「エニグマティツタ・オストラコン」について
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(2) 104. 1)王家の谷・東谷出土のエニグマティツク・オストラコン資料 (ヨダレシイ報告資料 カイロのエジプト博物館のジェネラル・カタログにおいて報告されているもので、王家の谷・ 東谷で発見されたものである。ダレシイは1901年に刊行したOstracaの中で25316‑25327の12個の エニグマティツク・オストラコンを記載している。ただし、巻末の図版(pl.LIX)には、それら の中の4個(25316‑26319)の写真しか示されていない(Daressy1901)。一万、 1902年のジェネ ラル・カタログは、 1898‑1899年にかけて王家の谷の発掘調査で得られた遺物に関するもので、 これには24105‑24108の4個のエニグマティツク・オストラコンが記載されており、全てのオス トラコンの写真は巻末の図版(PLXVIII)で見ることができる(Daressy1902)。これら4個のオ ストラコンは、現在でもカイロのエジプト博物館の2階に展示されている。 ②ピートリ資料(Petrie 1912) ピートリは、後述するが、エニグマティツク・オストラコンの表面に記された「記号」が、ア ルファベットであろうという推定をしていた。ピートリがこうした結論を導き出すために使用し た具体的なエニグマティツク・オストラコン資料に関して、残念ながら全容は不詳である。しか しながら、唯一、ピートリが1912年に刊行した彼の著作の図版に見出されるだけである。 ③ハワード・カーター発掘資料(未発表資料、 Demaree2005(4)) 1922年11月に、王家の谷でトウトアンクアメン王墓(KV62. を発見したことで知られ、ハワー. ド・カーター(Carter,Howard)は、 20世紀初頭以来、王家の谷の調査を実施している。 1915年 2月以降は、第5代カーナヴオン卿の援助の下で、責任者として王家の谷・西谷での調査を皮切 りに、王家の谷・東谷での調査を実施している。彼が発見したエニグマティツク・オストラコン に関しては未報告であったため、これらの資料に関して、従来、ほとんど明らかにされていな かった。しかしながら、最近になってライデン大学のドゥマレー(Demaree,R.)が、このカー ターによるエニグマティツタ・オストラコンの資料を全て入手していることが明らかとなった。 それらの資料の多くが新王国第20王朝時代のものと思われるが、その全容に関しては、末だわか らない点が多い。 ④ART発掘資料(未発表資料、 Reeves 2005(5)) 1998年の秋からリーヴス(Reeves,C.N.)によって実施されたアマルナ王墓プロジェクト (ART)は、王家の谷・東谷のラメセス6世墓(KV9)と王家の谷56号墓. KV56)の問の地域で、. アマルナ時代の再埋葬墓の捜索を実施したが、プロジェクトは途中から中止されており、この調 査で発見された多くの遺物は未だに未報告である。リーヴスによると少なくとも10個のエニグマ ティツク・オストラコンが出土している。筆者は、これらエニグマティツク・オストラコンのト レース図をリーヴス氏の好意により全て入手しているが、未発表資料のため本稿において図を公 表することはできない。オストラコン表面に記された「記号」を観察すると、多くが新王国第20.
(3) 舌代エジプト新王国時代の所謂「エニグマティツク・オストラコン」について. 105. 王朝時代のエニグマティツク・オストラコンに見られるものと共通したものと考えられるが、少 数のものの表面に見られる「記号」は類例がなく、今後の検討が必要であろう。 2)王家の谷・西谷出土のエニグマティツク・オストラコン資料 ①シヤーデン発掘資料(未発表資料Schaden 2004(6)) 王家の谷・西谷において、シャ‑デン(Schaden,0.J.)によって調査されたアイ王墓(KV23) 及び西谷25号墓. KV25)や周辺部からは、エニグマティツク・オストラコンやポットマーク. (マーク付土器片)が発掘されているが、現在までのところ資料は未報告である。筆者は、現在の ところ、これらシヤーデンがこれまで発掘したエニグマティツク・オストラコンのごく一部の資 料を入手しているに過ぎず、以下にあげる同じく王家の谷・西谷で早稲田大学により発見された エニグマティツク・オストラコンを集成をする場合には、今後、シャ‑デンによって明らかに なったオストラコンの全ての資料を入手・検討する必要がある。これらの資料も未だに未発表の 状況であり、今後、共同研究等を申し込んでいく必要があろう。 ②早稲田大学エジプト学研究所発掘資料(Yoshimura and Kondo 1995、 Kondo 1995、近藤2005). 早稲田大学エジプト学研究 所では、 1989年以降、テ‑ベ 西岸の王家の谷・西谷に位置 する新王国第18王朝のアメン へテプ3世基. KV22)とそ. の周辺地域において調査を実 施してきた。その中で、アメ ンヘテプ3世墓とその南60m に位置する西谷A墓. KVA). との間の地域を岩盤まで堆積 砂裸を除去する作業中に、全 部で13点のエニグマティツ ク・オストラコンが発見され ている。その中の12点が石灰 岩剥片に記されたものであり、 1点のみが土器片に記された ものである。土器の口綾部片 の表面に白色化粧土を施し、 その上から赤インクで記号を 措いたものである(図1)0. 図1.王家の谷・西谷出土のエニグマティツク・オストラコン(近藤2005).
(4) 106. 図2.デイル.アル‑マデイ‑ナ出土のエニグマティツク・オストラコン(Bruy主re1953). 3)デイル・アル‑マデイ‑ナ出土のエニグマティツク・オストラコン資料 ①ブルイェ‑ルの報告資料(Bray占re 1953) 新王国時代に王と王族の墓所が位置する王家の谷と王妃の谷で、岩窟墓の造営に従事した職人 たちが居住した集合住宅地があったデイル・アル‑マデイ‑ナにおいて、フランス東方考古学研 究所(IFAO; l'lnstitut Frangais d'Archeologie Orientale)のブルイェ‑ルによって大規模で継続 的な調査が実施されている。一連の調査の中で、 1948‑1951年の調査報告書において発表されて いるもので、集合住宅地の北側にある大シャフトから発見されたものである。この大シャフトは、 一説には井戸とも呼ばれるが、詳細は明らかではない。第18王朝時代のものと推定される(図2)。 約18点のオストラコンが報告されている。また、これらのオストラコンの表面に記された「記号」 と同じ種類の「記号」を刻した土器や土器片も数多くデイル・アル‑マデイ‑ナから報告されて いる(Nagel 1938)。. 4)博物館収蔵資料 古代エジプトの遺物を収蔵する数多くの博物館に「エニグマティツク・オストラコン」の存在 が知られている。一部の資料を除くとそれらのオストラコンの出土地や発掘年に関しては不詳な ものが多いが、デイル・アル‑マデイ‑ナ出土のオストラコンとされている。また、未発表資料 も少なからず存在しており、今後、欧米の博物館を中心として新たな資料が追加される可能性は.
(5) 古代エジプト新王国時代の所謂「エニグマティツク・オストラコン」について. 107. 大いにあると言える。エニグマティツク・オストラコンを収蔵する博物館は以下の通りである。 ①カイロ、エジプト博物館(Cairo, the Egyptian Museum! Daressy 1901, 1902, Cerny 1935) ②トリノ、エジプト博物館(Turin, the Egyptian Museum! Lopez 1980) ③大英博物館(the British Museum! Parkinson 1999) ④グラスゴー、ハンタリアン博物館(Glasgow, the Hunterian Museum! McDowell 1993) ⑤オックスフォード、アシュモレアン博物館(Oxford, AshraoleanMuseum! Haring2000) ⑥ライデン、国立ライデン古代博物館(Leiden, the National Museum of Antiquities at Leden! Har‑ ing2000). ⑦ストラスブール大学(the University of Strasbourg: Koenig 1997). Ⅱ.その解釈を巡って 1)ダレシイの解釈 20世紀初めにカイロのエジプト博物館のジェネラル・カタログを刊行したダレシイ(Daressy 1901,1902)は、これらの記号を職人たちの記号であると推定している。そして記号の横にしばし ば措かれている複数の点(ドット)を出欠と関連させて解釈した。ここに職人の出席表としての 説が、一般的なものとして定着したO. しかしながら、個別の「記号」と個人名の同定までを実施. することは不可能であった。 2)ピートリの解釈 「エジプト考古学の父」と称されるフリンダース・ピートリは、 19世紀末期以降、エジプト各地 において先王朝時代からギリシア・ローマ時代にかけての多数の遺跡で考古学的発掘調査を実施 している。それらの発掘によって得られたオストラコンや土器の表面に記された「記号」をまと めることで、 1900年に、これらの記号が地中海地域におけるアルファベットの起源となっている という説を提起し、アルファベット表を発表している(図3)。この表の中には、新王国第18王朝 時代のエニグマティツク・オストラコンに措かれた「記号」も掲載されている(Petrie1900)。 ピートリは、アビュドスやサッカラの第1王朝時代の王や高官の墓の調査で、非常に多数のポッ トマークを持つ土器を発見し、それらの「記号」と共通するものとして、新王国第18王朝時代の エニグマティツク・オストラコンに記された記号やカリア(Karia)文字とあわせて表を作成して いる。また、ピートリが1912年に発表した「アルファベットの形成(TheFormationoftheAlphabet)」 と題する本の図版の中に新王国第19王朝時代のものと思われる石灰岩剥片のエニグマティツク・ オストラコンの写真を掲載している。しかしながら、現在ではアルファベットの起源としては、 シナイ半島のサラビト・アル‑カーデイム(Sarabital‑Khadim)におけるシナイ文字や近年、エ ジプトのルクソール西方のワデイ・アル‑ホール(WadiaLHoi)で発見された文字記号(Darnell 1999)などが有力な候補と考えられており、ピートリの想定は、現在では完全に否定されたもの.
(6) 108. EGYPT. KARI SPAIN. PJ蝣ehis. Is‖tyn. XllthD/n. XV日日),. となっている。 3)ハリングの研究 オランダのライデン大学のハニング. Har‑. ing, Ben)が2000年に発表した論考は、 「エニ グマティツク・オストラコン」研究(Haring 2000)にとって画期的なものであり、従来の エニグマティツク・オストラコンの解釈から 大きく前進したものであり、単なる「記号」 の解釈を超えて、新王国時代の王墓造営に携 わったデイル・アル‑マデイ‑ナの職人組織 の実態を解明する上で非常に重要な研究と なった。 このハリングの研究について、少し具体的 に紹介しよう。ハリングの研究の発端は、マ クダウエル(McDowell, Andrea G.)が1993年 に刊行したスコットランド、グラスゴー大学 のハンタリアン博物館収蔵のヒエラティツ ク・オストラコンの報告書(McDowell1993) の中で、エニグマティツク・オストラコンに 見られる「記号」とヒエラティツクとが一緒 に記されたオストラコンを掲載している(図 4、5)。このハンタリアン博物館のオストラ コン(0. Glasgow D.ユ925. 80)の表面の右側 には、 15行の文字列が見られる。これらの文 字列は、右から左に向かって記されており、 一番右に位置する先頭の文字は、ヒエラ ティツクのS (ガ‑ディナーのサインリスト のS29. で、その後にヒエラティツクの数字、. そして各行の最後にエニグマティツク・オス 図3.アルファベット表(Petrie1912). トラコンに見られる「記号」が記されており、. 最上段にはSの後に1、そして2行目以降も 順番に2、 3、 4、と数字が各行に記されており、最下段の15行目にはSの後に数字の15が位置 している。また、この表面の左側にもSと数字、そして「記号」が書かれており、一番上からS.
(7) 古代エジプト新王国時代の所謂「エニグマティツク・オストラコン」について. 図4・ハンタリアン博物館収蔵オストラコン(0.GlasgowD.1925.80). 図5.図4のオストラコンをヒエログリフで表現したもの. 109.
(8) 110. の後に16から25までの数字と「記号」が記されている。 このオストラコンの裏面(図4右)には、表面と同様に上からSと数字が記されている。裏面 では、一番上が26、 2行目に27と続き、その下段には28、 29と記され、その下段にはSの後にヒ エラティツクで男性が座った姿勢を表す文字記号(ガ‑ディナーのサインリストのA2)が書か れている。そして、この5行目の下には、黒インクで罫線が引かれている。その線の下にも、同 じシステムでSとヒニラティツクの数字、「記号」が記されており、数字は1から5までが見られ る。. 数字が29と座る人物の文字をあわせて30行で罫線が引かれ、そして、再び1から順番に記され ていることから、報告者のマグダウエルは、 30という数字は1ケ月の日数を表現したものであり、 先頭のSが古代エジプト語の日を表すswの省略した形と考えたのである。 ハリングもその考えを踏襲し29の次の行の人物のヒエラティツクが30を表したものとしている が、それに関する納得のいく説明は、なされていない。マグダウエルは、 30日の日付と「記号」 とが、それぞれ対応することから、このオストラコンを王墓造営に携わった職人たちの職務当番 表と推定したのである。また彼女は、このオストラコンの表面の右側の上から13行目の第13日に 記された「記号」がヒエログリフのカーk3 (ガ‑ディナーのサインリストの)に似ていることか ら、この「記号」が職人カサk3s3を表すものと推定し、同様に表面左側の上から3行目の第18日 に記された「記号」がヒエログリフのms (ガ‑ディナーのサインリストの)と同一であること から、この「記号」を職人メスmsを表現したものと推定したのである。そして、このことから 職人であるメスが、カサの5日後に当番をしたことを論じている。 このマグダウエルの職人の職務当番表説をさらに発展させたのが、ハリングである。ハリング は、ハンタリアン博物館のオストラコンとともに未発表のベルリンのオストラコン. 0.BerlinP. 12625)を使うことで、マグダウエルの説を強化することを可能としたのであった。ベルリンのオ ストラコンにも、ハンタリアン博物館と同様に、日付と「記号」が記されており、マグダウエル が論じたメスとカサと推定した両方の記号が、記されており、メスを表すとされた記号が、第5 日と第24日に、そしてカサを表すとされた記号が第19日に記されていた。メスが5日とその19日 後の24日に当番についていることから、 19日ごとに当番が代わる19日制の当番制度が実施されて いたことを示している。さらに、ハンタリアン博物館のオストラコン(0.GlasgowD.1925.80) と同様にメスとされる職人は、カサとされる職人の5日後に当番をしていることになる。 極めて興味深いことに、この王墓造営に携わった職人たちの職務当番表に関して、第20王朝の ラメセス3世の治世第31年以降に、王家の谷の造営に携わっていた職人たちの職務当番制度に大 きな変化が生じたことが、従来の研究により指摘されている。即ち、ラメセス3世治世第31年以 前には、職務当番は19日ごとに交代する方式が採られていた。しかしながら、ラメセス4世治世 になると職務当番は19日交代制から、 30日交代制‑と大きく移行するようになる。何を契機とし.
(9) 古代エジプト新王国時代の所謂「エニグマティツク・オストラコン」について. 111. て職務当番が、 19日毎から30日毎‑と変化したのかは明確ではないが、このことは極めて重要で ある。前述したハンタリアン博物館のオストラコンでは、 30日分の職務当番が全て残存している にもかかわらず、カサ、メスと推定される職人の「記号」は、両方とも1度ずつしか記されてい ない。従って、ハンタリアン博物館のエニグマティツク・オストラコン(0.GlasgowD.1925.1 に記された職務当番は、 30交代制と考えられ、このオストラコンの製作年代は第20王朝ラメセス 4世治世と推定された。こうして、ハリングは最終的にハンタリアン博物館のオストラコンをラ メセス4世の治世第1年アケト季第3月の職務当番と比較している。また19日交代制と見られる。. Ⅲ.王家の谷・西谷オストラコンの問題点と今後の展望 以上、近年のハリングによるエニグマティツク・オストラコンの研究によって、これらの「記 号」が王家の谷の岩窟墓造営に携わった職人を表していることが明らかとなった。特に新王国第 20王朝時代のラメセス3世およびラメセス4世時代における「記号」とそれらが表す職人の個人 名との同定が可能であることが判明している。 王家の谷・西谷で発見された合計13点のエニグマティツタ・オストラコンには、マグダウエル やハリングが利用したような、日付と職人名を示す「記号」とが同時に記されたオストラコンは 含まれていない。また、ハリングが比較資料として使用したような同時期の職人当番に関する資 料も第20王朝ほど残存していないことから、今すぐに職人の名前を類推することは困難であると 考えられる。 早稲田大学が発見したエニグマティツク・オストラコンに非常に類似したオストラコンが、ブ ルイェ‑ルによりデイル・アル‑マデイ‑ナから発見されている。デイル・アル‑マデイ‑ナの オストラコン(図2)は、集合住宅地の北北西に位置する大シャフトから出土したもので、新王 国第18王朝時代のものと考えられるが、出土状況からも正確な年代は不詳であった。王家の谷・ 西谷で発見されたオストラコンに記された「記号」と同一な記号が同じ順番で記されていること から、同一時代のものと考えられる。王家の谷・西谷で発見されたエニグマティツク・オストラ コンは、発掘状況などから第18王朝時代のアメンヘテプ3世からポスト・アマルナ時代にかけて の時代であると推定される。このことが、未だに明らかではない第18王朝時代のデイル・アル‑ マデイ‑ナの編年や実態を究明していく上でも重要な資料となっていくことは間違いないであろ う。. ラメセス朝時代(第19‑20王朝時代)と異なり、第18王朝時代に王墓造営に携わった職人の職 務当番表などの資料が、ほとんど知られていないことから、今すぐに第18王朝時代の王墓造営に 関わる職人組織の実態を解明することは、ほとんど不可能であると言える。 ただし、ハリングの研究によって、エニグマティツク・オストラコンに記された「記号」の幾 つかのものには、職人の名前を表すヒエログリフを省略した形でそのまま使用している例が存在.
(10) 112. していること、時代によって同じ記号でも異なった職人が使用している事実など貴重な情報が得 >:ll^。 また王墓造営に携わった職人たち(特に石工)が、王墓造営だけではなく同時期の石切場でも 作業にあたっていたことが、テ‑ベ西岸の新王国第18王朝時代の石灰岩の石切場があったクルナ 石切場から発見されたエニグマティツク・オストラコンに記されたと同種の「記号」から明らか にできるであろう。 今後は、未発表資料も含め、網羅的にこの種のオストラコンや「記号」を集成することによっ て、新王国第18王朝時代の王墓造営に従事したデイル・アル‑マデイ‑ナの職人の実態が明らか になることが期待される。そして、王家の谷・西谷で発見された第18王朝末期に属すると思われ るエニグマティツク・オストラコンの表面に記された「記号」とハリングらにより明らかにされ た第20王朝ラメセス3世時代のオストラコンに記された「記号」との間に共通の「記号」が少な いながらも含まれていることから、それらの「記号」が、同一の個人名を表現している可能性が あるかどうかを慎重に見極めていきたい。 さらには、王家の谷・西谷をはじめデイル・アル‑マデイ‑ナ遺跡等から多量に発見されてい る「記号」を刻した土器や土器片に関しても個々の職人を表すものと考えられる。そのため、エ ニグマティツク・オストラコンと同様に、これらの「記号」も集成する必要があるだろう。 さらに、何故、 「記号」が使用されたかについても再検討する必要があるだろう。これらの「記 号」を使用した職人集団はハリングの考察でも明らかになったように、必ずしも古代エジプトの 文字体系であるヒエログリフの識字能力が全くなかったとは言いがたい。また、同一の「記号」 が複数の職人によって使用されていると見られることから、同一の「記号」を使用した職人たち の関係がどのようなものであったかを考えていかねばならないであろう。同一「記号」が親子な どの姻戚関係で継承されていくのか、あるいは親方と弟子といった職能関係における徒弟制度な どと関連するのかと言った点にも留意する必要であろう。最後に貴重な資料の提供やこの件に関 して助言・意見をいただいた多くのエジプト研究者に感謝したい。. m ( 1 )本稿で掲げる年代は、 J. von Beckerath, Handbuch der agyptischen Konigsnamen, Mainz, 1999に拠るO (2)欧文表記では、一般的に全体を示す名称として複数形のオストラカ(ostraca)が使用されるが、本稿ではそ の単数形オストラコン(ostracon)をもって全体を表すものとしている。 (3)王家の谷・西谷のアメンヘテプ3世墓およびその周辺の調査で、多くの整痕を持つ石灰岩ブロックを集める ことが出来た。それらの剥片の観察を通して、筆者はオストラコンとして使用される剥片は、たまたま薄く剥 推したものやあるいはより大型の剥片をオストラコンとして使用するために意識的に2次加工したものと推 定している。 (4)ライデン大学のドゥマレー博士(Demar台e,R.)からのPersonalcommunicationによるoドゥマレー博士に よれば、所謂「エニグマティツク・オストラコン」には、第18王朝時代のものと第20王朝時代のものの、少な.
(11) 古代エジプト新王国時代の所謂「エニグマティツク・オストラコン」について. 113. くとも2つのグループが存在しているとのことであるが、資料を詳細に検討することで、筆者は4つないし5 つの小グループに分割できるのではないかと推定しているが、そのためにも資料の網羅的な検討が今後不可欠 である。 (5)リーヴス博士(Reeves,N.)からのPersonalcommunicationによる。リーヴス博士の好意により、 ARTプ ロジェクトで発見された10点のエニグマティツク・オストラコンのトレース図を入手している。 (6)シヤーデン博士(Schaden,0.)からのPersonalcommunicationによる。シヤーデン博士の好意により、発 見されたオストラコン、ポットマークに関する一部の資料を入手することができた。 参考文献 近藤二郎 2005 「文字社会における「記号」の使用‑古代エジプト新王国時代の職人と記号‑」、岡内三賞・菊池徹夫(編) 『社会考古学の試み』、同成社、 15ト164 Bruyere, Bernard 1953. Rapport sur由sfouilks de Deir el Medineh (annees 1948 a 1951), le Caire,. cerny, Jaroslav 1935. 0straca Hieratiques, catalogue general du musee du Caire, le Caire.. Daressy, M. G.eorges 1901 Ostraca, catalogue general du musee du Caire N 1902. 25001‑25385, le Caire, 82‑83, pi. LIX.. FouiUes de la valUe des mis (1898‑1899), catalogue general du musee du Caire Nm 24001‑24990, le Caire.. Gardiner, A. H.. 1957 助tian Grammar, Oxford, 442, 507 Hanng, Ben 2000 "Towards decording the necropolis workmen's funny singns", Gottinger Miszelkn 178, 45‑58. Helck,W. 1955. Zur Geschichte der 19. und 20. Dynastie", ZDMG 105, 27‑52.. Koenig, Yvan 1997 Les ostraca hieratiques inedits de la bibliotheque nationale et universitaire de Strasbourg, le Caire, Kondo, Jiro 1995 "The Re‑clearance of Tombs WV 22 and WV A in the Western Valley of the Kings", in C. N. Reeves (ed.), After Tut ankhamun: Research and Excavation in the Royal Nea.坤olis at Thebes, London, 41‑54. L(ipez, J.. 1980 0straca ieratici; Catalogo del Museo Egizio di Torino, 2"" series, vol. Ill, fasc. 2, Milan, 70, pl.95, McDowell, Andrea G. 1993 Hieratic Ostracafrom the Hunterian Museum, Glasgow (The Colin Campbell Ostraca), Oxford, 4, 5, 19, 20, plates Moller, Georg 1927 Hieratische Pa彪. hie; Die agyphsche Buchschnft in ihrer Entwicklung von derfunften Dynashe bis zur romtschen. Kaiserzeit, Leipzig, ll‑35. Nagel, Georges 1938 La ceramique du nouvel empire a Deir el Medineh, le Caire Parkinson, R. 1999 Cracking Codes; The Rosetta Stone and Decipherment, London, 93 and 96. Petne, W. M. Flinders 1900 The Royal Tombs of the First砂nasty 1900, Part I, London.
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