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駒澤大学佛教学部論集 20 027木村 誠司「『量評釈』の帰敬偈について」

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(1)

駒澤 大 學 佛教 學部 論 集  第 20號   平成 元年

10

月 (

125

誠  

は じめに

 

古の 思 想 を学ぶ者に と っ て, 唯 一 の依 り所は現

す るテ キス トで あ る 。 しか し, 現 実に 目に し て い る テ キス ト が書か れ た 当時の 姿 を その ま ま伝 えて い る と,

単純

じ切 っ てい る人はい ない で あろ う。 オ リジナ ル テ キ ス トは , い わ ば蜃 気 楼の

き もの で は ない だ ろ うか。 オ リ ジ ナル テ キ ス トを 目に するこ と は

遠に 出 来 ない の で はない か , とい う危惧 を常に 抱 き な が ら, と りあ えず,

さ れ たテ キ ス トを読ん でい る, とい うの が現 状の ような気 もす る。 そ うした危 惧 を, い ささ か な り と も

解消

しよ うとする

学問

が, 文

学 なの か も しれ ない 。

者は , その 種 の 文

献学

とは

無縁

人間

であり,

らの

知識

わ せ てい ない 。

に ,

筆者

に は , テキ ス トの 当 否を 云 々 す る資 格は全 くない の で あ る 。 とはい え, 以 下で述 べ こ と は , テ キス トの 当否に も若 干 関わ るこ とで は あ る。

 

こ こ で, あ らか じめ , 正

白 して お かなければ な らない が, 文

献学

に 対 す る素 養 を欠 く筆 者に とっ て ,

興味

の 対 象は文 献 学 にあ る の で は ない 。 研 究の 途 上, 偶 然に も, あ るテ キ ス トの 一 , 「そ れ が 本 来 あ るべ き も の か

か」 とい う

疑 問

っ たにす ぎない の である。 以下の所 論は , 文

献学

的に は

乱 を 引 き

だけの

無益

な もの か もしれ ない の である が, あ るイン ドの テキ ス トの

につ い て , その

否 を

考察

してみ るこ とに し よう。

1

 

稿

考察

し よ うとするの は , ダル マ キ ー ル テ ィ

Dharmakirti

600

660

量 評 釈

Pramauavarttika

敬 偈で あ る。 ま ず, 当の

敬偈 を

紹介

しよ う。 一

430

(2)

126

) 『量評 釈

』 の 帰 敬 偈に っ い て (木村)

 vibhutakalpanaj51agarnbhir6daramartayel

 namab  samantabhadr 亘ya samantaspharapatvi el

 rtog pa’

i

 

dra

 

ba

 rnam  gsal zhing

 zab  cing  rgya  che ’

i

 sku  mnga ’

ba

 

kun

 tu 

bzang

 po

i

 od  zer  

dag

kun

 na 、 ・P

1。 phy。g ・,、

h

1

 

1

f

 分別の網 (

kalpanajala

 rtog  Pa’

i

 

dra

 

ba

) を離

  甚深 (gambhlra , zab )に して , 広大 (udAra , rgya  che )

  を身と し, 普ね く広 が る光 を持つ , 普賢 〔菩薩 〕   に帰 命 する。

 

ち なみに , 今, 筆 者が披

し得る

文テ キ ス トは 五種で あ る が, 五 種 と も, こ の

を冒

げて い る(監 。 さて, 帰 敬 偈 を漫 然 と

て い る

に は ,

者に は

如何

る疑 念 も, 問題 意 識 も生 じなか っ た。 とこ ろ が, 帰 敬 偈に

す る注

に 目 を

した

, 何か釈 然 と しない もの を

じた。

に ,

注釈

の ひ とつ を

て み よ う。 現 存 する最 古の 注 釈は , シ ャ ー キ ャ ブ ッ ディ

Sakyabuddhi

660

720

の で あ る 。

は , 『

量評釈

Pramd4avarttika

(ika に おい て 帰 敬 偈 を以 下の ように 注 釈 して い  世尊に し て, 分別の 網を離れ た方」 〔と言い 〕声 聞と独覚 等の境地 (yu1)で はない の  で 「 深」 〔と言い 〕,

対象 (shes  

bya

 

jfieya

) と有情 あ ら ゆ る 目

的 (

don

, arth −

 a) を の で 「広 大

」〔と言 うの であ る。そ れは , また 〕三 身 (sku  gsum , trikaya )

 〔た る 〕自性 〔身〕(ngo  

bo

 nyid  svabhava と受 用 〔身〕 (

longs

 spyod   rdzogs  pa , sa−

 rPbhoga) と変化 〔身: (sprul  pa , nirm a) と う もの が あ る とい うこ とで あ る (

Je

, 2b2−3) 筆者は, 三 身説につ い て も全 く無 知で あ り, シ ャ ーキ ャ ブ ッ デ ィの 注 釈が, 仏教

に おい て一般 的に 承認さ れ

る もの であ るの か否か, につ い てすら皆 目わか ら ない 。 しか し,

筆者

の知る

り, ダル マ キール テ ィ は 三

説 など口 に し たこ と は なか っ たの で ある。 シ ャ ーキ ャ ブ ッ デ ィ の 注 釈は ,

く と も, ダル マ キ ール テ ィ の 思想に す る もの と して は、 ふ さ わ し くない もの の よ うに 思 え た 。 皿

 

とこ ろ が, 先の シ ャ ー キ ャ ブッ ディ の

釈は, チベ ッ トの

学僧達

に も

が れ た。 サ キ ャ派 (

Sa

 skya  

pa

)の 学 僧セ ル ドク パ ン チ ェ ン = ャ ー キ ャ チ ョ ク 一 429 一

(3)

量評釈

』 の帰敬偈に つ いて (木村) (

127

) デ ン

gSer

 mdog  

pa4

 chen  

Shakya

 mchog  

ldan

1428 − 1507

広 大 な る論 書

評釈の 解説 普賢法海 rGyas  

Pa

i

 

bstan

 

bcos

 tshad ma  rnam ’

grel rnam  

bshad

 Kun  

bz

. ang  chOS  

kNi

 rol mtsho に おい て , 次の よ うに帰 敬 偈 を注 釈 して い る。

  「 れ た 」 は 自性 身, そ し て 「 甚深」 は 受用身, そ して 「 」 は 変化 身  で あ る  。

 

Kha

3a1

) シ ャ ー キ ャ チ ョ ク デ ン は こ の よ うに ご く

単に 注 釈 を

示す る だ け であ る が, この シ ャ ー

の ダル マ キ ー

解釈

に と っ て決 定 的

意 味

つ もの で あ っ た 。 シ ャ ー キ ャ チ ョ クデ ン は , 別

歴 史

Tsh

− ad  ma  chos ’

byung

に お い て ,

  〔永 遠に 知 覚外の 存在 (shin  tu 

lkog

 gyur , atyantaparok a) とは〕,仏陀の用身と覚

 た る智慧法身と 自性 身の如 き もの であ る  。 (38a5 −6 ) と

べ ,

自性

を, 凡

に と っ て

対に認

ない 対

〔=

永遠

知覚

外の

存在

〕で あ ると

規定

した上で , さ らに 、 同 じ く 『

』 に おい て ,

の よ う な 見解 を

示す る 。   〔『

』〕「量 成就」 (tshad ma  

grub

 

pa

, pramapasiddhi )章で説明さ れ た一切智者

 (thams  cad  mkhyen  pa sarvajfia =仏陀 〕を証 明 する 正 理 (rigs pa nyaya   べ 極 的に は , 聖 典 (

lung

,  agama )に 依存 す る もの に す ぎ ない 。 なぜ な ら, 聖

 典に依存せ ず して そ れ らの証 因 (gtan tshigs, 

hetu

の三 相 (tshul 

gsum

, trairnpya )は

  成立 しない か ら で ある。 作 ら れ た もの と い う証 因に よっ て音 声は 無 常で ある と証 明で き

 る よ う な もの と 同 じでは ない の で あ る。 …中略 …特に , その よ う な もの を事物 の 力か ら  生 じ た 正 理 (

dngos

 po stobs  zhugs  

kyi

 rigs pa vastubalaprav τttanyaya )に よっ て証 明

  で きる と い うの は , 『量 評釈 』 の御 著 者 (rnam ’ grel mdzad  pa ;ダル マ キ ール テ ィ )の   善説で は ない の で あ る。つ ま り 事物の か ら生 じ た正 理に よっ て成 立す るの な ら ば,   永遠に 知覚外の もの で ある 必要は な く, 永 遠に知覚外の もの なら ば, 〔その 〕 証 因が聖  典に依 存 しない の は なので あ る  。 (

37aT

 

37b3

) 筆 者に は 、 シ ャ ーキ ャ ーチ ョ クデ ン の こ の

見解

は, ダル マ キール テ ィ の そ れか ら 全 く逸

した もの の よ うに え る が, シ ャ ーキ ャ チ ョ クデ ン は,

拠 も な し に , こ の 見

示 したの で は ない こ と も,

か で あ るc

敬偈に 対す る シ ャ ー キ ャ ブ ッ デ ィ流の注 釈 が,

の 見

に揺 ぎない 根 拠 を与 えて しまっ てい るか らあ る 。つ ま り, シ ャ ー キ ャチ ョ クデンは ,

に 対 するシ ャ ー キ ャブ デ ィ流の 注 釈に 依 存 し, そこ で示 され た自性 身等 を永

に 知

覚外

の もの であ る と規 定 した 上 .−

428

(4)

(128 ) 「量評 釈 』 の帰 敬 偈に つ いて (木 村 ) で , 『量 評

』 「

量成

就」

で言 及 さ れ る仏 陀に も,

規 定

当嵌

め た の で あ る。 だ が , シ ャ ー キ ャ チ ョ クデ ン に , どの よ うな

力な

拠 が あ ろ う と も,

が , ダルマ キ ール テ ィ の 見 解 を完全に 誤 っ た方 向に導い た こ とは否め ない 。 ダル マ キール テ ィに とっ て , 仏

永遠

に 知 覚 外の 存 在 な どでは決 して ない 。 ダルマ キ ール テ ィ に とっ て, 仏 陀 と は , 四

聖 諦

熟 知

してい る

の こ とであ り, また, その 四

諦は , 凡 夫に

ざ さ れ た

理 で は な く, 凡 夫の 推理 (anumana )の 対

となる もの だか らで あ る。 その こ と は , 『

評 釈 』 か ら明 瞭に 見て取れ る こ とで あ る。

 

ダル マ キ ール テ ィは , 『

評 釈 』 「

量成 就

」 章に おい て , 次の よ うに述べ てい る   。  捨て ら れるべ き もの に する真実 (

hey6padeyatattva

) を, それ の手 段   と共に 教示す る方 〔= 仏陀〕が , 量で あ ると承 認 さ れ る。 決 し て , 一 示 す る  〔量〕なの で は ない 。

k

32

。  遠 方 (

dUra

)を見て も, 見なくて も, 求め ら れ た真実 を見る こ と が量で ある。 も し, 遠   方 を見 る者が量 な らば, さあ、 鷲 を礼 拝 しよ う。

k

33

ま た, 『量 評 釈 』 「為 自比 量」 svarthanuarkna 章

k

215

の 自注 (

Gn

li

 ed . p ,108 ,

1L

 24 −25 )に おい て ダル マ キ ール テ ィは 「四

聖 諦

理 の

対 象

で あ る こ と」 を明 言 して い るの で ある  。 皿

 

さて , シ ャー キャ ブッ ディ

注釈

は ,

結果的

に , シ ャ ー キ ャ チ ョ ク デ ン の 如 き

しき

見解

を生み

き金になっ た こ とは

かだ と して も,

任は, シ ャ ーキ ャ ブ ッ テ ィ流の 注 釈に あ るの だ ろ うか , そ れ と も, 帰敬

に , そ もそ も, その よ うな注 釈 を

因が あ るの だ ろう うか。 これに 関 して も, 筆 者 は ,

ら明 確 な答 え を

わせてい ない が,

敬 偈につ い て, きわめ て

, こ こ で紹 介 しよ う。

 

その 見 解は, ヤマ ー

Yamari

示 す 。 ヤ マ ー , 『量 評 釈

厳注

疏 ・ 極 円

Prama4avdrttikalai

?ikara −

Suparis

uddha に おい て次の よ う うの で ある。

 それ故, 〔

量 評 釈

』 冒 頭の 〕二 偈 〔帰 敬 偈 と造 論 偈 〕は , 注 釈者(rnam  

bshad

 

byed

 pa )に よっ て作 られたの であ る。 (

Phe

181b7

ヤ マ ー に よ れば,

は , ダル マ キ ール テ ィ の

で は な く, 注

釈 者

に よ る捏

(5)

量評 釈 』 の帰 敬 偈につ い て (木 村 ) (129 ) 造 なの で あ る。 ヤ マ ー 見解 , い や が上に も, 想 象 力 をか き立 て る もの で あ る。 も し, その

注 釈者

が, シ ャ ー キ ャ ブッ ディ流の 注 釈 を意 図 した上で ,

を捏 造 したの らば , どうで あ る か。 さ らに 一

歩踏

み こ , その

が シ ャ ー キ ャ チ ョ クデ ンの 如 き見

を 生み 出す

す ら用

したの な らば ,

々 は , この 帰 敬 偈 をどう扱えば よ い の だ ろ うか。筆

に は ,

るべ き

手段

は ひ とつ しか ない よ うに 思 わ れ る。 す な わ ち, 『量 評 釈 』 の 帰 敬 偈は , 速や か に , テ キ ス トか ら除 去さ れ ね ば な ら ない の であ る。 また, も し, ヤ マ ー リ の見 解 を省 , テ キ ス ト に

帰敬偈

して

くに して も, シ ャ ーキ ャ ブ ッ デ ィ 流の 注 釈に対 し て は , 十分 注

う必

があろ う。 こ こ で ,

現時 点

で の

筆者

え を

素直

べ て,

結論

と したい 。 この

帰 敬偈

理 的思

に基づい て仏

した ダル マ キ ール テ ィ の 思

を台

しに す る

危険性

多分

っ てい るの で あ り, その よ うな危 険な も の が, 冒頭に

かれ て い る とすれ ば, 『量 評 釈 』 に 対 する 理 解は , 全 く誤 っ た 方 向に 流れ て しま うで あ ろ う。 した が っ て, 帰 敬 偈は断 固テ キス トか ら

去 され る べ き なの で あ る 。

 

さて , この 短 く拙い

稿

もこ れで 一 結 論 , 最 後に , チベ ッ ト

の ゲル ク派 (

dGe

 

lugs

 

pa

学 僧

ケー ドゥ プジ ェ = ゲレ クペ ル サ ン ボ mKhas

grub

 rie 

dGe

 

legs

 

dpal

 

bzang

 

po

(1385

1438

) が

え る

帰 敬 偈

に まつ わ る異 端 的 な 見 解 も あ わせ て , 紹 介 し て お こ う   その 見 解 を一 気に じ尽 くす だけの

知 識

は,

筆者

に は

欠如

してい るの で , ほん の さ わ りの

分だ けの

介で あ る。 ケ ー ドゥ プジェ

な る

論書量評釈

, 正 理 大 海』 sGyas  

Pa

i

 

bsta

nbcos  tshad  ma  rnam ’

grel

 rgya  cher  

bshad

 

Pa

 

Rigs

 

Pa

i

 rgya  mtsho に は ,

次の よ う な見

が 記 され てい る。

  智 慧が未 熟(

blo

 gros gzhon  nu で学 説 (grub mtha ’の大 海の彼 岸 ら ない あ る者

 は う。「 『量評 釈

』 の見解に おい て も, 自性 身とは , 法 界(chos 

kyi

 

dbyings

, 

dharmadh

 atu)の 智 慧 (ye shes  prajfiaで あ り, そ れ は , ま た, 常住 ・堅固 ・自然の 自性(rtog

 

brtan

 

lhun

 grub  rang  

bzhin

に よ っ て光 〔が〕虚 空 〔に対 する が〕如 く、

を遍 満

  L

, 言 葉 と分 別 (sgra  rt・g)

 

の 直 接 的 対 象 (

dngos

 yul で は な く,

色 法

bems

  po

i

 chos え た

絶対

med  

dgag

 

prasajyaprati

§edha で は な く, 断 空

 

(chad  stong で は い の で ある」   (

Tha

6a5

−6

こ の実 在 論 的 な見 解 も, やは り, 帰 敬 偈を め ぐっ て

示 さ れ た もの であ る。 帰 敬

偈 と そ れ に 付 随 するシ ャ ーキ ャ ブ ッ デ ィ流の注

が, 仏

教論

に も た ら した

(6)

(130 ) 「量 評 釈

』 の 帰 敬偈に つ い て (木 村)

は ,

り知れ ない ほ ど, 強 力な もの なの で あ る。

      注

  五種の テ キス トとは ,

CA

Gnoli

 

R

(ed ):

The

 

pramdyavarttika

()

f

 

Dharmakirti

, 

Serie

 

O

 riental  

RomeXX

 ・(B)

Malvania

, 

D

(ed ):

Svarthdn

πmana −

pariccheda

, 

Hindu

 

Vishva

 

vidyalaya  

Nepal

 

Rajya

 

Sanskrit

 

Series

,  vot ,∬

 

(C)

Sfirpk

;tyEyana ,

R

(ed ):

Karnakage

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Commenta

 ry  on the 

l

)ram 々4avarttikavrtti of 

Dharmakirti

 (D)

Shastri

, 

S

, D (e

 

d

);

Prama

avdttika  q/

Acharya

 

D

加 r〃takirti 痂 彦ん the 

Commentary

‘y ”

tti’of  Achar ・

 ya 

Manorathanandin

, 

Bauddha

 

Bharati

 

Series

 3 (E)Miyasaka , Y (ed ): Pramdpavdrttik 一

 α.加 r∫毓   拙稿  「 ッ トの 論理学 書に お け る 「解脱 と一切 智者」 の証明に つ い て』 日本西蔵 学  会マ報 第33号

S

62p

.12   注   の拙 稿 p ,

12

お よび p .

14

の注 (

14

)参照   注  の 拙 稿 pp .

9

− 11お よ び拙 稿

 

初 期 い て 」 駒 沢 大学 仏教学  部論集   第

18

S

62p

95

参 照   この二 する説明は ,川崎信定  一一切智者の 存在論」 『講座 ・大乗仏教』 9 一認  識論と理学 春秋社 

S

59pp

308

309

照   若原雄昭

 

全 知存 在 証明 教論理学派に於る系譜一一1  研 究,

S

.60 

p

.59 参照   ケー ドゥ プ ジェ も同書で次の ように シ ャ ーキ ャ ブッ デ ィ流の 注釈を提 示 してい る。    〔捨 離 (spangs  pa )と は , 分 別の網 を〕 「れ る と をと す る 」 と言わ れ, その 捨 離   が自性身で あ る。「甚 深 . と言 うこ とに よ っ て , 受 用 身が説か れて い る。 す    な わち, 声 聞 ・独 覚 ・凡 夫 (so skye )の境 地では ない の で 「甚深」 と 言 わ れ るの で あ   る。 「大 をと す る 」 と 言 うこ とに よっ て ,変化 身が 説 かれて い る。す な わ ち, そ れ    は ,所化 (gdul 

bya

の能 力に応 じ て, 多様な相 と して現わ れ,声 聞 ・ 独覚 ・苦 薩 ・凡    夫等 とい う浄 ・不浄の多様なる所 化を直 接の境 地 と して い るの で 「広 大 」 と 言 わ れる    の で あ る。(

Tha

5a6

5bZ

)   sgra  rtog に は 「言葉 よ る分別 」 とい う訳も可 能で ある。二 種の 訳の う ち,ど ち らが  適切 で あ るの か 判別出来なか っ た。   ケー ドゥ プジ ェ は , こ の見 解 を詳 細に否定 してい るの で あ る が, 筆者に は 理解 不 能な部  分が多い ので , 本稿で紹介 し得なか っ たe                    使 用テキス ト   ダル マ キール テ ィ

 

The

 

Pramdyavarttika

(,

f

 

Dharmakirti

 ed , 

by

. 

R

. 

Gnori

 

Pramd4ava

’ rttika ・

karik

∂ ed . 

by

 

Y

. 

Miyasaka

 シ ヤ ーキ ャ ブッ デ ィ

(7)

      『量評 釈

』 の帰敬偈に つ い て (木村)             (131 )

prama4avdrttika4ikd

, sDe  

dGe

 ed . 

No

 4220

ヤマ ーリ

Prampmavdirttik々lampkjragikd−Supa プi’∫π4己ゴゐ冱, sDe  

dGe

 ed . No  4226

シ ャ ーキ ャ チ ョ クデ ン

rGyas  

Pa

’s 

bstan

 

bcOs

 

Tshad

 ma 厂nam ’ grel gyi rnam  

bshad

 Kun  

bxang

 chos  

kyi

 r・

t

mtsho  Tbe  

Complete

 Works  voL  18

Tshad

 ma  ches ‘

byung

, 

The

 

Complete

 

Works

 voL  

19

ケープ ドゥ プ ジェ

r( 5Pa ’

i

 

bston

 

bcos

 thad ma  rnam ‘grel gyi rgya  ches 

bshad

 

Pa

 

Rigs

 

Pa

i

 rgya  mt − sho  

Tohoku

 

No

 

5505

       1989,

7

/1脱稿 補 注   テ キ ス ト (

Miyasaka

, ed .) ’

phrol

を改め た 。 一

424

参照

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