香川大学経済論叢 第63巻 第I号 1990年 6月 1-30
イギリス型近代化の挫折
一 一
BL
社
1
0年史(4
)一一
山 本 尚
1.はじめに 1968年のBLMC
設立から 1974年暮れの事実上の倒産にいたる過程は,単な る一過性の挫折ではなく,イギリス主導産業部門の産業中心地における破綻で あっただけにイギリス型近代化の行詰りを象徴するものであった。この時期は イギリスの政治的ならびに経済的環境の歴史的転換期にあたり, ミッドランス の自動車産業がかつてのランカシァの綿業と閉じ運命を辿るか否かというイギ リスの国運をかけた試練の時期であった。その国民の期待を担って実現したBLMC
合併も他の多くのイギリスの合併と同様に「失望した合併」に終わっ た。というのはBLMC
の利潤は,合併前の個別の構成会社の利潤をあわせたも のより低;かったからである。 私は前稿においてBLMC
成立の契機となったBMH
の経営危機の要因とし てポンド危機とそれに関連するデフレ政策という外部的要因を強調した。とこ ろが1967年11月のポンド切り下げはイギ、リス経済にたいして好影響をもたら し, 1973年まで国際収入を大幅に改善し,需要管理政策は「最後の輝かしい局 (1) 20世紀のイギ、リス型近代化については, Newton, S. and Porter, D (1988)Modernisa・ tion Frustrated: the Politics:01 Industrial Decline in Britain since 1900 (London, Unwin Hyman)参照。 (2) WiIliams et aL (1983), p. 246.(
3
)
拙稿「プリティッシュ・レイランド・モーター社の成立-BL
社10年史(
3
)
ーJr香川大学 経済論叢』第60巻第1号(昭和62年 6月)。以下特に必要のない時は,BLMC
はBL
と 略記する。-2- 香川大学経済論叢 2 百;)を迎えたのである。とくに1971年7月にすべての割賦購入規制が撤廃さ れ,購入税は30%に引き下げられたため乗用車にたいする需要はすみやかに回 復し, 1973年第4四半期まで国内自動車販売は空前の伸びを示し続けた。とこ ろが
BL
の生産台数は,この期間にほぼ100万台前後に停滞し続け,この間に生 じた「市場真空」は輸入車によって埋められることになった。さらに,このよ うな輸入惨透のもう一つの背景として急速なインフレーションの進行をあげる ことができょう(;)人々は差し迫った価格上昇を鋭く察知し,国産新車を待とう とせず,注文と同時に調達しうる輸入車に殺倒したのである。事実この時期のBL
の経営に破壊的な影響を与えたのは,インプレーション,とくに工場レベル の賃金ドリフトであった(:)戦後史を特徴づけた連続したインフレーシヨンは 1967年を節目に加速に転じたが,同時にそれは失業率の増大をともなった点で スタグプレーションの始まりを画した。これが「現代の最大の産業ドラマ」が(4) Hopkin, B (1981)‘The Development of Demand Managemen,'tin: Cairncross, F (ed,),Changing Percψtions
0
/
Economic Policy, Essays in honour0
/
the seventieth birthday0
/
Sir allec Cairncross(London: Methuen), p, 35 A.ケアンクロスはアト リー労働党政府の経済政策にたいして需要管理政策の導入という点で「経済政策上の革 命」として高い評価を与えているが,朝鮮戦争による過重な再軍備負担をその政策パック におけるジョーカーとみており,自動車産業の少なくとも3分のlが軍需生産に従事し たと推定している (Cairncross,A (1985)Years0
/
Recoveη(London: Methuen), pp 15, 222)。
(5)乗用車の総登録台数の推移をみれば,1970年1,127千台, 71年1,335千台,72年1,702千 台, 73年1,688千台へと増大している (SMMT,The Motor lndustη0
/
Great Britain (1983), London: SMMT, p 48)。
(6) イギリス乗用車市場における輸入渉透をみれば, 1969年10%,1970年14%,1972年26リ 4%, 1973年27ι%と飛躍的に増大する (Rhys,G" ‘Motor Vehicles', in: Johnson, P (ed), The Structure0
/
British lndustηsecond edition London: Unwin Hyman, p 171)日産は1974年末までにルノーを追い越してトップ販売輸入車となった。 (7) 1968~73 年の聞に小売価格は 43..5% の上昇を示した。 (8) rかくして全インフレーション的メリ}・ゴー・ランドは出来高給を使用し急速な技術変 化を経験した自動車産業のような産業における賃金ドリフトによって起動すると論じう るであろう。すなわち,そのインフレーションは,多くの他の物と同様に「コヴエントリ 製」であるJo(Cairncross, A (1974), ln
.
メlation,Gγ'owth and lnternational Finance, London: George Allen & Unwin, p,.92)。
(9) Obse仰 問 7April1974。本論文では現代の叙事詩」である新聞を中心にこのドラマを
3 イギリス型近代化の挫折 -3-第1表 BLおよび日産のプロフィーJ,レ 1968-73年 1968 1969 1970 1971 1972 1973 BL 1,050 1,083 984 1,057 1,127 1,161 生 産 台 数 日産 980 1,149 1,374 1,591 1,864 2,039 (千台) (2) (tO) 白骨 (56) 従 業 員 数 BL 188,247 196,390 199,524 193,703 190,841 204.149 日産 40,014 43,820 45,930 47,570 51.972 53,508 生 産 性
( )
1人当たり 日産BL 245 26 6 305 35 3 366 36 8I 生産台数 (注) ( )内の数字は,日産の対英輸出を示す。 展開される時代的背景をなしていた。 BLは設立当時合衆国を除く自動車会社中2位,イギリス非固有製造企業中5
位の売上高規模をもっ巨大会社、であった。ところがBLの販売実績は,その設 立時以来,旺盛な圏内需要にもかかわらず極めて停滞的であった。この停滞的 局面は同時期の日産の発展と比較することによって明白である(第1
表参照)。 本稿では「イギリス産業全体に影響する諸問題の縮図」といわれる BLに焦点 を合わせて近代化を阻止した諸要因の分析をおこなうことを目的とする。 2 管理組織の機能阻害(1) まず1
9
6
8
年営業報告書によってBLMCの取締役会の陣容をーベつしてお こう。ハリマン(Gw
.
.
Harriman)
は初期の数カ月聞社長にとどまったが11月 ω1) BL, Rψort and Accountsおよび日産自動車社史1964-1973 (1975) より作成。日産社 史は日産が1973年までに 5万5,812台へとイギリスへの輸出台数を急速に伸ばした理 由として, 70年にサニー B 110, 71年にチェリー, 72年にブルーバード Uなどヨーロツ パ市場に適した主力3モデ1レを投入したことともに「イギリス自動車業界の事情」として 設備投資の遅れとストライキなどによる「供給不足」をあげている(上掲香, 397~8 ペー ジ)。 ( tu Edwardes(1983), p. 9-4- 香川大学経済論叢 4 第2表 BLMCの役員, 1968年 出 身 持株数 会長 Sir George Harriman BMH 57,560 重役 Lord Stokes(社長兼経営取締役) レイランド 24,250 Sir William Lyons(副社長) BMH (ジャガ一社) 466,384 L G Whyte (副社長) レイランド 37,500 A Fogg (副経営取締役) レイランド J H.Plane(副経営取締役) レイランド 60.615 G. H Tumbull (副経営取締役) レイランド(スタンダード トライアムフ) 5,000 J N R.Barber レイランド 2,500
T
A. E.Laybom BMH 11,500 R.J Lucas BMH 1,000 R. A.Stormonth-Darling BMH 16,800 (注) L G. WhyteとRA S. Stormonth-Dadingは,個人持株の他に受託者としてそれ ぞれ5,000株ずつ所有する。1
日付をもって社長ならびに取締役を引退する旨宣言し,会長に就任すること になった(;2)かわってストークス(D..S
臼k
叫が社長兼経営取締役に就任した。 その他取締役会のメンバーは第2長おとおりであり,ノ、リマンとエドワーズ、(J Edwards)が去ることによってB..M.H出身者は最初から少数派であった。 新社長ストークス卿がまず直面した課題は,マンモス企業を支配する組織構 造を設定することであった。事実彼は以前の合併が何ら適切な合理化をもたら していない8会社を統合せねばならず,それらの聞の不信と敵意の遺産を克服 U2)ハリマンはストークスより 6歳年長であったにもかかわらず,いさぎよく身をひいた。合 併の過程でも「ハリマンの悪意の欠如」が全交渉の特徴をなした (Tumer(1973), pp.. 172 178)。
。
3) BL, 1968 Report and Accounts, BL Limitedより作成。5 イギリス型近代化の挫折 -5-せねばならなかった。 合併時にストークス卿とハリマン卿によって署名された文書で宣言された内 容は,本会社は大いに自治的な子会社をもっ持株会社ではなく,統合された組 織であるべきであるという事であった。しかし,実際には統合への進歩はいく つかの大きな障害によって阻止された。 まず第lに,ストークスはつねにランカシァのレイランド社をすべての機能 の支配をもっ全知の人物として経営した(その点では,ジャガーのウィリアム・ リヨンズも同様である)。新会社にもストークスの個人的権威が持ち込まれ,広 大な帝国の財務ならびにその他すべての部面にたいして詳細な中央統制を課す ることが試みられた。問題は「スタッフとライン」機能にあり, 21人の取締役 と経営者が経営取締役に復命するという複雑さをもっており,それは当時の組 織図(第1図参照)に示された不可能な状況であった。 第2に,おのおのの主な構成会社は,同じスタッフおよびラインの基礎で組 織され,ロンドン文はミッドランズのいずれかにある中央スタッフ部門によっ て重複されたすべての機能をもっていた。したがって部門として名称変更され J た構成会社はその権限を中央に移譲する試みに活発に抵抗した。これらの部門 のいくつかは高度に利潤があり,その論拠が傾聴に備する強烈な個性によって 経営されていた。本部スタップは,合併後の
2
年余の聞に特に財務および人事 において着実に拡大したが,各部門の運営上の独立は大いに維持された。その 少ない敗北の1
つは,輸出マーケティングであり,その職能は新設の海外事業 部(後にブリティッシュ・レイランド・インターナショナJレと名称変更)に移 譲された。ファイナンシャル・タイムズに復帰する前にこの部で仕事をしてい たジェオフリ・オーエンは,この部にたいする工場の強い抵抗に言及しており,U
l
4
Cowling, K et al (1980), Me悠ersand Economic Peiformance, Cambridge Univer -sity Press, p. 179. BMCは 1966年まで持株会社であり,オースチンおよびモリスは別個 の取締役会と帳簿をもった (Turner(1973), p. 98)。
U5)Finanιial Times, 26 March 1975
(16)Salmon, E A (1975),‘Inside British Leyland', Manage押2entToday, November 1975, pp..59-61, 114
-6ー 香川大学経済論叢 本 社 ス タ ソ フ 広 報 ロンドン 企 画 労使関係 組織およぴ管理職人事 財 務 フ。ログラミングシステム 法 務 7ーケティングコヴエントリ 製 造 製 造 コ ン ト ロ ー ル 製造計画 購 買 製品開発 製品計画 製品品質および時期 ヨーロyノf 海 外 オーストラリア インド 北 ア メ リ カ 南 ア フ リ カ 第1図 BL祉の当初の組織図:不可能な状況 新部門と生産部門との関係はしばしば荒れ模様であった。 第
3
に,オースチン・モリス部門と名称変更された旧B..M.C
の不均合いな 大きさに問題があった。これは実際に「会社内の会社」であり,3
つのレベル ーグループ,部門および工場ーにそれ自身のスタッフをもっていた。新会社そ れ自身の中央スタップとの重複と対立の範閤は明白であった。オースチン・モ リスは,会社の事業の半分以上を占め,それは又特に生産においてもっとも手 に負えない問題をもっBLの問題児であった。 第 4の幣害は,パーキンソンの法則の不可避的な介入による中央スタッフの 著 し い 肥 大 化 で あ る 。 BLの前ミドル・マネージャーE..A
サ-43(A
Salmon)
は次のように述べている「工場の経営者達は,新しい中央スタッフの成 67 イギリス型近代化の挫折 -7-長を驚きと不信をもって眺めた。これらの新部局の人事が,責任それ自身はス タッフにあるという誤った認識にもとづいて工場からの配置転換ではなく異動 によって補充されることは当初から予想されたけれども,そのために可能で あった少数の異動のみの機能が重複さるべきことがわかった。新部局の拡張は, きのこのように膨張し,なされた異動は工場が彼ら自身が異動を希望している 経営者を本社へ提供した理由でのみしばしば可能であった。したがって結局, 多くの新上級スタップは強引に他社から引き抜かれ,若干の者は全く自動車産 業と無関係な人達であった」。 さらにサーモンが「問題の核心」として強調するのは,これらの中央スタッ プと工場現場(又は販売現場)との聞の隔絶のために「プログラムを正当化す るために迅速な決定が工場で行うことができず,それは不可避的に劣悪なモデ ルの過剰生産と売れ残り在庫の増加をもたらした」。その結果「いかなる人も 一確かに工場においてではないがーもはや何ものにたいしても単独では責任を 感じず,したがっていかなる人も不可避的な誤りにたいして責任をとりえな かったおその上, BLはスタッフが頻繁に異動し,その結果志気も低調であっ た。 彼は又「組織に内在的なコミュニケーションと責任の希薄な関係および
5
主 力工場の調整の欠如」を批判する。彼は,会社内の各社が「完全な権限をもっ 経営取締役をもち,政策形成に発言力をもたねばならない」と提言している。 現実には「経営者の仕事は容易に規定できないが,雰囲気がより非人間的であ ればあるほど彼が合法的に要求されること以上のことをあまりしない傾向があ 日7)彼の観察は,後にMエドワーズによっても追認されている。エドワーズはBLにモデル ごとのコスト分析もなく r要するに最悪のタイプの会社集権主義が働いており,私はそ れに息がつまる思いであった」と述懐している (Edwardes(1983), p..54)。スタγフ従業 員の増加は,スタッフ・コストの上昇をもたらし, 1973年 1台当りスタッフ・コストは 1968年にお砂るよりも 18%高かった (Pryke(1981)p..222)。指導的なショップ・スチュ ワードBロッシェ(BiIlRoche)も「あまりにも多くの曾長とあまりにも少ないインディ アン」を破綻の原因としてあげている (FinancialTimes, 17December 1976)。 自由 Salmon (1975), p.60 U9) Ibidp..p..61-8ー 香川大学経済論叢 8 る」のであり r彼らの志気および動機づけ」に BL破綻の原因を求めている。 しかし,
1
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7
4
年の2
度の再組織にいたるまで企業の基本構造は変更されな かった。ライダー・レポートは次のように指摘している。「本会社内部に相対立 する思想、の流れがあった。すなわち,ある者は完全統合の方向へ動き,他の者 は古い会社構造の独立を維持することを望んだ。現在の組織形態は大いにこれ らの歴史的要因の結果であるJorわれわれは BLの現在の組織構造が BL経営 の効率に有害な作用をもち,その将来の発展を阻止しそうであると確信してい るJorそれはいずれの利点もほとんどもたない中央集権的ならびに分権的組織 の両方の欠点をほとんど結合している」と。 3 管理系蹄裁の機能阻害 C2 ) このような BLの創立以来の組織上の不確実性の核心に次の問題があった。 すなわち,旧レイランド自動車会社(ローパーおよびトライアムフをふくむ) のように大いに自治的会社の連合であるべきなのか,又はヨーロッパ・フォー ドのように高度に統合さるべきなのか,という問題がこれである。この分権管 理がよいか,集権管理がよいかという教科書的事例が BLの経営首脳内部で連 合派と統合派の対立として争われることになる。 この対立が表面化するのは1
9
7
3
年秋の BL重役室の大波乱である。その事 件は, BMHーレイランド合併の記念祝賀会の昼食会の席上で起こった。この席 上で配布された BLの新組織図における変更ーとくにジョン・パーパアC
]
.
Bar-ber)のタイトルの変更ーは,出席者に衝撃を与えた。変更の大まかな内容は, ストークス卿が社長兼最高管理ぎをとどまったが,経営権をパーパアに譲り, 後継者と目されていたジョージ・ターンブルC
]
.
Turnbul!)は経営取締役と名 ( 2 I0) bidp..114. (21)Ryder Committee (1975), British Leyland, the Next Decade, London: HMSO, p..44 ー45本レポートについては,中本和秀 (1983) r産業政策と経営戦略に関する一考察」福
岡大学商学論叢第27巻4号参照。
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:
)
Observe汽 15February 19749 イギリス型近代化の挫折 -9-付けられていたが,ストークスには復命せず,その代理すなわちパーパアに復 命することになっていた。これはまさに順境と逆境の古典的事例であった。こ のミステリーへのかぎ,迷路を通ずる糸は,明らかに「最高管理者」という言 葉にある。第lに,ストークスはバトンタッチしたがっているが完全にではな く,文確かに今ではない。第
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に,パーパァとターンブルの間を選択して彼は 後者を辞めさせることなしに前者を抜てきすることを欲した。この優柔不断は, 合併以来のBL社の経営を象徴するものであった。ターンブルとパーパァの対 立は,単なる個人的対立のレベノレを超えてミッドランズ的経営とアメリカ的経 営の対立を浮彫りする事件として特別の興味があるのでより立ち入って検討し ょう。 ノてーパァは, 1955年にフォードに入社する以前に公務員(供給省の1所長) であり,フォードの財務担当重役からAEIを経て, 1968年にレイランドに移籍 した。彼はフォードの組織・財務および経営原則はそれに国有のものでなく, むしろ自動車製造一般に適用されるべきベストの慣行であると考える「典型的 なフォード卒業生」であった。これにたいしターンブノレは,スタンダード・マ ンー優秀な徒弟からセールスマンと経営者になったーであったが,同社がレイ ランド祉に合併された時「ストークスはただ、彼を認めた」と1
スタンダード役 員は言った。 BL設立の際にストークス卿はかなりの権限を各部門の長に移譲 した。とくにオースチン・モリス部門のジョージ・ターンブノレ氏, トラック・ パス部門のロン・エリス (REllis) 氏および少なくない程度ではあったが国際 部門のジャック・プレイン(
l
H
.
.
Plane)氏にそうした。旧レイランド自動車 会社でスタンダード・トライアムフの長であったターンブノレは,新会社設立の (23) ストークスは,議会において最高管理者 (ChiefExecutive)と経営取締役 (Managing Director)の違いをつぎのように説明している。「いくつかの会社ではご承知のとおり, 必ずしもChiefExecutiveでない社長をもっている。しかしわれわれは歴史的な理由で 両方を兼任しており,その役割は役員会の助言のもとに管理し,又長期計画に特別の注意 を払い,会社内の上級人事の任命について助言し,経営取締役およびその他の上級役員を 援助する。経営取締役の仕事は,役員会の定めた原則に従って会社の日常業務を企画する ことであるJ (House oj Commons Extenditure Committee(1975), Vo1.!I, p..1l6-117)-10- 香川大学経済論叢 10 際42歳の若さで副経営取締役となり,ストークス卿の後継者と目されていた。 技術者出身の彼にはその経営思想を知る文献がほとんどないが,連合派でイギ リス的経営の代表者と見ることができょう。 これにたいしパーパァ氏は当時財務および企画担当重役であり,なお独立し た領地の緩やかな連合で、あった新会社の中にフォード・タイプの財務・経営原 則を導入しようと試みた。各部局からの抵抗にもかかわらず,ストークス卿の 折にふれての支持によってパーパアは組織への若干の秩序をもたらし,中央で の彼自身の影響力を増加させることができた。 1971年 4月21日付で彼は副経 営取締役に任命された。彼の地位は, 1973年9月会社がいかに経営されるべき かについての長く厳しい論争の後ジョージ・ターンブルが辞任し,ノてーパァが 副 社 長 兼 唯 一 の 経 営 取 締 役 と な っ た 時 に 大 い に 強 化 さ れ た ( 直 後 に ア レ ツ ク ス・パークがランク・ゼロックスから移籍して財務担当重役になった)。しかし ストークス卿は最高経営執行者にとどまり,パーパァは事業の乗用車部門にた いして特別の責任を与えられたが,その権限は決して完全ではなかった。 1973年9月 の 革 命 は , 一 応 フ ォ ー ド 派 の 勝 利 を 意 味 し た の で あ る が , パ ー ノTァの公準は「財務と経営とは分離しえない」ということであり rわれわれの 職能は収益性を増加させることである。あなたはいかにしてビジネスが経営さ れるかを知らないでそうすることはできない」という言葉に端的に表現されて いる。この財務管理優先はフォードに固有のものでなく,むしろ自動車製造に 適用されるベストのアメリカの慣習であったが,彼の困難は,近代経営技術の 高 僧 と し て の 彼 の 教 義 が 反 感 を も っ 人 々 の 教 区 に お い て 充 分 受 け 入 れ ら れ な 倒 ManagementToday, August 1972 ( 25) ターンプルは 1973年 9月 3日付で「相互了解の下に」退職し,当時フォード U.K と技 術援助協定のもとにあった現代自動車闘の副社長に就任する。技術指導内容は総合自動 車工場建設の技術諮問で,契約期間は 3年,代価払いは 8万ドルであった(越泰綴「韓国 小型乗用車開発と現代自動車閥」経営史学会関西部会 6月例会報告による)。 (26) Financict/Times, 25 April 1975
。
聞 この財務管理優先はアメリカにおいても60年代以降小型車問題に端を発して構造的矛 盾を露呈することになる。この点については,下川浩一『米国自動車産業経営史研究u977 年,東洋経済新報社. 302-3ページ参照。11 イギリス型近代化の挫折 -11ー かったことである。彼は
BMH
は貧弱な状態にあるが,資産価値と良好な ディーラー網をもち,レイランドと1
対1
の基礎で合併すればうまくいくと考 えた。彼はBMH
のような大量生産企業で利潤を予測することは容易であり, 彼のスタッフはBL
の初年の3
,000~3 ,6
0
0
万 ポ ン ド か ら 第3
年目の4
,5
0
0
~6 , 000 万ポンドへの利潤の拡大を計画した。 さらに製品戦略についてもフォード方式に従って抜本的改革の必要を強調 し,他の製造業者はただ3ないし4の基礎ボディ・シェルをもつにすぎず,た とえばフォードは,ただ2つの基礎エンジン・サイズをもつに過ぎないことを 指摘した。新会社は3つの基礎モデルとミニの後継車をもつべきであり,たと えば,ミニ,モリス1
1
0
0
,オースチン1
5
0
0
およびウールズリ2
0
0
0
に有利なよ うに競合車種系列をすべてカットし,リリーをまったく削減し,そして500-1
,0
0
0
の主要ディラーを設立することによってその販売網を再組織し,6
,0
0
0
にの ぼる販路の他のものを退役させるべきであるとした。 しかしパーパァが副社長専務取締役に就任後間もなく石油危機が起こり,翌 年会社は事実上倒産した。会社の再建計画を示したライダー・レポートが出版 されたとき彼はただ8カ月職務にいたに過ぎなかったけれども,パーパァ氏に たいする非難が r多くの点でライダー・レポートのもっともドラマチックな部 分」といわれるほど彼は特別の批判の対象となった。本レポートは,彼が「彼 に報告するあまりに多くの人を持ちJr大会社スタッフの創出は,ライン・マネ ジメントの権威と責任を浸蝕した」と批判した。政府もドン・ライダーの考え を完全ではないまでも了承したため,パーパァ氏の考えは拒否され,新会社で は何ら役割をもたなかった。彼は年俸4
2
,0
0
0
ポンドでの1
0
年契約のうち9年 を残し(それは,3
7
8
,0
0
0
ポンドの報酬をもたらすはずであった),次の職も未 定のまま7
5
年8月1
4
日解任された。 側 ManagemenfToda'y, August 1972 側 Tumer(1973), p.. 152 (30) Ibid, p.140 (31) Fi向。ncialTimes, 2, August 1975 (32) Ryder Committee (1975), p 44-12ー 香川大学経済論叢 12 かくして BL再建はターンフツレの連合派に基礎を置いた金融的持株会社とし て改組されることになったが,同年
8
月に公表された「議会委員会レポート」 では,逆に持株会社というライダーの考えに極度に反対していることを明らか にする。それは「ライグ、ーが構造の正確さにたいしてよりもむしろパーソナリ ティの適性にあまりにも責任を負わせる」と述べ,乗用車部門があまりにも大 きな権力の単一集中を示すと批判した。 パーパァは,その後も自説を変えず,1
9
7
6
年にファイナンシャル・タイムズ の論文においてフォード在と BL社を比較してつぎのように述べている。 「差異は歴史から生ずる。レイランドの乗用車事業はミッドランズで数多くの 中小会社が徐々に合併して成長した。フォードはつねに1
つの会社であった。 中小会社は殆どその創業者によって独裁的に経営され健全な経営構造を残さ ず,合併は短所を悪化せしめる。偉大な企業者ーたとえばオースチン,モリス およびリヨンのような のスタイルは,その特殊な才幹に欠ける人々によって ラインを下ってコッピーされる。聡明な知性よりも強靭な討論が尊重される。 その聞にフォードは個性よりも事実に基づく経営スタイルを開発し続けた。今 日この国で経営しているヨーロッパ・フォードの社長や会長の名前を知ってい る人は殆どいないであろう。 工場現場レベルでも歴史的背景が重要である。クライスラーならびにレイラ ンドのミッドランズ乗用車工場における余剰人員と劣悪な労使関係の原因は戦 争中に形成された賃金協定,戦後労働確保を急いだための賃金のせり上げおよ び経営管理の弛緩に見出される。その地位はミッドランズで機能する極端な出 来高給システムによって変化せしめられ,それは争議のたえざる原因であった (33) ドン卿は金融的持株会社を求めたが,パーパア氏はそのようなシステムはこの産業では 知られておらず,完全に統合された組織を求めた。パーパァはライダー・レポート後の議 会証言でも自説を固執してつぎのように述べている。「私が承認できない多くの点があ る。組織はその1つであるJ (House of Commons Expenditure Committee(1975) Vol II, p..93)。 倒 FinancialTimes, 29 April 1975 側 Finanιialηmes,12 August 197513 イギリス型近代化の挫折 -13-のみでなく,又良好な第l線ライン経営の発展をも阻止した。
…
u 他方フォードは出来高給で機能したことはなしその職長を真の第l線 ライン経営者として訓練した。これがフオ}ドのより良好な生産実績の重要な 要因であった。」 さらに彼は, BLの製品戦略についても次のように述べている。 「われわれは乗用車産業にたいする何らの神授の権利を持たず,仕事,賃金, 工場立地,投資および参加に優先的に配慮して,これらのいずれもが顧客なし には存在しないというシンプルファクトが時々忘れられる。イギリス乗用車産 業について書かれた何千という言葉のすべてにおいて『顧客』という言葉がほ とんど現れることがない。予測総需要が分析されたがイギリス産業がもっとも よく満足しうる正確な顧客欲求に何らの考慮も与えられなかった。この産業の 低利潤およびその結果である過小投資の主たる理由は,明白な生産問題であっ たばかりでなく顕著な例外はあるが適正な製品一顧客にたいして適正な,そし て又内在的に利益のあるーを開発することに失敗したことである?)と。 又,ライ夕、一・レポートの独裁的であるという批判にたいしてつぎのように 反論している。「より困難な問題の1
つは,集権管理か分権管理かの問題である が,それはしばしば権限の移譲と混同されてきた。ある決定は,相互依存性の ために中央で処理されねばならず,ある事業は規模の経済性を達成するために 集権化されねばならない。たとえば,各モデノレのエンジンが違った工場で製造 されることは浪費的であろう」と。そしてCPRSレポートを援用してつぎのよ うに論ずる。「良い経営はイギリス乗用車産業の生産性改善において肝要な要因 である。同様に重要であり,最近のCPRSレポートにおげる恐らくもっとも重 要な言葉は,態度一経営および職場の双方の態度ーである。変化にたいするよ り受容的態度は,仕事それ自身にたいするより責任ある態度と同様に不可欠で ある」と。 (36) Financial Times, 10 March 1976 (37) Financial Times, 11 February 1976 (38) Financial Times, 12 March 1976- ] 4 - 香川大学経済論叢 14
4
.
競争力低下とその要因(1) われわれは前節において経営組織の側面から BLの企業成長を阻止した要因 について見てきたが,つぎにそれがどのようにBLの競争的地位に影響したか を検討しよう。パーパァが指摘するようにBLのトップ・マネジメントは一般に 乗用車販売および製品経験に欠けており,金融持株会社組織は良い事態とはい えないが, トップ・マネジメントが量産車部門でベストの量/コスト/価格関 係を確立するというファンダメンタルズを理解する限り失敗には導かなかった であろう。そこでまず量を規定する製造技術システムについてその特徴をみて ゆきたい。 BLの生産施設の特質は,歴史的理由によって全国に分散した多数の工場を もつことおよび工場・機械の大部分が古く,時代遅れで非能率であるという 2 点に集約されうる。しかし乗用車経営は,パーミンガム,コヴ、エントリ,ソリ ノリレ,オックスフォードおよびスウィドン周辺のミッドランズに集中しており, とくに大量乗用車部門であるモリス・オースチンについてみた場合,前者はカ ウレイ,後者はロングブリッジに垂直的統合工場をもっている。したがってカ ウレイ工場においてエンジン・トランスミッション(パワー・トレイン関係) その他の部品がコヴ、エントリ,パーミンガムなどの地方から運ばれてくる以外 は工場配置上の非効率性は大したものとはいえない。ただし工場内の諸工程の レイアウトには改善の余地が残されている。 ( 紛 れ 附ncialηmes,12 March 1976。パーバアはその後イギリス通産省の上級経済顧問に 就任する。彼は最近の論文においてイギリス会社の「つまづきの石」として人的資本への 投資不足およびこれと関連して「製造業におけるサービス機能,例えばマーケティング, マネジメント,デザイン」の効率欠如を指摘する(Barber,l (1988),‘Manufacturing and Services: Some Intemational Comparisons', in: Barker, T, and Dunne P., The Brilish Economy ajter Oil Ma問factuηng0γServices?London: Croom Helm, p 80)。
柵 FinancialTimes, 11 February 1976. (4)> Ryder Committee (1975), p..6
側 1985年に発表されたホンダのスウインドンにおけるエンジン製造計画は,この非効率を 除去することをねらったものといえよう (Fina目αalTimes, 11 February 1985)。
15 イギリス型近代化の挫折 -15-つぎに CPRSの研究に依拠してこの時期の最適生産台数をみれば,最小効率 規模(年間工場台数)はエンジン・ブロックの鋳造
1
0
万台,エンジン・トラン スミッション工作および組立5
0
万台,最終組立2
5
万台となっている。生産台 数当たり平均コストの大きな低下は,拡張の初期段階で達成されうるが,これ らの低下は年間2
5
万台を超えれば急速に減少する。したがってBL
はその鍛 造・鋳物および最終組立工程において最小最適規模の達成に充分大きな生産量 をもっ。さらに同社は基礎エンジンおよびトランスミッション範囲数を制限す ることによりパワー・トレーンの最適経済性に接近しえよう。こうしていくつ かのモデルを通ずる標準的ボディ・パネルを使用することにより潜在的規模の 経済性を達成することができるのであり,BL
の主力車種であるミニとその車 種系列および1100/1300
とその車種系列について見るかぎり最適生産規模は ほぼ達成していた。しかし他のモデルについては古く,そしてあまりにも多く のモデルを持ち,たとえばフォードがただ5
つの違った体型のボディ・シェル のみを製造したのにたいし,BL
は2
0
を製造しており,技術上のコスト・ペナ ルティを避けえなかった。しかも工場および機械の大部分が古く,かつ時代遅 れであり,自動車産業においてほとんどの機械は8ないし 12年毎に取り替えら れるが,BL
においては半分以上の機械は1
5
年以上経ており,とくに鋳物工場 の生産性水準はより近代的設備を使用するそれの半分以下と判断される。 こうした絶望的に分散した時代遅れの工場を別にして, BLはBMCの「バッ ジ・エンジニアリング」という不必要な営業上の複雑さと劣悪な労使関係とい う「望ましくない遺産」を継承していた。これらはBL
が主要な世界自動車製造 業者の中で指導的地位を回復するためには破棄せねばならない過去からの遺産 であった。「バッジ・エンジニアリング」とはオックスフォードとパーミンガム で異なった組立てラインで同一車を製造することを意味しており, BLの差し 迫った課題は,オースチン・モリスの2つの製造センターがそれら自身の別個 (43) Central Policy Review Sta妊(1975),pp 16-17 (4~ Ryder Committee (1975), p 29.-16- 香川大学経済論議‘ 16 のモデル・ラインをっくり出すことにあった。そのためにストークス卿は合イ井 直後に
4
カ年で2
億ポンドを投資する計画を発表した。 乗用車産業においては少なくとも資本支出の60%が直接にニューモデルの 採用に関係しており, BLにおいて工場および設備を近代化するための巨大な 資本投資が,新製品計画に関連して即座に着手されねばならなかった。とくに 需要が拡大しつつあった中型車市場における製品ギャップを埋めることはBL の回復への鍵であり,経営取締役ターンブルが指摘したように rわれわれはわ れわれの競争者からマーケット・シェアを奪取しようとする試みに集中するこ と」は同社の最優先の戦略目標であった。フォード・コルチナおよびエスコー トのようなコンベンショナルな後輪駆動r3
ボックス」サルーンにたいする競 争車を意図して 1971年に採用されたマリーナは, BL経営首脳の起死回生策で あった。 新中型車の開発を死活問題と考えたストークスは,その開発の突貫計画を要 求し,オースチン・モリスの技術担当取締役ハリー・ウェブスター(H.Webste
r:) は,出発のためもっとも手取り早い方法は,現存の製品を取り上げ,それを改 良することであると提言した。同社の技術者達は,マイナ-(1948年発表)が, もし改良を怠らなければフォルクスワーゲン・ビートルに容易に対抗しうるイ ギリスの答えになりうるという希望的見解をもった。ウェブスターは,マイナー の機械部品(必要なときにそれらを改良する)のほとんどをとり,それらの周 辺に新ボディを置き,現存エンジンを使用することによって 1970年モーター・ ショウに間に合うよう計画した。 1968年8月 5日にストークスおよび執行政策委員会は,新モデノレの型を見る ためにカウレイのスタイリング・スタジオに赴いた。彼はほぽ同時にいくつか 倒 FinancialTimes, 15 .January 1970 ( 4日新モデル開発には現存エンジンを使用するとしても約5千万ポンドを要し,主要なフェ イス・リフト又は「リスキニング」のための装備をするだけで約 2千 5百万ポンドを要す る (CPRS(1975),p. 23). 仰') Williams et aL, p.228ω
以下,マリーナにかんする叙述は, Turner (1973), Chapter 11に依っている。17 イギリス型近代化の挫折 -17 他の重要な決定をおこなった。彼は
AD028
ーマリーナのコード名ーの立地選 択としてカウレイを選び,現存の工場が古く操業困難であり,もし新車が1
つ の場所で組立てられ仕上げられるとすればあまりにも小さすぎ,カウレイを近 代的なボディ製造および組立工場に改造するために大規模新投資が必要である ことに同意した。彼はただちに5
年以内に4
千万ポンドを支出する第1
次計画 を承認した。その目的は生産および工場開輸送コストを切り下げることにあり, そのためにAD028
のすべてのボディをカウレイで生産する施設を設置し,エ ンジンはロングブリッジから調達すること(ロングブリッジから輸送される1
つのエンジンの輸送コストが5
0
ペンスであったのに比し,スウインドンから1
つのボディを輸送するコストは約2ポンドであった)が必要であった。この計 画の第1
局面は,車1
台当り全体で1
2
ポンドの節約を約束し,その中5
ポンド はほとんど3分のlだけ必要労働者数を削減するであろうプレスト・スチール の新式オートメ化塗装工場の建設からのものであった。 ストークスは又2
8
の計画がその週当り生産が6,0
0
0
台となる基礎で進行し, その車種系列のもっとも安いモデルの価格が,付加購入税控除前で5
7
5
ポンド であろうと想定した。ツー・ドア・ファーストパックが1
9
7
0
年モーター・ショ ウに向けて開発され,フォー・ドア・ハッチパックが4"-'6カ月後に登場する ことになった。この時までに新モデルの総コストは1
,6
7
0
万ポンドと推定され た。 しかし需要の上級移行という市場変化に照して,2
8
についてのアイデアが急 激な改訂をうけた。最大の成長がコルチナ車サイズで予想されるが,2
8
の予想 能力を上回る1
2
0
0
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-
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2
0
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0
c
c
のエンジン・オプションを持つ必要があった。この ことは中型車におけるより大きなパワーであり,この予想、は2
8
の企画において 正当に反映された。政策委員会は,それがすでに現在のコルチナにきわめて接 近しており,それはBLにもしエンジン・オプションが充分であればもっとも急 速に成長する部門への参入をもたらすだろうことを認めた。かれらの結論は, コノレチナのより強力な変種および他の製造業者の新モデルの双方に対抗するた めに2
8
のエンジン範囲を拡張し,1
1
0
0
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1
5
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0
階層をかなり上回るよう拡張す18ー 香川大学経済論叢 18 ることであった。ターンブルは「もしわれわれがそれらを性能で追い抜くなら ば,われわれは明白なマーケティング優位をもっと考える」と述べた。そこで ストークスは
2
8
のエンジン部門が当初計画されたものより大きなエンジンの 全範囲をとるに充分大きいことを確保するようウェブスターに要求した。次第 にこの乗用車についてのウェブスターの当初の考えが修正され,たえずそのコ ストが一部には専門化の変更のため,一部にはそれらを統制する有効な機構が ないために上方に移動していった。ウェブスターが述べたように「これらの初 期の聞にわれわれは正確なコストが何かについて何らの考えももたなかった」。 これにたいしてパーパアは,はやくも1
9
6
8
年9
月にAD028
の計画利潤が 計画文書に充分に書きつくされていないことに不満を表明した。ストークスは2
8
の生産決定がなされた後詳細な財務的意味づけがなされるであろうと答え た。しかし1
2
月末までにロングブリッジの財務スタッフはコスト上昇のため2
8
の予想利潤はただの1
0
ポンドにまで切り下げられ,受け入れられるものか らきわめて遠いと報告した。ターンフソレは間接費の充分な回収に加えて2
5
ポン ドの会社利潤は受け入れられるものであるが,小売価格はそれを達成するため に5
8
0
ポンド以上に押し上げられねばならないという方向をとった。 不幸にも彼の予想、は空しかった。翌年2
月までに2
8
の現行コスト表は利潤が ほとんどないことを示した。ターンプ、ルが示唆した価格(
5
8
0
ポンド)で市場に 出されるならば損失を計上し,もしフォードの新コノレチナ(
1
9
7
0
年型)と同じ6
2
0
ポンドに引き上げられれば控え固な利潤を生みだすことが報告されたが, このことは2
8
がコルチナと同じ大きさでないので特に対策とはならなかった。2
8
がおそらく5
8
0
ポンドで損失を出すというニュースは事実ターンブノレを かなり驚かせた。彼はコスト削減行動を遂行することを主張し,高コスト領域 である2
8
の2
片プロペラシャフト,そのトリムおよびステアリング設備のコス ト削減を提案した。2
8
の目標は間接費および利潤にたいする1
5
0
ポンドの寄与 であり,価格は当初6
2
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ポンドが提案され,6
0
0
ポンドに1
6
ポンドが上乗せさ れた。その額は丁度フォードがコルチナの価格を引き上げた額に相当するもの であった。2
8
計画の総コストも又2
,1
0
0
万ポンドへと再び上昇した。19 イギリス型近代化の挫折
-19-2
8
の車名もメージャー,ミラージュ,ミストラノレおよびマリーナのなかから モリスを連想させるマリーナが選ばれた。1
9
6
9
年末までに2
ドアと4
ドア車種 系列が同時に発売され,その車種範囲も当初から3
つのエンジン・サイズでは なく,2
つのエンジン・サイズすなわち1
3
0
0
,1
8
0
0
および1800GT
からなった。 「われわれはエンジンについてあまりの多様性をもつことを欲しないことを決 意したが,充分なトリム・オプションを提供することができることを欲した」 とターンブルは述べた。 マリーナの目的は1
1
0
0
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1
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および計画中の新しい1
7
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モデルの聞 の製品ギャップを埋めることを意図しており,1
1
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1
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0
車種において競争者 からビジネスを奪い,モダンなパフォーマンスおよびスタイリングの理由で乗 用車を買う顧客にアッピールし,団体およびビジネス市場における真のオース ハウス・ボード チン・モリス車を提供することを目的としていた。それは「住込み用屋形船」 のような荷物入れをもち,1
3
0
0
マリーナはエスコート,ビパおよびアヴェン ジャーにねらいをつけ,1
8
0
0
はコルチナおよび大型ビパを標的とした。車の内 装次元でも又コルチナの対応物にきわめて接近していた。 販売業者は,会社の全般的戦略におけるマリーナの決定的重要性を強調した。 圏内フロントにおいて BLの指導的地位の再確立がニュー・モデノレの成功に大 きく依存していると述べ,それは最初のまる1
年において市場の9
%,1973-
4
年までに11%
を獲得することを期待した。他方,輸出市場においても販売業者 はマリーナがヨーロツパへのBLの浸透を強化する上で主要な武器になるだろ うことを希望した。彼らの指摘によればこの会社はミニ(それは大陸におげる その販売の70%
を占める)にきわめて大きく依存しており, ミニはその低い営 利性のために,それが直面する競争の激化および小型車がヨーロッパ市場の成 長分野でないことを考えると最上のディーラーをひきつけるための充分な有効 な基礎ではなかった。 カウレイにおげる大賃金紛争によって完全生産は遅らされたが,ひとたびそ れが解決されるとマリーナは組立ラインからあふれ出はじめた。1
9
7
0
年が進む につれてロングブリッジおよび、パ、ークレイスクウェア本部の設計者の間で20- 香川大学経済論叢 20 ニューモデルへの着実な信頼の増大もあった。その年の初めには満足すべき利 潤を生むマリーナの能力について極度に疑問がもたれたが 6月までにコスト 管理者の信頼をえ 7月にこれまで会社が生産したもっとも利潤のあるモデル であることが認められるようになった。1l 00~1300 より 30~40 ポンドよけい に利潤があり,フォードの平均とあまりへだたっていない200ポンドの間接費 および、利潤への寄与をなした。 ターナーは,もしマリーナが予想数量を達成すれば BL に 1 , 500~2 , 000万ポ ンドの追加的年間利潤をもたらしていたと推定している。目標数量は週当り 5,500台のピーク(年間286,000台)におかれ,それが達成されればコルチナと 渡り合ってB Lは強力なカムバックをなしたであろう。ところがマリーナの年 間生産はそのピークをなした1972-3 年においても 10~12 万台にとどまれ 他の年にはそれ以下にとどまった(第
3
表参照)。われわれはつぎに生産ののび 悩みの要因を見なければならない。 第3表 イギリス市場における BL主力車種販売高 オースチン・モリ オース/チ13ン・モリ モリス・マリーナ オースチン・アレ ス・ミニ ス1100/1300 グロ 1968 86,190 151,146 1969 68,330 133,455 1970 80,740 132,965 1971 103,180 133,527 41,164 1972 96,314 102,449 104,986 1973 96,383 59,198 115,041 28,713 1974 89,686 7,890 81,444 60,619 1975 84,688 78,632 63,3395
.
競争力低下とその要因(2
)
ロングブリッジおよびカウレイにおける大量生産組立工場がマリーナおよび アレグロ生産のために6千万ポンド以上の費用で近代化されたことは,短期の 側 Daniels (1980), p..189より作成。21 イギリス型近代化の挫折 21-会社の生存を確保した。しかしそれらは国際市場で長期にわたって競争する力 やストークがより関心をもった収益性を確保するには充分でなかった。収益性 を多額の投資なしに上昇iさせうる方法は,合理化一賃金抑制とスピード・アッ プーによるものであった。そのためには
1
9
6
0
年代に失われた経営の「労働コス トへの支配力を再確立すること」が急務であった。過去からの望ましくない遺 産である出来高払制度を作業組織および賃金交渉の結果の双方にたいして大き な支配を与える他の制度に代替することを必要とした。その制度が計測日給制(MDW)
であり,1
9
7
0
年におけるカウレイでのその導入は r最終解決」の始 まりを画するものであった。本稿は労使関係の分析を主題としていないので詳 細は割愛するが,それがデリパリの遅れ,したがって生産の中断にたいして重 要である限り避けて通ることはできないであろう。 BLの設立以来ストークスは,生産を中断させる労働争議の防止と生産性の 上昇をともなわぬ賃上げの抑制を労働関係改革によって達成すべき課題として 把えていた。とくに1
9
6
9
年のBL社長の事業報告において過去1
年間に1
0
万
台以上の乗用車と2
千台のトラックが内外の労働争議によって失われたと報告 し,これらの争議が会社の利潤に影響することに懸念を表明した。さらに1
9
7
1
年の社長の事業報告において「久しく続いた賃金制度を変えることは,経営者 と従業員双方のライフ・スタイルを変えることである」として,マリーナに出 来高賃金制にかえて計測日給制を採用することを報告している。生産の継続を 確保し,成功の鍵となる新モデル採用を効率的にするために新賃金制度は大量 生産経営において特に必要であったのである。 ストークスはその労使関係改革を押し進めるために1
9
6
9
年1
1
月末に機械産 業雇主協会 (EEP)の理事をつとめていたP
ラウリィをBL全体の労使関係担 (50) Management Today, August 1972(51) Cowley IMG (1975)Lのlandin Crisis: Cowlの,Iunder Fireoこの文献については,戸
塚秀夫
(
1
9
8
3
)
,rイギリス自動車工場の労使関係(二)ーブリティッシュ・レイランド・ カウレイ工場の事例調査一J,r社会科学研究』第34巻5号, 52-3ページの注参照。 (52) BL, 1969 Rψort and Accounls, BL Limited, p..24..-22 香川大学経済論叢 22 当重役として迎え, 1970年 10月に出来高賃金制の撤廃を政策目標リストで最 優先権を与えた。 1カ月後の組合とのトップ会談でも「合意J (mutuality) が 維持される限り計測日給制を受け入れてよいという同意をえて, 1971年 1月よ り賃金改革が開始された。その後の経緯については「カウレイの 4年戦争」と して詳細に紹介されているので割愛し,本稿では労働組合の「戦闘性」の根底 にあったスタグプレーション下の労働者の生活の一端を壇間見ておこう? D パ一トン (DavidBarton)は, 1970年代初めからマリーナを生産するカウ レイの BL組立て工場の塗装工場の塗装工として働いていた(:6)16,O00人の工 場労働者はもし仕事が順調なら週 40時間で 49..40ポンドをえていた。夜勤の場 合は週 60ポンド以上を稼ぐことができた。しかし工場での数カ月にわたる紛争 によって何等の保証賃金なしにレイオフされた。会社は他工場の争議によって 仕事ができない場合は彼の週給の80%を支払ったが, 1年間の一定の日数にた いしてのみであった。これがパートンの生活水準にくい込んだ。 1974年初め頃 に彼は週 10ポンド以下を,クリスマス前以降には平均して 30ポンド程度を持 ち帰った。彼は妻と 6人の子供を扶養せねばならなかった。補助年金 (supple. mentary benefit)が役立つたが,賃金金額支払いの代わりにはなりえなかった。 他の労働者も大同小異で
1
婦人は「私の夫は組立て工場のラインで働いて います。彼は現在より5
年前の方がより多くの賃金を持帰りました」と述べた。 多くの家族は争議期間中にまったく貯金を食いつぶしたわけではない。人々は 制 戸 塚 秀 夫 他 箸 (1987)w現代イギリスの労使関係上一自動車・鉄鋼産業の事例研究一』東 京大学出版会。 (日)後に労働組合「左派」にたいして強圧的な態度で臨んだM エドワーズ社長も,その「戦 闘性」の背景に「競争力強化ーコスト切り下げー賃金切り下げー」という経営側の攻勢の あったことを認めている (Edwardes(1983), p.. 133)。 (日)iTaylorR.(1974) 'The Cowley way of work', New Socie(y, 2 May 1974, pp..251-253 (57) 賃金の国際比較は種々の要因を考慮しなければならないが, 1973年の為替相場で換算し た場合フォード・ニー/レ工場 (24,200人の労働者のうち 12,000人はトルコ人労働者)で は,採用時に不熟練労働者が週 40時間で 43..92ポンド,熟練労働者は 50.61ポンドを得 ており,両国のインフレ率の差(イギリス 9.2%,西ドイツ 69%) を考慮すれば,その 差はもっと大きいものと思われる(佐藤忍「トルコ人ストライキJ“(Turkenstreik ")ーガ ストアルバイター問題の転換点、としてー」研究年報「経済学JVo.l46 No 1, May 1984, 89ページ)。
23 イギリス型近代化の挫折 23-庭の手入れやタクシー運転のような臨時的仕事をしばしば見出した。ほとんど の妻たちは仕事をしており,ストライキに対する指導的なカウレイ・プロテス ターとしてジャーナリズムを賑わしたミラー夫人
(MrsC
a
r
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M
i
l
l
e
r
)
も掃除 婦としてパートタイムの仕事をもっていた。しかしカウレイのショッピング・ センターは何カ月も営業不振で,とくに背広,家具およびテレビの売行きが落 ち,スーパーマーケットでも顧客が以前より安い食料品を買うようになった。 ホリディプランも多くの自動車労働者によって棚上げされ,コスタ・デ・ソル へのパッケージ旅行は幻となった。「ゆたかな労働者」の逆説は崩れ, 1974年の 2度の総選挙による労働党の勝利は,その政治的表現であった。 つぎに計測日給制の採用が生産および生産性に逆作用をもったもう 1つの理 由について見ておこう。出来高給工場においては比較的少ない管理と組織しか 必要でない。これにたいし計測日給制はインダストリアJレ・エンジニア(作業 研究専門家)という新しい管理者を必要としたが, BLは出来高給の存在のため に訓練された管理者の予備ももたず,問題を処理するのが遅かったと思われる。 事実, 1971年3月経営側は作業研究を遂行するためにマリーナ・ラインにイン ダストリアル・エンジニアを採用した。しかしインダストリアル・エンジニア の受け入れは,疑いもなく上級ショップ・スチュワードから工場内での主要な 権力を奪うことを意味したため交渉が難航した。前身のプレスト・スチーノレに おいて2
0
年にわたって組合支部役員が同時に上級スチュワードであるという 伝統をもっボディ工場と違って,組立工場ではそのような関係がなく,上級ス チュワードは直接職場で選出されるのではなく, 2年ごとに他のスチュワード (回:) 1974年 4月 10日BLカウレイ工場の経営側が T&GWUのli'ID!上級ショップ・スチュ ワードの組合代表としての資格を剥奪したことから 1カ月以上に及び大争議が発生し た。組立工場の労働者の主婦たちが戦闘分子を非難する抗議行動を展開した。この点につ いては, Cowley IMG (1975)参照。 (5骨 高橋哲雄「ゆたかな労働者の逆説-1950年代末の労働運動の変質一Jr甲南経済学論集』 12-1 (131), 1980年7月。 制) イギリス自動車工場におけるショップ・スチュワードの役割については, Beynon, H (1973) Workingル
rFord (London: Penguin) (下回平裕身訳『ショップ・スチュワー ドの世界』鹿砦社)参照。-24- 香川大学経済論叢 24 によって選出されたため大きな自治をもっており交渉は泥沼化し,-インダスト リアル・エンジニア協定」として知られるM D W交渉の調印がなされたのは1 年後の1972年12月であった。このように労働組合が強大であるから経営困難 に陥ったのではなく「会社と組合の双方のリーダーシップと争いを起こすきわ めて少数の労働者」による会社と組合の労働過程への統轄の弱体化が経営危機 を惹起した。出来高給の終わりは旧い問題を解決すると同時に新しい労働問題 をつくり出し,経営側はそれに対応することができなかった。計測日給制でマ リーナを生産する協定をうるために BLは賃金の大幅引き上げを行うことを強 制されたのみでなく,-合意」に同意することによって労働過程における要員数 レベルと仕事割当に対する統制を失い,-経営真空」を招いたのである。この点 は雇用管理,賃金管理および要員管理を三位一体として経営の優位のもとで新 しい企業戦略を展開したフオルクスワーゲン社と比較して顕著な特質をなす。 BL問題の核心は「非公式な統轄が非公式なレジスタンスを生んだ」点にあり, 非公式な労使関係のほとんど存在しないV Wと対照的である。 かくして BL の 1972~ 3 年の 1 台当りコストは 1967~68 年のそれより 8% 高く,生産性は低下した(:5)労働争議によって年間
1
5
万台の乗用車を失つたこと は,収益性に打撃を与えたのみでなく,短期的にデリパリを遅らせることによっ て,さらに長期的にパブリック・イメージを損なうことによって会社を破滅に 導いたのである。 6向 ファイナンス上の不利 以上のようなBLの競争力低下によってその営業実績は,その設立以来極め ( 6)1Taylor (1974), p.252 (位) Edwardes (1983), p.81 (日)徳永重良編著 (1985)r西ドイツ自動車工業の労使関係』御茶の水害房参照。 (帥上掲書,169ページ。日英独の労使関係の比較にかんしては本書279ー285ページの興味あ る叙述参照。 (65)Pryke (1981), p..222. ( 的)iWilliamsetaL (1983), p..25325 イギリス型近代化の挫折 25-て不振をきわめたが,この停滞性は財務状態にどのような影響を及ぽしたであ ろうか。ライダー報告書はこの点についてつぎのような評価をおこなっている。 「過去の営業成績の吟味は,
BL
が1
9
6
8
年に設立されて以来の期間中利潤は全 体として不充分であり,生存能力ある基礎で事業を維持するには不充分であっ た。事態を一層悪くしたことには,ほとんどすべての利潤は,新資本投資を融 資するために留保されるかわりに配当として分配された。BL
の固定資本の大 部分は旧式で充分に帳簿価格を切り下げられていた。したがって償却支払は, 資本取替えに支出されるべきであったもののうち不充分な割合でしかなかっ た。運転資本も危機的レベルに引き下げられた」と。われわれは以下において1
9
6
8
年設立以来のBL
の営業成績を各年次の株主総会における社長の事業報 告の要約によって検討しよう。イギリスの会計年度にしたがって各年は前年の1
0
月1
日からその年の9
月3
0
日までの経営成績を示す。1
9
6
8
年9
月3
0
日に終わるBL
の最初の会計年度はBMH
が以前に行った 事業の1
4
か月およびレイランド・モータ一社のそれの1
2
か月をふくむ。利潤 は合併時に予想されたものよりかなり良好であったが,それは一部には市場が 会計年度末までを通して浮揚し続けたこと,又一部には合併がきわめて早急か っ手際よく進んだことによる。1
9
6
9
年 本会計年度の税引前利潤は,前年記録された3
7
.
.
9
百万ポンドに比 して4
0
.
.
4
百万ポンドであった。昨年度の数字はポンド切り下げの結果とし通貨 にたいする1
ゅ8
百万ポンドの一回限りの利潤をふくんだ。BL
設立のこの最初 の全l年の利潤の増加は予想より小さかったけれども,この産業の乗用車の総 販売が7
年間で最低であり,利潤のある国内市場における厳しい信用制限を考 慮すれば信用しうる実績であった。1
9
7
0
年本会計年度の税引前利潤は,前年度の4
0
..41
8
百万ポンドに比して3
.
.
9
3
2
百万ポンドであった。利潤が前年度より低かったのは大いに労働争議に よる生産喪失の増大と販売価格に充分転稼できない過度のコスト・インフレ率 価7) Ryder Committee (1975), p 4 極的 BL, Retoげ andAccounts, various years26- 香川大学経済論叢 26 の結果であった。 利潤はスベシアリスト車,トラック・パスと特殊製品およびブリティッシュ・ レイランド・インターナショナルーそのいずれもが利潤があったーの稼いだ 印刷884百万ポンドの利潤とオースチン・モリスおよび製造グループの 15..952 百万ポンドの損失の純結果であった。 1971年本会計年度の税引前利潤は前年度の 3..932百万ポンドに比して 32“ 398百万ポンドであった。本会社の全ての 5部門で利潤があった。オースチン・ モリスおよび製造グループの回復は新モデルと新工場の発足によってコストが 増大した年に達成されたことは特質に値する。乗用車および、パンの販売高は, 前年度の49万台に比して, 52万 6千台にのぽり,イギリス乗用車市場における オースチン・モリスのシェアは28.9%から 295%に増大した。 1972年 本会計年度の税引前利潤は,困難な環境と南アフリカ会社の深刻な 停滞にもかかわらず,前年度の32..398百万ポンドに極めて近い 31“899百万ポ ンドであった。 われわれの主要な合理化計画が実を結びつつあり,われわれのキャッシュ・ ポジションが大いに改善された現在,われわれは長期の成長と将来の成功のた めに一層の投資をしなければならない。 1973年 本会計年度の税引前利潤は,前年の31.9百万ポンドに比して 51.3 百万ポンドであった。レイランド南アメリカの収益'性への復帰および一部労働 コストおよび価格に充分転嫁できない原料コストの上昇によって相殺されたが 能率の絶えざる改善によって可能とされた。 1974年 本 会 計 年 度 の 税 引 前 利 潤 は , 前 年 の 51..3百万ポンドに比して 2..3 百万ポンドであった。その結果は大いに週
3
日労働日およびその他内外の労働 争議によって影響されたが,原料,賃金および利子支払いにたいする 190百万 ポンドのその年のコスト上昇をもたらした加速されたインフレ率によっても影 響された。 本年度についてはとくに本会計年度以降の事件について言及し,会社の主力 銀行が追加的資金の調達を断ったこと,政府が政府援助のため調査団を任命し27 イギリス型近代化の挫折 -27-たことに言及している。 このようにして 1974年12月18日に任命されたライダー委員会はその報告 書において同社の財務上の不利の「症候群」をつぎのように要約している? 1帥 販売された自動車のタームで年間生産高は,このグループの設立以来重 大な変化はなく,最高と最低の年は全期間の平均年間販売高の9 %以内にとど まった。この期間を通ずる制限的要因は生産能力であり,1970年と 1974年の2 つの最悪の年には大きな生産喪失に苦しんだ。 2引 税引前営業利潤の趨勢は, 1970年と 1974年の特に貧弱な成果も含めて 生産高の趨勢を一般的に反映する。 3" 主要な点はこの期間中の税引前利潤は不充分であった。売上高利潤率を 見れば,それは4 2 %(1969年)より高くならなかったし,全期間中の平均率 はただの
2
,3%
であった(第4
表参照)。 第4表 税引前利潤および売上高および資本利潤率 (BLおよびフォード) (百万ポンド) プ リ テ ィ ッ シ ュ ・ レ イ ラ ン ド フ オ ド(UK) 税(損引前利失潤) 売前上利高潤率・税(%引) 資利本潤・率税(引%前) 税(損引前利失潤) 売前利上高潤率・税(%引) 利資本潤・率税(引%前) 1968 38 39 11 9 43,0 8,,8 23,,6 1969 40..4 4,,2 12,0 38,,1 7,1 19 7 1970 3 9 0,4 1 2 25 2 4,3 116 1971 32.4 2,8 9 5 (30 7) (5,2) (12,8) 1972 3L9 25 8,4 46,,8 5 9 18..4 1973 5L3 3 3 12,2 65..4 7 3 23 6 1974 2,3 0,1 0,6 8,7 0,9 3,0 1975 (76, 1 ) (4 1) (30,2) 14,1 L2 4..44
この利潤の低水準にもかかわらずBL
はこの期間中にそれらのほとんど すべてを配当として分配した。すなわち全期間中例外的項目をふくむ支払後の 純利潤は7,400万ポンドに達し,そのうち 7,000万ポンドが配当の形で支払わ れた。われわれの見解ではこの政策は明らかに間違っている。(69) Ryder Committee (1975), chapter 4 (