﹃源 氏 物 語 ﹄ の 構 造
︿紫のゆかり﹀物語の贈答歌をめぐって(下)
西 田 禎 元
『源 氏 物 語 』 の構 造
}
︿紫のゆかり﹀物語は︑﹃源氏物語﹄正篇における︑最
も重大な構想であり主題である︒
桐壺更衣や藤壷中宮より︑少し遅れて物語の舞台に登場
した紫上は︑物語全体の主人公である光源氏(以下﹁源氏﹂
と記す)に並ぶ女君として︑三十二の巻々において語られ
る︒
正篇の八割近くの物語に描かれる紫上の存在は大きく︑
明石君(十九巻)や玉髪(十六巻)の活躍をはるかに超え
ている︒
詠歌数こそ続篇における浮舟の二十六首には及ばない
が︑正篇に描かれた女君の中では︑紫上二十三首・明石君 二十二首で︑かろうじて第一位である︒
描かれた巻数や詠歌数からも︑紫上のヒロインの地位は
動かないといってよい︒
紫上がヒロインであるということは︑︿紫のゆかり﹀物
語の第三部ともいうべき﹁◎紫上物語﹂は︑主人公の源氏
と女主人公の紫上の物語に帰着する︒
男性と女性のかかわりにおける︑愛恋の喜びと悲しみが
主題となる筈である︒
主題の検討は暫くおいて︑紫上における詠歌の状況を概︿注一﹀観しておくことにする︒
一 一13一
︹表1︺(○は贈歌・△は答歌を示す)
唱 独 花 明 朱 秋 光 相 散 石 雀 好 源 和 詠 里 君 院 中 氏 手
宮 巻
名
△ 若 紫
n
葵n
賢 木 on 須 磨麗 明 石
① 濡 標
①
絵 合①
薄 雲① 朝 顔
/1¥
少 女n
初 音① 胡 蝶
2 /1¥
若菜上1 ① 若菜下
1 o● 御 法
22 111214
計
詠歌数二十三首のうち︑いわゆる第一部においては十五
首(紫上系物語十三首︑玉塁系物語二首)︑第二部におい
ては八首である︒
また︑詠歌の様式別に見ると︑贈答歌が十九首︑独詠歌
と唱和歌が各二首ずつである︒
次に︑贈答歌を相手別に見ると︑源氏が十四首︑秋好中
宮が二首︑朱雀院・明石君・花散里が各一首ずつである︒︹表1︺からは︑以下に述べるようなことが確認できる︒(A)全詠歌の六割が源氏との贈答歌である︒
(B)﹁明石﹂の巻までは殆んどが答歌であるが︑﹁濡標﹂
の巻以降は殆んどが贈歌である︒ (C)
(D)
(E) 源氏以外の贈答の相手は︑朱雀院を除き︑︿六条院﹀
の住人たちであり︑朱雀院の場合も︑春の町に住む
女三宮とのかかわりで贈答しているのである︒
独詠の二首は︑いずれも源氏の言動や状況に対して
のものであり︑(A)につながる特徴でもある︒
唱和の二首は︑いずれも明石中宮(紫上の養女)が
かかわっており︑後者の歌は源氏をも対象にした辞
世の歌になっている
「源 氏 物 語 』 の構 造
二
それでは︑(A)から(E)に示した詠歌の状況につい
て︑くわしく検討してみよう︒
(A)と(B)については︑︿紫上物語﹀の主題にかか
わるので後述することにして︑先ず(C)について述べる
ことにする︒
六条院に住む人たちとの贈答歌は次のとおりである︒
①風に散る紅葉はかろし春のいろを岩ねの松にかけてこ︿注二﹀そ見め(﹁少女﹂︑θー七六ぺ)
②花そののこてふをさへや下草に秋まつむしはうとく見
るらむ(﹁胡蝶﹂︑㊦1一六四ぺ)
③惜しからぬこの身ながらもかぎりとて薪尽きなんこと
の悲しさ(﹁御法﹂︑⑭1四八三ぺ)
④絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の
契りを(同前︑四八五ぺ)
⑤背く世のうしろめたくはさりがたきほだしもしひてか
けな離れそ(﹁若葉上﹂︑⑭ー六九ぺ)
①の歌は︑六条院に移り住んで問もない頃の︑梅壷中宮 (秋好中宮)との贈答歌である︒
六条院移りが秋の季節に行われたので︑どうしても中宮
が住む秋の町の華やかな美しさが強調されている︒
九月になれば︑紅葉むらむら色づきて︑宮の御前えも
いはずおもしろし︒(﹁少女﹂︑θー七五ぺ)
中宮が誇らかに詠む︑
こころから春まつ苑はわがやどの紅葉を風のつてにだ
に見よ(同前︑θ1七六ぺ)
という挑発的な贈歌に対して︑紫上は切り返す︒
﹁秋の紅葉をご覧なさい﹂と詠う中宮に対して︑﹁春の
松こそご覧いただきたい﹂と答えるのである︒︿風に散る紅の木の葉﹀に対して︑︿変わらない緑の松﹀
で応酬する︒
これは正に︑︿秋﹀と︿春﹀の競り合いの様式である︒﹃万葉集﹄における額田王の春秋優劣論の歌は︑
秋山の木の葉を見ては黄葉をば取りてそしのふ
青きをば置きてそ嘆くそこし恨めし秋山われ
は(巻第一‑一六︑︿日本古典文学大系>Oー一九
ぺ)
と︑︿秋﹀の勝利を告げていたが︑六条院における春秋の
一15一
競い合いは︑ だろう︒ 次に示す源氏の発言からの引き分けといえる
この紅葉の御消息︑いとねたげなめり︒春の花盛りに︑
この御答へ聞こえたまへ︒このころ紅葉を言ひくたさ
むは︑竜田姫の思はんこともあるを︑さし退きて︑花
の陰に立ち隠れてこそ︑強き言は出で来め(﹁少女﹂︑(θー七六ぺ)
ともあれ︑︿樺桜﹀夫人と︿秋好む﹀中宮との応酬では
あった︒
②の歌も梅壺中宮への贈歌で︑年改まっての春の季節に︑
今度は紫上が挑発したとも見られる歌である︒︿花園の胡蝶を︑秋を待つ虫の中宮様は厭うでしょう﹀
と詠う︒
①の歌の贈歌である中宮の歌には﹁春まつ﹂(﹁少女﹂
θ1七六ぺ)とあったが︑②の歌には﹁秋まつ﹂と詠み
込んだのである︒
秋には劣勢だった紫上が︑春には反撃し中宮を圧倒した
といえよう︒
競い合いといっても︑②の歌を受け取った中宮が︑﹁か
の紅葉の御返りなりけり︑とほほ笑みて御覧ず︒﹂(﹁胡蝶﹂︑ θー一六四ぺ)という記述からも︑楽しみ合っている雅
び事︑風流の世界なのである︒
③と④の歌は︑紫上が亡くなる五箇月ほど前に詠まれた
もので︑六条院に住む他の夫人(源氏の妻妾)たちとの贈
答歌である︒
病気療養先の二条院で︑紫上が催した法華経千部の供養
法会に︑今上帝や皇太子︑皇太后・中宮にまじって︑六条
院夏の町に住む花散里と︑冬の町に住む明石君が参列して
いた︒
法会の中休みの折に︑紫上は明石君と歌を贈答する︒
法会の内容にもふれた︑﹃法華経﹄の経文をふまえた歌
である︒
③の歌を紫上が贈り︑次の歌を明石君が返す︒
薪こるおもひはけふをはじめにてこの世にねがふ法ぞ
はるけき(﹁御法﹂⑭‑四八三ぺ)
③の歌には︑﹃法華経﹄︿序品﹀に説かれる﹁仏此夜滅度︿注三﹀如薪尽火滅﹂の経文を通しての︑病身の思いが訴えら
れ︑﹁薪こる﹂の歌には︑﹃法華経﹄︿提婆達多品﹀に説か
れる﹁即随仙人︒供給所須︒採菓汲水︒拾薪設食︒︿中略﹀︿注四﹀採薪及菓菰随時恭敬与﹂の経文を通しての︑︿はるけ
『源 氏 物 語 』 の 構 造
き寿命﹀を願っていると返している︒
法会が終了し︑六条院に戻る花散里に︑紫上は④の歌を
詠む︒
自分の寿命が絶えてしまっても︑花散里との仏縁は永遠
であると詠う紫上に︑花散里は次の歌を返す︒
結びおくちぎりは絶えじおほかたの残りすくなきみの
りなりとも(回前︑⑭ー四八五ページ)
短い法会であっても︑紫上との仏縁はやはり永遠である
と応じている︒
こうして紫上は︑六条院の夫人たちに別れの歌を献じた
のである︒
⑤の歌は︑出家して西山の寺に移った朱雀院からの贈歌
に対する返歌である︒
愛娘の女三宮を源氏に託した朱雀院は︑本来ならば源氏
の妻として︑女三宮のライバルに相当する紫上に︑幼い娘
を宜しく頼むとの文を認め︑次の歌を付記する︒
背きにしこの世にのこる心こそ入るやまみちのほだし
なりけれ(﹁若葉上﹂⑭ー六八ぺ) 子煩悩故に仏道修行がままならぬと訴えている朱雀院か
らの贈歌に︑紫上の返歌は︑愛おしい宮が心にかかるなら
ば︑敢えて出家をなさらなくとも︑と応じている︒
三
次に(D)に相当する歌を示すと︑次の二首である︒
①目に近く移ればかはる世の中を行くすゑとほくたのみ
けるかな(﹁若菜上﹂︑⑭ー五八ぺ)
②身にちかく秋や来ぬらん見るままに青菜の山もうつろ
ひにけり(同前︑⑭ー入ニペ)
どちらも﹁若菜上﹂の巻に見られる独詠歌で︑女三宮が
六条院に降嫁した後に詠まれている︒
それまで源氏の愛に頼り切っていた紫上が︑はじめて︿妻の座﹀を意識した愛の不確かさに動揺し︑心痛め嘆い
ている︒
①の﹁移ればかはる﹂と︑②の﹁うつろひにけり﹂には︑
紫上が感じた源氏の愛の移ろいが詠われている︒
女三宮降嫁以前には贈答歌が源氏と紫上の詠歌であった
のに対し︑降嫁以後には独詠歌と唱和の様式が見られるよ
一17一
うになる︒
紫上側の思い過ごしの一面があるにしても︑源氏と紫上
のかかわりが︑それまでの緊密で揺るぎのない二人だけの
世界から︑孤独であったり︑第三者をもかかえ込む様相に
変容したことが看取できる︒(E)に相当する唱和は次の二首である︒
①住の江の松に夜ぶかくおく霜は神のかけたるゆふかづ
らかも(﹁若葉下﹂⑭ー一六五〜六べ)
②おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩
のうは露(﹁御法﹂⑭1四九一ぺ)
①は︑源氏四十六年の初冬に行われた住吉詣での盛儀の
折の賀の歌である︒
明石入道の願ほどきでもあり︑源氏は明石一族の女方三
人を伴った︒左右の大臣を除いた上達部・殿上人総出の参
詣で︑紫上も同行した︒
社頭での奏楽や歌舞は盛儀を極めた︒
紫上の詠歌に︑明石女御と紫上の侍女である中務が唱和
する︒
神人の手にとりもたる榊葉にゆふかけ添ふるふかき夜 の霜(女御の歌︑﹁若葉下﹂︑⑭1一六六ぺ)
祝子がゆふうちまがひおく霜はげにいちじるき神のし
るしか(中務の歌︑同前)
紫上の﹁夜ぶかく﹂は︑女御の﹁ふかき夜﹂で和され︑﹁霜﹂・﹁神﹂・﹁ゆふ﹂は三人の歌に共通して詠まれている︒
この住吉詣でと︑翌年に催された六条院での女楽の雅び
を最後に︑紫上の輝きは少しずつ衰えてゆく︒病床の身と
なり︑六条院を去り二条院へ移る︒
②は﹃源氏物語絵巻﹄(五島美術館)にも描かれている
場面の歌で紫上の辞世の歌になっている︒
紫上を見舞った源氏と明石中宮がそれぞれ唱和する︒
ややもせば消えをあらそふ露の世におくれ先だつほど
経ずもがな(源氏の歌︑﹁御法﹂⑳ー四九一ぺ)
秋風にしばしとまらぬつゆの世をたれか草葉のうへと
のみ見ん(中宮の歌︑同前)
﹁風﹂は紫上と中宮の歌に詠まれ︑﹁露(つゆ)﹂は三人
の歌に共通するキー・ワードになっている︒
源氏はいつも一緒にいたいと詠い︑中宮は誰も同じ露の
ような世に生きていると和す︒