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書 評
三谷邦明著
﹃源氏物語の方法
︿もののまぎれ﹀の極北﹄
長谷川 政 春
本書は︑著者の三谷邦明さんが去年の九月三日に六十六歳で亡くなったので︑本人自身の手になる最後の著書である︒
その﹁はしがき﹂には︑
あの挫折した六〇年安保闘争に参加して到達した地平を︑原風景の原野として︑もう一度俯瞰して︑源氏物語という高原の野草を詳細に観察しながら独りで歩いてみたいと︑本書では思ったのである︒現在の諸状況に対する不満と抵抗が︑本書を書く原点にならなければならないと考えたわけである︒とある︒また﹁あとがき﹂の冒頭には︑
絶望︑本書はこの言葉から始まった︒この感慨は︑勤めている大学が公立大学法人に改変されたこと等という︑外的な要素もさまざまに関わっていたのだが︑内的には︑現在の源氏物語の批評と研究に︑勝手だと言われるだろうが︑苛立っていたからである︒と記されている︒﹁批評や研究が︑同時に読みと思考の快楽であり︑時代状況に対する反抗・抵抗でなければならないと考えてい た当時﹂の著者は︑﹁書くこと﹂をキー・ワードに物語文学研究を開始したが︑その結果︑﹃源氏物語﹄の到達点に﹁絶望﹂を見ることとなり︑同時に自身においても﹁絶望﹂の境地だというのである︒ いささか長い前書きとなったが︑本書は著者の他の著書と異なる情調をもつ︑良い意味でも悪い意味でも著者の肉声があらわになっている︒また︑著者の言によれば︑最初の﹃源氏物語﹄の論文は藤壺事件を扱った﹁澪標巻における栄華と罪の意識│八十嶋祭と住吉物語の影響を通じて│﹂︵一九六五年︶であったという︒本書はどこか一つの区切りの趣をもっているようだ︒その上に︑これまでの︑﹃物語文学の方法Ⅰ﹄および﹃Ⅱ﹄︵一九八九年︶︑﹃物語文学の言説﹄︵一九九二年︶︑﹃源氏物語の言説﹄︵二〇〇二年︶など一瞬の停滞もなく論じられて来た物語理論の実践あるいは方法が︑本書に集約されているように考えられる︒物語とは何か︑物語文学とは何かを追究し続けてきた著者は︑一貫して自身の﹁物語学﹂を目ざして走り抜いてきた︒その姿勢は︑前著の後書き︵﹃物語文学の言説﹄︶で明確に述べているところである︒﹁私の方法﹂は﹁体系的な﹂物語理論の﹁構築を拒否し﹂︑﹁テクスト・言説に開かれており︑他者の読みを﹂容認するもので︑﹁︿解釈のアナーキズム﹀と言ってもよい﹂ものであった︒しかし︑その読みは﹁他者との熾烈な争闘なしに産み出せなかったことも事実である﹂︒この著者の認識には︑﹁︿読者﹀︿批評家﹀︿研究者﹀という主体を経過しない︿読み﹀など存在しないのであって︑その場合には︑主体の視座が︿読み﹀を決定する﹂という確信が根底にあっての
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ことであった︒
さて本書は︑副題が示す通り︑﹃源氏物語﹄の全体を貫き通す﹁主題的内容﹂である︿もののまぎれ﹀︑具体的には第一部の藤壺密通事件・第二部の女三宮密通事件・第三部の浮舟密通事件のことであるが︑それが﹁王権批判﹂︑さらに﹁貴族社会批判﹂︑さらにまた﹁差別批判﹂へと進展していることを︑著者のそれまでの物語理論あるいは︿読み﹀の方法││言説分析や深層分析や他者分析などの総動員によってあぶり出している︒殊に﹁深層分析﹂﹁他者分析﹂という方法は︑本書における際立ったものである︒その構成を以下に示す︒ただし︑各章の副題は省略︒第一部 藤壺事件││情念という中心第一章 光源氏における無意識の始点第二章 光源氏という︿情念﹀第二部 女三宮事件││狂気の言説第一章 若菜上巻冒頭場面の父と子第二章 若菜上巻冒頭場面の光源氏の欲望第三章 若菜巻冒頭場面の紫上の沈黙を開く第四章 暴挙の行方・︿もののまぎれ﹀論︵一︶第五章︑第六章は右の︵二︶と︵三︶第三部 浮舟事件││閉塞された死第一章 閉塞された死という終焉とその彼方︵一︶第二章︑第三章は右の︵二︶と︵三︶
これらの元になった論考は︑一編を例外として他はすべて二〇 〇二年から二〇〇五年にかけて﹃横浜市立大学論叢・人文科学系列﹄の誌上に発表されたものであって︑言わば著者が集中して追究していたテーマによって統一されていたことが判る︒そして︑前掲の構成が物語るように︑藤壺事件は光源氏の無意識裡の﹁情念﹂の成せる業であり︑女三宮事件は若菜巻冒頭場面の関係者たちの思惑と密通へと駆り立てた柏木の﹁狂気﹂が掘り起こされるのであり︑浮舟事件は死へと誘われながらもその死すら閉ざされた果てに一瞬到達した﹁終焉の彼方﹂を語るものとしてある︒ このように説明をしてくると︑すでに﹃源氏物語﹄研究においては︑あるいはこの物語の内容を熟知した者には当然過ぎるほどのことと理解されてしまうかもしれない︒しかし︑本書で論じられていることは︑著者の言葉を借りれば︑﹁なにが描かれているか﹂よりも﹁どのように描かれているか﹂が最も肝要であって︑著者が研究の当初から一貫して論じてきた﹁書くこと﹂﹁エクリチュール﹂﹁テクスト分析﹂﹁言説分析﹂などによって新たに開かれてくる︿読み﹀の世界である︒たとえば︑次のような論述である︒
源氏物語は︑第二部の言説の深層・底部においても︑さまざまな方法・手立てを動員しながら︑第一部の︿一部の大事﹀つまり藤壺事件という禁忌違犯の物語を継承していることを読み取ることが出来るのであって︑源氏物語は︿書くこと﹀を通じて︑底辺・暗礁・深層には︿一部の大事﹀を抱えながら︑その︿もののまぎれ﹀=密通を表層で反復したように装いながら︑それをずらし︑差異化し︑脱構築化︑解体化する
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ことによって︑新たに紡ぎ出した柏木と女三宮の密通事件という︿もののまぎれ﹀を言説化することで︑古代後期︵中世
初期︶最初期の律令国家体制以後の︑血統に支えられた貴族社会=王朝国家=摂関政治という︑制度・秩序・体制の根拠・礎石・基盤にまで︑疑問を投げかけるまでに成長していたのである︒︵二四五〜六頁︶
物語において三度も︿もののまぎれ﹀が反復されるなかで︑その主題的内容は変容してゆくのであり︑右はその一度目から二度目への変容を捉えたものである︒また︑社会に対する異議申し立てをも読み取っているのである︒
著者は︑この三つの︿もののまぎれ﹀の底部に蠢くものとして︑光源氏における﹁不在の母﹂という﹁永続的に希求しつづける情念﹂を︑柏木における﹁皇族という血﹂の﹁不在﹂による﹁衝動﹂を︑浮舟における﹁上流貴族社会から排除・差別された身分的存在﹂ゆえの﹁貴顕でありながら貴顕が︿不在﹀であること﹂による﹁無意識﹂的衝動を捉えてみせる︒そして︑その光源氏の﹁不在﹂の情念は︑自分をその情愛で︑死後までも背後霊のように守護している母を致死せしめたのが父桐壺帝であるという観念ゆえに︑母に対する絶大な憧憬と︑父に対する激しい憎悪の無意識的な衝動の生成になる︵二七〜八頁︶︒﹁この憧憬と憎悪のエディプス・コンプレックス﹂が﹁母に類似した藤壺への性愛的欲望へと昇華し︑父親桐壺帝に対する殺人願望という義母との密通に至る︑光源氏の無意識を形成して行った﹂と論じてゆく︒
その他に本書で注意してよいことは︑女三宮事件に絡んで︑﹁皇 女零落譚﹂を浮き彫りにしていることである︒なるほど︑落葉宮や女三宮など︑朱雀院の皇女たちは︑その﹁主題的内容﹂を孕んだものであったと納得させられる︒また︑浮舟の﹁自己でありながら自己でないという︑背反する実存のあり方﹂というのも刺激的な読みであり︑私一己の思いとしては︑第三部の浮舟事件の考察が難解でありつつも最も興味深いものであった︒たとえば︑著者は︑言う︒浮舟はあらゆる関係を絶ち︑﹁人間のいない︑虚空の中で意識のみが漂っている不可解な宇宙世界﹂の住人となり︑この﹁救済を一切拒否している虚無の世界こそが︑源氏物語というテクストが到達した絶望﹂だ︵二八五〜六頁︶と︒
三谷さんの手になる﹁物語学﹂は︑疾風怒濤という感じであった︒また︑これだけ徹底した言説分析︑殊に本書では﹁深層分析﹂﹁他者分析﹂が駆使されていて︑痛快とさえ思えるものであった︒悲しいながらも︑完結した三谷物語学の本書の一読を多くの文学研究者に勧めたい︑と思う︒
なお︑本書の最後に附載論文﹁源氏物語と二声性││作家・作者・語り手・登場人物論あるいは言説区分と浮舟巻の紋中紋の技法││﹂が収められていることを付記しておく︒著者の﹁今﹂の関心事であり︑これと﹁対になる読者論を執筆したいと考えている﹂とも記している︒もうそれを読むことができないことを感じ入る次第である︒
︵二〇〇七年四月 翰林書房 A5判 四六二頁 税込一〇二九〇円︶