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モンテーニュと「祈りについて」 (『エセー』第一巻

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はじめに

「祈りについて」という章は,『エセー』第1巻の最終章である「年齢 について」の直前に位置しています.その配置はあたかも,モンテーニュ が自らの肉体について考察を加える前に,(祈りとは何たるかを定義する ことで)自らの精神を整えているかのごとき印象を与えます1).この「祈 りについて」は,モンテーニュの宗教思想を理解するうえで重要なテクス トであります.というのも彼は,この章において,『エセー』の中心とな る二つの考えを提示しているからです.その一つは,内心をめぐる考えで あり,もう一つは,作品の執筆にあたって必須となる,自由をめぐる考え です.

まずは章の構成について見てみましょう.この長さ15ページほどの章 において2),モンテーニュは,直前の章(「匂いについて」)で取り上げた 平凡なトピックから,重大な問題へと話題を転換します.すなわち,人間 は神に対していかなる態度をとるべきか,という問題です.「祈りについ て」は,ローマ教皇庁の検閲を受けたのち3),数々の修正や加筆が施され ることになります.最初のページには次のような修正が見られます.「彼 らによる非難も,称賛と同じく,受け入れるべきものだし,有益なのであ る.というのも,私が無知ないし不注意から述べたことで,使徒伝来のロ ーマ・カトリック教会の聖なる掟に反するようなものが見つかるならば,

私としては,それをいまわしい(1595年版では「非常識で不敬虔な」)こ とだと考えるからなのである」4).また,「罪とその裁き手を,同じねぐら のなかで,これほど仲むつまじく,平和に養ってやって,心安らかでいら れるというのは,はたして,どれほど奇怪なる良心であることか」5)から,

「もしも,わが青春をそそのかすものがなにかあったとしたら,それは,

最近のあの企てに伴って,危険や困難を引き受けようという気持ちが,大

モンテーニュと「祈りについて」

(『エセー』第一巻

57

章)

ベネディクト・ブードゥー

(久保田 剛史・訳)

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きな役割を果たしていたかもしれなかったのだ」6)までの部分では,内心 に関する考察が,1ページ全体にわたって書き加えられています.この章 の最後の大きな加筆では,宗教的な議論が及ぼす危険と,異教徒たちの信 仰に関する例が示されています.その箇所は,「ギリシャの歴史家のひと りが,その時代を批判して,いみじくもこう述べているではないか.『キ リスト教の秘密は,広場のなかにまで広まって,しがない職人ふぜいの手 中に収まっている.だれもが,その考えにしたがって,この宗教について 議論をおこない,勝手なことを言える』と」7)から,「そうした異教徒は偶 像崇拝者でありながらも,自分たちの神々については,その名前と立像し か知らなかった.エウリピデスの悲劇『メナリッペ』の元の幕開けは,こ うなっていたのだ.『おおゼウスよ,あなたのことについて,私はお名前 しか知りません』」8)までの部分です.

この章において,モンテーニュは神学者というよりも,むしろ道徳家と しての姿勢を見せています.彼は,「それ以外の時間はすべて,心のなか は,憎しみ,強欲さ,不正でいっぱいなくせに,食前だけは三度も十字を 切りながら[…],感謝の祈りを捧げている人間を見ると,うんざりして くる」9)と述べて,祈りから悪事へと転じることに躊躇しない,同時代の 人々のえせ4 4信者的な作法に憤りを感じています.また,モンテーニュは,

章の冒頭部分であらかじめ「私が間違っているのかもしれないが」10)と予 防線を張ったうえで,自らが確信するところの個人的見解を,157行にも わたって表明しています.彼はそこで,自由検討の立場(libre examen)

が及ぼす危険を非難して,自らの信仰の土台たるものを定義し,教会の権 威を引き合いに出して,いかにして祈るべきかをはっきりと示します.モ ンテーニュの発言はどれも,人間の領域と神の領域との間に,根本的な区 分を設けることを目指しています.

そこで,このテクストがどのような方法で,ローマ・カトリック教会に 対するモンテーニュの服従を表しているのか,これから検討してみましょ う.モンテーニュは,宗教面での人間のふるまいが,いかに軽率であるか を力説します.そして彼は,あえて神を定義しようとはせず,むしろ人間 との対比のなかで神を位置づけようとします.神はすべてを超越した存在 であるがゆえ,人間の祈りは神に対して何も求めることはできないとしま す.モンテーニュは神のこの超越性を認めて,自分自身の発言を一世俗人 の言葉として正当化します.つまり,権威に依拠することなく,自分の考 えを主張する自由を保つために,世俗人の言葉として発言するのです.

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(₁) ローマ・カトリック教会への従属

「祈りについて」の冒頭からすでに,モンテーニュの発言は謙虚であろ うとしています.彼は「形が定まらなくて,結論の出ていない考え」11)を 提示し,「それらを,私は,私の行動や著作だけでなく,私の思想をも統 制することを任務とする人々の判断に差しだす」12)と述べて,驚くほど従 順な姿勢を前面に打ち出します.

モンテーニュは,教会に対する服従(その度合いは「使徒伝来のローマ・

カトリックcatholique, apostolique et romaine」という,教会に添えら れた三重の形容詞からも明らかです)を宣言したあとで,複数の祈りにふ れて,とくにキリストが命じた「主の祈り」について言及します13).モン テーニュは,「我々の教化の必要に応じて,祈りの種類を拡大したり,変 えたりする」傾向にある教会よりも,福音書のほうを選ぶのです.そし て,さらに後の箇所でも,「教会は,聖霊がダヴィデに口述させた聖歌を,

でたらめに,軽々しく,いい加減に用いることを禁じている」14)と述べて,

再び教会を話題に上げます.この箇所でモンテーニュは,クレマン・マロ などの福音主義者によって推進され,カトリックとプロテスタントの間に 決定的な断絶をもたらすことになった,詩篇の流布・大衆化に反対の意を 表明しています15).モンテーニュは,聖書を歌うことを,神の超越性を揺 るがし人間の次元へ格下げしようとする行為と見なしており,神の声は

「我々の肺臓を鍛えるexercer nos poumons」ためのものではないと非難 します.本当の信仰は心の内から発せられなくてはならないのに対し,聖 歌はたんなる[声と肺という身体器官による]外在的なしるしであるため,

非難の対象となるのです.作品のいたるところで,肉体と魂の密接な結び つきを説いているモンテーニュが,ここで信仰心と歌声を区分しているの は興味深いことです.また,その直後でモンテーニュは,「店の小僧

garçon de boutique」が働きながら詩篇を歌うことを禁じておりますが,

その理由は,自由検討の立場を否定するためではなく,祈る者には真摯な 内省が必要だと考えるからです.聖書を読むには知性や精神が整っていな ければならないとするモンテーニュの考えは,「それは,心を打ち込んだ,

思慮深い行為でなければいけない」16)という文や,この見解をさらに先鋭 化した「それはこうしたことに身を捧げた人々[聖職者]のための学問な のであり,邪心ある者や無知な者は,この学問で,さらに悪い結果を引き 出す」17)という加筆からも,十分に理解できるでしょう.次にモンテーニ ュは,「ユダヤ教徒やイスラム教徒」18)などの手本をキリスト教会に対し

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て示し,多様な宗教の中に一貫して見出される普遍的な論拠の上に,自ら の見解を置こうとします.つまり,「我々の信仰の,聖なる秘儀が記され ている聖書」19)には,真の敬神を可能にする状況が必要とされる,と主張 するのです.

ところで,「祈りについて」には,聖書の読解に関するエリート主義的 な立場とともに,もう一つ注目すべきものがあります.それは,信仰は全 身全霊の結集を前提としており,普段の生活がそこに混じってはいけない という考えです.この点において,モンテーニュの立場は,聖書をキリス ト教徒に近づきやすいものにしようと努めた福音主義と,はっきりと違っ ています.たとえば,エラスムスは,最も卑しい女性たちでさえも福音書 を読み,聖パウロの書簡を読むことを望んでいました20).しかしモンテー ニュは,自由検討の立場は民衆を聖書から遠ざける危険があると考えま す.聖書の大衆化に憧れた初期ルネサンスの熱狂的な様子とは一転して,

ここではより冷静な姿勢が見られます.というのも,モンテーニュによれ ば,人間は根本的に弱い存在であるため,「純粋で,すべての判断を他人 に委ねる無知のほうが,思い上がりや向こう見ずの温床となる,口先だけ の空しい知識よりも,はるかに有益にして賢いもの」21)であるからです.

モンテーニュがこうして,聖書を少数の人々だけのものと見なす理由に は,翻訳に対する不信感があります.彼は,聖書をさまざまな地方語に訳 すことが,神の言葉を多様に変形して,四方八方に撒き散らすことになる だろうと危惧します.翻訳の作業には,まともな裁定者,つまり「優れた 判断の持ち主des juges assez」が必要となるという問題がつきものなので す.翻訳の問題は,レオナルド・ブルーニによる考察をきっかけとして,

当時の人々にとっても切実な関心事となっていました22).ブルーニは,言 葉の背後にあるコノテーションを理解しないかぎりは,文の正確な意味を つかむことができない,という点を指摘しました.それゆえ,翻訳作品に はいかがわしさがつきまとい,とくに聖書の翻訳は,霊感を受けた人々に よって書かれたものであるため,さらに難しい作業となります.モンテー ニュも聖書に関しては,たとえば「主の祈り」は神によって,ダヴィデの 詩篇は聖霊によって,それぞれ「口述されたdictée」書物であると,はっ きりと述べています.当時,ルフェーブル・デタープルやエラスムス,ル ターなどをきっかけに,数々の福音主義者が聖書の翻訳を試みましたが,

トリエント公会議は,彼らの努力に反して,聖ヒエロニムス(342-420年) のラテン語訳を公式の聖書として定めました.エラスムスはロレンツォ・

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ヴァラに続き,聖書の知識はあらゆるキリスト教徒に欠かせないとして,

聖書の翻訳を弁護していました.しかし,モンテーニュは,「聖書に書か れていることが,民衆にさっぱり分からないのは,言葉のせいだけなのだ ろうか」23)と問いかけており,翻訳がある言葉を別の外国語の言葉に等値 交換するだけの作業ではないという点を強く意識しています.神の超越性 は,人間の言葉が持つ不完全さと隔絶している以上,聖書を翻訳して民衆 に広めることは,神の言葉を知らせるどころか,その言葉の力を「骨抜き にする」ことになります.信徒を神の言葉に近づけるどころか,かえって 神の言葉をその真理から遠ざけてしまう危険性があるのです.その点か ら,解釈が「漠然として,自由で,変わりやすく,部分的になりがちな」24) 書き言葉よりも,むしろ話し言葉のほうが誤解を生む余地が少ないのであ り,祈りのシチュエーションのもとで,聖書のメッセージが信者たちに伝 達される,説教こそがより適正だとされます.以上のように信仰が,聖書 の読解や,聖書と一人一人の個人との密接な結びつきによって定義できる ものでないとするなら,それはどのように定義されるのでしょうか.

(₂) 神の超越性とその格下げ

モンテーニュは「祈りについて」の中で,異教徒のプラトンに依拠しな がら,悪い信仰とは,あるいは本当の信仰とは何たるかを,明らかにしよ うとしています.「プラトンは『法律』の中で,神々に対する間違った信 じ方を三つ指摘している.すなわち,神々が存在しないと考えること,

神々は人間のことには介入しないと考えること,そして,神々は,我々の 祈願,供物,犠牲など,なにも拒みはしないと考えることだ」25).ここで 述べられている,最初の間違った信仰とは,無神論のことであり,モンテ ーニュはこれを「人間の一生において変わらずに続くようなことは決して ない」26)としています.二つ目の信仰は,神を永遠不動の第一原理と見な し,善良さと無縁かつ人間たちのことも気にかけない神を信仰する,理神 論の立場であります.モンテーニュはこの二つの信仰のあり方に立ち入る ことはせず,むしろ三つ目の間違った信仰に関心を寄せます.それはすな わち,「どんな計画や試みを企図するときでも神を頼り,必要なら何時で も神に助けを求めるというあやまち」27)であり,神様は人々のどんな願い も拒みはしないという考えです.その後,モンテーニュの発言は他の話題 へと流れていきますが,524ページで祈りに関する話題に戻ります.「そ れがどのような形であれ,神さまとの契りや交わりをお願いするときに

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は,まじめに,おごそかにしなくてはいけない」.続いて,「守銭奴は,む だで,余計な財産のために神に祈る.野心家は,自分の勝利と,〈自分の 女神〉を導くために神に祈る」28)と具体例を用いて,人間によるあらゆる 種類の卑しい,間違った行為,数々の冒瀆的な行為を挙げています.これ らの行為は,三つ目の信仰と二つ目の信仰を近づけるものであります.と いうのも,彼らは,自分たちの邪悪な行動を正そうとしないまま神に祈る ことで,「我々の求めに従ってではなく,正義という理由のみによって手 を貸してくださる」29)はずの神が,当然,正義と一致した結果を出しても,

その一致を無視したり,馬鹿にしたりしているからです.「我々にとって の,唯一無二の保護者notre seul et unique protecteur」である神は,超 越的な存在である以上,本質的に弱い人間たちとは全く異次元に存してい ます.モンテーニュはここで原罪や過ちといった神学用語を用いずに,願 いが叶えられたオイディプス王の逸話を例に挙げて,「我々は,すべての ものごとが,我々の意志にしたがうように願うのではなく,意志が英知に したがうように願うべきなのだ」30)と述べます.

このモンテーニュの信仰告白には,当時の典型的なカトリックの姿勢は 何も見当たりません.というのもこの時代,宗教改革派に対抗すべく開催 されたトリエント公会議は,神の超越性と若干矛盾するかたちで,聖人崇 拝や聖画像の崇拝をカトリック信仰の一部として認めたからです31).モン テーニュにとって,信仰を定義するものは祈りしかありません.

それでは,モンテーニュによれば,いかに祈るべきなのでしょうか.最 も理想的な祈りの方法は,イエス・キリストが弟子たちに教えた祈り方,

つまりマタイとルカの福音書で記された祈りを再現することです.モンテ ーニュはその「主の祈り」をフランス語で引用しながら,祈りの言葉が行 為に基づいたものとなるべく,その言葉の意味を解明します.「我々が『わ たしたちの罪をおゆるしください.わたしたちも人をゆるします』と祈る のは,『復讐や恨みの気持ちなどない我々の心を,神さまに捧げます』と いうことを,言っているのではないか」32).それゆえモンテーニュは,祈 りの頻度は低いほうが,言葉と行為との間に一致が見られやすいとして,

クセノポンの言葉を引用します.「クセノポンは次のように述べている.

『我々は,神に祈るのを,もっと稀にしなくてはいけない.なぜならば,

祈りを行うためには,心をしっかりと律して,悔悛した,献身的な状態に 置く必要があるけれど,そのような状態を何度も実現するのは,簡単では ないからだ.それに,そのようにした上でないと,我々の祈りも,むなし

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く,無益であるばかりか,有害なものとなってしまうのである』」33).しか し,人々が心を正しく律している時だけに祈りを限定しようとするのは,

やや異端に近い考えであります34).なぜならモンテーニュは,神のもとへ と心を高める祈りの効果を無視しているからです.おそらく(これは確か ではありませんが),心というものは,祈りの後のほうが清らかな状態な のではないでしょうか.新約聖書にも「正しい人の祈りは,大きな力と効 果をもたらす」35)という言葉があります.モンテーニュは,言葉と行為と の隔たりを縮めようとしますが,だからといって,祈りの言葉にまじない 的な効果を見出そうとはしません.「実際のところ,どうやら我々は,妖 術や魔術に聖なることばを使っている連中みたいに,我々の祈りを,まる で隠語のように用いているらしい」36).つまり,祈りを魔法の言葉と同一 視すべきではない,と言いたいのです.

モンテーニュによると,祈りには肉体と精神の一致が必要であります.

つまり,我々の祈りが「心を打ち込んだ,思慮深いdestinée, et rassise」 行為となるためには,祈りに向けて身体を整え,その上でさらに魂をも整 えなければいけないのです.ちなみにパスカルは「賭け」の断章の掉尾に おいて,モンテーニュの論理の系譜上で,無神論者に対し,ひざまずいて 信仰の恵みを受け取りやすい状態となることを勧めています37).それか ら,「祈りの前後になされる行動が,何らかの悔悛や改心を証拠立ててい る」38)ことも大事です.したがって,あまり頻繁にではなく,しかし「自 分のあやまちに苦悩する心l’âme déplaisante de ses fautes」を持って祈 ったほうがいいのです.モンテーニュはこの点で,信心深さの指標とされ た数々のしきたり4 4 4 4やしるし4 4 4を取り払って,人間の振る舞いに重点を置こう とした福音主義者たちの考えと接近します.祈りの言葉は,ピタゴラス派 の人々がそう望んでいたように39),神様に対して,あつかましく不正な要 求をしないためにも,できれば公然と唱えられるべきなのです.おそら く,モンテーニュはここで,ピタゴラス派の例を出して,宗教改革派との 差異を示そうとしているのでしょう.というのも,宗教改革派も公的な信 仰告白を強く望んでいたからです.モンテーニュにとって,祈りは嘆願で はありません(異教徒たちの祈りとはその点で異なります).「彼らは,償 いもせず,悔い改めもせずに許しを請うほど,ずうずうしいのだろうか」40) とあるように,和解と償いさえあれば,祈りは神への信頼となり,罪の許 しに対する感謝となるのです.

悔い改めた後に過ちを繰り返した場合,その人は強情の罪を犯している

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ことになります.しかし,信仰心を悪徳と共存させる場合の方が,その罪 はずっと重くなります.それが「祈りについて」の後半部分で挙げられて いる,『エプタメロン』の第25話におけるフランソワ一世の逸話です.

この若き王子フランソワは,有名なパリの弁護士の妻であるジャンヌ・デ ィゾームと密会するために,ブラン=マントー教会の門番の了解を得て,

修道院の中を通り抜けて近道をします.しかし王子は,密会の帰り際に必 ず,敬虔な態度で修道院の礼拝堂に入って熱心に祈るため,「夜明け前の 祈り[朝課]のために出入りする」修道士たちの手本とされてしまいます.

福音主義者であるナヴァール王妃は,こう書いています.「こういう生活 を続けていても,この若君は根は神を愛し畏れる人でしたので,行くとき は素通りでしたが,逢曳の帰りにはかならず教会でご祈祷をなさって行き ます」41).モンテーニュはこれに憤慨して,「つい先ほどまでの愉しい思い に胸をふくらませながら,この方が,一体なにに対して主の恩寵をお願い していたのかは,皆さまのご想像にお任せするとしよう」42)と述べます.

モンテーニュはここで,元の逸話の意味を少し歪めています.というの も,元の物語では,語り手の王妃が驚いているのに対し,修道士たちは,

みすみす騙されているにすぎないからです.リュシアン・フェーブルは,

このモンテーニュの考察に着目して,いっさいの世俗的なものと長らく関 係があったはずのキリスト教が,16世紀後半には,ある種の内向を経て,

より狭い領域に潜行した点を強調しています43)

モンテーニュは,「内心conscience」(心の奥底に正義と不正の観念を 刻む良心の作用)という概念を引き合いに出しつつ,人々を祈りへと駆り 立てる意図を考察します.そして彼は,改革派に共感を抱いているのに,

恐れや利害関係から,相変わらずカトリック派の方針に従う連中を非難し ます.つまり,「自分は一生のあいだ,自分でも劫罰に値すると思い,自 分が内心に抱いているものとは矛盾する宗教を奉じていたし,実践してき たが,それは自分の地位の信用と名誉を失わないためだった」44)などと,

本心を偽る連中のことです.

(₃) 宗教的発言と世俗的発言の分離

神の超越性を明示することや,人間の内心を重視することには,いくつ かのルールや抑制機能が伴います.まず,神の超絶的存在を認める当然の 結果として,人間の思い上がりや,宗教面での狂信的な態度を拒否せねば なりません.

(9)

モンテーニュは,神への信仰を標榜しながらも,くりかえし罪を犯し続 ける人たちに向かって,彼らが罪の中から抜け出そうとしない点や,悪徳 と信仰心を共存させている点を非難したうえで,今度は宗教改革派の宗教 的不寛容を非難します.「知性の輝きを見せながらもカトリック信仰を奉 じている人に対して,『あれは見せかけだ』と決まり文句のように難癖を つけ,あまつさえ,当人に敬意を表するつもりで,『口先でなんとかごま かそうとも,内心では,自分の間尺にあった改革派信仰を奉じているに決 まっていますよ』などという人が,目立つけれど,こうした連中の想像力 は途方のないものとしか思えない.自分のことを過信していて,それとは 逆のことを信じることができるはずがないと思いこむとは,なんと厄介な 病気であることか」45).改革派に対するモンテーニュのこの非難は,倫理 的観点から理解するとよいでしょう.と言うのも,すべてのキリスト教徒 を独り占めにしようとする態度には,賢明さも節度もないからです.こう した改革派が,実はあなた方も心の中では私たちの信仰に同調しているは ずだと言って,自分たちの信仰の正しさを説き伏せようとする時,彼らは 他人の信仰の自由を侵し,思い上がった態度を示しているのです.新しい 宗教が奉じられる際には,「危険や困難le hasard et les difficultés」が却 って人々を急激に駆り立て,秩序正しい信仰の深まり方を無視するという 傲慢な姿勢が頭をもたげる,というのがモンテーニュの見解です.そこで 彼は,対立を生み出す契機となる狂信的な態度を非難すべく,主として古 代の異教徒ニケタスの発言を借りてこう述べます.「宗教的な情熱は,秩 序正しく,節度を守って導かれるならば,神の理性と正義の性質を帯びる ことになるが,人間の情念によって導かれると,憎しみと怨嗟に変じて,

小麦やブドウの代わりに,毒麦や刺草を生み出してしまう.また別のある 人は,『論争というものは,教会の分裂を収拾してくれるというよりも,

これを目覚めさせ,異端邪説のたぐいを刺激するのだ』といって,皇帝テ オドシウスを諫めた」46).こうしてモンテーニュは宗教改革を,まずは(信 仰の違いを尊重せずに他人を改宗させようとする)動機の点で,次に(そ れが宗教戦争の引き金となったという)結果の点で,強く非難します.論 争は分裂を激化させるだけで問題を何一つ解決してくれないからです.

「昔の人が定めた信仰の方式」を遵守することに比べると,何の価値もな いのです.

とはいえ,モンテーニュは矛盾を生み出さないよう,宗教的な領域と世 俗的な領域との分離を主張して,自らが自由に発言する権利を確保しよう

(10)

とします.彼は「祈りについて」の劈頭から,真理の探求を目指して,自 らの「形が定まらなくて,結論の出ていない考えdes fantaisies informes

et irrésolues」を提示するのだ,と述べています.「教会による検閲とい

う権威」47)にたえず身を委ねると宣言するモンテーニュの態度からすれ ば,この発言は曖昧です.つまり,「私はローマ教皇庁の検閲官の判断に 任せる以上,何を発言しようと構わないのだ」というふうに解釈できる し,あるいは「私には真理を述べるという欲望も,思い上がりもない以上,

何を発言しようと構わないのだ」というふうにも解せます.また,別のペ ージでは,「私はまた,自分の時代に,いくつかの著作が,純粋に人間的,

哲学的なものに留まり,神学が加味されていないではないかと批判される のを見てきた」48)と述べて,あまりにも俗人的な発言に不満を唱える人々 に対して,神学的な領域と俗人的な領域を区別しようとします.神学に対 するモンテーニュのこの敬意は,流派の別を問わず一切の「ユマニスト」

たちを[神学から]解放してくれる巧妙な批判を伴っています.「神に関 する議論は,それだけを独立して,その流儀によって考察したほうが,人 間についての問題といっしょにして扱うよりも,敬虔な気持ちで,おごそ かに論じることができる.また,ユマニストが,神学をないがしろにして 書く場合よりも,神学者が,あまりに人間的に書くというあやまちのほう が,頻繁に見受けられる」49).ここでモンテーニュは,のちに「運命

Fortune」という言葉(彼はこれを「摂理Providence」の意味で用いた)

の削除を求めることになるローマ教皇庁の検閲を,先取りするかたちで拒 んでいます.つまり,自らの[神学的]知識を押しつけずに,自分らしい 流儀で飾らずに話すためにも,俗人的な言葉を用いることに賛同を示して いるのです.また,別の箇所では,「形が定まらなくて,結論の出ていな い考え」という一般的な否定表現を改めて,「自分なりの人間的考察des fantaisies humaines et miennes」と言い直します.モンテーニュの発言 は,「自分自身が,神にしたがって信じたことではなく,自分なりに思考 したこと」50)を表明する自由を要求していますが,これこそ政教分離の原 則にあたるものです.とはいえ,彼はあらゆる非難の可能性から免れよう と,おそらくは真摯とでも言うべき一つの条件を自らの考察に付け加えて います.「神の掟ほど,たやすく,優しく,恵み深いものはないのだ.我々 のように,罪深く,憎んでしかるべき存在でも,おそばに呼んでくださる のだし,我々が,どれほど卑しく,汚れた,恥ずべき存在であっても,そ してまた,将来,そうなるべき存在であっても,我々に手を差しのべて,

(11)

その胸元に受入れてくださるのだ」51).モンテーニュの謙虚な態度は,神 の慈悲に対する信頼を押し遣るどころか,逆にそれを強く承認するのです.

最後に一つの問題が残されています.祈る人に対して心の清さを求める ことと,祈る人の内面や俗人的な領域を守ろうとすることを,どのように 両立させることができるのかという問題です.この二つの主張は矛盾して はいないでしょうか.モンテーニュは人間が悪徳に染まりやすい傾向を認 めているように思われます.彼が拒むのは,人間が「悪徳にまみれた生活 の渦中にありながら,神の助けを求める」52)ことです.人々がその弱い本 性ゆえに,悪事や嘘偽りに引きずられることを,神はその超越性によって 認識しています.だから,モンテーニュによれば,人々が神に心を向ける 際には,まじめに,おごそかに,そして誠実に徹しながら,祈りの言葉に しかるべき意味を込めなければいけないのです.その点で,モンテーニュ の意見は,人々が心を正しく清らかで敬虔な状態にして祈るために,「我々 は,神に祈るのを,もっと稀にしなくてはいけない」と述べたクセノポン と非常に近い立場を取っています.宗教的な主題を扱うに際し,モンテー ニュは,古代の異教徒に依拠するかたちで,つまりはユマニストの流儀に そって考察を行っているのです.

おわりに

「祈りについて」は,モンテーニュの宗教的立場を理解するうえで非常 に重要な章であります.彼はこの章で,カトリック教徒の立場を表明して いますが,その理由は彼が古くからの制度に信を置いているからだけでは なく,宗教上の憶見をあれこれ取り替えようとする人間の思い上がりに対 して,警戒心を抱いているからでもあります.既存の制度は,古くから信 用されている以上,たやすく変えてはならないのです.また,以前から 我々の間で奉じられている宗教上の信念よりも,自分たちの信念のほうが 正しい,などと考えるような思い上がりも抱くべきではないのです.なぜ なら,そうした態度は,人間の根源的な弱さを無視する結果に終わるから です.モンテーニュは,神の超越性を明言した上で,祈りの言葉が行動と 一貫性を保つよう求めます(この点で彼は,キリスト教徒の行いを重視し た福音主義に通じています).その一方で,モンテーニュは,世俗的発言 と宗教的発言を切り離すことで,自らの「考えfantaisies」を自由に生み 出せるような書き方を,権利として打ち立てようとするのです.

(12)

1) 『エセー』第二巻の最終章(「子供が父親に似ることについて」)も同様に,

病気と老いに関する話題で幕を閉じている.

2) 以下,『エセー』からの引用文および頁番号はすべて次の版に準拠している.

Montaigne, Les Essais, édition réalisée par Denis Bjaï, Bénédicte Boudou, Jean Céard et Isabelle Pantin, Paris, Le Livre de Poche, coll. « La Pochothèque », 2001, pp. 512-527. なお,訳出に際しては,モンテーニュ

『エセー(2)』,宮下志朗訳,白水社,2007年を適宜参照した。

3) 教皇庁図書検閲官による『エセー』の検閲とその顛末については,モンテー ニュ『イタリア旅日記』,関根秀雄・斎藤広信訳,白水社,1992年,pp. 152- 1531581320日の記述)を参照のこと.

4) Montaigne, Les Essais, op. cit., p. 513.

5) Ibid., p. 516.

6) Ibid., p. 518.

7) Ibid., p. 520.

8) Ibid., p. 522.

9) Ibid., p. 516.

10) Ibid., p. 513.

11) Ibid., p. 512.

12) Ibid., p. 513.

13) Ibid., pp. 513-514.「主の祈り」は,新約聖書「マタイによる福音書」(六 章9-13節)あるいは「ルカによる福音書」(十一章2-4節)を参照のこと.

14) Ibid., p. 518.

15) クレマン・マロの『仏訳詩篇五十篇』は1543年に出版されたが,その一部 は1530年代からすでに知られていたであろうとされる.なお,マロ訳の詩篇 は,テオドール・ド・ベーズによる残りの仏訳詩篇と合わせて,のちに『ユグ ノー詩篇歌』と題して出版された.

16) Ibid., pp. 518-519.

17) Ibid., p. 519.

18) Idem.

19) Ibid., p. 518.

20) Erasme, le Paraclesis, ou Exhortation placée en tête de la première édition du Nouveau Testament (1516), in Œuvres choisies, traduction de Jacques Chomarat, Paris, Le Livre de Poche, 1991, p. 447.

21) Montaigne, op. cit., p. 519.

22) レオナルド・ブルーニは『正しい翻訳についてDe Interpretatione Recta

1426-28年)において,ある単語を翻訳する際には,その単語が言語内部で

(13)

持つ意味作用を正しく把握しないかぎり,正確な言葉に翻訳することはできな い,と説いた.そのため彼は,翻訳者には起点言語と目標言語の「両言語の理 解Utriusque linguae peritiam」だけでなく,起点言語に関する文学的な技 能(Multiplici et varia ac accurata lectione omnis generis scriptorum)も 必要である,と主張した.ブルーニの翻訳論については,Leonardi Bruni Aretino, Humanistisch-philosophische Schriften mit einer Chronologie seiner Werke und Briefe, éd. Hans Baron, Leipzig-Berlin, G. Teubner,

1928, pp. 84-85を参照のこと.ちなみに,翻訳に関する議論は,エチエン

ヌ・ドレによる『一方から他方の言語に上手に訳す方法La Manière de bien traduire d’une langue dans l’autre』(1540年)をはじめとして,フランスで も学者や作家たちの関心を寄せた.

23) Ibid., p. 519.

24) Ibid., p. 520.

25) Ibid., p. 514.

26) Idem.

27) Idem.

28) Ibid., p. 524.

29) Ibid., p. 514.

30) Ibid., p. 526.

31) 「諸聖人の衣服やさまざまな持ち物は,どんなに無用なものであれ,彼らが この世を去る前にも,諸々の病気を取り除くなどの特効をもたらしたのである から,神は諸聖人の遺灰や遺骨,あるいはその他の聖遺物にも,同じような奇 跡をお与えになるのである」(Catéchisme du Concile de Trente, III « Du Décalogue », chap. 29, § 4, p. 355)

32) Montaigne, op. cit., p. 524.

33) Idem.

34) それゆえ,この考えが記されている部分は,「教皇庁図書検閲官」から訂正 が求められたのである.

35) 「ヤコブの手紙」五章16節.

36) Ibid., p. 527.

37) パスカル『パンセ』(ブランシュヴィック版233,ラフュマ版418):「それは,

すでに信じているかのようにすべてを行うことなのだ.聖水を受け,ミサを唱 えてもらうなどのことをするのだ.[…]もしこの議論が君の気に入り,君に 有力なものと見えるとしたら,次のことを知ってもらいたい.すなわち,これ を記した人間は,自分の全存在を捧げているあの無限で不可分の存在に向かっ て,君自身の幸福と彼の栄光とのために,君の存在を彼に従わせるようにと祈 る目的で,これの前と後にひざまずいたということである」(前田陽一・由木

(14)

康訳,中公文庫,1973年,pp. 163-164).

38) Montaigne, op. cit., p. 515.

39) Ibid., p. 526.

40) Ibid., p. 517.

41) マルグリット・ド・ナヴァール『エプタメロン』,名取誠一訳,国文社,

1988年,p. 263

42) Montaigne, op. cit., p. 525.

43) Lucien Febvre, Amour sacré, amour profane, Autour de l’Heptaméron, Paris, Gallimard, coll. « Idées », 1944, p. 279.

44) Montaigne, op. cit., pp. 516-517.

45) Ibid., pp. 517-518.

46) Ibid., p. 520.

47) Ibid., p. 513.

48) Ibid., p. 522.

49) Ibid., p. 523.

50) Idem.

51) Ibid., p. 527.

52) Ibid., p. 525.

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