『シヴァ・プラーナ』の年代に関する覚え書
その他の言語のタイ
トル
Some remarks about the date of the Siva-purana
著者
神館 義朗
雑誌名
滋賀医科大学基礎学研究
巻
2
ページ
b1-b23
発行年
1991-03
URL
http://hdl.handle.net/10422/1176
﹃シヴァ・プラーナ﹄ の年代に関する覚え書
描 論 プラーナはインドが生んだ一種の宗教的文献群であるが、その総数 はl五〇にも達すると言われい、全貌は未だ充分に解明されていないO その中で特に重要視され比較的よ-読まれてきたものが十八あり、こ れ は 時 に ﹁ 大 プ ラ ー ナ ﹂ ( m a h a -p u r 昔 a ) と 呼 ば れ て 他 の プ ラ ー ナ か ら区別されることがあるは。これらの﹁大プラ-ナ﹂に対しては、そ れに次ぐ地位を与えられているものとして、やはり同数の十八プラー ナ が 存 し 、 普 通 ﹁ 副 プ ラ -ナ ﹂ ( u p a I p u r 甘 a ) と 呼 ば れ て い る 1 0 と ころがへ この﹁副プラ-ナ﹂は﹁大プラーナ﹂に比べて学者の関心を 惹 く こ と が 少 な く 、 X ・ O ハ ズ ラ ( H . C . H a z r a ) を 除 け ば ﹁ 副 プ ラ ー ナ﹂を研究対象とする目立った専門家は皆無に近い。まして﹁大プラー ナ﹂と﹁副プラ-ナ﹂以外の諸プラ-ナに至っては、その存在すら殆 ど無視されているのが実情である。 滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年) 申 蝣 t *-舘
義
朗
さ て 、 表 題 に 掲 げ た ﹃ シ ヴ ァ ・ プ ラ ー ナ ﹄ ( S l v a -p u r 昔 a ) は 、 近 頃まで﹁副プラ-ナ﹂に属するものと見なされ、従って存在感の薄い プラ-ナであった=.ところが、一九七〇年、﹃古代インドの伝承と 神話﹄というタイトルの許に全ての﹁大プラーナ﹂を英訳・出版する 計画が実行に移された時、その最初に訳出されたのが﹃シヴァ・プラー にわ ナ﹄であった持.以来このプラーナは遥かに脚光を浴び、次いで一九 八六年、ローチャーが、ホンダ監修﹃インド文献叢書﹄の1冊﹃プラI ナ﹄に於て本書を﹁大プラーナ﹂として扱い、可成りの真数を割いて 紹介したことから"、このプラーナも漸く注目されるようになってき た。しかし、その年代、成立過程、インド思想史上の位置付け、等々 の重要な問題には未だ疑問なところが多-、今後の究明が待たれてい る。そこで本稿では、特にその年代について気付いたことを書き留め、 備忘かたがた今後の研究の一助に資したい。 一般に、プラーナの年代決定は何れのプラーナにとっても極めて困﹃シヴァ・プラ-ナ﹄ の年代に関する覚え書(神舘) 難な問題で、﹃シヴァ・プラーナ﹄の場合も例外ではない。本書につ いては既にハズラが、その中に散在する手がかりを探捜し、構成して い る 各 ( 隻 ) ( s a m h i t a ) ご と に 成 立 年 代 の 推 定 を 試 み て い る け o け れども、.それは試論と呼んでもよいもので、不備な点が少なくない。 とは言え、今のところ彼に続く本格的研究は現れておらず、前記のロI チャーが﹃プラーナ﹄の中で本プラーナの年代に言及した際も、その す 記述は総べて右のハズラの研究に負っている。だから本稿では、各 (隻)ごとに先ずハズラの所論を摘示し、次に、それに対する論評を 付け加えることとしたい。以下、ハズラに言及する場合は、特に断ら ない限り、右の論文を指すのである。 なお、﹃シヴァ・プラーナ﹄には﹁六集本﹂と﹁七集本﹂とが存し、 含まれる諸集も殆ど半分が違うものである。そしてハズラによれば、 ﹁六集本﹂の諸集の方が﹁七集本﹂のものより古い成立である (四七 頁註一)。しかし、主に流布しているのは﹁七集本﹂ であり、上記の 英訳も﹁七集本﹂に依拠しているから、本稿では﹁七集本﹂について 見てゆくことにするはo 一、第l ﹃ヴィディエーシヴァラ・集﹄ ( V i d y e s v a r a -s a m h i t a ) a i E E a ! 本(隻) は﹁六集本﹂では第二集になっている。その年代をハズラ は西暦九五〇年以降と見る。理由としては、川この集が﹃シヴェータ-シヴァタラ・ウパニシャッド﹄を引用し、惚星宿や七曜名を知ってお り 、 ㈱ ツ ラ シ ー 樹 の 聖 性 を 認 め 、 ㈱ 五 所 礼 拝 法 ( p a n c a y a t a n a ) 杏 勧めへ㈲党天崇拝の不人気に言及し、㈲ヤントラの承認といったタン トラ的要素を有していること、及びm本プラーナ所収の ﹃ヴァ-ヤ ヴィ-ヤ・集﹄を利用しているように見えること、が挙げられている0 ところが、右の諸項は、その何れを見ても、﹃ヴィディエーシヴァ ラ・集﹄の成立を九五〇年以降とする積極的で確実な根拠になり得る ものとは思われない。先ず、第m項に言う﹃シヴェ-タ-シヴァタラ・ ウパニシャッド﹄は、遅くとも西暦lOO年頃の成立である持。この 場合へ西暦一〇〇年頃の聖典を引用している書物の上限が九五〇年で なければならない必然性は何処にもない。次に'脚から㈲の諸項であ るが'それらの事象が何時頃からインドで知られたり行われたりする ようになったか、確かなことは殆どわかっていない。従って、これら ESSES玩-の点も本(隻) の年代決定に余り役立つとは言えないo最後の第m項 サ ソ ヒ タ ー については、ハズラのように本(集)が﹃ヴァ-ヤヴィ-ヤ・集﹄を 利用したと見るべきか、それとも関係を逆に見るべきか、といった問 題の検討が充分に為されていない憾みがある。その上、もしハズラの 主張を認めたとしても、彼自身が﹃ヴァ-ヤヴィIヤ・集﹄の成立を 西暦八〇〇-1000年の問に置いているのであるから (六三頁)、 この (隻)から引用したとされる﹃ヴィディエーシヴァラ・集﹄の成 立は、西暦八〇〇年以降とされなければならない。このように、ハズ ラの九五〇年上限説は厳密な論証に欠け、あまり説得的ではない。た だ、これを積極的に否定する有力な材料もないわけで、碩学の心証と して尊重すべきものであろう。 ところでハズラによると、﹁七集本﹂第一章の第四句・後半以下、 第二章、第三章の第1-五句、及び第1九-二五章は、﹁六集本﹂に
欠けている。そして彼は、これらを﹁比較的後世の付加﹂とするが、 具体的なことは何も言っていない (五七-五八五)。そこで、この部 分について目に留ったことを次に述べておきたい。 サ ソ ヒ タ ー 一、本(集) の第二章は、第三四句以下に於て'﹃シヴァ・プラー ナ﹄を構成する七集の中で特に第二﹃ルドラ・集﹄と第六﹃カイラー サ・集﹄とが格段に優れた功徳を有しているとして、口を極めて賞賛 し、第四七句では﹁他の諸(隻)もあらゆる願望と果報を適えて-れ り -ラ - ゲ ' ^ < 1 ▼ -チ るが、﹃ルドラ・集﹄と﹃カイラーサ・集﹄は(遊戯)と(識知) に 満ちていて別格と知らるべきである。﹂と明示している。そこで右の 両集を見ると、﹃ルドラ・集﹄では世界の創造等がシヴァ神の(遊戯) 耶血 であることを説きO、﹃カイラーサ・集﹄では全編がシヴァ派の教説・ .2 諸原理の詳述に当てられ(識知)が重視されている臼。即ち前引の第 四七句の記述によく合致するわけで、そのような両集がこの記述の前 に存在していたことは間違いない。 では、この両集の年代は何時頃であろうか。先ず﹃ルドラ・集﹄に ついて、ハズラは西暦十四世紀より前ではないと言う(六五頁)。 後に見るように、この場合もハズラの所論は説得力に欠けるが、様々 の点から考えて彼が提示した年代は妥当なものと思われる。だとすれ ば、この﹃ルドラ・集﹄を知っていた﹃第T集﹄の現形成立は1四世 紀以降となるであろう。また﹃カイラーサ・集﹄ の年代については、 それが九五〇年以前ではあり得ないということしか言えないと述べ、 さらに十一世紀以後である可能性を示唆している(五九頁)。このハ ズラが示唆した可能性は、少なくとも﹁七集本﹂で見る限り、極めて 確度の高いものと言える。それどころか、十五世紀末以後の成立であ る可能性も存する(後述参照)。それ故、この点から見れば、﹃第一集﹄ の上限は1五〇〇年前後となることも考えられる。 二、 ﹃第一集﹄・第二章には(現身解脱者) について次のような 叙 述 が あ る 。 ﹁この﹃シヴァ・プラーナ﹄を、毎日、怠りなく、力の及ぶ限り、 信愛をもって読謂する人、そのような人が現身解脱者と言われる。﹂ e t a c -c h i v a -p u r 甘 a m h i y a 甘 p r a t y -a h a m a t a n d r i t a h y a t h a -s a k t i p a t h e d b h a k t y a s a j i v a n -m u k t a u c y a t e I I 2 1 ﹁この、七集から成る完全な﹃シヴァ・プラ-ナ﹄を、尊崇の念 をこめて読諦する人、そのような人が現身解脱者と言われる。﹂ e t a c -c h i v a -p u r 昔 a m h i s a p t a -s a m h i t a m a d a r a t p a r i p u m a m p a t h e d y a s t u s a j i v a n -m u k t a u c y a t e I I 6 3 う この両句は、何れも先ず具体的内容を示した後、それを承けて﹁そ のような人が現身解脱者と言われる。﹂と同一の形式で結んでいる。 ここには、(現身解脱者)を定義する一定の型が既に存在していたこ とを予想せしめるものがある。そして事実、管見の範囲内だけでも、 次の六書に右と同様な定義が纏って現れる。 一 、 ﹃ ヨ ー ガ ・ ヴ ァ -シ シ ュ タ ﹄ ( Y o g a -u a s i s t h a ) 三 ・ 九 ・ 四 I l 三。ここには、内容こそ右の定義と異なるが形式は全くT致するもの が一〇箇、一群となって出てくる。また第五編・第十六章にも同形の 定義が散在する(第十l、二〇、二一句)。本書の成立年代は西暦1 . ¶ り 100-l二〇〇年頃と見られているOO 滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年)
﹃シヴァ・プラーナ﹄ の年代に関する覚え書(神舘) 二 、 ﹃ ヴ ィ ヴ ェ -カ ・ チ ュ -ダ ー マ ニ ﹄ ( V i v e k a -c 打 d a m a r a ) 四 二 八 I 頚 u て 四四〇日。ここには十三の定義が見られるが、形式は右のものと少し &3 相達し、細かく言えば三種の別がある仏。この十三句の中、二句(四 二九、四三〇)が内容上﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄ 三・九・七と 三 ・ 九 ・ 十 二 と に 相 当 す る . 本 書 は シ ャ ン カ ラ ( 抄 a n k a r a ) に 帰 せ ら れているが、恐らく後世の偽菅で、その製作年代は右の第一書と次の i n s 第三書との問の時期であろう仁。 三 、 ﹃ 全 ヴ ェ -ダ ー シ タ 定 説 の 精 髄 ・ 要 集 ﹄ ( S a r v a -v e d a n t a -s i d -d h a n t a -s a r a -s a m g r a h a ) 九 六 七 I 九 七 八 。 こ こ に は 十 二 の 定 義 が あ るが、形式は﹃ヨーガ・ヴァーシシュタ﹄のものと全-1致し、その - 5 B -中の六句が同書からの引用である仁。本書もシャンカラ作とされてい るが、実際には遥かに後のもので、その上限は﹃ヴェ-ダーンタ・サー ラ ﹄ ( V e d a n t a -s d r a ) の 年 代 、 即 ち 十 六 世 紀 初 頭 と 見 る こ と が で き る O dり 下限は多分、十七世紀中頃であろうO。 四 、 ﹃ マ バ ー ・ ウ パ ニ シ ャ ッ ド ﹄ ( M a h b p a 甘 s a d ) 二 ・ 四 二 -六 二 。 ここに見られる二l句の定義の中、六句が﹃ヨーガ・ヴァIシシュタ﹄ 第三編・第九章と第五編・第一六章に殆ど同じ形で出ている。本ウパ ニシャッドの成立については、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄以後であ ・ B e -るということ以外、確かなことは判らない仁。 五 、 ﹃ ア デ ィ ヤ ー ト マ ・ ウ パ ニ シ ャ ッ ド ﹄ ( A d h y a t m d p a n i 切 a d ) 四 す 四-四七。この四句は総べて﹃ヴィヴューカ・チュ-ダーマニ﹄から 蝣 m -の引用であるO。 六 、 ﹃ ヴ ァ ラ ー ハ ・ ウ パ ニ シ ャ ッ ド ﹄ ( V a r a h b p a 甘 s a d ) 四 ・ 二 1 -三〇。この一〇句は、二六と二八の両句を除-八句が、﹃全ヴェ-ダー ンタ定説の精髄・要集﹄九六七-九七四に相当する。その外にも両署 には共通する句が見られるが、その前後関係については何とも言えない。 以上を通じて我々は、この形式による (現身解脱者) の定義が、 ﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄以来、多くの書物で用いられてきたこと を知り得る。そこで、前引の﹃シヴァ・プラーナ﹄ の二句であるが、 この二句が﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄よりも前に存在していたとは 考えられない。理由は以下の二つである。(こ、(現身解脱者)とは 最高の宗教的境地を指す言葉である。従って、その定義は特別な精神 的境地を叙述しているものが本来的である筈で、右の各署の定義も大 体そのようになっている。﹂例を挙げると、六書の中で四書に共通し て見られる﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄三・九・七は、﹁目覚めてい ても熟睡状態にあって、目覚めの状態にあることなく、その覚知に t a a ! E x a ! 習気がない人、そのような人が(現身解脱者)と言われる。﹂と述べ ている。ところが﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の定義は、そのよ,γな解脱の 境地を述べたものではな-、﹃シヴァ・プラ-ナ﹄を読葡する功徳を 讃えるために敢て内容的に調和しない此の定義を利用した形になって いる。その意味で(現身解脱者) の定義としては非本来的である。す ると、非本来的なものが本来的なものに先立って存在したと見るのは 不自然であるから、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄の定義の方が前にあっ たとしなければならない。(二)、﹃シヴァ・プラ-ナ﹄には此の形式 の定義が二度はどしか出てこないのに、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄ では畳みかけるように現れてきて、その与える印象が遥かに強烈であ る。このような場合、印象の強い方が先にあって他に影響を与えた、 と見るべきであろう。こうしてみると、﹃シヴァ・プラ-ナ﹄第一集
の成立は十二世紀以降ということになる。尤も﹃ヨーガ・ヴァ-シシュ タ﹄の年代も未だ確定的とは言えないから、そこに多少の幅を認めな ければならないであろう。 ところで、いま述べたように﹃シヴァ・プラーナ﹄の定義は、内容 上(現身解脱者) の定義としては非本来的なものであった。そこで考 えられるのは、本書が内容的に必ずしも適切と言えない此の定義を敢 て用いたのは、この種の定義が屡々用いられ既に1椴に極めて受入れ られ易いものになっていたからだ、ということである。ではへこの定 義がそのような定着を見るに至ったのは何時頃であろうか。勿論それ をはっきりと見定めることは困難である。それに、前記の﹃ヴィヴェ-カ・チュ-ダーマニ﹄と三ウパニシャッドは成立年代が不明確なこと もあって、この問題を考えるのに余り役に立たない。然し、﹃ヨーガ・ ヴァ-シシュタ﹄以来、相当の時間的経過があったことは容易に想像 しさ される。それと、本﹃第一集﹄が頻りにヴェ-ダやヴェ-ダーンタと 蝣 s -の親縁関係を力説している事実を考え合わせると担、右の問題の時期 は 、 ヴ ェ -ダ ー ン タ の 巨 匠 ヴ ィ デ ィ ヤ ー ラ ヌ ヤ ( V i d y a r a n y a ) が 出 現した十四世紀後半から名著﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄が書かれて 大きな影響力を行使した十六世紀頃までと想定してよいであろう。 三、この﹃第一集﹄には、筆者が気付いた限り、﹁ヴェ-ダーンタ V の 精 髄 を 総 べ て 自 分 の も の と し て い る 。 ﹂ ( v e d a n t a -s a r a -s a r v a s v a ) 山7 という言葉が二度、﹁プラ-ナ﹂に対する修飾語として出てくる担。 i * i この言葉は﹃第1集﹄以外にも散見するが¢、これらのIll]薯見て我々 が直ちに想起するのは前記の﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄であり、ま f -I f . ・ た﹃全ヴェ-ダーンタ定説の精髄・要集﹄である。勿論、これらの言 葉が﹃シヴァ・プラーナ﹄以前に﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄等が存 在したことを意味するものかどうか、逮かには決定し難いoしかし上 述のように、﹃第1集﹄の成立が十四世紀から十六世紀にまで降る可 能性も充分に認められること、﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄が広く読 まれた有力な書物であったこと、等を考えると、右の言葉は﹃シヴァ・ プラ-ナ﹄の著者(または編者)が、︽その﹃ヴェーダーンタ・サー ラ﹄の内容も総べて我が﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の中に取り込まれてい る︾として自らを誇示したもの、と受け取れないこともないのである0 さて、以上のことから次のように言えるであろう。 一、﹃第一集﹄の現形成立は、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄ や﹃カ イラーサ・集﹄との関係から考えて、確実に十一世紀中葉より後であ ろ う 。 二、しかし﹃ルドラ・集﹄との関係等から見れば、十四世紀以降の 成立としても差し支えない。 三、本へ集) の現形が十六世紀以後に成立した可能性も充分にあり 得 る 。
二 第二﹃ルドラ・集﹄
( R u d r a -s a m h i t a ) 本(隻)は﹁七美本﹂にしかない。この(莱)をハズラは十四世紀 以後の成立と見た。その理由として彼は、﹃ルドラ・集﹄ に次の諸香 からの引用句が存することを挙げている(六五頁)0 l ' ﹃ 知 識 ・ 集 ﹄ ( J n a n a -s a m h i t a ) 二 、 ﹃ 法 ・ 集 ﹄ ( D h a r m a -s a m h i t a ) 滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九1年)﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) 三 、 ﹃ ラ グ フ ・ ヴ ァ ン シ ャ ﹄ ( L a g h u -v a 息 a ) 旧 ﹃ ク マ -ラ ・ サ ン バ ハ ゲ ァ ﹄ ( . K u m a r a -s a m b h a v a ) 五 、 ﹃ パ ン チ ャ ・ タ ン ト ラ ﹄ ( P a n c a -t a n t r a ) 六 、 ﹃ パ ド マ ・ プ ラ -ナ ﹄ ( P a d m a -p u r a n a ) 七 、 ﹃ リ ン ガ ・ プ ラ ー ナ ﹄ ( L i h g a -p u r a n a ) 八 、 ﹃ ブ ラ フ マ ・ ヴ ァ イ ヴ ァ ル タ ・ プ ラ -ナ ﹄ ( B r a h m a -u a i u a r t a -p u r a n a ) 九 、 ﹃ カ ー -カ I ・ プ ラ I ナ ﹄ ( K a l i k a -p u r a n a ) この中、一と二は﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の﹁六集本﹂にのみ存する (集) で、ハズラは前者を西暦九五〇年以降、後者を同じく九〇〇年 以降の成立としている(五六頁及び六四頁)。その下限については何 も言わない。従って、この両集が﹃第二集﹄に援引されているとして も、そのことが﹃第二集﹄の上限を十四世紀まで引き下げる論拠にな の得ないことは明白である. 次に、三の﹃ラグフ・ヴァンシャ﹄と四の﹃クマ-ラ・サンバハゲァ﹄ は 、 言 う 迄 も な く 詩 聖 カ ー -ダ ー サ ( K a l i d a s a ) の 作 品 で あ る O 彼 の年代は、学者により少しの違いはあるが、だいたい西暦四世紀から 五世紀にかけての頃と見ればよく、これに大き-違背することは考え - P 5 -られない¢。だから、この場合も、﹃ルドラ・集﹄を十四世紀以後に 置く必然性は認められない。 次に、第五の﹃パンチャ・タントラ﹄は、その原型が西暦二世紀頃 に成立して以来、多くの異本が複雑な過程を経つつ流布伝播してきた もので、年代決定の基準には向かない書である。しかし敢て言えば、 l般に行われている﹃小本﹄が九〇〇-二〇〇年頃、そして﹃広本﹄ ・ ォ ? ・ が二九九年の成立とされているから担、何れにせよ、本書からの引 用を根拠に﹃ルドラ・集﹄の年代を十四世紀以降に求めることは適切 と 言 え な い 。 最後に六から九にかけての四書であるが、これらは何れも﹁プラー ナ﹂である。そこで、これら諸プラ-ナの年代をハズラの所論を中心 に見てゆこう。先ず﹃パドマ・プラーナ﹄について、彼は現行の出版 本を篇や章に従って幾つかのグループに細分し、各グループごとの年 代推定を試みているが、その総てを通じて最も降る年代が1五〇〇年 .司 であり、大部分は一四〇〇年以前に置かれている担。しかしローチャI は、その﹃プラーナ﹄の中で、このハズラの見解を完全に無視して紹 介すら行っていない。そこには、このハズラの所論に対するローチャI の疑念を読み耽ることができるo次の﹃リンガ・プラーナ﹄は、ハズ ラによると、大部分が西暦六〇〇年もし-は八〇〇年から1000年 蝣 t s - にかけての成立である担。次の﹃ブラフマ・ヴァイヴァルタ・プラ-ナ﹄の年代についてハズラは、その中の第四編・第八章と同・第二六 章のみが西暦八世紀から十四世紀初め迄の間の成立で、他の全編はT ォ = s O-十六世紀の成立だと考えている¢0そして最後の﹃カー-カー・ プラーナ﹄は、ハズラの見るところ西暦一〇世紀から十一世紀前半の 蝣 6 ? 問の成立である¢。ローチャーは、このハズラの所見を容認している かのような書き方をしているが、明碓な賛否を表明しているわけでは ・ s s -な い ¢ 。 以上を見て明らかなように、これら諸プラーナが﹃シヴァ・プラー
ナ﹄第二集に引用されているとしても、必ずしも﹃第二集﹄の成立が 十四世紀以降であるということにはならない。先ず、ハズラの年代論 そのものが未だ多くの問題を含んでいる上に、たとえ彼の所論をその まま認めたとしても、それに従えば﹃第二集﹄の成立が十六世紀以降 である可能性も残っているからである。なおハズラは、前記の諸プラI ナと﹃第二集﹄とに共通する詩句が見られる場合へすべてを一方的に ﹃ルドラ・集﹄が借用したものと見ているが、貸借関係が逆の場合も あり得よう。ハズラの所論は、その点を一々明確にしていない以上、 充分な説得力を持つとは言い難いのである。ローチャーも、この﹃第 二集﹄を巡るハズラの年代論については沈黙している。 これらの事情は別として、我々が注意したいのは、﹃ルドラ・集﹄ の現形が成立した頃、インドに於て仏教が既に消滅し、その記憶すら 失われかけていたように見えることである。その理由を次に述べよう。 ト リ プ ラ ﹃ルドラ・集﹄第五編の中に、﹁三つの城市﹂を支配する三人の阿修 羅をヴェ-ダの正法から逸脱させるため、ヴィシュヌが自分自身の中 にせ か ら 剃 髪 者 ア リ バ ン ( A r i h a n ) を 造 り 出 し 、 阿 修 羅 ど も に 偽 の ヴ ェ ー ダの教法を説かせる話が出てくる。そこで、ヴィシュヌの命を受けた アリバンは、更に自分と同じ姿の四人の弟子を造り出し、ナ-ラダ仙 の助力を得て、ト-プラの住民にヴェ-ダの真説だと偽って異教の法 を説くのである。その際に説かれた異教の法が、実は﹁仏教の聖典に 説 か れ た 法 ﹂ ( b a u d d K a g a m a -v i n i r d i 苫 a n d h a r m a n . p i . a c e . ) な の で J 川 7 一 J あったβ。ところが、その四人の弟子達は、呼吸中に極く微小な生物 を飲み込んだり歩行中に生き物を踏み殺したりすることがないように、 口には布切れを当て、歩く時には帯を推皆野したとされている(二・五・ 四・二八-三〇)。ところが周知のように、このような生活態度はジャ イナ教徒のものである。即ち、ここでは仏教が同じ異教の代表的存在 であるジャイナ教と混同され、仏教はジャイナ教の中に溶解してしまっ て い る の で あ る 。 また、二・五・1六・l以下で党天を始めとする神々がヴィシュヌ 神に呼びかける一連の言葉の中に、次の二つの語句が並んで現れる。 即ち﹁仏教徒の姿をしたジナの徒﹂と﹁カルキの姿をした、蛮族の退 治者﹂とである。これらの言葉の背後には、明らかに(ヴィシュヌの レ ー く 十 権 化 ) の 観 念 が あ る 。 し か し 、 こ こ で ﹁ 仏 教 徒 ﹂ は ﹁ 姿 ﹂ と と も に 、 ﹁ジナの徒﹂を修飾する形容詞の位置に後退し、代って﹁ジナの徒﹂ f i S が主体となって前面に出ているβ。つまり、ここで仏陀は八十権化) 中にしめていた座を放棄し、仏教はジャイナ教に融消して独立の存在 ・ E 3 -を失いかけているのである¢。 こうしてみると、﹃第二集﹄の作者(または編者) の脳裏に於て、 仏教は如何に影が薄く、その実態が忘れ去られようとしているか、が 察知されるであろう。 さて、このように仏教の存在が殆ど忘れられていることは、﹃第二 集﹄の成立がインドに於ける仏教滅亡の時から相当の長期間を経た後 であったことを推測せしめる。普通、インドに於ける仏教の消滅は、 一二〇三年、回教徒がヴィクラマシラー寺を壊滅させた時とされてい るが、その後も仏教は、ある程度の期間、何らかの形で残存したであ ・w ろうβ。爾来、インドに於て仏教が殆ど忘即される迄になるのが、同 寺の壊滅から僅々二〇年か三〇年のことであったとは、とても考えら れない。従って、現﹃ルドラ・集﹄の成立は早-ても一三〇〇年前後、 滋賀医科大学基艇学研究第二号(l九九1年)
﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) 換言すれば十四世紀以降と見てよいであろう。 次に、もう一つ気付いたことを書き留めておきたい。 本書二・五・二・三四-五五に於て'神々は以下のような多くの誓 えを用いてシヴァ神を讃えている。 ﹁貴方は神々の中ではインドラ、諸星の中では太陽、諸世界の中 * -・ -ヤ で は 真 実 界 、 河 川 の 中 で は ガ ン ジ ス ( d y u -s a r i t ) 、 色 の 中 で は 白 色 、 湖の中ではマ-ナサ湖、山々のなかでは山王、牛の中では如意牛、 海の中では乳海、金属の中では黄金へ四姓の中では婆羅門へ人々の ナ ィ ー ル タ 中 で は 王 、 解 脱 地 ( m u k t i -k 仰 e t r a ) の 中 で は カ ー シ -、 聖 地 の 中 で は聖地の王、石の中では水晶、花の中では蓮華、山々の中ではヒマ ヴ 7 -チ ラヤ、諸活動の中では語へ詩人の中でパバールガヴァ、鳥の中では シャラバハ鳥、猛獣の中では獅子、石の中ではシャ-ラグラーマ石、 K M I i E -3 > J --(中略)--、祭儀の中では馬嗣祭、--(中略)--、革の 中ではクシャ草、大樹の中ではパンヤン樹、--(中略)--、清 浄 な 修 法 の 中 で は 制 息 法 、 光 明 -ン ガ の 中 で は 全 字 の 主 宰 神 ( V i f i -e s s 姐 E ォ 2 vesvara)β、親しいものの中では法、四住期の中では最後(の遊 行期)、--(中略)--、そして悪鬼の中ではバリ (B巴i) であ り ま す 。 ﹂ ところで、これと同じ発想が﹃クラールナヴァ・タントラ﹄ (Kit-1 a r n a v a -t a n t r a ) 三 ・ 二 1 -二 五 に 見 ら れ る 。 そ れ は 次 の よ う な も の で あ る 。 ﹁神々の中でのヴィシュヌの如く、諸星の中での太陽の如く、 * 蝣 -* * 聖 地 の 中 で の カ ー シ ー の 如 -、 河 川 の 中 で の ガ ン ジ ス ( s v a r -n a d i ) の ク ! T ¥ -ト ウ 如く、山々の中でのメールの如く、樹木の中での栴檀の如く、祭儀 の中での馬嗣祭の如く、石の中での宝珠の如く、味の中での甘味の 如く、金属の中での黄金の如く、獣類の中での牡牛の如く、鳥類の ビヒクシrl 中での白鳥の如く、四住期の中での乞食者の如く、四姓の中での婆 羅門の如く、人間の中での王の如く、肢体の中での頭部の如く、香 料の中での蔚香の如く、城市の中でのカーンチ-城市の如く、かく の 如 -( 上 方 伝 承 ) ( u r d h v a m n a y a ) は 総 べ て の 法 の 中 で 最 勝 で あ I f f る 。 β ﹂ この二つの叙述を比較すると、﹃シヴァ・プラーナ﹄ の方は遥かに 拡大されており、両者が完全に一致するわけではない。けれども、此 処に見られる親近関係は、1方が他方を知っていたことを明らかに物 語っている。ただ、影響を与えた書物が二者の中の何れであるかは判 断し難い。しかし﹃第三集﹄にも両書に共通する句が存し、その場合 は﹃シヴァ・プラーナ﹄の方が借り手と考えられる(後述参照)O徒つ て、今の場合も事情は同じで﹃第二集﹄の方が借用者である、と見て よ い で あ ろ う 。 ところで、﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄も年代決定が難しい書物 であるが、専門家によって西暦一〇〇〇-一四〇〇年の成立という見 o-解が提示されているβ。この見解は、(I)、先に我々が﹃第二集﹄を 十四世紀以降の成立と予想したこと、(二)、そして今﹃第二集﹄ は ﹃クラールナヴァ・タントラ﹄以後の成立であると推定したこと、と 矛 盾 し な い 。
三
第
三
﹃
百
ル
ド
ラ
・
集
﹄
( 酔
t a
- r
u d
r a
- s
a m
h i
t a
)
この (集)も﹁六集本﹂には存在しない。ハズラは、この﹃第三集﹄ が次の諸事に言及しているとの理由で、その成立を西暦1四世紀以降 と し た ( 六 五 貢 ) 0-、
﹃
知
識
・
集
﹄
二、﹃クマ-ラ・サンバハゲァ﹄ 三、﹃リンガ・プラーナ﹄ ー四、﹃ヴァIヤヴィIヤ・集﹄ 五、﹃ルドラ・集﹄の﹁サティ-編﹂ さて、右の中、第1-三の三書については前節で述べたが、これら 三事と十四世紀以降との問には何の必然的関連も存在しない。 次に、四の﹃ヴァーヤヴィ-ヤ・集﹄とは﹃シヴァ・プラーナ﹄第 七集のことである。ハズラは、この﹃第七集﹄を﹃第三集﹄が利用し ていると言うが、引用関係は逆であるかも知れない。特に ﹃第七集﹄ 刊 り には﹁百ルドラ・集﹂という名前が出で-るからβへ﹃第七集﹄が ﹃第三集﹄を予想していると見るのが普通であろう。同じことが第五 の﹁サティー編﹂について皇ロえる。既に指摘したように葺、第二 ﹃ルドラ・集﹄に出てくる(光明リンガ) への言及は、﹃第三集﹄と ﹃第四集﹄の所論を承けているように見える。だから、﹃第三集﹄の方 が﹃第二集﹄より前にあった可能性が報いのである. このように、ハズラの十四世紀以降・説には説得力が乏しい。しか し同時に、これを積極的に否定する材料も見当らない。せいて言えば、 前述のように、﹃第三集﹄は﹃第二集﹄の前に成立していた可能性が 強い。そして、﹃第三集﹄の現形成立は他の諸集とあまり隔たらない 時期のことであっただろう。このように考えると、その時期は、十三 世紀末もしくは十四世紀より後ということになる。この想定はまた、 次に述べることとも抵触しない。 本書の三・1二・三lに左のl句がある. ﹁恰も水が水に、牛乳が牛乳に、乳酪が乳酪に投入されたように' . 甥 ほ か そのようにβ、ヴィシュヌはシヴァに融没して7 つになる0外に有 よ ・ ワ り 様 は な い 。 ﹂ y a t h a j a l e j a l a m k 切 i p t a m k s i r e k s i r a m g h r t e g h r t a m , e k a e v a t a d a v i s n u h s i v e l i n o n a c & n y a t h a . この句は﹃クラールナヴァ・タントラ﹄九・T五の次に句を借用し たものである。 ﹁恰も水が水に、牛乳が牛乳に、乳酪が乳酪に投入されたように、 そのように、命我と最高我との間に区別はなくなるであろう。﹂ y a t h 抑 j a l a r a j a l e k s i p t a m k s i r e k s i r a m g h r t e g h r t a m , a -v i s e ; 篭 b h a v e t t a d -v a j j i v a t m a -p a r a n r a t m a n a h . この句の借用者が﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の方であることは、その現 れ方の唐突さから判断できる。この第三集・第一二章の主題は、シヴァ 蝣^iwサaらEl がヴィシュヌの化身である人獅子を打ち倒し、その皮を脊族のヴィ-ラバハドラに剥がしめて自ら身に纏ったという懐惨な物語である。と ころが、その途中に突如として右の句が現れ、シヴァとヴィシュヌの 根元的同一性を説くのである。だから、この部分は主題の文脈に馴染 滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年)﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) まず、問題の句にしても、作者の思い付きで此処に利用されたとの感 じを否むことができない。 これに対して﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄第九章は、ヨーガ、即 ち、命我と最高我(-シヴァ神)との冥合を主題とし、前引の句はそ のような(三昧) の境地を比職によって説明する六句の最初に出てく る。従って、この句は本章の文脈に溶けこんでいて全く違和感を抱か せ な い 。 ま た 、 ﹃ パ イ ン ガ ラ ・ ウ パ ニ シ ャ ッ ド ﹄ ( P a i r i g a l ① p a n i s a d ) 四・10が、この1句を﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄と全く同じ形 J川川7 で引用している担。これらのことから、借り手が﹃シヴァ・プラーナ﹄ の方であることは先ず間違いない。 では、﹃百ルドラ・集﹄は﹃クラールナヴァ・タントラ﹄と﹃パイ ンガラ・ウパニシャッド﹄の何れから右の句を引用したのであろうか。 多分それは前者からである。理由としては、(一)、上述のように、 ﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄が権証として﹁ウパニシャッド﹂ に引 かれる程の影響力を持っていたこと、(二)、前引﹃百ルドラ・集﹄ 三二二・l≡に見える﹁シヴァに融没して﹂(kive lino)という言 葉は、同じく前引﹃クラールナヴァ・タントラ﹄九・一五の直前に ﹁ 本 性 が シ ヴ ァ に 融 溶 し て ﹂ ( ' s i v e v i l m & t m a ) と あ る の を 承 け て い る と思われるこぐ (≡)、﹃第二集﹄にも﹃クラールナヴァ・タントラ﹄ の影響と見られる文言があったこと、等である。すると、同タントラ の成立年代などから考えて、﹃第三集﹄をここ世紀末もしくは1四世 紀以降に置いても差し支えはない。
四
第
四
﹃
千
万
ル
ド
ラ
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集
﹄
( K o t i -r u d r a -s a m h i t a ) この (集)も﹁七集本﹂にしかない。その成立年代についてハズラ と は、﹁主に﹃知識・集﹄から採られた諸章から成り、一度﹃百ルドラ・ 集﹄に言及しているから、十四世紀以前ではあり得ない。﹂と述べる だけで、特に新しい材料は提示していない (六五頁)0 思うに、﹃第四集﹄は﹃第三集﹄の叙述を承けて、そのまま書き続 けられたものであろう。何故なら、﹃第三集﹄ は十二の (光明リン ガ)を紹介する第四二章で終り、﹃第四集﹄はその (光明リンガ) の 称賛をもって始まる。そして更に第十四-三三の各章に於て、十二リ ンガの1々について因縁や功徳等を詳述しているからである。だとす れば、この﹃第四集﹄は﹃第三集﹄とはぼ同時の成立であろう。従っ て、十三世紀末もしくは十四世紀より後ということになる。五
第
五
﹃
ウ
マ
-・
集
﹄
( U m d -s a m h i t a ) この(隻)も﹁七集本﹂にだけある。ハズラによれば﹃第五集﹄は、 (一)、﹃第四集﹄に言及し、(二)、大部分の章の句が﹃法・集﹄から 採られ、(≡)、第四四章の幾つかの句は﹃デーヴィ-・ハハ-ガヴァ タ ・ プ ラ ー ナ ﹄ ( D e v i -b h a g a v a t a -p u r a n a ) と ベ ン ガ ル 稿 本 ﹃ シ ヴ ァ ・ プラーナ﹄後篇に由来しているように見える、という (六五頁)。し か し 、 年 代 に つ い て は ﹁ 明 ら か に 後 世 の 作 品 ﹂ ( e v i d e n t l y a l a t e r work)とするだけで、具体的な数字は示さない。ところでへ右の三項の中、新しい材料は(≡)だけであり、その中﹃デーヴィ-・ハハ-2 ガヴァタ﹄はハズラに従えば十一世紀か十二世紀の作品である仏.ま た、本プラ-ナのベンガル稿本とはベンガルに伝わる一異本で、前・ 後の二編から成り、特に後編が独自の内容を含んでいて十二世紀の作 品であるという(六七頁)。もし、以上の彼の所論が総べて正しけれ ば、﹃第五集﹄の成立は十四世紀以降となるであろう。 我々としては特に論評すべき材料を持たない。ただ気付いたことを 1 つ述べておこう.﹃第五集﹄では﹁人身が得難い﹂ことを強調して いる(五・二〇・二八-三三、五・四四・一三)。この観念は、他の (集) にも現れるが﹃第五集﹄では意識的な強調の度が強いように思 E s S われる¢0ところで、この観念は先に見た講書の中へ ﹃クラールナヴァ・ タントラ﹄ 7 二三-〓ハ、﹃ヴィヴエーカ・チュ-ダーマ1這五、 ﹃全ヴェIダーンタ定説の真髄・要集﹄二三八等にも出てくる。即ち ﹃第五集﹄も、これらの著作と共通する雰囲気を分け合っているので あ る 。
六
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本(集)は﹁六集本﹂では第三集に当る。ハズラによると'両テキ ストの問に実質的な相違はな-、その成立は九五〇年以降である。理 由としては、(1)、本書がツラシ-樹に言及していること、(二)、 ﹃ サ ナ ト ク マ I ラ ・ 集 ﹄ ( S a n a t k u m a r a -s a m h i t a ) の 内 容 に 触 れ て い ・ S 5 " ることS・、(≡)、シャンカラの影響を不していること、(四)、﹃シヴァ・ K -ト 一 フ ス ー ト ラ ﹄ ( 抄 i u a -s u t r a ) か ら 最 初 の 二 経 を 引 い て い る こ と 、 を 挙 げ ている。その上で彼は、もし第六章の六、七の両句が﹃第七集﹄第l 章のl0-1 1から採られたものであり、引用された﹃シヴァ・ス1 -ラ﹄の二経に対する﹃カイラーサ・集﹄の説明が﹃シヴァ・スート ラ・ヴィマルシェ-﹄か﹃シヴァ・スートラ・ヴァ-ルッティカ﹄に 基-ものであるならば、本(集) の年代は十1世紀以降になるという。 この中﹃第七集﹄との関係については引用関係が逆である可能性も強 いが、﹃シヴァ・スートラ﹄に対する﹃第六集﹄の説明の方は、確か に﹃シヴァ・スートラ・ヴィマルシニー﹄に基いていると思われる。 まず問題の二経は、本(隻) の第一六章に次のような形で引用され て い る 。 ﹁﹁慧知﹂という言葉は﹁精神﹂と同義語である。疑念があっては な ら な い 。 K -蝣 * -マ ノ ス ー ト ラ ﹁精神が自我である﹂という﹃シヴァの経文﹄が存在している。 牟 尼 よ 。 ( 四 四 ) ﹁精神﹂とは全芋の (本体) であり、1切の知と行を本性として い る 。 独立してあること、それを本質としているものが自我と言われる の で あ る 。 ( 四 五 ) 以上を始めとする、﹃シヴァの諸経文﹄に対する註解が私によっ て 説 か れ た 。 ﹁知は束縛である﹂というのが、主宰神の第二の経文である。(四 六 ) ﹂ ヽ p r a j n a n a -f e a b d a i f e c a i t a n y a -p a r y a y a s s y a n n a s a m s a y a h I 滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九l年)﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) c a i t a n y a m a t n r ァ t i m u n e s i y a -s u t r a m p r a v a r t t i t a m I I 4 4 c a i t a n y a m i t i v i s v a s y a s a r v a -j n a n a -k r i y 賢 m a k a m I s v a t a n t r y a m t a t -s v a b h a v o y a 甘 s a a t m a p a r i k i r t t i t a h I I 4 5 I i t y a d i s i v a -s u t r 甘 a m v a r t i k a m k a t h i t a m m a y a l i n a n a m b a m d h a m i f t d a m t u d v i t i y a m s u t r a m i s i t u h I I 4 6 I 7 I ト † ン 問題は﹁精神が自我である。﹂という第一経である。今、右の註解 7 -ト マ ソ に随いながら言葉を補って言うと、この径で﹁自我﹂は二つの意味を 持っている。一つは(最高我)の意味で、この場合は最高神シヴァと 同義である。従って、この経文はシヴァが精神そのものであることを 表している。第二は(本性)、(本質)、(本体)等の意味で、この 場合の経文は、精神そのものであるシヴァ神が同時に全宇(Visva) の本体であることを説示している。結局、︽金字の本体であるシヴァ は全知・全能を本性とする独立の精神的存在である︾というのが第一 経の趣旨である。 ス ー ・ J -l t ¥ ところで、このような内容は、僅か二語から成る経それ自体から直 接出てくるものではない。当然、註釈書の解釈に基-説明である。で は、﹃シヴァ・プラーナ﹄の右の説明は如何なる註釈書に基いていた の で あ ろ う か 。 蝣 Z r -現在、我々が所有する検討すべき註釈書は次の四本である仏。 1 、 ﹃ シ ヴ ァ ・ ス ー ト ラ ・ ヴ リ ッ テ ィ ﹄ ( 抄 w a -s i i t r a -v r t t i Y 作 者 不 、司 詳 仏 。 以 下 ﹃ 第 一 註 釈 ﹄ と 略 記 。 二 , ﹃ シ ヴ ァ ・ ス ー ト ラ ・ ヴ ィ マ ル シ ュ ー ﹄ ( 抄 w a -s u t r a -u i m a r 臥 i n 叫 ) 0 作者は1〇二〇-1〇五〇年頃に著作活動を行ったクシェ-マラ-d7 ジ ャ ( K s e m a r a j a ) 担 。 以 下 ﹃ 第 二 註 釈 ﹄ と 略 記 . 三 、 ﹃ シ ヴ ァ ・ ス ー ト ラ ・ ヴ ァ -ル ッ テ ィ カ ﹄ ( S i u a -s u t r a -v a r t t i k a ) -. 刊 り 作者は十l世紀の人ババースカラ(Bhaskara)払。﹃第三註釈﹄ と 略 記 。 四 、 ﹃ シ ヴ ァ ・ ス I -ラ ・ ヴ ァ -ル ッ テ ィ カ ﹄ ( f 5 i v a -s u t r a -v a r t t i k a ) -蝣 5 5 作 者 は 十 五 世 紀 末 の ヴ ァ ラ ダ ラ ー ジ ャ ( V a r a d a r a j a ) ¢ o ﹃ 第 四 註釈﹄と略記。 まず右の四書の中、特に後世の書と見られる﹃第四註釈﹄以外の三 書について、前引の説明部に出て-る基本的術語がどのようになって いるかを調べてみよう。 m Vifeva ﹃第二註釈﹄ にしか出てこない.他の二着では﹁世界﹂ ( j a g a t ) が 用 い ら れ て い る 。 惚 s a r v a -i 出 a n a -k r i y a t m a k a . こ れ と 酷 似 の 二 つ の 言 葉 、 即 ち s a r v a -j n a n a -k r i y a -s v a t a n t r a と s a r v a -j n a n a -k r i y a -s a m b a n d h a -m a y a と が﹃第一註釈﹄と﹃第二註釈﹄に一度づつ出てくる。﹃第三註釈﹄には 語 頭 の s a r v a を 欠 い た i n a n a -k r i y a t m a k a と い う 形 が l 度 現 れ る 。 ㈱ s v a t a n t r y a . ﹃ 第 l 註 釈 ﹄ に 1 度 、 ﹃ 第 二 註 釈 ﹄ に 二 度 現 れ る 。 外 に 、 こ の 両 註 釈 書 に は 、 s v a t a n t r a が 複 合 語 の l 支 と し て 1 度 づ つ 出 て く る ( 前 項 惚 参 照 ) o ﹃ 第 三 註 釈 ﹄ に は 無 い O ㈱ s v a b h a v a . ﹃ 第 一 註 釈 ﹄ に 1 度 出 て -る . ﹃ 第 二 註 釈 ﹄ で は 四 度 、 外 に s v a b h a v a -b h e d a と い う 複 合 語 で 1 度 、 合 わ せ て 五 回 出 て く る O この語も﹃第三註釈﹄には見えない。
以上を通覧すると、前引の説明部と最も直接的で密接な関係にある のは﹃第二註釈﹄であることが判る。だから、本プラーナの説明は主 としてクシェ-マラージャの﹃第二註釈﹄に拠ったものだと言える。 この点からみると、﹃第六集﹄の上限は十一世紀の中葉となるであろ !S ここで、前引の第四六句の前半に注目したい。そこでは、第一経の 説明がなされただけなのに﹁シヴァの渚経文(複数)の註解が私によっ て説かれた。﹂と述べている。次の第二経のことが考えられていると しても不自然で、前後の脈略にうま-適合しない。ところで、この不 自然さの由因は、前記の説明部分かクシェ-マラージャの註解を承け たものであったことを念頭に置きながら﹃第四註釈﹄の次の句を読む とき、自ら明らかとなる。 ﹁大自在天派の大聖クシェ-マラージャの口から発せられた正し t f - s い註釈書に倣い、まさに彼が述べた文言を用いて、直ちに、引 世紀末を更に降ることになる。 の諸経文の註解が私によって為されるのである。﹂(傍線筆者) m a h a -m a h e f e v a r a -f e r i m a t -k s e m a r a j a -m u k h & d g a t a m l a n u s r t y a i v a s a d -v r t t i m a n i a s a k r i y a t e m a y a . I I 5 v a r t i k a m s i v a -s u t r a n 抑 m v a k y a i r e v a t a d -i r i t a i h 即ち、﹃第六集﹄の作者は、クシェーマラージャの言葉に従って論 述を進めながら、﹃第四註釈﹄の右の句を想起して、その一部を自著 の中に取り込んだのであろう。その結果、上記のような不自然さが生 じたものと推測される。 もし、右の想定が当っており、かつ﹃第四註釈﹄の著者ヴァラダラー ジャが果して十五世紀未の人であるならば、﹃第六集﹄ の成立は十五
七 第七﹃ヴァ-ヤヴィ-ヤ・集﹄
( V a y a v i y a -s a m h i t d ) 最後の﹃第七集﹄は﹁六集本﹂でもその最後に位置している。ハズ ラによると、両者の間に識別し得るはどの相違はなく、成立は西暦 八〇〇-一〇〇〇年の間である (六二-六三五)。その中、彼が本 i ^ w t f ^ (隻)を八〇〇年以前ではないとする論拠については、改めて穿賀し 蝣 S i -ないことにする白。何故なら、我々が考える﹃第七集﹄の上限は十三 世紀で、この年代はハズラが言う八〇〇年以降の範囲内に入るからで ある。そこで問題は、彼が本書の下限を一〇〇〇とする点であるが、 サ ソ ヒ タ ー その論拠として彼は、次の三書に本へ集)からの援引が見られること を挙げている。 l 、 ﹃ チ ャ ト ル ヴ ァ ル ガ ・ チ ン ク ー マ ニ ﹄ ( C a t u r v a r g a -c i n t a m a n i f へ -マ I ド リ ( H e m a d r i ) 普 二 、 ﹃ パ ラ ー シ ャ ラ 古 伝 書 ・ 解 明 ﹄ ( P a r a ァ a r a -s m r t i -v y a k h y a ) -マ -ダ ハ ゲ ァ ( M a d h a v a ) 著 三 、 ﹃ ニ ト ヤ ー チ ャ ー ラ ・ プ ラ デ ィ I パ ﹄ ( N i t y a c a r a -p r a d 唱 a ) 。 ナ ラ シ ン パ ・ ヴ ァ -ジ ャ ペ -イ ン ( N a r a s 首 h a -v a j a p e y i n ) 著 けれども、この三書の中、第一の書の作者へ-マ-ドリは十三世紀 八 川 ツ 後半から十四世紀にかけての人である恒。次に第二の書の作者マ-ダ 蝣 ^ f ハゲァは十四世紀中葉に活動した学匠であるJS-。ただ第三書の著者の み如何なる人物であるのか評かでない。ハズラ自身これら三者の年代 慈覚医科大学基鞄学研究第二号(T九九7年)﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) について何も言っておらず、その点でも彼の論証は甚だ不備である。 こうして、-少し問題を残しはするが、前二者との関係から見る限り ﹃第七集﹄の下限は十三世紀まで下げることができるであろう。 さらに、ハズラの言う貸借関係は逆の場合もあり得ようから、もし そうだとすれば、﹃第七集﹄の成立は十四世紀中葉以降となるわけで、 -S 3 " この可能性も無視できな.Lのである恒。 ところで、我々が本(集)を十三世紀以降と見る手がかりは﹃ゴー 瑚 叫 . ラ ク シ ャ ・ シ ャ タ カ ﹄ ( G o r a k s a -' s a t a k a ) に 見 え る 次 の 諸 句 で あ る B O p r 甘 o ' p a n a h s a m a n a s c ( 5 t l a n a -v y a n a u c a v a y a v a h , n a g a 廿 k u r m o ' t h a k r k a r o d e v a d a t t o d h a n a n j a y a h . ( 3 3 ) u d g a r e n a g 欝 h y a t a 廿 k u r m a 5 m i l a n e s m r t a J .
krkara甘ksutakrj jneyo devadatto vijハmbhane.(36)
n a j a h a t i m r t a m c a p i s a r v a -v y a p i d h a n a n j a y a h . ( 3 7 a ) これらは、本(隻) の後編・三七章に殆ど同形で次のように出てく KM
pr昔opana甘samanas cahy udano vyanaevaca,(35b)
n a g a 甘 k u r m a s c a k r k a r o d e v a d a t t o d h a n a m j a y a 甘 . ( 3 6 a ) u d g a r e n a g a a k h y a t a 廿 k u r m a u n m l l a n e s t h i t a h , k r k a r a h k s a v a t h a u j n e y o d e v a d a t t o v i j r m b h a n e . ( 3 9 ) n a j a h a t i m r t a m c s r p i s a r v a -v y a p i d h a n a m j a y a h . ( 4 0 a ) 両書は、これらの句の前後および中間の部分では相違したものになっ ている0しかし、右に見る文言の1致は偶然と考えられず、両者の問 に貸借関係があったことを歴然と示している。そして借用したのが ﹃シヴァ・プラーナ﹄であることも間違いない。何故なら、この﹃ゴー ラクシャ・シャタカ﹄三六は直前の三五とともに、﹃ヴェIダーンタ・ サ ー ラ ﹄ の 註 釈 書 ﹃ ス ボ ー デ ィ ニ ー ﹄ に t a t h a c & k t a m と い う ﹁ 論 童 亡 -= ? 蝣 引用の形で引かれているからであるβ。即ち、﹃スボーディニー﹄の 著者は、これらの句を﹁プラ-ナ﹂のものとはしていないのである。 だから、前引句の始源が﹃ゴーラクシャ・シャタカ﹄にあることは動 かし難いであろう。 さて、このようにして﹃第七集﹄に﹃ゴーラクシャ・シャタカ﹄か らの引用が認められ、また後者が一二〇〇年前後の著作であるとすれ 由7 ば恒、﹃第七集﹄の上限は十三世紀となる。 ここで、﹃第七集﹄とマ-ダハヴァ等との関係が改めて問題となろ う。いま述べたように、﹃第七集﹄の上限が十三世紀まで引き下げら れるとすると、ハズラの見方が逆である可能性は一層強まってくるよ うに感ぜられる。そして、それを示唆する事情も認められるのであっ - s -た恒。それで、我々としては﹃第七集﹄の現形成立を十四世紀中葉以 後と見たいのである。 結 以上、七集本・﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代について、ハズラの所 論を追いながら各集ごとに見てきた。その結果、各集とも現形成立が 十四世紀以降である可能性を指示していた。そして中には、第一、第 六の両集のように、十六世紀以後の成立を暗示する (隻)もあった。 恐らく、全体としての最終的な現形成立は十六世紀前後であろう。
註 c i H a r a p r a s a d S h a s t r i " T h e M a h a -p u r a n a s " , J o u r n a l o f t h e B i h a r a n d O r i s s a R e s e a r c h S o c i e t y , N o . X I V , F t . H r . 1 9 2 8 , p . 3 2 4 . 脚 既に幾つかのプラーナ自身が一八の﹁大プラIナ﹂を列挙している9そ れらは多少の例外を除いてl致しているが'最大の問題の1つは'あるリ ス ト で ﹃ ヴ ァ ー ユ ・ プ ラ ー ナ ﹄ ( V a y u -o r V a y a v i y a -p u r 甘 q ) と 為 る ヽ ヽ と こ ろ が 他 の リ ス ト で ﹃ シ ヴ ァ ・ プ ラ ー ナ ﹄ ( S i v a -o r S a i v a -p u r a n a ) となっていることである.この点については註川から註脚に挙げた講書で 触れられている。 ㈹ R . C . H a z r a , " T h e U p a p u r 甘 a s " , A n n a l s o f t h e B h a n d a r k a r O r i e n t a l R e s e a r c h I n s t i t u t e , N o . 2 1 , 1 9 3 9 . p p . 3 8 -6 2 . この論文は、一八の﹁副プラーナ﹂のリスト1八種とその典拠を詳しく 紹介している。それによると'﹁大プラーナ﹂と違って﹁剤プラ-ナ﹂の 場合は'リストによって内容の相違が著し-、中には﹁大プラーナ﹂とさ れるものを含むリストさえ見受けられる。 用 M . W i n t e r n i t z , G e s c h i c h t e d e r i n d i s c h e n L i t e r a t u r , E 5 d . I , L e i p z i g ︰ C . E . A m e l a n g s V e r l a g . 1 9 0 5 , S . 4 6 5 , A n m . 1 ; L , R e n o u e t J . F i l l i o z a t , L I n d e c l a s s i q u e , t o m e I , P a r i s : P a y o t . 1 9 4 7 , ∽ 8 3 5 ; R . C . H a z r a , S t u d i e s i n t h e P u r a i d e R e c o r d s o n H i n d u R i t e s a n d C u s t o m s , D e l h i ; M o t i l a l B a n a r s i d a s s . 1 9 7 5 ( 1 s t e d i t i o n ︰ D a c c a , 1 9 4 0 ) . p p . 1 3 -1 5 . 井 原 徹 山 ﹃ 印 度 教 ﹄ ( 大 東 出 版 社 、 昭 和 i 八 年 ) 〓 ハ 三 五 。 ヴィンテルニッツは'﹁1八の大プラ-ナ﹂のリストに出てくる﹃シヴァ・ プラ-ナ﹄は﹃ヴァIユ・プラIナ﹄の別名であ鼻汀の﹃シヴァ・プラ-ナ﹄のことではないとして'現行の﹃シヴァ・プラーナ﹄を﹁大プラーナ﹂ から除外し﹁副プラーナ﹂に位置付けている。このヴィンテルニッツ﹃イ ン ド 文 献 史 ﹄ 第 l 巻 は ' 1 九 二 七 年 、 ケ ト カ ル ( S . K e t k a r ) に よ る 加 筆 ・ 英訳が原著者の校閲を経て出版され'さらに一九八1年へこのケトカル訳 に基づ-シャルマ(V.S.Sarma)の英訳が現れたo Lかし、最新のシャ ルマ訳でも'﹃シヴァ・プラ-ナ﹄を﹁副プラーナ﹂とするヴインテルニッ ッ の 見 解 は 明 瞭 に 保 持 さ れ て い る C f . H i s t o r y o f l n d i a n L i t e r a t u r e , V o 1 . 1 . A N e w A u t h o r i t a t i v e T r a n s l a t i o n f r o m o r i g i n a l G e r m a m b y V . S r i n i v a s a S a r m a , D e l h i ︰ M o t i l a l B a n a r s i d a s s , p . 5 2 8 , n o t 3 a n d p . 5 5 5 . またハズラは'註川に挙げた論文でも'あらためて﹃シヴァ・プラーナ﹄ が﹁副プラIナ﹂に属することを力説している(四七-五-貢)0 ヽ 糊 T h e S i v a -p u r 甘 a ( A n c i e n t I n d i a n T r a d i t i o n & M y t h o l o g y S e r i e s , v o l s . 1 -4 ) , 4 V o l s , D e l h i : M o t i l a l B a n a r s i d a s s , 1 9 7 0 . 本プラ-ナにも﹁l八プラーナ﹂のリストが二度はど出てくる(五・四 四 ・ 1 二 〇 -一 二 二 へ 七 ・ I ・ I ・ 四 三 -四 五 ) 。 勿 論 へ そ こ で は ﹃ ヴ ァ -ユ・プラ-ナ﹄を除き﹃シヴァ・プラIナ﹄を算入しているoまたへ右の 英 訳 者 シ ャ ス ト リ ( J . L . S h a s t r i ) は 第 一 巻 の 序 論 の 中 で ' ﹃ ヴ ァ -ユ ・ プラーナ﹄にも﹃シヴァ・プラIナ﹄にもR付のテキスト以前の﹁原プラー ナ﹂が存在したと仮定し'それらの間に何等かの同一性があったと考える こ と で 問 題 を 解 決 し よ う と し て い る ( I n t r o d u c t i o n , p . x i i i ) c L か し へ その論理は不透明である。 ところで、﹃古代インドの伝承と神話シリーズ﹄は、現行の ﹃シヴァ・ プラ-ナ﹄も﹃ヴァ-ユ・プラーナ﹄も共に﹁大プラ-ナ﹂に含めておりへ その結果へ この叢書が含む﹁大プラーナ﹂は一九になっている。さらに' そこには幾つかの重要な﹁削プラーナ﹂も含まれる筈であるQ 滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九1年)
e 00 ﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) なお我々が依拠する﹃シヴァ・プラーナ﹄の﹁七集本﹂は'第二集が五 稲へ第七集が前・後の二編から成っているo本稿ではへこの第七集の前・ 後編も'それぞれ数字のlとこで示す。従ってへ I・I ・1とあれば第1 集・第1車・第-句へ 二二・一・一とあれば第二集・第一編・第一章・ 第l句へ七・一・l 二とあれば第七集・前編・第1章・第1句のことで あ る 。
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b y J . G o n d a , V 0 1 . H , F a s c , 3 ) . W i e s b a d e n : O t t o H a r r a s s o w i t z , 1 9 8 6 , p p . 3 0 -3 4 , 2 2 2 -2 2 8 . 但し著者自身は、﹁一八﹂の中に﹃シヴァ・プラーナ﹄と﹃ヴァ-ユ・ プラーナ﹄、の何れを含めるべきか、といった問題にはあまり立ち入らず' ﹁一八﹂という数に特にこだわらない態度を示している。(三四貢)0 ヽ R . C . H a z r a , " T h e P r o b l e m s R e l a t i n g t o t h e S i v a -p u r a n a " , O h i r H e r i t a g e 1 , 1 9 5 3 , p p . 4 6 -6 8 . 以下の論述では﹃シヴァ・プラーナ﹄のテキストとして左記の書を用い I Q i ヽ T h e S i v a M a h a p u r a n a , w i t h a n i n t r o d u c t i o n b y D r . P u s h p e n d r a K u m a r ( P u r a n a T e x t S e r i e の 1 ) . D e l h i ︰ N a g -P u b l i s h e r s , 1 9 8 1 . ヽ T h . O b e r l i e s ㍉ D i e S v e t 臥 v a t a r a -u p a n i 瑚 a d : E i n e S t u d i e i h r e r G o t t e s l e h r e ( S t u d i e n z u d e n " m i t t l e r e n " U p a n i 佃 a d s I ) " , W i e n e r Z e i t s h r i f t f i i r d i e K u n d e S i i d a s i e n s u n d A r c h i v f u r i n d i s c h e P h i l o s o p h i e , B d . X X X H , 1 9 8 8 , S . 5 6 -6 0 . 本ウパニシャッドについてはへこれを﹃パパがヴァド・ギ-クー﹄ ( B h a g a v a d -g i t a ) に 先 行 す る 作 品 で ' 西 暦 紀 元 前 の 成 立 と 見 る の が l 般 的傾向であるが'オーバーリースは右の論文の中で、両書の先後関係紘 逆であると論じへ﹃シヴェ-タ-シヴァタラ・ウパニシャッド﹄ の年代を i = r ハ は F 八 刀 - . ∧ H r 辛-ス-誕生から紀元後一世紀までの間としている。 なおへオーバーリースは'古代にシヴェータ-シヴァタラ枝派か存在 したかも知れないと想像しているが(三五-三六五)へ ﹃シヴァ・プラー ヽ ナ﹄六・一六・四八に﹁シヴェtタIシヴァタラ枝派の人々﹂(Svet酢va・ ヽ t a r a S 巴 k h i n a h ) と い う 言 糞 が 出 て く る 。 但 し へ こ の 語 は ﹃ パ ン チ ャ ・ ダ シ I ﹄ ( P d h c a -d d s 叫 ) 四 ・ 二 に も 見 ら れ る か ら へ そ れ に 拠 っ た も の か と思われる。それは兎も角へ本プラ-ナには'外の八乗)でも﹃シヴェ-タ-シヴァタラ・ウパニシャッド﹄が幾度か引用されているので'目に 留ったものだけ次に挙げておこう。括弧内の数字は引用さ.れた旬の章・ 句 を 示 す V I . 1 3 . 2 9 ( I V . 1 0 ) . V I . 1 3 . 3 0 ( I . 2 ) , V I . 1 6 . 4 8 -4 9 ( V I . 8 ) , V O . 1 . 3 . 1 4 ( V I . 1 4 ) , 畠 . 1 . 6 . 1 7 ( 目 . 4 ) , V H . 1 . 6 . 3 3 ( I V . 1 0 ) . ettパニシャッドへの言及は'左記の書に収められたテキストに拠るO O n e H u n d r e d & E i g h t U p a n i s h a d s , e d . b y W a s u d e v L a x m a n ShのstrTPansikar.4thedition.Bombay‖NirnayaS吟garPress, 1 9 3 2 . たとえばへ 二・一・六・一五へ 二・一・七・二二へ 二・四・一三・八、 二・四・一五・二四等。 またへシヴァの様々な行動やへその神変力の発揮が(遊戯) であると されている.二・二・一九・1五'二・二・二四・l六へ 二・二・二四・ 四二へ 二・二二三・三六へ 二・三・四四・二六へ 二・三・四四・七六へ 二・三・四四・九六、二・五・一六・一〇へ 二・五・三六・三六へ 二・ 五・四〇・六等。 特に二 1 ・I二・七五-七六に於て、人知)(js㌢a)よりも轟刑Y ( v i i n a n a ) が 上 位 に 置 か れ て い る と こ ろ に 注 意 し た い 。 T h e Y o g a u d s i s t h a o f V a l r n i k i W i t h t h e C o m m e n t a r y V a s l s t h a -m a h a -r a m a y a 増 ・ t 息 p a r y a p r a k a s a , e d , b y V a s u d e v a L a x m a n aS h a r m a P a n s i k a r , P a r t l , D e l h i ‖ M o t i l a l B a n a r s i d a s s , 1 9 8 4 ( 1 s t e d i t i o n ︰ B o m b a y , 1 9 1 8 ) , I n t r o d u c t i o n b y G . V . T a g a r e , p p . w -x i . -この外がレIの序論は'改版を重ねる中に付加されたものと思われへ かなり新しい文献も参照している。
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S a n s k r i t , V o 1 . I V , M i n o r W o r k s , P o o n a , A s h t e k a r & C o , 1 9 2 5 , p p . 2 1 9 -2 7 1 ) . 本書は'テキストにより語句や番号付けに多少の相違がある。たとえ ば左記の書では'問題の句は第四二七-四四〇である。 V i v e k a c h u d a m d n i o f S h r i S h a n k a r a c h a r y a , T e x t w i t h E n g l i s h T r a n s l a t i o n , N o t e s a n d I n d e x , b y S w a m i M a d h a v a n a n d a , C a l c u t t a : A d v a i t a A s h r ㌢ m a , 7 t h e d i t i o n , 1 9 6 6 . 第一は﹁-㌢=が現身解脱者と言われる(ucyate)。﹂とあるところを ﹁ -が 現 身 解 脱 者 と さ れ る ( i 仰 y a t e ) -﹂ と す る も の へ 第 二 は ﹁ -・ ・ ・ -が 現 身 解 脱 者 の 特 相 ( ま た は 定 義 ) で あ る ( j i v a n m u k t a s y a l a k 畑 a 唱 m ) 。 ﹂ という形のものへ第三は﹁・- が現身解説者の特相をもつものである ( i i v a n m u k t a -1 a k s a n a h ) 。 ﹂ と い う も の で あ る . 重 曹 で は ﹃ ヨ ー ガ ・ ヴ ァ -シシュタ﹄より定義としての形式化が進んでいるへと言えるであろう。 ヴェ-ンカタスッビァは、本書が可成り後世の﹃カイヴァルヤ・ウパニ シ ャ ッ ド ﹄ ( K a i v a l y t i p a n i s a d ) に 言 及 し て い る こ と へ 本 書 に 出 て -る j a h a 1 -1 a k s a n a と a j a h a 1 -1 a k 仰 a 雫 が 比 較 的 後 代 に な っ て 問 題 と さ れ る ようになったものであることへ等を挙げてへ ﹃ヴィヴェ-カ・チュ-ダー マニ﹄はシャンカラ以後の著作であると主張している。さらに彼は'本 書が﹃アディヤー-マ・ウパニシャッド﹄ から多-の句を引用している として、本書の成立が新しいことを強調するが'この点については同意 できない(註㈹参照)Oまたインゴールズは、本書に見られる(覚醒位) と ( 夢 位 ) と の 同 1 視 や ' a n i r v a c a n i y a の 意 味 の 理 解 が 、 シ ャ ン カ ラ の 真作である他の著書と相違するとして'﹃ヴィヴェーカ・チュ-ダーマニ﹄ がシャンカラの作であることを否定する。ただ、ハッカIが本書をシャ ンカラの真作と見ている。彼はシャンカラに帰せられている作品の中、 そのコロフォンでシャンカラを﹁尊者﹂(bhagavat)等と呼んでいるも ヽ の は 真 作 へ ﹁ シ ャ ン カ ラ 阿 閤 梨 ﹂ ( S a n k a r S c a r y a ) と 呼 ん で い る も の は 偽書であるとの基準を立てへこの基準によって ﹃ヴィヴェーカ・チュ-ダーマニ﹄を裏作と考えるのである。これに対して前.EE専学氏はインゴー ル ズ 説 を 採 り ' ポ ッ タ I は ' ﹁ 全 く 面 白 い こ と に ﹂ ( i n t e r e s t i n g l y e n o u g h ) という評語を付してハッカー説に言及している。次に述べることを合せ 考えれば、本書がシャンカラ以後の作品であることは確かであろう。左 に、ここで見た諸説の典拠を示すo ヽ A . V e n k a t a s u b b i a h , " A r e t h e G a u 甘 p a d a - k a r i k a s S r u t i ? " . P o o n a O r i e n t a l i s t , v o l , I , 1 9 3 6 , p 1 2 ; D a n i e l H . H . I n g a l l s , " T h e ヽ S t u d y o f S a m k a r a c a r y a " , A n n a l s o f t h e B h a n d a r k a l O r ・ i e n t a l ヽ R e s e a r c h l n s t i t u t e , v 0 1 . X X X m , " 1 9 5 2 , p . 7 ; P . H a c k e r . " S a n k a r a -ヽ c a r y a a n d S a n k a r a b h a g -a v a t p a d a " , N e w I n d i a n A n t i q u a r y , v 0 1 . ヽ K , 1 9 4 7 , p p . 1 7 6 -8 3 ; S . M a y e d a . " S a n k a r a ' s U p a d e s a s a h a s r i : I t s P r e s e n t F o r m " , J o u r n a l o f t h e O r i e n t a l I n s t i t u t e , v 0 1 . X V , n o s . 3 -4 , 1 9 6 6 , p . 2 5 2 , n . 3 ; K . P o t t e r , E n c y c l o p e d i a o f l n d i a n ヽ P h i l o s o p h i e s , V 0 1 . H I , A d v a i t a V e d a n t a u p t o S a m k a r a a n d h i s P u p i l s , D e l h i ︰ M o t i l a l B a n a r s i d a s s , 1 9 8 1 , p . 3 3 5 . 我々が本書を﹃ヨーガ・ヴァIシシュタ﹄以後と見るのは'(1)へ前 註で述べたように本書では定義の形式化が1層進んでいると思われるこ 滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九t年)﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘) と、(二)へ次の註に示すように ﹃全ヴューダーンタ定説の真髄・要集﹄ が本書を殆ど無視して﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄から問題の定義を採 用したのは'﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄の文言に本源としての権証性を 認めたからだと考えられること、による。 また本書が﹃全グーエーダーンタ定説の真髄・要集﹄以前の成立である ことは'両書の次の句を比較することによって知られる。 ﹁アートマンの唯一性を覚知することがなければ'究天の百年を経ても ( b r a h m a -s a t 由 n t a r e ) . 解 脱 は 成 就 し な い 。 ﹂ ( ﹃ ヴ ィ ヴ ェ -カ ・ チ ュ I ダ ー マ ニ ﹄ 六 ) ﹁ 真 理 を 証 得 す る こ と が な け れ ば ' 究 天 の 百 億 年 を 経 て も ( b r a h t n a -s a h a s r a -k o t i s u ) へ 解 脱 は 成 就 し な い 。 ﹂ ( ﹃ 全 ヴ ェ -ダ ー ン タ 定 説 の 真 髄 ・ 要集﹄三七三) 両句ともに真理の覚証が解脱のために肝要であることを戟調している がrtもし前者が後者よりも後の句であるとするとへ﹃ヴィヴューカ・チュー ダーマニ﹄ が後者の ﹁党天の百億年を経ても﹂という表現をわざわざ ﹁党天の百年を経ても﹂と言い変えて遵かに調子を落している点が不可解 となる。しかもへ両書には外にも共通する句が幾つか見られるから、何 れかの一方が他方を知っていたことは確かだと思われる。だとすればへ 明らかに﹃ヴィヴェ-カ・チュ-ダーマニ﹄ の方が先にあったことにな るoそこでへもし﹃全ヴェ-ダーンタ定説の真髄・要集﹄が十六・七世 紀頃の作品だとすれば(註S参照)へ﹃ヴィヴェIカ・チューダーマニ﹄ の成立は十二世紀から十六世紀末までの間となろう。今のところへ この 間隔を縮める材料を持たないOなお註的参照o 本書九六七-九七二の六句が'それぞれ﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄第 三編・第九章の第四・六・七・八・九・一三の各句に相当する。他方 ﹃ヴィヴェーカ・チュ-ダーマニ﹄と共通する定義は、その第四三〇句に 相当する本書九六九の1句だけで'しかも、この句は ﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄にも見られるものである。なおへ本書のテキストには、註的 で言及した﹃シャンカラ著作集﹄第El巻に所収(1三〇-1 八東) の ものを用いた。 ﹃全ヴェ﹂ダーンタ定説の真髄・要集﹄は'﹃ヴエーダーシタ・サーラ﹄ に比べて格段に詳細であるがへ その骨子は﹃ヴエーダーンタ・サーラ﹄ に基いており、その内容を拡大・敷桁した形になっている。そして本書 の第二句は﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄ の第一句をそのまま援用したも のである。それゆえ、本書は﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄以後の著作で ある。﹃ヴエーダーンタ・サー一フ﹄が他書を引用する場合は必ず引用で あることを断っているのに、この第一句にはそれがないからへ右の貸借 関係が逆であるとは思えない。 ﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄の年代については、大多数の学者が西暦 一五世紀か一五〇〇年頃と見ている。しかし筆者にはt と-ヤンナが主 張 す る ﹁ 十 六 世 紀 始 め ﹂ ( t h e e a r l y p a r t o f t h e 1 6 t h c e n t u r y ) と い う説に傾聴すべきものがあるように思われる。彼が指摘するのは次の二 つの事実へ即ちへ(一)へ﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄の注釈書﹃スポーディ ニー﹄(bUbodhini)のコロフォンによればへこの注釈書は西暦一五八八 年に書かれたものであることへ(二)へこの ﹃スボーディニー﹄ の作者が ﹃ヴェIダーンタ・サーラ﹄の著者サダーナンダ(Sadananda) のこと をparama-guruと呼んでおりへこの言葉は﹁師匠の師匠﹂を意味する と考えられること、である。このことから彼は前記の結論を引き出すの で あ る C f . V e d d n t a -s a r a . A W o r k o n V e d a n t a P h i l o s o p h y b y S a d a n a n d a , e d i t e d w i t h l n t r o d c t i o n , T r a n s l a t i o n a n d E x p l a n a t o r y N o t e s b y M . H i r i y a n n a , P o o n a ︰ O r i e n t a l B o o k A g e n c y , 1 9 2 9 , p m