研 究論 文
江戸時代 の奉公人制度 と日本的雇用慣行
丹 野 勲
は じめに
本稿では、江戸時代の奉公人制度に関 して幕 府の法令、その仕組み、実態 などについて解明 し、奉公人の形態 としての武士奉公人、村方奉 公人、町方奉公人、 日用取、勤奉公人について 研究す る。特 に、江戸時代 の奉公人についてそ の法制度 と実態 に重点 を置いて考察 し、 さらに 奉公人制度 と日本的雇用慣行 との関連 について 研究す る。
従来、 日本的経営 に関す る歴史的研究では、
明治以降か らの議論がほ とん どである。明治維 新 による日本の近代化以降に、株式会社形態の 企業が出現 して、 日本的経営が形成 された とす る議論で ある。 江戸時代 の社会 は、明治以降の 社会 と断絶 された、封建社会であった とす る考 え方である。確 かに、江戸時代 は、封建的な社 会 として特異であったか もしれないが、歴史は 連続的なものである。著者 は、 日本の経営 を歴 史的に考察する場合、江戸時代 まで遡 って考察 す ことが重要でないか と考 えている。
江戸時代の雇用慣行で、最 も重要な視点は、
奉公人制度であろう。商家、職人、醸造業や鉱 業などの従業員の雇用形態の中心 は、奉公人で あった。 さらに、武士や村方での雇用 において も、奉公人 による雇用がかな り見 られた。その 意味で、江戸時代の雇用形態の典型的形態 とし て、奉公人制度の解 明が不可欠である。
著者 は、 日本的経営 といわれる日本的雇用慣 行の源泉 は、江戸時代 にあったのではないか と 考 えている。 すなわち、奉公人制度が 日本的雇 用慣行の歴史的原型 としてあったのではないか
とい う仮説である。 本稿では、 この ような著者 の問題意識 に関 して試論‑を述べ る。
1 .
奉公 ・奉 公人奉公 とい う言葉は、元来、公 に奉ず る (仕 え る) ことを意味 し、古代では天皇 または朝廷 に つ くす ことであった。律令制下 においては国家 への忠勤奉仕、宮人の職務への精励、天皇や朝 廷 に仕 え働 くことなどを意味 し、武家の従者が 奉公人 とよばれるようになった。中世武家社会 においては、御恩 ・奉公 とい う形で併記 され、
主君への臣従 を表す封建的主従 関係 を表す語 と して用 い られた。天正14(1586)年、朝鮮侵略 に備 え武家奉公人 を確保す るために出された秀 吉の朱印状 には、奉公人 として 「侍 ・中間 ・小 者 ・あ らし子」の名が挙が っている(1)。兵農分 離 を推進 した秀吉は奉公人に関す る法令 を頻繁 に出 したが,そこでの奉公人 も武家奉公人を指 していた。
江戸時代 において も、雇用 (雇傭)のことを 奉公、雇用者 を奉公人 と呼んだ。江戸時代 にお いて も当初 は、奉公人は武家の従者 を意味 した が、17世紀後半か ら18世紀初頭 にかけて、判例 や触のなかで武家以外の使用人にも奉公人 とい う用語が使用 されるようにな り、広 く雇用 関係 一般 を指す語 として定着 していった。奉公 とは 継続的に主人 を定めて勤労 をなす ことである。
江戸時代 において奉公 とい う語が武家層 に限定 されず、雇用 関係一般 をさす ようになって も、
そこには主従 とい う身分関係 に基づいて労働 を 提供 し、主人の恩恵にあずかるとい う意味が含
まれ、 また幕府法 もこの側面 を常 に強調 し続け た(2)。 したがって、近世の雇用契約 においては、
労働法上の契約関係 に加 えて封建 的な奉公の観 念が取 り入れ られている。
奉公人の沿革由来は複雑であるが、農村奉公 人 ・武家奉公人 ・町家奉公人 などの種類 によっ て性質の相違があった。江戸時代前期 の主流 は、
前代 の奴姫、下人の系統 を引 くものであった。
したが って、 この ような身分の奉公人は人身売 買の対象 となった。江戸幕府 は法では営利的な 人の売買 を禁止 したが、それは主 として営利的 な人の取引に関 した もので、実際においては父 兄が子弟 を売 ることは珍 らしくな く、 また人の 年季貫 は非合法でなか った。 しか し、江戸中期 頃か ら売買の語 はほ とんど用いず、奉公の名で 前渡給金 を支払 って奉公人 を買取 り、事実上の 売買の 目的を果 していたか ら、世間では相変 ら ず これを身売 りと称 した。 また、養子の名の下 で実質的に人買 を行 っていた。 このような、封 建 的奉公 に対 し、江戸 中期頃か ら都市 を中心 と
して 自由契約的な奉公制が次第に発達 した。た だ奉公 に関す る立法では、依然奉公人の隷属的 地位 を重視 して公の奉公関係 に準 じた取扱 を行 い、主人の地位 を保護す ることに関心 を示 して いた (3)。
以上の ように、江戸時代の初期 には、前代か らの奴姥 (ぬ ひ)・下人の系譜 を引 くもののほ か、刑罰や年貢未進、永代売買、勾引 (こうい ん)、人質の流質 な どに よる譜代奉公人 も存在 した。その後、奉公形態は身分的な隷属 関係か ら雇用関係へ と推移 した。
18世紀後半頃になると、農業人口の減少 と農 地の荒廃、離村農民の流入 による都市人口の増 大が問題 とな り、御科 ・私領 を対象 とした奉公 稼制限令や、江戸 における旧里帰農奨励令 な ど も度々出されたが、その実効性 は乏 しかった。
とりわけ江戸の場合、流入人口は増大 した もの の、その多 くは小商人 ・小職人や 日雇 を志向 し、
束縛の多い奉公 を忌避 したこともあって、奉公 人の払底 と給金 の高騰 を招来 した(4)。
58 No.41 2011
2 .
奉公の種類江戸時代 の代表的奉公の種類 として4つが存 在 した。
第 1は、譜代奉公 といわれた奉公形態で、一 生間あるいは子子孫々に至 るまでの奉公で、事 実上の永代の身売であった。第2は、本金返年 季奉公 といわれた奉公形態で、年季元 によるも ので、身代金 を支払 って請戻す ものである。第 3は、質物奉公 といわれた奉公形態で、借金の 担保 に人質 として奉公人 を金主に渡す もので、
その借金 を身代 金 として支払 えば請房 がで き た。質流 となれば譜代奉公 になるわけであるが、
後 には一定年限がたてば身代金 を返 さな くとも 暇が とれる揚合が多 くなった。第4は、年季奉 公 といわれた奉公形態で、年季 を定めた普通の 奉公で、一年、半年の期 間を定めた ものが多 く、
これを出替奉公あるいは‑季居奉公 と称 し、幕 府法では出替期が一定 していた。しか し、番頭、
手代、丁稚等の奉公 は、10年20年 に及び、徒弟 奉公 も
1
0年内外 に及ぶのが普通だった(5)03 .
奉公人契約奉公契約は普通、 目見、給金の一部ない し全 うけじょう
部の授受、奉公人請 状 の作成 の手続 を経 て成
うけにん
立する。 しか し、奉公人請状はもともと請人す なわち保証人が奉公 人 の奉公 を保 証す る証文 で、奉公人の身元の確かなこと、当人が切支丹 でないこと、公儀法度 に背かせ ない ことを保証 し、欠落 ・取逃 ・引負 した場合 などの責任 を明 らかにするもので、奉公人 も名 を連ねるけれ ど も差出人は請人である。奉公人は、主人の家 に 入籍 (人別)す る。購民は、 したがって奉公人 になれない。また、犯罪人は奉公人 になれない。
奉公人になるのが妻であれば夫の同意 を得てい ること、他村民であればその町村役人奉公人免 許状 を持 って くることが必要 とされた。
江戸時代の奉公人契約 には、 まず主人 と奉公 人 となる人 とが 目見 え (まみえ :雇主による一 定期 間の試用) をして、主人は契約の最初 に手
付金 を奉公人 に交付す るのか 慣例であった。一 般 に奉公人契約 は、雇主 に選択の機会 を与 える 給金の全額あるいは一部 (取替 ・前銀)の授受、
奉公人請状 (うけ じょう)の作成 とい う手続 を 経て成立す る。 この ように、年季奉公では、給 金 を前借す ることが多い。 目見 えは即座 に採用 決定 となることもあったが、試用期間の意味 も あったため、数 日か ら数ヶ月にわたる場合 もみ られた。請状 とは、請人 (うけにん :身元保証 人)が差出人 とな り、雇主 に対 して奉公人の奉 公 を保証す る証文である。奉公の期 間 ・給銀等 の条件 は奉公人請状 に記載 される。 請状 は、期 間や給金等 に関す る部分 と、欠落 ・取逃 ・引負 時の責任 ・宗 旨 (切支丹 で ない こ と)・公儀法 度 の遵守等 を誓約す る部分 か ら構 成 されてい た。奉公人の側か らは、保証人が奉公人の身元 及び勤労 について全責任 をもって保障す る旨を 契約 した奉公人請状 を作製 して、主人に交付す ることを要 した。そ して、その上で町村役人の 認可 を必要 とした。
請状 には請人 と奉公人本人が加判 して雇主 に 提 出 したが、江戸時代前半期 においては、請人 に対 して奉公人の身元 を保証す る下請人 (した うけにん)・人主 (ひ とぬ し :通常 は奉公人 の 親や兄) もこれに加判す るのが常であった。請 人が第1次の身元保証人で、人主が第2次の身 元保証人であった。 しか しなが ら、奉公契約が 社会の変化 にともなって労務提供契約的な性格 を帯びるにつれて、下請人の制度は消滅あるい は形式化す ることになった。
江戸では古 くか ら判賃 を取 って請人 とな り、
けいあん
奉公先 を周旋す ることを営業 とす る人宿 (桂庵 ・ くにゅう きもいり
口 入 ・肝 煎)が あ った。武家屋 敷 人 な どの場 合 に、この ような人宿があ り、人宿が請人 となっ た。幕府 は、宝永
7 ( 1 7 1 0 )
年 に人宿 の組合 を 作 らせ、それ以外の者が請人になることを原則 上禁 じた。組合 は3年後いったん廃止 されるが、労働力需要の増加 に対応 して、享保
1 5( 1 7 3 0 )
年 に再結成 された。こうして奉公契約が成立す ると、奉公人は主 人の人別 (戸籍)に加 え られた。江戸後期 にな
るととりわけ短期奉公人に人別外の者 も多 くみ られるようになった。
奉公人は主人に対 して忠誠 を尽 くすべ きもの とされた。主人 と奉公人の関係 において法は主 人に厚 い保護 を与 え、奉公人の主人に対する加 害は刑 を加重 された し、主人は奉公人に対す る 私的制裁権 を認め られた。
例 えば、公事方御走書が規定す る最 も重い死
のこぎりひ き
刑 「鋸 挽」は主殺 にのみ科 された。すなわち、
公事方御走書では主人殺 しの罪は親殺 しよりも 重 く 「二 日晒一 日引廻鋸挽之上磯」 とされた。
主人の妻 と密通 した奉公人 は 「引廻之上獄 門」
とされた。す なわち、「主人之妻 と密通 いた し 候 もの、男ハ引廻之上獄 門」 と規定 した。 この 規定 とは対照的に、主人が有夫の下女 を懐妊 さ せて も主人の罪は問われていない。
また、公儀 に関す る重大犯罪以外 は奉公人が 主人 を訴人す ることを禁 じ、処罰 を加 えた。 さ らに契約の解除権 は主人にのみ与 え られ、奉公 人が給金の滞 りについて主人 を訴 えて も奉行所 はこれを取 り上げなかった。他方、奉公人が不 奉公の場合 は、すみやかに給金の返済 を命 じら れ、 これが実行 されない場合 には、請人の身代 限を命 じた。 また、奉公人が逃亡す ると、請人 は主人に対 して奉公人の前借の給金 を代償す る ことを要 した。すなわち、奉公人が主人か らの 債務 を負 っている場合 は、請人の資力の限 りの 弁済をす る必要があった。以上か ら、奉公人契 約は、単なる雇用契約のみではな く、一種の身 分契約であった とも言 える(6)。
明治政府 は、 この ような雇用制度の封建的な 主従関係 を除去す るために、明治5年 に人身売 買 を禁止 し、芸娼妓等の年季奉公人 を解放 し、
その他の奉公 も弟子奉公 は7年、平常奉公 は1 年 に限ったが、新律綱領 は奉公人が主人の財物
を盗めばふつ うの盗みよ り重 く罰 し、主人の許 を逃亡す ることを処罰 した。明治
1 5
年施行の旧 刑法で、この ような封建的な制度が廃止 された。4.
年 季 の期 間 と人 身 売 買 の禁 止幕府 はその成立当初か ら人身永代売買 の禁止 や奉公期 間 (年季) に関す る規制 を相次いで発 した。江戸の初期,慶長
1 4( 1 6 0 9 )
年 には、奉 公人の雇用契約期 間 (年季)については 1年 に 限っての雇用 (‑季居雇用) を禁止 した。すな わち、慶長1 4( 1 6 0 9 )
年 に抽象的なかたちでは あったが‑季居奉公 を禁止 した。それを明確化 した といえるのが、翌15年の雇傭のみについて 規定 した 『徳川禁令』 における奉公人の定であ る(7)。かつ、長期 (長年季)の雇用 も許 さず、元和
2 ( 1 6 1 6 )
年 には奉公年季 の上限を3
年 と した。以下 は、江戸幕府が出 した元和
2 ( 1 6 1 6 )
午 の高札 である(8)。一武士の面 々、若党の儀 は申す に及 ばず中間、
小者 に至 る迄、‑季屠一切抱‑置 くべか らざ る事、
一人売買の事、一円停止た り、若 し売買濫 るの 輩 は売損買損の上、被売者 は其の身の心 に任 すべ し、併 びに勾引売 に付 ては、売主 は成敗、
売 らるる者 は本主へ返すべ き事、
‑年季 の事、三 ヶ年 を限るべ し、但 し三年 を過 ぐれば双方 曲事たるべ き事、
この第 1条は武家 の下級奉公人 に‑季居の出 替者 を抱 えることを禁止 した ものである。 武家 の‑季居 に関す る禁制 は江戸幕府 の もとではこ れ以前か らあ り、慶長
1 5
年の走 に 「侍 はいふに お よばず中間、小者 にいたるまで‑季者 を一切 お くべ か らず」 としてい る。
「人売買 の事、一 円停止た り」 とは、人身売買 を全 て禁止 してい るとい う意味である。年季 の制限は、百姓 ・町 人等の年季売 とか質奉公 などの期 間の最長限を 定めた ものである。 この元和2年の‑季居、人 売買、長年季 の禁制 はその後、同4年2月、同 5年 2月 とくりかえされているが、年季 はいず ゴ1も3年 としている。かけおち
元和
5 ( 1 6 1 9 )
年 に、人売買や奉公人の欠落に関す る元和五年の禁制規定が定め られ、高札 として公示 された。 これは徳川幕府の人身売買 に関する立法中では最 も重要かつ詳細 なものの 一つであって、後世なが く基準 とされた もので ある。 全文十二 ヶ条か らなるが、後半は奉公人 の欠落 をめ ぐる処置について定めてお り、人売 買の問題 と関連す る初めの七 ヶ条はつ ぎの とお
りである(9)。
一人 をか どはか し、売 り候者死罪の事、
一人 を買取 り、それ より先へ売侯 ものは、百 日 ろうしゃ
の寵含、其 の上過銭其の分限に越 えて申 し懸 けるべ し、若 し出さざるに於ては死罪の事、
一人売買御制禁の上は、あるひは譜代 あるひは 我子た りといふ とも、売候 あたい程、売人買 入双方 よ り之を出すべ し、則 ち売 られ候者 は 取 りはな し、其の身の覚悟 に任すべ き事、
‑か どはされ売 られ侯 ものは、其の本主へ返す べ し、若 し主人なきものは、是 も其の身存分 次第の事、
一人商売宿 の儀久 しく仕 り侯 ものは死罪 に行 な はるべ し、但 し一夜 の宿 は礼明の上、其の過 に依 り曲事 たるべ き事、
一人の売買 口入人の儀、か どはか し売 り候時の 口人 は死罪たるべ し、若 し又譜代我子以下の 口人 は、共 晶をわかち、寵舎又 は過銭 たるべ き事、
この法 は幕府の直轄地 にか ぎらず、少 な くと も一部の大名達の藩法 として も施行 された よう である。 また寛永
1 4( 1 6 3 7 )
年5
月の覚 による と 「人の売買御法度の札、元和五年極月二十六 日大橋 に立て申し候、それ より以前の出入 これ あるとも、 さば きはこれな く候、其の後の出入 は仰せ出さる御法度のごとくたるべ く候」 とあ り、右 の法令 を基準 として、それ以前の事件 に ついては裁判せず、それ以後の訴訟 については この法 に従 って裁断す るとされた。人売買の禁 止 については、 この元和5年の法がなが く基準 となったのであるが、‑季居の禁 と年季 につい ては、改正があった。寛永2 (1625)年 には、奉公年季 の上 限を10 年 に延長 し、 これ を超 える ものは永年季 として 処罰の対象 となった。寛永2年以降10年 を越 え る永年季奉公 は禁止 されることになった。10年 に延長 されたのは、当時の農村 の飢鐘 な どか ら の人身売買 の横行 といった状況があったためで ある。
しか し、当時の慣例 では、番頭、手代、丁稚 等の奉公期 間は、少 な くとも10年、長 きは20年 にも及 び、職人の弟子奉公人の奉公期 間は10年 程度が普通であった。その他 の家庭 的雑務 に従 事す る下男、下女等の奉公期 間は 1年 または半 年が一般的であ った。
以下の寛永4 (1627)年正月の定めは、‑香 居奉公の禁止 とそれに違反 したばあいの罰則 が 定め られている(10)0
′⊥† 疋
(3ヵ条略)
一武士 の面 々侍 の儀 は勿論、中間、小者 に至 ま で、‑季居一切拘置べか らず、但 し、堪忍次 第には苦か らざる事、
‑季居拘置主人、其分 限随い、過銭 出べ き 事、
‑季居 の者、戎寵舎或譜代 申付 くべ き事、
‑季居 の請人、或龍舎或過銭 なすべ き事、
此御定の旨相背族 これ有 は、訴人 に出べ し、
急度御 ほ うび下 さるべ き事、
‑年季 の事拾 ヶ年 を限るべ し、十年過 は曲事 に なすべ き事、
一人売買一切停止た り、若違犯 の輩 あ らば、其 軽重 をわかち、或死罪或寵舎過銭 なすべ き事 附、宿主 口入 同罪事、
(≡ ヵ条略)
右相守べ き此 旨者也、偽執達件 の如 し、
寛永 四年正月朔月
その後、幕府 は、元禄11 (1698)年 に方針 を 転換 し、年季制 限を撤廃 して永年季奉公や譜代 奉公 (生涯の奉公) をも容認 した。その理由 と して幕府 は、貧農 ・都市下層民が、子供 を前借
金獲得や 口減 らしを目的に長期奉公へ 出す便宜 を図るため としたが、その背景 には譜代奉公人 の確保 の困難、 出替 り奉公人の一般化、永年季 契約の減少 な ど、種 々の要 因によ り年季制限の 実効性が薄れて きていたことも考 え られる。
また、承応2 (1653)年 に出替 (で が わ り) 奉公の制が設 け られた。 出替奉公の制 によ り、
‑季者 に関す る禁止 もな くなった。 出替奉公 と は1年 ない し半年 間の奉公期 間が終了す ると奉 公人の入 れ替 えが なされ るもので、その切換 え の期 日は法定 されていた。す なわち、 出替奉公 とは、雇用期 間1年 または半年であって、幕府 の定めた法定の期 日に雇用 関係 に入 る奉公 をい う。 出替奉公 によったのは、武家奉公お よび百 姓奉公 であ り、その他 の奉公 についての奉公期 間は、元禄11年以降では職務上 の慣例 によった。
武家奉公 人 お よび下男 下女等 の召使 奉 公 契約 は、 この出替奉公 であった。 出替の期 日は、変 遷があったが、寛文9 (1669)年 に3月5日と 定 ま り、幕末 まで改 まることがなかった。半季 奉公人の出替 日限は、初め3月5日、9月5日 であったが、元禄8(1695)年以後、3月5日、
9月10日に改 まった。商業的奉公契約 は長期で あって、10年か ら20年の もの もあった。
以下 は、年季奉公 に関す る元禄11(1698)午 令 で、年季 の制限 を撤廃 した ものである(ll)。
元禄十一寅年十二月 寛
一 小作 田地出入大概及弐拾年 には、永代小作 させべ し、井質地田畑預金売懸金等廿年 に 過侯 は ゝ裁許 に及 ばず、併証文の品に依 る べ き事、
‑ 永代 に召砲候下 々男女井永年季奉公、前 々 よ り御制禁 なる といえ ども、延宝三卯年諸 国洪水不作 に付免許の上 は、卯年召抱候 は、
人売買井年季背 に成 間数事、
‑ 奉公人の年季、前 々よ り拾年 を限候処、向 後 は年季 の限 りこれな し、譜代 に召仕候 ど も、相対次第たるべ く候 間、其 旨存べ く候、
十二月
61
奉公人は主人の家 に入籍す る。 賎民は、奉公 人 となれない。通常は年季 を定めて奉公 し、幕 府法 は元禄11年 までは10年 を以て奉公の限度 と
したが、その後 は譜代奉公 をも許 した。
奉公人は契約の期 間は、契約の趣 旨をたがへ ず、法律 と主家の家法 とを遵奉 し、忠実に主家 のために尽 くすべ き義務 を負 った。主人は給金 を与 え、衣食住雑費等 を付与す るが、年季奉公 では給金 を前借す ることが多い。 しか も封建時 代 とい うこ ともあ って主人 と奉公 人 との間に は、司法上 な らびに刑法上一種 の保護 と忠誠の 関係があるべ きもの とされた。ゆえに奉公人は 原則 として主人 を訴 えるこ とが許 され なか っ た。また、主人殺 しその他主人に対す る犯罪は、
親 に対す る罪 よ りも重 く罰せ られた。以上のよ うに、江戸時代 の奉公 は、従者が主君 に奉仕す る義務 を意味 し、封建 的主従関係であった とい える。
奉公人には、若党、仲 間、小者、草履取の よ うな武家奉公人があった。下男下女の家庭奉公 人 もあった。そ して商家 においては奉公人 を番 頭、手代、丁稚 と3つの身分 に別れていた。そ して10年、20年 も勤続 して奉公す るときには、
主家 よ り家屋什器資金な どを与 えて、別家す る のか 慣習であ り、奉公人はこれを目あてに給金 は安 くて も忠実に働 くのであった(12)。
江戸時代の奉公 にはそのほかに、鳶口、背負、
ひよう
駕寵昇、足軽、小者等の ような 日用取 とよんだ、
1日もしくは 日を単位 とした労務 に服す るもの があった。
左官、大工、屋根屋等職人の間では親方ある いは師匠に就いて、技術 を習得す る徒弟的奉公 契約が存在 した。職人の賃銀 を手間賃 と呼んだ。
労働時間に対す る制限を規定 した所 もあった。
大阪においては、労働時間制限に対す る規定が あ り、1日8時間労働制であった(13)0
5 .
奉公人の系譜歴史的に見 ると、 この奉公人には4つの系統 がある。 第1は、織 田 ・豊臣時代 の奉公人の後
身で、若党 (わか とう)、小者 (こもの)、仲 間 (ちゅうげん)、草履取 (ぞ うりとり)等の武家 奉公人 と呼ばれたものである。第2は、下男、
下女の ような百姓奉公人等の家庭的または農業 的な労務 を供給する者で、江戸時代 においては、
最 も典型的な村方奉公人である。その由来 を辿 れば、中世の奴碑下人の後身であろうと考 えら れる。第3は、商人や職人で行 なわれた労務契 約であ り、江戸時代 において大 に普及 した もの である。番頭、手代、丁稚、職人の徒弟 (弟子) 等の商工上の雑務及び家庭的労務の供給 を主た
る内容 とす る年季 (年切 :ねん ざれ)奉公であ る。船頭、鉱夫等 を当事者 とする奉公 もあった。
第4は、江戸時代初期 まで残存 した人身売買の 後身 とも見 るべ きもので、江戸時代後期 におい て質物奉公人等 と呼ばれた ものである(14)0
6 .
武家奉公人 (御屋敷方奉公人)当初幕府 は武家 における‑李の出替奉公人を 禁止 した。武士 は知行高 と軍役 に相応 した家 臣・
奉公人 を抱 える必要があったが、初期 には私兵 の養成や治安悪化 を懸念す る幕府 によ り、‑季 居奉公人 (渡 り奉公人) を抱 えることが度々禁 止 された。 さらに、幕府 は、封建的主従関係の 弛緩 を警戒 したためである。武士が城下町に居 住 して消費生活 を営むようになると、かれ らの 経済生活にも合理性が要求 され、武家の下級奉 公人 には譜代 にかわって有期の雇用者 を生ず る こ とになった(15)。知行 地 を持つ武士 は支配下 の村落か らの徴発 も可能であ り、幕府 も 「寛永 の地方直 し」、「元禄の地方直 し」 とよばれる知 行の加増 ・蔵米の知行への切替 などを実施 した が、幕臣の増加 などによ り譜代奉公人の確保 は 困難 とな り、年季奉公人に対する需要は増大 し た。すなわち、太平が続 き武士が城下 に集任 し、
知行所 をもたない旗本 ・御家人が増す につれ、
譜代奉公人の確保 は困難 とな り、年季奉公人の 割合 は増 えたのである。武家奉公人は、漸次有 期契約 にな り、1年か半年 に限っての雇用 によ る出替 (でかわ り)奉公人の割合が多 くなって
きたのである。 この ような武家奉公人は、年季 と賃金 を定めて雇用 されてお り、その少 なか ら ぬ部分が農村 出身の出奉公 によって占め られて いた。出替の武家奉公人で も、帯刀その他の平 民以上の身分 を認め られて武士の家来 と呼ばれ た。 これ らの奉公人は、一時的に身分の転換が 認め られ、武士 に準 じた身分 として奉公中は帯 刀が求め られたのである(16)。
また、武家奉公人には、朕奉公 ともいわれる 女子 の良縁 を得 るための行儀見 習奉行 な ども あった。
中期以降になると、人宿 を介 した出替奉公人 も公認 された。17世紀末頃 には 「人宿」 (けい あん ・口入) と称 して奉公希望者の請人 となる 事 を業 とし、判賃 を取 るとともに、雇い主 ・奉 公人双方 か ら口入料 を徴収す る業者が現れるよ
うになった。中間 ・若党 ・小者 など軽輩の武家 奉公人の多 くは この ような形態 で雇用 された が、彼 らによる給金取逃 ・欠落 ・が さつ法外 な どは度々問題 とな り、幕府 は改革期 を中心 に人 宿組合の結成 ・再興 などによ り統制 を試みた も のの、その効果 は薄かった。彼 らも奉公ヰ は原 則 として抱 えの武士 と同 じ待遇 を受け、罪や失 態 を犯 した場合、主人にはこれを手討 にす る権 限 も与 え られていた。
7 .
村方奉公人江戸時代 の初期、農村 の地主の もとには広汎 に譜代 の下人があ り、農耕や家事 に従事 した。
かれ らは譜代 とい う出生 による者の他、人身の 永代売 による者、人質で流質 となった者 などか ら成 る。それ とともに年季 をか ぎっての下男、
下女 もあった。
江戸時代の農村 における奉公形態の発展 には かな り地域差がみ られるが、概 ね譜代奉公か ら 年季売奉公 (質物奉公) を経て、年季奉公 (長 年季か ら短年季‑)へ と進化 していった。つ ま り、地域 によって差異があるが、譜代下人か ら いげししち
居消質奉公人、年季奉公人への発展 は、ほぼ全 国的にみ られる労働形態の推移である。
ほんせんがえし
中世か ら人 身の年季売 (本銭 返)が行 なわ れていたが、 これ は年季 を定 め対価 (身代釜) をえて子女や下人 を相手方 に渡 し、年季が くれ ば本金 を返却 し人身を請け戻す ものである。 人 身の年季売 は、買主 (質取主)の もとでの労働 が評価 されると、年季明時に当初の本金全部 を 返却 しないで人身を請け戻す ことがで きる。 労 働 をもって本金の一部 を消却するものを本金一 部居酒 (居潰 :いつぶ し) とい う。買主 (質取 主)の もとでの労働が本金 に相 当すれば年季明 時に拘束か ら解放 されるだけであるか ら、 こう なれば給金前払の年季奉公である(17)。
歴史的に見てみると、江戸時代初期の農村 で は、譜代奉公の下人等 を使 った地主による経営 とともに、質物奉公 (年季売奉公) とい う形態 も広 く存在 した。質物奉公の当初の形態は、前 借金の利息分 を買主 (質取主)の もとでの労働 で充当 させ、年季 明後 に本金返却 とともに人身 を請け出す とい うものであった。やがて、質物 奉公 は前借金 自体 を労働で消却 してい く本金居 消質 (いげ LLち)奉公へ と進化す る。 この居 消質奉公は、労働が本金 に相当 した時点で給金 前払の年季奉公 と同様 とな り、雇用契約的性格 は一層促進 されることになった。 また、奉公期 間も数年以上か ら‑年季奉公‑、 さらには月割 奉公や 日雇へ と短縮 されてい く傾向をみせた。
幕末の畿内では 日分ケ奉公 ・廻 り奉公 と称 し、
月の うち10‑20日など一定 日数 を雇用主の もと で労働す る契約 もあった。
農民のなかには都市へ 出て武家奉公人や町方 奉公人 とな り、生涯の大半 を出稼奉公で過 ごす もの もあった。近世中期以降は家計の補助 な ど を目的 として、子女 を都市へ出稼 ぎ奉公 に出す ことも多 くみ られた。彼 らの大半 は比較的短期 の年季で武家奉公人や町方奉公人 とな り、都市 文化 ・情報の村への伝達 とい う役割 も担 ったが、
生涯の大半 を出稼 ぎで過 ごす者や、博徒 などに なる者 も少 な くなかった(18)0
8 .
町方奉公人町方奉公人は、下男下女の ように比較的単純 な労働 を提供す る短年季 の奉公 と、主 に技能習 得 を 目的 とす る長期 の奉公 の2種 に大別 され
る。
短年季 の奉公人の多 くは人宿 などを介 して雇 用 され、給金 を受けて労務 を提供 し、昇進の機 会 は原則 としてなかった。長期の奉公人は、恒 常的な熟練奉公人の確保 と、雇主 に対す る忠誠 心の育成 を意図 した年功序列 ・階梯型の組織 に 組み入れ られた。労働 をさせ なが ら訓練 を施 し, 一定期 間後の 自立あるいは経営参加 とい う形で その生活 を保証す るもので,雇主 との間には主 従関係が強 く意識 されるとともに、擬制的な家 族 関係 とい う側面 も有 していた。
(1)商家の奉公
大 きな商家では別家の子弟や主人の同郷者 な どを10‑13歳前後で雇い入れ、住み込みの小僧 ・ 丁稚 として無給で雑用 に使役 し、その間に読み 書 き算盤 を習得 させた。江戸の大店の商家では、
ほ とん どが男性奉公人で、女性奉公人はふつ う いなかった。15‑16歳頃で半元服 して半人前 と な り、18‑20歳 頃に元服 して手代 とな り業務全 般 を修行す る。手代 に昇等す るときは必ず本人 の親元親類連印の契約書 を入れさせ、請状 を改 めるのが通例であった。手代 となれば店務 に従 事す る。
大店 の商家 の奉公 には、「登 り」 と呼ぶ、長 期 間勤めた後 に休暇で故郷 に帰 るとい う慣習が あった。故郷 に帰 る最初の長期休暇 を「初登 り」
と言 う。江戸の大店の白木屋では、初登 りは9 年 目と定め られていた。年齢で言 うと20歳頃 と なる。次の登 りは、16年後 の 「中登 り」、その 次は22年 目の 「三登 り」である。 白木屋 には、
この4種類 の登 りが あ った(19)。 この ような、
商家奉公人の登 りは、商人のキャリアにとって 重要 な意味があった。それは、登 りが、昇進の ステ ップであったことである。登 りを終 えるこ とによって、店での昇進が約束 されていたので 64 No.41 2011
ある。例 えば、初登 りを終えて帰 って くると、
そこで始めて手代 となることがで きた。 この よ うな登 りの制度は、多 くの江戸の大店で見 られ
かけおち
た。 白木屋 では、円満退職、「欠落」 (店 を無断 で逃 げ出す こと)、病気、不正、勤務不 良に よ る解雇 などがなければ、奉公か ら9年たつ とほ ぼ全ての奉公人は手代 となることがで きた。そ の意味では、 この登 りの制度は、勤務年数 によ る年功序列 と見 ることがで きる。 ただ し、その 間に、何 らかの利用で店 をやめた奉公人の割合 は、かな り高かった。三井越後屋 のケースを見 ると、入店 した子供の中で元服 して手代 になる 比率は、だいたい48‑590/o程度であった(20)。
じ上う ぎ かしらや く
手代 (平手代)は、 上 座、 頭 役、年寄役 (組 頭役)、支配人などと言 う役付 になって昇進 し てい く。この ような番頭の役付 に昇進す るのは、
奉公人のほんの一握 りである。役職‑の昇進 は、
年功 を基準 としなが らも、能力主義であった と いえる。 白木屋 の 日本橋店では、延宝元(1673) 年のころは、支配人2人、元禄9 (1696)年 に は3人、宝永3 (1706)年には4人 となってい る。それ以降は、小頭役10人、年寄役5人、支 配人3人あるいは 4人が原則であった。 この白 木屋の全体 の奉公人は、元文元 (1736)年 には 94人、寛保2 (1742)年 に は126人 であ った。
以上のように、高い地位の管理職に昇進す る奉 公人は、厳 しい競争 に勝 ち抜 いたほんの少数の 奉 公 人 で あ っ た とい え る(21)。三 井越 後 屋 の ケースを見 ると、入店 した子供の中で、上座‑
の昇進者の比率 は23.6%、役頭‑の昇進者の比 率 は17.2%、組頭への昇進者の比率 は14.7%、
支 配 人 へ の 昇 進 者 の 比 率 は10.0%、で あ っ た(22)
。
年寄役や支配人などの番頭 を数年勤めると、
別家 して主家 に仕 える者 もあれば、元手銀 (過
の れ ん
職金 による資金)、屋号、暖簾 印、得意先 な ど の分与 (暖簾分 け) をうけて独立す る者 もあっ た。 この段 階まで到達で きる奉公人はご く一部 に限 られた。このように、江戸時代 の商家では、
永年奉公 して番頭 クラスになった者 に、屋号 ・ のれんを認め別家 を立てるとい う、のれんわけ
をする慣行があった。別家 になると、大店では 講 と呼ばれる仲 間組織 をつ くり、集 ま りを持 っ た り積金 をした りした。
(2)職人の奉公
職人の徒弟奉公 は
、1 2 ‑1
3歳程度で親方の家 に弟子 として住み込み、10年程度の年季が明け た後、数年の御礼奉公 を経て独立す ることが一 般的であった。職人の奉公 は、親方や師匠か ら の技術 の習得 も大 きな 目的であった。職人の奉 公では、御礼奉公、恩返 し奉公 な どと称 して奉 公年季満了の後 といえども、なお 1、 2年 ない し5年は奉公関係 を継続 しなければな らない習 慣があった。奉公 中に親方 との関係が破綻 した場合、同業 さいく
者か らの追放 (細工構)が科せ られることもあっ た。職人奉公 は、技能修得 の面が強 く、親方か らの営業鑑札の交付 ・仲 間の承認 を必要 とす る とともに、技術 の秘匿や無断営業の禁止 などが 課 され、違反者 には家業構 (修得技術 を利用 し た営業の禁止)が科 されることもあった。ただ 親方の株数 は限定 されていたことか ら、一人前 になって も親方 と同居 を続 けるか、 自立 して近
お もて だな
隣の表 店 に通勤 す る とい った 「手 間取」職人 が多 くを占めた。
(3)工業の奉公人
江戸時代の代表的な工業である醸造業や鉱山 業 において も、その従事者 の多 くが奉公 人 で あった。江戸時代 の醤油醸造業の雇用労働 に関 す る研究 によると、奉公人は醸造地周辺の農村 出身の年季奉公者が多 く、年季 を勤めると村 に 帰って くる存在 であったこと、労働力編成 に関 しては総監督者である杜氏 (とうじ)に強い権 限が認め られること、そ して杜氏 は蔵奉公人の 中か ら昇進 して就任するのではな く、杜氏 とし て技術 を身につけた者が外部か ら雇用 されるこ と等、 を指摘 してい る(23)。醤油 醸造業 の代 表 的企業であるヤマサ醤油の研究によると、安永
3 ( 1 7 7 4 )
年か ら文政7 ( 1 8 2 4 )
年 までは年雇 人が90‑100%を占めてお り、年季奉公 人が主体であった。 ところが、文政期か ら日雇の存在 が確 認す るこ とが で きる ようにな り、それ に 伴 って年雇 人の比重 は低下 してい る。元 治1
( 1 8 6 4 )
年では、雇用形態 を見 ると年雇人が4 1 %
に対 して、 日雇 は35.9%となっている。創業の 初期では、杜氏 は、外部か ら雇用 されたが、そ の後、杜氏 は奉公人が勤続 を続 ける内に修行 を 積み、頭か ら杜氏‑ と昇進 してい く内部昇進が 見 られるようになった(24)。醸造業や鉱 山業のような製造業所では、内部 請負制 に よる雇用 がみ られ た(25)。す なわち、
酒造業では、作業場 ・原料 ・諸道具 を戸主か ら 提供 されて、杜氏が生産の全工程 を指揮 ・管理
していた。蔵人の選定、雇用 も杜氏の裁量であ り、杜氏は自分の出身地か ら季節労働者 を連れ て くるのが普通であった。酒造業の場合 には、
杜氏は仕事の代金 をまとめて受け取 り、それを 自分が雇用 した者 に分配す るとい う意味での内 部請負制ではなかったが、生産 においては杜氏 に任 された部分が大 きく、蔵人の技能修得、労 務管理 も杜氏の責任の範囲内にあった。 この意 味で、間接雇用 に近いものであった。
鉱 山業では、内部請負制に近い形態が広 く行 われていた。稼行 を請け負 った山師は親方 ・元 締 などと呼ばれた。 現場での採掘 ・選鉱 ・運搬
かね こ
などの仕事 は、金子、金掘 りなどと呼ばれる者 に下請 された。金子、金掘 りは、掘場 ごとに請 け負 って、作業代金 をまとめて受け取 り、現場 労働者 を自らの責任で募集 し、作業現場ではそ の管理 を行 った。
9 .
日用取日用取 (ひようとり) とは 日雇あるいは月雇 をす る者 をい う。 日用は 日雇 とも書 き、一 日を 単位 として、 自らの労働力 を売 る人々で、1カ 月、あるいは半年、1年 とい う短期の期 間を限っ て雇用 される月雇、年雇なども、広 く日用取の 範噂 に入 る。 日用取 には、(∋貧 しい百姓が地主 に雇 われて地主が所有する耕地で労働す るよう な農業 日用、(参百姓の二、三男が、領主の元 に
年季 で雇用 され る武家奉公、③ 交通 ・林業 ・漁 業 な どが必要 とす る運搬 や単純労働 に雇用 され る 日雇 い、等 の タイプが存在 す る。 これ らの多 くは、零細 な農業経営 を補完す る現金収入 を得 るのが 目的であ る。 また(参と(釘の形態 では、城 下 町や周辺 の小都市がその営みの場 になるこ と が多 い。都市域 にお ける 日用取 は よ り多様 な形 態 を持つ。 これ らは、①武家奉公人の不足 を補 う部分、(参発達 した交通 ・物流 システム を維持 す るため に不可欠 な運輸 ・運搬 ・荷役 に関わ る 肉体労働者、(夢都市 のイ ンフラや治安 ・防災 ・ 警備 シス テムを維持 ・管理す るため に必要 とさ れ る単純 な諸雑業 に携 わる労働者、等が主要 な もの としてあげ られ る。① は人宿 な どとよばれ る周旋業者 の下 にプール され、領主やその家 臣 団の下級 の奉公人 として、足軽 ・中間 ・小 者 な どの形態 で雇用 された。次 に② は、土工 であ る
なかし 鳶 ・背負 い、飛脚 の人足 、浜 で働 く仲仕 ・小揚 げ、 陸上 の運輸 を担 う車力 や軽子 な どであ る。
かれ らも(∋と同様 に人宿 にプール され、 あるい は 日用頭 とよばれ る人足請負業者 に抱 え られ、
都 市 の雑 業 を担 ったのであ る. また(彰は、鳶が 担 う火消 し人足 、辻番 や木戸香 な どの警備 にあ た る番 人 な どが主 た る ものであ る(26)。
この ように、 日用取 は、近世初頭 か ら都市 を 中心 に膨大 に存在 して幕府 や大名 ・旗本 あるい は町方の労働 需要 を満 た した。 日用取 は通常、
人宿 や 日用頭 を介 して雇用 されたが、幕府 は承 応2 (1653)年 に 日用頭 に札 を交付 し、札 のな い 日用取 を取 り締 まる ことと した。 さ らに寛文
ひ よう ぎ
5 (1665)年 には 日傭座 を設 けて、帳付 ・札 の 交付 に よる監督 と札銭 の徴 収 とを行 わせ た。 し か し、 この制度 は 日用取 に とって札銭 の納入が 困難 な ことな どもあ り容易 に定着せず、寛政9 (1795)年 に は廃 止 され た。 こ こで注 目され る の は、人宿 や 日用頭 の様 々な共 同組織 の形成 で ある。 江戸 で は人宿 の番組 人宿組合 、 日用頭 の 日用座、飛脚 の六組飛脚仲 間、鳶 の町火消組合 な どであ る。 かれ らは商人の一種 であ るが、 日 用 とい う労働者 を斡旋 す る存在 として、特 に都 市社会 では重要 な存在 となってゆ く。
66 .41
日用取 は、流動性が高 く、寄留先 や雇用先 を 失 えば容易 に野非人や無宿 に転落す る存在 で も あった。 日用取 は、短期 かつ不安定 な職種 で も あったため、飢護や災害 の際 にはたやす く窮民 化す る存在 であ った。日用取 の労務 内容 は鳶 口 ・ 米春 ・背負 ・駕寵昇 ・足軽 ・小者 な ど町方 ・武 家方 を問わず多 岐 にわた り、時 には公儀御用 人 足 として労務 に従 うことさえあった。日用取 は、
武家 の役負担 や商家 の労働力 として不可欠 な存 在 であった。
1 0 .
勤奉公人けいせい め しうりおんな
江戸時代 には傾城、 遊女、 飯盛女、 食売 女、
ちゃ たて おんな そ うか よ たか わた つみ さ
茶 立 女、洗 濯 下 女、惣 嫁、夜 鷹、綿 摘 み、提 げ重 な ど、 さまざまの名 で呼 ばれた公認 あ るい は黙認 された さまざまな娼婦 が存在 した。江戸 時代 を通 じて、一般 の労働 関係 は身分 的 な隷属 関係 か ら債権 的な雇用 関係へ と展 開 したが、 こ の ような勤奉公人の奉公 においては、労働 関係 の推移 の主流 か らそれて、苛酷 な人身拘束が む しろ確立 していった。 その主 たる供給源 は貧 困 な農村 であった。領主 の激 しい収奪 や餓死 にお いつ め られ た農民 は娘 や妻 を売 らざ る をえ な か ったのである。百姓 町人の階層分化 は、妻や 娘 を売 らざるを得 ない貧農や都市下層民 を生み だ したのである。幕府 は江戸 の吉原、大阪の新 町、京都 の島原 な どの遊廓 を、主 として治安維
みようがきん
持 や風俗統制 な どを理 由 に、 冥 加 金 の納入 を 条件 に公許 した。 また、 茶屋 や旅寵屋 な どにつ
きゅう じ おんな
いて はあ くまで給 仕 女 ・下女 な どの名 目で、
人数制 限 (1軒 につ き2人) を条件 にこれ を黙 認す る とともに、それ以外 の売女 を隠売女 とし て取 り締 まった。公事方御走書 の 「隠売女御仕 置之事」で は、 隠売女稼業 の者や 隠売女 のみ な らず、請人 ・人主、家 主 ・五人組 ・名主 ・地主 な どにまで広 く連座 が適用 されている。
彼女 たち も多 くは奉公 契約 の形式 で雇 われ、
給 金 は一般 の下女奉 公 な どに比 して高額 で は あ ったが、例外 な く前借 (実質 的 に は身代 金) の形 をとったほか、病死 ・頓死 の場合 の死後特
約文言が付 された り、縁付 (妻 ・妾 として)や 転売の 自由などを砲主に対 して特約す るなど、
人身売買的な特質 を強 く有 していた。すなわち、
彼女たちは、当時において も身売 りともいわれ たように、実質的に人身売買 に近い ものであっ た。
これ らの女性 たち も奉公人請状 による契約の 形式 をとったか ら奉公形態の一種 とみることも で きるが、その内容 は一般的な年季奉公 とは異 なっていた。請状の多 くは、親や兄が 「年貢未 進」な どの理 由で 「諸 親類 相 談、女子得 心 之 上」奉公 に出す とい う形式 をとり、 また追奪担 保文言、縁付 ・転売 (鞍替)の 自由、あるいは 病死、頓死の際にも 「一言之 申分無御座候」 と す る特約文言な どが記載 されていた。給金 は、
一般の年季奉公人 より高額で、例外 な く前借 で あ り身代金的な性格 をもっていた。 また非公認 の私娼の場合 には、詮議 を免れるため、陰証文 を作成 した り、一生不通養子契約の体裁 をとる など、 さまざまな脱法行為が行 われたが、契約 自体 に関す る紛争が生 じて も幕府 はこれに関与 せず、当事者 間の相対 に任せ るのが通例であっ
た(節)。 おわりに
日本人が働 くという価値観の中に、歴史的に 長 く続 いた奉公人意識があるのではないか とい う問題意識 を持 って考察 して きた。本稿で考察 して きた ように、奉公 とい う言葉 は、元来、公 に奉ず る (仕 える) ことを意味 し、古代では天 皇 または朝廷 につ くす ことであった。律令制下 においては国家への忠勤奉仕、官人の職務への 精励、天皇や朝廷 に仕 え働 くことな どを意味 し、
武家の従者が奉公人 とよばれるようになった。
中世武家社会 においては、御恩 ・奉公 とい う形 で併記 され、主君への臣従 を表す封建的主従 関 係 を表す語 として用い られた。江戸時代 におい ても、雇用 (雇傭)のことを奉公、雇用者 を奉 公人 と呼んだ。奉公 とは継続的に主人 を定めて 勤労 をなす ことである。江戸時代 において奉公
とい う語が武家層 に限定 されず、雇用関係一般 をさす ようになって も、そこには主従 という身 分関係 に基づいて労働 を提供 し、主人の恩恵に あずかるとい う意味が含 まれていた。 日本人の 勤労観 は、 この ような江戸時代 の奉公人意識が 色濃 く反映 しているのではないだろうか。確か に、明治以降現在 まで江戸時代 の封建的な制度 は解体 されて きたが、 日本人の勤労意識の中に 大 きく影響 を与 えているのではないか と思 う。
奉公 は、特定の組織 に対 して、組織構成貞が永 続的、全人的に献身するとい う、滅私奉公 とい われるように意識である。特定の組織 として、
江戸時代では、武士では藩、商人では商家な ど があった。現代では、その組織対象がた とえば 企業 とい うことになった。 日本人の組織への一 体感、愛社精神 とった ものの中に、奉公人意識 が引 き継がれているのではないか と思 う。
社会の歴史的展 開過程 において培 われてきた 伝統的な生活様式や慣習、その背後 にある理念 ・ 価値観 といった ものは、時代が変わ り体制が移 行 して も、それがなお依然 として存続 し、 とき には、その時代 ・体制に適合 的に変革す る。 明 治維新 の ように政治や経済 の制度が変革 して も、江戸か ら明治‑の歴史の連続性 を認めざる をえないのである。本稿で考察 して きた江戸時 代の奉公制度 といった雇用制度 も、明治以降近 代の雇用制度によりむすぴつ き、影響 を与 えて
いった と考 えられ よう。
江戸時代 の奉公 人制度 にみ られたイエ (衣) 意識が、明治以降の企業 に 日本的経営の特徴 と
される集団主義 に基づ く企業家族主義 を生み出 したことは容易 に想像 され よう。 この ような 日 本的経営の理念 ・意識の形成 には、明治期の国 家的 ・社会的承認 を背景に し、従業員側のその 受容 と経営者 による施策によって形成 された と 言 えよう。 この経営家族主義 に基づ く代表的な 日本的雇用制度 として、内部熟練形成、年功制、
終身雇用制、などがあ り、 また、慈恵的施策 と して社宅制度、廉価販売制度、扶助 ・共済制度、
しきん
賜金制度、教育 ・教養施設、職工慰安会 などが あげ られてい る(28)。 さ らに、 コーポ レー トガ 67
バナ ンスの側面 として、大企業の所有 と経営の 分離がある。 こうした、 日本的経営 といわれる 諸制度について、江戸時代 の奉公制度 との関連 について考察 してみ よう。
第1は、奉公人制度は、内部熟練形成、内部 労働市場 とい う特徴がある。 特 に、江戸時代の 大店 といわれる商家 にはその傾向が強い。奉公 人の採用 においては年齢が12‑13歳程の同郷者 が中心で、採用管理は本店で一元化 された形で の採用 である。縁故的採用 も多かった。採用後 に、住み込みの小僧 ・丁稚 として使役 し、その
そ ろばん
間に読み書 き算盤 を習得 させた。15‑16歳頃で 半元服 して半人前 とな り、18‑20歳頃に元服 し て手代 とな り業務全般 を修行す る。 手代 は、上 座、頭役、年寄役 (組頭役)、支配人 な どと言 う役付 になって昇進 してい く。 この ように、特 に大店の商家の場合、従業員のほとん どが この ような内部出身の奉公人であ り、奉公人が熟練 を積 むことによ り昇進 してい くとい う内部熟練 形成、内部労働市場 とい う形態である。
第2は、奉公制度では、昇進 において年功的 要素 を重視 しなが ら、成果 (能力)主義的要素 をも重視 した とい う特徴がある。 大店の商家 に おいて、手代への昇進 は年功でほぼ昇進す るが、
その後番頭や支配人の役付 に昇進す るのは、奉 公人のほんの一握 りであった。役職への昇進 は、
年功 を基準 としなが らも、能力主義であった と いえる。 すなわち、奉公制度は、内部昇進 と少 数エ リー ト選抜 と言 う特徴があった。明治以降 の近代企業 において も、年功的要素 を重視 しな が らも、一方では、能力 ・業績主義 を重視 した 形で昇進 していた とい う雇用制度は、江戸時代 の奉公制度がその原型 ・源流 をなす ものであっ た と考 え られ よう。
第3は、奉公制度 は長期勤続者への各種優遇 など、長期雇用 を誘導す る制度が織 り込 まれて いたことである。 長年勤務 し、年寄役や支配人 などの番頭 を数年勤めると、別家 して主家 に仕 える者があった。 また、元手銀 (退職金 による 資金)、屋号、暖簾 印、得意先 な どの分与 (咲 簾分 け) をうけて独立す る者 もあった。 この よ
うに、江戸時代の商家では、永年奉公 して番頭 クラスになった者 に、屋号 ・のれんを認め別家 を立てるとい う、のれんわけをす る慣行があっ た。別家 になると、大店では講 と呼ばれる仲 間 組織 をつ くり、集 ま りを持 った り積金 をした り
した。
第 4は、奉公制度は、長い間奉公人は住み込 み、同居するという形が一般的であった。 この ような住み込み制度 は、奉公人 に家族主義的な 意識 を醸成す る。 長期間にわたる寝食 をともに した密 な人 間関係が奉公 人 の家族意識 を高 め た。奉公先‑のイエ (秦)意識、組織‑の一体 感が生 まれた。 この意識 は、経営家族主義的経 営の源泉 となった といえる。
第5は、奉公制度 による支配人、番頭の よう な専 門経営者 ・管理者‑の経営委任 とい う形で、
所有 と経営の分離が、江戸時代 にある意味で実 現 していた とい う特徴がある。 明治期 に家族的 企業 として発展 していた企業 において も、所有 と経営の分離 は一般的にはかな り急速に移行 し た背景 として、 この ような江戸 の奉公制 度 が あった と言 えるであろう。
本稿では、江戸時代 の奉公制度が 日本的雇用 慣行の源泉 としてあるのではないか とい う問題 意識 を持 って考察 して きた。 この観点か ら見 る と、今後の研究課題 も多 い。江戸時代の奉公制 度が、明治以降の近代的経営‑の転換す る際に どの ように変貌 してい ったのか とい う点 であ る。 これについては、著者 は明治以降の雇用制 度 とその実態 に関 して解 明す る研究 を行 ないた い と考 えている。江戸時代 の奉公人制度 に関 し て もあま り触 れ られなかった点 も多い。例 えば、
奉公人の賃金 ・賞与 ・退職金 などの問題、詳細 なケース研究などである。 また、非正規雇用 と しての 日雇人の問題、人身売買の問題 なども今 後の研究課題 としたい。江戸時代の経営 を研究 す る場合、本稿で考察 して きた奉公人制度 を中 心 とす る雇用制皮のみな らず、多方面の制度か らのアプローチが今後の課題であろう。特 に、
江戸時代の株仲間の研究が今後の重要 な研究課 題 となるであろう。 さらに、奉公人制度の国際
比較 、家族 制 度 、経 営 と制 度変 革 、文化 と経営 、 制度 と経 営 、 な どが著 者 の今 後 の研 究課 題 とな るで あ ろ う。著 者 は、今 後 、歴 史比較 制 度分析 の視 点 か ら 日本 的経 営 に関 して体 系 化 ・理論化 を 目指 したい と考 えてい る。
注
( 1 )
牧英 正 ・藤 原 明久 編 (1993)『日本 法 制 史』
青林書 院、195‑200頁。
(2)牧英 正 ・藤 原 明久 編 (1993)『日本 法 制 史
』
青林書 院、195‑200頁。
(3)高柳 信 三 (1949)『日本 法 制 史
(1)
』有 斐 閣、327‑329頁。(4)浅古弘 ・伊藤孝夫 ・植 田信贋 ・神保文夫(2010)
『日本法制史』青林書 院、188‑193頁。
(5)高柳 信 三 (1949)『日本 法 制 史
( 1)
』有 斐 閣、327‑329頁。(6)大竹 秀 男 ・牧 英 正 編 (1975)『日本 法 制 史』
青林書 院新社、207頁。
(7)大久保 治男 ・茂野隆晴編 (1998)『日本法制 史史料60選』芦書房、108頁。
(8)牧英正 (1971)『人 身売買』 岩波書 店、81‑
82頁。
(9)牧英正 (1971)『人 身売買』岩波書 店、84‑
85頁。
(10)大久保 治男 ・茂野 隆晴編 (1998)『日本法制 史史料60選』芦書房、107頁。
(ll)大久保 治男 ・茂 野隆晴編 (1998)『日本法制 史史料60選』芦書房、108頁。
(12)牧健二 (1933)『日本法制 史』 国史講座刊 行 会、371‑372頁、お よび石井 良助(1983)『日 本法制史概説』創文社、542‑546頁。
(13)牧 英 正 ・藤 原 明久 編 (1993)『日本 法 制 史』
青林書院、195‑200頁。
(14)石井良助 (1983)『日本法制史概説』創文社、
542‑543頁。
(15)大竹 秀男 ・牧 英 正 編 (1975)『日本 法 制 史』
青林書 院新社、207頁。
(16)南和男 (1969)『江戸 の社会構 造』塙書房、
178頁。
(17)大竹 秀 男 ・牧 英正 編 (1975)『日本 法 制 史
』
青林書 院新社、207頁。
(18)牧英 正 ・藤 原 明久 編 (1993)『日本 法 制 史
』
青林書 院、195‑200頁。
(19)油井宏子 (2007)『江戸奉公人 の心得 帳』新 潮社、30頁、お よび林玲子編 (2003)『江戸 店の明け暮 れ』吉川弘文館、19‑20頁。
(20)西 坂靖 (2006)『三井越 後屋 奉 公 人 の研 究』
東京大学 出版会、106‑109頁。
(21)油井宏子 (2007)『江戸奉公人の心得帳』新 潮社、41‑42頁。
(22)西坂靖 (2006)『三井越 後屋 奉 公 人 の研 究』
東京大学 出版会、110‑112頁。
(23)永 原慶 二 ・山口啓二編 (1983)『農業 ・農業 加工』 (講座 ・日本技術 の社会史 1) 日本評 論社、169‑202頁。
(24)林玲子編 (1990)『醤油醸造業 の研 究』吉川 弘文館、143‑194頁。
(25)宮 本又 郎 ・阿部 武司 ・宇 田川勝 ・沢 井 実 ・ 橘 川 武 郎 (2007)『日本 経 営 史 (新 版
)
』 有 斐 閣、74頁。(26)吉 田仲 之 (2002)『成熟す る江戸』講談社、
144‑145頁。
(27)牧 英 正 ・藤 原 明久編 (1993)『日本 法 制 史』
青林書院、200頁。
(28)宮本又 次 (1977)『江 戸 時代 の企 業者 活 動』
(日本経営史講座 第1巻)日本経済新 聞社、
225頁。
参考文献
油井宏子 (2007)『江戸奉公人の心得帳』新潮社。
浅古 弘 ・伊藤孝 夫 ・植 田信虞 ・神保 文 夫 (2010)
『日本法制史』青林書 院。
遠藤元男 (1985)『近世職人 の世界』 (日本職人史 の研 究Ⅲ),雄 山闇。
石井良助 (1952)『日本法制史概要』創文社。
石井良助 (1959)『日本法制史』青林書院。
石 井 良助 (1979)『新 編江戸 時代 漫 筆』上 ・下、
朝 日新 聞社。
石井良助 (1983)『日本法制史概説』創文社。
岡崎哲 二 (1999)『江戸 の市 場 経 済一歴 史制 度分 析 か ら見 た株仲 間』講談社。
岡崎哲 二編 (2001)『取引制 度 の経 済 史』東 京大 学 出版会。
大竹 秀男 ・牧 英 正 編 (1975)『日本 法制 史』青林 書 院新社。
大竹秀男 (1975)『近世雇傭 関係史論』 (神戸法学 叢書17)有斐 閣。
大 久保 治男 ・茂 野 隆晴 (1997)『日本 法 制 史』高 文堂出版社。
大久保 治男 ・茂 野 隆晴編 (1998)『日本 法制 史史 料60選』芦書房。
菅野和太郎 (1930)『日本商業史』 日本評論社。
北 島正 元編 著 (1962) 『江戸 商 店 と伊 勢
店
』吉 川弘文館。鬼頭宏 (2002)『文明 としての江戸 システ ム』 (日
本の歴史19)講談社。
斎 藤修 (1998) 『商家 の世界 ・裏店 の世界一江戸 と東京 の比較都市史』 リブロポー ト。
斎 藤修 (2002) 『江戸 と大 阪‑近代 日本 の都 市起 源』NTT 出版。
作 造洋太郎 (1971
)
『近世封建社会 の貨 幣金融構 造」塙書房。住友金属鉱山株式会社 (1990) 『住友金属鉱 山史』
住友金属鉱 山株式会社。
重松一義 (1987) 『日本法制史稿要』敏文堂。
隅崎渡 (1951
)
『日本法制史概論』春秋社。瀧川 政次 郎 (1985) 『日本 法 制 史」上 ・下、講 談 社学術文庫。
高柳信三 (1949)『日本法制史』(1)・(2)、有斐 閣。
竹 中靖 一 ・川上雅 (1965) 『日本 商業 史』 ミネル ヴァ書房。
南和男 (1969) 『江戸の社会構造』塙書房。
西坂靖 (2006) 『三井越後屋奉 公人 の研 究』東 京 大学 出版会。
中井信彦 (1961
)
『幕藩社会 と商品流通』塙書房。永原慶二 ・山口啓二編 (1983) 『農業 ・農業加工』
(講座 ・日本技術 の社会史 1) 日本評論社。
林玲子編 (1990) 『醤油醸造 業 の研 究』吉川弘文 館。
林玲子編 (1992)『商人の活動』(日本の近世5)、
中央公論社。
林玲子編 (2003) 『江戸店 の明 け暮 れ』吉川弘文 館。
林玲子 ・天野雅敏編 (2005) 『日本 の味醤油 の歴 史』吉川弘文館。
西 山松 之助編 (1972) 『江戸 町人の研 究 第1巻』
吉川弘文館。
牧英正 (1971
)
『人身売買』岩波書店。牧英正 (1979) 『雇用 の歴史』弘文堂。
牧英正 ・藤原 明久編 (1993) 『日本法制 史』青林 書院。
牧健二 (1933) 『日本法制史』 国史講座刊行会。
牧健二 (1938) 『日本法制史概論』弘文堂書房。
宮本又次 (1939)『日本商業史』龍吟社。
宮本又次 (1948) 『近世商業経営 の研 究』大人洲 出版。
宮本又次 (1958)『株仲 間の研究』、有斐 閣。
宮本又次 (1977) 『近世商人意識 の研 究』 (宮本又 次著作集 第2巻)、講談社。
宮本又次 (1977) 『江戸時代 の企業者活動』 (日本 経営史講座 第1巻)、 日本経済新聞社。
宮本又郎 ・阿部武司 ・宇 田川勝 ・沢井実 ・橘川武 郎 (2007) 『日本経営史 (新版)』、有斐閣。
宮本又郎 ・粕 谷 誠編 (2009) 『経営史 ・江戸 の経 験』 ミネルヴァ書房。
宮本又郎(2010)『日本企業経営史研究』、有斐 閣。
宮下徹 (1995) 『日本近世雇用 労働 史 の研 究』東 京大学出版会。
宮下徹 (2007) 『武家奉公 人 と労働社 会』 山川 出 版社。
鈴 木草生 監 修 (2003) 『江 戸 職 人 そ の 「技」 と
「粋」 な暮 らし』青春 出版社。
吉 田仲之編(1992)『都市の時代
』
(日本 の近世9)、中央公論社。
吉 田仲之 (2002) 『成熟す る江戸』講談社。
安 岡重明 (1970)『財閥形成史の研究』 ミネルヴ ァ 書房。
安 岡重明 ・藤 田貞一朗 ・石川健次郎編 (1992)『近 江商人の経営遺産‑ その再評価』 同文館。
安 岡重 明 ・天野雅敏編 (1995) 『近世 的経営 の展 開』 (日本経営史 1)岩波書店。
相木学 (2005) 『酒造 りの歴史』雄 山閥。