江戸時代前期の江戸における町奉行所出版許可制の存在について
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荷田在満の『大嘗会便蒙』による奇禍を通じて│
(山本)一
元 文 五 年( 一 七 四 〇 ) 九 月 六 日、 江 戸 で、 『 大 嘗 会 便 蒙 』 な る 前 年 の 新板書物を町奉行所に回収するための町触が出された。 本 を 送 っ た 者 に は 送 り 先 か ら 取 り 返 し て 提 出 さ せ る よ う 命 じ、 ま た、 江戸全町に町内の本の有無を回答させた。 元 禄 六 年( 一 六 九 三 ) 綱 吉 政 権 時 の 馬 の 物 言 う 噂 の 発 生 源 探 索
⑴時 を 思 い 起 こ さ せ る、 江 戸 時 代 に お い て は き わ め て め ず ら し い
⑵、 町 支 配 組 織を利用して伝播ルートをたどる公開捜索である。
覚 『 大 嘗 会 便 蒙 』 と 申 す 書 物 、 去 年 新 板 差 出 候 。 右 書 物 調 候 者 有 之 候 は ゞ 、 早 々 備 前 守 様 ( 水 野 勝 彦 。 元 文 四 年 九 月 よ り 南 町 奉 行 。 ─ 山 本 注 ) 御 役 所 へ 可 差 上 候 。 求 め 候 て 外 へ 遣 し 候 は ゞ 、 先 よ り 取 返 し 可 差 上 候 。 若 又 先 々 よ り 遠 国 へ 遣 し 候 事 有 之 候 は ゞ 、 其 の 先 々 相 尋 ね 可 申 上 候 。 難 相 尋 所 、 又 は 難 取 返 分 共 に 其 の 訳 可 申 上 候 。 右 の 通 、 町 々 書 物 致 商 売 候 者 は 勿 論 、 其 の 外 地 借 り 店 借 り 裏 々 ま で 申 聞 、 有 無 返 答 名 主 支 配 限 り 書 付 け 、 備 前 守 様 御 番 所 へ 可 申 上 候 。 御 急 ぎ の 儀 に 候 間 、 早 々 右 返 答 可 申 上 候 。 少 も 遅 々 有 間 敷 候 。 以 上
九月六日 町年寄三人( 『江戸町触集成』六五七四) 『 大 嘗 会 便 蒙 』 は、 の ち に『 国 歌 八 論 』 で 知 ら れ る、 国 学 者 荷 田 東 満 の養継嗣在満の著作である。 元 文 四 年 に 板 行 さ れ た こ の 著 作 は 在 満 を 三 ヶ 月 半 の 謹 慎 に 追 い 込 ん だが、 それが主君田安宗武にとって失点という ほ どの意味を持たなかっ た こ と は、 そ の の ち も『 国 歌 八 論 』 の 執 筆 を 慫 慂 さ れ て い る と こ ろ か ら し て わ か る、 と い う こ と は 羽 倉 敬 尚 氏 が い く た び も 記 さ れ た と こ ろ である (たとえば 「荷田の落ち穂」 初出 『朱』 一五、 昭和四十八年六月。 のち同氏論文集『近世学芸論考』明治書院、平成四年、一二六頁) 。 し か し な が ら、 幕 府 か ら 板 木 没 収 且 つ 閉 門 の 科 罰 を 受 け た こ と に よ り 田 安 家 か ら 退 け ら れ た と す る 見 方 は、 科 罰 が 元 文 五 年 で あ り 田 安 家 致 仕 が 延 享 三 年( 一 七 四 六 ) と 六 年 の 懸 隔 を さ し は さ む に も か か わ ら ず、 ─ そ れ は 遠 い と も 近 い と も 見 え る の で あ ろ う、 ─ ど う し て も 生 じ て し ま う も の ら し く、 た と え ば そ の 見 方 の 一 例 が 田 安 宗 武『 服 飾 管 見 』 に つ い て 宗 武 侯 没 後 に 遺 稿 の 整 理 に 当 た っ た 家 臣 の 記 し た 解 説 山 本 秀 樹 江戸時代前期の江戸における町奉行所出版許可制の存在について
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荷田在満の『大嘗会便蒙』による奇禍を通じて
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にも見えることは、 同じく羽倉敬尚氏が 「東丸と真淵と」 (初出 『神道学』 九 三、 昭 和 五 十 二 年 五 月。 の ち 上 記 同 氏 論 文 集、 一 七 八 頁 ) で 触 れ ら れている
⑶。 先 の 触 が 江 戸 の 町 に 触 れ ら れ て『 大 嘗 会 便 蒙 』 版 本 の 回 収 が は か ら れ る 三 日 前 の 元 文 五 年 九 月 三 日、 在 満 は 田 安 家 か ら 呼 出 を 受 け て い る ( 荷 田 在 満「 大 嘗 会 便 蒙 御 咎 顚 末 」『 大 嘗 会 儀 式 具 釈 』 羽 倉 家 蔵 版( 非 売品) 、大正五年
⑷)。 そ れ は こ の と き 現 将 軍 の 意 向 を 受 け て 復 興 さ れ た
⑸、 大 嘗 会 と い う、 儀 式 と し て は 最 重 要 の 部 類 と し か 受 け 取 ら れ よ う も な い で あ ろ う 天 皇 の 即 位 関 連 儀 礼 に つ い て 書 物 を 記 し、 版 本 と い う、 一 般 に 売 り 弘 め ら れ る 形 式 に し て し ま っ た、 こ と が ら の 性 質 上、 譴 責 を 承 け て も 仕 方 の ない所以ではあった。 な ん と な れ ば、 そ の 情 報 を 管 轄 す べ き 公 家 方 か ら 異 論 が 出 て し ま え ば、 そ れ は 状 況 的 に 異 説 と い う こ と に な っ て し ま わ ざ る を 得 な い し、 学 問 異 説 の 新 版 書 物 は 当 の 現 将 軍 吉 宗 が 十 八 年 前 に 禁 じ た と こ ろ で あったからである。 享 保 七 年( 一 七 二 二 ) 十 一 月 八 日 江 戸 触 の 書 物 関 係 五 ヶ 条 令 第 一 条 は以下のごとくである( 『江戸町触集成』五八二七) 。 一、 自 今 新 版 書 物 の 儀、 儒 書・ 仏 書・ 神 書・ 医 書・ 歌 書、 都 て 書 物 類、 其 筋 一 通 り の 事 は 格 別、 猥 成 儀・ 異 説 等 を 取 交 え 作 り 出 し 候儀、堅く可為無用事。 ま た、 こ と が ら の 適 否 で 言 え ば、 幕 府 御 用 で 情 報 を 集 め た 大 嘗 会 に つ き わ ざ わ ざ 人 の 眼 に 立 つ 出 版 は い か に も い か に も ふ さ わ し い 行 為 で は な か っ た。 そ れ は ま さ し く 公 用 に よ り 知 り 得 た、 将 軍 に 提 出 す べ き 情報を一般庶民に売り渡すことと思われてしまったであろうから
⑹。 尋 問 期 間 中 に 在 満 が、 御 用 掛 の 大 島 近 江 守 か ら 示 唆 を 受 け た 書 簡 で 明 ら か に 問 題 視 さ れ て い る こ と が、 序 文 に「 蒙
下記
二得 大 礼
一之 鴻 命
上」 と 記 し て あ る こ と で あ り、 こ れ あ る が た め に「 御 用 に つ き 承 り 合 い 候 大 嘗 会 の 儀 を こ の 書 に 板 行 い た し 候 様 に 相 聞 こ え 候 」 こ と と さ れ て い る こ と か ら も、 幕 府 に と っ て の 問 題 の 核 心 が こ の 辺 り に あ り 得 た こ と が 明 ら か に 記 さ れ て い る と 言 え る の だ が、 従 来 ま っ た く 注 意 さ れ て い ない。 内 容 的 に 何 の 問 題 も な い こ と に、 公 家 方 か ら の 批 判 に 過 敏 に 反 応 し て 幕 府 は 在 満 を 処 罰 し た、 と い う の が 従 来 の 解 釈 だ が、 公 家 方 か ら の 批 判 は さ ほ ど の 問 題 で は な く 内 容 的 に 問 題 が あ る こ と は す で に 大 島 近 江 守 か ら の 書 簡 に 示 さ れ て い る の で あ っ て、 従 来 の 研 究 に は、 残 念 な がら史料の記述を軽視しすぎたところがある。 実 際、 在 満 と 大 島 近 江 守 と の 応 答 の 間 に は 以 下 の よ う な 大 島 の 考 え がはっきり示されている。 京 都 よ り の 儀( 禁 中 大 事 の 規 式 の 儀 を 板 行 し た こ と に つ い て 公 家 方 か ら 付 い た 物 言 い ─ 山 本 注。 以 下 同 様 ) は 差 し た る 事 も こ れ あ るまじく候。 (「大嘗会便蒙御咎顚末」八頁) (序文中) 「蒙
下記
二得大礼
一之鴻命
上」とこれあり候所、 事重く候(中 略) (この) 文言
ガラ(あるが) 故一体の書 (書物全体の意味合いが) 重 く 相 成 り 候。 ( と い う の は ) 御 用 に つ き 承 り 合 い 候 大 嘗 会 の 儀 を この書に板行いたし候様に相聞こえ候(同右七頁)
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(山本)序 文 に は「 お よ そ 好 古 の 士
0000・ 有 識 の 人
0000、 誰 か こ の 礼
000の 中 興 を 楽 し ま
0000ざ ら ん や。 予 幸 い に 大 礼 を 記 得 す る の 鴻 命 を 奉 り て 去 歳 仲 冬、 伝 馬、 洛 に 到 る。 た ま た ま 重 服 有 り て 宮 城 に 入 る こ と を 得 ず と い え ど も 東 馳 西 駆 し て ほ ぼ そ の 趣 を 明 ら か に し、 朝 に 問 ひ 夕 に 正 し て 漸 く そ の 奥 を 得 た り。 今 春 東 帰 し て こ れ を 筆 し こ れ を 録 し 」( 凡 好
 ̄古
ノ之 士 有
 ̄識
ノ之 人 誰
カ不
ンヤレ楽
マ二此 礼
ノ中
 ̄興
ヲ一乎 予 幸
ニ奉
テ下記
二  ̄得
スルノ大
 ̄礼
ヲ一之 鴻 命
ヲ 上去 歳 仲 冬 伝 馬 到
ルレ洛
ニ雖
下会 有
テ二重 服
一不
ト上レ得
レ入
二 ル一
宮 城 而 東
コトヲニ ̄馳 西
 ̄駆
シテ略 明
ニシ二其 趣
ヲ一朝
ニ問
ヒ夕
ニ正
シテ漸 得
タリ二其 奥
ヲ一今
 ̄春 東
 ̄帰
シテ筆
シレ之録
シレ之)とある(傍点山本。以下同様) 。 在 満 は『 便 蒙 』 中 に は こ た び 御 用 の 情 報 は 記 さ れ て い な い と 弁 明 す る が、 『 便 蒙 』 の 序 文 に は「 国 字 を 用 い て 当 日 の
000次 第 を 釈 す 」 と も 書 か れ て お り、 ま た、 「 当 日 の 威 儀
00000」 を 画 工 に 描 か せ る( 挿 絵 ) た め に 板 行 して欲しい旨の門生らの要請が記される。 そしてまた、 下巻冒頭には 「大 嘗会 当日の
000次第」とタイトルされる。 こ れ ら す べ て の「 当 日 」 は、 「 御 用 当 日 」 の 意 味 で は な く、 一 般 的 に い つ の 代 の 大 嘗 会 で あ れ、 「 大 嘗 会 の 当 日 」 の 意 味 で 使 用 さ れ て い る の だ と 在 満 の つ も り と し て は あ る の だ ろ う が、 序 文 に 不 用 意 な 問 題 の 語 句 が あ る こ と に よ っ て こ れ ら の す べ て が「 御 用 当 日 」 の 意 味 で 理 解 さ れてしまう状態にあることが問題なのである。 公 家 方 か ら の 物 言 い は「 禁 中 御 隠 密 の 事 共 を 板 行 い た し 候 」 こ と に 付 け ら れ た と 伝 え ら れ て お り( 同 前 二 頁 )、 実 際 宮 中 内 奥 で 行 わ れ る 儀 礼 情 報 を 公 開 し よ う と す る な ら、 そ れ な ら そ れ で 当 然 そ れ 相 応、 公 家 方 の 意 向 確 認 手 続 と い う も の が 必 要 と 考 え ら れ る だ ろ う こ と は 想 像 す るに余りある。 そ の 要 確 認 行 為 を、 在 満 序 文 は、 江 戸 幕 府 将 軍 の 意 向 を 受 け て 京 都 で 儀 礼 情 報 を 集 め た 者 が( 朝 廷 側 に 何 の こ と わ り も な く 勝 手 に ) 儀 礼 当 日 の 儀 礼 内 容 を 公 開 す る と 表 現 し て し ま っ て お り、 こ れ で は 公 家 方 に、 当 時 の 実 際 以 上 に 難 癖 を 付 け よ う と す る 意 志 が あ れ ば、 朝 幕 関 係 の問題として非難することすら可能であったと思われる。 在満大嘗会調査行の 「御用掛」 大島近江守は 以
これおき興( 『寛政重修諸家譜』 )。 紀 伊 和 歌 山 か ら 吉 宗 に 付 き 従 っ て 江 戸 城 に 入 っ た 和 歌 山 藩 以 来 の 家 臣 で あ り、 職 掌 は こ の と き 小 納 戸 頭 取( 同 上 書 )。 小 納 戸 は 小 姓 に 次 ぐ 将 軍 近 侍 の 日 常 生 活 奉 仕 役 で あ り( 小 学 館 版『 日 本 歴 史 大 事 典 』 二、 平 成 十 二 年 )、 そ の 頭 取 は 数 十 人 を 数 え る 小 納 戸 の 指 図、 奥 向 の 取 締 り、 将 軍 側 近 の 諸 用 向 の 取 扱 い な ど を 行 う。 小 納 戸 頭 取 は 奥 向 の 取 締 り と し て 表 役 人 に 応 接 す る た め 大 な る 権 力 を 生 じ、 小 姓 を 凌 ぐ も の が あ っ たとも言われる(吉川弘文館版『国史大辞典』五、昭和六十年) 。 し か も 大 島 は、 そ の 父 古 心 守 正 以 来、 好 学 の 吉 宗 の 側 近 中、 学 問 面 を 担 当 し た と 言 わ れ、 在 満 の 養 父 東 満 の「 創 学 啓 文 草 稿 」 も 彼 を 宛 名 と し て 記 さ れ た よ う な 人 物 で あ る( 注(
政 重 修 諸 家 譜 』 加 藤 納 泰 の 項 に 言 う ) や 支 配 筋( 「 支 配 」 小 川 長 左 衛 門 藤 甲 斐 守 納 泰 ・ 建 部 民 部 少 輔 広 充。 「 守 」 役 は 今 の 家 老 に 当 た る と『 寛
のりやす少 な く と も、 実 際 の 取 調 を 行 っ た 田 安 付 き の 家 老 た ち( 「 御 守 衆 」 加 まったく無関係とは考えにくい。 そ の 彼 が 在 満 に 書 翰 で 伝 え た 指 示 が 本 件 に 関 す る 将 軍 周 辺 の 意 向 と 嘗会便蒙』に因る奇禍」一八四頁) 。
4) 羽 倉 氏「 荷 田 在 満 の『 大
康
やす明
あきら・ 細田清左衛門康行 ・ 遠藤平右衛門忠通。同じく『寛政重修諸家譜』 に よ れ ば こ の 時 彼 ら は い ず れ も 田 安 の 物 頭 兼 目 付 で あ る ) よ り、 こ の 時 の 将 軍 と の 距 離 に お い て は る か に 近 く( 田 安 側 に 紀 伊 和 歌 山 か ら の 家 臣 は お ら ず、 彼 ら は 将 軍 側 衆 加 納 遠 江 守 久 通 か ら の 指 示 で、 加 納 の 問 い に 対 す る 回 答 を 在 満 に 書 か せ る の み の 役 回 り で あ る )、 大 島 の 意 見 ─ あ る い は 大 島 の 読 み、 な の か も し れ な い が ─ は 従 来 の ご と く に 無視されるべきではなかろう。 そ し て、 当 時 の 江 戸 出 版 法 か ら す れ ば、 当 時 の 出 来 事 の 報 道 出 版 行 為 は 禁 令 事 項 で あ り( 前 掲 拙 稿『 江 戸 時 代 三 都 出 版 法 大 概 』 本 章「 三 都 町 触 に よ る 江 戸 時 代 出 版 法 概 観 」 六「 三 都 共 通 出 版 法( 二 ) ─ 享 保零年代町触」 (二) 、および本章八 「三都個別出版法 ─ 享保以前」 (四) 「公儀 ・ 人の迷惑 ・ 珍しき事 ・ はやり事 ・ かわりたる事 ・ 浮説 ・ 虚説(寛 文 十 三 年・ 一 六 七 三 以 後 三 都 個 別 令 )」 )、 火 事 で 焼 け た 場 所 を 記 し た 図 版 す ら 出 版 売 買 が 許 さ れ な い こ と を 考 え れ ば、 当 時 再 興 実 施 さ れ た 儀 礼内容の出版は、江戸地では禁止行為に当たるものと解釈される。 在 満 は、 当 時 京 都 で 出 版 さ れ た 大 嘗 会 版 本 が 江 戸 で 流 布 し て い た か ら、 自 ら の 出 版 に も 問 題 は な い は ず だ と 弁 明 し た が、 当 時 の 出 版 法 に 照 ら し て 違 法 行 為 に ち が い は な い わ け で、 す で に 違 法 行 為 を 行 っ た も の が い る の だ か ら 自 分 も そ れ を 行 っ て い い は ず だ、 と の 理 屈 が 通 る は ずもない。 こ の よ う に 当 時 の 出 版 法 制 と の 関 連 を 確 認 し て み れ ば、 こ の 問 題 は、 従 来 の よ う に 朝 廷 儀 礼 に 関 し て の 公 家 と 幕 府 の 関 係 だ け で 説 明 さ れ る べ き 問 題 で は な い の で あ る。 こ と は 当 代 将 軍 が 発 し た 法 度 に 関 わ る 問 題であった。 お そ ら く こ と が ら は、 在 満 が 関 知 し 書 き 記 し た 以 上 に、 ま た、 そ れ に も と づ き 近 現 代 の 人 々 が 考 え た 以 上 に、 意 外 に お お ご と だ っ た の で ある。 だ か ら、 在 満 の 謹 慎 処 分 が 解 か れ た 十 一 月 十 三 日 か ら 二 ヶ 月 後 の 元 文 六 年 正 月 二 十 八 日 に 江 戸 で、 ─ 京 都 で は 数 日 遅 れ て 二 月 七 日 に、 朝廷儀式に関する出版追加令が触れ出されることになったのであろう。 本 件 に 関 し て 発 令 さ れ た こ の 触 の 内 容・ 表 現 に つ い て も 従 来 ほ と ん ど分析の対象とされたことがない。
覚 去 々 年 於 京 都、 大 嘗 会 被 行 候 御 作 法、 致 板 行 候 段 相 聞 候 に 付、 去 年 絶 板 被 仰 付 候。 自 今 以 後、 朝 廷 御 規 式 板 行 の 事、 有 来 候 外 停 止 に候。但、有来り候板古く成、彫改候類は不及断候。
酉正月
⑺(『江戸町触集成』六五八七) こ の 法 令 で「 有 り 来 た り 候 ほ か 停 止 に 候 」 と あ る 発 想 に は 注 意 し な け れ ば な ら な い。 そ れ は 先 に 掲 げ た 享 保 七 年 の 書 物 関 係 五 ヶ 条 令 第 一 条 に 見 え る「 そ の 筋 一 通 り の 事 は 格 別 」 と も そ の 発 想 は 共 通 し て、 こ の 書 物 関 係 五 ヶ 条 令 以 前 か ら 幕 閣 で 検 討 さ れ て い た 法 案 に も「 有 り 来 たり」という単語は出て来る
⑻。 右 の 品 々( 器 物・ 織 物・ 書 物
00─ 山 本 注 )、 有 り 来 た り
00000物 に て も、 最 初 は そ の 仕 形 の 品 軽 く 候 て も、 段 々 仕 形 を 替 へ、 花 美 を 尽 く し、 潤 色 を 加 へ、 甚 だ 費 え な る 儀 に な り 候 あ い だ、 最 初 の 質 朴 を 用 ゐ 候様に仕るべく候。
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(山本)初 期 法 案 で は こ の た め に 新 規 の 仕 出 し、 仕 立 て を 禁 止 す る と 言 っ て い たのである。 そ れ は 享 保 六 年( 一 七 二 一 ) 閏 七 月 に 三 都( 江 戸・ 京 都・ 大 阪 ) で 実際に触れ出された新規商品停止令では 諸商売物のうち、 古来の通り
00000にて事済み候ところ、 近年色品を替え、 物 数 寄 に て 仕 出 し
000候 の 類 は 追 て 吟 味 を 遂 げ、 停 止 申 し 付 く べ く 候 あいだ、兼ねがねその旨相心得べく候事。 と表現されてもいて、発想は一貫している。 元 文 六 年 の 朝 廷 儀 式 書 出 版 禁 令 が 全 面 的 禁 止 令 で な く 制 限 令 で あ る のは、このような一貫した発想によるものである。 す で に 存 在 す る も の で も う 十 二 分 な の で あ っ て、 こ れ 以 上 新 規 の 出 版は、その必要のない過剰・贅沢・無駄にあたるという理屈である。 在 満 は『 便 蒙 』 に 固 有 の 新 し い 情 報 は な く、 こ れ ま で も 知 ら れ て い る 史 料 に よ る 説 明 し か な い ゆ え 問 題 は な い 旨 を 弁 明 し た が、 将 軍 吉 宗 の 発 想 で 言 え ば、 そ れ で は 出 版 す る 必 要 性 が な い の で あ っ て、 無 駄 な 出版は許されるべきではないのである。 し た が っ て、 今 回 の 件 に お い て は、 出 板 流 通 条 件 に 暗 い 素 人 の 在 満 に さ ほ ど 重 い 科 罰 は 加 え ら れ ず、 そ し て ま た、 町 触 禁 止 事 項 で あ る 異 説 出 版 の 可 能 性 を 見 過 ご し、 差 し 障 り の あ る 出 版 か ど う か を 確 か め る 手 続 を も 取 ら な か っ た、 出 版 手 続 の プ ロ で は あ る が、 学 問 と 幕 府 内 の 手 続 に 明 る い は ず が な い 書 肆 小 川 彦 九 郎・ 板 木 師 も 同 じ く 町 預 け の 罰 に 処 さ れ た の で あ る( 注(
名日記』元文五年九月十九日条) 。
4)『 荷 田 全 集 』 七「 凡 例 」 所 引 の 羽 倉『 信 明を加えてみた。 由 は 見 逃 さ れ て い た よ う に 思 わ れ る の で、 こ こ に 出 版 法 制 面 か ら の 説 従 来 の 研 究 に は い ま だ 当 時 の 法 令 面 へ の 顧 慮 が な く、 在 満 処 罰 の 理 の性格を持っているのである。 た 以 上、 わ か り や す く 前 出 版 法 令 の 趣 旨 を 補 足 し 表 現 し た 補 足 追 加 令 て、 この時に出された朝廷儀式関係出版制限令は、 違反者が出てしまっ 現 実 は あ ざ な え る 縄 の ご と く 一 筋 縄 で は 成 り 立 っ て い な い の で あ っ のだとわかる。 は 享 保 の 改 革 政 治 に ─ 違 犯 し て し ま っ て い る と こ ろ が 確 か に あ っ た が、 当 時 幕 閣 が す で に 出 し て い た 法 令 に、 ─ と い う こ と は、 ひ い て 際 に 発 令 さ れ た 町 触 の 表 現 お よ び 意 味 内 容 に 注 意 す れ ば、 や は り 在 満 公 家 方 に 対 す る 幕 府 の 過 剰 反 応 と も 解 釈 さ れ て き た が、 結 果 と し て 実 家 方 が 幕 府 に 対 し て 物 言 い を 付 け た こ と と 考 え て お り、 在 満 の 受 難 は 従 来 の 研 究 で は、 こ の 件 に 関 す る 在 満 の 受 難 の 発 生 原 因 を 専 ら、 公 九月二十日記事) 、処罰の理由は幕府の側にあったのである。 れ て い る が( 前 掲「 大 嘗 会 便 蒙 御 咎 顚 末 」 末 尾 に 所 引 の『 兼 香 公 記 』 公 家 方 で も 在 満 謹 慎 の 処 罰 ま で は 不 必 要 の 感 を 抱 い た こ と が 紹 介 さ
二
さ て、 本 稿 の 主 旨 は 国 学 者 荷 田 在 満 の 受 難 と そ の 原 因 と 結 果 の 解 説 にあるのではない。 そ う で は な く て、 こ の 受 難 に 際 し 在 満 が 記 し と ど め た 幕 府 に 対 す る そ の 弁 明 の や り と り の 一 部 始 終 の う ち に、 江 戸 時 代 前 期 の 出 版 制 度 に 関 す る 重 要 な 情 報 が 含 蓄 さ れ て い る、 そ の 含 蓄 を く み と り、 こ こ に 開
陳しようとするのである。 在 満 は こ の 度 の 出 版 に 関 す る 顚 末 を 記 し た 口 上 書 を 何 度 も 何 度 も 問 い 直 さ れ 書 き 直 さ せ ら れ す る う ち に 自 ら の 言 い 分 を そ れ と は 別 に 書 き 置いてその一節に言う。 京 都 よ り 新 版 の 大 嘗 会 の 書 も 誰 人 か 板 行 出 し、 御 当 地 迄 も 流 布 仕 り 候 事 に 御 座 候 へ ば、 差 し 控 え 候 に も 不 及 儀 と 存 じ 候 に 付 き、 日 本 橋 南 二 丁 目 小 川 彦 九 郎 と 申 す 書 林 を 板 元 分 に 仕 り 候。 所 の 儀 等 承 り 合 い 候 へ ば、 彦 九 郎 申 し 候 は「 前 方 は 板 元 の 書 林 よ り 町 御 奉 行 所 へ 写 本 差 し 出 し、 御 吟 味 の 上 板 行 仕 り 候。 近 年 は 書 林 仲 間 に て 吟 味 仕 り 候 様 被 仰 付、 町 御 奉 行 所 へ は 差 し 出 し 不 申 候。 右 写 本 差し越し候はゞ、 今度此様の書、 彦九郎方にて板行仕り候段を申し、 総 仲 間 へ 吟 味 廻 し 可 申 候 」 段 申 し 候 に 付 き、 去 秋 彦 九 郎 方 へ 写 本 差 し 遣 わ し、 為 致 吟 味 候 所、 故 障 の 儀 無 御 座 候 由 に て、 彦 九 郎 方 に て 板 木 屋 申 し 付 け、 為 致 板 行 差 し 越 し 申 し 候 に 付 き、 私 方 に て 為摺申し候。 (一四頁) 江 戸 で も 流 布 し た と い う 誰 が 出 し た か わ か ら な い 京 都「 新 版 の 大 嘗 会 の 書 」 ─ 誰 が 出 し た か わ か ら な い と い う こ と は、 版 本 に 著 者 名 が 記 さ れ て い な か っ た と い う こ と で あ ろ う。 ─ は、 今 日 日 本 古 典 籍 総 合 目 録 デ ー タ ベ ー ス( 国 文 学 研 究 資 料 館 ウ ェ ブ サ イ ト ) で「 大 嘗 会 」 で検索をかけてもそれらしいものには出くわさない。 元 文 三 年 の 版 本 と い う こ と で は、 か ろ う じ て 八 戸 市 立 図 書 館 南 部 家 旧 蔵 本 に 一 本 残 る こ と が 知 ら れ る『 新 説 大 嘗 会 実 記 』 が そ れ に 当 た る も の で あ る 可 能 性 を 持 つ が、 実 見 で き て は い な い の で ま だ 京 都 板 か ど うかはわからない。 何 よ り 江 戸 で も 流 布 し た と 言 う に し て は 今 日 一 本 し か そ の 存 在 を 知 られないことがひっかかる。 あ る い は、 在 満 の『 便 蒙 』 の 回 収 と 禁 令 に よ っ て『 新 説 実 記 』 も 回 収 さ れ る こ と に な っ た も の で あ ろ う か。 そ れ に し て は『 便 蒙 』 で 回 収 の 痕 跡 が 町 触 と し て 歴 然 と 残 っ た の に 比 し て、 こ ち ら は ま だ 回 収 の 痕 跡に見当たっていない。 と も か く も 京 都 板 の 新 版 書 が あ っ た か ら 出 版 し て も い い だ ろ う と い う の は、 あ る い は 世 間 に 疎 い 学 者 の 考 え と 評 さ れ る こ と も あ り そ う で ある。 著 者 名 も 記 し て い な い そ れ は、 い か に も 際 物 出 版 と い う こ と な の で あ ろ う し、 そ の 本 が 仲 間 検 閲 不 行 届 と か 京 都 未 届 出 素 人 板 の 売 り 弘 め 等 の 事 情 で や が て 回 収 の 憂 き 目 に 遭 う と も 限 ら な い わ け で あ る し、 幕 府 御 用 を 勤 め て 得 た 情 報 を そ の 張 本 人 が 一 部 に も せ よ 世 間 に 広 め る と い う 体 は い か に も ま ず か ろ う こ と も 心 配 し な け れ ば 行 き 届 か な い で あ ろう。また、 すでに元文三年時の大嘗会本が出ていたということは、 『便 蒙 』 が 類 本 と し て 出 版 出 願 時 に 問 題 に な る 可 能 性 が あ る こ と も 心 配 し た方がいいことである。 し か し、 餅 は 餅 屋、 本 は 本 屋、 そ れ ぞ れ の 職 種 に 応 じ た 知 識 と 慣 習 が あ る わ け で、 だ か ら こ そ 専 門 職 の 商 業 出 版 者 を 板 元 に 立 て る 必 要 が あ る の だ ろ う か ら、 出 版 業 者 以 外 は、 普 通 は 出 版 業 者 を 板 元 に 立 て る と い う こ と を 知 っ て い る だ け で 充 分 で も あ る し、 そ れ 以 外 の こ と は な か な か 情 報 を 得 る こ と す ら む ず か し い の で あ ろ う。 情 報 は 個 人 個 人、
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荷田在満の『大嘗会便蒙』による奇禍を通じて│
(山本)具 体 に 得 ら れ る 状 況 と 環 境 が 特 定 に 異 な る の で あ っ て、 一 個 人 に 即 し て 見 る 場 合 に、 一 般 的 レ ベ ル と か 平 均 的 レ ベ ル と か は 何 の 意 味 も 持 た ない。 板 元 小 川 彦 九 郎 は『 割 印 帳 』( 『 享 保 以 後 江 戸 出 版 書 目 』) に 最 初( 享 保 十 二 年・ 一 七 二 七 ) か ら 名 前 が 見 え、 天 明 四 年( 一 七 八 四 ) に 至 る まで五十年百点以上の本を取扱っており (京板元の江戸売出しが多い) 、 江 戸 の 本 屋 仲 間 の 割 印 行 事 を 最 初 か ら 勤 め て い る く ら い で あ る か ら、 江戸本屋仲間の中心的本屋のひとつであろう。 十 軒 ほ ど あ る 江 戸 の 小 川 姓 の 本 屋 の 中 で は 唯 一 持 続 的 な 取 扱 点 数 を 持つ本屋である。 京 都 の( 同 姓 と 言 え る だ ろ う か ) 小 河 多 左 衛 門 の 出 版 書 の 江 戸 売 出 し を 勤 め る こ と が 多 く、 も と も と 血 縁 あ る い は 主 筋 等 の つ な が り が あ る の だ ろ う( 出 店 と 見 る の が 一 般 の よ う で あ る。 速 水 香 織「 科 学 研 究 費 助 成 事 業 研 究 成 果 報 告 書 」 平 成
23 〜
25 年 度 若 手 研 究(
刻 その手懸かりをまだ見出していないが、 小川は享保年間、 吉宗肝煎の 『官 在 満 が ど う し た 由 縁 で 小 川 彦 九 郎 を 板 元 に 立 て る こ と に な っ た の か、 出版に熱心ということはないようである。 『 大 嘗 会 便 蒙 』 は こ の 書 肆 の 出 版 物 と し て は 変 わ り 種 で、 和 学 の 書 籍 クの研究 ─ 出版文化を基盤として ─ 」等) 。 二三七二〇一二三 「元禄期の江戸における浮世草子及び俳諧ネットワー B ) 課 題 番 号
の 幕 撰 地 誌 と み な さ れ る ) の 版 元 で あ っ た か ら、 幕 府 と の 関 係 が な い と と も に 吉 宗 肝 煎 の『 日 本 輿 地 通 志 』 畿 内 部( 通 称「 五 畿 内 志 」。 最 初 六 諭 衍 義 』 の 版 元 五 軒 の う ち の 一 軒 で あ り、 京 本 店 小 河 多 左 衛 門 以前 と言ったと言う。 段を申し、総仲間へ吟味廻し申すべく候。 右 写 本 差 し 越 し 候 は ゞ、 今 度 此 様 の 書、 彦 九 郎 方 に て 板 行 仕 り 候 差し出し申さず候。 近 年 は 書 林 仲 間 に て 吟 味 仕 り 候 様 仰 せ 付 け ら れ、 町 御 奉 行 所 へ は 行仕り候。 前 方 は 板 元 の 書 林 よ り 町 御 奉 行 所 へ 写 本 差 し 出 し、 御 吟 味 の 上 板 その彦九郎が出版手続の変化を教えて わけではなかった。そのことが人脈的につながったのかも知れない。
板元書肆─(写本提出)→町奉行所(写本吟味)→板行 味 を 遂 げ 商 売 い た す べ く 候 。 も し 右 定 め に 背 き 候 者 こ れ あ ら ば 奉
0000000000000000右 の( 五 ヶ 条 の ─ 山 本 注 ) 趣 を も っ て 自 今 新 作 の 書 物 出 候 と も 吟 享保七年十一月の書物流通条件五ヶ条の付文に以下のようにある。 ある。 物 流 通 条 件 五 ヶ 条 発 布 に よ る 仲 間 吟 味 の 開 始 命 令 で あ る こ と は 明 白 で こ れ に 当 た る 制 度 変 更 が 享 保 七 年( 一 七 二 二 ) 十 一 月( 江 戸 触 ) の 書 「書林仲間」 における 「吟味」 は 「仰せ付け」 であると言っているから、 →板行 近年 板 元 書 肆 ─( 写 本 提 出 ) → 本 屋 仲 間・ 総 仲 間( 写 本 吟 味 ) ↓
行 所 へ 訴 へ 出 づ べ く 候
0000000000。 数 年 を 経、 相 知 れ 候 と も そ の 板 元 問 屋 ど も 急 度 申 し 付 く べ く 候。 仲 間 吟 味 い た し 違 犯 こ れ な き よ う 相 心 得 べく候 。以上。 (傍線・傍点山本)
このように明らかに 「自今」 (これ以後) の 「仲間吟味」 を命じている。 『 大 嘗 会 便 蒙 』 の 版 本 出 来 に よ る 書 林 仲 間 の 割 印 手 続 は 元 文 四 未 年 ( 一 七 四 〇 ) 十 二 月 の こ と で あ る( 『 享 保 以 後 江 戸 出 版 書 目 』 新 訂 版、 臨 川 書 店、 平 成 五 年 )。 在 満 も そ の 書 付 に「 未 の 十 二 月 私 宅 に 於 い て 百 部 摺 ら せ 」 た と 記 し て い て、 本 を 欲 し い 者 た ち が そ れ ぞ れ 準 備 金 を 支 払 っ た こ の 本 の 場 合、 小 川 彦 九 郎 は 本 屋 仲 間 手 続 と 板 木 屋 を 手 配 し 板 木 を こ し ら え さ せ た だ け で、 印 刷 製 本 は 在 満 宅 で 行 っ て い る よ う で あ り、 その年月は割印手続と同年同月である (前掲 「大嘗会便蒙御咎顚末」 二頁など) 。 元 文 四 年 か ら 享 保 七 年 は 十 八 年 前。 そ し て、 江 戸 本 屋 仲 間 組 合 結 成 時 に お い て す で に 相 応 の 位 置 に い た 書 肆 小 川 彦 九 郎 の 言 う と こ ろ に よ る と、 そ れ 以 前 は、 江 戸 で は、 町 奉 行 所 で の 版 下 本 検 閲 制・ 町 奉 行 所 申請制が布かれていたというのである。 それではこの制度はいつにさかのぼるのであろうか。 江 戸 町 触 で そ れ ら し い 規 定 が あ る の は 貞 享 元 年( 一 六 八 四 ) 四 月 九 日触 (『御触書集成』 二〇一三令 ・『江戸町触集成』 二二一四令) である。
覚 一、 町 中 板 木 屋 共、 御 公 儀 之 義 は 不 及 申、 珍 敷 事 致 板 行 候 は ゞ、 両 御 番 所 へ 申 し 上 げ、 御 差 図 次 第 可 仕 旨、 此 以 前 も 御 触 有 之、 板 木 屋 ど も 証 文 致 し 置 き 候 所、 此 の 度 服 忌 令 之 御 触、 御 差 図 を も 不 請 致 開 板、 其 上 加 筆 仕 り 候 段、 重 々 不 届 に 付 き、 御 穿 鑿 之 上、 開 板 当 人 籠 舎 に 被 仰 付 候 間、 向 後 右 之 旨 弥 相 心 得、 御 公 儀 之 義 は 不 及 申、 諸 人 可 致 迷 惑 儀、 其 外 可 相 障 儀、 開 板 一 切 無 用 に 可 仕 候。 う た が わ し く 存 じ 候 儀 は、 両 御 番 所 へ 伺 ひ、 御 差 図 を 受 け 板 行 可 仕 候。 若 し 隠 し 候 而 致 開 板 候 は ゞ、 御 穿 鑿 之 上 急 度 曲 事 に 可 被 仰 付候間、板木屋共并びに町中之者、此の旨堅く可相守者也。
子四月 た だ し、 そ れ ら し い と 言 う の は 若 干 の、 だ が 決 定 的 と も 思 わ れ る ち が いがあるからである。 右 の 触 の 対 象 者 と し て は「 板 木 屋 」 が 中 心 で あ る。 触 文 冒 頭 か ら 最 後 の 行 に い た る ま で 触 文 が 記 述 し て い る の は 板 木 屋 に 対 す る 前 令 の 内 容 で あ り、 に も か か わ ら ず 行 わ れ た 板 木 屋 の 違 犯 行 為 で あ り、 さ ら な る追加指令であり、それを守るべき者はまずは板木屋たちである。 そ れ は 本 屋 が 守 ら な け れ ば な ら な い 規 定 で あ る と は 一 見 思 わ れ な い 法 文 で あ る が、 た だ し 最 後 は「 町 中 の 者 」 も「 こ の 旨 」 を「 堅 く 相 守 るべきもの」とされている。 な る ほ ど そ う し て み る と、 こ の「 町 中 の 者 」 の 語 の た め に 本 屋 は 本 令 を 遵 守 し、 本 の 内 容 に さ し さ わ り の あ る こ と( 相 障 る べ き 儀 ) が 含 ま れ な い か ど う か、 町 奉 行 所( 両 御 番 所 ) に 伺 い、 差 図 を 受 け な け れ ばならなくなったのであろう。 し か し そ れ は 解 釈 に す ぎ な い で は な い か と 疑 問 を 抱 く 向 き も あ ろ う か と 思 う が、 元 文 の 小 川 彦 九 郎 は こ の 触 の 規 定 と 関 係 の あ る 注 意 を 在 満にうながしている。 先 ほ ど 来 引 用 を 続 け て い る 在 満 の「 大 嘗 会 便 蒙 御 咎 顚 末 」 に、 何 度 も 何 度 も 書 き 直 し を さ せ ら れ た 最 後 の「 口 上 之 覚 」 が こ の 点 に つ い て 最もくわしく、そこには
江戸時代前期の江戸における町奉行所出版許可制の存在について
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荷田在満の『大嘗会便蒙』による奇禍を通じて│
(山本)前 方 は 板 元 書 林 よ り 写 本 を 町 御 奉 行 所 へ 差 し 出 し、 御 吟 味 の 上 板 行 仕 り 候。 近 年 は 書 林 仲 間 に て 吟 味 仕 り 候 様 被 仰 付、 町 御 奉 行 所 へ は 差 し 出 し 不 申、 世 上 へ 相 障 り 候 儀 無 御 座 候 へ ば、 其 の 段 仲 間 中の割印を取り置き候(一七頁) とある。 本 屋 仲 間 が 命 ぜ ら れ た 検 閲 相 互 監 視 内 容 は、 ま ず 直 接 は 享 保 七 年 の 書 物 流 通 の 五 ヶ 条 件 で あ っ た が、 古 参 の 本 屋 た ち は 前 代 か ら の 遵 守 事 項 を 覚 え て し ま っ て い た の で あ ろ う。 「 世 上 へ 相 障 り 候 儀 御 座 無 く 候 へ ば 」 は 貞 享 元 年 令 の「 相 障 る べ き 儀 開 板 一 切 無 用 に 仕 る べ く 」 の 変 化 形であろう。 と、 貞 享 元 年 令 と の 関 係 を 確 か め た 上 で、 先 の、 若 干 の、 だ が 決 定 的とも思われるちがいの確認作業に、もう一度もどる。 貞 享 元 年 令 は「 板 木 屋 な ら び に 町 中 の 者 」 に 開 板 予 定 書 の 内 容 に 問 題 が あ る 可 能 性 が あ る 場 合 に 奉 行 所 に 確 か め る こ と を 命 じ て い る わ け だ が、 そ れ な ら 主 に 開 板 を 計 画 す る 本 屋 が 奉 行 所 に 確 か め れ ば よ い と な っ て、 小 川 彦 九 郎 が 言 っ た よ う な 板 元 書 肆 が 出 版 予 定 本 を 町 奉 行 所 へ提出する慣習が生じたのだ、との事情を、今しがた考察した。 だ が、 小 川 の 言 い 方 で は、 板 元 の 稿 本 町 奉 行 所 提 出 は 必 須 の 行 為 で あ っ た ご と く で、 こ れ は 町 触 が 言 う「 疑 わ し く 存 じ 候 儀 」 あ ら ば「 御 番所へ伺」うといったニュアンスではもはやない。 だ が、 町 触 は「 隠 し 候 ひ て 開 板 致 し 候 は ば 」「 曲 事 に 仰 せ 付 け 」 る と 脅 し て い る の だ か ら、 結 局 は 安 全 策 を 採 っ て、 す べ て 出 版 予 定 稿 本 は 奉 行 所 へ 提 出、 と の 慣 習 が 生 じ る で あ ろ う こ と は い か に も 当 然 の こ と のように思われる。 拙稿 『江戸時代三都出版法大概 ─ 文学史 ・ 出版史のために ─ 』(岡 山大学文学部研究叢書二九、 岡山大学文学部、 平成二十二年二月)でも、 当然この貞享元年令を取り上げたところはあるが、 法文を解釈して「町 奉行所へ来いという」ことだ、としていた
⑼。 し か し、 現 実 に は さ ら に も う 一 展 開 が あ っ て、 い つ と い う 確 実 な 年 次 を 定 め ら れ る わ け で は な い が、 法 文 後 に、 江 戸 で は、 事 実 上 町 奉 行 所 出 版 物 検 閲・ 出 版 許 可 制 が 始 ま っ て い た
⑽と い う、 町 触 だ け を 見 て い た の で は 到 底 そ こ ま で 考 え を 及 ぼ す こ と は で き な い 現 実 の 展 開 が あ っ たことを、 「大嘗会便蒙御咎顚末記録」の一節は伝えていたのである。 こ れ ま で 江 戸 の 法 令 に 関 し て は、 ど ち ら か と 言 え ば「 三 日 法 度 」 と か の 印 象 が 強 調 さ れ る こ と も あ っ て、 そ れ が ど の 程 度 江 戸 時 代 の 出 版・ 文 学 の 確 か な 前 提 に な っ て い た の か を 疑 う 向 き も 確 か に あ っ た が、 「 三 日 法 度 」 が 江 戸 時 代 法 令 の 本 質 な の で は な く、 「 三 日 法 度 」 と い う 非 難 が 生 じ る 背 景 に は や は り 法 度 の 恒 常 性 と い う、 法 度 の あ る べ き 姿 に つ いての社会通念があったと見るべきである。 町 触 の 規 定 か ら 一 歩 進 ん で 一 歩 離 れ て 新 制 度 的 な も の が 生 じ る こ と ま で あ っ た と い う こ と、 そ れ が 商 習 慣 と な っ て 一 貫 し て 守 り 続 け ら れ る こ と が あ っ た と い う こ と を、 本 稿 で 取 り 上 げ た 事 例 は、 わ れ わ れ に 教えてくれているのである。
〈引用文献〉『江戸町触集成』(塙書房平成六年〜平成十五年)
〈注〉⑴
⑵ 一九九、二〇〇頁。 る江戸時代出版法概観」五「三都共通出版法(一)
─
天和二年(一六八二)高札」 学部研究叢書二九、岡山大学文学部、平成二十二年二月)本章「三都町触によ 拙稿『江戸時代三都出版法大概─
文学史・出版史のために─
』(岡山大学文 断できるだろう。 出版物に関してこのような町触はほとんど類を見ないところから、そのように判 時代三都本屋・出版物関係町触一覧」(平成 触から出版物に関して発せられた町触を抽出して作成した一覧、山本秀樹編「江戸 江戸時代出版の中心都市であった京都・大阪・江戸でそれぞれに発令された町16年度〜平成
19年度科学研究費補助金
(基盤研究(
⑶ 較研究』平成二十年三月、研究代表者山本秀樹)を参照されたい。 C))研究成果報告書『江戸時代の三都(江戸・京都・大阪)出版法制の比 否定的考察が本稿の前提でもあるため、引用しておく。 羽倉氏の論述は以下の通りである。資料に見える見解に対して羽倉氏が展開する
宗
武没後、その遺稿処理にあたつた遺臣大塚孝綽の所記に、次のやうに見える。
稿本の解説) に侍らで空しく御自らのみ沙汰しおはしましぬ。(宗武の著「服飾管見」の しうち、彼れも又身まかり侍りぬ。その後はわが国の古事学ぶ者、御内 得ぬわざのみ多かめる。されば御助けに成りまつる程の事もなくて侍り 真淵は古人の歌を解く事をのみ事として侍りければ、よそひの事など心 ひし頃、加茂真淵てふ者を御身近く召して、此書をも見させ給ひけれど、 (ママ―山本注) 職面の書)の御事にも預りまつらずなりにき。その後、御年長けさせ給 が、程なく公けより在満罪かうぶる事ありて退けられしかば、この書(有 へまつりぬ。折にふれつゝ人して尋させ給ふ事の、仰せ事なども侍りし しゝ頃ほい、荷田在満といふ人いさゝか有職のわざ心得たる、御内に仕 (前略─羽倉氏注。以下特にことわらないものは同様)年若うおはしま
在満がその著
『大嘗会便蒙』によつて、幕府から版木没収且つ閉門の科罰を受けたことによつて、田安家からも「退けられしかば」云々と説明してゐるが、これは聊か事実と相違の嫌ひがあるやうである。即ちこの事件は在満の田安家勤務とは別個の事件で、元文四年京で挙行の大嘗会拝観調査に在満が差遣 された事、これに関連しての著作公刊の件はもともと幕命にもとづいて行動した事であり、(中略─山本注。以下特にことわらないものは同様)田安家では従つて不関知の態度をとり、また現実に於て主公宗武も内々関知してゐる程度で、家臣たちも真相についてはこれを知らなかつたやうである。(中略)
この在満の奇禍
(科罰閉門)にあたり宗武は終始その救護にあたり、赦免後はその慰労のため、かつは奨学のため歌論の呈 (ママ)出を嘱してゐる。即ち『国歌八論』の成立である。この奇禍については辱知土岐善麿翁の力著宗武研究に詳細記述あり(『田安宗武』第四冊「雑纂」七「在満閉門」を指すであろう)、私も「朱」誌(伏見稲荷大社刊行─原注)の第十六号で一文を発表した(注(
4)後掲
「荷田在満の著『大嘗会便蒙』に因る奇禍」)。要はこの事件、京の公家縉紳の間で幕府の役人が、朝廷の規式についての研究を発表したといふ奇異感から、この板行が偶然の話題にのぼり、幕府上司に対し何人の著かと尋ねたといふだけのこと、その可否を云々したわけではなかつたのであるが、幕府は神経質に過ぎたところから端を発したのである。この板行にあたり、在満が予め幕府上司に伺をたて、即ち手をうつておけばよかつたのであらう。事の軽重は上司の判定によることで、在満に於ても用意の上で落度のあつたことは否めないのである。
一四〇・一四一、平成二年十月)がある。 としたものに、古相正美「荷田在満『大嘗会便蒙』御咎め一件」(『神道宗教』 羽倉氏の見解をさらに進めて吉宗個人の朝廷尊重意識に原因を求めよう なお、
『服飾管見』は、昭和三年、吉川弘文館・日用書房発行の『増訂故実叢書』第九回配本に翻刻収録され、昭和二十六年、明治図書出版・吉川弘文館発行、明治図書出版発売の『新訂増補故実叢書』二五としても再度印刷されているが(同一版面)、羽倉氏の引用とは語句に小異が多いので、氏の用いられた『服飾管見』はこれらではないようである。ために、右の引用を『増訂故実叢書』で校訂することはさしひかえてある。
『増訂故実叢書』
(『新訂増補故実叢書』でも同じ)で言えば、右の引用は『服飾管見』の「凡例」第一条であり、それを「解説」と表現したのは羽倉氏であろう(土岐氏前掲書「有職故実」一「服飾研究」でも六頁に「凡例」と言っている)。
『服飾管見』
が羽倉氏の言われるように「稿本」であったことは、同じく第四条に
江戸時代前期の江戸における町奉行所出版許可制の存在について
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荷田在満の『大嘗会便蒙』による奇禍を通じて│
(山本)「御草稿」出来後間もなく御病気とあるところからわかる。
『服飾管見』
の「凡例」は安永四年(一七七五)閏十二月付で、在満の致仕後二十九年、宗武侯没(明和八年)後四年に当たる。不審は、羽倉氏がこの記述を孝綽一人の挙に帰したことで、『増訂故実叢書』以下では、「凡例」の署名は「藤原孝綽/源清良」(大塚孝綽・長野清良)の連名になっている。土岐氏前掲書「服飾研究」でも二名の行いとする(六頁)。
ちなみに
『増訂故実叢書』の底本は故実叢書編輯部蔵本であり、それを内閣文庫蔵本で対校したとある。
先述の語句の小異からして羽倉氏は羽倉氏身近の
『服飾管見』写本を用いられたものと思われる。⑷ 『荷田全集』七(官幣大社稲荷神社、吉川弘文館、昭和六年)でも同題で収録されている。羽倉敬尚氏の「荷田在満の『大嘗会便蒙』に因る奇禍」(『近世学芸論考』明治書院、平成四年。初出昭和四十九年一月)によると原題は「長月物語」と言うらしい(一九三頁)。大正五年版『大嘗会儀式具釈』は同年十一月十八日に東京飯田町の国学院大學において、同学有志で在満従四位の贈位奉告祭が行われた際、後裔信一氏の手により編集(同書奥付)出版され頒付されたものと言う(羽倉氏同上稿)。同書奥付にある発行日は贈位奉告祭の二日前である。
現在、後裔がどう過ごしておられるかを知らないが、平成
15年度〜平成
科学研究費補助金(基盤研究( 18年度
B)(
「研究の計画と概要」 満の史料的研究』(平成十九年三月、研究代表者國學院大學文学部教授根岸茂夫) 2))研究成果報告書『近世国学の展開と荷田春
初出『大正大学大学院研究論集』八六巻六号、昭和六十一年)、同「貞享度大嘗会の いて」(『天皇代替り儀式の歴史的展開
─
即位儀と大嘗祭─
』柏書房、平成元年。 祭の研究』皇學館大學出版部、昭和五十三年)、武部敏夫「元文度大嘗会の再興につ 続されなかった。ことの事情については三木正太郎「近世に於ける大嘗会」(『大嘗 ⑸大嘗会の再興については将軍綱吉時の東山天皇貞享度のものが最初であるが、継 れたかどうかを、私はまだ確かめられていない。 がこの氷川神社所蔵の史料のうちにあったかどうか、そして、この奇禍をまぬか 部用いられていたが、昭和二十年の東京大空襲により焼失したと言う。「長月物語」 よると『荷田全集』編纂の際には在満の家に伝来した麻布氷川神社所蔵の史料が一 2「本研究の意義と当該領域の研究に貢献できる点」(ⅱ頁)に きる。 著作について貸借をすら不適当とした大阪触について確認したところから想定で 三月)において、諸国巡見使の下役の写本売渡を罰したこと、および老中松平定信 規制が実は書物規制であること─
」(『岡山大学文学部紀要』六二、平成二十七年 ⑹この辺りの発想は別稿「江戸幕府の特定写本禁止法とその思想(下)─
幕府出版 和二十九年)参照。 再興について」(『大嘗祭と新嘗』学生社、昭和五十四年。初出『書陵部紀要』四、昭吉宗御用出版物の前例で言えば、
『日本輿地通志』畿内部(五畿内志)の場合、並河誠所は早く享保十四年四月には町奉行大岡越前守を通じて板行許可を願い出、同月中にその許可を得ているが、実際の刊行は吉宗への清書本献上(享保十九年)を終え、吉宗の編纂ねぎらいもあって(銀十枚の下付)の後の享保二十年のことであった(白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版、平成十六年。第
畿内志』編纂の歴史的意義」第 3章「『五
2節「『五畿内志』の編纂過程」(
て」)。 3)「板行をめぐっ
うものであったろう。 幕府御用なのであるから、これが当時の常識的に自然な物事の流れと順序とい
と見られてもしようのないところだったのではあるまいか。 掛を通じての許可も得ずに一部刊行など、物事の順序も軽重もわきまえない愚行 幕府側から見れば、将軍御用の清書本の献上も終わっていないうちから、御用 報告書献上が何より優先されるべき仕事だったであろう。 うが、そもそもが刊行願いとして話を持ち出すべきだったのだろうし、将軍への 在満は将軍への報告とは別物であることのみを御用掛の大島にことわったと言
在満への申渡
(「大嘗会便蒙御咎顚末記録」末尾に所引の『兼香公記』記事中に見える)中にある「前以て役人えも不相伺、旁不調法の至」の語句には右のような意味合いが含まれていよう。⑺ なお、本令に関して、本件に直接関係のない大阪での触れ出しはなかった。
前掲拙稿
『江戸時代三都出版法大概』本章「三都町触による江戸時代出版法概観」七「三都共通出版法(三)
─
江戸時代後期」(一)「文政六年(一八二三)暦触付、寛保元年(一七四一)朝廷儀礼関係書新規出版停止令(江戸・京都)」二四二頁ではいまだ町奉行所史料『享保撰要類集』の参照に及んでいなかったが、「新規物并書物之部」三十九に発令記録が残り(旧幕府引継書影印叢刊
4『享保撰要類集』
四、野上出版、昭和六十一年、参照)、老中から江戸の町奉行に京都町奉行へも送達するよう指示が出ていることがわかる。ということはやはり大阪への送達はなかったわけである。
本件に関しては同部三十七(元文五年十二月十日)からが関係記録であるが、京都においては公家方は享保十八年にも京都町奉行に要請して絶版例を作っていたことがわかる。その点、『大嘗会便蒙』の絶版は突如として起こった事例ではなかった。そして、その際も公家方は、書物の絶版のみを求めたものらしく、著者の処罰にまでは及ばず、京都町奉行所の側で過剰な反応を見せた、などということもないようである。⑻
⑼ 通出版法(二)
─
享保零年代町触」(二)(二一六〜二三〇頁)を参照されたい。 『江戸時代三都出版法大概』本章「三都町触による江戸時代出版法概観」六「三都共 享保七年書物関係五ヶ条令以前に検討されていた法案に関する詳細は前掲拙稿 本章「三都町触による江戸時代出版法概観」八「三都個別出版法
─
享保以前」(四)「公儀・人の迷惑・珍しき事・はやり事・かわりたる事・浮説・虚説(寛文十三年・一六七三以後三都個別令)」(二六四頁)⑽同右
『江戸時代三都出版法大概』本章八の前掲(四)小節「公儀・人の迷惑・珍しき事・はやり事・かわりたる事・浮説・虚説(寛文十三年・一六七三以後三都個別令)」(二六六頁)に、京都の宝永五年(一七〇八)令によって、おそらくは日本で初めて全出版物の届出制が施行された、と書いた。
本稿で気付いた、江戸で生じた事実上の届出制は、法令によって規定されていたわけではなく、また、いつ事実上の届出制となったのかという点も不明であるので、右の記述はまだ誤りと決したわけではないが、ただ右のように言い切ってしまうわけにもいかなくなった。しかし、この事実上の江戸の出版届出検閲制度が法令によって施行されたと言い表すことができるものであるかどうかがあいまいなものである以上、右の拙稿の記述は、本稿で明らかになったことがらに関する記述を付随させて判断を留保するという、ことさらに複雑な状態に変更せざるを得ない。
しかしそれは、本稿で取り上げた事例からも察することが可能な、江戸時代法制度把握の一筋縄でも二筋縄でも行かない複雑さに相応じた認識の複雑さだと言 える。
江戸時代が法令多発社会であったことは事実であろうが、眼の前に残る法令の多さに眩惑されて、法令文がすべてを支配する国家であったかのごとく勘違いするわけにはいかない。〈付記〉本稿は平成
27年度〜平成
30年度科学研究費助成事業
(学術研究助成基金助成金(基盤研究(
C))課題番号一五
補完及び文学史との相関追求」による成果の一部である。 K〇二二四八研究課題名「日本近世出版法制研究