【書評】滝ロ清栄『マックス・シュティルナーとヘ ーゲル左派』理想社 二〇〇九年 滝口清栄著『マ ックス・シュティルナーとヘーゲル左派』を読む
著者 片山 善博
出版者 法政哲学会
雑誌名 法政哲学
巻 7
ページ 55‑58
発行年 2011‑06
URL http://doi.org/10.15002/00008010
本書は、著者が、大学院時代の論文(一九八二年)から近年までに著した論文に、加筆修正したものである。本書の「終章」まで含めれば三○年近くに及ぶ著者のヘーゲル左派との格闘の歴史が本書である。評者が大学院に在籍した当時二九九○年代初め)、著者は、すでにヘーゲル左派研究の権威のようであったことを覚えている。同時に著者は、ヘーゲル研究者として、活躍されていた。その成果は、学位論文をもとにした『ヘーゲル『法(権利)の哲学造(御茶の水書房、二○○七年)にまとめられている。本書は、ヘーゲルの死(一八三一年)後の新しい時代状況(フランスにおける一八三○年の七月革命と一八四八年の二月革命の間の時代の転換期)の中で、その時代にふさわしい思想構築の運動として出現したヘーゲル左派論争史 滝ロ清栄『マックス・シュティルナーとヘーゲル左派』理想社二CO九年
滝口清醗木箸『マックス・シュティルナーとヘーゲル左派』を読む
【書評】に焦点を当てたものである。ヘーゲル左派の思想はヘーゲル哲学の継承と批判をめぐって生み出されたものであるが、その特徴は、著者が指摘しているように、思想のリアリティを追及するところにあった。それは、普遍性(思考)に還元される人間ではなく、感性的な人間、固有な自我、諸関係の総体である人間の探究の試みである。本書は、その探究の跡をヘーゲル左派論争にまさに衝撃として現れたシュティルナー思想が引き起こした波紋を中心にたどっている。本書のおもな登場人物は、シェリング、バウアー、フオイエルバッハ、シュティルナー、マルクスである(シェリングはヘーゲル左派ではないが、フオイエルバッハへの思想的な影響関係で取り上げられている)。その中のシュティルナーを中心にヘーゲル左派思想が再構成されている。
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評者は、ヘーゲル左派については、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』をかじった程度であるので、踏み込んだ考察はできない。各章の簡単な要約と感想のみを述べるにとどめたい。第一章「ヘーゲル批判の思想圏lシェリング、バウアしフォイエルバッハと疎外論l」は、「自己疎外」「自己意識」「外化」「対象化」「類」などのヘーゲル左派のキーワードの成立過程を明らかにしている。たとえば、「自己疎外」については、ヘーゲル左派独自の概念であることなどである。まず、著者は、ヘーゲル左派とは一見関係がないように見えるシェリングによるヘーゲル批判の仕方に注目する。周知のように『精神現象学』の刊行を機に、ヘーゲルと決別し、積極哲学を提唱することになるシェリングは、本質では捉えきれない実存の立場に立ち、その基礎を自然とする。本質と実存の区別が後にフオイエルバッハに影響を与えている点を指摘している。また、ヘーゲル左派の基本的な構図が、バウアー流のヘーゲル解釈の中に示されていることが明らかにされる。著者は、バウアーが「実体の運動は自己意識の運動」であるとすることから、疎外とは自己意識の転倒した自己関係だとする見方が生まれ、この見方こそが、二ルクスの『経哲草稿』の〈自己疎外〉概念の原型」になったと著者は指摘する。またフオイエルバッ ハは、「自己対象化」、「外化」概念によって「ヘーゲル哲学を理念、思想の自己外化として捉え」ることになり、思想と存在の転倒を図ることができたのだと指摘する。ここから存在に根ざした哲学が構築される。第二章「シニリングとフォイエルバッハーヘーゲル批判の位相、あるいは分岐l」は、シェリングのフオイエルバッハへの影響についての考察である。著者によると、フォイエルバッハによるヘーゲル批判は、シェリングの『近世哲学史講義』に見られる基調に沿うものであ」ろという。シェリングの「主観‐客観としての自然の概念」を評価したフォイエルバッハは、後期シェリングの人格神論にもとづく「創造する神の概念」を否定するものの、シェリングとは異なる形で自然と感性・直観に定位する哲学を構想するようになることが明らかにされる。第三章「倫理的ミーーマムとしての幸福主義Ⅶ11フオイエルバッハ晩期思想の意味l」は、前章で示したフォイエルバッハの自然に根ざした倫理思想の考察である。フオイエルバッハが、カントが「人類の類概念」を導入した点を評価しつつも、カントとは異なる立場から「幸福衝動にもとづく自由、それも若干のではなく万人の幸福衝動にもとづく自由こそが、民衆の自由というものなのである」とし、幸福衝動を倫理の基礎におく。そして、シュティルナーに
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よる批判(「フオイエルバッハの類的存在としての「人間」がなお神学的色彩を帯びている」という批判)を受け、エゴイズムを受容することになる。ニゴイズム」とは、利己主義ではなく、「何よりもまず生命活動に定位して感性的自然な自己の価値を十分に承認する立場」であり、そこからフオイエルバッハは、幸福衝動にもとづく最小限の倫理(邪悪なことはしない)を提示していくことが明らかにされる。第四章「M・シュティルナーにおける唯一者と連合の構想--青年ヘーゲル派批判とその意義l」は、本書の中でも最も読み応えがある章であろう。かつて評者は、この章の元になった論文が高く評価されているという話を聞いたことがある。当時すでに著者はシュティルナー研究の第一人者であった。本章で、著者は、「思想的な転換期の中で、シュティルナーの思想が格別の意味をもつこと」を明らかにしようとしている。そして一八四○年代の論争の中で『唯一者とその所有』の「唯一者と連合の思想的なモチーフ」がどのようなものであるのかが述べられていく。シュティルナーは、バウアーの自己意識を世界または歴史の唯一の力として評価しつつも、それとは異なる唯一者、エゴイズムの立場に到達する。これは、対象にとらわれる功利主義とは異なり、自由と自己決定に根ざした考え方であり、人 間なるもの(普遍主義)の支配に、「私の力、私の交通、私の自己享受」を対置するところに成り立つ考え方である。ヘーゲルの「自由の実現化」のプロセスに対しては、それが「個への外面、内面にわたる支配」であり、フオイエルバッハの主語と述語の転倒に対しては、それが単に「神Ⅱ人間」を「人間Ⅱ神」に置き換えただけであり、かえって個の内面的支配を完成と批判するものだとするラディカルなシュティルナーの批判が、生き生きと描き出されている。「諸個人の固有性とその確証を保障する不断の流動的な結合」を模索するシュティルナーの思想とそれに対する同時代人のやり取りが詳細かつ分かりやすく述べられている。第五章「L・フォイエルバッハの思想的転回とシュティルナー」は、前章で述べたシュティルナーの思想がヘーゲル左派(とくにフオイエルバッCにどのような思想的転換をもたらしたのかについての考察である。フオイエルバッハが、シュティルナーの批判を受け〈類〉概念の意味を転換させ、当初批判していたくエゴイズム〉を受容するようになった経緯が詳細に述べられる。シュティルナーの問題提起の重みだけでなく、フオイエルバッハの知的真蟄さも高く評価されている。第六章「〈哲学〉の解体、現場としての知Iマルクスの反哲学‐--」は、『経哲草稿』と『ドイツ・イデオロギー』
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l伝統的公私関係の解体、新たな着一れるので、本書とあわせて読まれたい。 についての考察である。前者については、「フオイエルバッハの自己対象化‐自己外化‐自己獲得の論理」を用いて「私有財産並びに疎外された労働の問題」に取り組むなかで、「人間」、「類的存在」が、社会をなして自己活動する労働の主体であることが示され、後者については、ヘーゲル左派の論争の焦点である「類的存在」(フォイエルバッCと「唯一者」(シュティルナー)の対立に対して、エンゲルス・マルクスが正面から応答しているさまが描かれる。第七章「経哲草稿」と『精神現象学』lヘーゲル批判を問い返す、あるいは疎外論の交錯」は、『経哲草稿』のマルクスによるヘーゲル批判の再考である。著者は、ヘーゲルに帰された自己意識」や「疎外」が、バウアー流の「自己意識」や「疎外」であり、また自己意識の自己疎外とその回復という構図はバウアーに帰されるとする。また自己外化や自己対象化については、これがフオイエルバッハの用語であり、マルクスは、それを自己疎外と同じ意味合いで使うことで、フオイエルバッハによるヘーゲル批判もそこに含まれていることを明らかにする。ヘーゲル独自の疎外概念については、前掲書の第七章。疎外」と近代的啓蒙l伝統的公私関係の解体、新たな着手点」で明らかにさ
第八章「もうひとつ『ドイツ・イデオロギー』l「聖 マックス」とシュティルナー‐フオイエルバッハ」は、シュティルナーとフオイエルバッハの対立の構図そのものを超えようとするマルクス、エンゲルスの試みが示されている。本書は、ヘーゲル左派の思想的論争がどのような意味を持っていたのかを、まさに現代の人間論としても提示している。フォイエルバッハの普遍に還元されない感性的な人間、シュティルナーの個体の固有性をめぐる問いは、まさに現代の人間をめぐる問い(他者や自己をめぐるさまざまな問い)そのものである。ヘーゲル左派を理解するためだけでなく、マルクスやヘーゲルを新たに読み直す上でも、大変有益な書である。
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