1
論文概要書
マイスター・エックハルトの非トマス的な存在理解について
――ガンのヘンリクスの影響関係を踏まえて――
西村 雄太
序
本論文は、中世ドイツのドミニコ会士であるマイスター・エックハルト(Eckhart von Hochheim, ca. 1260-1328)の「存在」(esse)理解について検討を行い、その特質を明らかにすることをその目 的とする。その際、彼と同じドミニコ会の先達であったトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, ca.
1225-1274)の「存在」理解との質的差異を、トマスに対して批判的な立場を採っていたガンのヘン リクス(Henricus de Gandavo, ant. 1240-1293)の「存在」理解を手掛かりとしながら明確化するこ とに努める。このことについて以下で具体的に説明する。
マイスター・エックハルトは、その死後1329年に、その教説の内の28のテーゼが異端ないし異 端の疑いありとされ、19世紀初頭に母語ドイツ語による著作が再発見されるまで、思想史の表舞台 から姿を消すこととなった思想家である。このドイツ語著作には、「魂は、その根底において神と完 全に一つになっている」や「被造物はそれ自身においては純然たる無(独lûter niht/羅purum nihil)である」などといった、通常のスコラ学的議論から逸脱するような見解が数多く見られ、またヘ ーゲルなどの思想とも共鳴する内容が含まれていたことから、エックハルトは「ドイツ的思弁の父」
(der Vater der deutschen Speculation)などともてはやされ、「神秘主義者」という呼称が定着す ることとなった。
だが、この呼称は否定的評価とも密接に結び付いている。1880 年、トマス主義者であった教会 史家H. Denifle(1844-1905)は、エックハルトのラテン語著作の写本の一部を初めて〔再〕発見し、
この著作におけるエックハルトの「存在」理解の詳細な検討を通じて、スコラ学者が兼ね備えていた 論理的一貫性がエックハルトには欠如しており、かつその理解は汎神論的である、として、軽蔑の 意味を込めて彼を「神秘主義者」と呼んでいる。
Denifleによるこの汎神論判定の後、この判定に賛同を示す論者――20世紀前半の著名なトマ
ス主義者・中世哲学史家の M. Grabmann(1875-1949)など――と、エックハルトのトマス主義的
(カトリック的・ドグマ的)正統性を擁護しようとする論者――O. Karrerなど――とに分かれ、激しい 議論の応酬が行われることとなった。だが、校訂版全集の刊行が進んだこともあり、1950 年以降の 研究では、エックハルトの存在理解を単純に汎神論的であるとして非難したり、トマスの存在論と調 和させようとしたりする研究はごく一部の例外を除いて見られなくなる。実際、エックハルトの存在理 解についての体系的研究を遺した K. Albert は、1976 年の著作において、エックハルトの存在理 解がプラトン主義的な影響を受けたものであることを体系的研究に基づき提示したのである。この
Albert の研究を筆頭とした様々な研究によって、エックハルトの存在理解が汎神論的ではないこと
2 が決定的に明らかにされたと言ってよいだろう。
だが、エックハルトの存在理解の「特質」を本当の意味で理解するためには、それがプラトン主義 的であるということを示すだけでは十分でない。というのも、トマスの存在理解にもプラトン主義的要 素が含まれるからである。実際、トマスにおける神であるところの「自存する存在」は「存在のイデア」
であると言っても何ら過言ではない。Albert の研究の問題点もこの点に存する。つまり、彼はエック ハルトの存在理解をトマスのそれと体系的に比較検討することを怠ったために、エックハルトの存在 理解がなるほど「汎神論的」ではなく、むしろ「プラトン主義的」であることこそ示しはしたものの、そ れがトマスのそれと如何なる意味で異なるのかは明確に示すことができなかったのである。
この「トマスの存在理解との差異」という点については、Grabmann やÉ. Gilson(1884-1978)と 並ぶトマス主義者として知られる C. Fabro(1911-1995)が、トマスの存在概念の徹底的究明と並 行する形でそれを明快に提示しており、筆者も彼の見解から多くの示唆を得ている。だが、Fabro のエックハルト研究は、あくまでもトマス主義者としての彼の立場に基づいたものであり、その点で 問題が残る。実際、トマス主義的立場を採る論者は、プラトン主義的要素に対して否定的見解を採 る者が多く、Fabro もその例外ではない。エックハルトのプラトニズム的存在理解――「存在はただ 一つでしかありえない」――は、トマスによるプラトニズムとアリストテリアニズムの総合による華々し い成果――「本質と存在の実質的区別」、「〔各々の事物に固有の〕分有された存在」――からすれ ば、退行として見做されるべきものでしかないのである。
これらの問題点を解消するべくして出てきたのが、エックハルトの思想をガンのヘンリクスのそれ を基にして理解するQ.-Sánchezの立場である。Q.-Sánchez は、アヴェロエス(1126-1198)に由 来し、アルベルトゥス・マグヌス(ca. 1200-1280)を通じてトマスへと続く思想的系譜を実在主義
(Realismus)と規定し、また、アヴィケンナ(ca. 980-1037)に由来し、ガンのヘンリクスやフライベ ルクのディートリヒ(ca. 1240-ca. 1320)を通じてエックハルトへと、そして最終的にはドイツ観念論 へと至る思想的系譜を理念主義(Idealismus)と規定する。Q.-Sánchez の理解を簡潔に説明す るならば、実在主義とは、石や木として現実に存在する事物が、まさに石や木である限りにおいて、
「存在=神」という絶対的現実性の一部を分かち持つもの(das am Wirklichen Teilhabende)な のだ、と理解する立場である。それに対して、理念主義とは、知性(intellectus / Vernunft)によっ て認識されているもの、すなわち「理念的・イデア的なもの」(das Ideale)を個々の事物にとって絶 対的・規範的なものと見做し、事 物の限定的側面は事物にとって偶然的・非本質的なもの
(accidens / das Zufällige)としていわば否定的に理解する立場である。
この立場に即して理解するならば、エックハルトの存在理解は単なる過去の哲学への退行として ではなく、ドイツ観念論へと続く道として理解することが可能である。実際、ガンのヘンリクスの存在 理解は、「関係論的存在理解」とでもいうべき内実を持っており、その意味でトマス的な「実在論的 存在理解」に対する一つのあり得る――それも、最も強力な――批判として理解されるべきものだ からである。
3
しかし、Q.-Sánchezの研究も問題を孕んでいる。というのも彼は、ヘンリクスが存在を「被造物に 帰属する実在的・実質的なものではなく、被造物の有する神との関係性である」と主張していること の意味を正確に把握せず、いわば「トマス的」に理解してしまっているからである。ヘンリクス、およ びエックハルトにおいて、「存在」とは、個々の事物に帰属するような実在的・実質的なものではなく、
真の意味で存在である神との関係性が成立する限りで「被造物に帰属する」と観念的に理解される ものなのである。
以上のような先行研究の状況を踏まえ、本論文では以下の順序で論述を進める。
第一章
マイスター・エックハルトの存在理解は様々な問題点を孕んでおり、これまでの研究史において も数多くの解釈の対立を生み出してきた。この対立を生み出してきた最大の要因は、彼のドイツ語 著作における大胆な発言にあるというよりも、むしろラテン語著作における「存在」や「本質」といっ た存在論的基本概念の彼独自の用い方、つまり非トマス的な......
用い方にある。
L. Sturleseによる綿密な文献学的研究によって明らかにされたように、エックハルトは同僚のドミ
ニコ会士の要請に従って、「命題集」、「問題集」、「注解集」の三部からなる「三部作」という大作を 構想し、まずそれらの序文――総合序文および各部の序文(=『序文集』)――を執筆したが、結 局は「注解集」に含められることになったであろう幾つかの聖書注解著作のみを遺すに留まった。
つまり、「命題集」と「問題集」に関しては一切執筆が行われなかったのである。問題は、エックハル トが「命題集」を基準として「問題集」や「注解集」を理解すべきだと『序文集』で明確に述べている にも拘らず、実際には「命題集」を一切執筆しなかったことである。
幸いなことに、『序文集』には、「命題集」第一命題「存在は神である」(esse est deus)とその根 拠とが範例として挙げられており、ここから我々はエックハルトの構想を或る程度知ることができる。
この命題は、スコラ学における通常の命題「神は存在である」とは異なり、主語と述語とが逆転され たものであることに注意すべきである。エックハルトがここで問題としようとしたことは、「存在とは何 か」ということであり、「神とは何か」ということではない。エックハルトは、上述の第一命題から概念的 演繹によってすべてを導き出そうとしており、この点で、各々の被造物の有する存在から神の存在 へと議論を進めていくトマスとはその態度を異にしている。
第一命題の解釈に際して問題となるのは、「神である...
存在」と、神によって存在を与えられるとさ れる「被造物の有する...
存在」とは、果たして同一の「存在」であるのか、ということである。Denifleは、
トマス主義的立場から、エックハルトが両者を同一視したとして彼を批判している。Denifle が適切 に理解しているように、トマスにおいては被造物の存在は神の存在によって作出された結果物であ って、神の存在そのものとは決して同一視されえないものである。被造物は神の存在を有するわけ ではなく、自己固有の存在、すなわち〈存在することの現実態〉(actus essendi)を有するわけであ る。この存在はまた、「分有された存在」(esse participatum)とも呼ばれ、被造物はこの存在を有
4 することで、神の存在を分有すると理解される。
それに対して、エックハルトは、一方で神である存在から外れては如何なるものも存在しないとし ておきながら、他方で被造物の存在は神に原因されたものだともしている。つまり、被造物は「神で ある存在」ではない存在を有するとされるわけである。Denifle がエックハルトの存在理解を正確に 把握することができなかったのも、この点に存する。最終的に Denifle は、エックハルトが被造物の 本質を現実化する存在、すなわちトマスの主張する〈存在することの現実態〉を神だと見做したとし て、彼を汎神論者に認定する。
第二章
Denifle の汎神論断罪に対してどのような応答をすべきか。このことを考えるために、第二章では、
トマスには見受けられないエックハルト独自の区別、すなわち〈存在者〉と〈これこれの存在者〉との 区別を取り上げる。エックハルトによれば、動詞「est」は、事物の現存在を表示する「est」と、事物 に内属するものを表示する「est」とに区別される。「マルティヌスは存在する」と「マルティヌスは人間 である」とがそれぞれ対応する命題である。エックハルトによれば、前者においてはマルティヌスが
〈存在者〉であることが言明されており、後者ではマルティヌスが〈これこれの存在者〉であることが言 明されている。
ここで注意しなければならないのは、エックハルトが内属の「est」から事物の現存在の含意を意 図的に排除しようとしている点である。「マルティヌスは人間である」と言われる際には、普通我々は
「マルティヌスが人間として存在する....
」ことも同時に思い浮かべるが、そうした含意はないとエックハ ルトは主張するわけである。
この立場がどのように理解されるのかを検討するために、本章第三節以降では、「人間が一切現 存在しない場合に、“人間は動物である”という命題は真か」という、エックハルトの活動期の少し前 に書かれたと推測される著者不詳のテクストなどを取り上げて検討を行っている。
このテクストの著者によれば、人間の本質存在、すなわち人間を「理性的動物」として確立せしめ る存在は、あくまでも人間の現実的存在に依拠する。人間が現実的に存在しない限り、人間の本 質存在も無だからである。それに対して、この著者が批判する立場の人々は、現実的存在が事物 を現実化することを止めても、事物の本質存在が無となることはないと主張する。この立場は恐らく ガンのヘンリクスのそれであると理解される。
ヘンリクスは、事物の存在、すなわち事物が神から分有する存在を「本質存在」と「現実存在」と に区別している。本質存在は人間を「理性的動物」として確立せしめる存在であり、現実存在は人 間を現存在せしめる存在である。重要な事柄は、「本質存在」のほうが存在論的秩序においては根 源的であり、「現実存在」に非依存的なものだと見做されているということである。なぜなら、本質存 在は事物が神の内に範型を有すると理解される限りで事物に備わるものなのであるが、この神の範 型は永遠不滅のものだからである。それに対して、現実存在は事物が神の自由な意志の結果と見
5
做される限りで事物に備わるものである。神の意志は偶然性を孕んでいると見做されているわけで ある。
ヘンリクスがこの際強調するのは、これら二つの存在は事物に実質的に付加されるのではないと いうことである。この点については本論文第三章で詳細に検討することになる。いずれにせよ、エッ クハルトがこのヘンリクスの存在理解を知っていた可能性は非常に高い。
第三章
本章では、〈存在者〉と〈これこれの存在者〉の区別からエックハルトが導き出した帰結を検討する。
それは次のようなものである。
神は本来的な意味で〈存在者〉であり、個々の存在者はなるほど〈存在者〉なのではあるが、それ は、自己自身が〈存在者〉であるという現実を神から如何なる媒介もなしに直接的に受け取っている という意味で〈存在者〉である。また、或る存在者が〈これ〉であるという事実、すなわち、「人間」や
「石」であるという事実は、その存在者が「〈存在者〉である」ないし「存在性を有する」という点に関し て、何らの寄与も為さない。また、〈これこれの存在者〉であることは形相によって事物に齎され、
〈存在者〉であることは神である存在によって齎される。
エックハルトによれば、あらゆる被造物は皆、それがハエであれ人間であれ、「存在」を有すると いう点では一切合切が等しい。これはトマス的立場からすると奇妙である。何故なら、トマス的立場 からすれば、ハエはハエとして「存在」を有し、人間は人間として「存在」を有するのであって、ハエ よりも人間の方が高貴なのであるから、その存在性に関しても、人間はハエより高貴な存在性を有 すると主張できるからである。
そうすると、トマスと違い、エックハルトの場合には、「存在を有する」という言葉は、「~として」とい う含意を一切含めずに用いられていることになる。これは第二章で検討した動詞「est」の二区分と 正確に対応する。ではなぜエックハルトは、こうした含意なしに「存在を有する」という事態を理解で きたのであろうか。それは、エックハルトが、被造物の本質に対する存在の付加を、トマスのように実 質的な(secundum rem)付加として考えなかったことに拠っている。そしてこの点で、エックハルト はガンのヘンリクスと考えを一にしている。
すなわち、トマスにおいて被造物の本質は存在(=〈存在することの現実態〉)なしには端的に無 であるがゆえに、存在の受容によって実質的に現実態へと変容せしめられるものだと理解されるの に対して、エックハルトやヘンリクスにおいては、存在は事物の本質を何ら実質的に変容せしめる ものではないと理解されるのである。
エックハルトやヘンリクスによれば、本質はそれ自体で何らかの自存ないし存立を有する、つまり
〈あれ〉や〈これ〉として「そこにある」(ist da)のだが、それが「存在を有する」(Ist)のは存在によって いる。つまり、神から分有する存在によって被造物は「存在する」(Ist)。そして、この存在は、被造 物には単なる観念や観点、ないしは「関係性」(respectus / relatio)として備わっているものでしか
6
ない。それゆえ、白さの形相が壁に「白さの存在」(esse albedinis)を実質的に与えるような仕方で は、存在が「存在することの形相」(forma essendi)を実質的に事物に与えることは――トマスの場 合とは異なり――ないのである。存在が被造物に対して与えるのは、被造物が「神の存在を有す る」、「神の内に存在する」という観念のみであり、形相のような実質的な何か(res)の付加は「存在」
について考察する際には考えるべきではないのである。
むろん、エックハルトにおいては、「形相的存在」(esse formale)という概念もあり、この事物に固 有の存在によって事物は現実世界の内で〈あれ〉や〈これ〉として存立することになる。しかし、事物 は「形相的存在」によって「存在する」わけでも、「神を分有する」わけでもない。この点がトマスの理 解とは決定的に異なる。このような二種の存在の区別が存するために、「事物は“存在=神”を有さ ないとしても“そこにある=形相的存在を有する”」といった一種の存在論的考察がエックハルトに おいて可能となるわけである。そうしたものは、たとえ神の存在を分有せず、ゆえに神の存在によっ て根拠付けられていなくても、つまり「真実性」(Wirklichkeit)を有さないとしても、「そこにある」、
つまり「現実性」(Realität)を有するからである。
Q.-Sánchezのエックハルト解釈は、彼が「真実性」(Wirklichkeit)と「現実性」(Realität)の 区別をエックハルトに認めている点で至極正当である。ただし、Q.-Sánchezは「本質と存在の区別」
についての、エックハルトとトマスの間にある懸隔を正確に把握していないために、ヘンリクスが「現 実存在」と呼 んだものを「 現実に〈あれ〉や〈これ〉として存在 すること」、すなわち「現実性」
(Realität)そのものだと考えてしまっており、その点で誤りを犯したと言えるだろう。ヘンリクスの「現 実存在」はあくまでも被造物が神から分有する存在、つまり神から観念的に受け取る「真実性」
(Wirklichkeit)なのである。神である存在の与える「真実性」なしには、事物は端的に無でしかな い。そうしたものはキマエラなどの架空の事物がそうであるように、存在を有さないわけである。
結
我々被造物が「存在を有する」とは果たして何を意味するのか。「存在とは一体何か」。「存在は 神である」。神と同一視されるようなもの以外は、本来的な意味においては「存在」の名に値しない。
「存在」とは唯一のものであって、被造物に固有化されるようなもの、各々の被造物において多数化 されるようなもの、それは「存在」とは言えない。「ソクラテスは白い」という命題は、「ソクラテスは白さ の存在を有する」と言い換えることもできるであろう。だが、「白さの存在」(esse albedinis)とは〈こ れこれの存在〉、つまり「これであること」であって、本当の意味での「存在」、すなわち唯一無二の
〈存在〉(=神)ではない。他方、「ソクラテスは存在する」という命題が意味するのは、「ソクラテスが
〈存在〉を有する」ということである。むろん、ソクラテスが〈存在〉を有するとは、ソクラテスが〈存在〉で ある神に由来するものであることを自らの本質において指し示す....
ということであり、それ以上でもそ れ以下でもない。ソクラテスは、自らがソクラテスである限りにおいて.................
は、〈これこれの存在〉――「人 間であること」――しか有さず、〈存在〉は有さない。つまり、「存在」は〈存在〉として唯一のものであ
7
り、ソクラテスなどの個的被造物が神から有するとされる存在も、神である〈存在〉に由来する関係性 として、被造物に固有化されることはない。それゆえ、「存在は神である」と言われる際の〈存在〉と は「存在のイデア」であり、そのようなものとして、〈存在〉は個々の被造物において複数化されること は決してないのである。「被造物は存在を有する」という事態についても、こうした〈存在〉の単一性・
非分割性に基づいて初めて理解可能となる。
このようなエックハルトの存在理解は、確かに「存在は一なるものだ」とする〔新〕プラ トン主義者のそれと親近性を有しているが、それは Fabro が皮肉ったような単なる古代哲 学への退行として見做されるべきものではないことは言うまでもない。それはむしろガン のヘンリクスの「関係論的存在理解」を受け継いだものとして、近代ドイツ観念論(理念主 義)哲学との関連で理解されなければならないものである。ただしこの点を明らかにするた めには、エックハルトやヘンリクスにおける知性論の体系的研究が必要であり、この点につ いては更なる研究が必要となることは言を俟たないだろう。