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一はじめに日本で新派が発生したのは一八八八(明治二一)年大阪 新町座での角藤定憲(一八六七 一九〇七)一座の旗揚げとされる 大日本壮士改良演劇会 という名から察せられるように 日本で新派は政治的プロパガンダとして始まり 当初は書生芝居 壮士芝居と呼ばれていた 河竹繁俊は 政治目的に発して 戦争ものへ

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

朝鮮における「新派」 : 演劇と小説との交渉

申, 美仙

九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程

Shin, Misun

Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University

https://doi.org/10.15017/17828

出版情報:九大日文. 14, pp.2-17, 2009-10-01. 九州大学日本語文学会

バージョン:published

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一 はじめに 日本で新派が発生し た の は 一八八八 (明 治二 一 ) 年大阪 ・ 新町 座での 角 藤定 憲 (一 八 六 七 ― 一 九 〇 七 ) 一座の旗揚 げ とさ れる 。「 大 日本 壮 士 改良 演 劇 会 」 と い う名 から 察 せ ら れ るよ うに 、 日 本で 新 派 は政治 的 プ ロ パガ ン ダ として始 まり、 当 初 は 書生 芝居 ・壮 士芝 居 と 呼ばれて いた。河 竹 繁俊 は「政 治 目的 に 発 し て 、戦 争 も の へ、さ ら にはいわゆる 新派悲 劇へと転 じて いくそ の 推 移 に は 、 明 治 から大正 への国民 生活感情が 、 まざまざ と 読 みと ら れ るの で あ り」ま た 、 「 (新派 は = 筆 者注 ) 明治 の民 間気 風 を 最も よ く反映 し た演 劇で あ り 、 一 般 国 民の 感情 、趣 味嗜 好 に い ち ば ん 並行 し、 共通部 分 も多く持 って いる」と 述 べ ている 。 要する (1) に新派 は 新 し い演 劇 形 式ではあ る が 日 本 人 の 生活 や 感 情を反映 し、社会の変化を機敏に写し出した演劇であ った。 とこ ろが、 政 治目 的に発 し 、 「 明 治 の民間気風を 最 も よ く 反 映」し た 日本 の 新 派はその 全 盛 期 に玄 界 灘 を 越 え 、 朝 鮮 でも (2) 興 行 され るこ とにな る 。 も ち ろ ん、朝鮮 では じめて日本 の 新派 が行 われ、享受さ れたの は 京 城 の日本人 町に 住む日本人であ っ

朝鮮における「

派」

演劇と小

説との交

SH IN M i s u n た。 だ が 、 新 派 の 主 な 受 容 者は 日本 人 で あ っ た も のの 朝鮮 人 の 観客 が 全 くい なか っ た わ け で は ない。む しろ 、 日 増 し に 朝 鮮人 観客 は 増 えた。 日 本人 町で 興行 さ れ る 日 本の 新 派 劇 は 演 劇 や 劇 場 が 存 在 しない 朝 鮮の人 々 にと っ て 好奇と羨望の対象で あ り、 文明国の も の として 映 った ので ある 。 そ し て 、そ れら は 模 倣 さ れ、 朝 鮮 近 代 劇 の 萌芽と な る新 派劇 団 が 続 々 と 旗 揚げ す る き っ かけとな った。 興味深い のは 政治 のプロパガン ダとし て 始 ま った日 本 の 新 派 が、 朝鮮では 啓 蒙 的 な 演劇 として 朝 鮮 の 風俗を 改 良 す るために 始まったこ と で あ る 。 こうした 背景 には在 来の朝鮮演 芸は封建 的 社 会の 残 滓 であ り、 正すべ き も の であると いう知 識 人たち の 認識が あ った。その よ い 手 本 と して 選ば れたのが 身近な 所 で 行 われて い る日 本の 新 派 劇 で あ っ た 。 こ の よ う に、朝鮮新 派 は日本の新派 を 影 響 源 として発生 し た が、 かとい っ て全く同じプ ロ セ ス を 辿った わ け で は な い。 ま ず 、 日 本 の新 派 は 政治 劇か ら小説 の 脚色にい たる までのジャン ル 変 遷が数年の試行錯誤と社会の 変 動 に よってなされた。こ れ に 対 し朝鮮では 政 治劇 、戦争 劇 、探偵 劇 、 小 説 脚 色劇が同 じ時期に 行わ れた。ま た 、 小説脚 色 は 主 に『 毎日申報 』で連 載さ れた翻 案 小 説 、 とりわ け 明治 期の 家 庭 小説が 頻 繁に 取り 入 れられた。 しかし小説と 新派が 同 時並行し たり、と きには 新 聞で連載 され ていないところ を 新派 が 先 行した り す る こと も あ った 。 既 存 の 研 究の 多くはこ うした新派と 翻 案小説 と の 関係を 『 毎 日申 報』 が部 数を 伸 ば す た め で あ っ たと 解釈 し て い る 。 確 か に

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新派 が 『 毎 日 申 報 』の連 載 小説 を 演 目 と し て お り 、ま た、 新 派 の興行 が あるた び に 紙 面に 割引券 を 添 付 し た ことから も新 派と 『 毎 日申報』 の間に商業 的 な関係 が 全く なか ったと は 言 え ない。 しかし着 目せ ねばな ら な い のは 、な ぜ『毎日申 報 』は割 引 券を 添付してまで 新 派 とのつな が り をも と う とした の かであ る 。 そ し て もう ひとつ注目 さ れる の は 、新派の演目 が主に日 本の家庭 小説の 翻 案で あ り 、ま た 、 『 毎 日申 報』で 重 要 な 論説と な った のが 朝鮮 風 俗 改良 、とりわ け家族制度の 改 良 で あ ったことで あ る 。 つ ま り翻案 小 説 の 演劇 化は 政策 的な 試 み と し て 実 行 さ れた 可能 性もあ り 得る 。そ こ で 本稿 では朝鮮新 派 の発生背景と それ を 積 極的 に宣伝し た『 毎日申報』 の 論 説 を検 討し、 新 派と翻 案 小説 と の 相関 関 係 に つ い て 考 察 す る 。 二 朝鮮にお け る 日本新 派 の 移 入 朝鮮 で日 本の新 派 劇 が 初 め て上演さ れた のは京 城 の日本人 町 である。 朝鮮に日本 人 の 移 住が いつ から始 ま ったの か 定 か で な いが 、 一 九 一 五年 に刊行さ れた青柳綱 太 郎の『 京 城案 内』に よ ると 京城 在 住 の 日 本 人 は 一 八 八 五年 はわ ずか 九 〇 人 だ っ た 。 そ して一八九五 年には一八 三 九人、 日 露 戦 前 の 一 九 〇三年 は 三 六 七 三 人 、 日 露 戦 後 の 一 九〇六 年 は一一七 二 四 人と 増加 したと あ る。 つ ま り、 日露 戦争を 境 に 朝 鮮に 居 住 する日本人が 急増し (3) た の である。渡朝した日本人 は 「 京 城の本町、南大 門 を中心と して 黄金町通 、太 平 町 、 明 治町 、南 山町 、旭 町 、 大 和 町 等 を 主 として市街 の 東南 部に 蟠居し 、 朝鮮人は鐘 路を 中心とし て北 チョ ンロ 西部に 店 舗を 連ね 」 た 。 一九〇七年ごろ ほ ぼ日 本人町が形 成 (4) され ると 娯楽施 設 が集 中的に 建 て ら れ、 歌舞 伎 、 新 派 劇 、 寄席 、 講談 などが行 わ れ るように なる。この 時 期、劇 場 が 急 増 し た背 景に は 「 一 九 〇 七 年 (明治四 〇 ) 前後 に於 い て は 〔 日 露 〕 戦 後 の 反動として浮華 軽 佻の風に 長 じ 」 、日 露戦争 の 勝利 の祝いと (5) 京城 に新 しい 生活の 場 を 営 ん で いる 日本 人を 労 う ため、 日 本 の 劇団が朝 鮮に 渡 っ た こ とが 挙げ られ る 。 また 、 『 京城 案内』で は 日 本 人 町 の 劇場 につ い て 次 の よ う に 紹 介 し てい る 。 府内 にお ける 劇 場 及び寄亭 並 に 常設 活動 写真館 は 以 上 の一 五 で ある 。 即 ち劇場と して は 、 京城 劇場 、 本 町 座 、 浪 花 座 、 開盛座 、 光武臺 の 五つ で、 寄 亭 は浪 花館、 市 民館 の二つ で 、 其の 他は 何 れ も 活 動 写 真の 常 設 館 で あ る 。 そ し て 右 の 中 、 朝鮮劇場、 優 美館 、團 成社の 三 つは、全然 鮮 人向 の常設活 動写 真館 で、光武 臺は純 然 たる朝鮮 劇の みを演 じ 、 年 中殆 ど無 休で 開 場 を 続 け て 居 る が 、 (中略 ) 又内地人 側 と しては 、 帝国キ ネ マ直営 の 黄金館、東亜 キネマ の 中央館 、 松竹キネ マ の 大 正 館、日活 直営の喜楽 館 の四つ と も、 年中 殆 ど 大 入 満員の大盛況で 、 世 運 に投じた活動写 真 が、内地 に 於 て 總 ゆる 他 の 興行物 を 駆逐し 、 獨 り 全盛 めた と齋しく 我が京 城 に於ても今 や その流行 は絶頂 に 達 し 各 階 級 の 観覧 者が続々 として詰め か ける有様 で (中略 ) 尚京 龍 館 は 龍 山に 於 け る 唯一の帝 国 キ ネマ常 設 館 で 寄亭としては 浪花館と龍 山 市民

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館が却 々 盛で あり 、劇 場は元の 寿 館 であつた本町 座、 浪花 座、 龍山 の 開 盛 座 が 相 當の 客を 呼び 、 渡 来 す る 各 演 芸 團、 興行 隊な ど が 不 断 に開 演を続 け て 居 る 。 最も京 城 に 於 け る 大物 の興行が 行はれる の は 京 城 劇 場 で、 元寿座 と 称した の を 経 営 の 組織を 更 へ て 近 年 株式会社 となし、 其の設備萬 端 に於 ても 正に朝 鮮 随 一 の大 劇 場 で、 東都 の有名 な る 俳 優な どが 来 演 す る 場 合 は 、 必 ず 同 劇 場で 蓋 明 け を 為 し 、 観 覧客 も随 つ て 多 く 上 流 の人 々が入場 す る 。 (6) 劇場 とし て は 京 城 劇 場 (寿座) 、浪 花 座 (本町五 丁 目 ) 、開 盛 座 (栄 座 ) 、本 町 座 (寿 街 ) があ り 、 浪花館 (明治 町 ) 、 市民 館 (漢 江 通 ) は寄亭、その 他、黄 金 館 (黄金町 四丁 目 ) 、 大正 館 (櫻 井町 ) 、 京龍 館 (練兵 町 ) 、中 央 館 (永 樂 町 ) 、喜 樂 館 (本 町 一 町 目 ) は活 動 写 真 の 常 設 館 で あ った 。また『 京城案内』 には 紹介さ れ てないが一 九一 〇年の 前 後、活動 写 真 の常 設館 である 高等演芸館 も 建 てら れ て いた 。 当 時、朝鮮 総督府 の 書 記 官だ っ た 岡良助 は 一九〇七 年前後 に おいて劇 場としては 「 旭町 一丁 目、本 町 二 丁 目 (今の 一丁 目 )、本町七丁目 (今の 四 丁 目 ) 南大門外の御 成座 及び 寿座 の 五箇 所の 劇 場 が あ り 、 中 で も 寿 座は 京城 最初 の 劇 場 だ つ た 」 と 記し て い る 。 (7) 日本人 町 で 次 々と 建て られ る劇場では 寄 席 や 講談 、歌 舞伎 、 新 派 劇など 様 々 な 日本 の 演 芸が 興 行 され ていた 。 新派 劇団 とし ては 「 北 村 一 座、 若菜 会 一 行、 小喜多 村 一 座 、津 田政 一 行 、 嶋 松 一 座、 白川 一座 、 伊 東 文 夫 一 座、 竹本 鳴八 一 座 、 石 見 一 座 、 酒 井 政俊 一座 、柳派一 座、關 三 十 郎 一座 、伊 井一座 、 義 正 團、 眞 劇 合 同 團 一 行、田宮 貞雄 一座、盛覽團一 座 、伊 井薫 一座 、梅 花 美 團、彰 義 隊愛澤一座 、 佐 々 木一 座、曾 我 迺家 一座 、青柳春 水一座、 東 操 一 座 、 愛 国團、 川 上 派 革新劇第二軍、 三 美大 一座、 中 村 雁 十 郎、 京山 小 圓 一 座 、 香 川二郎 一 座、 翠香 園 亀 田 俊 之 介 一行 、 立 志 團 、 片 岡松之 介 一座 、後 藤 良 助 一 行 、 革新 浪 花 節 新 演劇 タ イ ムス 團、 新派正 義 團 一 行 、 改正 團一行」 があった。 (8) また一九一二年 一 月から 二 月までは若島屋一 行、龍山佐久良 一 座、 中村 栄の 一行が 公 演を 行 っ た。 (9) こ れ ら の 劇団の 興 行 演 目は 四 三 〇本以 上に上 る 。その中で も 「不 如帰 」 (二六回 ) の公 演 が 最 も 多 く 、 続 い て 「己 が罪」 (一 三 回) 、 「 琵 琶 歌 」 (一 二回 ) 、 「 相 夫 憐 」 ・ 「 嫁 が 淵 」 (一 〇 回 ) 、 「 松 風 村雨 」 (一一 回 ) 、 「 潮 」 ・ 「 三 日 月 は 六 」 (八 回 ) 、 「 乳 姉 妹 」 ・ 「 深 山 の美 人」 (六回 ) 、 「 蛇 の 執 念 」 ・ 「 武 士 的 教 育 」 ・ 「 ピ ス ト ル 強 盗 清 水定 吉」 (五 回 ) 、 「 心 の 影 」 ・ 「 人 の 親 」 ・ 「 月 魄 」 ・ 「 走 馬 燈 」 ・ 「 松 山 嵐 」 ・ 「 兄 殺 し 」 ・ 「 女 漁 師 」 ・ 「 畜 生 腹 」 ・ 「 筆 子 」 ・ 「 壯 夫 の 犯 罪 」 ・ 「 一 念 力 」 ・ 「 吉 丁 字 」 ・ 「 京 人 形 」 (四 回 ) 、 「 オ セ ロ 」 ・ 「 空 中 飛 行 機 発 明 」 ・ 「 筐 の 名 刀 」 ・ 「 軍 人 曾 我 」 ・ 「 雲 間 の 明 月 」 ・ 「 化 け 柳 」 ・ 「 日 本 男 子 」 ・ 「 五 月 晴 」 ・ 「 新 羽 衣 物 語 」 ・ 「 袖 時 雨 」 ・ 「 母 の 心 」 ・ 「 櫓 太 鼓 」 ・ 「 金 色 夜 叉 」 ・ 「 百 年 の 仇 」 ・ 「 断 腸 録 」 ・ 「 通 夜 物 語」 (三回 ) であ る 。 今日 新 派 悲 劇 と も い わ れ る 小 説 脚 色 の ほ (10) か、 戦 争 劇、 家庭劇 、 探偵劇 な ども頻繁 に 興 行 さ れ た 。 特 に 「 不 如 帰 」 「 金 色 夜 叉 」 「 己 が 罪 」 は 後 に 朝 鮮 で は 翻 案 小 説 と し て 新 聞に 連載 され るこ とにな る 。 新 聞 連 載 に 先 立 ち 、日本人 町で 興

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行された演劇 によ る 間 接的な 体 験 が あ っ たことで 、小 説の 翻 案 、 あるい は 受容が何らか の 影 響を受けた の では ないかという疑問 が生じ る 。 さて、こうした日本人町 で の 公 演は主に内地人 向 け で あった が 、 高等 演 芸 館 の 新築を 知 らせ る 『 京城 新報』 の 記事に 「 毎夜 九 百 以上の観客ありて韓人六分日本人四分 の 割 合 なり」 ( 『 京 城 新報 』一九 一 〇年二 月 二 五 日、傍 線 =筆者、 以下 同じ) とあ る。こ の 記 事から観 客は日本人だけ で は な く、朝鮮人も かなり 多 か っ たこ とが うかがわ れる。パ ンソリ 研 究家であ る 朴 晃は 当時 の状況 パクフ ァ ン を「 室内 劇 場 を 持 たな か っ た韓 国 人 に日 本 人 の 劇 場 は 好 奇 心 と 羨望の 的 だった。そして、彼ら (日本 人 劇団 ) の公 演 に 韓国 人 の 観客が ど んどん増 え、新しい刺激と なった」と述べ て いる 。 (11) 同 じ 京城で あ って も日本 人 町 は 異 な る文 化 が 存在する空 間 で あり 、そ れ を 朝 鮮 の 人 々は好奇 と憧憬の 眼差しで眺めて い た 。 そし てこう し た異文化 は朝鮮人 と断 絶したも の で は な く 新 たな 文 化 が生 み 出 され る土 台とな っ た の である 。 三 朝鮮 新派 劇団の登場 朝鮮 新 派 劇 が 本 格的 に興 行さ れ た の は 一 九 一 二 年か ら で あ る 。 しかし、 日本の 新 派が 朝鮮の 文 化 と して 定 着 す る に 至 る ま で従来の 朝鮮演 芸 に対す る 改良や新演劇の導 入 に 関 す る激し い 論 争 が 起 こっ た。そも そ も 朝鮮に演劇という ジャン ル がなく、 知 識 人ら は演劇 を 封建的な 考え で評価 し 、 蔑 んでい た 。 し かし 、 こうした知識人 ら の批 判と憂いと は 違っ て、新派は新しい娯楽 も の として人 気を 博 し た 。 すると知識 人 たちは 態 度を一変 させ 、 演劇 が 民 衆改良 や 開化 によ い 働 き を す る と い う こ と で 演劇 を 推 し進めた 。 と はい え 知 識人 らは 演 劇 全て を認めたわ け で は ない。 彼ら がよし と し た のは朝鮮 演芸で は なく、西欧 や 日本 のような 文明 国 の 演 劇 で あ り、風 俗 改良 や 文 明 開 化 の 手 段 と い う 功 利 的 な意 図が あっ た 。 特 に 日本 の 新 派は 朝 鮮 内で多 く 広が って おり 、 身 近 なところ で行われていたた め 新 しい朝鮮演劇の模範となり やすか っ た 。 プロ パ ガ ンダと し て始まった日本の新派 が 朝 鮮 で は文 明的 で 民 衆 を 開 化 す る も の とな っ た の は 興 味 深い 。 さ て 、朝 鮮 新 派 の は じ まり は一 九一 〇 年 代から で 、 当 時 、 旗 揚 げ され、 名 が知られ てい た劇団 は 革 新 団 、 革 新 鮮美団、 婦人 研究団、 以 和 団、青 年 団一派、文 秀 星、 唯 一 団など が ある。 な かで も今 日韓 国 演 劇 研 究 に お い て 新 派の 元 祖 た る も の と し て 認 めら れ て い る の は 革 新 団 で ある 。 革新団は林 聖 九 (一 八八七― 一九二一) が一九一 〇年 に旗揚げ イム ソ ン グ した朝鮮最 初 の新派劇団であ る 。団員 は 林 の 友人や兄 弟 な ど演 劇の 素 人 た ち で あ った。劇 団 名 を 革 新 団 と し たの は 朝 鮮の 演劇 を一 大革 新 す る と い う 意気 込 み による も の である 。 そして劇 (12) 団名に 見 合っ て 勧善懲悪 ・ 風 俗 改良・ 民 智開発 ・ 儘忠 竭力を 革 新団の 標 語 と し た 。 『 毎日申報 』 で は革新団を「勧善懲悪 と 教 育奨励 と 忠孝 烈を 表彰し 、 一 般 観覧 者の模 範 機 関 」 や「朝鮮 (13) 風俗新派演劇 元祖」 という宣伝文句 で 紹 介 している 。 (14) 革新団の初演は一九一 一年 の冬、日 本人経営 の 劇 場 、 御成座

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の「 不幸 天罰 」外 一篇 である が 新聞で革 新団に関する記事 や広 (15) 告が 見 ら れ る のは一九 一二年二月一 八 日 付けの『毎日申 報 』 で ある 。 そ こには 「 新派演劇元祖 革新団」 と 演 目「六穴砲強盗 」 (16) という広告が大きく 掲 載されていた 。 また、 革 新 団 の 主 な演 目 は 「 六 穴砲 強 盗 」 や 「 親 仇 義 兄殺 害 」 など日本人町で 興 行された 演目 が 多 く 含 まれ てい る 。 それ は林 聖九 は 専 門 的 に 新 派を 学んだ の ではなく、日本人 経営 の劇 場 (寿 座あ るい は京 城 座 ) で 下 足 番 の 仕 事をしながら 見様 見 真 似 で 新派を 覚え たこと に よる 。 林は その と き に 日 本 人 劇 団 が 興 行し た 演 目 (17) を覚 え、革 新 団の 公 演 に 取 り 入 れた 。 革新 団の活動 で注目 される のは 彼ら の公演が一 九 一 二 年に 集 中 し ている こ と で ある 。これ に つ い て梁 承 国は 「革新団は ヤン スン ク ッ ク 四 ヶ 月 間 、 四 〇 本 に 上 るレ パ ー トリ ー を 公 演 し た 。 こ れは 平 均 的に 約三 日ご と に レ パ ー ト リ ー を 変 えた こと を 意 味 す る 。 この よ う に 頻 繁な レパ ー ト リーの変更は革新団だけ で は な く 、 同 時 活動し て い た 新派 劇団 ではよくある こ と だ っ た 」と述 べ る 。 (18) 唯一団の 李基 世も 「 毎 日 演 目を 変え なけ れ ば なら な か つた。 少 イ ギ セ なく と も 四 〇 本 以 上の 脚本 を い つも準 備 し な け れ ば な らな か つ た」と 回 顧し て い る。 一九 一二年 の 後半 から公 演 の回数が 減 (19) り 、 地 方 公演 に 出 向く事が 多 く な る 。 そ れ は 活動写真 や曲 芸 な ど 他の娯楽 物 の 登 場で観客の嗜好 が 変化したの も あ る が、頻 繁 なレパ ー トリ ーの 変 更 に よ って 演目が 消 耗し 、京 城 の 観 客 に 楽 し み と新 鮮さ を与え る ことが で きなくな った から で あ ろう 。 では 、 革 新 団 の 公 演 は ど の よ う なもの で あ っ たの か 。 当時、 革新 団の 公演を 実 際みた 尹 白 南 は次のよ うに回 顧 し て い る 。 ユン ぺ ク ナム やがて 幕 が 上 がり 舞 台 には 誰も 登場し て い な いの に観 客は あわ た だ しく 拍手 をした 。 幼稚 だった 舞台と道具 装 備 は 一般 観 覧 者に ははじめて み る新奇な見世物だっ た 。趙 (趙 重 桓 ) と私 (尹 白南 ) は短 い た め 息 を 付い た 。 まだ まだだ と い う 歎 息 が自 然 に 出た 。 す ると 、 い き な り 小 鼓を ドン ドン ドンと叩 く 音 と と もに 団長、 林聖九が 時代と現実を 超越 した 軍 服 姿 で 片 手 には軍 刀 を持 っ て 軍 隊 調練式 の 歩調 で花道 か ら 本 舞 台 へ と 登場 した 。そ して少しかす れ た 声で 抑揚 をつけた へんて こ な言葉 が 混ざ った 「せ り ふ 」を独 白 し 始 めた。私 たちはまた 長 いた め 息 をつか ざ る を え な か っ た 。 (拙訳、以 下 同 じ ) (20) 花道 や小鼓 、 そして軍 隊 式 歩調 は歌 舞伎 の公演 様 式 で あ り 、尹 白南 の 回 顧か ら 革 新 団 の 公 演が 歌舞 伎 に 倣 っ て い た初 期 の 日本 新派 を 真 似て い た こ と がわ かる。安 鐘 和も 「革 新団」 俳 優 の アン ジョン フ ァ 動作が 「 朝 鮮 人 の 生活では 到 底 想像 も つ か な い奇 異な も の で あ り 、 日 本 の歌舞 伎 式 動 作で あった」 とい う。 また 、『 毎日申報 』 (21) でも 「 演 興 社 で の 革 新 団 の 新 演 劇 は 演 技 の 腕 が よ く て 演 劇 の模 範ともいえる。が 、林 聖 九 とハイカラ女子高秀喆 (女 形 ) はい ゴス チ ョ ル い加 減 泣 いて ほ し い 。 本 当 に 嫌 気が 差 す 。 泣 くと き は 泣 い て 、 笑うときは 笑 う べ きであ ろ うに ずっ と 泣 くばかりで、 それが 欠 点で ある」と 批判してい る 。 (22)

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では 、ほか の 劇団 の公演 は ど の ような も のであった か 。当時 革新 団と 対照 されたのは 文 秀 星 と唯 一団であ る。 文士劇 と いわ れ た 文秀 星 と 唯 一 団 は 初演から 小説を 演 目 と して いた 。と くに 文秀 星 は 尹白 南 (一 八八 八―一 九 五 四 ) と趙 重 桓 (一 八 六 三 ― 一 チョジ ュ ン フ ァ ン 九四四 ) に よ っ て 旗揚 げ さ れたが 彼 らが劇 団 を 興 すき っかけと なっ たのは 革 新 団 の公演が あま りに も 拙 か っ た か らだと い う。 尹白南 と趙重桓は 日 本 で 新 派 が 全 盛期を迎えた一九〇〇年代 (23) に ( 尹 白 南 は一 九〇三 年 、趙 重 桓 は一 九〇七 年 ) 日本に 留 学した。演 劇 に 関心の高い彼らが日本で新派 に 接 し た こ とは想 像 に 難 くな い。その た め 、 彼 ら の目 に 革 新団の公 演は拙く、レ ベ ル が低 い もの に 映 っ た の だ ろ う 。 革新 団 公 演の後 、 尹 白南 は 「 林聖九 一 派の 稚劣 乱 雑 な演劇 は 演劇 草 創 期 に お い て 大 衆を 誤 る 邪劇 で あ り 、 こ う いう 類の 演 劇 が首 都 の 劇場で 行 わ れ て い るこ とは 国 の 恥辱で あ る」と憤 慨し た 。 続い て「 それ 故に こ れ を駆 逐す る意味 で 一 日 も 早 く 正道 の 演劇 を 上 演す る必要 が あ り 、こ れ を すぐ実践 に 移 すことを 約束 した」 と 述べ る 。 この 言 葉 か ら 革 新 団の 公演がき っ か け で 文 (24) 秀星 は旗 揚げされた と 考 え られ る 。 つ ま り、 本場日 本 の新派を 正劇 としそれを 朝 鮮で興行す る た め 文 秀 星 を 立 ち 上げたの であ る 。 一 九 一二年 三 月二 七日 付 け の 『 毎 日 申 報 』に は 「 文秀 星 又 出現 」と いう見 出 しで次の よう な記事 が 掲載 さ れ て い る。 今 日 の 演 劇 が 改良 されて い るこ と は 皆様 も ご 存知 で あ ろ う が内地 で 長年 留学 した趙 重 桓 と 尹 白 南 は 朝鮮 の演 劇が腐 敗 して い る こ と を歎 いた。 そ して 文秀 星とい う 新演劇を 研 究 し、 風俗の模範となることを目的とし、 今準備中だという。 文秀星も新派劇 団 のお 決 ま りのキャッチフ レ ーズであ る「風 俗改 良」を標榜して い たが、そこ に は常に改良 の 対象 である朝 鮮演芸のみ な ら ず 革新団の よ う に上 辺 だ け 日 本 新 派を真 似 た劇 団に 対 す る警 告の 念 も 含 ま れて いた 。 文 秀 星 の 初 演 は 一 九 一 三 年三 月三 一 日 に 円 覚 社 で 、 徳 富 蘆花 『不 如帰 』 の 翻 訳 、「 不 如 帰 」 プ ル ヨ ギ が上 演 さ れた 。 「 不 如 帰 」 は 趙 重 桓 が 翻 訳したが、初演の 演 目 プ ル ヨ ギ とし て『不如帰』を 選 んだ のは革新 団との違い を 見せ よ う とし た か ら で あ る 。文 秀星 が「 正 劇 文 秀 星 」 と 広 告した の は「 元 祖 革新団」 への 対抗の 現 れであ ろ う 。 しかし、 次の 記事か ら 文秀 星 の 公 演 は 観 客 か ら の 反応 が よ くな か っ た こ とが 窺わ れる。 文秀 星 一 行の 不 如 帰 演 劇 は 一 昨 日 か ら 西 部の 円覚 社で 開 演さ れた 。▲不如 帰は本 来 徳 富 蘆花先生 の傑作 で 今日演劇 の華 とい うべき も の で あ る 。▲ 然るに不 如帰は 長 年 練 習 を 積ん だ 俳 優で なけれ ば 観客に 喜 怒哀 楽 の 感情に至 ら せ ない も の であ る 。 ▲今 回文秀 星 一行は こ れ を 演劇 として上 演し 、 その 苦 労 は改 めてい う まで も な い。 文 秀 星 一 行は長年 、内 地で留学し 日 本 の 演劇に大い に 接した人たちである。 始 め ての 演 劇 に し ては大変 よろ し い 。 (中 略 ) ▲その 演 劇の 中で 悲 惨 な 句 と 節 や義 理人 情 の 場面 に 当 然涙を 流 すに 十分 で あ る。 と こ ろ が 、 多 数 の 観客 は 悲 しみ の 涙 を 流 す は ず な の に

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むし ろ笑 い、や がて場内 は 騒 然 とした 。 これ は 俳 優 側 が悪 いの で は な く 観 客 側が 演劇 の 見 る 目 が な い か ら で あ る 。 」 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 二 年 三 月 三 一 日 ) 記 者 は「 不 如 帰」 公演 を褒 め て い る が 、 観 客 の 受 け が よ くな プ ル ヨ ギ か っ たのは劇団に非 が あ る の で はなく演 劇の知識がな い 観客が 悪 い の だ と 批 判 し てい る 。 な ぜ 、 観 客 は 「 悲 惨な 句 と 節 や 義理 人情 の 場 面 」 に 「 笑い 、騒 然 と し た 」 の か。そ れ は当 時の 劇 場 文化 に 起 因 し て い る 。 当 時 の 劇 場は 男女 が 場 を と も に で き る唯 一の 場所であ っ た 。その た め 男 女交 流の 場 (女性観 客 は ほ ぼ 玄 人 女性であった) と し て の 機 能 もあ っ た 。また 、 朝鮮演芸は喜劇的 な も のであった の で 観 劇において涙を流す と い う 身体的行動は なか っ た の で あ る 。む しろ舞 台 での 俳 優 の 涙 の 演 技が 観客 に は 不思議 に 思わ れた 。そ の上、 文 秀星の「不如帰」 は登場人物 の プ ル ヨ ギ 名前 や舞台 、 ストーリ ー を ただ 朝鮮 語に変えた翻訳劇だ っ たた め観客が「 不 如帰」の内容を理解 で き な か っ たのであろう。 プ ル ヨ ギ こうし た 公演 か ら 文秀星が 打ち出し た 「 正 劇 」 と いうもの が 日本 的 な ものの 直 輸 入 で あ っ た こと が 推 測 さ れ る 。 こ うし た 例 は文 秀星と と も に イン テ リ 劇団 と称 さ れ た 唯 一 団 も 同 じ で あ る。 新派の 巨 頭、静間小 次 郎 (一八 六 八―一九三八) の門下 生 だ った 唯 一 団の 団長、李基世 (一 八八九― 一九四五) も日本の 小説 イ ギ セ を脚色し た作 品 を 演 目 と し て い た 。 し か し、唯一団の公 演 を 実 際み た 白 雨 生 と い う 日 本 人 は 僕が全体 を 通 じ て 遺 憾 にた へないと思つ たのは、い か に も それが、あまりに露 骨 な日本 の 模 倣 で

トい ふよ り は 直 訳で

殆ど 少 し も 朝 鮮 現 在 の 社 会 人 情 を現 は し て い な い こと で あ つた 。僕 ははじ め 豊 かな朝 鮮趣 味を此 芝 居に期 待 して いつた 。 し か もそれは 全く空だのみであ つた 。 日 本の 田舎 廻り の芝居 を 朝 鮮 語、 朝 鮮 風俗 で見ると思 へ ば少しも 変わり は ない 。 刑 事が出て来る、兵隊 が 出て来 る 、義 侠 の 労働 者 が 出て来 る 、そしてきまりの 立ち廻りを 演 じるとい つたア ン バイ で… …しか し 私 の 感じた處は、朝鮮 人が俳 優 としてかな り な技 倆を 有して を る 。 また、 有 しう ると いふ こと であつた。 (中 略 ) しかし、 僕は 朝鮮 芝 居 の 為 に 考 へた。 此生 若 い 所謂 先生 (李基 世 : 筆者 注) が、朝鮮の人情風 俗も 辨 へ ず に、 無 暗 と日本 の 芝居 を 直 訳しているのではなからう か と 、し かしいづれは過度時 代 、 混 沌時代の芝居 であ る 。 そん な 事 をいふ丈 が野 暮である の か も 知 れ な い。兎も 角も 僕一 個人 の趣味 と して、も少 し 朝鮮 味 の 勝つた 芝 居 を 見せ てほ しか つた。 ( 『 朝鮮』 一 九一三年三 月 一日 ) (25) とい う 。 つ ま り 、 俳 優 の 演 技の 腕 は 認め てい るが日本人の 目 に は 唯 一 団 の公演は 「日本の 田 舎 廻 り 」 の 新派 を 朝 鮮語で 直 訳 し たものに過ぎ なかった ので ある。この 引 用か らインテ リ 劇 団と して 知 ら れて いた 唯 一 団 も 、 俳 優の 演 技 は 革 新団 と 違 っ た か も しれない が 、 公 演様式 は 革 新団とそ れほど差 は な かったと 考え られ る 。 むし ろ日本 の 小説を 直 訳し た文秀星や 唯 一 団 よ り 観客

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の趣向に合わ せた革 新 団 が 観 客 か ら 人気 を得 ていた 。 それ はレ ベ ル の低 さ で はなく、異 文 化受容 に よる当然な成り行 き だ った かもし れ ない 。 四 翻案の誕 生

新派 として興行される 日本 の家庭小 説 一 九 一 三 年に入ると 新 派は小説 を演目と して取り入 れ る こ と が多 く な る。小説 の演劇化 は 新 派の発 生 期にすで に文秀星や 唯 一団によ って 行 わ れて い た 。し かし 、一九 一 三 年 か ら 『 毎 日申 報』 という 新 聞 メ ディ ア が 媒介 とな ること で 本格化 さ れる 。 『 毎 日申報』で 翻 案小説 が 連 載 される 以前は新小説と称され る も のが多く紙 面 を占 めていた。新小 説 は開化 や 女性 教育 、身 分打破な ど従 来の 封 建 的 価 値観 と は 違う 新し い開化意識 を 主な テー マと し、 台 詞 や 素 材が新 し かっ たため 最 初 の 頃は 注 目 され てい た 。 だ が 、表面的 に は 新し かっ たも の の 小 説 の展 開 や 筋立 ては 古 典 小説 の 延 長線 で あ った。そ して、や が て は素材や テー マに行 き 詰ま り、 陳 腐 な も の と なる結果 を 招 いた 。 こ う し た 時 期と 相まって登 場 したのが 翻案小説 で あ る。 翻案 小説 は新 小説 には 味わ えな い 異 国 的 な 雰 囲 気 と新 しい 素材 、 テ ー マ を 含 んで いた ため 読 者 の 興 味 を 惹くのに十分 であっ た 。一九 一 〇 年 代の 朝鮮は 翻 訳 ・ 翻案 (原 作のほと ん ど は日本 ) の隆盛期と い われ る ほ ど多 く の 外国 の 作 品 が 世 に 出 さ れる。 特 に 日 本の 家 庭 小 説 が 集 中的に『毎日 申報』 で 連載さ れ 、 新派劇 とし て も 興 行 さ れ た。 し か し、 翻案 小説 の 連 載 と そ の 演劇 化が 単純 に 大 衆 娯 楽 と し て 行わ れたの か と い う疑問 が 生じ る 。 そ れ は 以 下の 『毎 日申 報 』 の記事 で 一 層 深 ま る 。 双 玉 涙 は 日 本 の「 己 が 罪 」 を 翻 訳 し たも の で 、 そ の内 容 は新聞 が 出 る たび に読 んでお け ば わ か る は ず 。 (中 略 ) 後日 、 双玉涙をもって演劇で 上 演 する予 定 で あるが そ の と き 新 聞 に目を通していれ ば 観覧す る とき、大 変役に立つ と 思 う 。 その た め 、毎日申報 を み る とき双玉 涙 は 一号で も 欠かさず に集めたほ う がよろしい。 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 二 年 七 月 一 〇 日 ) 右の 引 用 では 「後 日 、 双 玉 涙を もって 演 劇 で 上 演 する予 定であ る」 と 、 演 劇 として 興 行す ることを最初 から新聞 読者 に予告 し 、 『毎 日申 報』を 読 む こ とを 勧 め ている。また 、 「 断腸 録」の広 告で は、 今日 本紙 で連載 し ている 断 腸 録 はま だ 途 中 で あ る が 今 度 の 演劇 では ま だ 新 聞 に 載 せ て ない とこ ろま で 観 覧 者 の 皆 さ ん に紹介 し ます。 よ っ て 演劇 を一 度観 てか ら小説 を 読 め ばも っと楽しむことがで き る で し ょ う。 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 四 年 四 月二一 日 ) と 連 載途中 の小 説を演 劇 が先行し て興行し 、今度は 先 に 演 劇 を みて から小説を 読 むことを 勧 め てい る。 そして 、 小説 『相 夫 憐 』 の刊行記事 で は、

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この本は日本でもっ と も有名な傑 作 小説「相 夫 憐 」を 意 訳し たもの で あ る 。 先 日、 文秀 星一 行が 大 意 を 抄 出 し 、演 劇とし て 上演 までし た ので内容 を知っ て い る 人は 当然 多い はず 、 主 題は朝鮮 の人々 を し て 同時 代的 にする こ とと朝 鮮 の家庭 が 幸福な家庭を築 か せるようにという一片 の丹誠で 特に こ れ を 出 す の で あ る 。 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 二 年 九 月 二 五 日 ) と紹 介し て い る 。 『 相 夫憐 』は 一九 一二年四月一六日文秀 星が 興 行 したが小説が刊行す る 前 に す で に演劇として興行されてい た こ とが 引用 から 窺われる。 こ の よ うに 新聞連載 小説が 新 派の 演目と な るこ とがこの 時 期 には 当然の よ うに行 わ れる 。 そ のた め 連 載小説 の 演 劇 化が 『毎 日申報 』 の 部 数 を 伸 ば すた めで ある とい う解釈 も あ る 。 『毎 日申 報』が 「 特 に 本紙欄に 印刷され ている 半 額 割 引券 を お持 ちに なれ ば 入 場料を 半 額 と しま す」 と新聞 に 割引券を添 (26) 付す る な ど商 業 的 な 目 的が なかった とは言え な い 。しかし 翻 案 の演 劇化が単純 に 『毎 日申報』 の 部 数 増 加とい う 商業 的な 目的 の み で 解 釈で き る だ ろ う か 。むし ろ 当 時 翻案小説の連載 舞 台で あり 、新派広告に積 極 的 だ った『毎 日 申 報』で 主 要 な 論説 とな った 「朝鮮 風 俗改良 」 が 深 く関わっ て い た と 考 え られ る 。 『毎 日申 報』は 朝 鮮総督府の 機関 紙であり、一九 一 〇年代の 朝鮮で 唯 一発 行 さ れ た 新 聞 で あ った。 当 時『 毎日 申 報 』の 主 要 な 論 説となっ たのは「 朝鮮風俗改 良 」で あり 、とり わけ 朝鮮 の 家族 制 度 の改良 で あった 。 「 風 俗改良」と は 文字どお り朝鮮 の 風俗を変える ことである。 しかし、その改良 の対象とは従来 か ら 続 い て いる朝鮮の 文 化 、 文芸であ り、それ らは低 俗 で 未 開 な もの と し て 批 判 さ れた 。 特に風 俗 改良論に おいて『 毎 日 申 報 』が強 く 批判して いたの は朝 鮮 の 劇 場 や 劇 団 で あっ た 。 前 述 した よ う に 朝 鮮 新 派 の 本格 的 な 出発 は一 九一 〇 年 代 で あ る 。 し か し 、 そ の以前 か ら す でに 近代的 な 劇場が建て ら れ、公 演 が行 われ ていた。 劇場 の主な (27) 催し ものは 妓 生や 倡夫によ る歌や 舞 踊 な ど朝鮮 演 芸が 中心 だ っ た 。 しかし 、 劇場 は唯一、男 女 がとも に すること が許された 空 間であった た め異性を目 当 てに出入 りする な ど 公 演より男 女の 社 交 の 場 と し て 利 用さ れるこ と が 多 かっ た。さら に は 内々密 売 淫が行 わ れ、 社会 問 題 と な っ た こと もあ った。そ の た め 、 当 時 の劇 場は淫 ら で 風 紀を 乱す 場として の イ メージが 強かった。 そ こ で 観 客 を 道 徳的 に教 化す る こ と が で き る 演 目 が 必要 となっ た ので ある 。 次の引用 文 は 新聞連載小説の演 劇化の口火 を 切った「 双玉涙 」 (28) の広告文であ る。 「 双 玉 涙 」 (原 作 は 菊 池 幽 芳 の『 己が 罪 』) は趙重桓によ って 翻案され、一九一二年七月一七日から一九 一 三 年 二月四日 まで 『毎 日申 報 』 に連 載 さ れた 作 品 で あ る 。『毎日 申 報 』 では 「双玉 涙 」 の連載に あ た っ て 次 の ような記 事を出していた 。 双玉 涙 は ひま つ ぶ しの小説 として連 載す る の で は な く 、近 い う ちにその 内容をあ らわし 、 一 般 社会の 風 俗 を 改良 す る 、 よい小 説 とする。こ れ を実際 に あらわすよ い 方法 とは な ん

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だろう か 。 当 然演劇で あ ろ う 。 朝 鮮 の演 劇は 幼稚であ るた め皆それを歎いている。本社も朝 鮮 の演劇を改良するつも りであるがま だよい 機 会を得 ら れなかったため そ れを実行 に移 す こ と が でき なか っ た 。 し か し 幸い 双玉涙 の ような よ い材料 が 見つかり 、今 後文芸 部 を設け 、 これ を も って演芸 の模 範 を 示そう と す る 。も し 計 画 が う ま く い け ば 必 ず 本報 を 愛 読 す る同胞姉妹に は 無料観覧 を許 可し、日頃 の 声援 に 報 い た い。 一 般 の 愛 読 諸 君は 双玉 涙 を 最 初 か ら 最後ま で 一 号で も 欠 か さ ずに集 め たら 一 冊 の 本 にな るし、今後 こ れ を 演劇 として興行 す ると き 大 い に 役に 立つと思 う。この小説 は誰 が書 いた のか というと 文 秀 星員 の趙 重桓が内地 で 最も 有名 な己が 罪 と い う 小 説 を 翻訳し朝 鮮 の 風 俗 に ふさわし く 変えた も のであ る 。どうか これ までよ り も っと愛 読 する こ とを 願 う 。 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 二 年 七 月 一 七 日 ) 右の引 用 から「双玉 涙 」は 朝鮮演 芸 を 改 良す るのにふさわしい 題材 として選ばれたこ とが わかる 。 さ ら に注目 される のは「双 玉涙」の原 作 『 己 が罪』 が 日本 では家庭小説の代 表作だったこ とで あ る 。 事 実 、 『 毎 日申 報』 では 日本の 家 庭 小 説が 主に 翻案 され 、演劇 化 された 。 つ ま り「 朝鮮 風俗改 良 」 に は朝 鮮 演 芸の みなら ず 家族制度 の 改 良 も 求 め ら れ て い た 。 『毎日申報』にお ける「家庭制 度の改善 」 ( 一 九一 一 年一月 一五 日) や「夫 婦 関 係 」 (一九一一 年 四月 一一 日) など の 記 事 は 、こう した 朝鮮の家 族制 度の改良が い か に 重要 な 関 心事だ っ たのかを 物 語 っ て いる 。家庭 に 関する 論 説 は 一 九 〇〇 年代以 前 か ら 新聞 の 主 要 な 論 説 と し て掲 載さ れ て い た が 、 そ の 内容 は一 九一 〇 年 代の そ れ とは明 ら かな 違いが あ っ た 。 一九一〇年 代 以 前 は女 性教 育の推 進 に 集 中 し て お り、 それは 「母 親は 学 問 を通じて育児 をす る 役 割 だ け で はなく子 供を教 え る先 生に も な れ る 。また 、 女性 は自分の権 利 を も つことで 卑 し まれ るこ となく 、 国 家 の 利 益と ともに文 明な 人 間 にな れ る 」 (29) ということであ っ た 。 つ ま り女性の開化は国力に つながるもの として認識されていた のである。しか し 一 九 一〇 年代 に な る と このよ う な 家 庭改良は夫 婦中 心 へ と変化 す る。 承 知 の と おり 、家 庭小説 と い う 用語は 日 本 で 用い られた 言 葉 である 。 瀬沼茂樹は 日 本で 家 庭 小説が 登 場し た背 景について 『 太 陽』 臨時増刊 『文芸史』 の 第三編 第 三章第四 節の 『 文 壇の変徴 』 の内容 を あ げ て説明し て い る。 (30) 坪内 逍遥 が「 今 や 社 会 の 事 日 に 非し 頽波 滔々 た り 」 と い って 『早 稲田 文 学 』 を 発 刊 して 教 育 界を 退 き 、 高 山 樗 牛 も 「文 壇日 に非な り 」 と 慷慨 した ほ ど 、文 壇そのも の が 行き 詰ま って い た (樗牛 の いわ ゆる 「殺人 、 強姦 、 自 殺 、 狂亂 、 現 今 我が 小説 の 内 容、 こ の 数者を 出 づる もの 果 た し て 幾 何 ぞ 」 と歎 いた 深 刻 小説・ 悲 惨小説が 流行 し た ) 。 そこで 「 當 時教 育社 会 か らは、 文 学に 現は れた 道徳 的水 平 線 の 低 い こ と を 譏つ たも の が あ り 、或 は 女 学生 に 小 説の閲読 を 禁 じべ し な ど と い ふ 議論 す ら 出て居る」実情 で あ っ た。 「時 代は

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(日 清)戦争 の 結 果、自覚心 を 起すと 同 時に、 厳 粛 な る道 徳問 題を 考 慮 す る に 至 つた。そ して 文学上 に も 、 道 徳 的意 義 の 深遠 なる ものを求め た が 、 満足 すべき も の を 得 な か つ た。…… かく文学内に 道徳を読み 込 まむとす る 傾 向の 生ず るに 當つて 、 頭 角 を 擡 げた も の が 、 家 庭 小説であ る 。 (略 ) 」 要す る に 家庭 小 説 の 主 な対象 と は婦女子であ り、内容 は 健 全な 道徳的なものであ る 。 また、加藤 武 雄の 「 家 庭 小 説研究 」 では 家 庭 小 説 の条件を「第 一に 健 全 な 常 識道徳 に 忠実 であること 、 第二に 読 者 が 主と して家庭女 性 で あ る事 実か ら、情 緒 的であ る こと 、 第 三に 悲 惨 な事実を 書くにして も 救 い が あ ること 」 とこ の三 つが あげ られて い る。 (31) 一方、 真 銅正 宏 は 「 明 治二五年 前後の家 庭という 用 語 は主 に 宗教・教 育的 な見地 か らの もの であ る が これ らとは 別 に 、 究極 的には そ の上位項 目とし て の 近 代 日 本 国 家を 形 成 す る ことを 基 礎付 け る こと で あ る。 い わ ば明 治日 本 が 性 急 に 作 り上げ よ うと した擬 似 西洋 的な近 代 社会を 末 端 で 支え る最 小の 群 単 位 、 そ れ が「家庭」であ る 」と「 家 庭」という用 語に潜んでいる 意 味を 解釈し て いる。 つま り 、 近 代 国家 を 形 成 す るため 、 家 庭 ―社 (32) 会―国 家 という図 式が作ら れ、 「 家 庭 」 は 国 を支 える 最 下 位 の 集団な の であ る。 しかし、こうし た 日本の 家 庭小説が 植民地朝鮮に 移入される と、 家 庭 ― 社 会 ― 国家に お ける 国家 とは朝 鮮 で は なく 日本 を 指 し、 それは植民地 的 政 策として 解釈 され る可 能性を 大 いに含ん でいる。 一九 一 一 年 一 月 一 五 日 付 け の 『 毎 日 申 報 』 で は 朝 鮮の 婚姻 は 親の 命令による強 迫 結 婚 が 多 い こ と を 批 判し「家 族の根源と な る夫婦が この よ う で あ れば 家族の 団 欒はあ る は ず が な い 。 (中 略 ) 今日 の家族 制 度 を 改 善 しようとす る がそのた め に はまず夫 婦関 係を 改 良 す べ き で あ る 。 そ うす ると そ の 他 の 多 く の 事 は そ れ に 応じて 自 然に 改善 さ れ る だ ろ う 」と 述べ る 。 そ し て 論 説 の 最後 に は 「君 に尽くせば忠となり、 親に 尽くせ ば 孝とな る 。子を養 う と 慈しみの 心が芽 生 え、兄 弟 には友愛を持 ち、 親 戚 と睦まじ くな る 。 今 日 家 族 制度 を 改 善す る 有 志諸君 は まず 結婚 に注 意 す べき で あ る」 と 締 め く く る 。 要 す る に 夫 婦 関 係 は 家 族 の 根 幹で あり、 そ れ は 家族 団 欒 と つ なが ると いうことであ る。そ し て 最 後の 文 書 か ら 夫 婦 関 係 は家 族 ― 親 戚 ― 国 家 へ と そ の範 疇が 広 が る。 一九 一〇年代の 「 新小説 」 が 「 こ の 小 説 (九 疑山 =筆 者 注 ) は 家庭の喜劇 悲 劇と 壮絶 快絶なも の で ある 。 (中 略 ) 一層 愛読 する と家庭整 理の上で 一大 好材料となるだろう」 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 一年六 月 二 二 日 ) と 家 庭 問 題 に 集 中 して 広 告 して い る こ と は こ の ような 家 族 改 良の言説 を反 映している 。 そして 日 本の家庭小 説 の翻 訳 ・ 翻 案 の第 一 号 が 徳 富蘆 花 の 『 不 如 帰 』 で あっ た の はこ うした家 族制 度の 改良 言説 と無関 係 では ないだろ う。 それは 「 不 如帰」が 朝鮮ではなく日本の出版社で刊行されていたこと プ ル ヨ ギ から も推測 さ れ る 。 趙重桓が翻訳 した「 不 如 帰 」は一 九 一二 年八月、東 京 の警醒 プ ル ヨ ギ

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社で 刊行 された 。 「不如帰」 が 朝鮮ではなく 日本の出版社で刊 プ ル ヨ ギ 行され た ことについて 「一 九〇四 年 四月には 英語版 「 NAMI-KO 」 が 出 版され た のをは じ め と し て ポ ー ランド 語 ・フラン ス 語 ・漢 訳が 出版 され、 一 九 一 二 年 には ド イ ツ 語 訳、 韓 国 語 訳 な ど が出 版 さ れた。そ れ は 日本の 文 学を 世界 の 文 学とし て 広めよ う とす る 日 本の政策 で あ る 」 とい う指 摘 が ある よう に翻 訳 「 不如 帰 」 プ ル ヨ ギ (33) の誕 生 に は政 策的 な 意 図が見 え 隠れして いると も い え よ う 。 一九 一 二 年 一 〇 月 二日付 け の 『 毎 日 申報 』 に は 小 説 「 不 如 帰」 プ ル ヨ ギ を 「 内 地 一 般 風俗 を知 ろう と す る 人 士 に と っ ては 最 良 の材 料 で ある 。 江 湖 諸 君 は 特 に 愛読 す る こ と 」 と 広 告 され てい る。 また 、 創作 小説「 鳳 仙 花 」 が 「元 来鳳 仙花は 今 日、朝 鮮 の家庭の 悪い 風潮を 巧 みに 描い た」 のに対 し 、『 相夫憐』 は 「 朝 鮮 の 家庭 を (34) 幸福な家庭に築 か せるように と いう一片 の丹誠で 特 に これを 出 すので あ る」 と 広 告 し て い る。 そ こ に は 朝鮮家 庭 には 悪 い 風 (35) 潮があ り 、それを 改良するには日本の 家 庭小説を 読むべ き で あ る と いう メッセージが読み とれる 。 しかし、日 本 の 家 庭小 説の 翻訳・翻案が最初か ら 日 本 の 植 民 地政策を容易に す るために 書かれ 、 そ れ を 翻 訳・ 翻 案 に携わ っ てい た知識人 らが日本の 政 策に 同調 した からと い う風に 結 びつ けることはでき な い。 なぜな ら ば、翻訳、翻 案作業 は 『毎日 (36) 申報』 に よって行わ れ た も のもあれば 知 識人が進んで取り かか った場 合 もあ るか らであ る 。 後 者の 場 合 、翻 訳 ・ 翻案の 目 的は 自国民の文明開化や啓 蒙とし て の働きがあ っ た。 そして日 本の家庭小 説 は朝鮮 の 古典 小 説 や「 新 小 説 」 のモ (37) チーフ と 似通って いる 。 つ まり、家庭 小 説は日本 と朝鮮 が 共に 有してい る封建的 な情緒が盛り 込 ま れ て いた ため、 受 容におい て大き な 隔た りなく翻案されやすか ったの で あろう。 加藤 武雄 が指 摘 す る 「 第 一 に健 全な 常識 道徳 に 忠 実 で あ る こ と、第二に読者 が 主と して家庭女 性 であ る 事 実から、 情緒的で あること、第 三に悲惨な事 実 を 書くにし て も 救いがあること」 と い う家 庭 小 説の 条 件 は 朝 鮮 の 「新 小説 」 と 大 い に 似 通 っ て い る。 「 新 小説」 は 日本の家 庭小説の よう に女 性に焦点をあてて おり 、女 性の 受 難 と 克 服 、 勧善 懲悪 、ハ ッピ ー エ ン ド が 主 なモ チー フで あっ た。 趙 東 一は 自由 独 立 、 自 由恋愛 、 開化 教 育 、 チョ ド ン イル 風俗改良 を力説する 「 新小 説 」 に お いて 女性 が多 く主人公 と な っ ている理由 とし て、こ の 時 期 に 個 人の 運命 や家 庭生活 が 主な関 心事 で あ っ た こ と や 、 男性 に 比 べ女 性 の 立 場 が 不 利で あり 、 女 性 の 問 題 を 浮 き彫 りに する という 意 識 の 変 化 があった 点を挙 げ てい る 。 そ し て小 説 の 読 者 が男 性 よ り 女 性 の 方 が 多か っ た とい う理 由も つけ 加 え て い る 。 要するに日 本 の家庭小 説 の 翻 案 は (38) 儒教 的 な イデ オロ ギ ー を 含 み つ つ、 新し い素 材と 内 容 が 描 か れ ているた め様々な面 が 違和感なく 受 け入れられやすかっ た 。 そして 新 聞が識 者 中心の 中 産階級 に 消費され るも ので あれ ば、新派劇 はそうでない 人 々 が手軽 に 劇 場 に出入りする ことが でき 、幅 広い 受 容 層を有 し てい た。 一九二〇 年 代 の 半 ば ま で 朝 鮮人の 九 〇% が 字 を 読 め な か っ たこ と か ら 小説の 受 容は 聴覚 (39) に頼 る人が 多 く、そのため 公演の前に 演 目のあ ら すじが口 頭で 説明 されてい た時代であ っ た。 それは一人の 読み手が大 勢 の 人

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に本 を 読 ん で く れ る よ う な 役割 を果 た し て い た。 また、 目 の 前 で 演 じられるス ト ー リ ーは小説に比 べ 、 より 生 々し く小 説の 内 容 と 一 体 化 し や す か ったのであろ う。 『 毎 日申 報 』 が 連 載小説の演劇 化 を積極的 に進めた のは小 説 より大衆 的 な影 響力を 有 し て いる 新派 を 利 用 し たとも 考 え られる 。 演 劇が 「 小 説より直 接人の耳 を 動 か し 目 に 触れ 、悲しみに涙 を流し、 喜ば しい こと を見 て 声 を 出 し て 笑い 、人 の 性 情 を 早 く 動 か す こ とができ る」 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 〇 年 一 二 月 一 一 日 ) とい う 論 説は そ の意味 で 示唆に富 む。 さらに、公演の 前 に 団 長が 演目 の 内 容を説明 し な けれ ば な ら なか っ た 当時の 観 劇 態 度は 新聞 読者 と 演 劇 の 観客 が必ずし も同 じ で は な か っ た こ とを表し て い る 。 当時の新派 は 「小 説の内容 を 実 際表 す」や 「 「長恨夢 」を ただ小説で 読 むよ り も 小説の 実 際を 演 劇 として 興 行 」 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 三 年 八 月 八 日 ) する と広 告 さ れた。そして こ れ に応じている かのように演劇は「 守 一、 スイ ル 沈 順 愛の性格を 少 し も 変 え ず に そ の まま描写し、 一般観客 から 大歓 迎 を 受け ま し た 」 ( 『 毎 日 申 報 』 一 九 一 三 年 七 月 二 九 日 ) と演 劇は 小説 の 内 容に 忠 実 に 従 って いた 。 そこで演劇が小説 の 内 容 を (40) リア ル に 再 現 する こと で「 小 説 の 実 際 」 を 観 客は 体験 する こ と が可 能と なる。 『 毎日 申報』 は 小 説 より演 劇 が人の心 を動かす 容易 な手 段で あ り 、 そ れに よ っ て 小 説 の 啓蒙 的 な 側 面 が 一 層高 まる と考え た の で あ る 。 五 むす び 朝鮮 で日 本の新 派 劇 は 日 本 人 居 留 民 の娯 楽 と し て 始 め ら れ た 。 そ し て 、 当時 、室 内 劇 場 で 行 わ れる 演 劇 が存 在し なか っ た 朝鮮 人にとって日本の新派 劇は好 奇 と羨望 の 的 で もあった 。や がて 日本の 新 派劇は朝鮮の 在来 演芸 とは異 な る、近代的で 文明 的な 演劇 として受 け 入 れ ら れ、 朝鮮 新派が誕 生するきっ か けと なる。 し か し 、 日 本の 新派 を そ の ま ま 模 倣した 朝 鮮の 新派 は 異 質で あっ たため 好 奇 心 の 対 象に はな った も の の 観 客 が 劇 の 内容 を十 分理解 す る こ と は で き なか った 。そ の た め 、 観 客 は演 劇を みて 笑い 、騒 然とす る 観劇態度を み せていた 。 そして新派 発 生 か ら一年後 、 『 毎日申報』 と いう新聞メディ ア を 媒介 とし て新派 は 新 聞 連載小 説 を演 劇化するこ と が 常 とな り、 日 本 の よ うに新派 悲劇のレパート リ ー が 定着 する。 し かし 、 この時期、日 本の 家庭小 説 が集中 的 に 翻 案され 、 演劇化された こと に は 朝鮮 の 家 族 制 度 を 風 俗 改良 と い う名 目 で 新たに 再 編成 し よ うとする政 策 的な 意図 が隠れ て い た ともい え る 。 こう した 言 説 をより効 果 的 に実行す るた めに 新派 の 興 行を積極的 に 奨励 したので ある。 小 説の演劇化は 活字を読めない人と、小説より 演劇 を 好 む 人 に 、 その 代 わ り と して 小説 の 内 容 (実 際) を忠 実 に再 現し た。 ま た 、 朝 鮮の 人々は日本 の 家庭 小説を 新 派を 通し て受容す る こ と で 間 接 的に日本の文 化に ふれ 、「 涙」 と 「 同情 」 をもって見 る 新派悲 劇 に 馴化され て い っ た の で あ る 。 し か し問 題は小 説 翻 案 か ら はじ まった日 本の小 説 がど の よ う

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に変化 し たのか、また、 ど のよ う に 朝鮮 の 人 々に 受容されたの か で ある。翻案小説は新聞 や 単行本によ っ て 始 まった が 、いつ しか小説 というジ ャンルか ら離 れ、演劇や映画、流行歌など大 衆文化と融合 し 、 再 翻 案 さ れる。そ こには当 時の社会状 況 や意 識、 風俗 が 当 然 な がら 反映され てい る 。 それ は 異 国 の 小 説 が取 捨選択 さ れ、徐 々 に朝鮮 的 なものと して形を整 え 、朝鮮 文 化 と して 定着 して いく 過 程 で も あ る 。 そ して そ れ は 今 日の 韓 国 文化 の形成におい て も 決 し て無関 係 ではないであろう。 【注 記 】 河竹 繁 俊 『 日 本演劇全 史』 ( 岩 波書店 、 一九五九 年 四 月 ) 九 八 六頁 1 河 竹 繁俊 は新 派劇史 の 流 れ を次 の よ う に 六 期 に 大 別し て い る 。 2 一、 発生 期 ― 一八 八八年 ( 明治 二 一 ) ― 一八 九三 年 ( 明 治 二 六 ) 二、 興隆期 ― 一八 九四 年( 明 治 二七) ― 一 九 〇 三 年( 明 治 三六) 三、全盛 期 ― 一九 〇四 年 ( 明 治 三 七 ) ― 一九 一 〇 年 ( 明 治 四 三 ) 四、衰 退 期 ― 一九 一 〇 年 ( 明治 四 三 ) ― 一九一二 年 ( 大 正 年 間 ) 五、中 興 期 ― 一九 二六年 ( 昭 和 初 年 ) ― 一九 三三年 ( 昭 和 八年 ) 六、 新生 新派期 ― 一九 三 七 年 ( 昭 和 一 二 )以降 ( 河 竹繁俊、前掲 書 、 九八 九 ― 九 八 八 頁 ) 青柳 綱太 郎 『 京城 案内 ・ 大京城』 復刻版 ( 朝鮮研究 会、 一 九 二五 年二 月 ) 3 四〇頁 青柳綱 太 郎 、 前 掲 書、 三三頁 4 岡良 助『 京 城 繁 昌 記』 ( 博 文社 、 一 九 一 五年 六 月 ) 四 七 六 頁 5 青柳綱 太 郎 、 前 掲 書 、 五五 四― 五五 五 頁 6 岡良 助、前 掲 書 、 四七 六― 四七 七 頁 7 梁承 国 「 一九一 〇 年代 韓国新派 劇 の レ パ ー ト リ ー 研究 」 ( 『 韓 国劇 芸術 ヤ ン ス ン クッ ク 8 研究』第八 集、 一 九 九 八 年六 月、二一― 四 〇 頁 )には一九 〇 七年 一一 月 か ら 一 九 一 一 年一 二 月 まで の『 京城新報 』の演劇 欄の調査 によ っ て 作成 さ れ た 「 新派公 演 年報」 が 掲載され てい る。 『京 城新報』 復 刻 版 第 一〇巻一 九 一 二 年 一月 二月 ま で の新 派公 演 は 筆者 9 の調 査 に よ る も の であ る 。『 京 城新報 』 はソウ ル で 発 行されて い た 日本人 居留民 の 日本語新聞 で あ り 、 一 九 〇 七年 に 創 刊さ れ 、 一九 一二年二 月に 廃刊 される 。 梁承 国 、 前 掲 論 文 、四 〇 ― 四 一 頁 ヤ ン ス ン ク ッ ク 10 朴 晃 『 唱 劇 史 研究』 (白鹿 出 版社、一 九七 六 年 )一 七頁 パ ク フ ァ ン 11 柳 敏 栄『 演劇 運動史』 (檀 国 大 学 校 出 版 部、 一 九 九〇年 三 月) 三 一 頁 リ ュ ミ ン ヨ ン 12 「演 芸界 」( 『 毎 日申報』一 九 一二 年 二 月 二 八 日 ) 13 『毎 日 申 報』 一九一二年四 月 三 日 14 「不 孝天 罰」は寿 座 で 公 演 さ れ た 日 本 の 演 劇 「不 孝 の 天 罰 執念 の蛇」で 15 ある 。 「 六 穴 砲 強盗」は日本人町の 劇 場、歌 舞 伎座 や 京 城 座 で 興 行 し た「 ピス 16 トル 強 盗 清 水 定吉 」 の 翻 案 で あ る 。 安鐘 和 は 『 新 劇 史 物 語 』 ( 進 文 社、一 九 五 五 年) に お いて 林聖 九 は 京城 ア ン ジ ョ ン フ ァ 17 座で 下 足 番を し た とい う。 一 方 、 李 瑞 求 は 『 韓 国 演 劇 運 動 の 胎 兒 期 野 史 』 イ ソ グ ( 新 思 潮 、 一 九六四 年 )で寿座 で 働 いたと述べて いる。 梁承 国 「 韓 国 近代 文 学 の形成に及ぼ した日本の新派劇 の影響に 関す る ヤ ン ス ン クッ ク 18 研 究 」『韓国 劇 芸術 研究 』第 一四集 、 二〇 〇一 年一〇 月 、 一八 頁 李基世 「 新 派 劇 の 回 顧 」( 『毎 日申 報 』 一 九 三七 年七月 三 日 ) イ ギ セ 19

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尹白南 「 朝鮮 演 劇 運動 の二 十年 を回顧 し て 」 ( 『 劇芸 術 一 』 、 劇 芸 術研 究 ユ ン ペ ク ナ ム 20 会、 一 九 三 四 年四月 ) 二一 頁 安鐘和「舞台裏面 史」 (一 〇 ) ( 『 中 央 日 報 』 、 一九三三年 八 月二六日 ) ア ン ジ ョ ン フ ァ 21 洪善 英 「 観 客 啓 蒙 と「 涙 」 ― 一九 一〇年 代 の韓 国 に おける 演 劇 改 良運 動 ホ ン ソ ニョ ン と新 派 劇 」 『 越 境 す る 人 と 文 化 ― 一九 一 〇 代の 韓 国 に お ける 日 本 文 学 ・ 演 劇と 〈翻案 〉 』筑波 大 学 博 士( 文 学 )学 位論 文 、 二 〇 〇二 年 、 参 照 ) 、 六 八頁 『毎 日 申 報 』 一九 一 二 年 三 月二七 日 22 玄 哲 ( 『 韓 国 と韓国 人 』 通 巻 一 一号 ) に よる と尹 白南 は日 本の 新 派 の 幹 ヒョ ン チ ョ ル 23 部小 織桂 一郎に半年 間 従 事 し た という。 ( 李 杜 鉉 、 『 韓 国 新 劇 史 研 究 』 ソ ウル 大学校出 版部 、一九 六 六年 五 月 か ら 引 用 )、 七 二 頁 尹白 南、 前 掲 書 ユ ン ペ ク ナ ム 24 白 雨 生 「 朝 鮮 芝 居 見物 記 」( 『 朝鮮 』 、 東京 皓星 社、 一 九 一 三 年三 月 一 日 ) 25 一一 五 頁 『毎 日 申 報 』 一 九 一三 年 五 月 四 日 26 朝鮮 最初の 室 内劇 場は 一 九 〇 二 年 一 二 月 、 朝 鮮 の 二 六 代 王 の高 宗皇帝の 27 御極 四〇年の 稱慶 禮式 ( 即 位 四 〇年 を 祝 う 儀 式) を 祝 う た め 建 てら れ た 協 律 司 で あ る 。 し か し 、同 年 一 九〇 二 年 コレ ラが発生し、 稱慶禮式 は 延 期となり 、協 律 司 は 一 般 の 娯 楽 機 関 とな っ た 。 そ の た め 官 庁 を あ ら わ す 協律 司は 公演 団体 をあ ら わ す 協 律 社 へ と 名 称 が 変 わり 、 妓 生 、 倡優 、 舞 童によるパ ン ソリや舞 踊 が 行 わ れ た 。 協 律 社 は 新 し い 娯 楽 機 関 で あ り朝 鮮 の 人々 に閉鎖 さ れ た 空 間 で 正 面 に 向 か っ て 見 る 身 体 的 行 為 と 集 団 的 観 覧行為を 体 験 さ せる場で あった 。 小説の演 劇 化 は一九一二年三 月 三 一 日 、 文秀星 に よ っ て 公 演 さ れ た 徳 富 28 蘆花『不如 帰 』の翻案 、「 不如 帰 」 である 。 プ ル ヨ ギ チェ ・ スッ キョ ン「 韓末 女性 解放論理 の展開と限 界 点 」( 『 論叢 』第四三 29 集、 一 九 八 三 年 ) 瀬沼茂 樹 「 家 庭小説 の 展 開 」 ( 『 明 治 家 庭 小 説集 』 、 筑摩 書 房 、一九六九 30 年六 月 ) 四 二 一 ― 四二二 頁 加藤武雄「 家 庭小説 研 究 」 『 日 本 文 学講座 』第一 四 巻(改 造 社版、一 九 31 三三年一一 月 )五 七 ― 六〇頁 真 銅 正宏 「 菊 池幽 芳 『 己が罪』/ 家 庭小説というジャンルー 明 治大正 流 32 行小 説の研 究 ( 三 ) 」( 『 人文 学 』、一 九九五 年 一一 月)九〇頁 権丁熙「 海 峡 を 越 え た 「国 民文 学 」 ― 朝鮮 に お ける 「 不 如 帰 」の 受 容 を ク ォ ン ジ ョ ン ヒ 33 めぐ って―」 ( 『 日 本 近 代 文学 』第六 五 集 、 二〇 〇一年 一 〇 月 )三 一 頁 『毎日申報 』 一九 一 三 年 五 月 四 日 34 『毎 日 申 報 』 一九 一 二 年 九 月二 五 日 35 一九一〇 年代の代表 的 な翻案者で あ る趙 重 桓 は三千里主 催 の「 外国 座 談 36 会 」 に お い て 『己が罪 』 の 翻案 に至った 経緯 を次 のよ う に 述 べ て い る。 「 < 己 が罪 > は私 に と っ て とて も印象深 い作品だっ た 。私が一五 、 六 歳 のとき 、 友 人 が 私 の も と を 訪 ね 、 こ の小 説 の 内 容 を聞 か せ て く れた 。 私 は そ の小 説の内容 に引 きつけら れ た 。 そ れ か ら 四 、 五 年 後 、 < 己が 罪 > の原 書を 手 に 入 れ、 読 ん で み た 。 実 際 、読 んで見ると友人か ら 聞 い た ときより 一層 深い印象を与 えら れた。そ し て 私は考え た。 朝 鮮 の 青 年 男 女の 精神 的 糧 食 を 与え る た めこの小説を 朝鮮 的なも の へと移す 日 が 来る と 。 」 ま た 、『 金 色 夜 叉』 の 翻 案 、 「 長 恨夢」 に 関 し てもス ト ーリ ーが あまり に も悲 しかっ た の で 涙 を流しながら 作業を 進 め た と回 顧 し て いる 。 つ まり 、趙 重 桓 の 翻案 の 動 機 は 文 学 的 な 感 銘 と啓 蒙 的 な意 識か ら発 した と 考 えら れ る 。

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三 枝 壽勝『 「 朝鮮文 学 を 味 わ う 」報 告書 』( 国際交流 アジ アセン タ ー、 一 37 九九 七年 一二 月、 一五 ― 一 六 頁 ) に よ る と「 新 小 説 と は 近 代 文 学 の 移行 期 で あ る 一 九 一〇 年 前 後 、 つまり日本に植民地とされ る前 後に 出た一連 の作品 を 指してい ます 。( しかし ) この 新 小 説 と いう 言 葉 は 、 作 品 の 中 身 に対 す る 特別 の定 義が あってで きたので はな く 一 番 、 最初 に出 さ れ た ( 李 人 稙 の= 筆者注 ) 「血の 涙 」 の 広 告 に新小説と書いて あ っ たと いう だ イ イ ン ジ ク け の 理 由 で 使 わ れ る よ うに な っ た の です が、新し い時代に 合わせ て 新し い 思 想 や 風 物 を 材 料 に し た 読み物を まと めて 指し てい る と いう こ と で す。 」 と 説 明 し て い る 。 趙東 一 『 新 小 説 の 文学史的 性格』 ( ソ ウ ル大学校出版 部、 一九九 八 年 七 チ ョ ド ン イ ル 38 月) 八 四 頁 チョ ン ・ ジョ ンミョ ン 『近 代の 本 を 読む ― 読 者 の 誕 生 と韓 国近 代 文 学 』 39 (プ ル ン 歴 史 、 二 〇 〇 三 年 一一月、 九三―九 四頁)に よる と一 九 一 〇 ― 二〇 年代 に 本 と 新 聞 を 自由に読 める人は 極少数で あり 、そ の た め改革 論 者と 保守 的 な 民 族 主 義 者 ら の 共 通 的 課題は文 盲打破であっ た。しかし多 く の 朝 鮮 人は 日本に よ っ て 運営 される 小 学校に子 供を通わ せることに反 感を 持ってい たが一九 一九 年 か ら 学 校教育 に 対 す る 態 度 に 変化 が起 った。 それ は新しい 社会 に 適 応 す る た め に は 学 校 教 育 が 必 要 で あ る と い う 自覚 が生じた か ら である。そして 一 九 三 〇年 代 か ら 文 字 普 及 運 動 に よって教 育 を うけ る機 会が 急増し 識 字 率 が 高 くな っ た という 。 一九 一 四 年六 月 二 七 日 付けの『毎日申報』 に は 同 年の 一 月 に革新 団 によ 40 って 興 行 さ れ た「 涙 」 ( 李 相 協 著 ・ 一九 一 三 年 二 月 二 五日 ― 五 月一 一日 ま イ・ サ ン ヒ ョ ッ プ で『 毎日 申報 』に連載 ) を 観覧し た 河 村 若 草 という 日 本 人 女 性 の 感 想文 が掲 載 さ れ て い る 。そ こ に は 「 涙 」 の 作 者 ・ 李相協が俳優 が勝 手に小 説 の内 容を変え て演技を し たため 小 説 が 損な わ れ てし ま っ たと 怒 っ て い る 様子が 記 さ れ て い る。 ( 九 州 大 学大 学院 比較 社 会 文 化 学府 博 士 後期課 程 一 年 )

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