Hardy批評の最近における動向
著者 赤木 雅吾
雑誌名 主流
号 29
ページ 13‑25
発行年 1967‑04‑10
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016708
Hardy批評の最近における動向
赤 木 雅 五日
Hardy 批評iこは凡そ三種類のタイプが見られる.その一つはいわゆるImmanent Willを中心とした運命の立場から作品を見ょうとする批評である. ζの場合,人間 の自由意志等は全く無視される,当然人間の行動も運命と云う一つの枠にはめて考 えられる.従って, この様な運命の枠を破ろうとする人物は運命の犠牲者として葬 り去られる.例えば Tess,Jude, Eustacia, Henchard等々の Hardyの描く主人公 達の殆んどは, この様な悲劇的運命を辿らされる事となる.ここには全〈人間自身 の価値,可能性は存在しないし,存在するのは幻滅であり,絶望であり,死であり,
そして人間を支配する巨大な力としての運命である. この様な見方からすれば,
pe田imist,fatalistとしての Hardy観が創り出されるのは当然の事と云わねばなら ない.
第二のタイプに属する批評では自然、或いは社会が善意的な存在として肯定されて いる.それ故に自然の錠,社会の錠を破ろうとした者,又破った人聞は何んらかの 形でその報いを受けねばならない.従って JudeもTessも社会に対する反逆者と して見なされ, 彼等の死は社会に屈伏した証しとして受取られる. 又一方 Hen‑
chard, Angel, Eustacia等は常に自然との妥協,依存の中に生きている存在として ではなく,自然を侵そうとする外部の世界からの侵入者であり,平和な農村,自然 に悪をもたらす存在として考えられている.
第三のタイプはその動機,結末がどうであれp あく迄人間そのものに焦点を向け て,不安,苦しみ,困難と戦い乍ら,一心に生き抜こうとする人聞の勇気, 意志,
行動等々に表わされている,いわゆる「人間的な姿」を重要視する.この場合,第 ーのタイプの批評と全く違いラ運命は最早人間のすべてのものを規制し,支配する 絶体的な力ではなくして,人間の努力,意志,勇気によって動かし得るものに変っ ている.従って,この様な見方から出てくる Hardy観は第ーの場合に見られる様
Hardy批評の最近における動向
な, pessimist Hardyと云う暗い,陰うつな Hardyではなくして,人間の進歩,
可能性をあく迄信じようとする, evolutionarymeliorist' Hardyなのである.
以上の三種類の Hardy批評を年代的に大別すると,第一,第二に属する,いわ ゆる伝統的批評が一応1960年以前の批評であり,第三のタイプが1960年以後の批評 であると云えよう.
I
この第一, 第二の伝統的批評の具体例として1950年代に出た D. Hawkins:
17wmas HardyとD. Brown: Thomas Hardyを選び検討する事にする. と云 うのは,この二つの批評が伝統的 Hardy批評の性質を見事に備えた典型的批評と 云えるからである.D. Hawkinsは fatalistHardyと云う伝統的批評態度を忠実 に受け継いでいる第ーのタイプに属する批評家である.彼によれば人間は正しく運 命の puppetとしての価優しかなく,常に運命によって翻弄され,滅亡する存在に 過ぎない. この著者による fateからの作品解釈は Fatalismin the ~Vorks
0 1
Thomas Hardyの著者A.P. Ellはが専ら哲学的考察;このみ執着しているのに
k
して,確に多少の変化は見られるが根本的には同じ立場をとっていると見てよいで あろう.この著者 Hawkinsの解釈で我々が最も奇異に感ずることは著者が多分に 原作を無視した著者独自の発想から論を進めている点である.それ丈にこの解釈に 関して種々の疑問が起きざるを得ないのである.
著者は Hardyの小説では人間進化への感覚, それへの努力が人間破滅の原因と なっている?と云う著者独自の発想の実証例として, Angel, Tess, Jude, Sue, Clym を挙げているが,先ず疑問に思える事は著者は一体何を根拠にして,又何を基準に して,人間の破滅,或いは主主福を決定ずけているのであろうか,又著者はここに実 証例として挙げている人物達各々の全体的把握をしているのであろうか, と云う疑 問である.著者の根本的誤解は「人間進化への努力が Hardyの人物達を破滅に導 く」と云う著者独自の発想そのものにある. この発想、は「運命と云う枠から人間は 逃れる事は出来ない」とする従来の伝統批評的偏見から出ている事は明白である.
成る程 Hardyの主人公達は一見すれば著者の言葉通りであるかも知れない,し かし主人公達のひたむきな人間進化への感覚,努力があったからこそタ 中途で de司
Hardy批評の最近における動向 15 troyされる事なく最後迄,人生における苦闘に挑む事が出来たのであり,その苦闘 を通して人間としての進化を成し遂げている点を無視しているのである. 例 え ば iAng巴lがドンキホーテ的理想主義のために破滅する」と著者は述べているが噌確 にAngelは理想主義者であり3 一時的には余りにも因襲的, 利己的な理想主義者 であった.しかしその様な Angelは観念的に人生を捉え, 浅い人生経験しか持っ ていない頃の Angel,E!Pち Tessとの婚約による破綻から Brazilへ旅立つ迄の Angelである.Brazilでの苦しい体験を通して初めて現実を知りラ 「性格の真の美 欝は,その人の業績ばかりにあるのではな<,その目的と動機にある」と云う{寄り の境地に達した Angelとそれ以前の Angelとの間には格段の相違が見られるし,
又そこに大きな人間的進化が見られる事は事実であろう.それ故にこそ, Angelが Tessとの合ーによる,いわゆる ful五lmentを得ているのである. 従って, Angel の理想主義,人間進化への努力があったからこそ3 この様な人間的成長を遂げたの であって, もし Tessの告白を聞いて,完全に人生に絶望し,自己の理想主義を棄 てていたならば, 著者の云う通り Angelは破滅していたであろう. これは Tess の場合も同じであって,著者の述べている如く, Tessはinnocentであったために Alecの手中に落入る. しかしその後人生との悪戦苦闘の末, 彼女の人生の目的と も云える AngeIとの再会によって, fuI五lmentに達した Tessは人間としての偉 大な成長を示している.又この事はJude,Sueにおいても云える事である.日住,著 者はここで何故に Clymを例として挙げているのであろうか. と云うのは Clym Jこは著者の望んでいる様な進歩への感覚,努力は見られないからである.成る程,
パリーへ旅立つ迄のClymは理想主義的であったかも知れないが,少くとも原作に 現れている Clymは人生との厳しい戦いに絶望し,挫折した Clymの姿であり,
最早そこには何んら正面から人生に立ち向う意志も勇気も感じられないのである.
Clymは著者の云う thenormaI patt巴rnof his life'を否定するのではなく,む しろ9 それに依存して,云い換えれば,運命の枠の中で従順に生きょうとする人間 である.
従って著者はこの様な運命の枠の中で従I1買に生きる理想的人間像を peasant'に 求め,他の主人公達は野望を抱〈が故に,運命の枠を破ろうとするが故に破滅する
4)
と結論している. 著者は人間の希望, 可能性, それを達成しようとする人間の意
Hardy批評の最近における動向
志, 努力, 勇気等に対して全〈否定的な立場をとっている. 更に著者はしばしば destroy'とか destruction'と云う言葉によって,運命の人間に及ぼす力を示そ うとしているが,この言葉は Tessの両親に代表される無気力な人間違には当ては まっても,ここで著者が挙げている Giles,Jude, Tess, Henchardの如き人物には 不適当な言葉である Tessの母親は 'theCompleate Fortune‑Teller'と云う運勢 占いの本が常に万事を判断する彼女の指針となっている事にも表されている如く,
何んら人生1:::対する積極的意志もなく,唯専ら娘の Tessに依存し,全く利己的な 日的のみで Tessを D'Urb巴rville家へ送り, Tessが不幸になって帰って来ると,
「これも,つまりは自然の成り行きで,神さまの思召しだもの !Jと唯すべてを運 命;こ任せ9 依存し切っている人物である.この母親に劣らず,父親も祖先の血統の 良さに誇りをもち, 自らは何んの努力をしないでも幸運が転がり込んでくると信じ ている無気力な人間である.この様な人物こそ,著者の云う運命によって振り廻さ れ, destroy'されている人物なのである.
次に Hawkinsと同じ伝統的批評に属する第二のタイプ,即ち自然を善意的な存 在として認めようとする代表的批評は D.Brown: Thomas Hardy(1954)である.
この批評に関しては後でふれる RoyMorrellの ThomasHardy (1965)の中で可 成り詳細な批判がなされている.
著者 Brownはこの蓄の目的を Ther巴 seems to me to be a clear need to establish another bacl王ground to Hardy's work, agricultural rather than intel. lectual."と述べ, 終始一貫して農業,或いは農村生活の面から作品を眺めている.
著者はこの当時 (1870" ,1902年〕の穀物自由貿易を直接の動機として起きた農村の 不況,農民の都市への流入を綿密に調べ, 農村の衰退が Hardyの登場人物達の運 命とどれ程密接な関係をもっているかを検討している.
成る程,著者の述べている如く Hardyの作品の大部分が農村を舞台としてい る事は事実でありョ第一のタイプの運命観のみで割り切っていた批評とは違ってョ 独創性のある批評となっている.又著者の批評態度も統ーがありョ一貫性がある.
唯ょの種の批評で問題となる点は,第一のタイプに属する批評家が犯したと同じ様 に ImmanentWill'或いは Fateと云う或る種の外的事象からのみ作品解釈をし ようとする余仇作品の全体的把握を忘れ,作者の意図,作品の本来の姿を見失う
Hardy批評の最近における動向 17 恐れがありはしないかと云う事である.
著者は農村と農村の外にある世界,即ち都市, IHJの様な自然との接触の少ない世 界とを区別して,楽園と悪魔の世界の如き対立関係において考えようとする.
著者は1870年以後の英国の農村が外部から流れ込む力,機械或いは科学知識,経済 的圧迫等の力によって,農村が次第に侵されていったと同じ様に Hardyの措く農 村も外からの力によって侵され,破壊されている, と云うのである.この事は著者 の言葉通り Hardyの小説,殊に TheReturn of the Native, Under the Green‑ wood Tree, The lV1ayor of Casterbridge, Tess of the D'Urbervi11es等々の作品 の背景となっている農村は多かれ少かれ, その様な外的な力の影響を受けている.
又 Tessの家族の様に次ぎから次ぎへと新天地を求めて放浪している場合もある.
しかしこれら農村の衰退はあく迄Hardyの小説の背景ではあっても, 決して主題 ではないのである.その意味で農村を唯単に作品の背景として取り扱っている渡り では,著者の説は妥当性があると云えよう.しかし著者がその背景を主題lこ置き換 えて考えようとする場合に大きな曲解が生じている.
著者は農村と外部世界と云う対立的分類から,そこに住b人間の対立的分類或い は人間の価値評価を試みている.殊に著者が農村を一方的に肯定する立場から,人 間評価をしようとする余仇 農民及び農村出身者を strong‑natured'な人物とし て理想化し,外部社会の人間を「人間的に劣った人物」と見倣そうとする,そこに 著者の論旨の大きな飛躍が見られる. その結果 TheReturn of the Nativeの Cly可nは 'akey figure of a right appraisal of Hardy's art'とまで祭り上げられ,
逆に Angelは T巴田にとっての 6anagent of destruction
2
して全くの悪玉扱いを受けている. 更に,著者の作品分類によれば,The lV1ayor of Casterbri・必rは the tale of the struggle between the 制
と云うカテゴリーに入っている.ちなみに, Hardy自身の人聞の分類を参考にして みると, 彼は人間を the mentally unquick巴ned,mechanical, soulless'と 'the living, throbbing, su妊ering,vital'との二種類に分けている.そして更にはっきり
9)
云えば, 'souls'と,machines'とに分けられると云うのである.この Hardy白身 の分類を例えば TheReturn of the Nativeの登場人物達に適用して考えた場合2
'the living, throbbing, suffering, vital のカテゴリーに入るのはEustacia以外に
は見当らないであろう.何故なら,他の登場人物達は唯単に何物かに依存し,何物 かによって動かされている m乱chines'であり,存在はしていても,何んら彼等自 身の意志をもっていないからである.殊に著者が農村出身の理想的人物として高く 評価しているClymにも,いわゆる彼自身の意志らしい意志は見られない.と云う
10)
のは母親の Mrs.Yeobrightが thesublime saint'として,常に Clymの心に存 在し Clymを動かしているからである.従って彼がパリーへ行った事も母親 Mrs. Yeobrightの虚栄によるものであり, Egdon Heathへ滞って来た後, Eustaciaと の結婚をする場合も Eustaciaの積極的な意志に動かされて結婚しているのであ
り,その後の Clymは正に母親と Eustacia二人の 'puppet'でまうり, machine' であっても, soul'ではあむ得ないであろう.この Clymに反して, Eustaciaの 積極的行動は決して他の意志ではなく,常に彼女自身の意志から出ている.その意 味で,この作品の最も人間的な人間とも云えるのである.
更に, Angelに関しても,著者の云う様に, Angelが anagent of destruction' であるとすれば Alecとの生活で自己の意志を棄て全くの生げる屍と化していた Tessに生への勇気を与え, 死から救い出した Angelの 1wi1l protect you by every means in my power, dearest love, whatever you may have done or not
11)
have doneと云う最後の場面での Tessへの言葉を著者はどの様に解釈するのであ ろうか.又 Ang巴lとの再会によって,人生の喜こびを十二分に味ったTessの最 後の言葉, 'Angel, 1 am almost glad‑yes, glad! This happiness could not have
12)
lasted. It was too much. 1 have had enough ...',をT己ssのAngelに対する真実 の言葉とは考えないのであろうか.
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1960年代に入るとこの様な第一,第二のタイプに属する伝統的批評から,第三の タイプの批評3 即ち人間を中心に作品を解釈しようとする批評へ,と云う Hardy批 評の大きな変動期を迎える事になる.第一,第二のタイプの従来の批評が多分に作 品を離れ,主観,偏見に捉われていた事に対する鋭い批判,反省を通して,あく迄 作品を中心とした, human'な立場からの綿密な再検討による Hardy再評価の 動きがはっきりと現れている. その再評価の先駆者的批評が G. Wing:幻wmas
Hardy批評の最近における動向 19 Hardy (1963)であり,統一的な Hardy再評価を確立した批評が,その2年後に 出たRoyMorrell: 7克omωHaJτly(1965)である.
G. vVing: Thomas Hardyは一種の啓蒙的な Hardy入門書であると云う性格 にもよるのであろうが,著者はいわゆる困苦しい批評家の殻をぬぎ棄てて, Hardy の一読者として作品をenjoyしていると云った感じを与える.その自由な批評態度 が終始一貫しており, それ丈に非常に大胆な, それ迄に見られなかった独創的な Hardy批評となっている.その意味では,これから Hardyを研究しようとする人 にとっての最も理想的入門書と云えよう.
この批評で特に注目すべき点は,第三章において, Hardy研究家がこれ迄iHardyア は悲劇作家である」と云う固定観念から脱け出せず〉見逃していた喜劇的な面を重 視している事である.この事は,云い換えれば,著者が作品の人間的な函を重視し た結果なのである.この章ではラ Hardyが人生の the absurd exterior'と'the seriousness insid巴'を同時に見出していたと云う立場から,その前者の'theabsurd exterior'即ちタ喜劇的外面を中心に検討している.先す¥著者はDesperateReme‑
diesについてEdmundBlundenが唯その風景描写のすぐれている点にのみ言及し,
13)
LioneI J ohnsonは唯単にこの作品を thetragic group'に入れているに過ぎない 点を挙げ, この作品に対する過少評価に反論するのである.
著者は悲劇jとしてよりは喜劇!としての DesperateRemediesの再評価を試みてい る.更に A Pair of Blue Eyes, The Hand of Ethelberta, Laodicean等の作品 からもうその喜劇性を指摘している.第四章では FarFrom the j'vfadding・Crowd を取り上げ,この作品に対する David CeciI, R. A. Scott.Jamesの批評を手厳し
く批判して,その誤解,曲解を痛罵している.先ず前者はDavidCeciIがTroyを 唯単に運命の humaninstrument'として扱い, R. A. Scott‑Jamesはこの作品の 結末が悲劇的結末と喜劇的結末と折衷したものである,と極く衝単に解釈している 事を取り上げ,批評家が Hardyの登場人物の性格や situationを杓子定規的な専 門用語と云う寝台 (theProcrustean technicaI bed)に合わせるために誤解したりラ 或いは曲解している,と述べ,その怒りを著者は次の様な言葉で表わしている.
This hawking of tragedy! This insistence on Fate and Don Juan ! 又,第六章では Hardyの詩についてふれている. 中でもヲ従来 Hardyの作家と
しての集大成として考えられていた TheDy~叫sts についてのR. A. Scott‑James の評価p 五naleof a great body of work'を真向から否定して,この作品は唯単 なる amuseum piece'であると酷評している事は注目すべき点である.この作品 に対する著者の批評によれば,凡そ,見事な集大成と云うには程遠い代物となって いる. その理由として, この作品には彼の小説にあれ程壮大に描き出されている Hardyの世界が殆んど表わされていない事を挙げている. つまり, この作品の 'design'のぎこちなさ,凝集力の欠如のために作者の意図が作品全体に浸透してい ない,と云うのである.そのために博学な研究者にとっては魅力ある作品であって ふ芸術的には生命を失った作品であると見倣しているl5)著者のこの様な TheDy‑
刀ωts評価の当否は別としても, これら一連の批評, 批判jに一貫して見られる著者 Wingの態度は,従来の批評家に見られた伝統批評への絶体的依存,又それによる 偏見,或いは原作から余りにも遊離した独創性等々とは全く相異払飽の批評,或 いは先入観を仲介としないであく迄,著者対作品との直接的対決と云う,文学作品 に対する最も本質的な,最もオーソドックスな批評態度である.
この様なWingの批評態度が1965年に出た, Roy Morrell : Thomas Hardy, The Will and the Wの で は 更 に 明 確 に , 力 強 し 統 一 あ る Hardy再評価として表わ されている.従来の批評を真向から否定し,或いは批判して,批評家を仲介とせずp
直接 Hardyの作品そのもの, Hardyの意図そのものにふれようとする,積極的且 つ劃期的 Hardy批評となっている. 著者 Morrellは Forewordにおいて従来の 批評家の誤解,曲解が Hardyの作品〆に対する我々の approachをすべて条件ずけ てしまい,その先入観が我々の頭から離れないものにしてしまった. これに対して 我々の出来る事は再び Hardyの作品に直接にふれ,その思想を直接に得る事:であ る,と述べているが, この言葉は神への接近は聖書と理性による以外にないと断じ たノレターの如き態度を幼視させるものがある.
第一章 iHardy批評の混乱」ではこの様な著者の態度が,従来の批評家に対する 鋭い批判,反論となって,明確に示されている. この章で著者の槍玉に上っている 批評家は Dr.John Holloway, D. H. Lawrence, J且mesSteph巴ns,Douglas Brown, Arnold Kettle等であるが,主として彼の批判の鋒先はDr.John Hollow且y~こ向け
られている.その理由として,著者は Hollowayの批評が今日の Hardy批評の典
Hardy批評の最近における動向 21 型的な二つの流れの見事な代表であると云う点を挙げている.その二つの典型的流 れとは, 第一に, Hardyの悲観的運命観に狭量な信念を抱き,人間の自由を否定 しているものョ第二に, 自然或いは古い農業的秩序の良さを信じ切っているものと
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している.
著者は先ず, Hollowayの The Charted J1Airrorにおける批評一般論を取り上 げ,批判を加え乍ら,著者自身の文学批評論を展開している.その主旨の第ーは文 学を研究するに当って,批評を信ずべきか,或いは原作を信ずべきかで,研究者は しばしば迷わされるがう批評と原作は全く別物である.第二に文学の伝達の問題に ついて, もし批評家の感覚で文学作品すべてを把握でき,批評家の子を経て初めて 伝達されるものであるなら, その場合我々の到達するのは作家自身の意図であるの か,或いは批評家の意図なのであろうか3 と著者は反語的疑問を投げかけ乍ら,作 品そのものが我々への最良の伝達手段であり,伝達の最後の望みでありラ又作家自 身にとっても作品以外の伝達方法はないと断じている.第三に言葉の問題にふれ,
批評家が詩や小説において,表面に表わされてない意味,いわゆる言葉の含蓄を見 出すと云われているが,成る程作家は言葉に表わされている以上の事を稿示する事 もある.しかし,例え,そうであるからと云って,言葉の意味をどんなに好き勝手 にとっても,すべて作家の意図している意味であるとは限らない, と述べ,批評家
17)
の独断的解釈を非難している.従って,著者によれば,批評家の機能は唯単に文学 作品の意味,或いは訴えの断片を{云え得る丈であって,それ以上批評家がどの様に 文学作品について,読者に語りかけようとも,読者が卒直に文学作品を読み直した いと云う衝動に駆られ,作品そのものへの興味を呼び起すものでない限り無意味で ある,と云うのである.この様な読者の文学作品への覚湿こそp 文学批評の主要な
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機能であると結論している.文学研究において,批評の如きものを仲介とすべきで はなく,あく迄作品中心であるとする,著者の態度が,いわゆる NewCriticismと 呼ばれる批評態度と相通じるものである事は云う怠もない事である.その事は著者 が HollowayのNewCriticismにおける科学的アプローチへの非難を取り上げ て,激底的に反論している事からも首常出来るのである.
更に具体的に著者が Hollowayの Hardy批評に反論している第ーの問題は,
Natureに対する考え方である.Hollowayの自然観によれば Hardyの小説iこお
Hardy批評の最近における動向
いては自然、が人間のすべてを支配していると云う立場から,人間の行動の自由,人 聞の努力,人間の知性等の,いわゆる人間的能力,可能性をすべて無視し,人間が 自然に順応して生きる事が正しい生き方であり,これこそ Hardy哲学の本質なの である.これに対し,著者は Gabriel,Jude等の人物が不可能な事を可能にてしい る事を例に挙げて, fat巴'とか inevitable'とか,或いは Presidentof the 1m‑
mortals'と呼ばれている nature'が決して人間の絶体的支配者でない事を強調し,
人間の力で変え得るものであると論駁している. 即ち,著者によれば natureは Hardyにとって,成る程 thescheme of things'であるし,人間が関わねばなら ない現実でもある.しかし,この様な人生の困難な状態を,人間が知的に,或いは 卒直に熟視する事によって,この現実から何かを把握する事が可能であり,その国 難な現実を克服して生きる事も可能である.これが Hardyの意図している事なの である.この様な Hardyの意図を Hollowayは全く見逃しており,唯単にHardy の意図を一瞥しているに過き、ない.そのために彼の批評方法は,彼にとっても3 我 々にとって何一つ役Jこ立つ事は述べていない.唯, Hardyの pes日msmについて の Holloway自身の旧式な偏見とその古い偏見に合う様な少しばかり 'modern'な 偏見に役立っている丈であるζ著者は Hollowayを執劫に批判している.
しかし,これら一連の Holloway批判に見られる著者の態度は一貫しており,す べて批評家の作品から離れた freeinterpretation'或いは creative'な批評を厳 しく戒めている.即ち批評が原作と同様に creative'である筈がないのであって,
creative'であろうとすればする程,読者に作家自身ではなく,批評家自身の sen‑ sitivity'を植え付ける事になり,読者を一層原作から遠ざける事になる.従って,
この様な批評こそ原作を誤解,曲解する恐れが十分あると云うのである.
次に我々の注目をひく章は第三主主の A Note on The President of the 1mmor‑
tals'である.この 'thePresident of the 1mmortals'と云う言葉は Tessの最後
19)
の場面の一節に出てくる言葉であるが,従来この言葉が Hardyの fatalist或いは pessimistの面を示している keyword'として多くの批評家達によって解釈され ていた.著者はこの小説 Tessof the D' Urbervillesでは Hardyが人間の弱さと 同時に人間の努力,勇気,意志,忍耐の如き人間の不屈のカを描き,弁護し,又,
反対に周囲の力によって動かされている人間に対しては批判的な描き方をしている
Hardy批評の最近における動向 23 事から考えて, thePresident of the Immortals'を文字通り,
r
人間を圧迫し,支配する存在」と解釈する事は矛盾していると反論し, 'Instead, the phrase must
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take its meaning from its context'と述べている.この様な'thePresident of the Immortals'或いは colossalPrince of the W orld '等の言葉は自分の責めを他に 転嫁したがる様な人物ラ例えば Troy,Eustacia, Tessの母親等の運命に依存して生 きている人物の創り出した存在として Hardyは描いている.その意味から, この 言葉は作者 Hardyの運命に依存して生きている人間達に対する 'irony'であると 著者独特の明断な解釈をしている.
この一貫した Morrellの批評には何んら反論の余地がない程の共感と感銘を受け るのであるが,それにも拘らず尚多くの問題が残されている様に思える Hardy文 学は,云わば,暗さと明るさの同居した文学である.従って,その批評においては その暗さのみに注目して, その明るさを見逃す場合とその反対にその明るさのみ重 要視してラその暗さを軽視する場合が往々起きるのである.著者 Morrellも従来の 伝統批評の根本を成している運命観を真向から否定しようとする余り Hardyのも つ,その隠さを見逃してはいないであろうか.少なくともラその暗さに対する十分 な究明がなされているとは云い難いであろう.例jえば,著者が EustaciaをTessの 母親や Troyと同じ様に運命に依存して生きている人物と見なしている事には大い に疑問を感ずるし,又 thePresident of the Immortalsを唯単に運命に操られてい る人物達への ironyとして片附ける事には更に強L、矛盾を感じるのである. この 事:は著者のみならず〉 human'な立場に立つ Hardy批評家のもつ弱さであり,
今後に残された大きな課題であろう.
最後に,著者はこの様な human'な立場からの作品批評lを通して, 又 J.S. Mill及び Darwinからの影響にも言及し乍ら Hardyが常に主張し続けていた彼 独自の pessimism解釈と evolutionarymeliorist 'としての立場の妥当性を論証し
ている.
この pessimism'と,evolutionary meliorism 'については Hardy自身が当時 の批評家の誤った pessimism'解釈に対して何度も反論,説明をしている 1902 年l月1日の日記に A Pessimist's apology'と云う前置きで「 Pessimism'とは 間違いのない勝負をする事であり,人間が絶望しない唯一の人生観である.人間が
ありとあらゆる最悪の境遇に落入った場合に,何をすべきかを推定しておけば,良
21)
い境遇が訪れた場合には,人生は子供の遊びである」と述べている.又, 1922年に 出た LateLyrics and E匂rlierのApology において,自分の云う Pessimism' は現実,即ち最悪の状態を卜分に見つめて,最善の目的目指し一段一段を卒直に認 識する事が心身の進歩への第一歩であり,これが evolutionarymeliorism'である
と説明している.しかし,この様な Hardyの解釈,説明を著者, Morrell程, 卒 直に,積極的に受け入れた批評家は今日迄殆んど皆無であった.従って,その意味 では RoyMorrellによって Hardyがやっと真の理解者, 正解者を得たと云って
も過言ではないのである.
今日迄 Hardyが Pessimist'と云われ,或いは fatalist'と評されて70年間,
唯盲目的に批評家達の言を受け入れ,疑いもしなかった事は Hardy研究者の怠慢 と云えば怠慢であったかも知れないが,それよりも, その様な歴史が築いて来た強 固な Hardy批評の伝統へのRoyMorr巴IIの積極的批評態度こそ,高く評価される べきであろう.今後の Hardy批評は本書を契機として, 大きな転換をする事は疑 う余地のない事である.そして,更に Hardyの描こうとした運命に依存しないで 生き抜いた人物達の如し最も安易な,常に研究者のoriginalなものを奪おうとす る批評に依存しないで, 自らの目で, 自分の感覚で Hardyの作品を確め Hardy の真の意図を探り出す研究者が続々と現れ, 更に大きく Hardyの再評価が試みら れる事が期待されるのである.
註
1) Cf. Elliot, A. P., Fatalism in the Works of Thomas HardyCPhiladelphia, 1935) 2) Hawkins, D., Thomas Hardy CLondon, 1950), p. 22.
3) Hardy, T., Tess of the D' Urbervilles CLondon: Macmillan, 1950), pp. 438‑9. 4) Hawkins, D., op. cit., p. 53
5) Brown, Douglas, Thomas Hardy (New York, 1954), p. vii. 6) Ib以,p. 59噂
7) Ibid., p. 91. 8) Ibid., pp. 65‑6.
9) Hardy, F. E., The Early Life of Thomas H.αrdy, 1840‑91 (London, 1928), p.243.
Hardy批評の最近における動向 25 February 13. You may regard a throng of people as containing a certain small minority who have sensitive souls; these, and the aspects of these, being what is worth observing. So you divide them into the mentally unquickened, mechanical, soulless; ancl the living, throbbing, "uffering, vital. 1n other words, into souls and machines, ether and clay.
10) Hardy, T., The Return oj、theNative (Macmillan, 1878), p. 505.
But to Clym she was almost a presence there, now as always. vVhatever she was in other people's memories, in his she was the sublime saint whose radiance even his tenderness for Eustacia could not obscure
11) Hardy, T., 01う.cit., p. 501. ユ2) Ibid., p. 514.
13) vVing, G., Hardy (Writers and Critics Series) (Lonclon, 1962), p. 28. 14) Ibid., p. 49.
15) Ibid., p. 84.
16) Morrell, R., Thomas Hardy: The Will and the lVay (University of :‑Ialaya Press: Oxford, 1965), pp. 1‑2.
17) C ,fMorrell,σ>t. cit., pp. 4‑5. ユ8) Ibid., p. 28.
19) Hardy, T., 01う.cit., p. 517.
Justice' was done, and the President of the 1mmortals, in Aeschylean phrase, hacl ended his sport with Tess
20) Morrell, R., 0ρ. cit., p. 40.
21) Hardy, F. E., The Later Years 01' Thomas Hardy, 1892‑1928 (Lonclon, 1930), p. 91.
22) Hardy, T., Late Lyrics and Earlier (Macmillan, 1922), p. viii.