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江戸時代における文房四宝の輸入について

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Academic year: 2021

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(1)

その他のタイトル The Introduction of the Four Jewels of the Stationery In the Edo Period

著者 李 暁丹

雑誌名 文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集 :

journal of the Graduate School of East Asian Cultures

巻 10

ページ 241‑259

発行年 2020‑11‑30

URL http://doi.org/10.32286/00023406

(2)

江戸時代における文房四宝の輸入について

李  暁  丹

The Introduction of the Four Jewels of the Stationery In the Edo Period LI Xiaodan

Abstract

This paper investigates the introduction of the Four Treasures of the Study in the Edo Period(1868-1912). In addition, it discusses the influence of the Four Treasures.. introduction on the Japanese literati represented by Ichigawabeiann.

According to the results of this study, the Four Treasures of the Study were indeed transported to Japan by Chinese ships. Ichigawabeiann was also affected by the Four Treasures.. in Chinese culture. However, he did not wholly accept its contents and put forward his own views on the basis of careful analysis with a critical attitude.

From being introduced to Japan and becoming curated in Japanese museum collections, what other process have the Four Treasures of the Study in the Ming and Qing Dynasties gone through? For further research, the circulation process of the four jewels will be explored as an important topic.

Keywords:文房四宝 輸入 唐船 市河米庵

(3)

はじめに

 文房四宝について行なった先行研究は陳涛(2014)、楊佳媛(2013)等がある。

 2014年、陳涛が発表した「「文房四宝」源流考」1)は、魏晋南北朝、唐、宋、明清という四つ の時代に分けて文房四宝の名称の変化を論じ、「明清時代は文房四宝の盛時時期であろう」と述 べている。また、楊佳媛(2013)は「浅谈歴代書目中文房四宝之书的著录及其流变2)の中で文 房四宝の書籍を整理して特徴を分析した。しかし、この書籍の日本への流通については、まだ 十分には検討されていない。そして、若木太一「唐船持渡りの書籍と文具 その一」3)によると、

来港唐船の積荷の中で、文房四宝は小間物として扱われたことが明らかになった。だが、文房 四宝はどんな割合を占めていたのかは論じていない。

 中国側からの日本の文房四宝の発展に対する影響について少し触れたものは、綾村坦園(1985)

の『文房四宝の基礎知識』4)である。日本の有名な書家市川米庵は、中国の文人米元章を追慕し て長崎来朝の清人胡兆新に学んで書塾を創立した。米庵の書塾は、当時最大のものであったと いわれ、門弟が実に五千人、前田侯のような雄藩の大名など広く門人を集めた。その著『筆譜』、

『墨場必携』は後世、書を学ぶ者には大いに役立っており、近世日本の書道に大きな影響を及ぼ した。

 以上、文房四宝の日本への輸入については、研究はまだ手薄である。とくに、中国からもた される文房四宝による影響、すなわち江戸時代の日本社会にどのような文房四宝の価値観が受 容されかについての研究は、管見の限り発表されていない。

 本稿は、江戸時代という時点で何時、如何なる文房四宝が、如何ほど渡来していたかという ことについて基礎的研究を展開したい。さらに、文房四宝が輸入された後日本の文人によって どう消化され始めたのか、つまり、日本文化にどんな影響を及ぼしたのかという問題に幾分か 光明をもたらす努力を試みようと思う。

一 文房四宝の輸入

1 .文房四宝の実物の輸入

 周知のように、江戸時代における日本と中国の貿易は長崎一港に限って行われた。その時期 に中国船を「唐船」、中国人を「唐人」と呼ぶことが多かった。唐船の名付け方について、大庭

 1) 陳涛「「文房四宝」源流考」(『中原文化研究』,2014年01期),57-63頁。

 2) 楊佳媛「浅谈歴代書目中文房四宝之书的著录及其流变」(『長春教育学院学報』,2013年),21-22頁。

 3) 若木太一「唐船持渡りの書籍と文具 その一」(『文献探求』14巻,1984年),24-77頁。

 4) 綾村坦園『文房四宝の基礎知識』(光村推古書院,1985年),68頁。

(4)

脩は、

これら商人によって派遣された唐船は長崎に入港すると、入港の年次の十二支名と入港の 順番を附して「寅十番船」「辰一番船」などとよばれ、更に起帆地名をいみする「南京船」

「福州船」などの名が加えられる。たとえば貞享四卯五十七番厦門船というのは、貞享四年 卯歳に第五十七番目に長崎に入港した厦門出しの船である5)

と述べている。ここからわかるとおり、唐船が長崎に入港すると、入港順に番号をつけ、その 年の十二支で年度を示し、さらに丁寧に呼ぶ時は、出発した港も示していた。  

 唐船が舶載する貿易品の中で、文房四宝は一体どの程度の比重を占めていたのであろうか。

江戸時代に来日した唐船の積荷資料と言えば、国立公文書館内閣文庫にある『唐蛮貨物帳』に まず指を屈しなければならない6)。その資料は、宝永 6 年(1709)七月から正徳 3 年(1713)十 一月までの間の入港数及び出港数の積荷目録が記されているが、一年間の入港船の積荷が全部 わかるのは正徳元年のみで他の年は欠けている。

 次の表は、寛永18年(1641)から嘉永 5 年(1852)に至る、長崎入港の唐船、文房四宝があ った唐船の年ごとの実数である。

 データは次の史料に拠った。

唐船のデータ:

 寛永18年~明和 4 年 ……『長崎実録大成7)  明和 5 年~文化12年 ……『明安調方記8)  文化13年~嘉永 5 年 ……『新長崎年表9)

文房四宝のデータ:

 寛永18年~天保 4 年 ……『唐船輸出入品数量一覧1637~1833年10)

 なお、寛永18年以前は、『実録大成』その他では不明だが、岩生成一氏「近世日支貿易に関す

 5) 大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究所,1967年), 9 -10頁。

 6) 大庭脩『漂着船物語―江戸時代の日中交流』(岩波新書,2001年),90頁。

 7) 田辺茂啓 , 小原克紹『長崎実録大成』(長崎文献社,1973年)。

 8) 「明安調方記」(『長崎県史 史料編第四』吉川弘文館,1965年)。

 9) 土井進一郎『新長崎年表』(長崎文献社,1974年)。

10) 永積洋子『唐船輸出入品数量一覧1637~1833年』(創文社,1987年)。

(5)

る数量的考察11)」によれば、入港唐船の数は次の通りである12)

表 1

和暦 西暦 唐船 文房四宝が

あった唐船

寛永18年 1641 97 0

寛永19年 1642 34 0

寛永20年 1643 34 0

正保 1 年 1644 54 0

正保 2 年 1645 76 0

正保 3 年 1646 54 1

正保 4 年 1647 0

慶安 1 年 1648 20 0

慶安 2 年 1649 59 0

慶安 3 年 1650 70 4

慶安 4 年 1651 40 1

承応 1 年 1652 50 2

承応 2 年 1653 56 3

承応 3 年 1654 51 2

明暦 1 年 1655 45 1

明暦 2 年 1656 57 1

明暦 3 年 1657 51 13

万治 1 年 1658 43 19

万治 2 年 1659 60 3

万治 3 年 1660 45 10

寛文 1 年 1661 39 1

寛文 2 年 1662 42 0

寛文 3 年 1663 29 5

寛文 4 年 1664 38 0

寛文 5 年 1665 36 0

寛文 6 年 1666 37 1

寛文 7 年 1667 33 0

寛文 8 年 1668 43 0

寛文 9 年 1669 38 0

寛文10年 1670 36 0

寛文11年 1671 38 0

寛文12年 1672 43 0

延宝 1 年 1673 20 0

延宝 2 年 1674 22 0

延宝 3 年 1675 29 0

延宝 4 年 1676 24 0

延宝 5 年 1677 29 0

延宝 6 年 1678 26 0

延宝 7 年 1679 33 0

延宝 8 年 1680 29 0

天和 1 年 1681 9 0

天和 2 年 1682 26 3

天和 3 年 1683 27 0

11) 岩生成一「近世日支貿易に関する数量的考察」(『史学雑誌』62巻11号,1953年),981-1020頁。

12) 若木太一「唐船持渡りの書籍と文具 その一」(『文献探求』14巻,1984年),25頁。

和暦 西暦 唐船 文房四宝が

あった唐船

貞享 1 年 1684 24 0

貞享 2 年 1685 73 0

貞享 3 年 1686 84 0

貞享 4 年 1687 115 0

元禄 1 年 1688 117 0

元禄 2 年 1689 70 0

元禄 3 年 1690 70 0

元禄 4 年 1691 70 0

元禄 5 年 1692 70 0

元禄 6 年 1693 70 0

元禄 7 年 1694 70 0

元禄 8 年 1695 70 0

元禄 9 年 1696 70 0

元禄10年 1697 70 0

元禄11年 1698 68 0

元禄12年 1699 69 0

元禄13年 1700 53 0

元禄14年 1701 56 0

元禄15年 1702 80 0

元禄16年 1703 80 0

宝永 1 年 1704 80 0

宝永 2 年 1705 80 0

宝永 3 年 1706 80 0

宝永 4 年 1707 80 0

宝永 5 年 1708 59 0

宝永 6 年 1709 54 0

宝永 7 年 1710 51 0

正徳 1 年 1711 57 0

正徳 2 年 1712 59 0

正徳 3 年 1713 40 0

正徳 4 年 1714 51 0

正徳 5 年 1715 7 0

享保 1 年 1716 7 0

享保 2 年 1717 43 0

享保 3 年 1718 40 0

享保 4 年 1719 37 0

享保 5 年 1720 36 0

享保 6 年 1721 33 0

享保 7 年 1722 33 0

享保 8 年 1723 34 0

享保 9 年 1724 13 0

享保10年 1725 30 0

享保11年 1726 42 0

(6)

和暦 西暦 唐船 文房四宝が あった唐船

享保12年 1727 42 0

享保13年 1728 22 0

享保14年 1729 30 0

享保15年 1730 38 0

享保16年 1731 38 0

享保17年 1732 36 0

享保18年 1733 28 0

享保19年 1734 31 0

享保20年 1735 29 0

元文 1 年 1736 16 0

元文 2 年 1737 5 0

元文 3 年 1738 5 0

元文 4 年 1739 20 2

元文 5 年 1740 25 0

寛保 1 年 1741 14 0

寛保 2 年 1742 15 0

寛保 3 年 1743 15 1

延享 1 年 1744 20 8

延享 2 年 1745 20 1

延享 3 年 1746 10 2

延享 4 年 1747 10 1

寛延 1 年 1748 12 3

寛延 2 年 1749 13 1

寛延 3 年 1750 10 1

宝暦 1 年 1751 11 3

宝暦 2 年 1752 15 10

宝暦 3 年 1753 25 10

宝暦 4 年 1754 24 7

宝暦 5 年 1755 22 6

宝暦 6 年 1756 7 1

宝暦 7 年 1757 12 3

宝暦 8 年 1758 14 0

宝暦 9 年 1759 18 5

宝暦10年 1760 12 6

宝暦11年 1761 12 7

宝暦12年 1762 15 12

宝暦13年 1763 13 8

明和 1 年 1764 14 13

明和 2 年 1765 12 11

明和 3 年 1766 12 11

明和 4 年 1767 13 9

明和 5 年 1768 12 7

明和 6 年 1769 14 10

明和 7 年 1770 15 11

明和 8 年 1771 12 10

安永 1 年 1772 13 6

安永 2 年 1773 15 13

安永 3 年 1774 13 7

安永 4 年 1775 13 10

安永 5 年 1776 13 7

安永 6 年 1777 13 12

安永 7 年 1778 12 7

和暦 西暦 唐船 文房四宝が

あった唐船

安永 8 年 1779 9 9

安永 9 年 1780 14 13

天明 1 年 1781 11 9

天明 2 年 1782 8 5

天明 3 年 1783 12 12

天明 4 年 1784 18 15

天明 5 年 1785 14 14

天明 6 年 1786 12 6

天明 7 年 1787 10 10

天明 8 年 1788 12 10

寛政 1 年 1789 10 4

寛政 2 年 1790 11 8

寛政 3 年 1791 11 5

寛政 4 年 1792 16 10

寛政 5 年 1793 6 7

寛政 6 年 1794 10 5

寛政 7 年 1795 11 8

寛政 8 年 1796 3 13

寛政 9 年 1797 11 0

寛政10年 1798 7 6

寛政11年 1799 6 9

寛政12年 1800 9 5

享和 1 年 1801 17 5

享和 2 年 1802 10 10

享和 3 年 1803 10 4

文化 1 年 1804 11 11

文化 2 年 1805 11 8

文化 3 年 1806 5 5

文化 4 年 1807 8 5

文化 5 年 1808 12 5

文化 6 年 1809 9 9

文化 7 年 1810 11 2

文化 8 年 1811 12 7

文化 9 年 1812 12 10

文化10年 1813 13 6

文化11年 1814 7 4

文化12年 1815 10 7

文化13年 1816 14 7

文化14年 1817 6 6

文政 1 年 1818 5 6

文政 2 年 1819 12 7

文政 3 年 1820 8 11

文政 4 年 1821 7 6

文政 5 年 1822 8 2

文政 6 年 1823 7 6

文政 7 年 1824 9 0

文政 8 年 1825 8 0

文政 9 年 1826 10 0

文政10年 1827 10 8

文政11年 1828 8 0

文政12年 1829 8 8

天保 1 年 1830 8 0

(7)

和暦 西暦 唐船 文房四宝が あった唐船

天保 2 年 1831 3 6

天保 3 年 1832 9 5

天保 4 年 1833 5 0

天保 5 年 1834 8 0

天保 6 年 1835 8 0

天保 7 年 1836 7 0

天保 8 年 1837 9 0

天保 9 年 1838 4 0

天保10年 1839 10 0

天保11年 1840 7 0

天保12年 1841 8 0

和暦 西暦 唐船 文房四宝が

あった唐船

天保13年 1842 4 0

天保14年 1843 8 0

弘化 1 年 1844 8 0

弘化 2 年 1845 7 0

弘化 3 年 1846 8 0

弘化 4 年 1847 4 0

嘉永 1 年 1848 5 0

嘉永 2 年 1849 7 0

嘉永 3 年 1850 5 0

嘉永 4 年 1851 4 0

嘉永 5 年 1852 4 0

 以上の表から、次のようなことが明らかになる。

 ① 寛保 3 年(1743)から文政 6 年(1823)に至るまで、文房四宝がほぼ連続して輸入され た。

 ② 明和 1 年(1764)から安永 4 年は文房四宝の輸入のピークである。長崎貿易の活力は最高 に達している。

 ③ 乾隆年間には、文房四宝に対する関心、及びその文化に対する興味を示している。

 ④ 時代が下がると唐船も文房四宝を積んだ唐船も減少していた。貿易の不活発は、当時の文 化の沈滞化が進んでいたことを反映する。

 ⑤ 日本側には、金銀流出の抑制のため実施した定高貿易は文房四宝の輸入に影響を与えたと 考えられる。

2 .漂着船

 江戸時代における鎖国政策以降も長崎に唐船が頻繁に往来して日中間には日常的な交流があ ったことは前節に述べた。長崎をめざした来港した唐船の中には、目的地に到着できずに漂流 して、日本各地に漂着した船もあった。漂着船については、いくつかの詳細な資料が残されて いる。

 中村質「近世貿易における唐船の積荷と乗組員13)」によれば、漂着船の積荷目録は、1671年

(寛文11年)の一番船、1672年(寛文12年)の一、二番船、1698年(元禄11年)五島漂着の寧波 船、1729年(享保14年)の八~十七番船、1754年(宝暦 4 年)下田漂着の南京船、1768年(明 和 5 年)熊野漂着の福州船、1775年(安永 4 年)の八番船、1804年(文化 1 年)銚子漂着の寧 波船、1815年(文化12年)下田漂着の南京船、1826年(文政 9 年)遠江漂着の乍浦船の分が残 されているという。積荷目録が残っている漂着船の中で積載貨物の中に文房四宝が搭載されて

13) 中村質「近世貿易における唐船の積荷と乗組員」(『九州産業大学商経論叢』12-1),65頁。

(8)

いた船を 2 つ紹介する。

 ①元禄十一年(1698)正月四日付の寧波船

船主王懋功、劉上卿の連名で、五島王に出された文書の大意は

本船は前年十二月二十五日に出港し、二十七日に海洋へでましたが、正月二日の夜半、に わかに大暴風(颶風)が起こり、柁を失い、船もまた大ゆれにゆれて浸水しました。

商人、乗組員はもともと六十人でしたが、笹帆が損傷してちぎれ、船員が三人も行方不明 となりました。大小の貨物が多くありましたが、数字を細かく点検していないものの、白 糖、黒糖、氷砂糖はみな水に融けてしまいました。船は損傷していますが、修理は可能で す。五島王にお願いしたいのは、長崎王(長崎奉行)に連絡をして、本船が人員を損失し 貨物を失った憐れむべき事情を報せてほしいということです。もし事情が許し船に必要な ことを述べさせてもらえるならば、長崎に至って修繕を加え、中国へ帰ることができれば、

船の乗組の者は喜び感謝することと思います。ここに御報告いたします。

 元禄十一年正月四日 寧波船主王懋功、劉上卿 と述べ、以下に荷物目録を記す。

本船貨物  … 墨三千斤  …

そしてこのあとに、以上の貨物は唐山で船に乗せた品目で、どれほど失い、どれほど残っ ているかわからないが、調べて数がはっきりしたなら報告する、と書いている。さきには、

砂糖について、流失した旨、明記している14)

 ここからわかるとおり、元禄十一年(1698)に出航した寧波船は劣悪な天気のため遭難され た。記載された荷物目録では三千斤の墨が流失したかどうかは分からないが、輸入品として寧 波船に乗せたことは明らかであろう。

 ②安永四年六月未八番厦門船

安永四年六月未八番厦門船の船主陳鳳占の通船貨冊を見ると大庭脩は「この安永四年未八 番は、糸、織物、紙、薬種、道具類、書画、小鳥とともに十三經、二十一史、淵鑑類函、

14) 大庭脩『漂着船物語―江戸時代の日中交流』(岩波新書,2001年),92-101頁。

(9)

及び類書の計八部を積んでいる。15)」と論じている。ここからわかるとおり、安永四年六月 未八番厦門船の中に、紙が搭載されていたことが確実である。

 以上のことから見ると、元禄十一年(1698)正月四日付の寧波船と安永四年六月未八番厦門 船の積荷の中で文房四宝が存在したことが確認される。

3 .密貿易

 貿易が強い統制下にある以上、当然密貿易の存在は考えられる。この面について、山脇悌二 郎に研究があるが、文房四宝に関する研究はほとんど見られない16)

 明末に海禁が緩和されて中国沿海の多くの貿易船が海外に進出した。しかし、日本への渡航 は許されなかった。だが、日本貿易によって利益が獲得できるのでその禁令を犯して日本に来 航していた中国の海商があった。日本への来航の地としたのは、主に南九州の薩摩、現在の鹿 児島県の港であった、それは、当時薩摩藩主であった島津家が対外貿易に積極的であったこと による17)

 慶長一四年(1609)九月二十四日までに、薩摩に来航した中国船十艘のうち、三艘の積荷目 録が知られる。三艘の中の一艘の積荷目録では、墨の記録があった。その目録の内容は以下の 通りである。

陳振宇宣積み荷目録 上書

七月初二日到坊唐船装載貨開具

すみ

唐船主   陳振宇   陳 徳  これによって、薩摩に来航した陳振宇船の積荷の中に墨があったことが明らかになった。

15) 大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究,1967年),22頁。

16) 「鎖国時代の密貿易」(昭和40年10月 日本経済新聞社刊 日経新書),28頁。

17) 『鹿児島県史』(第 2 巻鹿児島県,1940年),585-588頁。

(10)

二 中国の文房四宝に対する日本文人の理解市河米庵を中心に

1 .筆の場合

1 - 1  中国の筆について

〈良い筆の見つけ方〉

 中国には、「尖、斉、円、健」の四徳という筆の良否を判断する方法がある。榊莫山『文房四 宝 筆の話』では具体的な方法を次のように述べる。

尖……というのは、穂先のとがりぐあいのことである。のりでかためた筆は、みな尖って いるから厄介だ。いい筆ほどその穂先の部分にも毛の数が多い。細い羊毛のよい毛ほど、

毛量の多い穂先が、きれいに鋭く作られている。

斉……というのは、穂先を平にしておしひろげたとき、毛の先、端がきれいに一直線にそ ろっていることである。その穂先が、羊毛なれば半透明にすけるほど、よい毛の筆という ことになる。

円……穂に水あるいは墨をふくませて、穂先・のど・腹・腰などが、うまく曲がったり、ねじ れたりするかどうか、ということである。のりでかためた筆に、腹や腰が、ふかふかする のがあるが、そんなのははじめから話にならない。

健……穂先・のど・腹・腰がバランスを保って、ほどよい弾力をもっているか、どうかという ことである。いわば、筆の総合的な健康判断のようなものだ18)

 尖は穂先が尖ってまとまりのあることであり、斉は穂先全体がよくまとまっていることであ り、円は穂先がきれいな円錐形であることであり、健は穂先はほどよく弾力があることである。

つまり、尖鋒であること、斉整であること、円熟していること、健全であること、この四つの 条件が兼ね備わっていなければ良筆とされていなかったことが明らかであろう。

〈弘法筆を選ばず〉

 「弘法筆を選ばず」という言葉は、弘法大師(空海)のような達人であれば、筆の可否は関係 なく、どんな筆でも書けるという意味で一般的に認識されることが多い。しかし、それは真意 と正反対である。弘法大師の文書によれば「良工ハ先ズソノ刀ヲ利クシ、能筆ハカナラズ好筆 ヲ用ウ19)」とあるように、筆を選ばべなければならないことを十分な自信を持って論じた。そし て、衛夫人は崇山の兎の毛を用いて筆とし、欧陽通(欧陽詢の子)は狸の毛を筆とし、古来能

18) 榊莫山『文房四宝 筆の話』(1981年初版、株式会社角山書店発行)206-207頁。

19) 「春宮献筆啓」『性霊集』第四巻。

(11)

書の人は、筆を選んで用いると説いている20)

 さらに、明朝の周顕宗によれば「筆を選ばずというは通論にあらざるなり21)」とあり、自らに 相応しい筆を選択することの大切さを論じている。そのため、中国の文人に対して、様々な材 質や太さ、大きさの種類の筆がある中に、自分の目的によって違う筆を選択することが重要で あると述べている。さらに、達人や名人と言われる人でも、筆に徹底してこだわっている人が 多いということも明らかになった。追求していることをいい加減な妥協が許さなく、そのこだ わりは「選択力」と言えるであろう。

1 - 2  中国の筆に対する日本の文人の理解について

〈筆の選択〉

 米芾(1051~1107)は「筆不可意者、如朽竹篙舟、曲筋捕物22)」と文人に対する筆の重要性を 論じた。また、謝在杭は次のように書体によって違う筆を選ぶ重要性を指摘している。

謝在杭云う。

王右軍用鼠毛鬚筆。想当苦勁。非神手不能用也。欧虞尚用剛筆。又云、要楷書正鋒、須是 純毫。又云、近以兔毫為柱、羊毫輔之。剛柔適宜。名曰巨细。然行書可用、楷非所宜。又 云、草書筆須柔、然過柔無鋒、近墨豬矣23)

 これによれば、王右軍(王羲之)は筆の毛の種類を重んじ、欧陽詢と虞世南は筆の毛の柔ら かさにこだわっているという。さらに行書、楷書、草書によって剛柔に適合する筆を使用する と説いている。この記述によれば、中国の文人が書体によって用筆を選ぶということが明らか であろう。

 江戸時代の書家である市川米庵(1779~1858)が、長崎に遊学した胡兆新(1746~?)に書 を学び、宋代の書家米芾や顔真卿(709~785)らの書を敬慕したことは、すでに多くの先行文 献で指摘されている。彼も清朝中国の復古思想の影響を受け、書体によって筆を異にした。具 体的に以下のように述べている。

20) 綾村坦園『文房四宝の基礎知識』(1985年、 光村推古書院出版)74頁。

21) 杉村勇造 永井敏男『文房四宝 筆』(1972年、淡交社出版)100頁。

22) 周密「筆の意に可ならざるは、朽竹の舟を篙し、曲筋の物を捕うるが如し」(『癸辛雑職前集』,宋末明初)。

23) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(1984年,初版第一刷,巻 1 ),115頁。

 「王右軍(王羲之)は鼠鬚筆を用う。想うに、当に苦だ勁かるべし。神手にあらざれば用うる能わざるな り。欧(欧陽詢)、虞(虞世南)、なお剛筆を用う」と。また云う。「要するに楷書正鋒には須らくこれ純毫 なるべし」と。また云う。「近ごろ兔毫をもって柱となし、羊毫もてこれを補う。剛柔、宜しきに適す。名 づけて巨細と曰う。しかれども、行書には用うべきも、楷には宜しきところにあらず」と。また云う。「草 書の筆は須らく柔くなるべし。しかれども、柔に過ぐれば鋒なく、墨猪(多肉で骨のない字)に近し」『五 雑組』巻一二、物部四

(12)

まず篆書は剛にして全禿のものを用い、隷はやや禿するものを用い、楷は純毫にて剛に近 き筆を用い、行はやや剛ならざるを用い、草は柔毫を用ゆ。行草は同筆にて書するも妨げ なし。ただ楷は、絶えてその筆にあらざれば不可なり24)

 なお、唐筆と和筆を比較し、唐筆のほうは墨を保ちやすいとも指摘している。なぜなら、唐 毫は、頭根が痩せて中肥えし、和毫は、根より頭に至るまで次第に痩せて細いという形状のち がいが原因となっているからである25)

〈筆の持ち方〉

 筆を使用するのには、持ち方が重要である。持ち 方の法は、図 1 が示している撥鐙法が最も良いと言 われる。宋朝の朱長文が編纂した『墨池編』による と「撥鐙五字訣」という持ち方のコツに関する記録 もあった26)

 撥鐙の字義について、初めて註解をなしていたの は宋の陳思による『書苑菁華』である。その著によ ると「鐙馬鐙也。蓋以筆管、著中指名指尖、令员活 易転動。筆皆既直、則虎口间、空員如馬鐙也。足踏 馬鐙浅、則易転運。手執筆管、亦欲其浅、則易於撥 動矣27)」ということである。その説について、米庵 は以下のように説明している。

これ、その解を得ずして(訳がわからないで)、

しいてその説をなす者なり。「撥」に「捩開す

る(ねじ開く)なり」「発(はなつ)なり」「去る(すてさる)なり」等の訓あり。馬鐙は、

足指を閣する(置く)者にして、捩開、発、去をなす者にあらず。陳思もまた、みずから 撥の字義、馬鐙において相渉らざる(馬鐙とは相通じない)ことをしる。ゆえに別に転運 の二字をもって馬鐙に属し、撥動の二字を執筆に属し、一の浅の字を襯し、錯綜して僅か にその説をなす。牽強付会(こじつけ)、その説の窮せること、論を待たずして知るべきな り。かつ、譬喩は近きに取るといえども、古人、あに、足指をもって手指の技に喩えんや。

24) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(1984年,初版第一刷,巻 1 ),115頁。

25) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(1984年,初版第一刷,巻 1 ),126頁。

26) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷,巻 1 ,1984年),25頁。

27) 陳繹曾『翰林要訣』元朝。

図 1

(13)

これ父母を犬馬に比すると同日の談なり。後世諸家の論書譜、相襲うて陳思が馬鐙の説を のせ、一言の疑いを容れざるは何ぞや28)

 米庵は馬鐙が、足指を閣する(置く)ものであって、捩開(ねじ開く)、発(はなつ)、去る

(すてさる)をなすものではないと分析していた。また、自ら二つの字義には相通ずるものがな いと知っていたにもかかわらず、別の二字を使って字義を表して誤りがあることは隠しながら、

自説の正しさを強調していたことを牽強付会だと指摘した。そして、米庵は足指をもって手指 の技に喩えることに反論した。さらに、陳思が馬鐙の説を家の論書譜に載せたが、誰もその説 の誤りに疑いを抱かなかったことを批判した。

 一方、米庵は楊升庵、董其昌、王虚舟等学者の説に賛成する。

 楊升庵(明の楊慎)は「鐙古燈字。夹按説文云、鐙錠也。徐鉉曰、錠中置蠋、故谓之鐙。今 俗别作鐙、非是。撥鐙、画沙、縣針、垂露、皆喻言。撥鐙如挑鐙、不急不徐也。杨铁崖与顧玉 山連句云、書出撥鐙侵蘭帖。可証其音読29)」と述べている。董其昌は「右軍有撥鐙法。伝於晋唐 諸名家。所謂口訣手授者。南唐李後主猶伝此法。余於徐季海三藏碑悟筆意。当於内擫留筆得之。

正自覔解人不可得30)」と報告している。また、王虚舟(清の王樹)は「後主撥鐙法、解者殊鮮。

所謂撥鐙者、逆筆也。筆尖向裏、則全勢皆逆。無浮滑之病矣。学者試撥鐙火、可悟其法31)」と述 べている。

 これによれば、撥鐙について、米庵は楊升庵の説であり、譬喩の表現方法で急ならず徐ろに 灯を持つという意味を主張していてる。さらに、董其昌、王虚舟等賛成する説を併考して、常 に門徒に秘訣を授けたこともわかる32)。一方、自ら誤りを隠蔽し、自説を押し通そうとしたこと を「牽強付会」といい、十分な根拠を持って反論していたことも明らかになった。

 以上のことから見ると、米庵は多様な漢籍と書論を熟読した。しかし、漢籍や諸説を単なる 受け入れだけではなく、字義から奥儀まで会得した上で、批判的な態度を持って分析しながら 自分の考えと意見をまとめていることもわかった。

2 .墨の場合

2 - 1  中国の墨について

〈良い墨の見つけ方〉

 墨は、磨られて消えてしまう宿命にあるものであり、その実体を掴むのが難しいところであ

28) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷,巻 1 ,1984年),27頁。

29) 楊慎『升庵全集』(巻63,撥鐙法条,1937年)。

30) 董其昌『容臺别集』(巻 4 ,1630年)。

31) 王樹『論書賸語』(巻 1 ,1966年)。

32) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷,巻 1 ,1984年),29頁。

(14)

る。墨の中では、一体どんな墨が名墨なのであろうか。その問題について、宋朝の詩人蘇軾は、

世人論墨多貴其黑,而不取其光。光而不黑固为棄物,若黑而不光,索然無神彩,亦復無用。

要使其光清而不浮,治湛如小兒目睛,乃為佳也33)

と冴えた美しい墨色を語っている。墨色の美しさは真っ黒ではなく、濃くても薄くても、透明 感がある黒さが良い墨色という。なお、その透明の光は、子供の目のように純粋であれば佳い 墨と言えると蘇軾が指摘している。

〈松煙墨と油煙墨〉

 明朝には、文徴明、祝允明、董其昌などの書家が輩出し、蘇州、杭州を中心に淅江文化が栄 えた。殊に万暦時代は、明末期にもかかわらず、文化の勢は凄まじく、これを受けて墨も名品 を生み出すようになった。

 宋時代までは、松煙墨が中心であったが、明時代に至って油煙墨となった。松煙墨は松の樹 脂の煤から作られ、油煙墨は主として菜種油の煤から作られるものである。松煙墨と油煙墨の 違いは、墨の磨り口を見比べると一目で知る。『文房四宝 墨の話』によれば、「油煙墨の磨り 口は、かなり美しい光沢が艶めいているし、松煙墨のほうは、ほとんど光を反射せずにどんよ り曇っているからである34)」と説明される。また、松煙墨は、油煙墨のような安定感がない。松 煙墨が磨っているとガリガリ音を立てて硯面を傷つけことがあるので気になる人は居る。そし て、松煙墨の煤は山深い地での採煤ゆえ、不純物も交えやすいので墨を作る人にも松煙墨は油 煙墨に一歩も二歩も譲るものであった。さらに、当時には、墨は黒ければ黒いほど、その黒さ を安っぽいという概念があった。そのゆえ、松煙墨のよさを知る人は少なくなった35)  一方、油煙墨は「煤の粒子が細かくて、しかもよく揃っているから安定感があり、硯で磨っ ていてもなめらかさを感じる36)」とあるように、松煙墨より、油煙墨のほうが硯で滑らかに磨れ るものであった。そして、『墨志』によれば、「松煙墨深重而不姿媚,油煙墨姿媚而不深重。37) と述べている。しかし、真に墨色を見極めて松煙墨を選んだ人はかなに少なくなった。その結 果、明時代になると油煙墨の需要が増加して主流となった。

33) 沈繼孫『墨法集要』(中華書局,1496年),61頁。

34) 榊莫山『文房四宝 墨の話』,(角山書店,1981年初版),82頁。

35) 榊莫山『文房四宝 墨の話』,(角山書店,1981年初版),82-84頁。

36) 榊莫山『文房四宝 墨の話』,(角山書店,1981年初版),83頁。

37) 沈繼孫『墨法集要 雪堂墨品 墨志 牋紙譜 漫堂墨品 金粟箋説』(中華書局,1496年),28頁。

(15)

〈和墨と唐墨の違い〉

 日本の墨は和墨といい、中国の墨は唐墨といい、文化風土の相違があったので、各々特色を 持つようになった。

 和墨と唐墨の相違点について、以下の表 2 の通りである。

表 2 :和墨と唐墨の違い38)

和墨 唐墨

墨色 黒々としていて素朴だが品位と深味に乏しい。 白光を帯びた黒味で素朴さに欠け、品 位と深味は持っている。

墨色の力強さ 新墨のときから墨色の力強さと厚味がある。 新墨のとき、墨色の力強さに欠け、古 墨になると力強さや厚味が出てくる。

暢び 暢びが悪い。墨を枯れさせねばならない。 暢びがよい。

にじみ にじみが悪い。墨が紙に浸透しにくいので古紙を

求める結果となる。 滲みが美しく、紙によく浸透する。

墨の寿命

寿命は短い。早々に分解する。悪いもので10年、

良いもので50年たつと大体炭素凝集が起こり、膠 の分解も激しくなり、墨色も汚くなる。古墨とし ての味がない。

寿命が長いから古墨としての力強さや 厚味が出、その上美しいにじむが出て 味も良い。

2 - 2  中国の墨に対する日本の文人の理解について

 中国や日本で、普通古墨といえば、中国の明清時代の墨を想起する人が多いかもしれない。

明朝には、程君房、方于魯、羅小華、呉去塵等墨作りの巨匠が多く輩出して、墨の歴史の黄金 期を創造した。彼らの工房で作られた墨は名墨といえるだろう。

 しかしながら、墨は摩って使うものであり、その機能は時間を経るたびに降下することは事 実である。そのため、使用後は墨の水気を十分に拭き取り、保存の場所は温度や湿度の変化が 少ない場所に保管し、冷房に当たるような所は避けなければならないが、それでなくても破損 を防ぐことは難しい。明朝に墨作りの巨匠として名高い程君房、方于魯の名墨でも、時間がた つと「湿気を含み、香気なきのみならず、墨色も灰色をなし、用うるに当らざるもの多し39) と、米庵が述べている。

 なお、「明墨、程君房、方于魯、その名高しといえども、今見るところ多くは贋造のもの40) とあるように、明朝には、名工の手による本物と寸分違わない倣造墨が作られることが多かっ た。そのため、墨を試みる法を得なければ真贋はわからない。墨を試みる法について、『古今秘 41)』試墨法によれば、「將各種墨、磨在退光漆器上、候乾放水盆内、於日中看之、与漆色無二

38) 松井茂雄『The 墨―墨は生きている(文房四宝 選び方使い方)』(日貿出版社,1983年),42頁。

39) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷発行,巻 3 ,1984年),419頁。

40) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷発行,巻 3 ,1984年),418-419頁。

41) 『古今秘苑』十五巻,書写者不明。

(16)

者上也。带青色者次之。带灰色者為下。高低雖極不等、大略不外於此42)」とあるように、退光漆 器の上に磨て、乾くと盆の中に置き、日中においてこれを見て漆の色と同じであれば上等であ る。この法に従って試みると江戸時代の古墨コレクターの米庵でも、いわゆる漆色と二なきも のは、僅かに、羅小華の龍柱墨、程君房の墨宝墨、葉向栄の龍九子墨、四丸のみであった43)。ゆ えに、米庵は「佳墨の得がたきこと、知るべし」と上等の古墨を得ることの難しさを慨嘆した。

 以上のことから、明墨のいかに名高い墨でも、百年も経てば、使う墨としての生命は尽きる ことがわかる。また、倣造墨も多かったので日本の文人にとって品等を見極めて良い古墨を入 手することが難しいことも明らかになった。

3 .紙の場合

3 - 1  中国の紙について

〈唐紙〉

 唐紙は広い意味で中国の紙ということである。しかし、狭い意味では竹の繊維を主にした質 のもろい宣紙ということである。また、唐紙は多様な種類がある。唐紙の種類について榊莫山は、

一番唐紙はきめの荒いざらざらの黄ばんだものだし、二番唐紙はやや肌のなめらかな黄色 紙で、毛辺紙とも呼ばれる。白い唐紙は白唐紙といって柔らかい宣紙である。江戸時代か ら日本にたくさんやってきて、更紗唐紙、紅唐紙、緑青唐紙、綸子唐紙などと、色や紋様 によっても、いろいろに呼ばれた。

「唐紙」と呼ぶのは、そうした美しい紋様と色彩のある中国の紙を総称し、おもに襖をはる のに用いられた。

といっている。したがって、荒い唐紙は一番であり、なめらかな毛辺紙は二番である。なお、

江戸時代から色や紋様によって多様な唐紙が日本に輸入された。そのゆえ、唐紙ということは 綺麗な紋様と色がある中国の紙の呼び方になった。

〈明清時代の宣紙〉

 宣紙は宣城で造られたから宣紙という。宣城は、安徽省の南の方にある古く美しい聚落であ る。安徽省にわずかに生育する樹の「青檀」という樹皮の原材料とする宣紙は、繊維が細く、

やや軟らかいので密度の高い、滑らかな紙質を特徴とする。

42) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷発行,巻 3 ,1984年),419頁。

43) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷発行,巻 3 ,1984年),419頁。

(17)

3 - 2  中国の紙に対する日本の文人の理解について

 紙の中で、米庵は苔紙を好んだ。苔紙は側理紙ともいう。『七経孟子考文44)』を美濃紙で印板 されたが、刊刻された『七経孟子考文』の序文の中には「苔紙をもって印板す」とあり、苔紙 は美濃紙を指すことがわかる。苔紙は剛緊ゆえ喜ぶ人は多い。米庵は特に苔紙を好むことを次 のように述べた。

一体、この方の紙製は、剛緊ゆえ、かの方の人多くこれを喜べり。この方の紙にも数十品 あり。平常用ゆる中にも、大奉書は瑩白厚軟にて、楷行ともに佳なり。余はこれを好み、

かつて戯れに膠水へ白粉を和調し、淡く刷し、砑光して小楷を書するに、光滑にしてもっと も佳なり。ただ、大幅なきことを惜しむのみ。近日製する雁皮紙も、薄緊にして愛すべし。

 大奉書は厚くて柔らかく、楷書や行書を書くことが絶佳である。また、白粉を刷されてて滑 らかになる。苔紙の類に数十品あるが米庵は大奉書にて楷書や行書を書くことが好まれる。

4 .硯の場合

4 - 1  中国の硯について

〈良い硯の見つけ方〉

 『文房四宝 硯の話』によれば、「硯の王者の条件は、この鋒鋩の立ちぐあいと不老の性質の ありやなしや、を第一とする。そして石の色とか紋様、彫りのぐあいや全体の姿など、第二、

第三の条件はつづくのだ。45)」とあり、良い硯の条件を述べている。鋒鋩とは、硯の表面にある、

実際に墨を磨って確かめるが目には見えないほどの大きさの凹凸のこと。時間経っても石の質 が変わらないが墨を磨れば鋒鋩が衰えていて老化することがある。そのため、硯を選択する場 合に、まず確認するのは鋒鋩であり、続いては色と紋様であり、最後は彫りと姿である。

〈端渓硯〉

 周知のように、唐硯の名硯の中で最高峰と言われるのが端渓硯である。端渓硯譜に「色は青 紫ヲ貴ブ、乾ケバ灰蒼色、潤エバ青紫色……46)」とあるように、やや青色がある紫を持つ、いわ ゆる青紫色の端渓硯は佳品である。一方、「端渓ノ石ノ肌ニハ、子供ノ肌ヲ撫デルヨウナ感触ガ アル47)」とあり、端渓の表面は子供の肌のような滑らかな潤いがあると述べている。しかしなが ら、端渓の表面にある強い鋒鋩は磨滅しにくいので、触るとなめらかな触感である可能性は高く

44) 山井鼎『七経孟子考文』(1731年)。

45) 榊莫山『文房四宝 硯の話』,(角山書店,1981年初版),46頁。

46) 榊莫山『文房四宝 硯の話』,(角山書店,1981年初版),71頁。

47) 榊莫山『文房四宝 硯の話』,(角山書店,1981年初版),72頁。

(18)

ない。それより、見れば子供の肌のような柔らかい感じになるが使えば硬い石だと考えられる。

〈唐硯と和硯〉

 唐硯は中国産の硯であり、和硯は日本産の硯である。中国と日本では風土はかなり異なるの で、採取できる石の色や模様も変わってきて、硯に細かな違いが出るのが当然である。

 唐硯には四大名硯と呼ばれる硯が存在する。四大名硯が代表的な唐硯としていくつか有名な 和硯と比べられ、各々の特徴を明らかにする。その結果、以下の表 3 のように示している。

表 3 :唐硯と和硯の比較 中国の四大名硯

名前 産地 特徴

端渓硯 広東省 鋒鋩の粒子が均一で細かい。紋様も多彩。

歙州硯 江西省 端渓硯と並ぶ名硯。とても硬くて紋様が綺麗。

洮河緑石硯 甘粛省 端渓硯にも劣らないほど墨の発色がいい。ほぼ絶滅。

澄泥硯 山西省 石製の他に泥を固めて焼いたものもある。

主な和硯

名前 産地 特徴

赤間硯 山形県宇部市 赤みを帯びた紫色、茶色。

雄勝硯 宮城県石巻市 黒、暗い藍色。端渓硯と似た質を持つ。

雨畑硯 山梨県早川町 石の粒子が細かく墨が磨りやすい。

土佐硯 高知県幡多郡三原村 青黒い。金星という紋様も見られる。

4 - 2  中国の硯に対する日本の文人の理解について

 端渓硯は中国広東省広州にある端渓と呼ばれる谷川から採掘された石を使用された硯である。

唐代からこの石を使って硯が作られるようになり、明朝にかけて量産されるようになった事で その品質の高さから有名となった。その頃には、日本に渡って来た端渓硯の資料も残っている。

江戸時代における「この方へ渡来の端渓石硯と称するものはなはだ多く48)」とあり、日本に輸入 した端渓硯の品類は多かったことを示している。

 では、多様な種類の中で一体どんな端渓石硯が良いのか。つまり、どのような方法で端渓石 硯を鑑定するのか。これについて、米庵は以下のように書いている。

端渓に、旧坑、新坑および上巖・中巖・下巖ありて、水巖、文珠巖、屏風巖、朝天巖など名 づけ、「上巖石、扣之無声、一呵生水、磨墨亦无声、索々有锋芒(上巖石、これを扣けば声 なく、一呵すれば水を生じ、墨を磨るもまた声なく、索々として鋒芒ある)」を上品とす、

48) 市河米庵『米庵墨談 正・統』(初版第一刷発行,巻 3 ,1984年),424頁。

(19)

と。これ、水巖に生じてつねに潤気を含むゆえなり。

 ここからもわかるとおり、石によって叩いて出る音は違う。叩く音がなければ墨を磨る時に 音もないという。叩けば音がなく、一呵すれば水を生じる上巖石は上品であることを示してい る。そして、水巖の中に潤気を含むのでこの方法で判断するという。

 一方、端渓石の色で判断する方法もある。朱彝尊が編纂した『説硯』によれば「上巖者、質 純而艷、微紫。中巖者、質潤而凝、色漸青。下巖者、質淡而細、色近白」とあり、端渓石の質 によって色も違うことが明らかになった。その中に、質が純にして艶もある紫のは上巖者であ ることがわかる。朱彝尊の説について、米庵は、

さて、この方所見の中に、旧来のものは、まま古色隠然として、潤を含んで佳なるものあ り。されども、真の端産なるや知るべからず。新来は紫色灰白にて潤色なし。端石とは思 われず。

と述べている。米庵は潤いのある佳品でも、産地が確定できないので真の端石と確定できない ことを説明した。なお、その時期に、端渓硯と称えされるものは多いが、贋作もあったと推測 される。

おわりに

 江戸時代において、日本に来航した唐船の積荷内容を検討してみると、文房四宝が輸入され ていたことが知られる。中国からの輸入品を通じて、明代後期以降の商品経済の飛躍的発展に より商品を海外に搬出していた中国の経済力の一端を見ることができるであろう。

 他方、当時の日本が中国の精巧な製品を多く受容していたのは、戦国末期から江戸時代初期 にかけての日本社会が社会経済的に成熟した江戸時代の中、後期に比べると、なお産業構造が 未成熟の階段にあったことを反映していると考えられる。

 明清時代は、文化において豪華絢爛を示し、文房四宝の文化も生み出した。当時、中国の文 人は筆のこだわりに妥協せず、最も自分に相応しい筆を選択する。また、米庵は中国文化の影 響を受けて書体によって筆を選ぶことになった。しかし、中国文化に対して米庵はすべてを受 け入れたのではなく批判の意識を持って分析しながら自分の意見を記している。

 明の墨の特徴は宋時代までは松煙墨が中心であったが、油煙墨となり、中でも程君房、方于 魯が名工の代表で、歙州を中心にして一大製墨地帯が現れるようになる。だが、当時は墨匠の 倣造墨が多くて、米庵は上等の古墨を得ることの難しさを感慨している。

 端渓石は四大名硯の最高峰といわれる。しかしながら、産地が確認できない端石も多い。

(20)

 最後に、日本の博物館に所藏される文房四宝の実物は多い。たとえば、大阪市立東洋陶磁美 術館所藏の紅花緑葉筆管、正倉院に宝蔵されている有名な青斑石風字硯、河内の道明寺所蔵の 天満宮白磁円面硯、東京国立博物館所藏青山杉雨旧蔵玫瑰紫澄泥石長方硯など。これらの実物 はどのような流通過程を経て博物館の所藏品に帰したのであろうか。文房四宝の流通過程に関 する問題は今後の課題として研究していきたい。

(21)

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