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古代物語のリアリティ : 『源氏物語』「末摘花」巻の方法

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古代物語のリアリティ : 『源氏物語』「末摘花」

巻の方法

著者

奥村 英司

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

53

ページ

1-15

発行年

2016-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000281

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

(2)

古代物語のリアリティ 一

古代物語のリアリティ

──

『源氏物語』

「末摘花」巻の方法

──

 

 

 

『 源 氏 物 語 』 に は 多 く の 脇 役 的 な 人 物 が 登 場 す る が、 そ の 中 に は 継 続 的 に 登 場 す る 者 も あ れ ば、 ご く 短 い 描 写 の み で 終 わ る 場 合 も あ る。 「 末 摘 花 」 巻 に 登 場 す る 大 輔 命 婦 は、 光 源 氏 の 乳 母 子 と い う 位 置 づ け な が ら、 源 氏 と 末 摘 花 と の橋渡しをすることで姿を消す、特定の役割のみを負わされた人物と見ることもできるが、その人物設定は詳細であ り、背後に書かれざる物語を想起させもする。 単 な る 物 語 の 展 開 に 関 わ る だ け で は な い、 脇 役 的 な 人 物 の 意 味 を 見 出 す こ と が で き な い だ ろ う か。 「 末 摘 花 」 巻 の 特殊性を考察しつつ、物語の本質に関わる問題を発見してゆきたい。 「 末 摘 花 」 巻 頭 で は、 光 源 氏 が 亡 き 夕 顔 の 面 影 を 忘 れ ら れ ず、 夕 顔 に 代 わ る 女 性 を 探 し て い る こ と が 述 べ ら れ る。 本巻は、直接的には「夕顔」巻の後日譚として語られるのである。

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二 いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人のつつましきことなからむ、見つけてしがなと懲 りずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと思しよ るばかりのけはひあるあたりこそ、一行をもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるはをさをさ あるまじきぞいと目馴れたるや。 ( 注 1 二五六㌻) 複 雑 な 文 脈 で、 光 源 氏 の 夕 顔 へ の 執 着 が 語 ら れ る の だ が、 「 こ と ご と し き ~ な か ら む 」 ま で は、 そ の 夕 顔 の よ う な 世 間 に 知 ら れ ぬ、 か わ い ら し く て 気 心 の 知 れ た 女、 と い う こ と で あ り、 「 懲 り ず ま 」 と は、 語 り 手 が 光 源 氏 の 執 着 ぶ りを揶揄した言葉であろう。現行の巻序に従って読んでいる読者からすれば、前巻の「若紫」巻で展開された藤壺と そ の 姪 若 紫 へ の 執 着 ぶ り の 裏 面 で、 夕 顔 の よ う な 取 る に 足 ら ぬ 女 へ の 執 着 が 語 ら れ る こ と に 違 和 感 を 覚 え る だ ろ う。 「 懲 り ず ま 」 と は、 そ う し た 光 源 氏 の 色 好 み と し て の 特 異 性 を 端 的 に 評 し て い る の で あ り、 論 理 や 計 算 を 超 え た 制 御 不能の欲望の現れとしての執着、ということになるのだ。 続いて、 「すこしゆゑづきて聞こゆるわたり」と、世間で少しでも話題に上る女性に対して、 「御耳とどめたまはぬ 隈 な き 」、 一 人 も 漏 ら す こ と な く 注 視 し て い る、 と い う 熱 心 さ は、 「 懲 り ず ま 」 と 対 応 し て い る。 か つ て、 「 さ し も あ だ め き 目 馴 れ た る う ち つ け の す き ず き し さ な ど は 好 ま し か ら ぬ 御 本 性 」( 帚 木 ) と、 軽 々 し く あ り ふ れ た 女 性 関 係 に は関心を持たないとされた光源氏にとっては、そうした女性達に文の一本も送れば「なびききこえずもて離れたる」 、 言 う な り に な ら ず 距 離 を 置 く よ う な 女 性 は 滅 多 に な く、 ま た そ う し た 女 性 に 対 し て 深 く 執 着 を 持 つ こ と は な い の だ。 ここで読者は、自身に光源氏から文を送られる様を想像し、光源氏を拒むことのできない女性達に共感を覚えるかも し れ な い。 だ が、 文 末 に「 い と 目 馴 れ た る や 」 と 置 か れ る こ と で、 そ う し た 甘 い 感 傷 は あ っ さ り 打 ち 砕 か れ て し ま う。

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古代物語のリアリティ 三 「 目 馴 れ た る や 」 と は、 語 り 手 の 批 評 で あ り、 同 時 に 光 源 氏 の 感 慨 と 見 る こ と も で き る。 語 り 手 は、 い と も 簡 単 に 光源氏の術中に落ちる女性達を凡庸だと批判するとともに、そうしたありきたりの関係は深く語る必要もない、と言 っているのであり、いわば物語を語る視点を含んだ言葉でもある。同時に、ここで光源氏が求めているのは、夕顔の よ う な 非 日 常 の 領 域 で の 女 性 関 係 で あ り、 「 目 馴 れ た る 」 関 係 を 欲 し て い る わ け で は な い、 と い う 登 場 人 物 の 感 慨 と もなっている。これは、後に末摘花が、光源氏の文に全く返答しようとしないことを先取りしている、という物語の 展開上の伏線ともなっている。 こ こ で、 現 代 の 読 者 な ら、 末 摘 花 が ど の よ う な 女 性 で あ る か、 あ ら か じ め 予 備 知 識 を 持 っ て 読 む 事 に な る だ ろ う が、 全 く 予 備 知 識 な く 初 め て こ の 巻 を 読 む 読 者 な ら、 「 目 馴 れ た る 」 も の で は な い 新 た な 女 性 関 係 の 予 感 に 期 待 し つ つ先を読み進めることになるだろう。そのような意味でも、この部分は語り手が、光源氏の夕顔への執着を揶揄・批 判 し つ つ、 凡 庸 で は な い 女 性 関 係 の 到 来 を 読 者 に 予 感 さ せ る、 と い う 作 者 的 な 視 点 も 取 り 込 ま れ た 表 現 に な っ て い る。 物語世界に耽溺させるための、謎かけと謎解き、という構造は、この巻前半の一つの特徴とみることができる。そ こに、複雑な文脈の中に複数の視点を織り込むという、該当箇所の特質が大きな効果をもたらしているということに なろう。こうした、複層的な視点を重層的に盛込むことが可能なのは、物語の語り手という存在の曖昧さによるもの であろう。 「いと目馴れたるや」は、一時的には語り手の主観を述べたものであり、 「と我(=語り手)は思ふ」といった語句 が省略されているとみられる。だが、ここでいう一人称の「我=語り手」は、実際には物語中に実体として登場して いるわけではない。 「懲りずま」 「目馴れたる」と批評する主体や、 「ほのめかしたまふめる」 「あるまじき」と推量す

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四 る 主 体 を、 説 明 上 語 り 手 と 呼 ん で い る に す ぎ な い。 前 述 の よ う に、 読 者 の 共 感 や 主 人 公 の 感 慨 を こ こ に 読 み 取 る の は、 読 者 の 読 み の 問 題 で あ っ て、 自 明 で は な い か ら そ こ に 異 論 も 生 ず る こ と だ ろ う。 そ も そ も、 文 学 作 品 を 読 む と は、そのような読者の個別的な行為であって、万人が同一の読みを受容する必要がないことは言うまでもない。 従って、ここでは、該当箇所の解釈ではなく、読者にそうした多様な読みを触発する表現のありようを考察してみ た い。 こ の 一 文 は、 「 い か で ~ 思 し わ た れ ば 」 ま で が 光 源 氏 の 心 中 を の べ、 そ こ に「 懲 り ず ま 」 と い う 評 言 を 挟 み 込 み、 主 人 公 の 心 情 に 即 し な が ら そ の 執 着 の 異 常 性 を 相 対 化 す る。 「 夕 顔 」 巻 を 通 過 し て き た 読 者 な ら、 光 源 氏 の 執 心 に共感を覚えずにはいられないが、それがここで阻害されることになる。いつまでも夕顔のような身分の低い女にこ だわるべきではないのか、と言うように。続く記述「すこしゆゑづきてきこゆる」の「ゆゑづく」とはいささか抽象 的 な 言 い 回 し で あ る。 そ も そ も、 「 こ と ご と し き お ぼ え 」 の な い、 中 の 品 の 女 を 探 そ う と 言 う の で は な か っ た か。 前 述 の よ う に、 あ り ふ れ た 女 性 関 係 に は 関 心 が な か っ た 光 源 氏 が、 「 御 耳 と ど め た ま は ぬ 隈 な き 」 と い う の は 宗 旨 替 え をしたのかとも思われる。そのように世間の噂を頼ってみても、夕顔のような女との出会いがあり得ないのは自明の 事だ。推量を交えず、断定的に語ってきた語り手が、 「ほのめかしたますめる」 「をさをさあるまじき」と、推量によ って事態と距離を置いた表現をするのことで、そうした読者の感慨は助長される。かくして我々は語り手に操作され るように、理想の女を求めつつ、その道程が困難であることを知らされることになる。

光源氏と末摘花とを結びつける人物として登場するのが、大輔命婦である。 左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるがむすめ、大輔命婦とて、内裏にさぶらふ、わかむどほりの兵部

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古代物語のリアリティ 五 大輔なるむすめなりけり。いといたう色好める若人るてありけるを、君も召使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻 にて下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。(二六六㌻) 大 弐 の 乳 母 は、 「 夕 顔 」 巻 で、 夕 顔 の 女 の 隣 家 に 住 ん で お り、 光 源 氏 と 関 係 を 持 つ 契 機 と な っ た 人 物 で あ る。 こ こ で 新 た な 乳 母 が 登 場 し、 そ の 娘 が 光 源 氏 に 末 摘 花 の 存 在 を 知 ら せ る の は、 「 夕 顔 」 巻 と の 対 照 を 意 識 し て の こ と で あ ろう。もっとも、この乳母は筑前守と再婚してすでに都を離れており、命婦の父兵部大輔が、故常陸守と何らかの関 わりを持つ、皇族の血を引く人物なのだという。ところが、その関わりは本文中には明確にされない。 父の大輔の君は、ほかにぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の あたりを睦びて、ここには来るなりけり。(二六六㌻) 父の大輔もまた再婚しており、常陸宮邸には時々通うだけであるが、命婦は継母との同居を嫌い、姫君の所によく やって来る、というのである。物語の展開上必要なのは、命婦と末摘花との関わりであるはずだが、肝心の大輔と常 陸宮との関係は明示されず、物語と直接関係のない、両親がそれぞれ再婚して複雑な家庭環境にあるという命婦の事 情が詳述されるのである。本居宣長は、 『源氏物語玉の小櫛 』 注 2 で、 「これも常陸親王の御子にて、末摘花君の御せうと の 如 く 聞 え た り 」 と 推 測 し て い る が、 そ れ を な ぜ 物 語 が 明 記 し な い の か わ か ら な い。 「 た し か に 然 い へ る 文 も な く、 また末摘花の御身のたづきなき事どもなどいへるなかに、蓬生巻に、まれにも訪ひくる人は、御せうとの禅師の君の み な る よ し 見 え て 」 と、 宣 長 も そ の 点 を 不 審 に 思 っ て い た。 し か も、 「 諸 抄 に、 か つ て そ の さ だ な き も、 又 い か に ぞ や」と、それ以前の注釈では問題にされていない点も指摘している。宣長の注釈がいささか理屈めいているというこ ともあるだろうが、ここに「末摘花」巻の方法をみてとることができる。物語の展開上必要な情報は提示せずに、直 接関わらない部分の記述を厚くする。これを、物語全体では挿話的な位置づけであるこの巻で実験的に展開したとみ

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六 られるであろう。 この巻には、直接物語の展開に関わりない人物の記述がある。左大臣邸に仕える中務の君という女房についてのも のである。 中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御気色のなつかしさ をば背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮などもよろしからず思しなりにたれば、もの思はしくはした なき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所にかけ離れなむも、さすがに心細く思ひ乱 れたり。 (二七四㌻) 中務の君は、光源氏の「召人」の一人で、頭中将から思いを寄せられているのを拒否して、たまに訪れる光源氏を 待ち続けているために、頭中将の母大宮からも不快に思われている、というのである。ここでは、常陸宮邸で末摘花 の琴を聞いて帰ってきた光源氏と頭中将が、中務の君の弾く琵琶から、末摘花の琴を連想し、ひいてはその人となり を想像する、という場面に連接していくのだが、居づらさを感じながらも光源氏へのかすかな期待から左大臣邸を離 れることが出来ず、物思いにふけっているという中務の君の心情は二人に伝わることはない。決して表面化すること のないこの苦悩は、読者に一定の印象を残しつつ、物語の奥底に沈潜していく。 こ う し た 挿 話 的 な 人 物 と し て は、 「 花 散 里 」 巻 で、 光 源 氏 が 立 ち 寄 っ て 案 内 を 請 う も の の、 黙 殺 さ れ る と い う 場 面 の 無 名 の 女 が あ る が、 こ う し た 物 語 の 主 筋 に 関 わ ら な い 人 物 の 存 在 が、 物 語 世 界 に 奥 行 き を 与 え て い る、 す な わ ち 「 書 か れ ざ る 部 分 」 が「 書 か れ た 部 分 」 を 支 え て い る、 と い う 物 語 の 方 法 3 と い う こ と に な る。 だ が、 そ の 一 方、 全 く 書かれないことは物語世界には存在しないのであり、またどんなに重要な場面であっても、そのすべてを記述しつく す と い う こ と は で き な い。 そ こ に あ る の は、 記 述 の 量、 ま た は 濃 淡 で あ る。 わ ず か 数 行 だ け 記 述 さ れ る 中 務 の 君 も、

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古代物語のリアリティ 七 ここに記述されることでたしかに物語世界に足跡を残す。物語に直接関わりのないような命婦の家庭の事情も、主筋 に関わりないという理由で切り捨てられることはない。常陸宮家と兵部大輔との関わりは、話の筋道から言えば説明 さ れ る べ き だ が そ う な っ て い な い。 そ れ は 作 家 の 未 熟 で は な く こ の 巻 の 方 法 な の だ。 そ の 点 を 更 に 掘 り 下 げ て み よ う。 前 述 の よ う に、 「 末 摘 花 」 巻 は、 前 々 巻 の「 夕 顔 」 巻 を 意 識 し て 書 か れ て い る。 そ の 象 徴 が 乳 母 で あ る 大 輔 命 婦 の 存在なのだが、巻の中程で、光源氏が「紫のゆかり」を引き取ったという前巻「若紫」巻を受けた記述があり、いっ こうに常陸宮邸に通う気配のない光源氏を責める場面を引く。 あ り さ ま 聞 こ え て、 「 い と か う も て 離 れ た る 御 心 ば へ は、 見 た ま ふ る 人 さ へ 心 苦 し く 」 な ど、 泣 き ぬ ば か り 思 へ り。心にくくもてなしてやみなむと思へりしことをくたひてける、心もなくこの人の思ふらむをさへ思す。正身 の、ものも言はで思し埋もれたまふもいとほしければ、 「暇なきほどぞや、わりなし」とうち嘆いたまひて、 「も の思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」とほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もう ち笑まるる心地して、わりなの人に恨みられたまふ御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむもことわりと思 ふ。 (二八八~二八九㌻) 女房にとって、主人たる姫君の結婚は重大な意味を持つ。ましてや、親を亡くした姫君が、ようやく光源氏のよう な 相 手 と 結 ば れ た の だ か ら、 一 晩 訪 れ た だ け で そ の 後 全 く 通 う 姿 勢 を 見 せ ぬ 光 源 氏 へ の 失 望 は 計 り 知 れ な い。 「 見 た まふる人さへ心苦しく」は、命婦がそうした女房達の心情を代弁した言葉である。だが、この命婦という人物の立場 は微妙である。常陸宮邸に出入りはしているが、女房という立場ではなさそうだ。仮に女房だとしても、命婦という 自立した地位があるのだから、末摘花の結婚は生活に関わる切実な問題、というわけではない。一方で、光源氏とは

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八 幼 少 か ら の 関 係 が あ る 注 4 の だ か ら、 末 摘 花 の よ う な 醜 女 を 強 く 薦 め る こ と も で き な い。 「 心 に く く も て な し て や み な む と思へりし」とは、光源氏と末摘花がある距離以上に接近することを望まなかった、という命婦の本心である。 この後、文脈は「この人の思ふらむをさへ思す」と、敬語を用いることで光源氏の心情に転じる。光源氏が命婦の 心情を知るはずもないから、この文章の展開はいささか強引だが、命婦が真剣に自分と末摘花とを結びつけようと解 し た か、 命 婦 の 心 情 ま で も 思 い や っ て い る と い う の で あ る。 朱 雀 院 行 幸 の 準 備 に 忙 殺 さ れ て い る こ と を 口 実 に し つ つ、 「 も の 思 ひ 知 ら ぬ 」 様 子 の 末 摘 花 を 懲 ら し め て や ろ う と し た と の 冗 談 に、 命 婦 も つ ら れ て 笑 っ て し ま う。 ひ い て は、この若さで我が儘なのももっともなのだと納得してしまう。 光源氏と末摘花の間でどちらつかずの立場であるがゆえの不安定さだが、この命婦の立ち位置は作中人物と言うよ りはもはや読者に近い。光源氏と末摘花とを結びつけるという役割を果たしながら、命婦の存在は虚構の作品世界と 現実の読者とを結びつけてもいるのである。

虚構の物語世界に触れる時、読者はそれが虚構であると知りつつ同時にリアリティを感じてもいる。大輔命婦のよ うな現実的で、どちら付かずの態度は、作られた人物の持つ固定的な人物像からずれるがゆえに、実在性を感じさせ るのだ。現実の人間は複雑なものであり、物語の人物のような類型に収まりきらない。末摘花のようにひたすら非社 交的で古風、というような人物は実在しないのであり、その意味で両者は対照的だ。前述の、両親がそれぞれ再婚し ていると言ったような、直接物語に関わらない設定も、命婦という人物のリアリティを補強している。作者と同時代 にいた実在の人物をモデルにしているのではないかという推測さえも成り立つだろう。

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古代物語のリアリティ 九 ひるがえって現代の我々にとってはどうか。光源氏や末摘花はおろか、平安朝という時代そのものが、現実離れし た虚構世界だともいえる。一方で、醜女と知りながら末摘花の事をうっかり話してしまい、その後の厄介ごとにまき こまれるというこの命婦に、全くリアリティを感じないわけではない。そもそも誰も実体験した訳でもない平安とい う時代を知りうるのは、様々な古記録という文書によるしかないのだから、国史の記述も物語の記述も、言葉の表現 という意味では同列であり、どちらかが真実でどちらかが虚偽というものではないだろう。 極論すれば、我々にとっての現実とは目の前の一瞬だけのことであり、過ぎ去ってしまえば、それは記憶を通して 追体験するしかない。その際、記憶をたどるとは多かれ少なかれ言語化するという行為であり、言語が現実そのもの を再現することはできないのだから、そこには虚構化が行われるのである。我々の目の前で起こったすべての事を言 語化することはできないからである。そして、言語化されないものは記憶の中に沈んで認識されず、彼方へ消えてし まう。現実をそのまま認識する事が出来ない以上、我々は言語化することで現実を把握するしかないが、一方で言語 は現実すべてを置換することはできないから、結果的に言語化という行為には、虚構性がつきまとうことになる。従 って、我々が感じるリアリティというものも、事実であるか虚構であるかかという点は問題にならない。読者の置か れた時代や社会と全くかけ離れたものにリアリティを感じる、むしろ今の自分から遠い存在にこそ共感とりありてぃ を感じるのだ。 前 引 の 場 面 で 言 え ば、 光 源 氏 の 笑 顔 に つ ら れ て 笑 み を 浮 か べ て し ま う 命 婦 の 存 在 は、 「 仇 敵 な り と も、 見 て は う ち 笑 ま れ ぬ べ き さ ま 」( 「 桐 壺 」 巻 ) と い う 光 源 氏 の 美 質 を、 読 者 に 共 感 さ せ る も の と し て あ る。 同 時 代 の 読 者 の 多 く は、命婦という存在に自分に通ずる親近感をおぼえたであろう。そうでなくとも、前述のように、人物としての行動 や主張に揺れがあるこの人物こそ、立場や時代を超えて読者にリアリティを感じさせる。そうした、いかにも現実に

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一〇 ありそうな人物の視点を借りて、光源氏というおよそ実在しえないような超越的な主人公の存在を読者に納得させて いるのである。命婦という人物の存在は、単に光源氏と末摘花とを結びつけるという機能的な役割だけではなく、人 物の視点を通して、物語世界の虚構性にリアリティを与えていると考えられる。以降物語は、光源氏の視点から、今 度は末摘花という特異なヒロイン像に迫っていく。 冬のある日、常陸宮邸の女房達の窮状を垣間見した光源氏は、翌朝ついに末摘花の容姿を直接見ることとなった。 見ぬやうにて外の方をながめたまへれど、後目はただならず、いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらば、 うれしからむと思すも、あながちなる御心や。(二九二㌻) 外 を 見 て い る ふ り を し な が ら、 「 後 目 は た だ な ら ず 」、 そ の 姿 を 見 た く て 仕 方 が な い の は、 「 う ち と け ま さ り 」 と い う期待を捨てきれないからだが、語り手はその期待を「あながちなる御心や」と一蹴する。長くて赤い、特徴的な鼻 や、広い額、痩せてとがった肩など、その容姿が詳述される中で、 何 に 残 り な う 見 あ ら は し つ ら む と 思 ふ も の か ら 、 め づ ら し き さ ま の し た れ ば 、 さ す が に う ち 見 ら れ た ま ふ 。 (二九三㌻) と、「後目」に見ていたはずがその容貌の特異さに目が離せなくなってしまう。怖い物見たさはいう体であるが、そ の容貌の詳細な描写以上に、目を離せなくなってしまったという光源氏の心理こそ、この場面で一番のリアリティを 感じさせる。人物の視点を通して作中世界を覗き見るという語りの手法であり、読者が虚構世界に入り込む上で最も 効果的な手法であり、また現実離れした主人公への共感が起こりやすい場面でもある。前半で妄想のうちに理想化さ れていた姫君像とは対極にある現実に、光源氏は末摘花への憐憫の情を芽生えさせている。 ところで、この場面の冒頭、以下の記述がある。

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古代物語のリアリティ 一一 侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、このころはなかりけり。(二九一㌻) この「侍従」は、既に、 女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、いと心もとなうかたはらいたしと思ひて、さし寄りて聞こゆ。 と紹介されていた末摘花付の女房で、また乳母子でもある。光源氏と命婦との関係に対応した存在と言えるが、この 場面で、斎宮付の女房を兼任しているために不在にしている、と書かれるだけで、その事がどのような意味を持つか は明示されていない。だが、その後に他の末摘花付の女房達が、光源氏に顔を見られることを全く躊躇していないこ とを考えれば、侍従がこの場にいれば光源氏にあからさまに顔を見られることもなかったかもしれない、ということ は想像がつく。唯一の頼りになる女房の不在が、常陸宮邸の窮状をより誇張した形で光源氏に目撃させている、とい うことである。言い換えれば、その不在によって侍従という人物の重要性が際立つという描かれ方だということもで き る。 「 末 摘 花 」 巻 で の 侍 従 は、 末 摘 花 の 歌 の 代 作 を す る く ら い で あ り、 本 格 的 に 活 躍 す る の は 後 の「 蓬 生 」 巻 と い うことになる。だが、前引の簡潔な描写の中に多くの意味がこめられている。斎院との兼務によって、侍従は常陸宮 邸一本の使用人達とは違う、経済的余裕や、外部から客観的に宮邸を見る視点を有している筈で、それゆえ、末摘花 の容貌をあからさまに見られることを避けてきたのではないかと考える。他の女房達は、末摘花の特異な容貌に慣れ きっており、光源氏に見られることに何の不安も感じていない、ということなのだろう。 既に述べたように、命婦という人物は物語に直接関わらないような詳細な設定が記述されていたのに対して、侍従 については最小限の記述で、その不在や何も説明されていないという中で人物としての重要性を暗示する、という手 法がとられている。光源氏と末摘花という、それぞれの乳母子という意味で対照しつつ、物語の記述のあり方は正反 対だということになる。いずれにしてもその記述の空白を埋める中で、読者は二人の脇役にリアリティを感じ取って

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一二 いくのである。 末摘花の容貌が詳述された後、衣装の描写に移るところに以下の記述がある。 着たまへる物どもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも人の御装束をこそまづ言ひた めれ。(二九三㌻) 末摘花の特異性を子細に語る事への言い訳めいた言辞だが、この場面、前述のように光源氏の視点を通した描写にな っ て い た。 だ が、 「 言 ひ た つ る 」 の 主 語 が 光 源 氏 と い う こ と は あ り え な い か ら、 こ れ は 物 語 の 語 り 手 の 発 言 と い う こ とになる。末摘花の着衣まで子細に述べるのは口さがないことだが、昔物語でも装束の描写をしているのだからそう す る の だ、 い う の だ が、 こ こ で の「 昔 物 語 」 は、 例 え ば こ の 巻 の 前 半 に、 「 か や う の 所 に こ そ は、 昔 物 語 に も あ は れ なることどももありけれ」とあるように、物語の世界ならともかく現実にはありえない、という文脈で用いるのが普 通 で あ り、 物 語 世 界 は 虚 構 で あ る が、 作 中 の 人 物 や 語 り 手 は あ く ま で 事 実 譚 で あ る こ と を 建 前 と し て い る は ず な の だ。ところがこの場面では、昔物語の流儀に従ってここでも装束の描写をすると宣言しているのだから、語り手はこ れが物語の記述であることを意識しているように読める。 現 代 文 学 に お い て、 「 メ タ・ フ ィ ク シ ョ ン 」 と 呼 ば れ る、 虚 構 の 作 品 中 の 人 物 が、 虚 構 で あ る こ と を 意 識 し て い る 描写が、手法として用いられることがある。この場面を「メタ・フィクション」的な手法と断ずるのは早計だが、事 実性を前提としている古代物語の記述としては異例とはいえるだろう。そもそもこの場面で、装束の描写をすること 自体にさしたる問題はない。末摘花の特異性を縷々述べていくその容赦のなさが問題なのであり、そのことへの言い 訳を、単に物語の伝統に従っているだけだ、と問題点をすり替えながら述べていることになる。そして、装束のみな らぬ末摘花の振る舞い、ついには光源氏の詠みかけた歌に返答できずに、笑って誤魔化すしかないという醜態がさら

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古代物語のリアリティ 一三 れされるに至って、光源氏の失望は憐憫に変っていく。 直視はできかねるものの、見ないではいられない、という光源氏の心情は、語り手、ひいては光源氏の視点から物 語 世 界 を 体 験 す る 読 者 を 含 め た 三 者 の 偽 ら ざ る 好 奇 心 な の で あ る。 「 も の 言 ひ さ が な き 」 と 語 り 手 が 自 省 す る、 そ の こちら側にある読者も光源氏同様姫君のあまりの醜態に、あきれつつもまた興味を惹かれずにはいられないという意 味で、 「もの言ひさがな」いという罪を共有した、いわば共犯者なのだ。 「昔物語」の常套に従ったという語り手の言 葉は、その「昔物語」から高度に成長した物語の誕生をも告げている。虚構が、その虚構性を明確に意識しているの は、そこに書かれているのが嘘に過ぎないからではない。作品の外部にある未知の読者に、この末摘花の醜態を苦笑 しながら読まずにはいられない、その一点において末摘花の異様さを子細に語らずにおかない語り手同様の底意地の 悪さを告発し、作品世界に巻き込むのである。この時、作中人物である光源氏、語り手と読者の三者は一体の共犯関 係を結ぶことになる。 常陸宮邸を退去しようとする光源氏は、門番の老人と、その娘らしき女を見る。その惨状に、以下の歌をくちずさ む。 「ふりにける頭の雪を見る人もおとらずぬらす朝の袖かな   幼き者は形蔽れず」 (二九六㌻) 「幼き者は形蔽れず」は、 『白氏文集』巻二の秦中吟の重賦によるもので、役人の搾取にあって防寒着を着ることもま まならぬ農民の実情を告白した、社会性の強い詩である。この詩を用いることで、庶民ならざる宮家であってもこの 常 陸 宮 邸 の よ う な 貧 困 を 甘 受 し な け れ ば な ら な い、 と い う 社 会 の 現 状 が 明 か さ れ る こ と に な る。 「 夕 顔 」 巻 で、 庶 民 の生活ぶりが描写された時、それは光源氏にとっては新奇な経験に過ぎなかった。所詮庶民の暮らしなど関心の埒外 で し か な い。 だ が、 末 摘 花 と い う 歴 と し た 宮 家 の 姫 君 が、 「 中 の 品 」 の 女 と 同 列 に 語 ら れ る。 そ も そ も こ の 巻 は 光 源

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一四 氏 が 夕 顔 の 代 わ り を 探 す、 と い う も の で あ っ た。 明 示 は さ れ な い が、 『 白 氏 文 集 』 の 一 節 は 自 ず と 社 会 的 な 視 点 を 持 ち 込 む こ と に な る。 そ の 直 前、 「 雨 夜 の 品 定 め 」 を 回 顧 し つ つ、 こ の よ う な 荒 れ た 宿 に 心 に か か る 女 を 住 ま わ せ て み たい、などといった妄想に囚われる光源氏の姿と並列して、物語は社会の矛盾を告発する。いや、それは意識的なも のではなく、単にまっとうな衣装を身につけることもできないという目前の事実を言っているだけたなのかもしれな い。だが、もとの白楽天の詩が明確な政治性・社会性を持つ以上、読者がここに社会批評を読みとることは必然であ る。そのとき、ともに末摘花を観察し、暴き立て嘲弄した共犯者たちは、もはや末摘花を笑うことはできない。 「 を こ 」 の 女 性 た る 末 摘 花 と い う 人 物 は、 そ の 常 識 外 れ の 容 姿 や 行 動 か ら、 一 見 現 実 離 れ し た 存 在 と も み え る。 当 該巻では、大輔命婦という、この巻限りの人物を登場させ、光源氏と末摘花を繋ぎつつ、物語にリアリティを与えて いる。また、容姿や衣装の詳述や、特徴的な文の書きよう、常陸宮邸の困窮といった具体的描写によって、単に現実 離れした滑稽譚であることから逃れている。 光源氏の乳母子として、色恋抜きの親密な女性という特異な位置にある命婦は、光源氏と秘密を共有する存在であ る。 ま た の 日、 上 に さ ぶ ら へ ば、 台 盤 所 に さ し の ぞ き た ま ひ て、 「 く は や、 昨 日 の 返 り 事。 あ や し く 心 ば み 過 ぐ さ る る 」 と て 投 げ た ま へ り。 女 房 た ち、 何 ご と な ら む と ゆ か し が る。 「 た だ、 梅 の 花 の、 色 の ご と、 三 笠 の 山 の、 を と め を ば、 す て て 」 と、 う た ひ す さ び て 出 で た ま ひ ぬ る を、 命 婦 は い と を か し と 思 ふ。 心 知 ら ぬ 人 々 は、 「 な ぞ。御独り笑みは」ととがめあへり。 (三○一㌻) 台盤所にいる命婦に、光源氏が思わせぶりに末摘花への返書を渡す。周囲の女房達が何事かと色めき立つ中で、そ れが珍妙な歌と時代遅れの正月衣装への返答であることを知る命婦はほくそ笑む。女房たちの羨望の対象となった命

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古代物語のリアリティ 一五 婦に、読者はわが身を重ね合わせるだろう。物語の中の光源氏に現実で出逢うことはない。だが、光源氏の巻き込ま れた滑稽な恋愛譚を、読者はたしかに知っている。光源氏の秘密を共有するという特権的な立場にあることは、読者 にささやかな優越感をもたらすだろう。何事かと気色立つ女房たちの中でひとりほくそ笑む命婦とは、たしかにわれ われ読者の分身なのであった。 注 1   本文は小学館『新編日本古典文学全集 20』により、頁数を示した。 2   『本居宣長全集』第四巻(筑摩書房・昭 44) 3   玉上琢弥「源氏物語の構成」   (『源氏物語評釈』別巻   第1   角川書店・昭 41) 4   厳 密 に は、 命 婦 は 乳 母 の 娘 と だ け 記 述 さ れ、 光 源 氏 の「 乳 母 子 」 と は 書 か れ て い な い。 「 夕 顔 」 巻 と の 対 照 や、 末摘花と侍従との関係から「乳母子」と解釈したが、いずれにしても年齢的には大差なく、両者が親密であるという 点は動かない。

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