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La ≪Lettre≫ de Julien Sorel

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

La ≪Lettre≫ de Julien Sorel

高木, 信宏

https://doi.org/10.15017/2332563

出版情報:文學研究. 90, pp.71-87, 1993-03-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

ジュリヤン・ソレルの<手紙>

木 宿 宏

スタンダ−}レの長縮小説

f

赤と黒jのなかでも,とりわけジ、ュワヤン・ゾレ ルによる組撃の挿話は,未解決と見なされる問題のために今日にいたるまで批 評家や研究者たちの筆をたえず駆ちたたせてきた。というのも,内的独自や作 者の介入によって,あれほど執揚に作中人物の心理分析を披露したスタンダー ルがくだんの場面接関になかで(テクストの余自においてさえも入主人公の 犯作の動機や心理などについてまったくの沈黙を決めこんでしまったためなの だが,それにくわえて歴史的なモデルの存在が事需をより複雑にしているcた とえば,ジ、ユリヤンの発砲のプロット上の必然性をごく単純に現実のモデルに みとめるばあい,作品としての髄鑑がテクスト外部の事実に限定されてしまう のでは会いかという懸念がとうぜん考えられよう。この点にかんして,賢明な モーリス・パルデーシュに散い,ベルテ事件と『赤と黒』の筋立ての患縁関係 そのものではなく,両者の精神的な色彩をへだてる作家の想、後力へと視隷をむ けることで窒小説の起源探究の正当性をも保証しようとする立場から解釈にと りくむこともけっして不可能ではあるまい〜しかしながら,多くの人々にと っては,狙撃はあくまでも主人公の真の清熱の顕現にほかならぬ内的運動の必 懇でなければならず,物語の骨子の自立的な根拠をテクスト内部の読みによっ て見いだそうという解釈の試みがその主流となった,といえるだろう九

このような心理主義的な立場にたいして,ジ、エラール・ジュネットによって 物語論的な視点から注目すべき見解がもたらされる九なぜならば,そこで彼 がしめす考えは,パルザッタやメリメまど作家の同時代人や後代の批評家エミ

(3)

ール・ブアゲなどによる

f

赤と黒j批判という文学史的な現象をたくみ するのみならずペアンワ・マルティノやピエールヱジョルジュ・カステック ス等の先行研究の視点を無効にしかねないたぐいのものだったからである。く だんの挿話において関われるべきは,われわれの視界から消去されたものでは なく,なにゆえにそれが消去されたのかという理由なのだ,とも換言できるジ ュネットの姿勢は心理的不透明さじたいのもつリアワティーに審美的な価値を みとめるものであるだけに,ジ、ユリヤンの和行の寄異さを心理学的な可知性に 還元しようとする立場と詰まったく栢いれない性質であることだけ辻たしかで あろう。だがいずれの立場にせよ,議論の中心は挿話における心理的な注釈の 不在にあったわけである。弘下の考察で,われわれは主人公の不可視の心理を 積橿的に問題にすることをみずからに禁じることになるのだが,それ辻これま での研究に批判的なためというよちは,むしろ担撃の挿話を構成する『赤と

いるがゆえに現実のそデルにはない豊かさを作 品の形象化に保証する顕在的な要素に,まなざしをむけたいからにほかなちな

ρ

ラ・モール伯爵宛の

v

…ナル夫人の手紙を読んだジュワヤン・ソレルが,パ

1を発ちヴェリエ…ルの教会で夫人を犯撃するまでの挿話は,ガルニこに新版で わずか

1

ページにもみたないものである。そのためか,作家による注釈の少な さや心理的な記述の意図的な削除ばかりが文体的な特鍛としてもっぱら強調さ れて語られてしまうのだが,しかし,その個々の細部に眼差しをむけるなら ば『非と黒j的としかいいようのない要素がしかるべく記蜜され,この挿話を 活気づけているのを無担すること誌できまい。じっさい,野心と恋の駆けひき に彩られた現実の首都から,愛と死の最終章が農関される「架空の町

J

への主 人公のトポロジックな移動を措く いくつかのそチーフ 入することでこ を作品

f

蔀と黒

J

にふさわしく構造化している を裏づけるにふさわし いままでに一度ならずなされているの

(4)

たとえば,ハンス・ポjレ・ヨハンセンは継起的におこる

2

つの「旅jをモ チーフとして分析し,ジ ユリヤンの動転をしめすシニフイアンとしてのその機 能を正しくいいあてていよう九また,ジュヌヴイエ…ヴ・ムイヨ…は挿話中 の

f

教会jを第

l

部・第

5

章と 「教会jと照らしあわせ,共通の要素 を探りだすことで,それらがいわば ともいうべき特権的な設問とし てテクスト内で機能している を鮮やかな手つきで翠き影りにしてみせて いる6)。これらの先行講究が われおれにとってきわめて刺殺的だといえるの も,そこで問題にされるのが物語的構成の説集や連鎖ではなく,小説空間にお ける と変奏というー離の相同関孫であるからにほかならない。

それは,いわゆるリアリズムとはまったく異なる視点から,作品の細部開士の 重ねあわせや全体的な情報という手続きを介して それらの賠応関採や機能的 身振ちの同一性を抽きだす読みであり,そのようなモチーブ群の鋒捺や交錯に よって構成されるひとつの挿話が物語の連続性という視点に収まりきらない かたちでテクストに織ちこまれているさまを読む者の視界に鮮鳴に浮かびあが らせるものなのだ。したがって,

f

赤と黒jがとちわけ狸撃の挿話をプロット の点でいかに現実のベルテ事件に負っていようとも,もはや両者は形象化した 複数の縮部同士のとりかわす毘配せゆえにまったく似てはいないとさえいえる のであるa

また,このような方法において,物語の「真実らしさ」という問題さえもが 熊点化されえないという意味では われわれはジ、ユネットともあきらかに異な る観点に立っているわけなのだが,では,くだんの挿話中に

f 旅 j

や「教会j 以外の

f

ホと黒

J

的な特権的よそチーフとして ほかにどのようなものが見いだ されるのかという に答えるために,まずジュワヤンがヴェワエールへとむ かうくだりから見ていきたい。

ジュリヤンはヴェリエールへ向けて出発したのである。急ぎ旅の途中で,マチjレド に手紙を書こうと思ったが,どうしても書けなかった。手が紙の上に,字の形になら

(5)

ぬ殺を描き連ねるばかりだった。i)

手紙の書けぬ風呂をめぐっては,主人公が陥った

f

夢遊状態jのためとも,

車の振動のためとも,多くの議論がなされてきたわけだが,もちろん,そのよ うな心理的・物理的な次元に議論をもどす話的で,この部分を引用したので

i

ま ない。ほかならぬ,文字にならない線を書急速ねるという運動そのもののイメ

ジこそが,このうえなくジ、ユリヤン・ソレル的な身撮りとして読者に感受さ れうるような小説的構造体の一端を,「手紙jという主題の分析をつうじて顕 現させたいからであるのここであらためで強調するまでもなく,

f

どうやら 簡体の小説にな与そうだな

J

8)と主人公をしていわしめる小説

f

赤と黒jが, 筋立ての点でも「手紙

J

をたびたび

恋の戦術や野心の挫折といった展開においてと与わ ることは周知のとおりである。だがむしろ,

を担わせてい になるとき,なに よ与もまず患いおこさねばならないのは,さきにヲ

i

いたジュリヤン・ソレルの シニカルな技きがいかにも灰めかしているように,いかなる場面においても後 なる書簡が,真の情熱の特権的な媒介手段として機能することがないと いう事実であるa スタンダ…ルが情熱悲愛の理想として引きあいだす

f

エロイ ーズとアベラールの手紙jや

f

ぽるとがる文j9)に見られるように,告白の文 句を手紙のなかで露にすることをジュリヤンはけっしてしないのだむしかも

自すべきことに,そうした態定詰スタンダール的恋愛においておよそ間外的な 部類に揺するものなのであるω。したがって,主人公の「手紙jの

えるうえで重要なのは,彼が「手紙

J

と取りむすぶ関係のよそよそしさだとい ってもさしっかえあるまい。換言するならば,ジュリヤンにとって「手紙

J

と は,自己の赤裸々な内閣の伝達手段としてふさわしからぬきわめて社会的・戦 略的な領域に属するものなのである。たとえば,マチルド・ラ・モールからの 最初の恋文にたいする被の慎重をきわめた返信を思いおこしてみよう。

(6)

f

これはまたどうしたことでございます,お嬢さま,ラ・モール家のお嬢さまとも あろうおかたが,お父上の詑撲アルセ…ヌを通じて,ジ、ユラのしがない材木践の小せ がれなどに,為まちにもおやさしいお手紙をお渡しになるとは。きっと正催者のわた くしをおからかいになるおつもりでございましょう……jそこで,さきほど受けとっ た手紙のなかから,いちばんはっきり を書き写した。ll)

マチルドのことばを引用するこの文面がこのうえなく残酷会のも,それがたん に相手の気持ちをはぐらかすものだからではなく,同士会の最下曜に嵩してい

る 男 j

に手紙をだす行為そのものが

f

社交界に大きな議撃をあたえ,自分の階 級を傷つけるうえに,軽蔑

i

こ講ちた,拭い去ることのできない汚点j12)である

ことを,彼女の自尊心にあらためて思い知らせるものだ、からにほかなちない。

もちろん,この返信がこのように社会的・階級的な色調を帯びるのは,

の社会的な上昇を物語的な主題として作品が導入している以上,いわ

な必然なわけなのだが,おそらくその事実にもっとも自覚的であるの

i ± , r

いてはならないことがある

J

13)というナポレオンのことばを貯に銘じて理解す るジュリヤン告身をおいてほかにあるまい。とはいえ,たんに散の陰謀にそな える野心家の戦略という防御的な髄冨からのみ 手紙を書くという行為への主 人公の配震が問題になるので

i

まないのだ。設の手紙にたいする 摸重さ

るためには,たとえば,ジュリヤンからナポレオンの教訓を以前開いていたに もかかわらず,結局マチルドの方は告告の手紙をしたためてしまったという相 違を思いおこす必要があろう。おそらく

2

者の違いはそれぞれの育つ

ともいえるのだ。というのも パリの大貴族としてしかるべき教育 をごく当然のこととして享受した彼女は,文学を書くという行為にたいしてジ ユリヤンほど敏感でも慎重でもないはずだからであるむつまち,後女にとって はごく違和感のないかたちで身についた事柄も,ジュワヤンのような第

3

の§~こは,社会階}警部な違いを色濃く瑛しだしもする特権的な事象にはか ならないのである。

(7)

'?

」伊 をよりよく理解するためには, 中等教青による

ランス

し進められたとはいえ,当時のフランスの人口のうち正しくブ くことのできる人間の割合がどれくらいであったかを患いおこす 必要があろうへしかも,無積の義務教育によって地方の一小村にま

育がもたらされるのは

1 8 8 1

年までまたねばならない。いうまでもなく,

ジュリヤンのような出自の青年がラテン語の読み書きができるということ は,きわめて例外的な出来事ごとのである15)0 ソレル親翁が息子の読書擦を

f

本 ぐるい」と増み嫌うのも,「自分自身字が読めなかったjωからにはかならなか ったし,むしろその世代の下履階級の入簡にとって試それが普通だったと てよい。しかし,文字にかんする歴史的・社会的な細部をとりいれることによ って,

f

赤と黒jがこのうえなく刺激的な作品となるのは,続学というものの

となる瞬間で為ろう。ジ、ュワヤン いれられる挿話において,

いるかどうかである。

としてう・モール家 して

それかち一時間たつと,侯爵がはいってきて苓しに話をとおしたが,ジュワヤンが cela〔それ〕という語をεcllaとl

2

つで書いているのに気がついて,びっくりしてしま った。〔…〕

celaという学はひとつでいいんだよ。写しがすんだら,綴りiこ吉信のない字は辞 引にあたっておきたまえjf税 課 け 隼 長l17) 

いうまでもなく, とごとっている

のでないことは,ここでスタンダールが選択している(c

e l a

}という語からもあ きらかであろう。まさに,フランス諾を誤りなく綴れるのか否かという,書く という行為そのものが関われているのである。そして,ジュリヤンが犯した綴 りの誤りは,たんに教義の不足を読みとるだけですむ問題ではなく,彼の育っ た社会的境活と知的環境を一挙に露呈させるものとして捉えねばならないの

(8)

だ。というのも,当時のフランス諾の読み書きができた入時のうち,正しく れる者の数ははるかに少なかったのであり,もちろんそれは特権階級と一部の 中産階殺に属する人間たちに限られていたからである。じじっ,フランス

として,正確な綴字をさだめた正書法が国定となるのは,『赤と の出版のおよそ

1

年半後の

1 8 3 2

年なのだ∞。したがって,ラ・モーjレ長爵 の要求する正確な緩字法とは,王政援古期にあってことばづかいや物腰や装い などとともに教義階級とそうでないもの選加すべく残酷に機能する階級的な符 牒にほかならないのであるω。おそらく,ラ・モ…lレ家に迎え入れられるまで に文字を綴ることにはすでにもうしぶんなくd慣れ親しんでいたとはいえ,ここ であらためてジ、ユリヤンの自尊心と野心が,文字というものによって患い知ら される緩字法の習得の義務を,どれほどの衝撃をもって意識したかは想橡にか たくないむたとえば,さきにふれたマチルドの~文の挿話は,同時に,綴りの 間違いをおかしたとき以来,いかに設が洗練し様式化した書きことばというも のにたいして細心の注意がゆきとどくようになったのかをもさりげなく示唆し ていようc

後は筆跡を調べはじめた。ラ・モール嬢の字体はなかなかきれいなイギリス風の字体 だった。彼はうれしさをまぎらわすために,なにか別のことに気を使わないではいら れなかったのだ。

もはや,ジュリヤンにくらべて,マチルドが書くという行為にたいしてそれほ ど数感でない理由辻あきらかだろう。むしろ,毎日顔を合わせてい去が を口にしえずに,それを手紙に託さざるをえないマチルドの姿が,「いくらで も龍単に話しあえるのに,まったく手紙の貯きな娘だな

j

21)とつぶやくジュリ ヤンとは対照的に,読む者に恋する娘の純情さや惹恥心を患い描かせてしまう 点では,彼女の方がはるかに告自の伝達手段としての書きことばの透明さを素 朴に信頼しているようにみえるむむろん, は,社会のあらゆ

(9)

が自分たちにあると確信する者のみに特有な安心感がいくぶん入り浪じってい るのは指損するまでもなかろうG 反対に,そこまで幸せで、も鈍感でもないジュ ワヤンは,自身を上流社会の人間として控造すべく,特権階級の洗練され様式 化された書きことばにたいする,ひいては

f

手紙jにたいする自身の積接的な 関与を確立したにちがいない。そして,彼において戦略的な重要性が強く

されれば,それだけいっそう書きことばや手紙の様式や習 慣

i

え そ の 高 震 に 技 巧と熟練を要求するコ…ドの体系を露呈することになり,告然らしさからはか け離れたものとして意識されざるをえないのだG その意味では,

f

手紙jによ る告白という点でジ、ユリアンが『アルマンス

i ゃ f

リュシャン・ルーヴェンj の主人公たち,つまり貴族や銀行家の子息たちとはきわめて異なる素振り せるのも,ごくとうぜんのことといかねばなるまい。

ところで,ジ、ユリヤンの世渡りの強力な武器がその驚異的な記情力である点 について辻,もはやいちいち例をあげて説明するまでもないだろう。また,彼 がその能力をことさら誇りにおもうほど愚かではないことも,彼はその龍カに たいする人々の賛嘆の念を和用しているにすぎず\むろん論ずべき問題ではな い。そのようなジュリヤンの掠るまいがことのほか重要なのは,時諦というー 謹のひけらかしのもつもうひとつの側面,すなわち,カムフラージ、ユによる自 という

t

喪能の点においてなのだ。というのも,ジ、ユリヤン・ソレルの 社会的な基本戦略として一貫して認められる真の自己をつつみ隠すという は,かたちをかえて彼の

f

手組jにもあらわれているからであるむ暗諦のもつ 即興性やパフォ…マンス的な要素こそないものの,ジュリヤンは「手紙

j

のベ クトルをなにかを臨すことに みるいは書簡の受信者の眼差しを真実から逸ら せることにむけている。われわれが彼の「手紙

J

の社会性・戦略性を する根拠以,すでに指模したナポレオン的な告自の禁忌や,綾字法の喚起する 階級性だけではなく,対人関採において入の自をあざむく手段といった戦略 的・績極的な側面にも見いだすことができるのである。

そのような実践として誰しもが認めることのできるジ、ユリヤンの特権的な身

(10)

振ち,ぞれはほ

i 沼 J

為 る い は 円

i

き等し」という行為にはかなるまい。われ われはすでに,彼がタlレチュフ的慎重さからマチルドの恋文の文句を

i

用するのをみた。もちろん,彼がそうするのも,手紙を読むものが彼女た だひとりに限られるとは絶対 きないから

おれの返事はだれかに見られるかもしれない。それにはこういう手があるぞ,と残忍 な口調になるのを抑えながら,ゆっくちとつけ加えた。議出しに,あのすばらしいマ チルドの手紙のなかでいちばんはげしい文骨を,そのまま捜ってやろう。221

ここで詑自しなければならないのは マチルドの「いちぜんはげしい文句

J

そ のものは少しもつまびらかにされておらず またジュワヤンの返信じたいすで に例としてあげた文面以外を読者は知ることができないという点であろう。こ よってもっぱら強摘されるのは,彼の返信のおそろしく戦宇野的な性格 であり,またそれを要求する社会的な環境なのである。すなわち,小説『赤と

黒 i

が形象イじする社交界では第

3

者の介入の可能性によって,書簡の送り手と 受取り入のあいだの一見爵ざされた関係が たえず、緊強を強いられるのだ。と うぜ、ん,そのような社会的な磁場に敏感であれば,甘美な恋愛がその弛緩しき つに注目を密やかにさらけだすことなどとうていできはしまい。反対に,

の社会性をきわだてる要素としてそこに認められるのは,手紙の受信者の2重 化という現象である。さき

i

まどのジュリヤンの返告における引用は,マチlレド その入ではなく港在的な手紙の読み手にむけられていたのをあらためて揺摘す るまでもなかろうむさらにこのほかにも,類似した手紙の例拭小説の第

1

部の なかにも見いだせる。それは ふたりの関部にむけられたレーナル氏の疑惑の まなざしを歎くためにジ、ュワヤンとレーナル夫人が結託して偽造する手紙であ る。収容所長ヴァルノが霊名でレ…ナル夫人に宛てたように装われるこの手紙 は,ほかならぬレーナル氏に読ませる目的で作成されたので、あり,それも が考えた文面どおりにジュリヤンが本の文字を切り抜いてヴァルノの薄青い紙

(11)

に貼りつけてできあがるのである。だが これらのばあいのジュリヤンの

2

化のしぐさは,攻撃的というよりはむしろ防得的なものにとどまっていた。そ の意味で,真にジ、ュワヤン,ソレルにふさわしい振舞いが見いだせるのは,マ チルドの恋心をふたたび呼び覚ますためにブェルヴァック夫人に橘りの恋文を き送る挿話に;まかならない。まず,われわれにとって興味深いのは,ジ、ユリ ヤンがけっして自分で手紙の文面を考えたりはしない点である。彼はコラゾブ どおりに,カリスキーという男が美人のクゥエーカ…教徒の女に宛 てた

5 3

通の手紙を,イギリスの地名のままになっているのにも気がつかぬほ ど,ただひたすら番き写して夫人のもとに弱けるばかちである。むろん,ブエ ルパック夫人との恋の文通は内密であってはならず,その存症は是が非でもマ チルドに知られなければならをいのだ。たとえ関接的な方法であっても,彼の 恋文の真実の名宛人がマチルドであるの辻いうまでもなかろう。以上の例にお いて,ジ、ユリヤン・ソレル的な「手紙jをきわだたせる「引き

' J F .

J

f

手紙

2

重イじという特権的な身振りが,戦略的な色彩を背景にし した機能ぶりをしめしているのがあきらかに認められるはずだ。

さて,ジュリヤンの「手紙jが,スタンダーjレ的な世界においてきわめて例 外的にも,愛の告自を排除してしまうような社会的・戦略的な領域に嵩したも のであるという事実を確認しおえた以上 われわれはすでに提出しておい 題にふたたび庚らねばなるまい。もはや,狙撃の挿話において,ジュリヤンの

[手が紙の上に字の形にならない線を播急速ねるばかりだったjという身振り が読む者にこのうえなく喚起するものとは,とつぜ、ん彼をおそった主題論的な 失調現象いがいのなにものでもないだろう。もちろん,このジュリヤンの機誠 的な仕撞が,たとえばブエルパック夫人宛の手紙を審き主主すあの単調な身振り をどこか思い起こさせるものである点も見寄としてはならないのだが,ごとによ りもまず、ジ、ユリヤンの「手紙

J

が社会性・戦略性に緊密に結びつい

的な機能によって物語の持続にたえず作用していたからには,書くべき内容を 見いだしえない主人公の身撮りとは,彼の踊ってしまった社会的な宙づり状態

(12)

をあざやかに滞き影りにしているというべきものなのだ。ジュリヤンの野心が 居前にしていた

しての地位もう・モー

ょ っ

して消えさっ

リヤン・ソレル・ド希う・ヴェルネ と とのつながりも,公爵宛のレーナル夫人の手紙却に

,このあまりにも突然な転落の事実は,ヴ ェリエールの武器薦人がジュリヤンに出世のお世辞をのべるという組部からも みてとれるようにまだ社会に広く知れわたってはおらず そのようなイ患者によ る認知がなされていない分社会的なアイデンティティーは不安定たらざるを えまい。あるいは視点をかえて,社会的な転落者とよぶにはあまりにも時期尚 早であるのは,物語の持続という点からすれば主人公が過渡的・港在的 にとどまっているためだとも言い換えられよう。ジ、ュワヤンがふたたび(そし てそれが最後になるのだが〉手紙を番くことになるのはもちろん狙撃の後しば らくたった牢獄のなかでなのだが,それが可能になったのも,もちろん彼が犯 という新たな洛印をおされることによって,いったんは喪失した社会性を いまいち にと与戻したからにはかならない。たとえば,ジュワヤン が,

f

面倒な社事(un ennuyeux d

e v o i r

)がのこっているなjと考えごとがらマチ ルド宛てに書いた最後の手紙には,犯罪者としての社会的な配慮がつぎのよう にしめされている。

もうこれからは,わたしは手紙を書いたり,あなたの名前を口にしたりしません。あ なたも,わたしのこと以いっさい口にしないでください。たとえわたしの子供が相手 でも。黙っていることだけが,わたしの名誉を守る避です。世間のひとにとっては,

わたしはありふれた人殺しということになるでしょう。ω

マチルドにこれから先の身の処し方について,揚名などをつかいすべて内密に ように指京したあとで,ジュリヤンはシェ…クスどアの

f

オセ官…

J

から イアーゴーの台諦を引用して手紙を締めくくる。

f

今からは一言も口を聞くま

ぃ j

という文句は, 2 に終止符を打つために

5 i

かれているのだが,そ

(13)

の き

j用が第

2

にみいだせるマチルドの手紙の日オセtJ‑

ような課予の害出し

J

25)に対応したものである点はすでに指描されている2針。 しかしながら,このイアーゴーの台調に注目するのも,ここであらためて愛す る女を殺害するというオセロー的 強襲するためぜかりではなく,その 台詞そのものはシェークスピアのテクストのなかでイア…ゴーの謀略の動機を 間接的に開いただすオセローの台詞への返答として霞かれていた点がきわめて く思われるからにほかならないcたしかに,ジュリヤン・ソレルとは,

自身のうちにオセ口ーとイアゴーの共存と呼ぴうるような2罰性をもっ であり,そのばあい前者は情熱の領域を代表し,後者辻偽善・策謀といった社 会的な領域を代表するものだ。それゆえ,ジュリヤンの最後の手紙のなかにイ アゴ…の名が見いだされる事実は,われわれが問題にしてきた主人公の の社会性をあらためて裏づけもしようし,ひいては,狙撃の挿話におけるジュ

リヤンがオセ口一的存在いがいのなにものでもないことを,いまやイアゴー的 モチーフとも呼ぴうる[手紙jのあのこのうえなく見事な挫折によって語るこ とも可能なはずである。それにしても,もとのイアゴーの台詔が返答としての 機能を担っていたのだ、ったら,ジュリヤンがそれを引用するのも,なに者かの 関いへの返答だと考えられをいだろうか。だとすれば,とうぜ、ん犯行の動機を 訊ねるであろうマチルドを先制したものと捉えるのが妥当で、あろう。しかしな がら,今日まで多くの研究者が指摘し,また問題にしてきたように,作者スタ ンダ…ルが狙撃の挿話においてジュリヤンの犯仔の動機や心理状態を意図的に 臨薮したのであるならば,イアゴ…の台認はそのよう令作者の意閣にも ものとみなされまいか。もちろん,そのばあい認められるのは,この台詞の発

と受信者それぞれにおける 2重北という現象にほかならず,ジュリヤンと マチルドの関係に作者と読者の関係が重なりあっているのだといえよう。この ように思いがけないかたちで,われわれの視界に浮上する「懸置

J

,「引用

J ,

r 2

重化jという主要モチーブがこのうえなく興味涼いのは,たんにジュリヤ ン的な「手紙

J

の主題論的会常数が確認できたからではもちろんなく,それら

(14)

がテクストの内部から外部にむかう運動として,まさに という関ざさ きたためにほかな れた意味作患の場を限りなく不可能にしている

らないむ

では,本稽を終えるにあたって,

f

赤と黒jの

2

人のとロインの相違につい て

f

手紙

J

という主題との関連から若子の指構をしておくことにしよう。ま マチルドのばあい,性格や心理的な状態はその手紙にきわめて惨辞学的に 反映されている。そのことは すでに触れた汀オセロ…

jの芝患のよう

出し

J

というような箆所にも窺えるのだが ジュワヤンとの結婚が不可能にな っに盤天ぽ場出におけるつぎの手紙にも顕著に認められるだろう。

なにもかもおしまいです(Toutest perdu)。大魚、まで矯ってきてください。訟にもか もすでで,仕方がなければ脱走してでも。お薄きになったら,……街の……番地髄の,

辻馬車に乗ったまま 待っていてください。あたしがいってお話 しします。たぶん薙のをかへ入っていただけるかもしれません。なにもかもおしまい になったのです(Toutest perdu)。もうどうにもならないのこゃないかしら。あたしを 信じてくださいね。どんな逆境になっても,あたしはあなたのものです。負けたちは

しません。あなたを愛していますわ02i)

ここで事態の深刻さは,いうまでもなく艮復法

ι

よって強議されているわけだ が,問題の出来事じたいが伏せられているため

i

こよりいっそうの効果を発揮し ていよう。しかも,最後の数句は気高く気丈ですらあち,どこかロルネ な人物のj譲渡すら思わせもするものだ。一方,この場面のような,ジュリヤン とマチルドの関孫に父親う・モール殻爵が介入するという

3

角形的な講臨に類 似した状況は,小説の第

l

部ではジュワヤンとレーナル夫人の姦通をレーナル 氏が疑う場題に見いだせよう(むろん,このば為いエヂイプス的な逆三角形な のだが)。そのなかで,夫の挺惑に法えるレーナル夫人の動揺は,ジュリヤン 苑の彼女の手紙につぎのようなかたちでしめされている。

(15)

その翠朝,夜が明けたと悪うと,ジュリヤンに評議;をもっている料理女が,一時の 本を窟けてきた。表紙には,イタl)ア諾でこう書いてあったo

1 1 3 0

ページを見よ」

ジュワヤンはこの無謀なふるまいにぎく与としながら,

1 3 0

ページを輿いでみると,

ピンで手紙がとめてある。涙でにじんだ,綴ちもでたらめな定ち番だった。ふだんの レーナル夫人の譲りはきわめて正しいので,ジュワヤンはこの控細な事実に感動し空 おそろしい無謀なやり口をいくらか忘れた。総

もはやいうまでもなく,階級的な符牒として機能する正確な「緩り

jは,でた

らめになるという失調運動をともなうことで情熱の糞実をつたえる表象として 息づいている。それはまさに,マチルドの手紙とはきわめて対照的な身振りに 違いなく,ジュワヤンが社会的な上昇につれて正しい毅宇法を身につけるのと は逆向きの主題論的な運動だといわねばならない。しかも,「諜jという 的なぞチーフによってにじんだ文字は,われわれにラ・モール侯爵宛の夫人の

やはち「演で消えかかっていた

J

加のを思いおこさせもしよう。だ が,これちの細部がこのうえなく刺激的なのも,文字がおもいがけぬ失調をき たすという点で,まさしくレーナル夫人の手紙が,「手が紙の上に,学の芳三に ならない線を描き連ねるばかちだ、ったjというあのジュリアンの身接ちと,そ を共存しているからに

i

まかならごといc

f

手 紙jというよそチーブ が感動院な相貌をみせるのは,その瞬間なのだ。この余韻のうちに,われわれ の関心はあらたに作者スタンダールの伝記的な領域に導かれることになるo

f

アンリ・ブワュラールの生援

j第 4 6

章に見いだせる,「わたしはもうすでに 字の綴与を忘れかけている,夢中になった瞬間(d

a n s  l e s  g r a n d s  t r a n s p o r t s  d e  

s s i o n

)にいつもそうなるように

J

30)という記述や,また,「涙j と「毅ち j という点でクレマンチーヌ・キュリアル夫人の手紙とレーナル夫人の手紙との あいだの顕著な類似性31)などから窺えるように,ほかならぬスタンダール自身

「情熱の綴り(

o r t h o g r a p h e  d e  l a   p a s s i o n  )  J

にきわめて告覚的だったのである。

その意味でも,

f

赤と黒

J

iまど,

i ' l

警熱の譲り」が主題として小説のクライマッ クスを飾るにふさわしく体系化された作品は誌かにない,といえよう。ところ

(16)

で,以上の考察から,われわれはジ、ユワヤンとレーナル夫人の関孫に比して,

マチルドとの関係に副次的な位寵づけを性急、にあたえるつもりはむろんなく,

むしろ, 2組の対東のもたらす豊かさにこそ敏感で、ありたいと患うむ

言 主

1)  Voir Maurice BA船主Cf犯,Stendhalrom cier,Paris: La Table ronde, 1947, pp.186‑187. 

2

)アン

l J

,マルチノの病理学的な傾向の解釈や,ピエ…ルコジョjレジュ・カステック

スの主人去の犯行に明断な意志の行為を見いだす解釈,さらいそうし

気〉の対立という議論をこえた次元で,精神分析的な概念なども駆使してジュリヤ ンの仔為の内的な整合性を裳づけようとするショウシャナ・フェlレマンやジ、ユヌヴ イエ…ヴ参ムイヨーらの解釈などが,その代表的なものとしてあげられよう。ちな みに担撃の挿話じついての葎究史的な軌跡辻ロジャー・パ…ソンによって詳しく整理 されている(voir Roger PEAON,Stendhal's violin, A Novelistαnd his reader, New York:  Oxford University Press, 1988, pp. 135‑142。)

3)狙撃の挿話にかんして,ジエラール・ジュネットはつぎのように指摘している一一

f

最も稚損な1)アリズムの作家でも,難なく安逸なと普いたい心理学によって,そ れらを正当

f

とすることができただろう。しかしスタンダールはあらゆる説明を拒否 することによって,

f

傘大な行為=筋一一そして韓大な作品一ーを予測不可能にして いるあの野性的な髄号JI牲をそれらの行為=務に保つ,というか和そらく与えること を決然、として選んでいるようなのだ

J

(Gerard GE打払<Vraisemblanceet motivation}, 

H

,立ditionsdu Seuil, coll.<Points}. 1969, p.  77.  [邦訳、『ブイギユール証上 1989年生月, 88頁)。ミシェル,クルゼはジュリヤン・ソ をかたちづくる詩学の考察を通じて犯行の動機などを解明しようと する心理主義的な立場を苔定している(voir Michel CROUZ混じくJulienSorel et  le  sublime,立tudede la poetique d'un personnage>, Revue d'Histoire litteraire de la Fra町 乙 86e annee, n°l,janvier‑fevrier 1986, pp. 104‑105)。また,アン・ジェファ…ソンは,

「小説のクライマックスにおけるジュリヤンの行動のく予

i

閣不可能なもの〉は,学 務的なものであれ,心理学的なものであれ,たとえどのようなものであろうと,

〈札舗にかなった〉読みをまさしく軽んじる整素なのであるjと述べている(Ann J軒 下ERSOReadingrealism in Stendhal, Cambridge: Cambridge University Press, 1988, p.  127。)

4)ミシェル・クルゼ、は,ブロスペル・メリメやパルザックら同時代人の『赤と黒jiこ たいする無理解を[真実らしさjという観点から説明している(voir CROUZET,  article cite, pp. 86‑91。)

ら) Voir Hans BoLL JOHANSEN, Stendhal et  le  roman, Eaisur la  structure du roman  stendhalien, Aran:  Editions du Grand Chene, Copenhague: Akademisk Forlag, Collection  stendhalienne publiee sous la direction de Victor 設住LLITTO,22, 1979, pp. 159‑160. 

(17)

6) Genevieve MouJLLAUD, Le Rouge et le Nair de Stendhal, le roman possible, Paris: Librairie  Larousse, coll.<theme et textes>, 

1 9 7 3 ,  

pp. 

1 5 1 ‑ 1 5 6 .  

7) STENDHAL, Le Rouge et le  Noir;  Chronique du XJX< siecle, texte  etabli  avec sommaire  biogrhique,introduction, bibliographie, variantes, notes et  dossier documentaire par  Pierre‑Georges CAST収, Paris:Bordas, coll. <Classiques Garnier> , 

1 9 7 3 ,  

p. 

4 3 2 .

なお,訳 出にあたっては,新瀬文庫按『赤と黒

J

(小林正訳,

1 9 5 8

年)を参頬にしたが,文 眠によっては筆者が改変をほどこした箆所がある。

8 )  

Ibid., p. 

3 1 5

 

9  ) 

Voir STENDHAL, 伍uvresintimes t.  I,  Paris: Gallimard, coll.部ibliotほquede la  Pleiade> , 

1 9 8 1

pp.

1 8 3 ‑ 1 8 4 .  

1 0

)ジュネットは,「スタンダ…jレにおいてiえ決定的な伝達の契機{告出,決期,戦 線布告) !±,概して書き詰葉に託されるjと指摘している(GENETTE,<Stendhal},  in  Figures II, op. cit,・p. 

1 6 3  

[邦訳,前揚書,

1 1 )  

STENDHAL, Le Rouge et le Noir, op. cit., p. 

3 1 0 .   1 2 )  

Ibid., p. 

3 1 4  

1 3 )  

Idem. 

1 4 )   1 9

世紀の初顕においてフランス諾の読み書きができたの拭

7

人にひとりの割合で毒 ったとされている(voir Marcel COHEN, Histoire d'une langue: le Fran伊お,Paris:Editions  Sociales, 

1 9 6 7 ,  

p. 

2 3 9

。)

1 5

)このような震史的背景にかんして,

f

スタンダール研究

J

のあとがきで缶えられる ヴイクトル・デル・リットのきわめてヌ示唆的なことばを

5 1

いておきたい。ベルテ事 件の舞台となったブランク村を散集中に語られる,「こういう村に,あの時代に,

ラテン語のできる青年がいたということが,どういうことかわかりますかjという ヂル・リットのことばはまさに問題の正鵠を射たものだといえるであろう〈桑原武 夫・鈴木昭一郎編,『スタンダール研究j,白木社,

1 9 8 6

4

月,

7 7 8

頁〉。

1 6 )  

S諮 問HAL,Le Rouge et le Noir; op. cit., p 

1 6 .   1 7 )  

Ibid., p. 

2 3 2 .  

1 8

)ジャック・ショーランは『フランス語史j(JII本茂雄・高橋秀雄共訳,自7](社く文 藤クセジュ),

1 9 7 3

5

月,

9 3

頁)のなかでつぎのように述べている一一[その詰の 世紀の上流社会の某々の人があえてき巳していた正審法上の気まぐれは,その摺人独 特の持ち味の一部をなしていたが,

1 9

世紀詰半に辻,ぞれが最大の遊館、上の不協と 問じく重大な禁止の的となる{正書法は

1 8 3 2

年に国定となった)

J

(c主AlbertDAUZAT,  Les Etapes de la langue franr;aise, Paris: Presses Universitaires de France, coll. <Que sais

je?>, 

1 9 4 8 ,  

p. 

1 2 0 )  

1 9

)当時の教育に認められる階級性について,フイリップ・アリエスはつぎのように指 捕している一一「民衆教育の患想は,幹部生,エリート,ブルジョワの教育患想、に とってかわられたので為る。

f

中央学校

J

はやがて,アンシャン・レジームのコレ ージュの再来であるとともに,現在のリセの前身でもあるワセ,つまり帯設期の国 立コレージュへと引き継がれていくであろう。民衆の小学校とブルジョワのリセの 関には,溝が深く穿たれている。それ辻階銭的教育であった

J

(ブイリップ也事アリ エス,

f f

教育jの誕生

i

,中内敏夫・森田伸子編訳,藤涼書店,

1 9 9 2

5

月,

2 0 3

資)。

(18)

2 0 )  

STENDHAL, Le Rouge et le Noir, op. cit., p 

3 0 7 .   2 1 )  

Ibid., p. 

3 1 7 .  

2 2 )  

Ibid., p. 

3 0 9 .  

2 3

)この手紙はくレ…ナル夫人/告解蹄>というように発信者が

2

霊化された例だとい えよう。

2 4 )  

Ibid., p. 

4 3 5 .   2 5 )  

Ibid., p. 

4 2 3 .  

2 6

)松原雅典はオセロとイアゴ…の名がレー

スタンダーjレは

f

ジュリヤンのレーナル夫人狙撃をオセローのヂズデ モーナ殺害と重ね合わせて見てほしいのだj,と指議している(松原雅典,

r r

非と 黒jの解剖学

i

,朝5新聞社,

1 9 9 2

年4月,

1 4 4 ‑ 1 4 5

頁)。

2 7 )  

STENDHAL, Le Rouge et le Noir, op. cit., p 

4 3 0 .   2 8 )  

Ibid., p. 

1 1 4 .  

2 9 )  

Ibid., p. 

4 3 1 .  

開殺の例誌第l部第

2 6 ' . ! l

主にも見ることできる。

3 0 )  

STDHAL,(Euvres intimes t. 1/, Paris: Gallimard, coll. <Bibliotheque de la Pleiade>, 

1 9 8 2 ,  

p. 

9 5 7 .  

3 1 )  

Voir Franc;ois MICH弘パBathildeCurial, une enfantゑtraversl'倒 vrede Stendhal>, in Etudes  stendhaliennes, Paris: Mercure de France, 

1 9 5 8   [ 1 9 7 2 ] ,  

p. 

8 4 .  

参照

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