長 崎大学総 合環境研究 第
1
巻 第1
号( 1 9 9 8)
江 戸時代 にお ける清朝考証学 の受容 につ いて
Ef f e c t so f" TheCh i ngDyna s t yt e x t ualr e s e a r c h' 'i nEdope r i o d
連 清 吉 Ching‑jyiLien
(‑)清朝考証学の興起
清朝考証学 はまさしく中国酒時代 に於 ける学 術 の核心をなす学問であった。清朝 の学者 たち は考証 とい う一つの方法を通 じて中国古典、特 に経学 を研究 した。考証 とは個別 の事象 につい て客観的な証拠を集 めて事実を明 らかに してゆ くことなので、考証その ものは学問研究 に必要 な基礎的手段である。清朝考証学 は清朝経学 と も呼ばれるよ うに、経学、すなわち儒家古典の 研究 において経伝 の意味を重視 しつつ、それに 対 して実証的な検討を加えることによ り、経典 の筆者、所謂聖賢 の言語の真実 を捉 えようとし たのである。
清朝の経学 は晩明の経学極裏 の後 を受 けて、
実学を推 し空疎 を矯 めて、その学問研究 の盛ん な ことは実 に唐末 の時代を凌駕す るものがあっ た。その経緯 について、皮錫瑞 は 『経学歴史』
で次のように述べている。
清朝初世 の三帝 は君 自らの徳 を備え、朝廷の 威信を漢人 に示すための治世の資 として学問の 復興 に貢献 し、臣下 には帝業を輔 けて、 自 らを 忘れて学界 に尽 くす ところの碩学がい、互 いに 学問研究の上 に刺激 を与えあったことが経学復 興の第一原因をな した。
そこで陽明学 の空疎 さに対す る実事求是の要 求が、遂 に学問のため、経学 のための経学 とし て起 こって きた。 とくに明末 にあって は、士を 採 るための八股文、 いわゆる科挙の方法 に甚だ
しい弊害があ った。 これがまた直接の反動 を呼 び起 こす動機 を も与えていた。顧炎武 は 「八股 の害 は焚書 よ りも甚 だ し」 といい、 閣若壕 も
「古今 に通ぜざる明の詩文 を作 る もの に至 って 極 まれ り」 という。 この流弊 に鑑みて才俊 の士 は時文 を棄てて専 ら古文 に心 を寄せ、虚 をすて て実を尊ぶ とい う風潮 を起 こした。か くして顧 炎武、閣若壕、黄宗義、毛奇齢、王夫之などが 学界 に躍出す るに至 ったのである。 すなわちこ の治学 の方法 に革新の気風 を喚起せ しめた こと がその第二の原因をな した ものである。
しか しなが ら、なお詳細 に考えれば、学者 は またよ くその家学 をその門下 に伝えてその発達 を促 したということも見逃せない。例えば恵氏 父子三人の如 き、或 いは江永、戴震、段玉裁な どの師弟関係 に於 けるが如 きはそれで、 よ く師 か ら承 けついで家法を伝えた。他 にその例 を求 めるな らば、恵棟 には江声、余粛客があ り、江 藩 はまた学 を余粛客に受 けた。王鳴盛、銭大折、
王朝等 はみなかつては経を恵棟か ら受 けた もの である。王念孫 は戴霞 を師 として子の引之 に伝 え、孔広森 はまた戴震 を師 としている。 これ ら の師承 については江津の 『漢学師承記』 に詳 し く述べ られている。 これが経学興起の第三 の原 因をなす ものであ る。
次 に当代 の学者 は各 々その専門 とす るところ を定めて これを守 った ことが、経学復興の面で 偉大な業績 を残す原因 とな った。 これについて 院元 は 「張恵言の虞氏易、孔広森の公羊春秋み
‑ 1 35‑
な孤家専学な り」 といっている。その他王鳴盛 の 『軍賦説』四巻、戴震 の 『考工記図』二巻 は みな 『周頑』 について述べ た ものであ り、 『論 語』 にあっては宋鳳の撰 にかかる 『論語説義』
十巻、劉宝楠の 『論語正義』二十四巻などの如 き、 また 『孟子正義』三十巻の焦循 に於 ける如 き、みな卓然 として一家をなす ものである。 こ の家法専門の ことは後漢以来絶えてなか った も のを、 この期 においてその墜緒を尋ね起 こして 宗風をっいだのであった。か くして師法を承け、
家法を伝えて清朝の経学 は益 々その精深の度を 増 したのであった。 これが第四の原因 と見 るべ
きである。
また清朝の学者の斯学 に対す る態度が、従来 散逸 した書籍を蒐集 して これが校勘 に力をっ く
し、 さらに小学 に精通 し、音韻の学 をまとめた ことも大 きな業績で、 これが訓話学の興起 に第 五の理由を与えた①。
清朝の経学極盛の原因は康照、薙正、乾隆の いわゆる清初三帝 の文学奨励が、その‑であり、
八股文の弊害‑の反動 と、陽明学の空疎 さに対 す る実事求是の学問研究が、その二である。 そ して、家学 の師承、‑経を専門 とす ることが、
その三、四である。 さらに、侠書 の蒐集校勘 と 小学 いわゆる文字、音韻、訓話の学を極 めたの が、その五であると皮錫瑞 は述べ る。 しか し、
一般 に清初の康照か ら始 まり薙正 ・乾隆まで続 いた満人朝廷の強力な思想統制の結果、漢人読 書人が批判を含む経世論を積極的に展開す るこ
とが極 めて難 しく、 したが って彼 らは古書 に沈 潜 してその皆気を晴 らし、かつ朝廷の 『四庫全 書』 の如 き大規模 な編纂事業が知識人の考証癖 を一層助長 して、 ここに独特の学術尊重の風気 が開 けた、 とい う説明 も考証学興起 の原因の一 つである。 さらに、次のような諸事情 も絡 まっ ているであろう。 その第一 は恐 らく明末以来の 江南諸都市の経済的発展 により地主的階級が商 業資本 と結 びっいてかな りの経済的蓄積を有す るに至 った。地主の家庭教師などの副業が知識
人の最低限の生活を支え得 るようになったこと や、地方官の官僚 となる道が開かれたことなど 経済的条件が大 いに関係 していることと思われ
る。
第二 には、三藩の乱 を治めたあと、清朝の政 治社会 は極めて安定 して きた。漢人を懐柔す る 朝廷側の文教政策 も着々と進行する。 このよう な状勢 の中で、満人 に対す る種族的敵慌心が減 退 して、政治を離れた非実用的な学術を積極的 に希求する気風が生 じた。 したが って、清朝考 証学 は、朝廷 に対す る卑屈 さか らでな く、む し
ろ読書人の誇 りか ら発展 して行 ったとも思 われ る。
第三 には、上述の如 く清朝考証学 の性格を明 学 の空疎 さに対す る反動 にあるとした。 しか し、
清朝考証学を支える思想的基盤の面を考えれば、
王学の末流を支えたのと同質の明末 自由の風気 が、清朝知識人の意識 の中に広 く浸潤 していた という一面 も否定で きない。むろん、一概 にか か る断定を下すには慎重でなければならないし、
また、明人が心を重視 し、清人が経を重視 した という差異面 について も検討の余地があろうが、
それに して も、清人が程朱学の権威性 と禁欲性 を好 まなか った意識の裏 には、やはり多少市民 社会的な気風が存 していたか らであろうと思わ れる。 ここで、清朝知識人の もつ このような比 較的 自由な精神が、経典の取 り扱 いに際 して も なによりも正確 さを追求 しようとする態度を取
らせ、経典解釈 に疑問があれば、それを疑 い、
幾多の証拠を求めてその義を判明する態度 を取 らせたのであろう。
上述の如 く、皮錫瑞 は侠書の蒐集校勘 と小学 いわゆる文字、音韻、訓話の学 の発達が清朝経 学の極盛 に達 した理由として取 り上げている。
要す るに実事求是を追求す る学問態度、散逸書 の蒐集、経史子集を博捜 して小学 (文字 ・音韻 ・ 訓話 の学)で古典の考証校勘 を極めることが清 朝考証学の特色を示す ものといえよう。梁啓超 も、清朝考証学の業績 として、小学 ・音韻学を
‑ 1 3 6‑
江戸 時代 にお け る清朝考証学 の受容 につ いて
含む経学や古典 の校注、所偽書 の撰述、侠書 の 蒐集や、地理学、地方史、伝記、族譜を含 む史 学 や天文暦算学及 びその他 の科学 などの解明を 取 り上 げ評価す る②。
(二)清朝考証学の先駆者 たち
明の遺儒で元明の空論 に倣 わず、経史を精究 して考証 の確実 さを求 めてその最 も名を得 た も のは顧炎武 (一六三〜一六八一)であ った。顧 炎武 は晩明学風の空疎 に馳せ、理 に没頭す るさ
まを嘆 じ 「経学 をすてて理学 な し」 の語 を以て その旗印 と し、古典 の研究 に心 を寄せ、天下 を 版渉 して古 を今 に照 らして考 え、 『日知録』 三 十巻 を著 した。 この 『日知録』 について は、門 人播末がその序 に、
日知録 はその古 を稽 え、時 に従 って得 るあ れば、割記久 しくして類次善 をなす ものに し て、凡 そ経義、史学、方官吏地、財賦典礼、
輿地重文 の属、一一 その源流 を疏通 し、その 謬誤 を考正 し、礼教 の衰遅、風俗 の頼廃 を嘆 ず るに至 って は、則 ち先規の時弊 に切 なるも のを栴 して尤 も探切た り。学博識精に、理到 っ て辞達す るはこの書 な り。
と述べている。『目知録』 で はあ る ことを論 ず るにあた って、必ず博 くその例証 を求 めて、徹 底的にその真実を追求す る。 こうした実事求是 の態度 は、 まさ しく清朝の学風 ともい うべ き考 証学 の端緒 を開 くものであ った。 『日知録』 の 体裁が筆記類であるのに対 し、 『音韻五書』 は 頗 る系統的な組織だ った著書 で あ る。 『音韻五 書』 は、『音論』三巻、『広韻正』 二十巻、 『詩 本音』十巻、『易音』三巻、『古書表』二巻のす べて三十八巻か らなる。元来顧炎武が音韻学 を 研究 しよ うとした動機 は、おそ らく古音を明 ら かに し、その音義を尋ね ることにあ ったであろ うが、それが次第 に研究 を進 め、微 に入 り組 に 亙 って遂 に後世 の言語学、音韻学 の研究 を導 く ものになったのである。 したが って、清朝の音
韻学 は実 に顧炎武がその開拓の第一歩を踏 み出 した もので、 のちに江永の 『音学弁微』、 戴露 の 『声韻考』、段玉裁の 『六書音韻表』 などは、
みな源を ここに発 した もので、清朝経学 の考証 学的基礎 はまた ここに培われたのであ った。
顧炎武 とほぼ同 じ時代で、史学 を主 とした漸 東学派の黄宗義 (一六一〇〜一六九五)がいる。
董宗義 は顧炎武 と同 じく博覧を主 と し、書数万 巻を集 め、寒暑の別 な く毎 日若干巻 を読 む こと を 日課 と定 め、規定巻数を読 み終わ るまで休息 せず、か くして経史諸子 よ り天文暦算 に至 るま で、精研せざるはなか った。 また著述 の多 い こ とも、顧炎武 と伯仲 の間にあ る。黄宗義 は学問 研究 として これを究 め、往時経典 として尊奉 さ れた ものを、後世 の偽著 な りと言 い放 って余薙 がなか った。 この結果 はすべての経典 に対 して もまた疑 の目を以て これを迎 え るとい う風 を将 来 し、 これによって経典 を一つの学問対象 とし て眺める機運が促 された。黄宗義 は博覧である が、尤 も経学 と史学 とを重 ん じた。彼 はい う、
「経術 は経世 の用 に供す る所以 なれば必 ず史 を 兼修せねばな らぬ、史が明 らかであ って始 めて 迂儒 たることを免れ得 るであろ う」 と。康照十 七年 に、清朝 は博学鴻儒 の科 を設 けて、広 く学 者を集 め、『明史』 を編纂 しよ うと し、 黄宗義 を招 いた。 なぜ黄宗義 を徴召 したのか。 これは 彼の家 に明の十三朝実録 などの参考文献が多 く 蔵 されていた ことと、黄宗義が故実典礼 に通 じ ていたか らである。 しか し黄宗義 は遂 に固辞 し て これには応 じなか った。 その翌年、黄宗義の 門人 の万斯同及 び息子の黄百家が代わ って編修 館 に入 った。 か くして明史の編纂方法 と参考資 料 などは、黄宗義 の意見 とその編著が多 く用 い られていることとなった。道学伝 と儒林伝 とを 分 けているが如 きはその一例である。
黄宗義 の学術的著作で今 日まで稗益す るもの は、『宋元学案』 と 『明儒学案』であ る。
つ いで顧炎武 の後 を承 けた ものが、 閣若 塘 (一六三六〜一七〇四)である。『古文尚書疏証』
‑ 13 7 ‑
八巻 は閣若魂の代表作である。かれは東普梅瞳 の 『孔伝古文尚書
』
の増加 した二十五篇が偽作 ではないか と疑を挟み、沈潜思考す ること前後 三十年、ついに 『古文尚書疏証』八巻を完成 し て これを証明 した。か くして梅氏の古文 は、つ いに根底か らひっくり返えされたのである。 も とよ りこの書の既 に偽作 なることに疑問が もた れたのは、閣若壕か ら始 まったというわけでは ない。例 えば南末の呉才老 ・朱子、元の呉澄、明の梅鷺 らが孔伝 は漢代の ものでないことをい ち早 く疑 っている。 しか し、経史 によりその矛 盾す るところを指摘 して、その偽書であること を証明 したのは閣若壕の 『古文尚書疏証』であ る。 したが って、閣若壕が 『古文尚書疏証』八 巻を撰述 し、古文の偽作であることに疑を容れ、
その真を求 める学風を起 こしたといってよい。
つまり、従来経書 は宗教 における経典 と同様 に 神聖視 され、 これが批評を試み、あるはその字 句 に対 して疑義 を指摘す る如 きは、聖法を乱 し、
神聖を汚す ものとして許 されなか った。
(三)乾嘉の学
清朝考証学が頂点 に達 したのは清朝の中葉、
いわゆる十八世紀後半か ら十九世紀の初めにか けて、高宗の乾隆、仁宗の嘉慶の時代であって、
一 口に 「乾嘉の学」 と呼ばれる。地域的には、
人文の淵薮 といわれる江南を中心 に栄えた。 こ こに最 も高度 にまた極 めて純粋 にその特質を発 揮 した清朝考証学 の典型 を見 ることがで きる。
漸西呉派の東棟 (一六九七 〜一七五八)、銭大 折 (一七二八 〜一八〇四)、 漸 西 院派 の戴 震 (一七二三〜一七七七)、段玉裁 (一七三五〜一 八一五)、王念孫 (一七四四〜一八三二) らが それである。
呉 とは古 の呉の地方、つまり、 ひろ く江蘇省 をいう。清初 に崖山の顧炎武、乾嘉の盛期 に近 く呉郡の恵棟、そ して最盛期 に嘉定の銭大折が 典型を完成す る。 この派、 とくに恵棟の学 は仏
教や老荘思想が経伝解釈 に混入 していない漢儒 の訓話 を もっぱ ら明 らかにす ることによって古 典を正 しく読みなおそ うとす る。かれは 「実事 求是」、個別の事象 について真実 を追求 す る、
という帰納的方法 に徹す る。 また該博な銭大 の学問が史学 の視野で貫かれていることや優れ た詩文の作 り手であることなど、みな この派 の 学が高度な水準 にあることを示 している。一方、
院 とは微州を中心 とす る安徽省をいう。戴段二 王、すなわち休寧の戴震 とその弟子、金壇の段 玉裁 と、高郵の王念孫、引之父子が この派の代 表である。院派の学 は呉派 と反対 に好んで法則 をたて、漢儒の訓話を越 えて文字 の声音に着 目 し古典の真実 に迫 ろうとす る。 ただ史学的視野 を欠 くこと、詩 に長ず る人がいないことで、呉 派 とくに銭大折の学問 と対照 される。 しか し戴 震が、書物を読むには、文理すなわち文章の論 理的必然 に徹せねばな らないとす る態度が、 こ の派の極めて正確で識見の高 い読書の学 にもと づ く業績を生んでいることに注意せねばな らな い。要す るに、呉派の学 はもっぱ ら帰納的で漢 儒の訓話を守 る傾向が強 く、求古の学 に対 し、
院派の学 は漠儒の訓話を越 えた求是の学で、理 論的にす ぐれ哲学的である③。
恵棟の研究 は多方面であ ったが、最 も力を尽 くしたのは 『周易述』である。漢儒 は易を経学 と方技の二門に分 ち、 占墓の方面 と経学方面を 明白に分離 した。 しか し、漢儒の易は専 ら義理、
すなわち経学 の方面 に進むのではな く、暦象誠 韓、すなわち占笠の方面 に流れていった。魂の 王弼 はその弊を矯正 し、義理 を主 と して、 『周 易正義』 を撰述 した。王弼の注 は老子の思想 に よって易を解釈 しているが、当時の仏老の学の 流行 に伴 い、王注の見地 よ り易を解す るもの多 いので、漢儒の易は漸 く軽視 される。唐代になっ て、李鼎柿の葉解 に漢儒の諸説 を存す るが、孔 穎達 の 『五経正義』 も王粥の 『周易正義』 を収 め られている。 したが って、漢儒 の易 は殆んど l=逸 した。恵棟 は漢易を専JL、考索 して 『周易述』
ー1 3 8 ‑
江戸時代における清朝考証学の受容について
を書 いた。 この書 は三十年間骨を折 って作 った ものだといわれ るが、病気で死んだため、鼎 よ り未済 に至 るまで、及び序卦 ・雑卦の二竃を快 いている。 その後、門人の江藩が これを補 った
『周易補』があ り、『皇清経解
』
に収め られている。
銭大折は最 も力を注 ぐものが史学である。史 学研究 について、かれは、 「天下 の学者 はただ 古 の経を治めるのに、 はば三史には通 じている が、三史以下 になると荘然 として知 らない。 ど うして通儒 と称す ることがで きようか」 と指摘 し、『二十二史考異』を著 した。 その他、一般 の歴史については、『廿二史考異』一百巻があ る。 これは文字 の異同を正 したもので、つまり 考証学 に関す る著述で極めて有益なものである。
例えばその中にある 「疑年録」 は、古代か ら彼 の時代 に至 るまでの人物の、生卒年月を記 した ものであ り、列伝や墓誌などを参考 して作 った もので、今 日において も極めて有益な ものであ る。
銭大折の学識 とその研究の精髄 は史学 にあっ たが、かれは博学者であ り、史学 を除いて、天 文 と数学 に長 じた ことと、音韻 と金石 に関す る 研究 も彼の業績 として高 く評価 してよい。まず、
天文 と数学 に関 しては、彼 と同時代の戴震 とと もに漢学者 として この方面の学問にも精通 して いた。戴宗が西洋式の数学 に通 じていたのに対 し、銭大折は中国固有の方法、いわゆる 『書経
』
の天文や 『考工記』 の数学の如 きもので研究 し たといわれる。そ して、 この知識 を利用 して経 史 に関す る天文の記事などを研究 してその誤謬 を正 したのである。次に、音韻 に関 しては、彼 が経典を解釈す るさい、同音仮借 ・双声 ・畳韻 など多 くの例を挙 げて、一般的な規則を立てよ うとつ とめた。 また金石の研究では、顧炎武以 来、清朝の儒者で、金石 に関す る研究を行 った ものは極 めて多い。金石 によって、経史 と互 い に参考 してその誤 りを正す ことがで き、また同 時に文字の古今の異同 も知 ることがで きるか ら
である。そこで、考証学者 は金石を非常 に重視 した。銭大折に 『金石抜足』の著述があ り、三 代 より元に至 るまでの碑文 については、一一 そ の真偽を明 らかに し、 また、歴史の誤 りも正 し ている。要す るに、彼 は考証学者 として微細 な 点 に至 るまで皆実物 によって判断 し、つまり空 論を排除す る視点か ら、金石を非常 に重要視す るに至 ったのである。 したが って、従来余 り世 に知 られない碑石なども、次第 に世 に明 らか と な り、経典の研究 に大いに参考 となった④。
戴震 は清朝考証学 とも呼ばれる清朝経学の完 成者 とされる。 この評価 は、彼 自身の業績 につ いていわれるとともに、彼の学問的精神のかた ちが、同時代の人々に大 きな印象を与え、 この 時代の学術が高い水準を形成するについて、誠 に大 きな力を発揮 したことを も含んでいる。著 書 は、訓話学、音韻学、文字学、天文暦算学、
数学、地理学、地方志などに捗 って多数である が、晩年の著 『孟子字義疏証』 は、彼 自身会心 の作 とし、かれの哲学を述べたものとして知 ら れ、清朝の思想を代表す る名著 とされる。経学 研究 については、戴震が 「経の至れる者 は道な り。道を明 らかにする所以の者 は其の辞なり、
辞を成す所以の者 は字な り。必 らず字 に由 りて 以て其の道 に通ずれば、乃ち能 くこれを得。是 れ則ち先王の学 は、小学 を以て入門 と為す。故 に著す所 の書 も亦 た小学 を以 て最先 と為 す」
(
「与是仲明論学書」、『戴東原集』巻九) という 主張があって、つまり 「遣う古書‑秤‑文字」ということで、おおよそ経伝を求 めるには必ず 経典 において し、経典を解す るには訓話 によ ら ねばな らぬ。そ こで、訓話を明 らかに して こそ 経伝の所説 に通ず ることがで き、経伝の意義を 明 らかに して こそ経典 に通ず るわけである。経 典が明 らかになれば、聖人の義理を悟 ることが で きる。要す るに、経 に至 るものは道であ り、
道を明 らかにす る所以の ものは辞である。そ し てその辞をなす ものは字であるふ ら、学者 はま さに字 によって辞 に通 じ、辞 によってその道の
‑1 3 9‑
理解がで きるとして、 よろ しく文字の研究 より 入 るべ きだと主張 したのである。
清朝の経学 は、本文の校訂 に始 まり、一字一 句の小学的考察を系統的に行 う考証作業 に主力 をお く。そこには、経書の意味は、本文の系統 的地道 な研究 によって明 らかにされねばな らぬ とい う反省がある. これは一面では、漠代経学 の一字一字 にペ ッタ リ貼 り付 いた読解法 に帰 る
ことで もあった。だが一方では、経学 は、 この 時期すでに、その基礎的学術 において、漢代経 学を遥かに抜 く学的認識能力を形成 していた。
古代言語の発音についての学 「古韻学」の形成 発展 と、明代中期 よ り天文学、数学 などが西洋 か ら移入 されたことによる、それ らの学問につ いての学力の向上 とである。古韻学 は明の陳第、
明末清初の顧炎武 と歩みを進 め、 『詩経』 押韻 字の研究を中心 とす る轍密 な実証法 によって、
古代での文字の発音の響 きが、同 じ字の後世で のそれ と異 なっていたこと、 さらにその響 きが 古代では全体 として十個 に区分けされていたこ とを解明するに至 っていた。 ある時期の文献に ついての発言 は、その もの全体に捗 る調査 と実 証 によ らなければな らないことが ここに鮮やか に示 された。 また、漠代経学以来の語義解釈に ついての様々な方法が、 この新 しい認識の もと で、運用 されることが可能 となった。
清朝経学の高い水準 は、その小学 の発展 に負 うところが大 きいが、それを支えたのが、 この 古韻学の形成 と深化 とであった。 そ して、顧炎 武の開拓 した古韻学 の学的認識をさらに深化 さ せ、本文校訂、小学的研究の全体 にその学的精 神を行 き渡 らせ完成 したのが、戴震 らの学問に 他な らない。
戴震の門下 には俊才が非常 に多か ったが、そ の中で最 も有名なのが段玉裁 と王念孫である。
段玉裁の学の端緒 を開いたのは、顧炎武の 『音 学五書』で、かれはこれにいた く刺激を受 け、
研鎖の功を積んだのが始まりで、戴貢の門に入 っ てか らは学問 は大 いに進み、『詩経韻譜
』
『群経嶺譜』を作 って、始めてその優れた学才が認め られ るに至 った。段玉裁 は特に経学に力をいれ、
訓話校訂の作業を喜んで、微を究め博 さを探 っ たが、戴震 に業を受 けてか らは、古音の分かち 方が十七部 となることを確かめ、『六書音韻表』
二巻 を完成 した。 この事業 は後年、 段玉裁 が
『説文解字』 に注 を施すに至 る階梯 と見 られ、
まことに意義深 い。
王念孫 も戴霧の高弟 といわれる。父の王安国 も相当の学者であ ったが、王念孫 は学問を一層 究 め、『広雅疏証
』
『読書雑志』 の書を著 した。彼 は、古典の用例を広 く集めて、 これか ら帰納 的に推論 してい くという方法を取 り、その推断 も極めて慎重で、その説 には、今 日なお定論 と 認め られているものが多 い。 『広雅』 は元来魂 の張揖が撰述 した もので、『爾雅』の旧目によっ て広 く漢儒の集注、それに 『説文解字』 の請書 を取 って これを増 し広 めたところか ら名付 けて
「広雅」 といったのである。 王念孫 は この書 に 偽脱 したところが多 いので、請書を参考 し、そ の誤 った箇所を正 して、おおよそ字の誤 ったも の五百八十、脱落 した もの四百九十字、桁字三 十九字、先後錯乱 したもの百二十三字について、
漢以前の古籍 によって補正 した。 これが 『広雅 疏証』十巻である。 その訓話 は、すべて音韻 に 基づいて、古音によって古義を明 らかに し、 さ らにその義を引伸 してその類を説明 し、『爾雅』
『説文解字』 はもとより、広 く請書 に捗 って論 じた もので、その音韻、文字を区別す るところ 甚だ厳正であった。『広雅疏証』 は、 段玉裁 の
『説文解字注』 と並んで、清朝 における小学 の 最 も重要 な業績だといわれ る。また 『読書雑志』
は、『准南子
』
『戦国策』
『史記』
『管子』
『妻子春秋
』
『萄子』
『逸周書』
『漢書』
『墨子』 に注を加えた、それに 『漢隷拾遺』を付 け加えておお よそ十種八十二巻 とした もので古義の誤れ るも のや、或 いは書写校正の ときに乱れた箇所を精 密 な考証 の上 で適宜 に校正 した ものであ る。
『読書雑志』 によって、王念孫 の学問 の態度 は
‑ 1 4 0‑
江戸時代における清朝考証学の受容について
「実事求是」で厳正 な考証であることが判 るが、
この書物 の最 も注 目すべ きことは、諸子 に関 し て も考証的方法を用 いた点である。従来 の清朝 学術が、専 ら経書 ・歴史書 を学術 の対象 として いたのに対 し、彼が、慮文弱や愈曲園の諸子研 究活動 と相侯 って、 この方面 の学問を開拓 した 功 は大 きいといわねばな らない。
(四) 日本の考証学
戦国以降武家 の代 とな って、漢文学 は僧侶 の 手 に移 り、鎌倉五山 ・京都五山では文学 の達人 を輩出 したが、 そ こに儒学者 として専門の人 は みあた らない。京都の清原家 は明経 の家である が、儒学者 と して論述すべ きものはな く、著書 もない。 したが って、 日本の儒学史 として は徳 川初期をその創始期 とせざるを得 ない。徳川初 期 の儒学者 はすべて程朱学者である。程朱学 の 日本 に入 った時期 は鎌倉時代 の頃 といわれ、 こ れ以降、程朱学 は僧侶 の間に広 ま り、当時いわ ゆる儒学 は皆凍洛関の学であ った。 しか し僧侶 は仏教 を本数 とし、儒学で門戸 を立て るものを 聞かない。朱子学 を儒学 として提唱す るのは藤 原憧高 に始 まる。
藤原憧高 の門人 に林羅山がいる。 林羅山 は徳 川家康 の抜擢 によって、静岡にお り、家康 に近 侍 し、家康卒後、江戸 に移 り、文教 を司 った。
かれの死後 は子 の鶴峰 ・鳳岡がひき続 いてその 後 を承 けた。鳳岡の後、復軒 ・鳳谷 ・鳳帝など がその家学 を継承 したが、学術浅随でただ父祖 の余光 によ り、大学頑 の位置を維持す るに過 ぎ なか った。それに もかかわ らず当時儒学 の研究 は日々に進歩 し、山鹿素行 ・伊藤仁斎 ・荻生祖 疎 らが前後輩 出 した。かれ らは競 って朱子学 を 排撃 して 自説 を樹立 し一世 を風廃 した。 しか し 林家及 びその門流 に一人 も山鹿素行 らと対抗 し 得 る学者 は生 まれなか った。
山鹿素行 の説 は皇室中心、主義 によって、儒教 経典を解釈す るもので、 その儒学研究 には首肯
Lがたきところ もあ り、かっ幕府 の忌む ところ ともな り、 その説 は長 く行われ るに至 らなか っ た。伊藤仁斎 は理気論が程朱 と異 な った ことか ら 『大学
』
『中庸』
『易繋辞』に異説を有するが、その他 の相異 は少 ない。荻生祖裸 に至 っては、
全 く程朱 と同 じか らず、 かつ程朱学 を攻撃す る のに全力をあげ、門人 に も俊才が多 く、程朱、
仁斎をはげ しく攻撃 した。祖裸学 は、長人安民 を仁 と解釈 し、礼楽刑政を聖人 の学 をす ると主 張 した。つま り、政治論 を儒教 の中心 として強 調 したが、やがて身弓行 を怠 り、正心誠意 の修養 を軽視す る弊害 に陥 ってい った。宋儒が有休無 用 と批判 され るな らば、祖裸学 も有用無体 の護 りを免 ることはで きない。祖裸没後、室鳩巣が 興 り、祖裸説 の風教 に害 あるを論 じつつ、程朱 学 を唱え、程朱学 の復興の機運 を醸成 した。 と
ころで、祖裸の学風 の影響 もあ ったが、古典 を 読む学者 は多 くな り、古典 と宋儒 の説 と異 なる ところがあることを知 り、宝暦 (一七五一〜一 七六四)前後 に至 ると、 いわゆる古学、折衷学、
考証学諸派が相次 いで登場 した。
要す るに、仁斎 ・狙裸 が新説 を唱え、天下 の 学者 は磨然 と してその説 に従 ったが、その説 に も不十分 の所があることが分か って きたわけで ある。 そ こで、先秦 の古典を精読 して 自家の新 しい見地 を立てん とす る傾向が生 まれた。京都 の皆川洪園 ・宇野明霞、大阪の中井履軒、江戸 の片山兼山 ・増 島蘭園、尾張 の塚 田大峰、信濃 の久保筑水、常陸の戸崎淡園などがそれである。
彼 らの学問 は、古典 を精読 してその力によって、
経子を解釈す ることを主 とし、漠唐 の古学 と大 変近 いので、「古学」 と名付 けることがで きる。
これ らの諸儒 は程朱 に もあ らず、仁斎 ・狙裸 に もあ らず、専 ら古典 に基づいて経子 を研鎖 し、
その学 は天命や心性 などの説 を探究せず、多 く 訓話 を渉猟す ることで足れ りとした。
折衷学 とは、漢唐の古注、末儒の新注、仁斎 の古義学、狙裸 の古文辞学を総括 して折衷す る ものをい う。井上蘭台、井上金峨、山本北山の
‑ 14 1 ‑
学 はこれに属す。井上蘭台、井上金峨の学問 は あ くまで も前人 の学説 を折衷す るに過 ぎず、新 しい見地 を開拓 して一家を樹立す るまでには到 達 しなか った。 山本北山は井上金峨の門人であ り、別 に一派 を開 き、清儒 の考証学 に入 ろうと したが、や はり折衷 の域 を脱す ることが出来 な か った。大 田錦城 に至 って始 めて本格 の考証学 が成立す る。
大 田錦城 の代表作である 『九経談』が上梓 さ れたのは文化三年 (一八〇四)であ った。 この 書 は当時大 いに流行 し、錦城 の名 を一躍学界 に 広 めたが、清人の説 を剰窃 したにす ぎないとい う批判 も浴 びた。 こうした批判 に対 し、錦城 は 次のよ うに答 えている。
余初年九経談 ヲ著‑ シ、宋元請儒 ノ著述、
黄氏 日抄 ・困学記聞、清朝 ニテ、朱葬尊 ・顧 炎武 ノ説 ヲ引用 スルニ姓名 ヲ出スモア リ、出 サザルモア リ。本九経 ノ談話 ナ レバ、体裁 シ カルベキナ リ。近時余 ガ先儒 ノ説 ヲ剰掠 スル ト調 ル ト聞 ケ ドモ、著書 ノ本意 ヲモ弁知 セザ ルノ徒 ナ レバ、憎 ムニモ足 ラズ、答 ムルニモ 足 ラザルナ リ。(『梧窓漫筆』三編巻下) また 『九経談』 は院元 の 『学海堂経解』 を抄録 したにす ぎず、錦城 は他人 の目か ら 『学海堂経 解』 を隠そ うと、輸入 され るこの書 を買 い占め よ うと したが余 りに多す ぎて果 たせなか ったと い う笑話 もあ った らしい。 しか し 『学海堂経解』
の刊行 は錦城 の死後 であることか ら、 これは作 り話であ った ことが判 る。 当時猪飼敬所が 『九 経談』 に 「識見正大、援 引宏博、窃かに謂 う海 内二美 し」 と賞賛 し、欄外 に猪飼敬所 の評 を加 えた 『九経談』 も刊行 されている。
さて、『九経談』で最 も精密 な考証 がみ られ るのは 『尚書』 に関す るものであ る (巻七)0 とりわけ 「梅本増多小弁」 と題 され るものにみ ることがで きる。梅本 とは、東晋 の梅暁が献上 した漢 の孔安国の 『古文尚書』五十八篇の こ・と で、増多 とはそれ以前か ら通行 していた秦の伏 生 の 『今文尚書』二十九篇 と比べて、梅本 にお
いて増加 した諸篇で、錦城 はこの増加諸篇がそ の孔安国伝 とともに、魂 の王粛 の徒 の偽作であ ることを証明 した。
今 日で こそ 『古文尚書』 と 『今文尚書』 との 関係 は、清朝考証学 の成果 として 『古文尚書』
の増加部分が後代の偽作であることは定説 となっ ているが、江戸末期 の 日本で はこの ことに気づ くものはまだいなか った。錦城 はこの ことにい ち早 く気づ き疑問を抱 いていたという。錦城 は、
増多二十五篇の本文 と全体 の孔安国伝 とは普代 に始 めて出現 した もので、 それ以前 は漢 ・魂 を 通 じてだれ も見ていないとい う。そ して、漢人 で時 に増多の文 を引 くものは、『左伝
』
『国語』『孟子
』
『萄子』 などに引用 されているものに限 られ る。後漢 の時杜林 の 『漆書古文』があ り、馬融が 「逸書十六宗 には解説 がない」 といい、
その 「逸書」 などこそ孔安国 の真古文であると
い う。
錦城 はこれ ら諸点 を論 じたあ とで、増多の本 文 と孔安国の伝文 とが ともに魂 の王粛 の徒 の偽 作であることを詳密 に考証す る。 その一二 を紹 介 してみよ う。
(1)間命篇 に 「巧言令色」 という語があり、
その偽孔伝 には 「巧言 は実 な く、令色 は質 な し」 とあ るが、 これは 『論語』
の 「巧言令色」 につ け られた王粛 の注 釈 の ことば と同 じ。王粛 の徒 の偽作 し た証拠である。
(2)唐 の孔穎達 の 『尚書正義』 の序 には、
王粛 の 『尚書』 の注 につ いて、 「こっ そ り (今 の)孔伝 を見ていた らしい」
と言 ってお り、 また晴の陸徳明 も唐 の 劉知幾 も、王粛 の 『今文尚書』 の注 は 古文孔伝 と大変似ている、或 いは王粛
はこっそ り孔伝 を見ていて、 それを人 に隠 していた ものであろうか、 といっ ている。 これは孔伝が王粛 の徒 の偽作 で王粛 の注を用 いたか らこそ似 ている のである。今の孔伝が王粛 の徒 によっ
‑ 1 4 2‑
江戸時代 にお け る清朝考 証学 の受容 につ いて
て作 られた ことが、 これによっていよ いよ明白である。
挙例 は以上 にとどめるが、 ここで考 え られた ことは清朝 の学者 の考 えるところとおおよそ一 致 し、 その結論 も近 い。 日本の儒学界にとって、
『尚書』 を ここまで精細 に論 じて偽作 の跡 を明 らかに した ことは、 まさに画期的なことであっ た。『九経談』が高 く評価 され る所以であ った。
藤田幽谷が 「錦城先生大 田才佐墓表
」
において、「上 は先秦の古文 よ り、下 は後世 の雑書 に至 る まで、苛 も経 に関わ りあれば、労引曲暢 し、そ の同異 を審 らかに し、 その是非を弁ぜざるは莫 し。 その漢唐宋明、及 び近時清人 と我が国朝諸 儒 の説 と、会草演辞 し、必ず これを至当に期 し て止む」 とい っているが、 この ことば こそ錦城 の学問を最 も端的に表現 した ものであろう。
ところで、『九経談』 に見 られ る清人 の著作 は、顧炎武 『日知録』、胡洞 『大学翼寅』、毛奇 齢 『西河合集』、朱葬尊 『経義考』、余粛客 『古 経解鈎沈』、 閣若頭 『尚書古文疏証』、 全祖望
『経史問答』、徐乾学 『海園集』、 紀 暁嵐 『四庫 全書簡明 目録』、江声 『尚書集注音疏』、王鳴盛
『尚書後弁』 などで、最 も頻繁 なの は毛奇齢 と 朱葬尊 とである。 つま り 『経義考』 と 『西河合 集』 とを精読 していた と思われ る。錦城 の考証 学 は実 は清人の引 き写 しで、独創ではないとす る意見 も当時か らあ った。 その当否 は当面 の問 題で はない。要 は錦城 の学問が清朝考証学 との 接触 の中か ら鍛え られ形成 されて きた ことを知 ればよ く、 それについて重要な役割を したのが、
先ず 『経義考』であ り、やがて 『西河合集』で あ った とい うことである。
要す るに大 田錦城 の学風 は純然 たる考証学で ある。 これは彼 の 『九経談』 巻五 の
「
(論語大疏) を作 るには、古注を主 とし、古注で通 じな い ところは朱子注 によ り、 それで通 じない とこ ろは明朝諸家で補 い、なお自説を も加 える」 と い う説明によって も知 られ るところである。山 本北山はやや考証学 に迫 ったが、未だ純 な ると
ころがないが、大田錦城 は漢末兼採、 かつ清儒 の説を適宜 に引用 し、 しか も自説を も加 えて論 証す る。 これによって、 日本の考証学 は、大田 錦城 を噂矢 とす る⑤。大田錦城 の後、海保漁村、
島田笠村、安井小太郎 らが相次 いで興 り、考証 学 の学問を発揮す る。 したが って、 この考証学 の基本である古典主義 は今 日にな って も、依然 として学界の主流 を占めている。
大 田錦城 とほぼ同 じ時代で、考証学者 と位置 づ けるべ き人物 に亀井昭陽がいる。学問の系統 か らいえば、亀井家の学問 は明 らかに祖裸学 を 継承す るものである。ところが昭陽の『読弁道』⑥ ではこうい う。
余、生来、古文辞三言 を悪 む。 (首則) つま り、昭陽 は自分がi且裸 の古文辞学派 に帰属 す るといわれ ることに激 しい反発 を示すのであ る。 これは亀井南冥 ・昭陽父子 の不運 な境遇 に よる発言 とも思われよ うが、そればか りでな く、
昭陽 は、父南冥 と自分 との学問が、 ただ狙裸学 を継承す るものではな く、古文辞学 とは異 なっ た独 自の亀井学であると、 その存在を主張 した か ったか らだ と考え られ る。昭陽の『家学小言』⑦ は次 のようにい う。
古言を以て古義 を徴す るは、物氏 これを得。
然 るにその徴す る所 は、歯芽多 く、譲多 し。
牽合固 滞多 く、その才識堂 々たれ ども、文 理密察 な ること少 なさに因 るな り。 (第二章) つま り、宋儒、特 に朱子が理学 によって孔子、
孟子 の学説 を理解す るのに対 して、狙裸がよ り 古 い注釈 によって儒家経典 に真義 を探求す るこ と、 それは正 しく賢明であると、昭陽 は祖裸 を まず誉 める。 しか し狙裸 にこじっけが多 く、 し か も説明に も誤 りが多 いと、昭陽 は狙裸 を批判 す る。 したが って、世間でい くら亀井家 の学問 が狙裸学 の系統 といって も、昭陽 自身 は単 なる 祖裸学派 の一員であることを無条件で認 めるこ
とはで きなか った。 それは昭陽が
余の畢世 の力を詩書 に用 いるは、 なお先考 の 論語 におけるが ごとし。 (同上 ・第二十五章)
‑ 143‑
といって、祖裸がなおざりに したと批判す る経 学研究 に自らは専心 し、従 って、 自分の主な著 述、 たとえば 『周易備考
』
『尚書考』
『毛詩考』『礼記抄説
』
『左伝績考』
『論語語由述志』
『孝経考』 などが殆んど経伝の注釈であることを力説 していることか らも知 られるところである。
昭陽の数多 くの経学研究 に対 して幕末明治期 の朱子学者楠本碩水 は、昭陽の経学の実力をき わめて高 く評価 して次のようにいう。
本邦異学の徒、学力ある者は伊藤仁斎父子、
物祖裸 に若 くはな し。亀井昭陽継 ぎて起 こる。
その経説 におけるや遠 く伊、物の上 に出ず。
但だ西陣に僻処 して、その学僅かに一方 に行 なわれて広 く天下 に及ぼざるのみ⑧。
同様 な評価を明治の漢学者岡松葉谷 も行なって いる⑨。 また町田三郎氏 は、昭陽 の 『尚書考』
をとりあげ、昭陽経学の特色を次のように述べ ている。
昭陽の所説で注 目すべ きことは、 「康詰」
「洛詰」両第の本文の構造 を多角的 に捉 えて 検討 し、その結果析出された ものを、本来の あるべ き位置に もどして考えてみようとす る 発想の新 しさである。本文の構造を考えると いう限 りでは、つ とに朱子の 『大学』や 『中 庸』 の章句立てがあ り、昭陽 も恐 らくそこか ら学んだのであろうが、その手法を徹底 して 彪大 な 『尚書』全篇にまで及ぼ し、 しか も図 形化す るまでに至 ったことは新 たな工夫 とし て評価せねばな らない。
そ して何 よりも注意すべ きことは、 このよ うに素材を分析 し、その構造を解明 し、全体 の傾向や相違 を明白に し、その結果 において え られた結論を、 さらに原則やルールに飛躍 せ しめようとす る努力 こそ、実 は日本漢学の 本色であ ったことである。昭陽 は、必ず しも 明確 な法則の発見 にこそ至 らなか ったが、そ こに至 るべ き分析的で もあ り構造的で もある 思考を存分 に展開 した ものとして、高 く評価
して然かるべ きである⑩。
すなわち昭陽の特色が、古学派の本領である 字句の厳密で詳審な考証 はもとよ り、篇全体を 段落や章節 ごとに区切 って、それぞれの内容や 特色を ピックア ップしなが ら全体を構造的図示 的に理解 しようとした点 にあると高 く評価す る のである。要す るに、昭陽の学問の中心 はあ く まで経学であ りなが ら、彼の研究の特色 は、古 文辞学系統の学問より一歩進んで厳格 な考証に 踏み込んだ点 にあったのである。 よって世間一 般の見方か らすれば昭陽 は狙裸学の一員ではあ るが、著述や主張、研究の方法か らすれば、古 文辞学派を超えた立場 にたっ ものといえるので ある。昭陽のこうした経学の重視 は、従来か ら の漢学研究 に対 して一つの反省を呼び掛 けるも ので もあった。 それは、昭陽の経学中心主義の 提唱が、徳川幕府 における宋学を中心 とした学 界の現状を拒否 して、前代 の五経を中心 とす る 本格的な儒教研究を廼 らせ、 よ り根本的な学問 を凝視すべきだという方向性を示唆するものだっ たか らである。恐 らく昭陽 自身 もそ う自負 して いたのではあるまいか。
文化 ・文政の頃には、『十三経
』
『説文解字』『爾雅』 を研究する学者 は輩出 した。松崎嫌堂、
狩谷板嘉、市野迷庵、山梨稲川がそれである。
狩谷椴嘉 は国典 に造詣が深 く、 日本の古希整理 に考証学の手法を用 い、校勘学を始める。その 著述 は 『転注考』を除いて、すべて 日本の古典 籍 に関する研究である。市野迷庵 も校勘学を好 んでいたが、 その著作 に 『正平本論語前記』
『大永本論語前記
』
『覆刻正平本論語及前記』が ある。松崎傑堂 は林錦峰、林述嘉 に従 い朱子学 を治めたが、狩谷板斎、市野迷庵、山梨稲川の 三人 と交わるに及 び、三人の説 に従 い、十三経 の尊家 に転 じた。彼の著述 は詩文集十四種があ るが、その最 も力を用 いたのは 『縮刻十二経』である。松崎嫌堂の門より塩谷宕陰、安井息軒 が出る。塩谷宕陰 は文章 を治め、欧陽修を主 と す る唐宋八家文を好み、幕末 において文章で名 高 い。安井息軒 は漢唐の旧説、清儒の考証学 を
‑1 4 4‑
江戸 時代 にお け る清朝考証学 の受容 につ いて
治 め、かたわ ら仁斎、租裸、朱子 に出入 した。
彼の著述 に 『論語集説
』
『孟子定本』
『管子纂話』があ り、 これ らは日本の考証学 の成果を示す著 作である。 したが って、安井息軒 は幕末 におけ
る考証学の集大成者 といって もよい⑪。
『論語集説』 は古注及 び朱子注 を並挙 し、そ の間に仁斎や担裸説 も引用 しつつ 自説 を も交 え 説 いた もので、便利で もあ り、取捨 も妥当、見 解 も穏当 と して広 く読 まれた。
明治四十二年 (一九〇九)、 服部芋之吉 は、
息軒 の 『論語集説
』
『孟子定本』『大学説』『中 庸説』 の四書 をかれが監修する叢書 『漢文大系』の第一巻 に収録す るに当た って、息軒 の学問を こう解説す る。
先生篤 ク信 ジテ古 ヲ好 ミ、尤 モカ ヲ漢唐注 疏 二用 ィ、参 スルニ衆説 ヲ以 テシ、先儒末 ダ 発 セザルノ微 ヲ聞キ タルモノ少 カラズ。‑‑・
先生四書 二於 テ亦古注 ヲ本 トシ兼 ネテ朱説 ヲ 取 り、清人考証 ノ説等 二於 テモ亦善 ヲ択 ビテ 之 ヲ取 ル。‑‑先生公 ヲ執 リテ好 ム トコロニ 阿 ラズ、能 ク古今 ノ長 ヲ取 り短 ヲ捨 テ、考拠 最 モカ メ論断最 モ慎 メ リ‑‑‑0
要す るに息軒 の学問 は、古庄新注 にかかわ ら ず良 い ものを良 い とした公正 な態度で一貫 して い、清朝考証学 の成果 も取 り入れて考証は精審、
しか も論断 に慎重であ った、 とい うのである。
い ったい幕末 ともなれば、朱子学や漠唐注疏 の 学一辺倒か ら、次第 に学派学続 に執 らわれず に 自由に ものを見 る目が育 って くるのであるが、
息軒 の場合、つ とに 『論語集説』 に於 いて公平 平易 な注解が江湖 に好評 をえていた。『大学説』
等 も当然 その流れにあ った。服部宇之吉 の 『漢 文大系』 に息軒 の著を収録 した理 由は、古注 に よって新注を補 い、 自説 を加 えた とい う点で、
読者 のにい っそ うの便宜 を与 えたとい う点 にあ るであろ う。つま り広 く諸注を参看す るうえで 便利 この上 もないに もかかわ らず、息軒 の穏当 な見解 もさることなが ら、幕末 ・明治か ら今 日 に至 るまで、広 く読み継 がれた理由の一つ はこ
このである。
(五)結語
清朝漢学者 の経学研究業績 について、梁啓超 の 「清代学者整理 旧学総成績 (
‑)
」⑳で は次 の よ うに述べている。清朝の儒者が儀礼、公羊伝及 び説文 に素晴 らしい業績 を挙 げている。
これ に対 し、 安井小太郎 の 『経学 門樫書 目』⑩ が載せ るように、江戸 の学者 は儀礼、公羊伝及 び説文 に対 してあま り研究 していないが、四書 と左氏伝 に力を注 いで優れた論著 を残 している のである。 こうした相違があ る以上、清朝の学 者 と江戸時代 の儒者 とが経学研究 の重点、 いわ ゆる経学観 において異同す るのは当然の ことで あ った。
さらに近代学術分野 の観点 によって、清朝経 学 の業績を分析す ると、梁啓超 はこう纏 めて述 べている。
清朝の学者 は先秦 の経子史書 に対 し、盛んに 注釈 を行わ っている。 しか し経典注疏 の学問 は 漢唐が最 も隆盛で、優れた成果 もあげたが、た とえ清朝 の経典解釈が極 めて精密だ として も、
漢唐注疏学 の業績 を越えるわけではない。だが、
校勘学 は清儒 の長所である。清儒 はこうした校 勘学 を経子歴史書 にわた って広 い範囲 に用 い、
とりわけ先秦諸子 に優れた業績 を残 した。慮文 沼の 『群書拾補』、王念孫 の 『読書雑記』、愈曲 園の 『諸子平議』、孫論譲 の 『札逆』 がそれで ある。
清儒 の学問の態度 を表 した ものは古書 の弁偽 についてのである。清儒の古書弁偽で称賛すべ きは、弁偽の成果を挙 げることでな く、弁偽の 方法 を発明 して、 それを熟達 に運用 した ことで ある。清朝の学者 は古 を好 み、古書を重視す る ので、古書 に疑問があ った場合、常 に客観 的科 学的方法によって、 よ り精審 に真偽の探究 を行 わ った。 こうした方法を広範 に応用 して、数多
‑ 145‑