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鎌倉期の小早川氏に関する若干の考察

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(1)

鎌倉期 の小早川氏 に関す る若干 の考察

歴史学教室 ― は じめ に 小早川氏 は相模 国の上肥郷 を本拠 とす る土肥氏の分流で

,安

芸国の沼田庄 を中心 に

,西

国に勢力 を張 った在地領主である。同氏 は西遷武士団の典型 として早 くか ら取 り上 げられ

,多

くの優れた研 究が積み重ね られて きた伊その結果,現在では「鎌倉期小早川氏 の存在形態 はす こぶ る精明に把握 さ れるにいたってお り

,基

本的な問題 で追加すべ きことはあ りえないかのように見 える」 というよう な評価②があるほどである。確かに

,大

きく見ればその ような評価 に誤 りはない。しか し

,仔

細 に見 る時

,未

だ充分 に検討 されていない基本的な問題 も幾つか残 されているように思われる。 例 えば

,土

肥実平の曽孫である茂平への譲与 は誰 か ら

,ど

のようになされたのか

,ま

,茂

平の 子の経平・ 忠茂等 はどのような所領 を譲 られていたのか

,な

どの点 については

,

これ まであ まり言 及 されていない。 さらに

,経

平 は小早川氏一族の中ではどの ような立場 にあったのか

,

という点 に ついて も同様 である。 これ らの諸点 は

,鎌

倉期の小早川氏の動向 を精密 に跡ずけるとい う面で欠 く べか らざる問題であるのみならず

,そ

れ らを究明す ることによって

,小

早川氏像 に新 たな一面 を付 け力日えることがで きるように思 う。 そこで本稿では

,茂

平・季平への所領譲与の様相

,経

平・ 忠茂系の所領の検 出等の点 について考 察 を力日え

,さ

らに

,経

平系の位置付 けについても若干触れてみ ることにしたい。 三 茂 平・ 季 平 へ の譲 与 沼田庄の茂平・季平への譲与 については

,こ

れ まで一向に問題 にされたことはなか った。おおむ ね

,遠

平か ら景平へ伝 えられ,その後茂平・季平の間で分割譲与 された とされていて

Pそ

の間に込み 入 った事情があった ことを主張す るものはない。 しか し

,そ

の譲与の実態 を仔細 に検討すれば

,一

見 して尋常ではないことに気が付 く。以下

,そ

の点 について詳 しく述べることにしよう。 茂平・ 季平への譲状 は残 されていないので

,直

接知 ることはできないが

,文

3(1266)年

4月 9日「関東下知状ω」― ―故茂平 (代官重兼)と 竹王丸の間の相論 に対 して下 された もの一― に関連 する記事が数多 く見 られ る。 それによれば

,茂

平が「建永二年四月五 日御下文」 によって沼田庄地 頭に補任 された ことは確かである

0(1条

)。 その下文中には,「下安芸国沼田住人

,補

任地頭職事, 任祖父遠平親父景平譲状

,補

任彼職」 という文言があった ことが知 られるが

,こ

こでゃゃ不思議な 勤 織

(2)

錦織 勤:鎌倉期の小早川氏 に関す る若干の考察 小早川氏略 系図 実平――遠 ことは,茂平が景平譲状 だけではな く, 「遠平・ 景平の譲状 に任せ補任す」 と 言われていることである。通常

,譲

与 は誰か一人の譲状があれ ば充分であっ て

,二

人の譲状があるとい うのは

,む

しろ不 自然である。 ただ この場合

,あ

るいは次のような 可能性 が考 え られ るか もしれない。つ まり

,下

文で は

,遠

平か ら景平 という 時間的経過 を念頭 において このように 表現 したのであって

,必

ず しも茂平が 二人の譲 りを受 けた というわ けではな い という可能性である。茂平 は景平の 譲状 を得ただけであったが

,景

平 は遠 平の譲 りによって所領 を相続 している わけであるか ら

,下

文の右 の文言 は, 茂平相続の根拠 を遠平 まで遡 って表現 した ものである。詳 しく言 えば

,こ

の ように解釈す るのである。 しか し

,事

実関係 をよ り細 か く見てい くと

,そ

れ 備考;「/1ヽ早川家系図」(本文注 〔8)参照)に より作成 が成 り立 ち難 い論であることは直ちに明 らかになる。 というのは

,建

2(1207)年

の下文 は景平の譲状ではな く

,遠

平の譲状 を受 けて出 されている と考 えられ るか らである。同下文 に先立 って,「建永元年六月廿 日譲状」が存在 し

,そ

れ は「沼田庄 惣地頭井公文検断沙汰者

,以

茂平定彼職畢

,有

何小地頭 にて も

,上

の御公事惣て庄内の沙汰者

,為

茂平之計可奉行

,余

人全不可有違乱云々」とい う内容の ものであった ことが知 られる

(1条

)。 とす れば

,翌

年の下文が この譲状 を受 けた ものであることは明瞭 と言っていい。 ところで

,当

下知状の 別 な箇所 (11条

)で

,鞍

日重兼所進遠平建永元年六月廿 日譲状者

,沼

田庄惣地頭公文検 断沙汰者, 以茂平定彼職畢云々」 と言われている。前出の差出人 を記 さない譲状 と

,

この速平譲状が同一の も のであることは

,日

付 の点

,そ

の内容か らみて

,改

めて言 うまで もないほどはっきりしている。そ して

,こ

の部分 の「遠平」が「景平」の書 き誤 りでないことは

,第

12条で も「重兼所進遠平建永元 年状」 とか「本仏 (茂平

)得

遠平譲」な どと言われていることか ら確 かである伊 そうなると当然

,茂

平は

,景

平ではな く遠平か ら

,沼

田庄 を譲 られた ということになって くる。 もちろん

,下

知状 に遠平の譲状 を受 けて下文が出 されたように記 されていて も

,そ

れだけで

,遠

平 譲状のみを受 けた ものであるとは断言で きる ものではない。換言すれば

,下

文 が遠平譲状 と共 に 景平譲状 をも受 けている可能性 は

,前

記の記事 だけか らでは否定 しきれないのである。 とはいえ, これは論理的な可能性 で しかない。現実的には

,普

,一

人の人 に対 して

,そ

れ も同 じ所領 を対象 として

,さ

らに同 じ時期 に

,祖

父 と父 との譲状が与 えられ るということはあ りえない ことと思われ る。やは り

,茂

平 は建永元年 に遠平か ら沼田庄 を譲 られ

,そ

れに基づいて翌

2年

に幕府 の下文が出 された

,と

す るのが妥当であろう。先 にも引いたが

,第

12条の「タロ重兼 申者

,(中

略)本仏得遠平譲」 という記事 もこれ を裏付 けていると思 う。

(3)

鳥取大学教育学部研 究報告 人文 。社会科学 第 35巻 けれ ども

,こ

のように言 うことは

,景

平 か ら茂平への譲状 (に類するもの

)が

存在 しなかった こ とを意味す るものではない。幕府の下文の「遠平景平譲状 に任せ」 という記事か ら

,

この譲与 に景 平が関与 していた ことは明 らかである。 そ して この場合

,遠

平か ら景平への時間的経過 を念頭 に置 いた もの

,

とい うような解釈の余地 は全 くない。 とすれば

,景

平の譲状 (に類 す る もの

)も

あった ことはほぼ自明の ことなのである。ただ

,先

記の ごとく

,そ

れが建永元年の遠平の譲状 と同時 に, もしくは同 じ重みを持 って出 された もの とは考 え難 い。 とすればここに

,茂

平 はなぜ景平でな く遠 平か ら沼田庄 を譲 られたのか

,ま

た景平 も茂平へ譲状 を書 いているのはなぜか とい う疑間が出て く る。 これを第一の問題 としよう。 ところで

,

季平の場合 にも同様の事情が認 め られる。彼 を沼田新庄 地頭 に任 じたのは

,建

暦3 (1213)年9月 3日の「御下文」であるが

,そ

れには「将軍家政所下

,

安芸国沼田庄内新庄

,補

任 地頭職事

,平

季平

,任

祖父遠平井親父景平譲状

,為

彼職

,守

先例可致沙汰云々」 とあった

(1条

)。 この場合

,茂

平の時 のように下文が遠平譲状 を受 けた ものである

,

という確証 はない。 しか し

,茂

平のケースか らみて

,季

平 も景平ではな く遠平譲状 によって沼田庄新庄 を譲 られ

,ま

た景平か らの 譲状 も存在 していた というように考 えて差支 えなか ろう。 それでは

,そ

れはなぜだ ったのか。 これ は

,い

わば第一の問題の亜種 であるが

,第

二の問題 としてお く。 さて

,第

,第

二の問題の解決 は後回 しにして

,第

三の問題 を指摘することに しよう。 それ は譲 られた所領の内容 に関することである。建永元年の遠平譲状 には「沼田庄惣地頭井公文検断沙汰者, 以茂平定彼職畢」 と記 され

,ま

,建

2年

の「御下文」では「下安芸国沼 田庄住人

,補

任地頭職 事」とされている

(1条

)。 地頭 に「惣」字が付 くか付かないかは

,ま

さに この相論 自体 の重要な論 点であった し

,こ

こで結論が出るような問題 ではないが

,少

な くとも

,茂

平が譲 られたのが沼田庄 全体であって

,彼

が後 に知行 していた沼田庄の本庄・ 同安直方

(1条

)だ

けでなかった ことは確実 である。 ところが

, 6年

後の建暦

3年

の将軍家政所下文 によって,「祖父遠平親父景平譲状 に任せ」 て

,季

平が任 じられたのは「安芸国沼田庄 内新庄」であった

(1条

)。 つ ま り

,建

永段階で一旦茂平 に譲 られている沼田庄の一部分が

,今

度 は別人 (季平

)に

譲 られたのである。 この ような譲与 自体 は全 くあ りえない ことではないが

,そ

れが僅か

6年

後 になされた ことに

,や

や不 自然 さが感 じられ る。 しか も

,こ

れが第一 。二の点 と密接 な関係 を持 っているように思 えるか ら尚更 である。一体 な ぜ このような重複 した譲与がなされたのか。 これが第二の問題 となる。 第一 。二の

,譲

与の世代的な不整合 については

,素

直 に考 えれば先ず次のような可能性が思い浮 かぶ。 それは景平の早世である。す.なわち

,景

平 は遠平か らの譲 りを受 けたのち

,そ

れ を茂平 と季 平 に譲 った。 しか しその後

,遠

平の存生中に早世 して しまったため

,遠

平が改めて二人 の孫 に譲状 を書 いた

,

とい う事情 を想定するのである。 この場合

,実

質的には遠平か ら茂平への譲与がなされ た ことになるわ けであるが

,一

応 それが父景平の意志 に背いていないことを示すために

,下

文では 「任祖父遠平親父景平譲状」 と言 っていると考 えることになる。 しかし

,こ

の論には大 きな欠陥が二つある。一つは

,

もし遠平存生中に景平が死去 した というの なら,論理的に言えば遠平から景平への譲状 は未だ発効 していないのであるからη幕府が安堵の根拠 とすべ きは遠平譲状だけでよかったはずであ り

,景

平譲状 まで持ち出す必要はなかった と言えるの である。 ただし

,当

時それほど厳密に譲状の発効について認識・ 区別 していたか否かは

,私

には明 らかで はないし

,あ

るいは上記の

,遠

平から孫への譲与が景平の意思に背 くものではない ということを示 すために

,敢

て法的には不必要な景平譲状 まで持ち出した

,と

いう解釈が成 り立つ余地 もあるかも

(4)

錦織 勤:鎌倉期の小早川氏 に関す る若千の考察 しれない。 けれ ども

,次

に述べる点 はそのような余地のない事実であると思 う。 それは

,景

平が早世 したため譲状が二重 になった とい うのでは

,二

人への譲与物件が重複 してい るのが説明で きない とい うことである。 なるほ ど

,茂

平への譲与だ けを取 り上 げるな ら

,景

平早世 で説明が付かな くはないか もしれない。 しか し

,そ

うした場合

,茂

平 と季平への譲与 は

,景

平の早 世時 にそのようになっていた ことにな らざるをえない。 とすれば

,彼

が生前 に茂平へ沼田庄全体 を 譲 りなが ら

,同

時 に季平へは沼田庄新庄地頭職 を譲 っていて

,遠

平 もまた

,景

平の譲状の ままに譲 状 を記 した という不可思議なことを承認せ ざるをえな くなる。茂平 と季平への重複 した譲与が

,共

に「祖父遠平親父景平譲状」 によってなされ とい うのであれば一一 これは幕府 の公文書であ り

,一

応信用 に足 ると思 う一―

,景

平が生存 していて両方の譲与 に何 らかの形で関わ っていた と考 えるし か説明の途 はない。 この点 を満足 させつつ

,二

重の譲状の存在 をうま く説明す るにはどういう事情 を考 えれ ばいいの であろうか。 ここで注 目すべ きは譲状が作成 された建永元年 とい う時 と

,景

平の出 自である。 景平 は「小早川家系図①」では,「養子

,平

賀殿御 子息一人可奉養之由

,遠

平以書以 申入之処

,尤

可為神妙之由

,融

彼状右大臣家被出御返事畢

,御

自六歳為遠平之養子

,改

姓船平畢」とされている。 また,『尊卑分脈』で も

,景

平 は平賀義信の子 となっていて

,右

肩には「小早川二郎」という注記が ある。 そ して

,彼

の実兄 の一人が平賀朝雅であった。 朝雅 は北条時政の娘婿で

,時

政室牧 ノ方の籠愛が深か った (『尊卑分脈』)。 時政 は頼家亡 きあ と, この朝雅 を将軍位 につけようとしたが

,子

の政子・ 義時等 に阻 まれ

,時

政 は伊豆 に追放 され る。同 時 に

,京

都守護 として都 にあった朝雅 は討手 をさしむけられ

,殺

害 された。元久

2(1205)年

間7 月26日の ことである

p

さて

,遠

平か ら茂平への譲状の 日付 は

,そ

の11カ月後 の建永元 (1206)年 6月20日 となっている。 先 に記 した譲与の不 自然 さ

,景

平が朝雅の実弟であった ことを思 えば

,こ

の 日付 には何 か深い意味 があるのではなか ろうか という考 えが消 し難 い。すなわち

,次

のような事情 を考 えては どうか と思 うのである。 平賀朝雅が誅せ られて後

,遠

平の脳裏 には連座 とい う懸念が強 く浮かぶよω遠平 は

,景

平 に譲 った 所領が朝雅の罪 に連座 して没収 され るとい う事態 を回避す るために

,一

旦景平 に譲 っていた沼田庄 を

,改

めて孫の茂平へ譲 りなお した。景平 もそれ を承認 し

,そ

の旨の一筆 を記 した。そ して

,遠

平 の譲状 と景平の一筆 (譲状 と言 えな くはない

)を

受 けた将軍の下文 は

,ご

く自然 に「遠平・ 景平譲 状 に任せ」 とい う文言 を記 した

,と

いうようには考 えられないだ ろうか。 この場合

,先

に言 った遠平 と景平の譲状が二重 にあることに対する疑間は,自 ら氷解す る。前 に, 一人の人 に対 して

,同

一所領 を

,同

じ時期 に

,祖

父 と父が譲与することはあ りえない と言 ったのは, あ くまで も一般的に言 って という条件の上での ことで,上記の ような特殊な事情が存在 する時 には, 充分考 えられ ることである。 また

,上

の ごとき事情 を想定することによって

,下

知状 に引かれている二位家和字御文

=北

条政 子書状の言葉 をよ り適切 に理解す ることがで きるように思われる。書状 は「故土肥 か子共孫共 に譲 て有覧所 とも

,其

ままにこそは面々に沙汰 し候 はめ

,何

事 にか とか くの儀 は候 へ き

,如

何 に も ゝゝ 土肥か沙汰 し置た らむま々お可沙汰之由

,各

に も可被仰 と仰事候Jとい うものであった。 ここには, 政子が遠平の意 を汲んで

,景

平か ら茂平への譲 りなお しが認 め られ るように

,す

なわち朝雅の類 が 及 んで故土肥実平の子孫の所領が没収 され ることのないように,「とか くの儀」を申 したて る「面々」 'を 説得 し

,幕

府首脳 の意思 をそのようにまとめて行 った様子があ りあ りとうかが える。尋常 な譲与

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 35巻 であった とす るな らば

,こ

の政子の書状の一言一言が生 きて こないのではなかろうか。 さらに

,前

述の

,景

平が少な くとも建暦

3年

の下文 に先立 つ譲状作成時点 までは生存 していた と いう推論が認 め られるな ら

,彼

が表面か ら姿 を消 して しまった こと一―茂平・ 季平への譲与の様子 の外 に

,承

3(1209)年

に茂平が

,成

田栄願か ら成 田庄 内鶴丸名 を譲 られた時

,そ

れに加判 した のは遠平であった こと (文書

115,13条

)。 ただ しこれ は

,単

純 に未だ遠平が実権 を握 っていた こと の表れで しかないか もしれない一―の説明 も必要になって くるが

,上

記の ような事情 を考 えうるな ら

,き

わめてスムーズに説明で きることになる。 この ように考 えることによって

,第

一の

,茂

平への二重の譲状の存在 に関わ る問題 は説明可能 と なるが

,で

は第二

,第

二の問題 はどうなるのであろうか。 ここで も将軍家政所下文の日付が注 目に 値する。建暦

3(1213)年

9月 3日の下文 を遡 ること4カ 月前 に

,小

早川氏 にとってまことに重大 な事件 が発生 していたのである。 5月 2日 の和 田合戦がそれである。 この乱 と小早川氏 との関わ り については既 に度々触れ られているところである(11)が

,不

思議 なことに

,季

平への下文 と関連 させ て論 じた ものはない。 和田合戦 には

,遠

平の嫡子惟平が和田義盛方 として参加 している。彼 は乱後捕 えられたが,2」首 されたのは 5カ 月ほ ど後の間 9月19日の ことであったよりここで注 目すべ きは

,季

平が新庄地頭 に補 任 されたのが

,そ

れに先立 つ 1カ 月前の 9月 3日 だった ことである。つ まり

,季

平への譲与安堵 は 惟平処刑の直前 になされているのである。僅か

7年

以前の建永元 (1206)年に茂平へ譲 った

,沼

田 庄の内の新庄 を季平 に譲 り直す とい うことには

,何

か尋常ではない ものが感 じられるから

,確

証 は ないが,遠平か ら季平への譲与 はこの乱 を契機 とした もの と考 えることはで きないだ ろうか と思 う。 そして

,遠

平が乱後 まもな く

,こ

のような譲与 を敢 て した となれば

,そ

こに何か特別 な政治的な意 味があった と考 えるのは当然である。 ほとんど自明のこととも思われる惟平の処置に関 しても,「為囚人

,送

数月間

,胎

其侍之処

,終

以 如此云々」と言われてお り,0そ の間に相当の曲折があったことが想像される。遠平の幕府内で占め る位置 と関係 して

,小

早川氏の処遇に関 しては容易に決定 し難いところがあったことは確かであろ う。遠平 としてもその行方は見定め難かったと思われる。 とすれば

,

この時期における季平への譲 与は

,あ

るいは

,遠

平が乱後の幕府 という炉の中へ投げ込んだテス ト・ ピースではなかったか

,

と いう推測 も可能になるのではなかろうか。彼は

,惟

平の類が景平系にまで及ばないことの証 となる ように

, 7年

前に茂平へ譲っていた沼田庄の内の新庄を季平に譲 り直 し

,そ

の安堵を幕府に求めた ように思われるのである。 この ように考 えることが許 されるのなら

,先

の第二

,第

二 の問題 にも答が出て くる。すなわち, 遠平 は先のような事情 で

,景

平系の誰かに所領 を譲与 する必要が生 じた。 そ こで選 ばれたのが景平 次男の季平である。彼 には沼田新庄 を譲 ることになった。それについては

,表

面 に出ないようにな っていた とはいえ

,景

平の同意 も必要であった。 そこで

,幕

府へは遠平の譲状 と

,景

平のそれに同 意する旨の一筆 を添 えて安堵 を申請 した。当然

,将

軍家政所下文で も「任祖父遠平井親父景平譲状」 せて補任する

,

という表現 になって くる。 これが第二の問題 に対する解答である。 第二 の問題 については次のように考 えたい。5月 の乱発生か ら

,9月

の安堵 までの 4カ 月の間に, 急に思 い立 ってなされた譲与 なのであるし

,そ

の間 には惟平の処罰問題 な どもあったか ら

,き

わめ て切迫 した状況の中での ことと推測 され る。 このように

,倉

皇 としてなされた譲与であったため, さしあた り譲 られ る所領が どこであるかはあまり問題 にな らなかった。最 も重要だったのは譲与の 事実 とそれに対 す る幕府の安堵の獲得であったように思える。そのため

,茂

平の もの となっていた

(6)

錦織 勤:鎌倉期の小早川氏 に関す る若干 の考察 沼田庄の内の新庄が譲 られ ることになったのであろう。それが

,後

の ものの目か らす ると

,理

解 に 苦 しむ錯雑 とした譲与 と見 えるのではなかろうか。 遠平の意図 した通 りに幕府の返事が返 って来たむ しか し

,小

早川氏が後 に払わなければならなか った犠牲 は決 して小 さ くはなかった。外 な らぬ この文永

3年

頃の茂平 と竹工丸 との相論 はその付 け なのである。建永

2年

の茂平への下文では「下……沼田庄住人

,補

任地頭職」 となっていた。 その 後

,建

3年

には

,お

そ らく何の断 リーー茂平への譲状の書 き直 し等の手続一― もな く季平へ沼田 新庄が譲 られたのであろう。両者の権利 に相重なるところがあったのは当然であった。季平の代 は, このような譲与の背景・ 事情がわかっているか らまだよかったのであろうが

,そ

れが忘れ去 られた 竹王丸の代 になると

,

もはや裁判で決着 をつけるしかな くなったのではなかろうか。 とすれば

,従

来庶子家の独立化 を示す好個の史料 として利用 されて きた この関東下知状 も

,実

は無条件 にそのよ うなもの として使用す ることには

,問

題 が無 くもない とい うことになる。 なお念のために申 し添 え るなら

,も

ちろん筆者 も鎌倉中期以降の庶家独立化傾向自体 を否定 するものではない し

,こ

の相論 の背景にもそのような事情が存在 しなかった と主張す るつ もりはない。ただ

,そ

れ と共 に

,あ

るい はそれ以上 に

,譲

与時の混乱 も見て とる必要があるということを言 いたいのである。 以上

,本

章では

,鎌

倉前期 における小早川氏 を襲 った二つの事件 と

,遠

平・ 景平か ら茂平・季平 への譲与の混乱 とが密接な関係 を有 していた ことについて論 じた。 これ までは

,平

賀朝雅の変 と茂 平への譲与 との関係 については

,言

及 した ものはなかった。 また

,惟

平 の和 田合戦への参加が土肥 (小早川

)氏

に与 えた衝撃 について も

,惟

平系への影響 についてだけ論 じられていたに過 ぎない。 景平 (系

)に

ついては

,む

しろ

,和

田合戦以後脚光 を浴びるとされてお り争°この系統 に負わされた 負の側面 については

,全

く気付かれていなか つた と言 ってよい。 けれ ども

,景

平系の負の側面 を見 なければ,こ の系統の行動 には理解 しに くい ことが数多 くある。 例 えば

,茂

平が早 くか ら京都 に活躍の場 を移 していた ことl151は

,幕

府草創の大功臣である実平の曽 孫 としては

,不

可思議 な選択 と言 えな くはないように思われる。 それ も本章で論 じた ように解釈す れば,さ ほど無理 な く説明で きるようになるのではなかろうか。また

,茂

平が承久の乱後,沼田庄 に 隣接す る都宇・竹原庄地頭職 を獲得す るために

,か

な り強引な方法 をとっていること(nも

,た

やす く説明できるようになるのではないか と思 っている。すなわち

,平

賀朝雅の変 と

,承

久の乱 に先立 つ

8年

以前の和田合戦 によって,大きなダメージを受 けた茂平 は失地回復の機会 をうかが っていた。 そこへ承久の乱が起 きた。 チャンス到来 と茂平 は

,隣

接の都宇・竹原庄の公文等 を語 らって

,ほ

と んど無理や り地頭職 を手 に入れた とす ることが可能ではないか と考 えているのである。

茂平 か ら子孫 への譲与

1 本章 で は

,第

二 の問題 であ る

,茂

平 か ら孫 への譲与 につ いて考察 す る こ とに したい。 これ に関 し て は

,四

男政 景 系 を除 いて

,ま

とまった史料 は残 されていない。長 子経平系 は南北朝初期 に没落 し (後述 ),五 男忠茂 系 も主流 は南北朝初期 に後醍醐天皇方 として従軍 していた こ とが明 らかであ るか

,D恐

らく

,こ

の頃に没落していったと思われる。これらの系統の文書が残らなかったのは当然で

あった。 三男の雅平系の文書 につ いては

,室

町初期 の持平 と熙 平 との家督 争 い°9の中で

,持

平側 に留 ま り,

(7)

鳥取大学教育学部研 究報告 人文・ 社会科学 第 35巻 最終的に則平所領 を譲 り受 けた照平方 に渡 らなかったため

,現

在 に伝 わ らなか った ようである。雅 平系の所領関係文書の中で

,現

存す る最 も古い ものは

,応

永21(1414)年 4月12日「小早川常嘉 傾J 平

)譲

状 案写」(証文53)なのである。従 って

,そ

れ以前の譲与。知行のあ りかたについては

,他

の系 統に残 された文書等――例 えば

,季

平子孫 と茂平の相論 の過程 で

,季

平系 に残 された ような もの(い) 一― によって判断するしかなかった ことは

,前

章での論述か らも了解 され る ところであろう。 この ような史料の残存状況 によってか

,茂

平子孫への譲与 については未だ明 らかにされていない ところも多々あるように思われる。 ところで

,こ

れ までの研究で指摘 されているのは次の ような諸 点である° は

)長

男経平 は沼田本庄内船木郷 を譲得 し

,船

木家 を分立 させた。 lHl 雅平 は三男であるが

,嫡

子 として沼田本庄の主要部分 を譲 り受 けた。

│,

浄蓮 は沼田本庄内の梨子羽郷 を (一期の間

)譲

与 された。

9

政景 は都宇・ 竹原庄

,讃

岐国与 田郷等 を譲 り受 けた。 い 忠茂 は所在不明なが ら

,赤

川の地 を譲 られた。 この うち

,│',い

については信頼性 のある史料か ら導かれ る結論であるし,lHlについて も様々 な 徴憑によって確かめることがで きる。 しか し,lr)とい については

,正

すべ き点や付 け加 えるべ き点 が残 されていると思 う。 先ず

,経

平への譲与 について考 えてみることにしたい。問題 は

,彼

が船木郷以外 に所領 を譲 られ ていなかったのか という点 にある。勿論 これ までの論で も

,船

木郷以外 には どこも譲 られなかった と結論ずけられているわけではない。経平が譲 られたのはどこか

,と

いう問題 の立 て方が されてい るわけではないか ら

,ほ

ぼ間違 いな く譲与 を受 けた と言 えるのは船木郷のみ

,

とい うことで しかな い と思われ る。 しか し

,こ

こではよ り積極的に

,経

平が譲 られたのは どこであったか

,船

木郷以外 に譲 られた可能性がある所 はないのか, とい うように問 を発 してみたい。 これ まで経平が譲 りを得た所領 として船木郷が挙 げ られていたのは

,次

掲の諸史料 に基づいた推 論であると思われる。 (あ

)

「沼田小早川家系図9ウ」の経平 に「舟木」 と注記がある。 (い

)建

3(1336)年

正月 2日 「源朝 臣某下文案」(文書

56)で

小早川中務入道道円の伯者国富田 庄内天万郷一分地頭職,安芸国沼田庄舟木郷内地頭職の領掌が認 め られてい る。但 し,これには 「 コノ下文案ハ

,次

号文書 ヨリシテ足利尊氏 ノモノノ如キモ

,ソ

ノ様式 ヲ異ニセ リ

,姑

ク疑 ヲ 残 ス」 との注記がある。 (う

)観

応元年

(1350)8月

17日「イ白脅富田庄内天満郷一分地頭職諸役免除御教書案写」(証文444) に小早川中務入道道円の天満郷一分地頭職 を安堵す る旨の文言がある。 (え

)文

3(1354)年

12月29日「足利義詮御判御教書写」(証文

26)で

,小

早川貞平 に対 して

,勲

功の賞 として小早川彦太郎家宣跡が預置かれている。 この文書 には

,表

題 の文書 を記 した後 に 裏ニ 舟木郷御下文案 小早川彦太郎家宣所領安芸国沼田庄内船木郷三分方当知行候 伯者国天満郷, 同国西庄

,是

者不知行, とい う記事がある。 (お

)至

3(1386)年

10月29日「足利義満安堵御判御教書案写」(証文

538)で

,小

早川春貞の

(8)

錦織 勤:鎌倉期 の小早 川氏 に関す る若干の考察 伯者国天万郷一分等の知行が安堵 されている。 先ず

,(い

)は余 り信用で きない ものではあるが

,(う

)の記事 によって

,道

円の天満郷一分地頭職 知行 自体 は事実 と認 め られ るか ら,そ の内容 については一応事実 としてよい と思われ る。また,(え) の裏文書 は形式 も整わず

,信

頼性 に乏 しい もの とい うべ きものか もしれない。 しか し

,表

文書 は信 用で きるものであるし

,心

覚 えに小早川家宣跡 についてのメモを記 した もの と見れ ば

,頭

か ら否定 する必要 はないのではなかろうか。 さらに

,(お

)│こよれば天満郷は

,そ

の後 も系譜不明 なが ら春貞 という小早川一族の知行下 にあった ことが明 らかであるか ら

,道

円系か ら貞平への移転 はあ りえな いことではない。以上

,上

の5つの史料 は

,形

式的には ともか く

,内

容的にはほぼ信頼 に堪 えうる もの と判断 されることについて述べた。 さて

,道

円は「小早川家系図」 によれ ば経平の孫貞茂 の法名である。家宣 という名 は右 の系図に は見 えないが

,右

系図が南北朝の ご く初期 に作成 された ものであること°Dを思 えば

,彼

の実在 を否 定するものではないV° とすれば

,伯

者国天満郷 については

,貞

茂――家宣――貞平――春貞 という 伝領の流れ (あるいは途中に脱 あるか

)を

想定 して差支 えないのではなかろうか。 そ して

,天

満郷 とセ ッ トになって出て くる沼田庄船木郷 について も

,同

じような流れ を考 えることが可能 で はない か と思 う。 もしこの点が認 め られるな らば

,船

木郷 は小早ナ│1氏の当初か らの所領であったのであるか ら

,そ

れが経平か ら (経茂 を経て

)貞

茂 に伝 え られた ものであることはほぼ間違いないことになる。 これ までの

,経

平が船木郷 を譲 られていた とい う論 もこのように考 えての結論であると推測 され る。 と すれば

,船

木郷 とセ ッ トで譲与 されていた伯者国天満郷一分地頭職 も

,経

平か ら伝 えられた可能性 があ りはしないだ ろうか。 これには確証 はないが

,政

景が讃岐国与田郷 を譲 られ(文書

52),忠

茂が 伊予国高市郷地頭職 を得ている (後述

)よ

うに

,茂

平の他の子息は沼田庄

,都

宇 。竹原庄 な どの外 にも西国所領 を譲 られていることか ら類推すれ ば

,か

な り確率の高い推測た りうるのではないか と 思 っている。 さて

,屡

述のように

,経

平 は沼田本庄 内の船木郷

,伯

者国天満郷 を譲与 されていた可能性が高い のであるが

,で

,そ

の外 には所領 を譲 られていなかったのであろうか。 この点 については確かな ことは言えないが

,第

一 に

,彼

および彼 の子孫の活動の場が

,終

始関東 にあった こと

,第

二 に

,季

平が相模国の成田庄内の北成田郷 と沼田新庄 を譲 られ (文書

115),景

光 も成田庄 内飯泉郷 を譲 られ ていること9°か ら見れば

;茂

平が沼田本庄だけ しか譲得 していない とは考 え難 い こと

,第

二 に

,け

れ どもその茂平の東国所領の行方 は定かではない こと

,な

どを合わせ考 えれば

,経

平が その行方の はっきりしない茂平の東国所領 を受 け継 いだ とすることには

,さ

して無理 はない と思われ る。 ここで上記の

,経

平系の人々が関東で活躍 していた ということについて記 そう。茂平宛 の仁治元 (1240)年間10月 18日「安芸国巡検使平盛綱書状写」(証文

6)に

,「太郎兵衛殿 には

,常

申承候, 雖為遼遠之堺

,奉

憑候也

,可

有御 同心候」 とある。 これ は遼遠の堺 にいる茂平 に対 して

,頼

みにし ていること

,同

心 して欲 しいことを述べ

,そ

れ に関連 して

,茂

平長男の太郎兵衛 (経平

)と

は常 に 連絡 を取 り合 っていることを記 した ものである。 ここか らうかがえるのは

,経

平が盛綱 の近辺 に住 まいをしていること

,経

平 と茂平 は遠 く離れていた ことな どである。 それでは盛綱 はこの当時 どこにいたのか。仁治元年 7月 9日 には鎌倉在住の明証がある し(『吾妻 鏡』同日条

),同

じく『吾妻鏡』仁治

2年

4月16日条 に も泰時への書状 を取 り継 いだ とい う記事があ るか ら

,こ

の頃 も鎌倉 にいた と考 えてよか ろう。 とすれば

,仁

治元年間10月段階で も彼が鎌倉 にい たことはほぼ確かであると思 う。

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 35巻 他方

,茂

平 は早 くか ら在京人 として出仕 していた ことが明 らかにされているV° その上限 は

,史

料 上か らは『黄葉記』宝治元年

(1247)5月

9日 条である。従 って

,仁

治元年にはどうであったか と いうことは知 りえないが

,盛

綱の鎌倉在住が ほば確 かであるとすれば

,遼

遠の堺 とは京都 であった と見て間違 いなかろう。 以上

,様

々な点か ら見て

,経

平の仁治元年段階での東国居住 は確 かである。 また

,文

3(1266)年

4月 9日 「関東下知状」(文書

115)の

第13条に次のような記事がある。 相模 国成田庄北成 田郷鶴丸名事

,竹

王丸申云

,(中

略)鶴丸名田屋敷者

,本

主成田五郎入道栄願, 建保三年避与季平之間

,知

行四十余年 協

,(中

略)而本仏子息太郎左衛門尉経平

,正

嘉二年始可 進退 当名之由称之

,奪

取所当米

,致

狼籍畢 これは

,経

平が正嘉

2年

(1258)に 鶴丸名 を進退すべ しと称 して濫妨 を働 いた ことを伝 えているが, ここか ら

,彼

が この頃東国にいた ことと共 にさらに重要な こともうかが える。 正嘉

2年

とい う年 は

,茂

平の子息達 に とって大事 な年 となった。恐 らく死期の近い ことを感 じた のであろう

,茂

平 は自分 の所領の分配 を行 なっているのである。正嘉

2年

7月19日付 けの譲状 の正 文が

1通

(政景宛)残 っているし(文書

52),茂

平か ら妻の浄仏宛の同 日付 けの譲状があった ことが, 後の相論文書の中に記 されている (正応

2(1289)閏

10月 9日 「関東下知状写」

,証

文573)。 経平 も 何の根拠 もな く濫妨 を働 いた とも思 えない し

,右

記 の諸点 を考 え合わせれば

,彼

にも茂平の同 日付 の譲状があって

,そ

れ を根拠 に鶴丸名 に入 っていった とい うように も考 えられな くはない (この点 後述)。 経平子息長朝 については

,欠

年月 日 (弘安

8(1285)年

11月 )「足達泰盛乱 自害者注文9°」が重要 である。 これ には,「弘安八年十一月十七 日船鎌倉合戦人々 自害」の一人 として「/Jヽ早川二郎左衛門 尉」力浦己されている。編者 は「信平力」と傍注 を付 されているが,「小早川家系図」の経平子息長朝 に「奥州禅門合戦之時

,不

慮被誅畢」 と注記が あることか らすれば

,信

平ではな く長朝 とす るのが 妥当であろう。 これによって

,彼

も東国に居住 していた ことが明 らかになる。 さらに

,右

の系図の満平 (貞茂子

,経

平曽孫

)へ

の注 には「建武合戦之時船相模河打死」とある。 建武 は元弘 を訂正 して書かれているか ら

,恐

らくこれ は北条氏の滅亡の際 に,(彼がいずれの方であ ったかは不明だが

)討

死 した もの と思われる。彼 も東国 に居住 していた ことは

,ほ

ぼ間違 いなか ろ う。 上記の ごとく

,経

平系の人々 は東国に住み続 けた。 それは

,他

の茂平子孫が多 くは京都 か沼田庄 に移住 していた°つの とは

,際

立 った違いを示 している。では一体 なぜ東国に居住 し続 けたのか。 そ れについて

,主

として

,彼

等の所領の中心が東国に在 ったため

,そ

う考 えることはで きないだ ろう か。確たる証拠 はなにもないが

,外

に理由は見当 らない し

,常

識的に言 って

,そ

の ように考 えるし かない ように思われる。 しか も重要 なことは

,先

に示唆 したように

,茂

平の相続 した東国所領 はほ とんど全て経平が受 け 継いだ可能性が高い ことである。すなわち

,政

景 は鎌倉米町在家一宇跡以外 には東国に所領 はない し(文書

52),雅

平 も後の譲状か ら推測 され るところか らは同様 であったVO忠茂系については

,少

な くともこの系統が東国所領 を保持 していた とい う証拠 はない

,

という以上 には明 らかでな く

,

この 点 に若千の不確 か さは残 るものの

,諸

般の事情 を考 え合わせ ると

,茂

平の東国所領 は経平がほ とん ど継承 した と見て大過 ないように思われる。 経平の所領の中心 は東国にあった と考 えることに したいが

,で

,そ

れはどこだったのか。早川 庄 はどうであろうか。早川庄が土肥氏の手 を離れた とい う確たる証拠 はない。土肥郷が惟平の斬首

(10)

錦織 勤:鎌倉期の小早川氏 に関す る若干の考察 された和田合戦 に も没収 されず

,上

肥氏の元 に残 った ことを思 えば

,あ

るいは早川庄 も同様であっ た可能性 もな くはない。 しか し

,

ここに難点が二つある。 とい うのは

,史

料上 はっきりしているも の としては宝治

2(1248)年

正月 8日 以降

,工

藤氏の庶家の中に早川氏 を名乗 るものがいるのであ る子9こ れは一般的に言えば

,早

川庄が小早川氏の手か ら没収 されて

,工

藤氏 の もの とな り

,そ

れ を 譲 り受 けた家が早川 を苗字 をした という解釈が最 も自然な事象 と思 う。従 って

,経

平が早川庄 を譲 られた可能性 も全 くないわ けではないが

,難

点が大 きす ぎる。 それではどこを譲 られていたのか。一つは成田庄が挙 げ られ るのではなか ろうか。前述 したよう に

,彼

が正嘉

2年

に季平の北成田庄 に押妨 をな したのは

,彼

も成田庄内に所領 を得ていて

,そ

の境 界にはっきりしない ところで もあって一― あるいはそ こも沼田庄 と同 じく茂平

,季

平への譲状が三 重に記 されていたのか もしれない一―,彼が自らの領有権 を主張 していたのか もしれない。しか し, これ以上の ことはわか らない。 ともか く

,彼

が主 として東国に所領 を得ていた ことはほぼ間違 いな い し

,そ

の所領 に成田庄が含 まれていた可能性 は大 きい と思われ る。 2 本項では忠茂系の所領 について考 えることにしたい。遠廻 りになるが

,先

ず正和

3(1314)年

7 月21日「六波羅御教書写」(証文

14),元

応元 (1319)年間 7月25日「六波羅御教書写」(証文15)に 注 目したい。 この

2通

は共 に

,海

賊 を揚取 った ことを抽賞 した ものである。宛名 はいずれ も「小早 川美作民部大夫殿」 となっている。では

,こ

の美作民部大夫 とは

,誰

の呼び名 なのであろうか。大 日本古文書の編者 は

,

これを朝平 とする。そして

,そ

れについて

,こ

れ までは何 らの疑問 も狭 まれ なかった0 この大 日本古文書の編者の見解 は

,お

そらく「沼田系図」の朝平への注記 に基づいた もの と推察 され る。すなわち

,注

記 には「小早川 美作民部大夫 太郎 左衛門尉 美作民部丞」,「元弘三年 七月十九 日 賜安芸国沼田庄内小坂郷 同国野義郷 伊予国高市郷

,正

和元応頃有揚取海賊人等事 賞状 詳家譜 故略之」 と記 されているのである。 しか し

,別

稿●りで詳 しく述べたように

,同

系図 は明 らかに誤 った記事が多々認 め られる。南北朝初期 に作成 された ことが確かで

,か

つその記事 も 他の文書 とよ く符合する「小早川家系図」に比べれば

,信

頼性 に乏 しい と言わざるをえない。 断るまで もなか ろうが

,美

作民部大夫 とい う呼び名 の美作 とは

,普

通父の官名(例えば美作守等) によっている。 そ して民部 というのは

,本

人が民部祟Ⅱ

,民

部丞等の職 に任官 していること

,さ

らに 大夫は位階が五位 (大夫

)で

あることを意味 している動が

,

しか し

,信

頼性の高い「小早川家系図」 によれば

,朝

平の父雅平 はただ「二郎」 と注記 されているのみである。 また 『勘仲記』の弘安頃の 記事 によれば

,彼

は「小早川美作二郎平雅平」 とか「小早川美作二郎」 とだけ呼ばれていてゞ°ここ で も彼が美作守等であった ことは確認で きない。 その上 に

,朝

平本人 も同系図では「左衛門尉」と記 されているだけで

,民

部大夫であった という証拠 はない。 これ らの ことか らすれば

,朝

平 をこの美 作民部大夫 に当て るには無理が多す ぎると言 えよう。 それでは

,正

3年

7月21日当時の美作民部大夫 は

,誰

に 'ヒ 定すべ きであろうか。先ず,「小早川 家系図」等で美作守等であった ことが知 られるのは

,茂

,忠

,清

茂の

3人

である。 また

,民

部 という官名 を有 していたのは

,茂

,頼

平の

2人

である。茂遠 は同系図によれば「民部大夫」であ った し

,頼

平 も同系図では同様であった。 呼び名の出来方か らすれば

,父

が美作守で

,本

人が民部大夫であった茂遠 しか

,当

てはまる人物

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 35巻 はいない と言 ってよい。 しか も頼平の場合

,文

書上か ら見れば

,正

3年

段階で民部大夫であった 可能性 は薄 い。 とい うの は

,頼

平 は元弘

3(1333)年

5月22日「小早川頼平寄進状 “ °」で は「民部 丞頼平」 と署名 しているか らである。 この当時の官職 にどの程度官位相 当の考 えが残 っていたかに ついては

,私

には定かでないが

,一

つの目安 として言 えば

,民

部大丞 は正六位下

,少

丞 は従六位上 相当である。従 って

,正

和の段階で民部大夫 と呼 ばれていた ものが

,元

弘の頃 に民部丞 と呼ばれる ようになるということは

,逆

行の感 を拭い難 い。 また

,佐

藤進一氏が例示 されている大見行定の場 合 も

,式

部丞か ら式部大夫へ と移 っているよ°これ も

,上

の推測の傍証 となるのではなか ろうか。既 述の諸点 を総合すれば

,茂

遠 とす るのが妥当であるように思われ る。 ここで

,伊

予国高市郷の代官が海賊人 を揚め渡 した ことに対 して

,小

早川茂遠が抽賞 されている のはなぜか という点 に触れてお きたい。 この場合

,高

市郷の代官が茂遠の代官であつたため という のが最 も自然な解釈であろう

0茂

遠が伊予国の高市郷地頭であった とすれば

,彼

が抽賞 されたの も うなず けるところである。以上

,茂

遠が高市郷 を知行 していた ことだけを確認 して先へ進 むことに しよう。 さて

,こ

れに関連 して

,注

目すべ き史料 に元弘

3年

7月19日「後醍醐天皇論 旨」(文書

2)が

ある。 その宛名 は「小早川美作民部丞」であるが

,こ

れ は誰 を指 しているのであろうか。大 日本古文書の 編者 はこれ も朝平 としているが

,そ

れが当 らない ことについては

,先

に述べた ところか ら明 らかで ある。 それでは

,前

の議論の ように

,こ

の美作民部丞 も茂遠 として差支 えないのであろうか。 ここで注意が必要なのは

,呼

び名が美作民部大夫ではな く

,美

作民部丞であることである。丞 と 大夫 との関係 については前述 した。 そこで記 した ように

,大

夫が丞 に先行することは

,普

通考 え難 い。従 って

,こ

の美作民部丞 は茂遠ではなかった可能性が強い。 前記のように

,こ

の当時民部丞だった ことが確認で きるのは頼平 しかいない。が

,頼

平 を当てる ことには多少の問題がある。彼の父は忠義であるが

,忠

義 は「小早川家系図」では「孫五郎」 とだ け記 されていて

,官

名 はなか ったように思 えるのである。少 な くとも

,忠

義が美作守等であった と いう証拠 はない。従って

,頼

平 を美作民部丞 とす ることには

,少

なか らぬ疑間が残 ると言わざるを えない。けれ ども

,烏

帽子親の官名 を付することもあるようであるか ら学の一応実父が美作の官名 を 持たなかった可能性が強い ことはさておいて

,頼

平 を当てることにしたい。後述の所領 の伝領関係 か らいって も矛盾 はない。 さて

,元

3年

の後醍醐天皇綸 旨では

,美

作民部丞の沼田庄内小坂郷

,同

国野義郷

,伊

予国高市 郷の領知が認め られている。で は

,こ

の 3カ 所の所領 と

,頼

平 との関係 は如何であろうか。綸 旨自 体 には

,新

恩の給与か本領安堵か について何 の注釈 も付 いていないが

,こ

のような文面の ものは, 多 くは本領安堵のための もの と思 う。 また

,個

々の所領 について見 てみる と

,こ

れが本領安堵であ った ことがはっきりす る。 先ず

,伊

予国の高市郷 は

,先

述 したように茂遠が地頭であった確率が高 い。従 って

,そ

れが茂遠 孫頼平 に伝 えられた とす るのには無理 はない。次 に小坂郷 について考 えてみよう。当郷 に関する史 料 としては

,こ

れ以前 には正応

2(1289)年

間10月 9日 「関東下知状写」(証文

573)が

あるだけで ある。 これは藤井経継 と弟茂久・姉大中臣氏 との間で

,母

(茂平娘松弥

)の

遺領 をめ ぐって相論が 起 こった際 に

,幕

府か ら下 された裁許状である。 その第一条 に次の ように記 されている。 一

,安

芸国沼田庄内吉野屋敷八町門田

,真

,佐

木島

,須

並浦事 右

,訴

陣之趣子細雖多

,所

,件

所々者

,経

継等外祖父小早川美作入道本仏所領也

,而

正嘉 二年七月十九 日

,譲

与後家尼浄仏畢

,加

状者

,浄

仏一期之後者

,可

譲女子字松弥

,若

松弥無所

(12)

錦織 勤:鎌倉期の小早川氏 に関す る若干の考察 生子令先亡者

,船

真良村者

,可

譲与経平息男経茂也

,吉

野屋敷八町門田者

,為

松弥母之計,可 譲与有忠之輩,お小坂村者

,可

譲忠茂子息福寿丸也,其子孫不断絶者勿論也云々者

,彼

所々者, 後家尼浄仏一期之後者,簿等可相伝之由

,所

見也

,女

子縦先立母雖令死去

,彼

子 息等可伝領 之処

,浄

仏為一期領主

,除

経継令分譲之条

,甚

非正儀

,然

則為未処分

,可

被配分得分之親等 央 この記事か らは

,小

坂村等が正嘉

2(1258)年

7月19日の譲状で

,茂

平か ら妻の尼浄仏へ譲 られ たこと

,お

よび

,譲

状 には当面の問題 に関 して次のような付記があった ことが知 られ る。第一 に, 浄仏一期の後 は娘の松弥に譲 るべ きこと

,第

二 に

,松

弥が子無 くして死去 した場合 には

,小

坂村 は 忠茂子息福寿丸 に譲 られるべ きこと

,が

それである。 引用部分か ら

,結

,松

弥 は少な くとも

3人

の子 を生 んでか ら死んだ ことは明 白である。 とすれ ば

,小

坂村 は松弥の子供等によって相続 された とす るのが当然ではあろうが

,そ

うで もなさそうな 様子 も見 える。 というのは

,藤

井兄弟の相論 に対 して,「可被配分得分之親等」と裁定 されてい るの は

,事

書 に見 える沼田庄内吉野屋敷八町門田・ 真良・ 佐木島・須並浦だけであったはずである。相 論の内容か らみて

,こ

こに挙 げ られてい るのが

,松

弥子供等が知行 すべ き所領 の全貌であることは まず動かない と思われる。第一条 に小坂村の処置 について記 されているのは

,正

2年

の譲状 の記 載をその まま引用 したためであって

,決

して当村 が藤井兄弟の間で相論の対象 になっていた ことを 示す ものではない。む しろここで重要なのは

,事

書 に小坂村が見 えない ことのほ うである。私 は, この一点 によって

,小

坂村が藤井氏の手 を離れていた ことを推測するものである。 それでは

,こ

こに記 されていない小坂村 はどうしたのであろうか。詳 しい事情 は知 りえないが, 小坂村だけは

,茂

平の遺言 にもかかわ らず

,忠

茂子息福寿丸が相続 して しまったのではなか ろうか。 元弘

3年

の綸 旨の存在 をか らめて判断すれば、 この ように考 えて まず間違 いない と思 う。 以上の ところか ら

,元

3年

に綸 旨によって領知が認 め られたのは

,頼

平の本領 であった ことが 明 らかになった と思 う。次 に

,そ

れがいつ まで遡 るのか という点 については

,野

義郷 については不 明であるが

,小

坂村 は福寿丸 (恐らく茂遠

)ま

,高

市郷 も茂遠 までは遡れる。小坂村 は茂平・ 浄 仏か ら茂遠 に渡 った ことはほぼ間違 いない。高市郷 については確かな証拠 はないが

,忠

茂か ら茂遠 へ譲 られた ものである可能性が高い と思 う。 これ までの考証 によって

,忠

茂系 は少 な くとも小坂郷

,高

市郷 を茂平か ら相続 した可能性が高い ことが明 らかになった もの と思 う。 また

,野

義郷 について もその可能性 は否定 で きない。 なお

,こ

れ までは

,忠

茂 は所在不明の「赤川」 を譲 られた とされていたが

,そ

れは恐 ら く『萩藩閥閲録』巻 32「赤川勘解由」の系譜書 によった類推である と思われ る。 しか し

,こ

の系譜の記事 には矛盾が多 く到底信頼 で きない ものである°従 って

,彼

が「赤川」の地 を譲 られた とすることには余 り根拠 は ない と言わ ざるをえない。 四 むす び にか え て 本稿では

,遠

平から茂平・季平への譲与

,茂

平から経平・忠茂への譲与について考察 を進めてき た。その結果

,茂

平 。季平への譲与は

,そ

れぞれ平賀朝雅の変および和田合戦 を契機 としてなされ たこと

,ま

た経平・ 忠茂共に

,こ

れまで指摘されていた以外の所領 をい くつか相続 していたことな どが

,ほ

ぼ明 らかになったのではないか と思 うもそして,こ れらの点からは

,景

平系の小早川氏が, 鎌倉初期に従来想像 されていた以上に大 きな政治的打撃 を蒙っていたこと

,

しか し

,そ

れにもかか

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 35巻

13

わ らずなお膨大 な所領 を保持 していた ことが容易 に推測できる。 さらにそこか ら

,実

平・ 遠平の獲 得 した所領 の

,考

えられていた以上 に広大であった ことに思い至るのである。 また

,経

平が主 として東国に所領 を得ていた ことか らは

,こ

れ まで不明瞭であった彼 の小早川氏 の中での位置付 けについて も

,一

定の照射が可能 となるように思 う。小早川家系図では茂平三男の 雅平 に「為嫡子」 と注記が付 してあ り

,一

見経平 と茂平 とが不和 でで もあったかのように見 えな く もない。 これ まで船木郷 を譲 られていただけと考 えられていたことも

,そ

のような印象 を助長 しう るものであった と思 う。 しか し

,こ

の点 に関連 して

,彼

が正嘉

2(1258)年

に最晩年の茂平 か ら譲 状 を与 えられていた と推測 され ること

,

しか も本買の地である東国の所領のほ とん どを

,譲

り受 け ていた と考 えられ ることは重要である。 また

,仁

治元 (1240)年の平盛綱書状 にも

,経

平 と茂平 と の間が不仲であったような徴証 は見出 し難 い。 これ らの諸点か ら判断するに

,経

平 は茂平 とうまくいっていなかった とは思われない。 また

,後

の小早川氏の在 り方か らすれば

,経

平系 は辺境 に一人暮 していたようにも受 けとめ られ るか もしれ ないが

,彼

が得た東国所領 は小早川氏の本貫地

,

もし くはそれに近 い ところだったのであ るか ら, 冷遇 されていた と考 える必要 はない と思 う。 とすれば

,経

平 に沼田庄ではな く東国所領 を譲 った こ とを

,む

しろ積極的に評価することはで きないだ ろうか。すなわち

,憶

測の域 を出 るものではない が

,活

躍の場 を京都 に移 した茂平が

,鎌

倉 との関係が断ち切れることを防 ぐために打 った布石 と考 えることはで きないだろうか。経平の器量 を見込んで

,彼

に東国所領のほ とんどを譲 り

,鎌

倉の動 向を見届 ける役割 を課 した と考 えたいのである。 これ までの研究 には

,偏

って残 された史料 を

,そ

の まま小早川氏 の動 きの全体 を示す もの と無意 識の うちに受 け取 り立論する傾 向が

,否

み難 く存在するように思われる。本稿で述べた ことは

,力

量の不足か ら充分 な実証 となっていない ところが多々あることは認めざるをえないが, この ような 傾向への批判 とな りえていれば

,望

外の幸せである。 江

(D

主要 な もの として,今井林太郎氏「安芸 国沼 田庄 にお ける市場禁制」(歴史教育 ■

-9),新

田英治氏 「安 芸国小早川氏 の惣領制 について」(歴史研究153),河合正治氏「小早川氏 の発展 と瀬戸内海」(魚澄氏編『瀬戸 内海地域 の社会史的研究』),北爪真佐夫氏「南北朝・室町期 の領主制の発展について」(歴史学研究246),田 端泰子氏 「室町・戦 国期 の小早川氏の領主制」(史林

49-5),野

島正美氏「椋梨川流域 にお ける小早川庶子 家の動向J(芸備地方史研究65・ 6),竹内理三氏 「相模 国早川荘(1),鬱(神奈川県史研究

8, 9),越

野孝 氏「安芸国小早川氏の一族一揆 について」(北大史学13),石井進氏「小早川氏 の流れは),(D」 (『中世武士団』), 野島正美氏「小早川庶家の海上発展J(芸備地方史研究106・ 7),野島正美氏 「鎌倉・室町時代 にお ける波多 見・倉橋島の形勢」(芸備地方史研究■4),『三原市史 第一巻,通史編―』,石黒洋子氏 「安芸国沼 田庄 にお ける開発 と検注」(日本社会史研究19),北爪真佐夫氏「庄園体制 と小早川氏J(国学院雑誌80-11),野島正 美氏「小早川氏 の商業政策J(地方史研究

27-1),岸

田裕之氏「大崎上 島 と小早川氏一族」(内海文化研究紀 要9),高橋 昌明氏 「西国地頭 と王朝貴族」(日本史研 究231)などがある。 鬱

)高

橋氏前掲論文, 1買。 13)今井氏前掲論文49頁,新田氏前掲論文23買

,河

合氏前提論文 ■3買

,石

井氏前掲書244頁∼,高橋氏前掲論 文2頁,『三原市史』245買など。 倣

)『

大 日本古文書 家わ け第11 小早川家文書』,4ヽ早川家文書115号。以後,小早川家文書 は文書

,小

早 川 家証文 は証文 と略称 し,本文中に記す ことにす る。 脩

)鎌

倉前半の将軍 は,「家 をついで も三位 になるまで は,やは り上記lplの袖判下文(まれには片 ―奥上署判 下

(14)

錦織 勤:鎌倉期の小早川氏 に関す る若干の考察 文,筆者注)を用 い,三位 になって政所開設の資格 を得 て,はじめて政所下文 を用 いた」(佐藤進一氏『古文 書学入門』127買)。 とすれば,建永2年当時実朝 が使用 していた文書 としては,承元3(1209)年 4月10日 に従三位 に叙せ られ る (『公卿補任』)以前の ことであるか ら,袖判下文であったはずである。下知状 に引か れている下文 は,引用部分 か らみて政所下文ではない ことは確 かで,恐らく袖判下文 と思われ,この面か ら みて も下知状の記事 に不 自然 な ところはない といえる。 16)高橋氏 は前掲論文の22頁 で, この譲状の真偽 に疑 い を狭 んでお られ る。確かに, この譲状の文言 には鎌倉 初期の もの としてはやや不 自然な ところがある。 また,氏が「幕府 もこの譲状 を相手 に していない」 と言わ れ るのは,`惣″公文か否か という相論 に関 してのみの ことで,その限 りでは当っている と言 えよう。しか し, 氏 自身指摘 され ているように,譲状 を根拠 として竹王丸の主張 を却 けている部分 もある し,幕府 は この譲状 を偽文書 としているわ けではない。少 な くとも,建永2年の幕府 の下文が遠平の譲状 を受 けて出 された もの であること,その譲状の内容 は下文の内容 と同一であった こ とは確かである と思 う。

9)譲

状の発効 については佐藤氏注15)書,259頁。 (81『大 日本古文書 家わ け第11 小早川家文書』,Jヽ早川家系図1。 以下,「小早川家系図」 と略称。

O)例

えば,石井進氏 『日本の歴史

7

鎌倉幕府』(中央公論社)296∼298買。

10

この当時の連座 については三浦周行氏「縁坐法論」(『法制史 の研究』),『国史大辞典』の該 当項 目(石井良 助氏執筆)参照。連座 によって所領 を没収 された実例 としては,「依為義経縁者 (義父)Jって所領 を没収 さ れた河越重頼 の例が ある (『吾妻鏡』文治元年二月12日条)。 ただ, ここに若干 の問題 がある。 というの は, 朝雅兄弟の事件後の処遇 を見 てみると,連座 とは全 く逆 に,彼が所持 していた伊勢・ 伊賀両国の守護職 を獲 得 してい る例が あるのであ る。『吾妻鏡』元久2(1208)年 9月20日条 によれば,朝雅長兄惟義の長子惟信 は 事件直後 に上記 2カ 所 の守護職 に補任 されている。 さらに

,考

えてみれば,連座 によって真 っ先 に罰せ られ るべ きは北条氏 自身だ った と言 えな くもない。 とすれ ば

,遠

平が景平の縁座 を恐れた という拙論が成 り立 た な くな る可能性 も出て くることになる。 しか し

,河

越氏 の事例 もあるし,連座 とい う観念 自体 は明 らかに存 在 していたのであるか ら,縁座 が適用 され るか否か は

,事

件 との関わ り方 によって も異 なるもの とすること によって,本文 中で述べた見解 は維持 し続 けることに したい。

10

河合氏前掲論文■4頁,田端氏前掲論文4頁,石井氏注(1)書224∼ 5頁,など。

1)

『吾妻鏡』同 日条。 ′

10

『吾妻鏡』建暦3年間 9月19日条。 CO 例 えば,石井氏注(1)書244頁。 10 石井氏注(1)書264∼ 8頁,高橋氏前掲論文第2章。 tO 茂平の都宇・竹原庄地頭職獲得 に関 しては,仁治元 (1240)閏10月■ 日「関東下知状写」(証文

5)に

記載 がある。地頭側 の主張 と領家側 の主張 は大 きく食 い違 っていて,真実 を見定 めるの は困難であるが,一応公 文守家の「巡検使下向時,加判之状者,雖不知子細,依地頭之命加判畢,後承候者

,守

家出合戦之由事,極 無実也」(9条 ),および,領家代官康憲の「守家相交京方之 由

,可

申之 旨,被責勘之間,依申其 旨,以之為 奉公,令安堵庄 内,所令賞翫也」(9条)とい う言葉 に真実が含 まれている と考 えている。 とすれば,茂平 は 公文等 を語 らって (あるいは,だまして)公文京方与同の罪 を作 りあげ,同庄の地頭職 を獲得 した とい うこ とになる。なお,当庄地頭職 は公文の罪 によって設置 され た ものであ りなが ら,公文の跡で はな く, これ と は全 く別 な職 として存在 していた。 これは,従来の地頭概念 とはややずれ る事実であるが, これについては l171 110 (10 90 論ず るだ けの準備がないので割愛せ ざるをえない。 小早川家系図 には頼平 に「候吉野」 という注記がある。 石井氏注(1)書307買な ど。 前章の論証で主たる史料 として使 った文永3年の関東下知状(文書■5)は「椋梨家什書二」に入 ってい る。 なお椋梨家 とは季平系の惣領家である (例えば河合氏前掲論文参照)。 茂平 か ら子への譲与 については,河合氏前掲論文■7∼8頁,『三原市史』230買に総括的な既述が ある。 ま たi石井氏注(1)書259頁の図表 も重要である。3者の間 には基本的にはズレはない。 9〕 『大 日本古文書 家わ け第11 小早川家文書』,4ヽ早川家系図2。 以下,「沼田系図」 と略称。 1221 拙稿 「中世 の生 回島」(内海文化研究紀要7)。

9)家

宣 と貞茂 との関係 については不明である。あ るいは養子か もしれない し,また祖父 と孫か もしれない。

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 35春

15

1241 文応元 (1260)年 9月19日「関東下知状」(鎌倉遺文8557)で,景光 か ら妻へ成 田庄飯泉郷 内の田4町余 り が譲 られていること,および「小早川家系図」 で景光 が飯泉 を名乗 っていた ことが知 られ ること。 120 注nに同 じ。 90 鎌倉遺文15734。

9'

注10に同 じ。

90

かな り後の ものではあるが,応永21(1414)年 4月H国「小早川常嘉譲状案写」(証文53)には,鎌倉米町 地―所が見 えるだ けである。 そ して, これ に「不知行Jとい う注記が付 されていることか らみれば,外に東 国所領があった とは思 えない。

90

『吾妻鏡』に宝治2(1248)年正月15日条 を初見 として以後散見 され る早河次郎太郎 (祐泰),同じく弘長 3(1263)年正月8日以降顔 を出す早河六郎 (祐頼)は土肥氏 ではな く,工藤氏 の庶流 であ る(太田亮氏『姓 氏家系大辞典』)。 00 例 えば,河合氏前掲論文124∼ 5買 ,『三原市史』266頁,佐藤進一氏『増訂鎌倉幕府守護制度 の研究』205頁。 13D 注鬱llこ同 じ。 Oり 高柳光寿氏 「呼 び名 の こと」(日本歴史52),佐藤氏注15)書130頁。 00 高橋氏前掲論文12頁。

0'

「楽音寺文書」(『広 島県史 古代 中世資料編 Ⅳ』)29号。 09 注0)に同 じ。

00

河合氏前掲論文124頁 ,『三原市史』299買参照。 071 注0り1こ同 じ。 00 例 えば,「住信濃国赤川」とい う注記 をもつ政 忠には「数度合戦尽粉骨

,賜

源氏」という注記 も付 されてい る。 しか し,小早川氏 は平氏 を称 してお り,それが源氏 を賜 わ るな どとい うことはやや考 え難 い。 さらに, 政忠か ら7代後 の忠政 は「時親公始芸州御下向之時西国工下」 とあるが,時(毛)│ま鎌倉末期か ら南北朝 初期 の人であって (『大 日本古文書 家わ け第

8

毛利家文書』15号),政忠が忠茂玄孫 とされていることか らすれば,世代的 に全 く合致 しない。 (昭和59年4月 30日 受理)

(16)

参照

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