長崎大学教善部紀要(人文科学篇) 第21巻 第2号 1‑25 (1981年1月)
シルク・口ードに於ける岑参の詩
中田喜勝
Cen Shen's Poems along the Silk Road
YOSHIKATSU NAKATA
まえがき
近時、巷間に「シルク・ロード」への関心が高まり、各地で研究会・講演会 などが開催され、またその出版物も多くなっている。本年10月2日長崎空港か ら訪中の際、 「敦煙の旅」という旅行団と同乗し合わせたほどであった。
このような時勢に、「シルク・ロード」と文学との関係を考えてみると、やは り唐代の辺塞詩なるものが最も関係が深いと考えられる。王翰・王之換・王昌 齢・高速・岑参ら所謂「辺塞詩人」の中で、最も関係が深いのはやはり岑参で
ある。
彼は二度も「シルク・ロード」を往来し、通算5年余りも西域の地で過ごし ているのである。
そこで、彼の旅程を追いながら、岑詩に反映された風物の一端、及び彼自身 の感懐を看てゆくことにしたい。
所収の詩はいずれも「望郷」の真情が吐露され、しかも比較的人口に腺炎し たものを選んでみた。
「離家望郷」の想いこそは古今東西を問わず、人をして感動させるものであ
じんかん
る。それは人間に普遍した純粋な想いでもある。
先ず岑参の家系と経歴とを調べ、次にシルク・ロード上の足跡や詩について 考えてみたい。
圧]軍事の家系と経歴
岑参は唐の剃州の江陵の人。その祖先はもと南陽(今の河南省鄧県付近)の錬陽
に居住していた。梁の時代に、長寧公の書方が始めて江陵(湖北省に在り)に移っ
2 中田書勝
た。書方以降の家系を図示すると、次の通りである。
善方‑之象
参
佐 公
・ R T 卓 見
文叔‑長情 虚源
廉成 献⊥丁定
萄
a>堊
仲 休
‑ 塞
‑ 質
(聞‑多の「琴嘉州繋年考証」による。) 琴参の感旧賦(全唐文358)の序に、 「国家六菓吾門三相央」と述べてある。
六葉とは唐の高祖から玄宗帝までの六代の天子を指し、三相とは三名の大臣の 意である。すなわち、参の曽祖父の文本が太宗に、伯祖父の長情が高宗に、そ
して伯父の義が容宗にそれぞれ大臣として仕えたことを指している。
祖父の景借は衛州(河南省汲県)の刺史、宏文館学士であり、父の植は若くし て修文生に補せられ、明経科に及第して、同州(陳西省大蒜県)参軍となり、最後は 仙・音二州の刺史を勤めている。この間、潤州(江蘇省錬江県)の県令時代には善 政を施したので、頒徳碑が建てられたと云う。次兄の琴況は単父県令、その後、
湖州別駕となり、長兄の琴洞は澄城県丞で終った。
要するに、琴参は没落した官僚地主家庭の出身ということができる。
次に聞‑多の「琴嘉州繋年考証」に基づいて、琴参の年譜を作成してみる。
シルク・ロードに於ける琴参の詩 3
玄宗開元3年 (715) 1歳
〃7年 (719) 5歳 I/ 8年 (720) 6歳
* 11^
(723) 9歳
* 17^
(729) 15歳
* 18^
(730) 16歳
* 22年 (734) 20歳
〟 27年
(739) 25歳
* 28年 (740) 26歳
* 29年 (741) 27歳
天宝元年 (742) 28歳
〃2年 (743) 29歳
琴参年譜 仙州に生まる。
始めて読書す。
父が普州刺史に転じ、これに従って曹州に至る。
始めて文を作る。
居を河南府の登封県に移す。父、死去し、家貧し。
居を穎陽に移す。
始めて長安に至る。その後10年間に、長安・洛陽間をしば しば往来す。
長安に在り。
長安に在り。
この年、河朔に遊ぶ。春、長安から耶郡に至り、井陸を経 て貝丘に至り、暮春、貝丘から糞州に至る。八月、匡城から 鉄丘を経て滑州に至り、遂に穎陽に帰る。
長安に在り̀。
歳晩に「感旧賦」を作る。
4
天宝3年 (744) 30歳
*4年 (745) 31歳 7^
(748) 34歳 I, 8年 (749) 35歳
9・
(750) 36歳
* 10^
(751) 37歳
* llf」
(752) 38歳
12*?
(753) 39歳
* 13^
(754) 40歳
* 14*f
(755) 41歳
中田書勝
長安に在り。この年、第二位で進士の試験に合格し、右内 率府兵曹参軍を授けらる。
長安に在り。
長安に在り。この年、顔其卿の河恥へ赴くに当り、之を送 る詩あり。 (胡筋歌送顔異卿便赴河牒)
安西四鎌節度使の高仙芝入朝す。この時、右威衛録事参軍 となり、節度使の幕下に入り、安西に赴く。
安西に在り。
武威に至る。四月、諸朗が大食軍と共に四銭を攻撃す。高 仙芝は蕃漢連合軍三万の兵で之を迎撃す。五月に出兵し、
恨薙斯(タラス)で大食軍と遭遇したが、仙芝の蕃軍が叛 き、大食軍と共に唐草を攻めたので、仙芝の軍は大敗す。
仙芝出兵の際、琴参は武威に留った。
長安に在り。この年の秋、杜甫・高速・儲光義・醇錬と共 に慈恩寺の塔に登り、詩を作る。
(奥高遠醇捷萱慈恩寺浮薗)
長安に在り。この春、顔真卿出でて、平原郡太守となり、
之に贈る詩あり。 (送顔平原)
この年、安西四鎌の節度使の封常滑入朝し、 3月に北廃部 護伊西節度瀞軍使となる。琴参は大理評事・監察御史とな り、安西北庭節度判官に任ぜられて北庭に赴く。 5月に常 滑が出兵西征したが、琴参は後方に在った。 7月'、'輪台に 至る。
輪台に在り。この間、北庭に行くこともあった。 11月、安
緑山反し、封常清は長安に召還さる。
シルク・ロードに於ける琴参の詩
粛宗至徳元年 (756) 42歳 2%
(757) 43歳
乾元元年 (758) 44歳 2^
(759) 45歳 上元元年 (760) 46歳
・y 2年 (761) 47歳 代宗宝応元年 (762) 48歳 広徳元年 (763) 49歳
〃2年 (764) 50歳 永泰元年 (765) 51歳
大歴元年 (766) 52歳 2^
(767) 53歳 3^
5
輪台に在り。官職は伊西北庭支度副使。
歳晩に東に帰る。
2月、粛宗は鳳期に行幸し、琴参も6月、鳳期に行く。杜 甫ら5人に推薦されて、右補槻となる。 10月、粛宗に従っ て長安に還る。
長安に在り。杜甫・王維・賓至らと盛世を唱和す。
長安に在り。 3月、起居舎人に転じ、 4月、錬州長史とな る。
親州に在り。
寄虎州に在り。
太子中允となり、殿中侍御史を兼ね、関西節度使判官に任 ぜらる。
長安に在り。考功員外郎となる。
長安に在り。虞部郎中に転ず。
長安に在り。庫部郎中に転ず。 11月、出でて、嘉州刺史と なり、赴任したが、苛が乱れていたため、梁州まで行って 引返えす。
年初は長安に在ったが、 4月、益昌に至り、 6月、剣門に 入り、 7月、成都に到著す。
6月、始めて嘉州に赴き、刺史に任ず。
嘉州に在り。 7月、官を罷め、東へ帰らんとし、戎州に至
6 中田書勝
(768) 54歳って、群盗に阻まれ、北へ行くことをやめ、成都に至る。
大歴4年成都に旅寓す。
(769) 55歳
・'5年正月、成都の旅合にて辛す。
(770) 56歳
琴参の経歴については、明の楊保も不満を述べているように(明・正徳十五年
・萄刻本・琴暮州詩序)、新・旧の雨唐書のいずれにも記載がない。しかし、琴参 の「感旧賦」では、自らの家系と三十歳以前の経歴とを述べ、また、杜確は琴 参の詩集の為の序文の中で、琴参の事蹟を比較的詳しく述べている。
[司等参の足跡
シルク・ロード上のいずれの地点に琴参は足跡を留めたのであろうか。年譜 から明らかなように、彼は天宝8年(749)、 35歳の時から天宝10年(751)、 37 歳の時までの3年間と天宝13年(754)、 40歳の時から天宝14年(755)、 41歳の 時までの2年間、合計5年間あまりをシルク・ロードに沿った辺境の地で過ご
している。
年譜から、安西・武威・北庭・輪台という彼の所在を示す語をすぐに挙げる ことができる。これ以外の処は、琴詩を考察することによって知ることができ る。
そこで、先ず琴詩の考察から始めたい。幸いなことに同学、上尾龍介氏の「琴 参の辺塞詩」と題する論文(日加田誠博士還暦記念中国学論集・大安・昭39)がある。こ の中で、同氏は琴参・高速・李億・王昌齢・王翰・王之湊の詩に現われる地名 乃至場所名の頻度数を挙げておられる。これに基づいて、その頻度数の多い順 序に琴参の分を配列すると次の通りになる。括弧内は頻度数を示す。
輪台(23) 安西(10) 玉門関(5) 蒲昌海(4) 燕支(2) 亀鼓(2)
天山(13) 武威(6) 泉谷(5) 熱海(4) 所連つ2) 銀山碩(2)
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斎関(1)
シルク・ロードに於ける琴参の詩 7
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括弧内の数字は琴詩の性格の一端を知るのには実に有益である。しかし、これ らの数字は、必ずしも琴参が実際にその場所へ行った回数を示すものではなく、
ただ詩中に現われた回数を示すだけである。
そこで、琴参が確実に行った場所を知るためには、詩の内容、特に詩題や詩 句に注目しなければならない。
「琴詩系年」 (李寡言・「文学遺産・増刊三輪」・作家出版社1957北京)に基づいて、
琴参が確実に行った場所及びその判断の根拠となった詩の題目を示す。便宜上、
第一回と第二回の赴任とにそれぞれ分けて示すと、次の表I ・表Iの通りであ る。
表工第一回赴任(749‑751)
12
詩題
初過瀧山途中呈字文判官 西過洞州見音胃水思秦川
3.過燕支寄杜位 4.玉門寄長安李主簿 5.過碩
6.銀山碩西館 7.経火山
89
安西館中思長安 寄宇文判官
10.早車馬者懐終南別業
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H H
= 日 日
場所 隙山
I (甘・鵜西県西南)
陽 葛 武威春暮字文判官西使遅巳到音昌一一一・‑‑‑・・‑武 涼州館中興諸判官夜集
臨挑客舎留別郎四
表Ⅱ第二回赴任(754‑756) 14.赴北庭度能思家
間 者 威
州
臨挑(甘・臨滞西南)
00
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56
車臨挑将赴北庭留別 過酒泉憶杜陵別業 7.碩西頭送李判官入京
中田書勝
泉
8.走馬川行奉送封大夫出師西征‑・・‑‑ ‑ ‑‑・・北庭
OOt‑ICMCO"**LO<OC‑
輪鼻歌奉送封大夫出師西征 誉北庭北棟室碁申請公
輪台 北庭 使交河郡郡在火山脚其地苦熱無雨雪厳封大夫‑・‑交河
日没賀延碩作 宿銭関西館 首秋輪畳 玉門閥蓋婿軍歌 酒泉太守席上酔後作 題首荷蜂寄家人
賀延膚 鉄門関 輪台 玉門関 酒泉 首荷燦 場所について少し所要な説明を加える。
○詩題5
過硬の砂漠は何処であろうか。 「新唐書」の地理志に「伊州・西州有沙頑。伊 州・西州均在安西之西。」とある。伊州は今の喰密、西州は今のトルファン付近 である。琴詩に伊州が見当らないので、トルファン付近の砂漠を指していると 者えられる。但し、 「安西之西」の安西は特定の地名ではないようである。
○詩題9
李善言はその「琴詩系年」の中で、この詩に注して云う。 「詩に二年領公事 両度過陽関と日っているので、安西に到着してから二年のうちに、公用で二 度、陽関を出入したと考えられる」と。この注の「安西」は何処を指している のであろうか。当時、安西都護府の所在地、今の庫車を指しているとすれば、
そこから陽関までは遥かに遠い。直線距髄で約‑千粁以上、しかも途中に広大 な砂漠がある。たとえ騎馬で往来したとしても、相当な日数を要するであろう。
二度も往来することが果して可能であったのだろうかという疑問が残る。
一方、安西を以前の安西都護府の所在地、交河(今のトルファン付近)と解すれ ば、陽関との往来は不可能ではない。琴参が今の庫車まで果して行ったのかと いう疑問が残るわけである。しかし、 「安西館中思長安」と題する詩もある。
○詩題16
「琴詩系年」の注には、 「前回の時かも知れぬが2.回目のものとしておく。」と
シルク・ロードに於ける琴参の詩 9
ある。
○詩題7・21
蒲昌の東と、交河の近くに火山と称されるものがあったことが分かる。当時 は活火山があったのだろうか。 (火焔焼膚雲)今の「火焔山」と呼ばれる山であろ
うか。
○詩題27
「琴詩系年」の注に「蓋将軍は蓋庭倫・至徳元年の詩」とある。
要するに、表I ・ Ⅱの場所が現在の何処に相当するものか、その比定は「新 唐書・地理志」・ 「古今地名大辞典」及び「琴詩系年」の注などによれば、大し
て困難な作業ではない。但し、うっかりすると間違い易い場所がある。それは 輪台と鉄門関とである。
先ず輪台については、 「辞海新版下」の2570頁に次のように記してある。
①古地名。在今新彊輪台南。本会頭国(一作輪台国)、漠武帝時、鳥李贋利所 滅、置使者校尉、屯田干地。武帝晩年頒礫〈輪台罪巳詔〉中的輪台即此。
后井子亀並。
②古県名。唐貞観中置。治所約当在今新彊米泉県境。貞元中地入吐蕃0 (彰唐轟麿都督府名。顕慶二年(657)平西突厭析其部落置、故地当在当時的
輪台県附近一帯。
@県名。在新彊経書ホ自治区音郭樗蒙古自治州西部,天山南麓,塔里木盆 地北縁。清末置解。産玉米、小夢、棉花和梨、杏等。公路東通庫ホ勤,西 達阿克蘇。
実際に琴参が行ったところの輪台は、 「琴詩系年」の注に「"新書" "地理志", 北庭大都護府有輪台県。」とあるように、 ②の輪台である。 ④は現在の輪台であ
る。唐代の輪台であったら、 「平明賛輪喜暮投交河城」 (使交河郡郡在火山脚其 地苦熱無雨雪厳封大夫)とはならない。今の輪台から当時の交河の地へ、朝出発 して夕暮れに到着できるはずがない。直線距離ででも約400粁ある。 (彰は漠代 の輪台であって、琴参の足跡はない。 ②に貞元中地入吐蕃とあるが、貞元は、
785‑805の期間であり、琴参が輪台に居たのは755・756年である。当時はまだ 唐朝の支配下にあったのである。
次に鉄門関について、 「辞海新版下」の3282頁に次のように記してある。
(彰在新弓轟経書か自治区悪者和庫ホ勤間。孔雀河流経構成十四公里長的陀嶋
lO 中田書勝
峡谷,形成険峻的鉄門関。
(夢見"鉄門"
鉄門の項には次のように記してある。
古地名。故地在今蘇聯烏立別克南部禿ホ貫特西約十三公里,鳥古代中立 南北交通線所経,左右菅山,形勢険要,見(大庸西域記)第一巻。蒙古 時代称鳥鉄門関。見(元史・太祖本紀)
実際に琴参が行ったところの鉄門関は、「琴詩系年」の注に「̀̀新書ご"地理志" (巻四 三下)、自葛者西五十里過鉄門関。」とあるように、 ①の鉄門関である。 ②のは蒙 古時代にそのように称せられたとある。また、位置もあまりにも遥かに西に 在り、ソ連ウズペック南部に在って、そこまで琴参が行ったとは考えられない
し、その必然性もない。なぜなら、年譜にも示すように、高仙芝・封常滑の出 兵の際には、琴参はいずれも後方に居たのである。また、詩句からも鉄門関の 位置が推定できる。すなわち、 「銀山蹟西館」 ・ 「天山雪歌送粛治線京」と摩する 詩から、鉄門関は銀山硬と大して敵れていない位置に在ることが分かる。銀山 硬は悪者の東方に在る。 (新庸書・志第三十・地理四)
北庭と交河とについては、その比定は比較的容易である。すなわち、北庭は 北庭都護府のことであり、庭州に設置されていた。庭州は今の新彊省吾木薩ホ (チムサ二)の北にある破城子である。位置はウルムチの東方、トルファンの 西北方に当たる。金満城とも呼ばれた。交河は漠代の車師前王国の治めたとこ ろであり、トルファン県の西に位置している。 「古今地名大辞典」 (商那P書館) にはそれぞれ次の通り記されている。
庭州:唐貞観中討高昌。西突厳催而乗降。以其地置庭州。漠車師後王庭也。
交河:藻草師前王国治。庸置交河郡交河麻。嘗建安西都護府於此。故城在新 彊吐魯番県西。
庭州(金満城) ・交河・輪台の位置の関係を図示すると次頁の通りである。
図中の西川五県・庭州三県がそれぞれ高昌・交河・天山・柳中・蒲昌と金満
・輪台・蒲類であることは明らかである。これら各県は西北方から侵入する異
民族を阻止する重要な拠点であった。しかし、唐王朝は安緑山の乱以後この地
帯さえ保持できなくなるのである。
シルク・ロードに於ける琴参の詩 ll
柳
注:松田寿男「古代天山の歴史地理学的研究」より。
最後にやはり「安西館」の所在が何処であるのかという問題が残る。そこで、
「安西館中思長安」と題する詩について考えてみたい。その詩は:
家在日出鹿家は日の出づる処に在り 朝来起東風朝来東風起こる 風従帝郷東風は帝郷より来たり
あや
不異家信通家信の通ずるを具しまず 絶域地欲轟絶域地尽きんとし 孤城天逐窮孤城天遂に窮まる 頚年但走馬弥年但だ馬を走らせ ぴねん
終日随親蓬終日親蓬に随ふ 寂莫不得意寂実として意を得ず
まさ
辛勤方在公辛勤は方に公に在り 胡塵挿古塞胡塵古塞に浄く
兵気屯連空兵気辺空に屯す
郷路抄天外郷路抄として天外
12 中田書樺
線期如夢中帰期夢中の如し
よ
逢葱長房術遥か長房の術に懲り
鳥掃天山東天山の東を縮むることを為さん
この詩は、安西の館中に在って長安を思う詩である。当時の安西都護府はすで に西州(今のトルファン東南バラホトの故城)から亀並に移っていた..今の安西は唐 代には瓜州と呼ばれており、琴詩に見られる安西ではない0割大奈も「中国文 学発展史」二98頁に「到了安西(今斯彊庫車)」と述べている。
従って、前記陽関二往復による疑問は残るにしても、 「安西館」は亀義(今の庫 車)に在ったと解せざるを得ない。
末句の「鳥縮天山東」はやはり「天山の東を縮むることを為さん」と訓読さ
:ォォ
れるであろう。 「天山の東に縮むことを鳥さん」とはならない。
琴参はこの詩の末尾二句に於いて、切なる望郷の想いを巧妙にしかも深刻に 表現しているのである。つまり、長房の術という距離を自由自在に伸縮できる 術を以て、天山から東の方の距離を短縮したい、そうすれば長安の都も近くに なるのにと慨嘆しているのだ。
次に琴参が亀益まで行ったか否かを知るために、 「全唐詩」所収約400首の 琴詩中に「亀鼓」という語がみられるものがあるか否かを調べてみると、「北庭 始宗学士道別」
商事不可料 歎君在軍申 請書破甫巻 何事衆徒戎 忽乗輪貴下 相見披心胸 飲酒封春草 今且遅亀並
と題する詩が一首だけある。その詩は:
万事料るべからず 君の軍中に在るを欺く 書を読みて万巻を破りLに 何事ぞ来りて戎に従ふは 忽ち来る輪台の下 相見て心胸を披き v・ら
酒を飲みて春草に対す 今且に亀並に還らんとす 君有賢主将君に賢主の将有れば
しヽ
何謂泣途窮何ぞ泣きて途窮まると謂はんや
シルク・ロードに於ける琴参の詩 13
こ‑の詩は詩題に「北庭にて」とあるが、 「忽乗輪貴下」という詩句からも明らか なように実際は輪台が舞台である。つまり北庭都護府の管轄下にある輪台であ る。この詩は琴参が亀並へ還る宗道という学士を輪台で送った詩であって、琴 参が亀益へ行ったという証左とはならない。しかし、「安西館中思長安」という 詩があるので琴参が亀姦(今の庫車)まで行ったと解せざるを得ない。
さて、琴参は長安の都を出発して、炎熱・酷寒そして大雪・烈風のシルク・
ロードを西へ西へと亀姦以外の何処に行ったのであろうか。それを知るために は「早沓悪者懐終南別業」と題する詩を看ればよい。詩題から明らかなように 蔦者に行ったことが分かる。その詩は:
噴笛別郷涙暁笛 秋水鳴馬蹄秋水 一身虜雲外一身 清里胡天西万里 終日見征戦終日 連年聞鼓輩連年 故山在何虞故山 昨日夢清糸昨日
別郷の涙・
馬蹄鳴る 虜雲の外 胡天の西 征戦を見 鼓撃を聞く 何れの処にか在る 清算谷を夢みぬ
この詩は琴参が蔦者を朝早く出発し、暁笛を耳にし、秋の氷を目にしながら、
遥か西の涯まで来たという感慨に打沈み、打続く戦いに思いを馳せ、同時に長 安の終南山に在る別荘を偲ぶ詩である。
葛者は安西四鎖の一つ、 「砕菓城」とも呼ばれた地で現今の鳶者回族自治県で あり、今の博湖の西側、庫ホ勤(コルラ)の東北約150粁の地点に在る。
以上の考察から琴参の足跡を要図にして、次の頁に示す。要図から分かるよ うに、琴参は所謂「河西回廊」を抜けて「天山南路」に足跡を留めている。琴 詩から判明した最西端の地点は今の庫車、当時の亀益である。辺塞詩人中、シ
ルク・ロードを最も西へ行った詩人であった。
琴参の詩には自らの体験に基づいたものが多い。実感の流露している優れた 辺塞詩が多い所以でもある。
琴詩に表現されたシルク・ロードの風物や彼の感懐を探ってみたい。
14
○ 亀 益 ( 庫 車 )
O鳶者 ○鉄門関
中田書勝
琴参足跡要図
○庭州(米泉)
∴)I.1i'‑:.L・"・'V." fV
[劃琴参の辺塞詩とシルク・ロード 先ず次の詩が挙げられる。
胡茄歌蓬顔異郷便赴河隈 君不聞胡茄聾最悲
紫紫緑眼胡人吹 吹之一曲猶未了 愁殺棲蘭征戊兄 涼秋八月藩閥遺 北風吹断天山草 .島脊山南月欲斜 胡人向日吹胡茄 胡茄怨今格送君
△ 燕 支 山
○謂州 ○
( 蘭 州 )
○ 臨 挑
○ (
喰 密
)
火山 △ ○蒲昌
火 ^ j o ( 吐 魯 番 )
△
○ 交 河
→ S
⊥ x
○酒泉
玉門関○○
陽関
○敦娃
胡茄歌顔異郷の便して河梶に赴くを送る 君開かずや胡茄の声最も悲しきを 紫常緑眼胡人吹く
之を吹くこと一曲猶は未だ終らざるに 愁殺す楼蘭征戊の児
涼秋八月斎関の道 北風吹断す天山の草
箆脊山南月斜ならんとす
胡人月に向って胡筋を吹く
胡茄の怨み将に君を送らんとす
シルク・ロードに於ける琴参の詩 15
泰山遠望瀧山雲泰山遥かに望む隔邑山の雲 連城夜夜多愁夢辺城夜夜愁夢多し
向日胡茄誰著聞月に向って胡節誰か聞くを書ばん
この詩は天宝7年(748)、顔真卿が監察御史となって、西域の河鶴地方に赴任 するのを送った詩である。胡筋の悲槍な音色に託して、惜別の情を表わしてい る。この時、琴参はなお長安に在って、西域の地は踏んでいない。従って想像 による詩ではあるが、シルク・ロードへの好奇心を含むロマンチズムが見られ る。胡茄・紫繋・緑眼・楼蘭・天山・箆谷などの語があり、瀧山(陳西省から甘 粛省にまたがる山脈)の雲にしても、辺城の月にしても、いずれもシルク・ロード へ通じる想いがこめられている。
この詩は顔真卿を送る詩ではあるが、同時に琴参の西域へ対する強い志向が 感じられる詩でもある。
翌天宝8年(749)、 35歳の琴参は年譜にもある通り、目指す西域へと赴任す る。龍山を越えた時、彼は一人の旅人の口吻を借りて、初めて赴く辺地の旅の 様子や自分自身の抱負を語る。 「初過能山途中墨字文判官」と題する次の詩があ る。
‑罪過一輝犀騎如星流 平明賛成陽暮及観山頭 離水不可凍鳴咽令人愁 沙塵撲馬汗霧露凝解衷 西乗誰家子日蓮新封候 前月費安西路上無停留 都護猶未到乗時在西州 十日過沙碩終朝風不休 馬連砕石中四蹄皆血流 高里奉王事一身無所求 也知塞垣音量鳥妻子謀 山口月欲出先照関城棲 渓流輿松風静夜相願解 別家頼輸夢山塞多離憂 輿子且携手不愁前途修
初めて梶山を過ぎり途中字文判官に呈す 一駅より一駅を過ぎれば駅騎星流の如し
'JWS且
平明成陽を発すれば薯に髄山の頭に及ぶ 脱水聴くべかうず鳴咽し人をして愁へしむ 沙塵は馬汗を撲ち霧露は宥菜を凝らす つこほ
しヽ
西より来るは誰か家の子ぞ自ら道ふ新しき封候なり 前月安西を発し路上停留することなし 都議猶は未だ到らず来る時は西州に在りと
や
十日沙虜を過ぎ終朝風休まず 馬は走る砕石の中四蹄皆血流る 万里王事を奉じ一身求むる所無く
'wa
也塞垣の苦しさを知るも畳妻子の為に謀らんや 山口目出でんとし先ず関城の楼を照らす 渓流と松風静夜相月鴫麗寧たり
家に別れて帰夢を頼み山塞駐憂多きも
子としばらく手を携へ前途の修きを愁へず 回sk
16 中田書勝
はらほと
西州は今の癖彊省・吐魯番東南「蛤技和卓」の故城。終朝は夜明けから朝食ま での間の意もあるが、ここは「しばらくも」の意であろう。十日も砂漠を通過
し、風が吹きまくり、ゴロゴロした石の道に馬を走らせると、馬蹄はみな血が 流れるとあり、道中の難儀な様子がよく表現されている。特に注目すべき語句
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は「高里奉王事一身無所求也知塞垣青畳鳥妻子謀」である。天子の為杏 ら妻子のことも考えないと決意を表明しているが、本心は果して何如0
涼州は今の武威(蘭州から283km),涼州を過ぎ斬連山脈・燕支山脈の連山が見え ると、琴参はやはり長安が遥かに遠くなったという想いに沈む。 「過燕支寄杜 位」と題する次の詩がある。
燕支を過ぎ杜位に寄す 燕支山西酒泉道燕支山西酒泉の道 北風吹沙巻白華北風抄を吹き白華を巻く
あたり
長安造在日光速長安遥か日光の辺に在り
憶君不見令人老君を憶ふも見えず人をして老いしむ
!ヾに
燕支は元来、草の名で、これから紅を作る。燕支山に産した。転じて紅のこと をいい、燕脂・膳脂・鳶支・姻支・月困脂とも書く。葉は前に似、花は蒲公英に似 ていると云う。「大漢和辞典」には「西河故事」の次の文が引用してある。
郎連燕支二山,在張接・酒泉二界上。東西二百線里,南北百里有松柏五本 美水草。冬温夏涼,宜畜牧養,旬奴失二山乃歌日;亡我郎連,便我六畜不 蕃息。失我燕支山,使我婦女無顔色。
祁連山一帯は牧畜の適地であったらしい。因みに鳥魯木斉(ウルムチ)は推吾ホ (ウイグル)語の音訳で、意味は「優美な牧場」であると云う。 (「中国的地各」陳正 祥、商務印書館1978 P. 55)
その昔、旬奴は燕支山を失なって、婦女の頬紅さえもなくしたと嘆くO戟乱
sam
は婦女子の紅さえも奪うものであろうか。鳴呼‑
のぎ
白草は西域の草。秀(えのころぐさ)に似て、細く、芭無く、枯れると白くなる と云う。北風が音を立てて砂を吹きあげ、白華を巻きあげる。その荒涼とした 風景は、恐らく琴参自身の心象であろう。さればこそ長安からの遠い距離を痛 切に感じるのである。君(杜位)を憶うも、その姿はここには無いと嘆くのである。
家族は遥かに東の方に居る。無事でいるだろうか。この路のなんと限り無く
続くことよと悲しんでいると、長安へ帰る役人と出逢った。だが馬上のこと故、
シルク・ロードに於ける琴参の詩 17
手紙を書く紙や筆が無い。自分が無事であることをその役木にことづける。 「逢 入京便」と題する次の詩がある。
リax
京に入る使に逢ふ
牧園東雪路浸浸故園東に望めば路漫浸たり
りゅうしょう
讐袖龍鐘涙不乾双袖竜鐘として涙乾かず 馬上相違無紙筆馬上相逢うて紙筆無し
よ
想君俸語報平安君に懲り伝語して平安を報ぜん
異国にあって迎える除夜の感慨は、実に寂しいものである。まして玉門関で の除夜である。これから又、遥か西へと砂漠を渡って行かねばならない。琴参 の想いが伝わって来るようだ。 「玉関寄長安李主簿」と題する詩がある。
玉関にて長安の李主簿に寄す 東去長安高里駿東長安を去ること万里余 故人那情一行書故人郡ぞ惜しむ一行の書 なん
玉関西望腸堪断玉関より西望すれば腸断つに堪えんや
いは
況復明朝是歳除況んや復た明朝は是れ歳除なるをや
異国で受取る便りはまた格別。長安に居る李主簿が便りをくれないのを嘆いて いる。
河西回廊を抜けると、眼前には広漠とした砂漠が展開している。次の「碩中 作」と題する詩は琴詩中の代表作である。
せき
碩中の作
走馬西乗欲到天馬を走らせて西に釆たれば天に到らんとす
eS3
苗字家兄月商回園家を辞して月の両回円かなるを見たり
いづしゅく
今夜不知何虞宿今夜知らず何れの処にか宿せん 平沙高里絶人煙平沙万里人煙絶ゆ
馬を走らせて西へ西へと来ると、天にまで行きつきそうだ。家を辞してからも う満月が二回も見えた。今夜は何処に宿をとるのかも分からない。広漠たる砂 漠には人家の煙も全く見当らない。起句の「天に到らんとす」は砂漠の広大さ を的確に表現している。結句の「平沙高里人煙絶ゆ」には琴参の悲しい慨嘆が ある。
年譜に見られるように、天宝10年(751) 5月に、安西四錬節度使の高仙芝が
18 中田書勝
出兵し、恨羅斯(タラス)で大食軍と戦ったが大敗した。これより先、 3月半ば には琴参は武威にあり、後方に留まっていた。武威は平穏無事、河西回廊のこ の一角で、琴参は春の暮れに、またもや長安を懐しむのであった。 「河西春暮 憶秦中」と題する次の詩がある。
河西春薯に秦中を憶ふ 謂北春巳老謂北春巳に老なるも すゑ
5F一
河西人未線河西入来だ帰らず 連城細事出辺城細事出で 客館梨花飛客館梨花飛ぶ 別後郷夢數別後郷夢数々なるに しば
昨来家信稀昨釆家信希なり
なか
涼州三月半涼州三月半ばなるに
也
猶末脱寒衣猶は未だ寒衣を脱がず
謂北は謂水の北、長安一帯を指し、河西は琴参が当時居た武威一帯を指す。つ まり長安はもう春であるのに、河西に居るこの自分は未だに長安に帰れないで いると嘆く。武威(涼州)ではやっと細草が姿を見せた。宿舎の庭の梨の木は 白い花が吹き飛んでいる。なんとも晩い春の訪れであろうか。故郷の夢は何度 も見るのに、家族からの便りは昨年来希れになった。皆元気でいるのであろう か。涼州はもう三月半ばというのに、まだ冬の服を脱がずにいる。
涼州は今の武威。戦場から遥かに遠く、平穏であり、時には宴席を設けるこ ともあった。 「涼州館中興諸判官夜集」と題する次の詩がある。
轡轡日出桂城頚 城頭日出照涼州 涼州七里十商家 胡人半解弾琵琶 琵琶一曲腸堪断 固Lllifjiiil日夜阻漣 河西碁中多故人 故人別乗三五春 花門棲前見秋草 豊能貴腐相看老
涼州館中に諸判官と夜集す
かか
轡轡たる日出でて城頭に撞り 城頭月出でて涼州を照らす
涼州七里十万家
胡人半ば解す琵琶を弾ずるを
はらわた
琵琶一曲腸断つに堪えんや 風は粛々たり夜は漫々たり 河西の幕中故人多し
故人別れ来りて三五の春 花門楼前秋草見ゆ
あによ
量能く貧鰻にして老いを相看んや
シルク・ロードに於ける琴参の詩 m
いくたぴ
一生大笑能晟廻一生大笑すること能く幾廻ぞ
i^SS
斗酒相違須酔倒斗酒相逢うて須らく酔倒すべし
弦月は満月よりもいっそう人の心を引きつける時がある。特に哀傷の情を催し ている時にそうである。その弦月が涼州の街を照らしている。街に居る胡人の 半ばは琵琶が弾ける。その響きは悲しくて、断腸の思いがする。辺地の風は淋
しく冷たく、秋の夜は長い。役所に来てみると、普なじみの知人が多い。彼ら とは別れてから、もう春が三たび五たびと過ぎている。花門楼の前にはもう秋 の草。お互いにこんな貧鰻の身で、みすみす老いこんでよいものか。一生のうち、
大声で笑うのも果して幾度あることだろうか。大して多くはないはずだ。斗酒 の宴席に巡り合った時こそ、鯨飲して酔いつぶれようではないか。
辺地での酒席であればこそ、 「酔倒」の語は迫真感がある。秋草も辺地であれ ばこそ、寂実感が深い。 「豊能貧勝目看老」と琴参が自分の不遇に不満を洩らし ているのは注目に値する。この詩は天宝10年秋、 37歳の作。
年譜にも見られるように、天宝11年(752)天宝12年(753)の二年間、琴参 は長安に在った。翌天宝13年(754)に封常滑が安西四錬節度使となった。琴参 は大理評事・監察御史となり、安西北庭節度判官に任ぜられて北庭に赴くこと
となった。二度目の西域行である。.地位も昇格している。時に四十歳、不惑の 齢であった。長安から瀧山を越えて、北庭へ赴く時の詩、 「赴北庭度鶴思家」と 題する次の詩がある。
わた
北庭に赴かんとし瀧を度りて家を思ふ 西向輪喜蔑里鎗西のかた輪台に向かふ万里余
またまさ
也知郷信自席疎也知る郷信日に応に疎なるべきを
よ
瀧山塊鵡能言語隔邑山の鵬鵡は能く言語す しば
鵠報家人數寄書為に報ぜよ家人数々書を寄せよと
me
「廃山は陳西省隣県の西、甘粛との省境の山。也は俗語的用法。為は「鳥我」
の為で、客語が省略された介詞。詩意は明白。家人が手紙を度々出すように鵬 鵡に託する,とは奇抜な発想で新鮮。しかし、 5年前、初めて指巨山を過ぎた時の 詩のよ5.な気概はもうこの詩からは感じられない。
琴参は輪台に3年間(754‑756)留まった。従って詩作が多い。シルク・ロ‑
ドの風物を詠みこんだ詩をいくつか挙げてみる。 「走馬川行奉送封大夫出師西
征」と題する次の詩には、シルク・ロードの酷寒ぶりが端的に表われている。
20 中田書勝
走馬川行封大夫の師を出だして西征するを送り奉る
」33Z
君不見走馬川行雪海連君見ずや走馬川行雪海の辺
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平沙弄葬貴人天 輪喜九月風夜呼L
‑川砕石大加斗 膳風浦地石麗し走 旬敗軍責馬正肥 金山西見煙塵飛 漢家大将西出師 将軍金甲夜不脱 半夜軍行文相擬 風頭如刀面如割 馬毛帯雪汗気蒸 五花連銭旋作水 嵩中華撒硯水凝 虜騎聞之席謄価 料知短兵不敢接 車師西門倖献捷
平沙弄芥として黄天に入り 輪台九月風夜にP孔ゆ
‑川の砕石大なること斗の如く 風に随って満地の石乱れ走る 旬奴草黄にして、馬正に肥え 金山西に見る煙塵の飛ぶを 漠家の大将西のかた師を出だし 将軍金甲夜も脱がず
半夜軍行して文相擬ち ラ さ
風頭は刀の如く面は割かるるが如し 馬毛雪を帯びて汗気蒸し
.'j ')ま1.I
五花連銭旋ち氷と作る
げきけんすいこほ
幕中徴を草すれば硯水凝る
悶巳SE3
虜騎之を聞かば応に胆傭るべし
はか 料り知る短兵は敢て接せざるを
しょうま
車師西門に捷を献ずるを倖つ
走馬川と雪海の位置は未詳であるが、雪海については「唐書・西域伝」に次の 記載がある。
葱嶺水商流者,経中国人干海。北流者,経胡入手海,北三日,行度雪海, 春夏常雨雪。
春・夏には常に雨や雪が降るとある。
広漠とした砂漠・巨石のごろごろした川・烈風に吹き飛ぶ石とこれだけ並べ
ても、その凄絶な光景が目に浮かぶ。時は正に秋、馬は肥え、戦いの時期、案の
定、敵は動き出した。金山(アルタイ山脈)一帯に戦雲が立ちこめ、封常滑の軍が
出撃することになった。将軍(封常滑)は夜も武装を解かず、夜中の行軍は難儀
なことであろう。風は刀のように鋭く、顔が切られるような酷寒。まだ十月ご
ろなのに馬の毛には雪が積もり、馬体から汗が水蒸気となってもうもうと立上
ることだろう。五花連銭(馬の毛の各種の模様)の毛もすぐにピンと凍り、陣中で
枚文を書くための硯の水も凍ってしまうだろう。敵は恐れをなして、近づいて
は来るまい。庭州の西門で将軍の凱旋されるのをお待ちする。
シルク・ロードに於ける琴参の詩 21
一号参は輪台の地に3年間(754‑756)留まった。 「首秋輪養」と題する詩に「給 養清里地無事歴三年」とある。従って輪台を詠みこんだ詩作も多い。次の「輪 養即事」もその一つである。
輪喜風物異 地是古草子 三月無青草 千家表白檎 奉書文字別 胡俗語音殊 愁見流沙北 天西海一隅
「輪養風物異」
輪台風物異なり
いにLへせんう
地は走れ古の単千 三月青草無く 千家尽く白檎 蕃書文字別に
こと
胡俗語音殊なり 愁へて流抄の北を見れば 天の西海の一隅
と平易に淡々と表現する。しかし技巧的表現を必要としない程 それほど異状であったのだ。陽春の候であるべきに緑の草は無く、白根の樹々 の蔭に泥樽の家々。胡族の文字や言葉も違う。流砂州の北の方(庭州を指す)を 眺めると、まるで遥か西の涯、虚空の一隅に居るかのようだと琴参は深い愁い に沈む。時には輪台から北庭(庭州)に行くこともあった。次の詩は武判官が長 安の都へ帰るのを輪台で送った時の詩である。 「白雪歌迭武判官線京」と題し、
「白雪歌」とも呼ばれる著名な詩である。
北風捲地自軍折 胡天八月即飛雪 忽如一夜春風乗 千樹高樹梨花開 散人珠簾滞羅幕 狐裏不煩錦食滞 将軍角弓不得控 都護餓衣冷猶著 瀞海珊千百丈泳 愁雲修治高里凝 中軍置酒鉄線客 胡琴琵琶興業笛
白雪の歌武判官の京に帰るを送る 北風地を捲き自尊折れ
胡天八月即ち雪を飛ばす 忽ち一夜春風来たり 千樹万樹梨花開くがごとし
うるほ
散じて珠簾に入り羅幕を湿し 孤裏煩かならず錦会薄し あたた
ひ
将軍角弓を控くを得ず
iiE
都護鉄衣は冷たきに猶は著く 瀞海関千として百丈の氷
こは
愁雲惨漁として万里凝る
中軍置酒して帰客に飲ましむれば
胡琴と琵琶と美笛と
22 中田書勝
えん
紛紛暮雪下輯門紛々たる暮雪韓門に下り
ひ
風撃紅旗凍不轟飛風は紅旗を撃けども凍りて翻らず 輪喜東門迭君去輪台の東門君の去るを送れば 去時雪満天山路去る時雪は満つ天山の路
2K
山廻路樽不見若山廻り路転じて君見えず 雪上空留馬行虞雪上空しく留む馬行きし処
北風が地を捲き、白華(草の名)は吹き折られ、胡地の空は陰暦八月というのに、
早くも猛吹雪。まるで、一夜春風が吹き、見渡すかぎり樹は白い梨の花がばっ
ZWtfP
と咲いたかのようになったo雪は珠簾に散りこんで、雇の幕を湿らし、狐の裏
しとね
も冷たく、錦の裏でもなお寒い。将軍も手がかじかんで角弓(角の飾りのついた 弓)が引けず、都護(役名)は冷たくても鉄衣(よろい)を脱げない。沙漠には百 丈もの氷がはり、暗雲は空一面に垂れこめている。陣費の中で、酒席を設け、
都へ帰る客を送るに当り、胡琴や琵琶や莞笛という異国の珍らしい音楽が輿を 添える。折から夕暮れの雪が紛々として陣門に降り、風が紅旗に吹きつけるが、
旗は凍りついて微動だにしない。輪台の東門に君を見送れば、天山の道は白銀 一色。山廻り道転じて、君の姿はすぐに見えなくなり、君の乗っていた馬の蹄
の跡が雪上に残っているだけ
雪を梨花に喰える発想は、李白詩(送別)の中にも「梨花千樹雪」とあって琴 参特有のものではない。しかし、一夜に春風が吹き樹という樹に梨花が咲いた ようになったと詠めば、誠に浪漫的な感じがあり、巧みな表現というべきであ る。
また、 「去る時、雪は満つ天山の路」という詩句の中には、武判官の旅の前逮 に想いを馳せる琴参の友情がよく表われている。雪上には馬蹄の跡だけが空し く残っているとは余情があって巧みである。実は琴参自身も長安へ帰りたいの m
年譜に見られるように、天宝14年(755) 11月、安藤山の乱が勃発し、封常滑 は長安へ召還された。琴参は伊西北庭支度副使として、依然、輪台に在った。
早く長安へ帰りたいという琴参の気持が詩作にも反映されるようになる。すな
わち、この時期には、 「送雀子還京」・「熱海行送雀侍御遷京」 ・ 「天山雪送歌粛治
線京」 ・ 「迭張都尉東輸」と題する送別の詩が次々に作られているO封常滑も無
事には長安へ帰れなからたようだ。 「旧唐書」の玄宗紀の条には「天宝十四載十
一月封常滑自安西大乗,命御胡;十二月輿賊戦,敗被斬。」とある。安藤山の乱
シルク・ロードに於ける琴参の詩 23
後一ケ月にして賊と戦い、敗れて斬られたとあるO
その頃、琴参は鉄門関の楼上に登り、遥か西の方を眺めやった時の感慨を次 のように述べる。 「題銭門閥棲」と題する詩がある。
鉄門関の楼に題す 銭関天西涯鉄関は天の西渡
極目少行客目を極むるも行客少なし 牌門‑小吏関門の‑小吏
終日封石壁終日石壁に対す
玩B/I
橋跨千仰危橋は千仰の危ふきに跨り
せまめぐ
路盤繭崖窄路は両崖の窄きに盤る 試登西棲望試みに西樺に登って望めば
かう!ヾ
一望頭欲白一望して頭白くならんとす
行客の姿少なく、静寂だけがあるような鉄門関。その関門を守る一人の小役人。
彼は一日中、石の壁と向かい合っている。気だるささえ感じられる静寂。辺地 の‑小吏であればこそ、琴参の視線をしばし固定したのであろう。西楼に登っ て、四方を一望すると、忽ち白髪になる想いだと琴参は告白する。北の天山の連 山や南の広漠たる砂漠を、彼はどのような想いで眺めたことであろうか。
粛宗の至徳元年(756)、琴参は伊西北庭支度副使として輪台に在ったが、この 年の晩れにやっと輪台から長安へ帰ることとなった。酒泉まで出るにはまた砂 漠を渡らねばならなかった。 「日没賀延碩作」と題する詩がある。
日没賀延硬の作 沙上見日出沙上に日の出づるを見 沙上見日没沙上に日の没するを見る
sfz
悔向高里乗悔ゆらくは万里に向かひて来るを 功名是何物功名走れ何物ぞ
「元和郡願志」に「伊州東南取英貨横路至瓜州九百里」 (伊州より東南、莫賀横の 路を取れば瓜州に至る、九百里)とある。伊州は今の蛤密であり、賀延積と莫賀積 とは類似した呼称である。賀延硬も恐らくこの付近に展開していた砂漠であろ うか。
砂漠から朝日が出、砂漠の上に夕日が沈む。真赤で大きな夕日が沈む。気の
遠くなるような広漠とした砂漠。卑参は遥か万里の遠い処に来たことを後悔し、
24 中田・書勝
功名とは一体何であるのかと慨嘆するOこの慨嘆は単に砂漠の広大さや姓儀な 旅路から発したものではない。これから帰って行く長安に対する不安、つまり、
玄宗は蒙塵し、粛宗が風物で帝位に即くという政情激変の中で、これまでの自 分の功績が認められるだろうかという不安があったに違いない。この不安が琴 参に「功名是何物」と慨嘆させているのであろう。琴参は若い頃から人一倍、
向上心が強かったようである。二十歳代、長安と洛陽を往来していた頃の作と 思われる「戯題開門」と題する次の詩に云う。
戯れに関門に題す 乗亦一布衣来るときもまた‑布衣 去亦‑布衣去るときもまた‑布衣 墓見関門吏墓ぢて見る関門の吏
ま
達従者路線還た旧路より帰る
布衣は官位の無い人。関門は恐らく連関を指しているのであろう。関門を守ろ 役人が無官の自分をどんな風に見ているだろうか恥づかしいと墓ぢているのだ。
さて、琴参はやっと酒泉までたどりついた。酒泉太守は宴席を張り、琴参に 酔後の作がある。 「酒泉太守席上酔後作」と題する詩。
酒泉太守の席上酔後の作 酒泉太守能剣舞酒泉の太守能く剣舞し 高堂置酒夜撃鼓高堂置酒して夜鼓を撃つ 胡第‑曲断人腸胡茄一曲人の腸を断ち 座客相看涙如雨座客相看て涙雨の如し
この詩は至徳元年(756)、琴参42歳、長安へ帰る途中での作。 「涙雨の如し」とあ るが、単なる誇張表現ではあるまい。やはり、前記の如く、政情の激変に遭っ た座客の深い悲しみがあったと解すべきであろう。胡筋の哀調を帯びた音色は いっそう人の腸を断つのである。
以上、李嘉言の「琴詩系年」 (「文学遺産増刊三輯・作家出版社1957)に基づいて、
詩を接配した。
最後に、琴参が他界する前年に作った詩一首を挙げて欄筆したい。
彼は769年の秋、成都に旅寓していたが、 「客舎悲秋有懐両省首遊里幕中諸公」
(客舎にて秋を悲しみ両省の旧遊を懐ふことありて、幕中の諸公に呈す)と題する詩がある。
みたびすなは
三度鳥都債白頭三度郎の鳥に便ち白頭となり
シルク・ロードに於ける卑参の詩 25
‑従出守五経秋 莫言聖主長不用 其郡蒼生席末休 人間歳月如流水 客舎秋風今又起 不知心事向誰論 江上蝉嶋空浦耳
「五経秋」とはシルク
一に出守に従ひて五たび秋を経たり
杏
言ふ莫かれ聖主の長く用ひざるを
なまさいま
其れ郡んぞ蒼生応に未だ休まざるべき
じんかん
人間歳月流水の如く 客舎秋風今また起こる
知らず心事は誰に向かひてか論ぜん
はとり
江の上に蝉鳴くも空しく耳に満つ
じんかん
・ロードに過ごしたことを指す。「人間歳月如流水」とは 人の胸を打つ。 ‑年後に他界する琴参にして是の言あり、況んや吾人をや。此 の詩の後半、意甚だ悲槍にして、読むに堪えず。
1980年10月28日写完‑中国より還りて‑
lkslk : 全唐詩復興書局
唐詩三百首商務印書館 唐詩推論聞‑多古籍出版社 唐詩論文集劉開揚文昌書局 唐代詩歌王土浦人民文学出版社 文学遺産増刊三輪作家出版社 中国学論集(日加田誠博士還暦記念)大安 唐詩數策日加田誠時事通信社
才調集(和刻本漢詩集成総集篇第二輯)波古書院 唐詩紀事計有功中華書局
中国文学発展史劉大東上海人民出版社
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