上手に書けていた。私は《中流》半月刊 に彼の経歴や詩を紹介する散文を‑篇書いたことがある。その題名は《阿黄≫

で、彼が詩を発表した時に使ったペンネームである。今、三十年代の《中流≫

半月刊を捜し出して、黄縛卿の新詩《江上≫を読みかえしてみると、やはり深 い感動を覚える。

"在舶根上口阿,老大背, 我f門挨着肩頭井坐, 劃開了逆流的江波。

休場着馬釆丑的情歌, 我吹着答爾鴫的口哨,相和。

左船船底口阿,老大寄, 那裏熱得象鴫蟻上鍋。

吃苦的不単是我僧幾個, 在荘正的洋海裏過活, 還有我f門的工友許多。

生命値得甚磨.!

明天是赤道上経過, 又在浪潮裏消磨。

向弟兄1門報個謎息口阿, 我1門正空着触皮挨餓!

故郷是南中国的荒島,

わが友よ、サンパンの上に 僕らは肩よせて坐り

逆流する河の流れを漕ぎ分けた。

君がマレーの恋歌を唱えば 僕はビルマの口笛を吹く。

わが友よ,船槍の底に

そこは暑くて蟻が鍋で悟られるようだ。

僕ら数人だけが幸いのではない 広々とした海の上にも

僕らの働く友人たちが多いのだ。

生命は何に値するのだ.′

明日は赤道を通過して 又、波浪の中で疲れ果てる。

兄弟たちへ知らせてやろう 僕らは今,腹がペコペコだと。

ふるさとは南中国の荒れた島

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文蕪覚え書Ⅵ

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帰去荷起生錆的鉄鋤,帰って赤錆の鋤をかつぎ 再去幹他鳩的一炊,又、あの辛い仕事をしよう

我僧的生命,就是‑把火。"僕らの命は実に一にぎりの火なのだ。

この外にも、彼はラングーンの華僑新聞、主として私が《ラングーン日報≫

に発表したものを私に送ってくれたが、それは彼がずっと前から切り抜いてお いたものであった。 《夜景≫という短篇小説集の中の《毛新子≫という小説と《漂 泊雑記≫の中のいくつかの散文は黄緯卿が保管してくれていたのだと私は記憶 している。 1931年春、イギリス帝国主義が私を追放した時、私はラングーンの 拘置所から船へ護送されたが、着替えの服以外は何も携帯することが許されな かった。もしも黄縛卿の真心こもった切抜きが無かったら、私がラングーンで 書いた文章は浬滅してしまったに違いない。文章自体は大した価値も無いが、

その中に含まれた友情は非常に貴重なものだと言い得る。

抗戦期間、黄締卿との連絡が途絶えたが、ビルマから帰来した華僑に逢うと、

いつも黄緑卿の消息を知りたいと思った。日本帝国主義がラングーンに進攻し た時、黄緑卿は老母・妻・息子や娘を連れて中国とビルマとの国境地帯の山中 に逃げ、苦しい流浪の生活を過ごしたそうである。彼がどんな町や山村に住ん でいるのか結局分からなかったので、手紙を出すにも宛先が分からなかった。

抗戦は勝利に帰した。私は重慶の南温泉の田舎に住んでいたが、或日、中華 抗敵文芸協会から転送されて来た手紙を受取った。開いてみるとなんと黄緯卿

が書いたものであった。私は興奮し、嬉しかった。しかもその手紙には彼が重 慶にすでに到着しているとあったので、私は早速会いに行った。彼のラングー ンからの避難について詳細な情況がやっと分かった。彼の年老いた母親は彼の 一人息子を連れて一群のビルマ華僑と共に先ず広西のある県に逃げた。彼と妻 の甑采蘭は外の二・三名の子どもを連れて、後を追ってバモーへと逃げた。そ の後、顛末蘭は病死し、子どもも天折した。この期間に、中国軍のある部隊が

"レド公路"から来たアメリカ軍と合流し、ビルマのゲリラ部隊と共に雲南・

ビルマ国境の険しい山中で、ビルマに進攻し占領していた日本軍を撃退したこ

とがあった。彼は家庭の苦しみも顧みず、その中国軍の中でビルマ語の通訳の

仕事に従事して、抗日戦争に功労があった。抗戦が勝利に終ると、彼はその中

国軍の中に留まることを願わなかった。なぜなら、彼は労働者階級の立場に‑

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中田書勝

貫して立ち、社会主義と共産主義とを信じており、通訳の仕事を手伝ったのも、

実は抗日戦争を終結させようとする一種の愛国的任務だと考えていたに過ぎな いからだ。

その後、黄縛卿が書いた長詩《麗江行≫は彼が抗日戦争中に労働者階級の立 場を断固守っていたことを雄弁に物語っている。

《薦江行≫の副題は《鳥蒸沙抗日紀念碑作≫ (カサ一抹日記念碑のために作る)千 あった。

太公城畔古煤邦, 商状潅流両岸江。

我掬金沙曽濯足, 孤舟夜泊憶逃亡。

逃亡何処帰岨国, 流離骨肉無消息。

麗江江畔有聞入, 昔日粉郎今化石。

農炊猶記送郎行, 嘱我浦仇私愛軽。

家破人亡応有恨, 懲倭援緬共斯情。

東洋鬼子横行日, 論・落江頭城外匿。

曽窺形勢昔称雄, 楼船象戟今無匹。

消沈覇気元・明・清, 泥塑瑞姑亦把傾。

憂撤空余征緬恨, 昭和軍閥亦窮兵。

瑛踊三年間野巽, 忍教米市大怒粥。

盟軍返旅礁同仇, 溝撃緬民斉四伏。

太公城は古額の邦と畔し 商状は潜め流す両器の江。

我は金砂を掬ひ曽て足を濯ぎLに 孤舟夜泊、逃亡せんことを憶ふ。

何れの処に逃亡して祖国に帰らんや 流離せし骨肉消息なし。

㌍江の江畔閑人有り

昔日、郎を粉つも今は石と化す。

農に炊けば猶は記ゆ郎の行くを送りしとき 我に仇を浦ぎ私愛を軽んぜよと嘱せLを。

家破れ人亡べば応に恨み有るべし 倭を懲らし緬を援く共にこの情あり。

東洋鬼子横行する日

江頭冷落すれば城外に匿る。

曽て形勢を窺へば昔は雄を称せLも 楼船象戟今は匹ふものなし。

覇気消沈したり元・明・清 泥塑シエグーに亦把れ傾く。

カサ‑空しく余す征緬の恨み 昭和の軍閥も亦兵に窮す。

壊踊さるること三年、野巽聞こえ 米市の人をして粥を慈しむるに忍ぴんや 盟軍旅を返えして同仇を蛾にし

溝撃の緬民、斉しく四伏す。

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英蕪覚え書Ⅵ m

固吾辺園助芳隣, 誓掃倭奴不顧身。

今有僑人懐義烈, 建碑直立此江浜。

畳知同室操jt発, 抗暴精神随浬没, 当年共憤法西斯, 貴許戟魔連余牽.′

朝鮮越南尽血腫, 傭仰山河一髪青, 煙火偶数再蔓延, 倉皇戎馬忍重経。

壮士頭願誠有価, 若鳥自由能相仮, 須求民族総翻身, 肯与独夫謀天下?

血涙五年乾未乾 犠牲原亦歯髪寒 時代稚更同意義 応与援朝一様看。

抗日救亡鳥愛国 援朝抗美偽堪式, 挟衛国家保和平 志願未酬求貫徹。

君不見毛氏政策合持堅, 蒋軒反動背先賢, 革命進行須到底, 守衛相扶奮向前。

呼嵯乎策江釆神州古, 淘尽英雄牡足数 何時洗甲浴清流?

固より吾が辺園は芳隣を助け

倭奴を掃はんことを誓ひて身を顧みず。

今、僑大有りて義烈を懐ひ 碑を建てて此の江浜に直立せしむ。

室に知らんや同室文を操りて発したるに 抗暴して精神随って浬没せんとするを

当年、共にファシストを憤りLも 貴に許す戟魔の余撃を遺すを 朝鮮、越南尽く血月星きも

山河を傭仰すれば一髪の青 煙火もし再び董延せしむれば

倉皇たる戎馬は経を重んずるに忍ぴんや。

壮士の頭厳は誠に価有り 若し自由の為に能く相仮すれば

すべからく民族のすべて翻身せんことを求むべし 独夫と天下を謀るを肯んぜんや

血涙、五年乾きしや否や 犠牲はもとより亦歯髪寒し 時代更まると錐も意義は同じ

まさに援朝と一様に看るべし。

抗日救亡は愛国の為 援朝抗美は射ま式に堪ふ 国家を撰衛して平和を保ち

志願未だ酬いられざるも貫徹を求む。

君見ずや毛氏の政策はまさに堅持すべく 蒋軒の反動は先賢に背きたるを

革命の進行はすべからく底に到り 守衛し相扶け奮って前に向ふべし。

あゝ深江は神州より来ること古く、

英雄を淘尽せること数ふるに足り難し

何れの暗にか甲を洗ひて清流に浴せん

安定吾人第二故郷之楽土.!吾人の第二の故郷の楽土を安定せしめん。

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黄締卿はビルマへ帰って行き、ラングーンの地で再び文化工作に従事した。

彼はラングーンで生まれ、子ども、幼児、青年の時代をいずれもラングーンで 過ごした。彼はその土地を深く愛し、しかも、ビルマ文学の研究を止めようと はしなかった。

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解放戦争の期間、私たちは便りをしなかった。解放後、私が北京に居た時、

或るビルマ華僑が観光のため帰国し、黄緯卿からの手紙を頼まれて持参した。

それで、私は彼が四人の息子や娘たちを皆、中国へ帰国させ、中学や大学に学 ばせていることを知った。彼は祖国へ対し、それなりの貢献をすべきだと決心 して、息子や娘が祖国に帰って学習し、再びビルマへは行かず、卒業後は祖国 の社会主義のために尽力することを願った。彼自身は依然として文化的な職場 に在り、 《新ラングーン日報≫の副刊《イラワジの流れ≫のために編韓の仕事を した。祖国の社会主義の事業を賞讃し、更に我が国の華僑政策を広く知らせる ために大いに尽力した。

黄縛卿はこの外、ラングーンの華僑のインテリと…ラングーン朱波吟社"を 創立して、個人の心情を叙べるだけでなく、祖国の各方面の成果を讃えること が大切だと考えた。彼らが出した《朱波吟草≫ (1951年と1952年の詩を含んでいる。) には黄緯卿自身の《歌頒婦女英雄≫という詩があるのを私は見たことがある。

又、 《紅十月》と題する詩があって、彼の立場や観点が更に鮮明に表現されて いる。

三十五年先進血, 革命功成紅十月。

沙皇傾覆建蘇咲, 人類歴史従新発。

馬列思潮万馬奔, 星星之火可煉原。

影響東成新中国, 升年奮闘史重論。

多少犠牲鳥主義, 絞刑架上悲壮事。

昔吾報館作童工,

三十五年先進の血 革命功成り紅き十月 沙皇傾覆され蘇朕を建つ

人類の歴史は新しきより発す。

馬列の思潮に万馬奔り 星星の火は原を僚くべし。

影響して貴に成る新しき中国 三十年の奮闘、史に論を重くせん。

多少の犠牲ぞ主義の為に

架上に絞刑されLは悲壮の事なり。

普吾れ報館に童工となり

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文蕪覚え書Ⅵ

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鉛字曽排粒粒涙。

偉大感召李守常, 紅楼旧侶幾才回律。

精神迫附笹秋白, 血染中華泥土香。

而今革命己戦勝, 星旗顔色誰結凝?

祖国富強誰保証?

世界和平誰尊定?

斯大林,毛沢東, 中蘇友好東方紅 人民蔑称歌一曲,

鉛字曽て排べては粒々の涙。

偉大なり李守常(李大別)に感召し 紅楼の旧居幾たびか掴拝す。

精神は笹秋白に追付し 血染めの中華泥土香ばし。

しかるに今、革命すでに戦勝するも 星旗の顔色は誰か結凝せん

祖寓の富強は誰か保証せん 世界の和平は誰か尊定せん

スターリン・毛沢東 中ソ友好して東方紅し 人民は君がため一曲歌ひ 永遠不忘共産党之大功.′永遠に共産党の大功を忘れまじ。

五

黄緯卿はよく勉強していて、英語が分かるだけでなく、ビルマ語にも精通し ていた。ビルマの現代小説を中国語に翻訳することに尽力した。彼が編輯責任 者をしている《新ラングーン日報》副刊の《イラワジの流れ≫に度々発表した り、香港の《文芸世紀≫に原稿を渡して出版したりした。ビルマの小説を発表 する時にはいつも本文の前にビルマ作家の経歴や作品を紹介した。彼は発表す みの翻訳した作品を切り抜いて私に送ってくれたことがある。今、私の手許に 残っているのは1908年、イラワジ河デルタのスパン生れのウ・トンバン(筆名は ソジー)の短篇小説《安宝和四眼狗≫ ・ 《蒲甘市集≫・ 《他的妻≫がある。この外に 1909年、ハンダウティ県のグンリヤンコワン町の生れのミンウォン(本名はウォ ン)の短篇小説《旺伯伯,休編我.!≫がある。 1919年、イラブジデルタのクロ町 ミ‑タン村生れのタコワンタア(ビルマ作家協会主席になったこともあり、 1951年に中 国訪問記《中国,我1門的芳隣)を出版したことがある。)の短篇小説《早閲的莱荊≫があ

る。長篇小説《汚泥之蓮≫ (タンデンと共著で、英国帝国主義のビルマへの植民地支配を 暴露したもの。)を書いたことのあるり・トンパイが書いた短篇小説《断菜記≫が

ある。更にこの外、ビルマの女流作家トママリ(1958年初、中B]を訪問したことがあ

る。)の短篇小説《一杯伽排≫がある。彼が訳したビルマ小説はきっとこれだけ

ではないと思うが、私が今、持っているものは以上のものである、。彼はこの外

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中田喜勝

に多くのビルマ詩人の新詩を翻訳したことがある。私のところには彼が訳した 詩は残ってはいないが、ソジー(前に紹介した小説作家)の詩を他人が訳したもの を彼がその誤訳を指摘した文章《潜水節之歌・訳錯了≫が残っている。これは 別の訳者が英文から訳出したものである。黄緯卿は英文を引出し、またビルマ 文を引出して両者を比較対照し、訳出された中国語に重大なミスがあることを 明らかにした。英文の詩の中の北印度の"印地語"は英文の分かる人でもなか なか分からず、ビルマ詩の原文を参照してはじめて分かるのである。このよう なことからでも、黄緯卿がビルマ語とビルマ文学について造詣が深いことが知 られるのである。

50年代に(大体、 1958年)、黄緯卿がビルマ華僑の観光団と共に一度帰国したこ とがあった。私たちは北京で再び会った。私たち二人の友情の中で最も楽しく、最 も興奮した会見であった。なぜなら、私たちが若い頃にラングーンのルイチ湖 畔で語り合った夢や祖国への希望がいずれもすでに現実となっていたからであ

る。人生の最大の幸福と言わずに何と言おうか。しかし、彼は《新ラングーン 日報≫副刊の《イラワジの流れ≫の重要な職に在ったし、ビルマ文学を引続い て研究する情熱をも持っていたので、間もなくラングーンへと帰って行った。

■l■事日

!ヽ

"文化大革命"の運動が始まって、私と黄緯卿との通信は中断されてしまっ た。 1972年3月、私は軍事管制下の臨時監獄から釈放されて出獄したが、彼の 息子や娘への通信の宛先を何とかして尋ね出そうとした。黄緑卿の生活の様子

を知りたいと思っていたが尋ね出すすべがなかった。幸いなことに、文学好き の青年石祖英同志が60年代終りと70年代初めに黄緯卿と会ったことがあって、

私が黄締卿の親友であることも知り、黄緯卿が私を懐しんだ詩をも見たのであ った。詩題は《懐友≫で副題は《読報知文蕪兄在重慶〉で、 1950年ラングーン で書かれたものであり、 1950年にラング‑ンで出版された《朱波吟草≫に載っ たものであった。

廿年前此種紅胎, 街巷驚呼共党来。

工作不離印緬族, 闘争曽唱蘇膿嬢。

今聞怒帆伝天外,

二十年前此の種は紅き胎あり 街巷は驚き呼ぶ共党の来ると。

工作は印・緬の族を離れず 闘争には曽て暗う蘇推填。

今聞こゆ怒帆の天外に伝はるを

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文蕪覚え書Ⅵ

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自悦噴吟隠市隈。自ら悦づ癖吟して市隈に隠るるを。

休我莫寧児女累,君も我も児女の累をあげつらふことなく 揮拳抗暴亦登台。拳を揮ひ暴に抗して亦台に登らん。

この詩は読んだことがなかったが、幸いにも、この同志が書き抜いて、私に 教えてくれた。このことは私たちが遠く離れていても、いつも互いに懐しんでい

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ることの証しである。そして、私は黄縛卿の後半生の悲惨な様子を知った。

1967年、黄縛卿はビルマ当局から共産党員だとみなされて、追放され帰国し た。彼はビルマを離れる際に、我が国の駐ビルマ大使館に尋ねて行くと、慰め

られ、帰国したら"外事処''へ行けば適当な仕事を世話してくれると言われた。

ところが後妻を連れて武漢の長男の家へ行くと息子夫婦の負担が増えたのであ る。息子と嫁はどちらも低い収入で、しかも自分たちの息子や娘がいるので、

どうしても負担に堪え切れないのだ。度々、外事処なる所へ手紙を出して援助 を求めたが、返事が無いばかりか、みな手紙が返送されて来た。なんと、林彪

・"四人組"が横行していた時期で、多くの役所は潰されているか又は麻痔して いた。一身の苦痛を胸に祖国の懐に帰って来た海外の帰国華僑の世話をしてく れる者は誰もいなかったのだ。僅話をしてくれないのはそれでもよいとして、

困ったことに、林彪と"四人組日を援助する派閥の流れがまだあって、最左翼 の旗を押立て、やみくもに黄緯卿を"外国政府が派遣し、帰国させた特務"と 極めこみ、それで家を数回荒らされ、徹底的な恥辱を受けた。黄緯卿は祖国に 住んでいながら無実の罪に申し開きもできない苦しみにどうして堪えられよう

か。 1970年の年末、中風に揮って半身不随となり、ベットに臥す身となったが、

医者に診てもらう銭も無かった。長男は地質学院卒で医学には全く門外漢であ ったが、黙ってもおれないで、自分で針治療を試みた。誰が考えても分かるこ とだが、その効果は無かった。黄緯卿は病の床に在りながら、楽観的で、少し 良くなったらビルマ語・中国語の辞典を編集してできるだけ自分の才能を役立 たせようと考えていた。不幸にも、病気はますます重くなって、話すことも困 難になり、 1972年、とうとう武昌で逝去したのである。一人の労働者出身者が 共産党の指導する祖国を心から愛し、海外に在っては阻国の成果をいろいろ宣 伝し、苦労を嘗め尽くしたのである。この華僑詩人が不幸にも無実の罪を背負 い、深く愛した祖国に於いて死んだということは実に悲憤憤慨の極みである。

林彪・"四人組"の罪は実に大きく、紙筆に尽くすことができない。永遠に恨め

しいのである.!

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中田喜勝

1979年3月20日干成都

上記B]の文章は「文蕪近作」 (四川人民出版社1981)に収められている。日本軍 国主義が黄緯卿の家庭的不幸の起点となっていることが分かる。遺憾の意を表

したい。

法師の円寂

万慧法師は私の恩師であり、ラングーンで一緒に暮らしたことがあるので、

私は師の経歴を知っている。この度、南行の旅で、帰国華僑から師の世を去っ た様子を知り、更に師の詩集《慧業精舎吟草≫を尋ねあてたので、この小説を 書いて、哀悼の意を表する次第である。

ぬし

山の洞窟暮らしの主は頗る学識ある老法師であった。中華人民共和国仏教協 会から、帰国して講義をして飲しいという要請の手紙を突然受取った。 (手紙に は仏教学者馬‑淫の手紙も同封してあった。)それは何と喜ばしいことであったろうか。

嬉しさで息も全くつまりそうであり、何か非常に重い物に体が圧しつぶされた ようであった。

洞窟の入口の緑の藤蔓には点々と黄色い小花が咲いていた。日頃は見慣れて いて、二度と看る気はしないのだが、その日は異様な光りを発しているようで、

目を奪うばかりの美しさであった。洞窟の上の林で咽る鳥の音も、日頃はあっ さり聞き流していたのだが、その日は何時もとは違って、椅寛な鳴き声であっ た。マンゴの木も椋欄の木も艶のある落着いた色をしているが、その日も人々 へ微笑みかけていた。

祖国を離れてからもう五十年あまりが経っていた。帰国の機会を得たことは 誠にこの上なく嬉しいことだ.′

始めて国を出て、悲憤の思いを胸一杯にしながら、四川の成都から貴州・

雲南を徒歩で通過し、更にビルマ経由、印度へ行ったのである。

何が師を苦しめたのだろうか。

師は日本の京都で学び、ある女子学生と知り合った。彼女も師と同じく、国 を出て留学していたのである。二人は祖国や家族と遠く離れ、異国での暮しが 寂しいので、学業のことを話したりして次第に接近し始め、一緒に桜見物した

り、嵐山の林を散歩したりした。繁華街の喫茶店や市内の書店街にも二人の親

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しげな姿が見られた。帰国の際に、婚約をし、家の同意の上で結婚するつもり であった。師の家は代々、役人を出していて、彼女の家を見下していた。しか

も男女が勝手に知り合って愛情を持つことには反対で、そんなことは非常に不 当なことであり、恥辱であると考えていて、その結婚に断固反対した。彼女が 悲憤の中で死んだことは師にこの上ない心の傷を残こした。当時、師は成都で 中学の英語教師をしていた。家は師に有無を言わせず見知らぬ女性と強引に結

がくね

婚させようとした。女の家から花嫁道具が届けられ、翌日は楽の音も空に響い て一生の大事がとり行なわれようとしていた。師は非常に激怒したが、阻止し ょうもないままに、結婚式の前夜、一人こっそりと成都の大意寺へ行った。そ の寺は唐代から続いている寺で、玄笑もかつて住んだことのある場所であった。

師は寺の主僧である方丈和尚へ、出家して仏門に帰依する決意を打明けた。し かも成都には留らないことを願った。そこで、早々に結婚式の当日、草軽ばき で貴州へと逃げ出し、方丈和尚が最初にいた寺の安順県の万華寺に行き、頭に 受戒の"もぐさ"を焼いて仏門に帰依した。そして、徒歩で雲南へ、更にビル マに入り、印度へ行った。サンスクリットを学び、仏典を研究し、凡俗を脱し て聖人となり、西方の極楽浄土であの純真な乙女と会うことを願った。日本留 学当時、師は彼女と奈良の唐招提寺に参詣し、鑑真大師の遺像を脆いて拝んだ

ことがあったので、西方に極楽浄土があると信じ、しかも俗な浮仕で夫婦と なるだけでなく、百年後にも西方の極楽浄土へ共に行き、永遠に離れ去ること がないようにと望んでいた。

師は一人で貴州・雲南の荒涼とした山野で、独り山壁を旬い、河川を渡渉し ても、別に孤独の寂しさを感じなかった。そして彼女の麗しい面影が師の身辺 に扱き従っていたのである。広い泊池ではその煙る波間に和服姿の彼女がひら ひらと舞うのが見え、椅寛か耳海ではその湖畔で黄色い袈裟姿の彼女が花を摘 みながら微笑しているのが見えた。何処までも続く樹海では鳥の美しい鳴りを 耳にし、孔雀が飛ぶのを目にした。それらは彼女が送り届けてくれたものと思

って心楽し'く、旅路の退屈が慰められたのであった。

釈迦卑尼が誕生した聖地、ブッダガヤに到着したが、そこには僧を泊めてく れる仏教寺院も無く、托鉢したり経を唱える仏教の僧侶も居なかった。目にし たのはただバラモンの追随者又はマホメットの信者であって、師は大いに失望 した。しかしサンスクリットの学習にはやはり熱心であった。師はバラモン教 徒のサンスクリットの専門家について学び、更に彼らの家に寄宿した。学費・

食費・宿泊費を支払わねばならなかった。食べ物を恵んでくれる人もなく、布

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中田喜勝

施を求める手だても無かったので、生きることが大問題となった。師の家は裕 福であったが、関係を一刀両断にしてしまったので、一銭さえ求めることはで きなかった。それで北京大学の察元培に援助を求めた。財布の紐を解いて義摘 金を出してくれた教官もいて、周樹人すなわち魯迅も十元を寄附した。 (魯迅の 日記にも師の日記にもこのことが記してある。)師はさらに北京大学の刊行物に原稿を 書いた。その外、上海の張東藤が編輯している《時事新報≫の海外通信員とな ったこともあった。これらの僅かな原稿料がいくらかの支えとなった。師はサ ンスクリット語だけでなく、バリー語も学んだ。サンスクリットは釈迦牟尼在 世中の文語文であり、バT)一語は当時の口語文であったが、近代ではいずれも 古文になってしまっている。これら二種類の古文を学ぶ以外にも印度の近代"印 地語"を学んだ。師はこれらの言語学習に著しい進境を示した。なぜなら、節 は英語が話せたし、英語は印度学術界のインテリの間で通用した言語であった ので、英語を媒体とするせいで、学習上、非常に便利であった。師は大いに経 典を研究し、さらに印度哲学を研究した。仏教の流派をはっきりさせるために、

師はチベット語・蒙古語・ビルマ語を学習した。要するに、師の全精力は学術 の海へ投入されたのである。まだ印度に居た頃、印度娘の中に彼女の面影が見

えたことがあった。額に一粒の赤い砂をつけていたが、その面影もすぐに書物 の後の方へ消えてしまう程であった。現実の暮らしはますます情容赦なく、書 斎にまで入りこみ、師の手にする筆はなくなり、書物は持ち去られて、暮して 行けないようになった。

以前、北ビルマから南ビルマまで、仏教を信仰するこの国を親しく理解して いたので、憎としての師は大変尊敬された。しかもビルマの華僑は三十万あま

りいて、印度より何倍以上もいた。彼らはみな仏教を信仰し、なお中国風な寺 院を建立した。師は印度に十年あまり暮したが、やって行けなくなったので、

ラングーンに行って居を定めた。師は印度の人々やインテリに対して好感を持 っていた。ラングーンは印度人が多く、ガラバスティーという一地区に彼らだ けで住んでいた。師はその地区に住むようになっても、印度人と交友関係を続 けた。

ラングーンのハハン地区に龍華寺という華僑が建立した寺院があって、中国

から来た僧が中に住み、仏を伺っていた。ところが、師はそこへ行って住みた

くなかった。なぜかというと、師は仏寺の迷信を看破していて、一人の学者と

して学術研究に糟を出したかったからであった。身につけた円襟の黒い僧衣は

すでに着慣れていた。更に、あの純潔な乙女に顔向けできるように、生涯独身

参照

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