ス テ ュ ア
i ト
﹃ 原 理 ﹄
( 一
﹀
における貨幣制度論
ーーー﹃原理﹄第三編の一研究111
林
昇
七 六 五 四 三 二 一
序説
│i
﹃原 理﹄ 第三 編の こと
重商主義期イギリスにおける貨幣制度の展開
ハリ スの 改革 論
﹃原理﹄における貨幣と鋳貨(以上本号)
ステ
ュア
lトの改革論∞
ステ
ュア
Iトの改革論幼
造幣手数料徴収論ハ次回完結)
序説110﹃原理﹄第三編のこと
ジェイムズ・ステュアlトの﹃経済学原理﹄第三編﹁貨幣と鋳貨﹂
( C H B 8 4 白 邑
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﹀は
︑
ポピュラーになりえ
なかった﹃原理﹄の大冊のなかでももっとも検討されることのすくなかった部分である︒﹃原理﹄全編に否定的評価
を与えてその通読を懲罰労働にひとしいと述べたファイルボiゲンは︑ことにこの第三編を︑﹁忠実なだけで天分のな
ステ
ユア
iト﹃原理﹄における貨幣制度論付
七
ステ
ュア
lト﹃原理﹄における貨幣制度論付
八 (2 ) い研究者﹂によるきわめて非古央的な部分であると断じたが︑その後ハスバッハ以来きまざ空な見地から﹃原理﹄に 積極的意義を見いだした人々も︑当の第三編について本格的な検討を加えたことはなかった︒
E‑A
・J・ジョンス
(3 ) ンは第三編以下をその開拓的分析の対象としなかったし︑いままでのところステュア
i
トに関する唯一の単行書であ
(4 )
るケインジアンのセンの本の第七享﹁ステュア
l
トの貨幣および銀行理論一も︑この章が﹃原理﹄各編の要約と分析 とのうちその第三・第四両編の部分にあてられているにもかかわらず︑第一ニ備の重要な語部分についての言及は見あ たらず︑それらはいわばとび越されてしまっている︒重商主義貨幣理論史の研宛として重要なヴィッカ
1スの最近の
労作 も︑
わが国で着実に進められている︑ ステュアlトにたっぷり五
0
ページをあてながら︑右の空白の部分を少しも埋めていない︒そうして︑近来
(6 )
ステュアl
トないし﹃原理﹄についての諸個別研究弘︑原理的な第一・一一編につい てはもとより︑信用・財政を対象とする第四・宜両編に関してもすでにすくなからぬ成果を生んでいながら︑第三編 の本格的分析はまったく着手されていないように思われる︒
(1
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・以 下︑ ミ2 QN E また は町 一保 理﹄ と略 称︒ 立た
﹃原 理﹄ に関 する わた くし
の従来の諸論説と同様に︑引用個所の挙一不には右の初版本と一八O五年の全集版︿
I W
巻)との双方のページをしるすこと
とす る︒ 一 wm
N由
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とあれば︑初版では第一冊五二六ページ︑全集版では第二冊二七
0
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ジと
いう こと であ る︒ (2 ) 口 問 ・
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理﹄
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究序
説﹄
第七
章が
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︒ もとより︑﹃原理﹄第三編は︑研究者からすこしも論及されなかったというわけではない︒すでに︑﹃原理﹄を重視
してこれをしばしば引用したマルクスは︑
﹃経
済学
批判
﹄
のなかの学史的叙述を成す三つの節においてもそれぞれス
テュ
ア
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トを
用引
し︑
それについて重要な立言をおこなっているが︑それらのうち﹁貨幣の麗量単位に関する諸学
4説
﹂で
は︑
当面の第三編のなかから︑ロックの貨幣改鋳論(本位水準の田複←重鋳論)
qラ
ラウンズの独自なそれ
(地金価値増加の想定lv本位引下げ←軽鋳論)の圧服に対する批評を適切に引用し︑
つづいてステュアlト自身のい
わゆる﹁計算貨幣﹂
( 5
3
唱え
R g
g
同﹀論を︑先駆的な︑しかし完全な(7 )
章の主要個所を訳出し︑これに批判を加えている︒しかし右のうち︑ ﹁貨幣の観念的度量単位説﹂として︑
第
ロックへの批評の部分はマルクスみずからおこ
なうべき批判の代用の役割合}果たしたにとどまるものであり︑また﹁計算貨幣
L論すなわち観念的度量単位説の部分は︑
﹃原理﹄の貨幣理論の核心ではあるが︑第三編一一部一一四章(プラス序論﹀中の一章にあてられた個所に即しての立論
(8 )
にすぎないのである︒さらに第三編は︑その長大な貨幣制度←復本位制対策論が含むいわゆる合成本位制度
( 9 ) (
刊)
B2白
‑ F S )
の先駆的た提案について︑まれに研究者の注目を受けることがあった︒
(田
山︑
ロ
だが第三編のなかでの貨幣制度
論←その改革論のなかに占める合成本位の着想は︑
やが
τ
知るように︑その位置と意義とにおいてきわめて小きいものにすぎないのである︒
(7 )
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∞!∞﹁邦訳︑大月書庖版選集
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ュア
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﹃原
理﹄
にお
ける
貨幣
制度
論付
九
ステ ユア
Iト﹃原理﹄における貨幣制度論付
。
四補巻3︑七七︑八
O
│八三ページ︒ここでの二つの部分のうちの第一は︑︑立言帆ミ
2
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O¥アピ品にあたる︒ハ
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なお右の二つの部分の準備ノl
トと
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を参 照︒ ここ では 第一 の部 分に 閲し て︑ さら に可
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)111マルクスの引用は﹃原理﹄のダプリン版(一一一巻︑一七七
O
竿)からであるが︑とれは第コ了四両編を一冊にしたために一二巻となっただけで︑初版のステレオタイプである
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くしがここで用いている︑﹃経済学批判﹄の大衆版では︑このダプリン版でのベ
lジの表記に誤りがあり︑それは研究所板
八回
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呂田
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で訂 正さ れて いる
︒
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ゐ 同 ・
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ステ ュア
1トの﹁計算貨幣﹂論についてはわが国でも文献がるり︑高垣寅次郎﹃貨幣の本質﹄(一九二七年﹀がその早いも
のであるらしい︒ほかに前注
( 6 )
の指摘個所が含む︑新庄博﹁重商主義の貨幣経済論﹂ハ同編﹃貨幣理論と貨幣制度﹄所収)
があ
る︒
(9
﹀これは復本位制の生む混乱の回避策として︑一つの本位貨幣のなかに二種の本位金属を合ぜ含ませようとするものである
が︑古代のリディアのエレクトロγ貨幣以外には現実には存在せず︑一八八七年の金銭委員会へのマーシャルの著名な提案
も︑当時金本位制下のイギリスにおいてもとより実現していない︒‑│以上念のため︒
( ω )
わたくしはこの方面の文献に明るくないが︑上掲のもののなかではセジが乙れにふれている(口町
‑MV・
g ‑ Y
こう して
︑
﹃原理﹄第三編の構成︑その内容の大部分は︑まだ研究者にとってほとんど未踏の領野であり︑
け つ
して学界の共有財とはなっていない︒そうしてこの事態には理由がないわけではないであるう︒﹃原理﹄全体の意義
とは別に︑その第三編は︑上述のファイルボiゲγの否定的評価に同感させる性質を帯び℃いる︒全体とし
τ
は︑それほ貨幣理論に関する原理的部分に比べて︑現前のイギリスの貨幣制度(金銀複本位制)の混乱に対する処理案を展
開した部分︑した︑がっていわば制度技術的叙述の部分がきわめて大きく︑しかもそれはハリス
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同体・デ見混)の提案への批判というかたちで始められながら︑みずからの積極的
主張の点では︑決断的ではなくて多くの留保を含み︑多岐であって繰り返しが重ねられ︑噴末で技巧的な部分がすく
なくない︒そのうえ︑第三編執筆当時のステュアlトは︑ジヤコバイトの亡命者としてドイツやイタリーの各地に滞
(日
)
在していてイギリスの実情にむしろ暗く︑そのコンプレックスを彼はいくたびも書きしるさねばならなかった︒しか
もこの事情のゆえに︑
第
二両編を特徴づけていた︑原理の探究と歴史的制約の考慮とのあいだの幸福な守ハラン
スの必要という主張は︑ここでは原理の意義をみずから軽視するという立場にまで後退するに至った︒すなわち︑
イギリスが従来の自由鋳造制度をやめて造幣料をとることとしたばあい︑為替と貿易とにどういう影響が生ずるかを
論じた第二部第二章で︑﹁ロンドンの最上の職人が時計をつくると
セオしよう︒彼はそれが良いものであるかどうかを︑試してみるまではきめることができない︒だが試されれば︑彼の理 ステュアlトはつぎのように述べたのであった︒
論の適用は被に︹時計の︺動きの欠点と不規則さとのことごとくを発見させるであろう︒政治上のことについてもま
ったく同様である︒理論の力は良い計画をつくるには十分でない︒しかLそれは予見できなかった多くの欠点を発見
エクステンシヴするには有用である︒したがって︑どんな理論でもそれが詳細につくられてゆくに応じて︑それだけ多く右の目的
プ リ ン シ プ ル コ ン プ リ ケ イ テ ツ ゲ
に役立つであろう︒けれども︑どんな理論の原理でもそれが複雑であればあるほど︑実行に適用きれたばあいの
( ロ )
ということに注目するのは無意味でない︒﹂﹂の言葉の内容は明快さに欠けるものを効方への期待はすくなくなる︑
持つが︑演揮的推論の実践への従属性を明言した部分は︑第一・二両編に見られなかった要素を示し︑この基本的態
度こ
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lゲンの評言の原因であったと思われる︒要するに第三編は︑﹃原理﹄全五編のうちで
は最も理論的迫力に欠ける編だといいうるであろう︒
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Lアlト﹃原理﹄における貨幣制度論付
四
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︒﹁ わた
くしはトレードについてなんの観念をも持たぬ人々に対してこれらの条理を明らかにしようとしてきたが︑それが成功したか
どうかを知らないcしかし実際的知識のある人々にとってはこれほど分りやすいことはないのである︒﹂│え・戸円
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ページの体系のうち約二二0
ページを占める一つの編の大部分に関する知識の欠落は︑放
(HH)
置を許されないであろう︒また右の知識の獲得は︑やがて知るように︑原始的蓄積期における貨幣および信用の意義
﹃原
理﹄
の全五編が第一一一一絹をも含んで通読されるべきことはもとより当然
についても︑われわれの視野をひろげるであろろ︒この乙とについては多一一一日を要せぬはずである︒
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﹃経 済分 析の 一歴 史﹄
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一一
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︒
(凶)このページ数は初版本での概数︒後述のように︑全集版では第三編にはかなり重要な附加がある︒なお第四編以下につい
ても︑上掲の諸論説の存在にもかかわらず︑研究者に共有の知識はまだ十分ではない︒とくに例えば第四編第二部中における︑ローの企画についてのステュア1
トの 詳細 な分 析に つい てな ど︒
さて
︑
﹃原理﹄第三編は︑遅くとも一七五九年には執筆が始められ︑六
O
年にはいちおう脱稿されてい点︒テュ
l
ビンゲンで第一・ニ両編の完成に力を傾けたステュア
l
ト法︑その日的を果たした五八年に痛風に襲われ︑この年の 夏からヴエニスやパドゥアなどで療養をつづけて︑六
O
年の一
O
月にふたたびテュlピンゲンに立一戻っているのであるから︑当の第三編は︑ほとんどもっぱら︑苦痛と不便とが相伴った療養生活中の勤勉の所産であったといえよう︒
なお
︑
ステュアlトは翌六一年六月にはこの南独の町を離れ︑ロッテルダムやアソトワl
︒フ を経 てス パー では フ一 アン
ス軍に逮捕され︑六二年の末にようやくイングランドにまで帰りえたが︑ロッテルダムでの研究はオランダの貨幣制 ベ 度
で 分き の
あ(析るぎに
。 結
'三住
フて
し て
この編の最終章を成している︒したがって︑第三編︹の原形︺の完成は正確には六二年という
ところがステュアi
トは
︑
彼が郷国スコットランドに落付いてから
﹃原
理﹄
全編を完成して出版した
のちも︑新らしい利便のもとにイギリスの経済の研究をつづけるうち︑第三一編の立一言をイギリスの実情に照らして再
また
七二
一
1四年における貨幣制度の重大な改革(前述)にも際会した︒その結果︑第一部の最
終章﹁一七七三年におけるイギリスの鋳貨の状態:::﹂が書き加えられ︑没後の全集版に収められることとなったの 検討することができ︑
である︒こうして﹃原理﹄第三編は︑その完成した形では︑第一部﹁貨幣の諸原理︑その績揮とグレイト・ブリテン の鋳貨への忠一肘﹂全一六章︑および第二部﹁貨幣の諸原理︑そのわ汁陸一号炉への適一郎﹂全八章から成り︑右のうち︑第
一部は﹁計算貨幣﹂論に一不される貨幣の本質論︑複本位制の基本問題(以上第一六章)︑複本位制の現実的諸困難
一 二
i
一五
章)
︑前
述の
附加
の章
(第
二ハ
章)
︑ (第七│九章)︑これに対するハリスの対策とその批判(第一
01
一一
章)
︑ス
テュ
ア
lトみずからの詳細な諸対策(第
にほぼ分たれ︑第二部はその題名にもかかわらず︑造幣料の徴収が貿
易・為替関係に与えるべき影響の分析を自己の新説として提示し︑イギリスのために自由(無料)鋳造制の放棄を主
張したもの(ただし第一1
五章
)で
あっ
て︑
幣制
度の
分析
(第
七章
)︑
これに第三編全体に関する諸問題を拾った章(第六章)︑
フランスの貨
および上述のオランダの貨幣制度の分析(第八章)を加えたものである︒そうして︑
第
部の題名と第二部の構成とが端的に示すように︑第三編はもっぱらイギワスの問題を
1
│
資料上のいちじるしい不便にもかかわらず││対象とする点が第一・二両編と異なり︑﹂のことは︑貨幣問題の技術性によるだけではなく︑帰
国に向けられたステュアlトの期待と工作とが︑この編の執筆のころにはしだいに強められていたこと︑またこの編
ステ
ュア
lト
﹃原
理﹄
にお
ける
貨幣
制度
論付
四
ステ ュア
lト﹃原理﹄における貨幣制度論付
四国
(却
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などを推測させるように思われる︒
そのものが彼の帰属後の生活方針を準備するためのものであったこと︑
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111六二年には執筆中だったという一言明c
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窓口 仏阻 止・ 正確 な執 筆時 期は 未詳
︒
﹃全集﹄第六巻に附されたステュアlトの伝記(中野正訳︑﹃経済士山林﹄二回ノ一︑あり)によれば︑被はこの金貨の改鋳に際
して 意見 を徴 され たそ うで ある 合同
・匂
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︑一 二二 ペー ジ)
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(却)ステュアIトがイギリスで貨幣問題の専門家として遇されたことは前注(げ)から知られるが︑それは﹃原理﹄第三一一編に ・0H H 邑
よるだけでなく︑七二年に書いてイギリスのベγガル当局とのあいだに論争をひきおこす乙ととなった﹃ベγガル鋳貨論﹄
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1トは︑第三一樹をほぼ仕上げたのち︑帰国選動の対象であったジョージ二世の死(六
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月末﹀によって打撃を受けたが︑翌年一月に脱稿された長文の﹁ドイツ鋳貨論﹄(﹀礼宮内︑右足
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H h v r h R g n F G b : : ‑ w J E σ 山口 唱ロ を出 した ーー ーは 著者 の勤 勉以 外の もの をも 感じ させ る︒
わたくしはこの小論で﹃原理﹄第一一一編の簡単な紹介と分析とをこころみるが︑その作業に入るに先立って︑固有の
重商主義期を中心としエリザベス末期から一九世紀初頭の金本位制確立にまで至る︑
イギリスの鋳貨の実情と本位制 度の変逼過程とに関する最少限での一叙述をおこなうとともに︑鋳貨事情の混乱に対する上述のハリスの改革案をも要
約しておかなくてはならない︒この両者はともに第三一相(ことに第一部)における政策論ψ改革案を理解するための
不可欠の予備知識であり︑さらに後者は︑﹃原理﹄の第一一絹でR
・ウ
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レス
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第二編でヒュi
ムが
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それぞれの
主要な論敵に選ばれたのと同様に︑第三編のいわばスプリング・ボ
iドとされているのみならず︑それ自体︑すなわ
の第二部は︑これも﹃原理﹄第三編とほぼおなじく︑スミス﹃国富論﹄の
ち
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同とおい可柏戸︑︒誌﹄向︒諸問︑お誌︑(リミ
wH
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前駆としていちおうは知られている第一部とは異り︑その内容がほとんど紹介されていないからである︒
重 商 主 義 期 イ ギ リ ス に お け る 貨 幣 制 度 の 展 開
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マン・コンクエスト以前からベニィ銀貨が存在し︑それが征服者によって銀一ポンドの重さの
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分ノ一すなわち一ベニィ・ウェイト(官E
可毛色阿古)に結びつけられた︒それはロIマの制度の伝承であるとイギ
リス
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一方︑金貨の鋳造は一二五七年のペニィ金貨(二
0
ペンス)と一三四三伝のイギリス・フロリン(イタリアのフロリン金貨の二倍の量目)とのそれぞれがおこなわれたが︑前者は流通から失われ後者もその役割を果たさなかっ
た︒そうして国際取引においては︑イタリアのフロリン(これを模したフランスのエキュ金貨)と︑スペインの貨幣
単位に結合する︑ネザi
ランドのりlル金貨とが︑相ついで標準貨幣としておこなわれた︒ところがイギリスの銀貨
t主
さらに一五四三ーー五一年のあいだには純度においても三分ノ一近くに悪化した︒
この状態からの回復は一五五二年からはじまり︑エリザベスは六
O
年に古い純度を回復したが︑のち一六O
一・
年に
至 って軽鋳化の点ではわずかながらさらに一歩を進めた︒当面の諸立論において﹁エリザベスのスタンダード﹂と呼ば
一 三 一
OO
年以来軽鋳化を重ね︑れるものは右の一六
O
一年のものであって︑それはこの女王の改鋳が成功して︑それ以来貨幣を秤量によらず個片で
授受する習慣が生まれたことに因るものであるが︑他面︑
一 六
O
一年以後︑貨幣単位の呼称と重量単位のそれとのあステ
ュア
Iト
﹃原
理﹄
にお
ける
貨幣
制度
論付
四 五
ステ
ュア
1ト﹃原理﹄における貨幣制度論け
四六
いだのつながりはついにまったく失われた︒ずなわちここでエリザベスは︑ききの改革で一ポンド・トロイ(℃
o z E
待︒ちの重量の銀を六
0
シリングに分割したのを1l
ーすなわち一シリングリ四ベニィ・ウェイトとなる
l i
︑新たに六二シリングに分割したため︑
(2 )
部分ではない﹂とハリスの歎じた結果がここに生じたのである︒ ﹁現在われわれの鋳貨は一つとしてわれわれの重量の可除数守口
ρE C
すなわち均等
しかも貨幣と重量との呼称の同一性
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八回
お佳
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ゆ官
ロミ
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だけはそのまま保たれたから︑以後の鋳貨の軽悪化に際して問
題の核心に迫ることは︑人々にとって容易ではないこととなった︒
( 1 )
以下
の歴
史的
‑記
述は
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幣論
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岩波
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5M
m回章等によった︒ほかにロy
グ︑
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トγらの古典も︑それぞれ参照してある︒それからの直接の引用個所以外は注記しない︒
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金貨が新たに鋳造され︑﹂れには当初銀貨二
0
シリング(一ポンド・スターリング)の価値が子えらわ︑これは流通上にその地歩を四めてゆくことになる︒しかし一七世紀
をつうじて人々は複本位制の観念を持たなかった︒ことに一六六六年には造幣料の廃止が実現されて︑一時的になが
ら銀貨の流通量が増加して以来は︑本位貨幣としての銀貨の地位は確認された︒
1
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︑
一六
O
一年
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銀貨
と
六六三年の金貨との純定と量一目とについて︑われわれはここでつぎの知識を用意してお︿必要がある︒
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一ポンド・トロイH
一一
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一オンス日二
O
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・ 白! ︐
宮ーしたがって
一ポソド・トロイu二四
O
ペニィ・ウェイトl五七六O
グレイン︒同銀の貨幣標準令官民ミ向日)は一一一対九の重量の純銀と合金とから成る︒すなわち一ポンド・トロイのうち一一オンス・二ベニィ・ウェイトの純
銀と一八ベニイ・ウェイトとの銅とを︑グレインにして五三二八の純鋲と四三二の銅とを含む︒同この標準銀の一ポ
ンド・トロイが上述のように六二シリングであるから︑一シリングは九二・九グレインの標準銀︑あるいは純銀とし
てはその二一分の一一・一を含む︒そこで一ポンド・スターリングの標準銀は︑
(3 )
ねばならないこととなる︒帥金の貨幣標準は一一対一の重量の純金と合金とから成る︒すなわち一ポンド・トロイの 一七一八・七グレインの純銀を含ま
うち一一オンスの金と一オンスの合金とを︑グレインにして五二八
O
の純金と四八O
の銀または銅とを含む︒同この標準金の一ポンド・トロイがギニl金貨鋳造に際して四四・五ギニlに定められたから︑
(4 )
グレインの純金を含まねばならない︒なお︑
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lは一一八・六五
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l金貨には五︑二︑二分の一︑四分の一等の諸ギニ
1貨もあり︑銀貨には古いフアlジングやグロウト等の小単位のものや︑そのほかテストン(同町田さる︑シリング等々
があ
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五シリングの価値のグラウソ(門叶
04
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はひろく流通した︒市民草命期に一
0
・二
0
シリング貨が鋳造されたことはあったがその意義はすくなく︑結局︑大衆の日常取引に用いられた銀貨には︑単独でポンド・スタlリ
ングを表示する個片はなかったわけである︒
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( 4 )
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る︒
さてこのあとに︑イギリスの貨幣の混乱時代がはじまる︒それはすで巳権力者の悪鋳によるものではなかったし
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幣制
度論
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四 七
ステ
ュア
lト﹃原理﹄における貨幣制度論け
四 八
‑│後述のように政府はかえって7長貨への改討に努力した
ll l ︑
また物価の薗でほ︑名誉革命直後にインフレイショ
γがあったが︑以後は一八世紀の九
0
年代きで︑イギリスの貨幣価値はなしろ安定していた︒問題は︑国際間における金対銀の比価がイギリスではスペインを除くヨーロッパ大陵のそれよりもしだいに大きく金に高くなったがため
(5 )
に︑銀の輸出と金の流入とがおこり︑国内取引において金よりもいっそう日常的であった銀貨の不足という困難な事
は 態
イ カミ
ギ 生 リ ま ス れ の た 錦、点 貨、に の、あ 輸 る 出 の み で あ り
一六六三年の法令はすでに外国侍貨および金銀地金の輸出を許しており︑禁止されていたの
また一七世紀後半から鋳造されることになったいわゆるB
己包
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は 葬 除
を困難にはしたとはいえ民間での熔解はやはりとうてい取締まれなかったから︑銀貨の不足︑軽貨(とく
(日
)
に古いもの)の流通の傾向はどうしても防ぎえなかった︒したがって︑削損銀貨(そうしてのちには金貨も)の流通
( nE H
V七
一口 市制 )
に対処する改鋳をいかにおこなうかという問題と︑金銀の比価をどう法定化するかという問題とが︑貨幣制度改革の
(7 )
問題として︑からみ合って生じたわけである︒一六九六│九八年の銀貨改鋳ーーーそれに当つ℃のロック対ラウンズの
論争とロックの主張の実現ーーはおもに前者にかかわり︑ニュートンの提案による一七一七年のギニl
貨 の 引 下 げ
ハリスの著書の第二部はおもに後者にかかわり︑そうして﹃原理﹄第三編はこのこつの問題の所在を見すえてい
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( 6 )
一方︑通貨としてのギューへの要求はようやく増加し︑バソカーたちの準浦金のうち重要な部分を占めるようにもなった から
︑そ れが 銀流 出← 銀に おけ る思 貨の 流通 と相 さつ
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︒
(7)
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名誉革命政府がおこなった銀貨の大改鋳についてはほぼ周知である︒革命直後までは︑流通における供給の不足は
銀貨の減損の大きさ
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それはやがて五O M
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近くにまで及んだl
ーにもかかわらず地金の価格からの減価を実害のない程度にとどめていたし︑したがって金銀貨の価値の比率にも大きい変動はなく︑フランスでの銀の値上げの影響も
あまり深くはなかった︒だが︑革命につづく対フラゾス戦争はイギリスに大きい財政支出と貿易の混乱とを余儀なく
(8 )
一つにはいわゆる﹁最初の信用インフレイショソLを生じて銀地させ︑これによる銀の急激な流出をもたらす反面︑
金をふくむ物価を上昇させるとともに︑とくにギニーへの需要とそのスベキュレイションとを生み︑一六九四年三月
にそれまで二一シリング台だったギニlの価格が二二シリングに上って以来︑翌九五年六月までのあいだにそれは三
(9 )
0
シリングに騰貴して︑右の一般物価の騰貴率を大きく上廻った︒同時にギニ!の鋳造も増加した︒右の事態に対処するための︑財政当局者ラウンズの案は︑銀貨の削損による損失を現実の不可避の事態とする前提に立ち︑銀鋳貨の
の引上げではなかったぬこれ量目をそこまで引下げようとするものであって︑それは単なる呼称♀
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ロ25
ロ )
に正面から対立したロッグの提案は︑要するに銀貨の全面的改鋳によって旧スタンダードを回復し︑債権者の利益と
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国家収入とを護ろうとするものであった︒右の対立はロッグの方針の全面的実現︑九六九八年の銀貨の大改鋳に結
果して︑六八
O
万ポシドに上る新銀貨が鋳造された︒このぼあいの二人の対立の内容については︑のちにわれわれはステ
ュア
iトの興味ある評言を聞くであろう︒
新鋳貨が造幣局を出ると急速に消失したこと︑さきのインフレイション期につづく改鋳の進行期にも︑流通の必要は しかしここで事実として確認しておかなくてはならないのは︑これら
金貨の需要を大いに増加させたこと︑その結果ギニl使用の習慣をさらに拡大し︑またその鋳造と金の大流入とを開
ステ
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﹃原
理﹄
にお
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貨幣
制度
論付
四九
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1ト﹃原理﹄における貨幣制度論付
0 五
始させたこと︑こうしてlil
ことに新たな銀本位貨の鋳造は金の価格がわずかでも下るごとに銀貨を駆遂させること となったから││ヘこの大改鋳は結果において失敗であり︑注目すべきこととして︑金本位を呼び込む効果を持った というととである︒もとよりロッグの主張は︑価値尺度としての本位貨の意義を認識きせるうえに貢献があった︒
し かしそれは事実上の複本位制とそのなかにおける金貨の優位の傾向とへの対策としては強引にすぎた︒それは﹁ウィ
( ロ )
リアム三世政府の賢明でない決定﹂であり︑﹁改鋳の全企画はいちじるしく混乱した﹂のであった︒
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( 9 )
以上の問題については︑上掲の貨幣史研究の文献のほかに︑積糠茂﹁クョγ・ロックの貨幣論﹂(一橋大学研究年報﹃経
済学 研究
﹄
i所収)および同続編Q一橋論叢﹄三一一ノ五)││lことに後者ーーが有益である︒なお山下宇一コ六九六年の
貨幣改鋳﹂(大分高高﹁商業論集﹄七ノ二)をも参照︒
ゲアリュー︿川出)ラウシズの提案は専門当局の立場から技術的に詳細をきわめるが︑その眼目は﹁鋳貨における銀の価値は各クラウソ﹁五
シリソグ︺につき六シリング一一一ベソスの高さにまで引上げられるべきである︒なぜなら地金での標準銀の価格が(結局はイソ
グラソドにおける銀地金の大欠乏を生んだ︑必然あるいは偶然の諸原因によって)一オソスにつき六シリヅグ五ぺγスに騰貴
したからである﹂という点にある(ぎ己
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にこれに対するステュアlトの同感と批判とを見るであろう︒ただ︑それとは別にここで︑ラウγズが費用のかかる全商的改
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(日)ラウンズを批判した︒ロックの同号
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ただしもとより︑右の事情はイギリスの原始的蓄積の進行をおなじように混乱さぜたわけではないe後述のステュアlト
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︒ 大改鋳の失敗以後︑銀(地金・鋳貨)は急速に消失し︑金(同)はますます増加した︒改鋳の進行中にギニ
lは
二 一一シリングにまで下り︑九九年には租税としては二一シリシグ六ペンス以上には一評価を許されないこととなった︒
し
かし︑これでも金はまだ国際比価において高く︑上述の事態の原因となりつ寺つけた︒
(臼
)
就き・九九年にはその長となった科学者ニュートンによれば︑ 一六九六年以来造幣局の公職に
一ギニ!日一一一シリング・六ペンスという右の基準で
金銀両鋳貨の純度の比価はほぼ一対一五・五をさらにわずかに上廻るが︑それは︑
スペインで一対一六以上であるの
を例外として︑フランスでは基本的に一対一五であり︑オランダでは一ギニ
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五ペンスに換算
される比率であり︑東・北欧諸国においても事情はこれと同様であってことにスウェーデンの金は安く︑きらに東イ
ソドでは一対一一一︑ジナと日本とに至つては一対九または一(りであった︒右の認識にもとョついて︑ニュートンは︑ギニ
i
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0
ペンス│一一一ペンスから六ペソス(実行案﹀の引下げを提案しているが︑政府は右の実行索を納れ︑ギニ
l
の価格を二一シリングに法定してこの比率を他に残存する鋳貨にも及ぼし︑この法定比価のもとに従来どおりの自由 鋳造をおこなわせることとなった︒すなわち法制上の複本位制がここに確立したのである︒そうして︑一六六三年の
ポソド・スターリング
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の金純度は上述のように一一八・六五一グ
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インであるから︑新たな比率(NO印・一出回・)におけるポンド・スターリングのそれは一一一二だということになるOIl‑
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るようにこの新比価はなおイギリスの金に有利であったから︑改革は何らの効果を示さず︑一七六
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︑
︑ 一方︑新らしい鋳造は事実上休止と同様になった︒すなわちイギリスの複本位制度
1事実ン銀貨はほとんど消失し︑
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五
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lト﹁原理﹄における貨幣制度論け
五
そうしてハりス1ステュアlトの論争は︑ずでにご二1トンの改
( ロ )
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年頃の直前におこなわれたものであった︒ 上の金太位制への移行期に法制化されたのである︒(日)以下︑えぬもミ包ミミミ喜久史︑﹄﹁
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γティロソは知人ニュートンの改羊に対して︑一ブウソズ的な立場から地金の市価に従う銀貨の改鋳守主張し︑こ
れとともに複木位制を否定Lているが︑まだ金本位を論ずるには至っていない公明・
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上掲
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の出
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前章で述べたように︑ステュアI
トと﹃原理﹄第一一一編の附加部分とは︑そのごの一七七一二│七四年の貨幣改革にも
関係じている︒この世紀の中葉からヨーロッパ大慢では銀に対する金の比価は上昇を始め︑一七七三年にはイギリス
とのあいだの従来の関係は逆転して︑このあいだにこんどは金がオランダに流出するとともに金貨も流通のなかで故
意に軽悪化されて︑いわゆる複木位制の全体が動揺した︒そとで政府はすでに(一六九八年)銀貨について認められ
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V
争れ
一定限度以下の軽貨の受取拒否権を︑
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万ポンドの軽悪金貨を一六
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aのスタンダードに改鋳するとともに︑七四年には銀貨の強制適用カを二五ポンドまでに制限し︑同時に外
国の軽銀貨の輸入を禁止した︒この頃︑完全量日の銀貨はすでにまったく抽出失して︑合︑法・不合法の銅貸ゃ︑
きまざ
まな代用(私人鋳造)卑金属貨幣(いわゆるδ宮三がかろうじて日常取引のいちじるしい不便を補っていた︒これ
が﹃国宮論﹄の書かれつつあった頃の事態である︒!ーだが︑このような事態もまだイギリスの原拍的蓄積ーその
最後の仕上げを妨げはしなかった︒一六九六年の銀貨の大改鋳の直前に創設されたイングランド銀行は︑自身をかな めとしでしだいにイギリス全土に近代的信用・銀行制度を拡大しまた組織させ︑勃興期の産業資本の要求に答えた︒
これによって十八世紀は九
0
年代に至るまで物価の安定を示しており︑この期間にあっては︑原始的蓄積は強制は伴
( 時 )
︑
︑
︑
ったけれども強制貯蓄は
i│
lアシュトンのいうように
l
lおこなわなかったのであった︒最後に︑法制上の金本位は
周知のように一八一六年に確立した︒この年︑すでに事実上本位貨幣であった金貨は無制限法貨の資格と銀行券との 党換資格とを与えられ︑銀貨は自由鋳造制から除外されて強制通用力も四
0
シリングまでに制限された︒それは現実
の事態の法制化にす︑ぎなかったのである︒
なお
︑
﹂の時から新しいソヴアリン
( 8 2 2
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ロ)金貨が誕生して一ポン
ドに通用させられることとなったが︑その純度は約一一一ニグレインとなって旧ギニーより減少し︑
一七七三年の改鋳
にもかかわらず以然として金の流出した事態にも対処された︒
(問)
口町
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岱窓
口泊
︒︑
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この
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叙述
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信用
制度
の展
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関し
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約を
持つ
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ノ、
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ハリスの入吉岡とお氾足︑
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﹄ 向 ︒ 諸
問 ︑
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ロ)は︑第一部が一七五七年に︑第二部が五八年に刊行されO
(1
)
た︒このうち第一部は執筆年代を四五年以前とする考‑証もあり︑そうするとヒュ
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︑ ︑
(2 )
や上掲のカンティロンの同ごと:・の出版よりも先になるが︑第二部についてはそのように見る根拠はないようであ
(3 )
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﹁商業・貨幣および為替の理論﹂
(H︐
r F g H F g
え
8 5 5 R 2 w B 8 3 u
伊豆
町凶
岳山
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口)
︑部のそれは﹁制定された貨幣の本位はどんな口実によっても侵犯または変更されてはならないこと﹂
第一部の題名は
第
(叶
一百
件丹
}戸
02
・
ステ
ュア
lト﹃原理﹄における貨幣制度論付
五
ステ ュア
Iト叶原理﹄における何幣制度論付
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rつれなかったその第二部についてである︒
( 1 )
第一 部が
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四五年のあいだ造幣局長官に在任した田口
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ロ含コに捧げられており︑しかも序文には︑かえ
﹁以下の論説のおも江部分は︑真に偉大で善良なある方のために︑幾年も前に書かれた︒この人は::・︑おそらく将来わが国 の鋳貨についての一切の不平を除くはずの諸規定を:::つくろうと企てておられたのである
Lと警かれていることを恨拠とす
る(堀家文吉郎﹁貨幣数量説のジョセフ・ハリスにおける溶暗﹂
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久保田明光教捜還暦記念論文集﹄︑一一八九︑二九一ページを 参照)︒ちなみに︑ハリスは一七四八年に造幣局の試金宮
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l gるとなっている︒ステユアIトは帰国後︑この﹁ヨ
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Jパ最良の試金者だったハリス氏﹂と会話を
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目︒という表現をそう解してよければ︒││ハリスぢE
は六四年まで在世していた﹀文通もしているが︑それはパ
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ミンガムでシリング貨が偽造され政府がそれをわざと見逃してい るという一般の夙一詳を両者が試金の結果否定したことを一不すだけのものである公同・
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﹀同凶む叉の執筆は一七三
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年代の前半とされ︑三者のうちではこれがいちばん早い︒
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に捧げられ︑この人物の職名をピ)包ω
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﹄己2の長官に任じたのは︑中断期
を入れて一七五四!六一年にわたったからである︒
( 4 )
しかしこの書はその本来の目的から︑第一部においても本位や為替などの一問題を原理的に取扱っている︒マカ戸ツクの解 題によれば︑それば﹁貨幣の価値や為替の変動を決定する諸事情の説明に加えて︑白川の噌進における醇本の影響と労働の分割
とに関するいくつかの立派な解明を含む﹂
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・円止︑丘町)ものである︒したがってハリスに関するこれまでの諸 研究は︑その書のいわば附加的部分に向けられていたわけである︒スミスの前史としてハリスを見るばあいそれは当然であり また意義を持つが︑貨幣制廃論のすぐれた初期的古典としてこの書を見るという﹁線は意外にのばされていない﹂(堀家︑前
掲︑三九
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堀家民もこの問題の存在を指摘しただけである﹀︒なお︑ハリスについての従来の個別研究には︑久保田
明光﹁﹃貨幣論考﹄に現はれたるジョセフ・ハリスの経済思想
1
1主として其の富︑価値及び分業開諭に就いて﹂(同著﹃近
陀経済学の生成過穂﹄所収可小林昇﹁ジョウゼア・ハリスの経済学説﹂(舞出教綬還暦記念論文集﹁古典学派の生成と展開﹄
わたくじ