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ヘルスボランティア活動の展開過程に関する研究 利用統計を見る

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(1)

ヘルスボランティア活動の展開過程に関する研究

著者

奥野 ひろみ

学位授与大学

東洋大学

取得学位

博士

学位の分野

社会学

報告番号

甲第172号

学位授与年月日

2007-04-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003969/

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平成18年度

ヘルスボランティア活動の展開過程に関する研究

東洋大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程

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平成18年度

ヘルスボランティア活動の展開過程に関する研究

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東洋大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程

         4510020003

       奥野 ひろみ

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はじめに

 第歌世界大戦後、N本国憲法が制定され、国民の生存権の確立とその生活の進歩向上 が国家義務とされたことに伴い、公衆衛生は大きな発展をみせた。1947(昭和22)年に新 保健所法が制定され、保健所は健康相談、保健指導のほか、医事、薬事、食品衛生、環境 衛生などに関する行政機能をあわせもつ機関として強化が図られてきた。その後、1994(平 成6)年に保健所法を地域保健法とし、都道府県と市町村(区を含む)の役割分担を見直し 新たな体系の構築を図っている1)。都道府県の保健所から区市町村保健センターへという組 織の変更はあったが、健康相談や保健指導といった住民に直接的なサービスを提供する主 たるスタッフは、看護職である保健師であるc,看護師の主な役割は、健康問題を抱えた人 びとへのケアの提供である。この看護師の役割を内包しつつ、疾病予防や、現在の健康状 態をよりよくするための役割を担っているのが保健師である。  近年、この健康状態をよりよくするための役割が大きくクローズアッアされだした、こ れは、多くの生活者が考えている、疾病を抱えていても健康障害といった重篤な状態にな らずに日常生活が営め、生き生きと生活できることが重要であるというWell・Beingの発想 に基づいている。  この多くの生活者が望むWell・Beingを推進するためには、個人、地域社会、国が相互に 責任を持っ必要があるが、公的サービス機関である区市町村保健センターに勤務する保健 師はどのような役割を担うことができるのであろうか。この問いを解決すべく、地域住民 の健康状態をよりよくすることを目的とした住民参加型のヘルスボランティア活動を研究 の素材とした。住民が組織的にそして積極的に地域の問題に取り組むことの意義と、それ を促進または後退させる社会的要因を明らかにした後、ヘルスボランティア活動の実証的 研究を行い、その分析結果からWell・Beingを推進するためのヘルスボランティア活動の運 営方法や、保健師などの担当者のあり様と社会のあり様を考察した。  このヘルスボランティア活動に関する研究は、健康増進分野での地域ll三民と保飽J政と のかかわりや、期待される成熟社会でのWell・Beingを推進する市民活動に大きな示唆を与 えてくれると考える。 1)厚生統計協会、『国民衛生の動向』、厚生統計協会、2005、pl3.

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目次

はじめに 目次

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・123

1 研究の背景 研究の目的 研究の概要

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社会の変遷とヘルスボランティア組織の変遷一概観(前史を含む)-

1880年代から1945年(明治時代から第二次世界大戦終戦まで) 1950年代(第11次世界大戦以降) 1960年から1970年代前半(高度成長時代) 1970年後半から1980年代(プライマリ・ヘルスケアの誕生) 1990年代以降(「ヘルスプロモーション」の誕生と「健康日本211) まとめ

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コミュニティと行政の協働

コミユニアイ 協働の意義と方法 ヘルスボランティア活動とコミュニティ・行政との関係 まとめ

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地域社会の特徴

個人主三義と集団主義 ソーシャル・キャピタル:社会関係資本 まとめ

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ヘルスボランティア調査

調査の概要 調査結果 調査の考察 78 90 145

(7)

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ヘルスボランティア活動の発展に向けて

健康増進活動への潮流 ヘルスボランティアのかかわりと住民のイノベーション 保健センタースタッフの意識改革とイノベーション ソーシャル・キャピタルとヘルスボランティアの関係 役所への信頼 ヘルスボランティアの担い手と地域の文化的特徴 159 160 161 164 165 166

理.ヘルスボランティア活動の組織形態と今日的意義

 1.ヘルスボランティア活動の組織形態  2.ヘルスボランティア活動の今日的意義  3.ヘルスボランティア活動の発展 170 171 173

おわりに

177

付録 調査票および単純集計

 1.保健センター調査票  2.ヘルスボランティア調査票  3.住民調査票 179 187 195

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1.序

1.研究の背景

 本研究の目的は、日本におけるヘルスボランティア活動の現状と課題、さらにヘルスボラ ンティア活動の今日的意義を明らかにすることである、  ボランティアとは、人や社会のために行われる自発的で無償の活動であり、活動の幅は 個人レベルでのかかわりからNPO(Nonpro丘t Organization非営利組織)まで存在する。 近年、ボランティア活動は有償ボランティアやプロフェッショナル・ボランティアなどの 言葉が示すように、社会の変化の中で新しい意味を追加するようになり、社会を支え更な る発展に向かうために重要で不可欠なものとされている1)。  ヘルスボランティア活動とは保健分野の公共サービス提供集団であり、区市町村保健セ ンターなどの保健行政により設立された組織で、行政を運営の母体とし一般住民によって 行われている活動である。活動の目的は一般住民の身体的、精神的、社会的に良好な状況 をつくり出すことで、その時々の健康課題に対して活動を展開している。日本における住 民の保健活動への参加の歴史は古く、1890年代に開始されたという長い経過を持ち、また 疾患の変化に伴いさまざまな活動を展開した経緯を持つ活動である。住民の参加といって も、当初から住民が積極的に活動の運営に参画し実施されていたわけではない.感染症が 猛威を振るった時代においては、病気を無くすことに焦点がおかれた疾病管理が主目的で あり、行政主導型で住民を専門家の下部組織と位置づけ、手伝いとしてプログラムが実施 されてきた。しかし、1986年にWHOより打ち出されたヘルスプロモーション理念により、 保健施策は、病気を無くすという疾病管理から疾病があっても健やかに生きること(QOL) へと価値の転換を図ることになった2)。この「疾病があっても健やかに生きる」(well・being) という価値に到達するためには、保健医療の専門家や行政プログラムだけでは実施が困難 であり、産業や学校などの連携に加え、住民が積極的に健康増進に関する活動に参画する ことが望まれることとなった。このことを受けて、国は健康増進を目的として2002(平成 14)年に健康増進法を制定し、健康に関して住民が組織的に活動を展開することを、行政 が積極的に後押しすることを示した3)。ヘルスボランティア活動もこの住民の組織的活動の →つに位置づけられる。  住民が積極的に健康±曽進に関する活動に参画するきっかけとなったのは、1995年の阪神 淡路大震災後の地域社会のボランティア活動への意識の高まりと、国の政策によるところ が大きい。「新ゴールドプラン(高齢者福祉)」などの施策に、支えあう地域社会の形成に

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取り組むことが基本方向として示されているt)。またr市町村保健計画」に住民の意見を反 映させることが含まれたことも影響があったと考えられる。しかし、この活動内容には地 域格差が生じている,,「なぜこの活動をしなければならないのか」、「できればやめたい」、「自 分の勉強にはなったが続けてやりたいとは思わない」というように否定的なグループから、 自分たちの活動を堂々と報告し、首長から活動に対してのねぎらいを受け、今後どのよう にしたら良いのかを積極的に話し合う肯定的なグループまで、さまざまである。この差は なぜ生じているのかという問いが、本研究に取り組む動機である.  本研究を進めるに当たり「地域住民の参加による組織的な活動を考察の中心に据えた。 丸尾直美は、参加型政策決定システムには、①代議制民主主義の多数決による方法と、② 市場システムの交換による方法と、③社会的統合の方法があると述べている。この①と② による社会的合意形成が民主的かつ合理的に行われていない場合、これを補完する方法と して③による合意形成が重要な役割を果たす。この社会的統合による合意形成とは、構成 メンバーがコミュニケーションと学習を通し共通の理解を深めることによって、問題の協 力的解決を図ることであるとしている5)。この社会的統合による合意形成が、本研究の示す 「住民参加」である。  「地域住民の参加による組織的な活動」を研究の軸とした背景の一iっは、「福祉国家」6) の崩壊にある。1980年代以降の経済成長の低迷による行政予算の激減により、これまでの 公共性のあり方が「福祉国家」から「福祉社会」へ、「中央集権」から「地方分権」へと変 化を進めている。「福祉社会」とは、従来のように公的部門だけが福祉の供給を担うのでは なく、公的部門に加えて、ボランタリー部門(非営利部門)、営利部門、インフォーマル部 [『(家族・親族)の多様な担い手によって実施するという概念である7、。  アメリカにおいては、公共性の高い文化の中、教育、医療、福祉などのサービス供給な どをNPOが受け持ち、行政府と社会サービスの供給上のパートナーとして関係を持つにと どまらず、政策形成}二のパートナーとして存在している8}。しかし、これまでのH本におい ては、公共性を担うのは「お上」と位置づけ、行政や政府が実施することという考え方が支 配的であった。日本においてこの意識に変化が現れたのは、不幸にも1995(平成7)年に 起きた阪神淡路大震災直後である。震災によって生じた避難者の生活支援活動を、行政や政 府だけで運営することの困難性が露呈され、各地から集まったボランティアたちの手によっ て、支援活動が運営される結果となった。このことによって公共性は、行政の仕事という根 強い意識がやや薄れ、公共性への住民参加という意識が生まれるきっかけとなったことは周 知の事実である。このような社会的かかわりに重きをおいたボランティア活動は、住民側の 権利を主張するだけでなく、社会の主人公として責任を果たしていこうとする、自立した行 動的な「市民1の登場なくしては成長することは難しい9}。しかし、日本においてはこれま で多くの住民が行政任せで公共性を進めてきた結果、「市民」意識はまだ発展途ヒにある。 同様に、行政も「ri眠」が公共性を担うことを受け入れ、行動のできうる行政システムをい まだ確立しえずにいる。

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 加えて、地域社会の連帯の問題もある。生活一Lの様々な問題の解決は個人や家族、地域 社会、行政という3者の補完性が原則である10t。しかし、地域社会は連帯意識の希薄化に ょり、地域社会での問題解決が困難な状況に陥っていると言われている。個人が「市民」に 成長するだけでなく、地域社会が市民意識を持った社会に成長する必要がある。地縁や血縁 による旧来の支え合いではない地域社会の新しい「連帯」を構築するためには、地域社会の 中で組織的に活動することの必要性が求められている。  次に1地方分権」についてである。第二次世界大戦後の戦後復興から経済大国にまで駆 けLがってきた時代においては、集中型の集権化されたシステムは有効であった1ヒ.しか し、多様な社会が形成され始める1980年代以降、国という単位で社会計画の立案と実施を 行うことが困難となった。多様化社会の到来と行政予算の激減により、国から地方白治体 への権限委譲と、それに伴う補助金の削減が実施された。その結果、各自治体は財政的な 課題を抱えることとなったが、施策の立案や実施の主体となった12}、  「地方分権」や「福祉社会」といった公共性のあり方という問題には、哨立した市民」 というキーワードが存在する。多くの住民が「住民参加」によって「市民」としての立場 で行動し、また行政が「住民参加」によって「自らも市民意識を持ち」、「市民」を尊重して 的確な行政の役割を担うことができれば、新しい保健行政システム構築が可能となると考 えられる。これは、ギデンズ,A.]3)が言う「ガバメント」(政府)から「ガバナンス」(統治) へという流れである。このことによってNGO(Non Government Organization)など非政 府組織などが、それぞれの役割に応じて適宜ガバナンスに参加するという連携や協働を生 む基盤となる。この古くて新しいキーワードである「地域住民の参加による組織的な活動」 による保健行政システムの構築は、「地方分権」、「福祉社会」を模索している日本の現状を 進展させる方策の一つとなりうると考えられる。  第二の背景は、疾病構造の変化による政策の変化の必要性である。従来の人々の大きな 健康問題であった感染症の対策は、原因と結果が明らかなため、予防接種や加療といった画 一一Iな対応で、結果が現れやすい。このため、予防や治療が住民にもわかりやすく、住民も 政策を受け入れやすかった。また、画一的な対応で対処が可能であったことによって、保健 専門家の知識・技術も個別性を配慮しなくても対応が可能であった。しかし、現在の死因は、 癌、心臓病、脳血管疾患など、生活習慣と密接にかかわっている疾患に移行している.生活 習慣病には社会構造の多様性、基礎医学の進歩により遺伝、ストレス、環境など多くの要因 が含まれていることが解明されており、画…的なプログラムでは成果がヒげにくいことが明 らかになっている。また、保健医療の専門家が一方的に地域の健康課題に対する実施策を考 えても、それは絵に描いた餅になりかねない。行政と住民の協働、つまり「地域住民の参加 による組織的な活動」によって実施するべきことを決定した方が、実際のプログラムは受け 人れやすく、効果をあげやすいということである。

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2.研究の目的

 ヘルスボランティア活動の運営形態から活動の現状と課題をとらえ、ヘルスボランティ ァ活動の今日的意義と方向性を明らかにすることを本研究の目的とする.

3.研究の概要

 研究の目的を受けて、fi章以降の構成をF記のようにした。  第n章では、近代日本を1870年(明治時代)から1945年(第二次世界大戦終戦)まで の近代、1945年以降の戦後混乱期から社会の復興を進めていく1950年代、高度経済成長 時代の1960年から1970年代前半、その後に続くバブル経済時代である1970年後半から 1980年代、バブル経済の崩壊時代である1990年代以降に分け、社会変遷とヘルスボラン ティア活動の歴史を確認した。前述したように、この活動は当初から住民が積極的に活動 の運営に参画し実施されていたわけではなく、これらすべてをヘルスボランティア活動の 歴史ということはできない。しかし、このことを踏まえっつ、国内では「地域住民の参加 による組織的な活動がどのように捉えられ、どう扱われてきたのかを明らかにしようと 試みた。  第m章は、「地域住民の参加による組織的な活動」の意味を明らかにするために、ヘルス ボランティアが活躍する場であるコミュニティと、そのコミュニティと行政との協働につ いて考える場とした。まずコミュニティの概念を確認し、保健分野の活動と大きくかかわ りのあるコミュニティ研究から発展した社会開発論についても明らかにした。次に、コミ ュニティと行政の協働の意義と方法について整理を行い、ヘルスボランティア活動でのコ ミュニティの意味と協働の意義を明らかにした。  第IV章では、ヘルスボランティア活動の促進または阻害要因となりうる、地域集団の特 徴を捉えることを試みた。地域社会で共有される信念や態度、規範、役割、価値などの主 観的文化の要素から、地域集団の特徴を確認するために、「個人主義一集団主義」の視点で 集団の特徴を捉えた。加えて地域の交流や付き合い、地域の結束や信頼などの蓄積が、人 的資本の創出、市民社会の強化、健康レベルの向上などに結びつくという[ソーシャル・ キャピタル」の理論についても整理を行い、日本の集団の特徴を捉えることを試みた、ま た、これらとヘルスボランティア活動との関係を整理した。  第V章では、第U~第IV章までの文献検討を踏まえて、日本のヘルスボランティアにつ いての実証的調査研究を行い、その結果と考察を示した。調査の目的は研究の発端でも示 したように、 1.現在のヘルスボランティア活動は、「住民参加」という行政と住民との協働で実践され  ているのかを確認すること。 2.「住民参加型」のヘルスボランティア運営によって提供される実践は、受け手側である

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住民の健康面に良好な効果をもたらしているのかを確認すること。 3.ヘルスボランティア活動が成長し継続していくための要因を明らかにすること。 の3点である。調査は、保健センターという運営側、活動の担い手であるヘルスボランテ ィァ側、サービスの受け手である住民側の3者を対象とし、質問紙による調査を実施し、 その結果から考察を行った。  第VI章では、第V章の調査の考察から導き出されたヘルスボランティア活動の問題か ら、先行研究も加えてヘルスボランティア活動発展のための考察を行った。  第W章では、ヘルスボランティア活動の組織形態と今日的意義をまとめた。 1)田尾雅夫、「ボランティアの定義」、川口清史、田尾雅夫、新川達郎編、『よくわかるNPO・  ボランティア』、2005、ミネルヴァ書房、pp.6-7. 2)WHO、島内憲夫訳、『ヘルスプロモーション WHOオタワ憲章』、1990、垣内出版、  pp.7’27. 3)厚生統計協会、『国民衛生の動向・厚生の指標』52(9)、厚生統計協会、2005、pp.75-76. 4)厚生労働省、今後5か年間の高齢者保健福祉施策の方向、1999、   http:〃www 1。mhlw.go.jp/houdou/1112/h 1221・2_17.htm1 5)丸尾直美、「公共選択のシステムとしての参加システム」、加藤寛編、『入門公共選択』、   :三嶺書房、1987、pp.248・267. 6)丸尾直美、「第三の道:ポスト社会福祉国家の視点」、加藤寛、丸尾直美編、『福祉ミッ   クスの設計』、有斐閣、2002、pp.10-47.   福祉国家とは、すべての国民の最低生活を保障し、かつ国民の福祉を増進することを目的とする国  家である。第2次世界大戦後の先進工業国の支配的な政策は、社会保障(所得再配分)、完全雇用政策   (完全雇用を国の責任とする構想)と経済計画(混合経済:資本主義の市場システムを基にしながら、  その欠陥を政府の計画的介入で是正する)であった。日本の社会保障制度は、社会保険(医療・年金・  失業・業務歳学の各保険)、公的扶助、公衆衛生、社会福祉である。(1950.10社会保障制度審議会) 7)ノーマン,J.、『福祉国家のゆくえ』、法律文化社、1993、 pp.59-67. 8)岸本幸子、「アメリカのNPOの公的役割」、山梨学院大学行政研究センター編、『市民活   動の展開と行政』、中央法規出版社、1999、p.155. 9)田中輝樹、『ボランティアの時代』、岩波書店、1988、pp.97・106. 10)井上繁、『共創のコミュニティ』、同友館、2002、pp.2・12. 11)坂田期雄、『地方分権のシナリオ』、ぎょうせい、1997、pp.13・17. 12)藤村(E之、『福祉国家の再編成』、東京大学出版会、1999、pp。103-108. 13)ギデンズ,A.、『第3の道』、日本経済新聞社、1999、 pp.65-66.

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II.社会の変遷とヘルスボランティア組織の変遷

一概観(前史を含む)一

 ヘルスボランティアの活動とは、区市町村保健センターなどの保健行政が運営の母体と なり、一一般住民の健康向上を目的とし、その時々の健康課題に対して各地域で住民の手に よって活動を展開しているものである。ここでは、「住民参加」がどのように扱われてきた かを確認するために、前史時代も含め概観する。

1.1880年代から1945年(明治時代から第二次世界大戦終戦まで)

(1)衛生自主組織の幕開け  1877(明治10)年および1879(明治12)年に、日本では全国規模のコレラの大流行が 起きた。1879(明治12)年の統計によると、患者数が162,637人、死亡者が105,786人にの ぼっている。当時の人口が約3,600万人であったことから、150人に1人が患者になるか 死亡するという事態が数年おきに起きたという大流行であった。政府はこの事態に対し強 権的な警察行政で対応し、患者の隔離や消毒といった政策を行った。しかし、病院へ隔離 された者のほとんどは死亡したため、国民は政府に対して不満をぶつけたり激しい抵抗を したが、何の改善にもいたらぬままの状況が続いた1)。  この時期、「コレラ予防」という明確な意図と形態を持った自主的な衛生組織が形成され ている。多くの住民がまったくコレラに関する知識や予防策を持っていない町は混乱を極 めた。この状況への対処として、東京を初めとして、各地で強いリーダーシップの持ち主 のもとに、自治組織である衛生組合が生まれた2)、,  この時代は、自由民権運動が進められた時代でもあり、長野県ではこの自由民権運動と あいまって自主的なコレラ対策活動を生み出し、公選制の衛生委員を持つようになった、、 まだ町内会や自治組織などがほとんどみられない時代であったが、行政に先駆けて、衛生 思想の普及と自治活動がこの組織を通して開始された。1879(明治12)年には、大政官 達第55号により、地方衛生組合則が発布された3)。 (2)自治衛生から中央集権管理へ 1874(明治7)年の医制の制定とともに内務省に衛生局が設置され、近代的な行政体系づ

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くりが防疫対策を中心として進められたP。当時の衛生局長であった長与専斎二は、岩倉欧 米使節団の一員として欧米を視察し、保健行政の思想を持ち帰る。当時の日本には衛生に 関する思想はまったくなく、個人単位の健康保護だけに焦点が注がれていた、この衛生思 想により、ヒド水道の整備やゴミ処理などの公衆衛生に関する活動が積極的に導入された。 同時に長与は、「自治は衛生の基本である」という思想を欧米から持ち帰る。長与は自伝『松 香私志』の中で「自治衛生の大義」という言葉で書き示しているが、行政の管理活動だけ でなく、住民自らが健康課題を解決する思想と、当時の自由民権運動による衛生活動を結 びっけ、「住民の側に立つ」活動を自らも促進していった∂。  しかし、富国強兵の国策によって、1884(明治17)年には、地方財政の大幅な見直しが実 施され、衛生費、教育費が削減され、特に農民の犠牲の上に工業保護政策が強力に推進さ れていった6)。1886(明治19)年には、衛生行政は警察へと移行し、進歩的な性格を持 った公選制の衛生委員は廃止されてしまった7}。  1893(明治26)年には保健組合の衛生業務が、全面的に警察行政に組み込まれ、権力 行政・取り締まり行政として機能強化されていく。この時期の防疫対策は、環境行政はぬ きにして、もっぱら人権を無視し、患者の隔離収容を主体とした社会防衛論の視点に基づ く取り組みが主であった8〕。  当時、公選制の衛生委員が排除され、保健行政への協力団体へと移行して存在した自主 組合の活動の範囲は、伝染病者の早期発見、市町村が行う消毒の介助、患者の隔離搬送に ついての手伝いと、感染症拡大の防止に焦点をあてたものであった,これらの活動を警察 の管轄下に置き、市町村役場の事務処理を住民の協力によって円滑に行うという、トッフ ダウンの形式をとることが大きなねらいであったと考えられる9)。  その中でも、積極的にまた独自の活動を実践していた地域では、衛生思想の普及宣伝、 春秋2回の清潔方法の監督、飲料水の改善、ハエの駆除、腸チフスの予防接種、種痘の督 励、市街への散水など、各方面に活動が及んでいたという報告もある10),,  1889(明治30)年には、衛生組合は、伝染病に対する行政への協力組織として法律の中で 規定され、経費も国や道府県からの補助規定が定められたll)。  この動きは、国家による社会保障の整備とも読み取れるが、一方では住民の主一1体性の剥 奪の始まりでもあり、日野逸造はこれを、「自治衛生の大義から富国強兵・治安維持の衛生 行政への転換期であり、近代日本の医療・体質を決定づけた転換であった」12)と述べてい る。  当時の衛生局長であった後藤新平の啓蒙戦略は、「無知蒙昧なるド層人民を保健・医療活 動に動員するために、中流以t一の人士:が指導的役割を果たすべきであり、中流以上の人{: は物の通りがわかるはずなので、啓蒙の対象は中流以1.1の人t:に絞られるというものであ る」13)と述べており、「自ら考える」のではなく 「賢者が教える」という体制を作り出し ていることがわかる。  この発想は、前衛性局長の長与の言葉である「自治衛生の大義」が示す、住民が参加し、

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自らを研績し、自分たちの健康状況と対決し、住みよい社会を構築するという発想とは対 極の官僚による管理であり、このことによって保健分野での中央集権化が速度を増してい く結果となった。  このころの衛生組合活動の実例として、先駆的であり自主性が高く評価されている静岡 市の衛生組合の活動を取りヒげておく。 ○静岡市衛生組合  静岡市衛生組合は、静岡が市制を布いた翌年の1881(明治24)年、法令によって創立 された。衛生組合長は市長が就任し、市役所内に事務所を構えている。組合の職員は組合

長1名、副組合長1名、組合幹事15名、組合員(各町50戸以内は1名、50戸以ヒは2

~3名)となっていた。これらの職員は、すべて選挙によって選出されている.正副組合 長は組合幹事によって、組合幹事は組合員によって、組合員は町内の住民によって選挙さ れ、任期は2年となっていた。衛生組合員は全市民であった14)。  この衛生組合が初めて取り組んだのは、天然痘予防の種痘の接種であったu1881(明治 24)年12月ごろに市内に天然痘が発生し、翌年1月には患者が10数名に達し、臨時の予 防接種を実施している。予防接種のため静岡医師会に医師の派遣を依頼し、料金を5~10 銭に設定し(貧困者は無料)、病院や寺を予防接種会場とした。  1920(大正9)年ごろより、住民の衛生思想向上のため、衛生講i話会、衛生展覧会、衛 生演劇、衛生浪花節、活動写真会などを精力的に開催した15)。 (3)富国強兵と自主衛生組織の終焉  第一次世界大戦後、失業や貧困など深刻な社会情勢の中で、ますます軍国主義、治安体 制の強化が進んでいく。衛生分野では、1930(昭和初期)年代より富国強兵、健兵健民政 策として、母子保健対策、結核予防対策、栄養指導の取り組みが保健所を中心に実施され、 人口政策確立要綱、国民体力法、国民優位性法などの法律がっくられていった161。  1937(昭和12)年に保健所法が公布される。保健所は結核予防と母子保健を中心に、 地域の保健中枢機関として、また国民の健康管理の場として全国に作られていった。1943 (昭和18)年の保健所数は、全国で770であった17)。  自主衛生組織は、行政の協力機関として衛生組合が法人化され、事業内容も伝染病予防 から公衆衛生活動全般に広げ、大正時代を経て全国的な広がりをみせる。しかし、1930(昭 和5)年から1931(昭和6)年を転機として、この衛生組合の活動は「行町村の活動へと移管 されていく。これは、地方行政の役割と衛生組合の役割の重なりから、自治体の活動が奪 われてしまうのではないかいう危惧と、補助金増加への危惧から、帝国議会で議論が紛糾 した結果であった18)。  橋本正己はこの組織の主体性がなぜ守れなかったのかを評価し、下記の3点にまとめて いる19)。 ・法律の規定によって形式ばかりが先走って整備され、内容ないしは地域社会への盛り上

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 がりが伴わなかったこと。 ・勢いのつくところ衛生自治活動の範囲に止まらないで、当然、市町村が行うべき行政の  分野まで深入りしたこと。 ・もっぱら上意下達のため役所の下部組織と考えられたため自主性が脆弱だったこと,  その後1940(昭和15)年、町内会、部落会が全国的に公的組織として整備され、衛生 組織、納税組合などの各種の地域組織の町内会、部落会への統合が政府指導のもとで行わ れ、第一:次世界大戦終結後、ポツダム宣言により、町内会とともに終1ヒ符を打つこととな る,

2.1950年代(第二次世界大戦以降)

(1)医療・保健の動き  1950年代は、1945年以降の第二次世界大戦後、新憲法F、連合国指令本部(GHQ)の 指導のもとに開始された社会保障体制を確立していった時代である。海外引揚者や生活環 境悪化などにより蔓延した感染症に対して、届出義務、結核健診対象者の拡大、強制的予 防接種法の制定など防疫体制の強化が図られた20)。また、1956(昭和31)年には国民皆 保険を強調する勧告が社会保障審議会で提示された。翌年の1957(昭和32)年より国民 皆保険体制の促進が4か年計画で実施され、1961(昭和36)年に実現した21)一 (2)自主衛生組織の再燃  戦後の混乱期である1950(昭和25)年当時の健康課題は、結核、母子保健及び都市清 掃であり、この時期に厚生省による積極的な指導によって、特に衛生害虫(ハエや蚊など) 駆除など環境改善の地域ぐるみの実践活動の標準化が図られ、急速に普及し始める。また 母子保健分野でも一一種の委員会方式による地区組織活動が行政指導によって積極的に取り 上二げられるようになる。  1955(昭和30)年以降は、環境衛生に関する地区組織の全国・府県での連合体の結成 がみられ、母子保健、栄養改善、結核予防、寄生虫予防などのテーマの多様性がみられる ようになる22)oここでいくつかの事例を紹介する。 ○蚊とハエの駆除  1948、1949(昭和23、24)年ごろから、赤痢の流行が契機となり、農村部で村民が保 健所の協力を得て、地域の自主活動として衛生害虫の駆除を開始している23)。当時7億円 に近い衛生害虫駆除対策に対する国庫補助金が、「シャウプ勧告」による地方財政平衡交付 金制度24)が実施されたことも、この組織活動を促進する要因となっている。  これらの活動は、1952(昭和27)年に厚生省によって実験地区が設けられ、その後、体系 化されて環境衛生モデル地区となり、全国に広まっていった。このモデル地区は1954(昭 和29)年には全国に6,000地区、対象人口約600万人(人口の6.6%)をカバーした。

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 1955(昭和30)年の厚生省の調査では、全国の衛生組織数は10,924で、活動の内容は環 境衛生が78.8%と圧倒的に多く、次いで伝染病予防14.1%、母子衛生8.9%、栄養改善7.9%、 家族計画6.7%、結核予防5.1%、寄生虫予防4.1%、口腔衛生1.2%であった。  この時期、厚生省の提唱により、3か年計画による「蚊とハエのない生活」実践運動の 全国的推進が閣議でr承され、普及はいっそう促進され、マスコミの力も加わって>1とし て農村部に限られていた活動が、大都市へも普及することとなった、 ○母子保健  衛生婦人奉仕会として大阪府下に普及した、主婦による広汎保健衛生活動の先駆者とな った吹田r†fや豊中市などの母子会は、1950(昭和20)年に発足し、母と子の健康と福祉の向 ヒを目的として活動を行った25)。  吹田母子会は現在も活動を続けている団体であり、母親の健康を守ろう、子どもを健康 に育てよう、健康なまちづくりを、明るいまちづくりに貢献しようという}:旨で、主婦の 手によって自発的に結成された組織である。この組織運営は、会員による会費と事業収益 金を主な財源とし、行政への協力活動、行政との共催活動、行政への要求、母子保健・講 座など6部門の分野で活動している。運営形態は各小学校区に支部を設け、保健所に本部 を設け、1年任期で役員が改選されている。1979(昭和54)年の事業計画は、育児相談会、 乳がん検診のすすめ、献血運動、救急看護講座開催、妊婦学級、料理教室など多彩である 26)  また、1936(昭和ll)年に発足した愛育班が、戦後再び活動を活発にした。1954(昭和 29)年以降、厚生省の政策として保健所地区ごとに母子衛生のモデル村が指定され、全国に 活動が広がり、母子に関する保健知識の普及を行った2T}。 ○結核予防の活動  1940年から1950年は結核による死亡率が1位を占めていた時代である。この課題を解 決するために1950(昭和25)年に、長野市では結核予防のための婦人会組織が生まれ、 結核健診のPR、検診車購入のための募金活動などを展開している。この活動は1975(昭 和50)年に全国組織となった28)。1959(昭和34)年には、神奈川県横須賀市の一町内会で、 自治会が有志を募り、結核予防のために100%レントゲン受診運動を展開し成功を収めた 29)。 (3)地域ボランティアにおとずれた危機  ヒ記の吹田母子会と同様に発足した東成母子会は、1963(昭和38)年に解散寸前の危機を 味わっている。発足当初は活発な活動を展開していたが、同事業を数年続けることで面白 みがなくなり、会員数が減少していく。この課題を解決していくためにいくつかの活動運 営の転換を行い、この危機を乗り切ったという経過をたどった。このように当初は華々し い組織活動であったものが、長期に続いた活動の中で、行政のド請け的存在となり自主的 活動が減少し、グループ内の世代交代の難しさや人間関系のトラブル、活動のマンネリ化、

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生産性を優先させる社会構造の中で、自分の仕事が優先されるなどの要因により、衰退を 始める組織が出現し始めた30),  また、行政の指導により各地域へ拡大されたことによって、この活動の主旨である住民 自らが作る組織の意図が十分に理解されぬまま、または意識が育成される前にプログラム が開始された。結果として行政の下請けとして存在することとなってしまい、存在意義が i一分に生かされないという課題も、組織ははらんでいた。 (3)当時の批判 ○農村社会をべ一スにしたプログラム  1950年代後半にモデル地区の活動を調査した社会学者が、「これは農村の前近代的な組 織を足場にして進められており、このようなやりかたでは、地域社会の真の進歩は期待で きない」と批判をしている31)。  都市社会では、大多数の人々がほとんどの住民を個人的に知らないまま、お互いにきわ めて接近して暮らしており、これは伝統的な小規模農村社会と根本的に異なる点である。 また、高い流動性のため、住民どうしの結びつきは比較的弱い。そして、人々は毎n、多 くのさまざまな活動や状況に組み込まれているため、生活のペースは農村地域に比べて速 く、協力よりも競争が幅を利かせる32}。このような、都市社会の生活様式の拡大の中で、 現行のプログラムの適応は困難ではないかと指摘された。 ○公衆衛生への意識の低さ  柴田徳衛は「西欧では公衆衛生に対する医学会の研究・実際の1二事もほぼ整備した後に 細菌学が発展し、…(中略)…日本は、先進衛生研究の成果に学び、その設備を整備する 前に、医学はそれを飛び越えて細菌学研究に主力を注ぎ…(中略)… いかに都市環境を整 備し病人をつくらないですませるかという研究はきわめておろそかになり、すでに病気に なった人をいかに個人的に治療するかという研究に重点がおかれていった。政府も、多額 の費用をかけて下水道建設をしなくても、伝染病患者を強制隔離し、さらに個人的に予防 接種で済ませることが安上がりですむために、後者に力点をおいた」33)と述べている。  この指摘から治療を優先し予防を後回しにすることによって、住民の自主的予防活動へ の唱導や社会的後押しが得られないことは、プログラムの疲弊につながっていくことが予 測できる。 ○目的性の欠如  川一ヒ武は「日本では今の科学の「成果」のみを彼らから受け取ろうとしたのでありますc この最新の成果を彼らから引き継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうと はしないのです」34)と述べている。川上の発言は、この活動に限定しているものではない が、各地で先駆的に実施された活動が全国的に広がっていく過程で、ここになぜ、何のた めに行うのかという精神が明確に刻まれていたのか、という問いとして捉えることができ よう。

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○専門家への過大な期待と押し付け  住民の健康を守るために農村医学に取り組んできた佐久総合病院院長(当時)若月俊…は、 農業協同組合誌(1960(昭和35)年3月)で下記のように訴えている。  当時の農業協同組合病院の経営の苦しさを訴え、また、健康を守ることの重要性を理解 せず、金儲けのできない厚生連のような組織に出資することすら、こころよく思わないよ うな農協の組合長さんがいることの悲しさを伝え、共済連のような金回りのよい組織が、 同じ農協の旗のFで厚生福祉の仕事をしているのに、どうして金を融通してくれないのか、 また、医療のような仕事は、お上に任せればいいのではないか、我々がやるべきものでは ないというような、協同組合の主体性や積極的な活動の意識を認めない一部の意見に対し て憤りを覚えるとも述べ、現在地域に入って健康管理をそ]っているが、農民の立場に・ttlっ て、農民とともに進むということが絶対に必要であると主張している35)。

3.1960年から1970年代前半(高度経済成長時代)

(1)医療・保健の動き  この時代は、母子保健の充実に取り組んだ時代である。1965(昭和40)年に母子保健 法が制定され妊産婦になる前段階の女性の健康管理を含めた…貫した総合的な母子保健対 策が推進され、3歳児健康診査や1歳6か月児健康診査などが開始された。また1973(昭 和48)年には老人医療の無料化を行った36)。 (2)都市部への人口流入とコミュニティ  人口流動は、1950年代の後半から1970年代の前半にかけての高度経済成長に伴い、急 速に加速する。人口集中地区人口の全人口に占める割合は、1960(昭和35)年の43.7%から 1975(昭和60)年の57.0%までヒ昇した37)。この結果、ニュータウンといわれる都市近郊 の住宅地域が整備されていく。この動きは大都市圏のみでなく、やや遅れて地方都市にお いても小規模ながら同じように進行していった。  郊外のニュータウンに建てられた住宅に入居したのは、都市部まで満員電車に乗って通 う勤め人の夫、専業Il婦の妻、そしてその子どもという家族構成であり、ニュータウンは 世代も生活様式もきわめて同質な地域であった。このようなニュータウンでは職住が物理 的に離れていることから、夫は仕事が終わってから地域貢献のために集うということは困 難になった。  また、「モーレツサラリーマン」といった言葉が示すように、帰属意識を会社に見出し、 個人の経済成長が優先され、週末は自分の休息のために使うことになる。妻は、個人の生 き方を干渉する従来の地域共同体で育ってきたこともあり、その反発として積極的な近所 付き合いを行わずに、連帯意識が希薄な社会が形成されていった38)c  都市の中心部では、「お互い様」の意識は減少していく。人口の減少、小売店や家内工業

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の減少によって、商店を通じた町内会的な地域社会の維持が困難となった.  農村部はどうであろうか。「主婦農業の母ちゃんたちは、むしろ労働法による労働時間の 制限や、産前産後の休息の制限のないことをいいことにして、農薬散布や耕運機操作など 危険作業にも、身を挺して働きに働いている、ただ現金収入が得たいばかりに。確かに農 家の収人は増えてきているが、体は前より疲れている39)」という指摘がある。農村部でも、 生産性を高め個人の経済を優先させることが当たり前になっていることがこの指摘から読 み取れる。また、兼業農家が増加し、男の被雇用者が増え、地域社会の共同体は希薄にな っていった。 (3)健康課題  急激な都市化の進展、重化学工業の発展、人口の都市への集中によって起こる糞尿一やご みの処理、大気汚染、水質汚濁などの問題が発生し、健康課題は公害被害、感染症から生 活習慣病、心の病などへと拡散していく。これらの課題は、今までの感染症や母}保健な どの地域全体で取り組むべき課題というのではなく、問題の発生地域や課題を抱えている 者に限られる。そのため地域全体の課題として問題解決が図られるのではなく、公害被害 者グループ、精神障害者社会復帰グループや家族のグループ、治療法が確立されていない 難病グループなど、社会生活を営む上で何らかの障害を持つ人びとによって組織がつくら れていった。 ○公害  日本の公害は、重工業優先によって引き起こされた悲劇であった、もっとも有名なのは 水俣病である。1953(昭和28)年ごろから熊本県水俣市郊外の漁村に発生した水俣病は、 工場廃液の規制が開始されるまでに約20年がかかり、その間、環境汚染を媒介として生 物濃縮により広範な地域住民にメチル水銀中毒を起こした。また、カドミウムの重金属類 による土壌汚染によって引き起こされた富山県神通川流域のイタイイタイ病、重化学工場 のばい煙による四日市市周辺の喘息、母乳のPCBなど化学物質による汚染などさまざま な課題が噴出した。  このような状況の中で、静岡県東部の三島市・沼津市・清水町周辺にコンビナート建設 の話が持ち上がる。「四日市市の二の舞いはするな」と、1963、1964(昭和38、39)年に 住民運動が起き、成果を収めている。この運動は国への陳情運動ではなく、地方自治体へ の運動に徹している。地元の科学者による調査をもとにした各地域での学習会や集会、四 日市の集団見学、臭い魚の刺身を食べる体験、有権者3分の2の住民によるデモなどによ り、市長、市議会の誘致反対という結果を導き出した40)、, ○精神障害者の社会復帰  精神障害者は、発病後他者との日常的な付き合いが疎遠になる者が多い。また、いくつ かのことを同時に実施したり、すぐに判断を下すことが困難になりやすい傾向がある。そ のため、生活上の障害に直面し勤労者としての社会復帰が難しくなる。通院患者への医療

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費の公費負担を保健所が実施していたことで、行政が家族に呼びかけを行い、各地で家族 会が結成されている。家族会では、患者の自宅への閉じこもりを解消するため、また社会 復帰に役立てるため、保健所でのデイケアの設立や、作業所の設立などを実施した一a・1}. ○難病患者の在宅ケア  難病の組織として東京筋ジストロフィー協会を取りヒげる,東京筋ジストロフィー協会 は1969(昭和44)年に社団法人化し、筋ジストロフィー患者の在宅での生活を可能にす る活動を行っている。筋ジストロフィーは症状が進行すると、自ら疾を出すことができず 吸引を機械に頼らなければならない、また、自力での寝返りが打てないため、他者のサホ ー一一‘ gによって寝返りを打つことになる。これを1時間おき、2時間おきに毎日行う必要が あり、到底家族だけでサポートすることはできない,当時、介護保険制度はまだ登場して おらず、病院に入院してのケアが主流だった時代である。患者家族の団体は、医師会、保 健所などの協力機関や周辺住民によるボランティアを巻き込み、在宅医療・看護・介護の システムを進めていった。このことによって筋ジストロフィー患者が自宅で生活が可能と なり、介護をする家族の負担が軽減した42)。  これらの市民運動は、1960年以降に多発した住民運動や革新自治体によって提唱された 直接民主主義の流れを汲んでいる13)。陳情、請願、市民相談室、モニター制度、各種懇談 会、委員会などの制度にあきたらず、自らの生活に影響を与える政策の形成・決定・執行 過程への住民参加を求めたこのような要求は、行政と対立する地域エゴといった見方もさ れた44}。  健康弱者への社会保障の向上という意味においては貢献したが、個別性や母集団が少な いこと、また人権意識の希薄な時代でもあり、一般的な生活を営む人びとからは遠い存在 として捉えられていた。 (4)栄養改善運動  当時、積極的であった健康増進、予防活動は、地方での栄養改善運動である。1960年代 に入ると、各地で栄養指導車(キッチンカー)の購入が始まった。新しい食事の作り方や栄 養課題克服のための食べ物について、実際に料理の方法を見せ、試食ができるプログラム が開始される。この活動はアメリカの食料輸入政策であったことが後にわかるのであるが、 当時は画期的な教室として村々で歓迎される、、宮城県では食生活改善を実施していたll婦 の委員たちが、「米一握り運動と称して資金集めを実施し、その資金を県に寄付し、第’ 号の栄養指導車の購入を後押ししている。この車は、県内各地、僻地、離島に栄養iJと1: 婦の会員たちを運び、巡回指導を行った。  その後、食生活改善委員についてはリーダー養成を目指した教室が全国的に実施され、 乳製品の普及、ビタミン摂取、減塩や貧血予防など疾病f’防のための食にっいての活動を 展開した4r))。

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(5)コミュニティの衰退とともに広がる保健組織の衰退  その後、さまざまな組織が全国的な組織となり、住民参加が広がりはしたものの、1,i体 的な組織の活性化へ広がりをみせることは少なかった。  当時の大阪府東成保健所長の橋本博は、1960年代に人り都ri∫化の中で住民の組織活動が 衰退してきているように思えると、1966(昭和41)年第22[・1日本公衆衛生学会総会でのシ ンポジウム討論で、「都市住民の生活環境の急激な変化、都市への人口集中化に伴う人n構 造の問題、行政機関のマンモス化によるコミュニケーションの不徹底などを原因として、 地域住民と地域社会との結合希薄化が起こり、地域活動に対する関心の低F、地域での少 数活動への業務の集中と、それの伴う地区指導者のボス化という現象が発生し、結局、地 区組織活動の展開も都市構造との関連において検討せねばならない状況になっている」16’ と課題を示している。  農村部の活動はどうであろうか。和唐正勝の1966(昭和41)年、島根県での調査から 当時の状況が読み取れる。この調査は島根県内の2町を対象とした調査である。いずれの 町も婦人部、厚生部を母体として出来上がった保健委員が各部落単位で設置され、栄養指 導、育児指導、蚊・ハエ・鼠族の駆除、高血圧対策、がん検診の誘いなどを実施している。 これらの活動は、行政の指導によって出来上がった組織であり、実質的に地方自治体の末 端行政の代行という機能を果たしており、必ずしも組織活動そのものの意義の認識に基づ く積極的・自主的参加を意味するものではない。また、住民の保健組織活動に対する意識 や活動と、日常生活全般に浸透した自立的・自主的健康管理の意識に基づくものではなか った47)。

4.1970年後半から1980年代(プライマリ・ヘルスケアの誕生)

(1)医療・保健の動き  1982(昭和57)年より壮年期からの健康づくりが開始され、5年ごとに健康診査の質の 向ヒが図られた。また同年1982(昭和57)年に、「障害者対策に関する長期計画」が策定 された48)。精神保健分野では1984(昭和59)年に宇都宮事件49)が発覚し、1987(昭和 62)年、精神障害者の人権に配慮した適切な医療、保護、社会復帰を促進する精神保健法 が策定された50)。 (2)経済蓄積を優先と生活の質  高度経済成長時代に引き起こされた公害問題や都市部への人口過密現象などにより、行 政や企業に対して異議申し立てを直接行う住民運動が活発になり、福祉・教育・環境とい ったテーマが重要性を増していく。そして政治への関心は、多くの都市で革新自治体を誕 生させることとなる。しかし、1970年代後半からは、地方自治体の財政が深刻な問題とな

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り、脱一F業化へ向かう産業構造の転換が本格化した。そして再び経済蓄積を優先させた時 代が始まり、1980年代後半のバブル経済を誘発した51).  乗用車保有世帯数の増加と女性の運転免許保有者の増大に伴い、都市郊外の主要幹線道 路沿いに駐車場を構えたファミリーレストランやショッピングセンターなどの店舗が進出 し始めた。この動きは、大都市圏郊外のみならず全国的な規模で展開され、どこでも郊外 の風景は似通ったものとなっていった、、また、都市中心部では、地価の高騰と商業地化に より人口減少が始まっていった。  1970年代後半以降、専業主婦の趣味などの学習活動やボランティア活動、あるいは生協 活動など、子育てが一一段落した後の主婦の積極的な地域活動への参加がみられるようにな った52)。  相対的に濃密なネットワークを持つ東京都内の団地を対象とした文崖俊子の「インフォ ーマル・グループの形成について」によると、趣味・娯楽や管理組合などの集団参加や施 設利用を契機とする者がもっとも多く、次いで家族形態が一一致するものであった、このイ ンフォーマル・グループは小さくまとまっており、他に似通った集団であっても相iilの関 係は没交渉であった。そこでのネットワークは、それぞれが目的に合わせて「互いに利用 する協力関係」であり、お互いに深く干渉しないように距離を置く傾向がみられた謝/一 (2)財政課題と保健システム  オイルショックに続く構造不況・減速経済のもと、不況経済対策として公共事業費など の大幅増額が赤字国債発行を伴って実施された結果、今日の国家経済危機を生み出した時 期であり、大蔵省をはじめとして財政側から健康自己責任論、地域保健医療体制づくりな どが強く主張され、受益者負担論が登場した。また、保健所の再編・合理化、管理機関化、 対人保健サービスの市町村移管、市町村保健センター一一一を末端機構とする市町村中心の健康 管理体制づくりの動きが始まった。  この時期のもっとも大きな課題は、高齢者問題である。高齢化社会の到来によって国民 健康保険など医療保険の逼迫、高齢者年金の支出の増大と少子化による所得税などの税金 の減少というアンバランスな現象を抱えることとなり、「福祉国家の危機」が論じられ始め た。このような社会状況の中で、1978年の国民健康づくり計画は、まさに1970年代に浮 上してきた新たな行財政再編成・合理化の取り組みの具体的な現れともいえる54」、 (3)健康づくり対策の誕生  1978(昭和53)年より、本格的な長寿社会の到来に備え、明るく活気のある社会を構築 することを目的として、国民健康づくり計画が開始される,1988(昭和63)年より、第2次 国民健康づくり対策が開始され、疾病の早期発見・早期治療から健康増進に活動の重点が シフトされた。ここでは、栄養・運動・休養というバランスのとれた生活習慣の確立に主

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眼を置き、厚生省(現厚生労働省)によって食生活改善推進地区活動や運動普及員地区組 織活動の促進が推奨されることとなった「・5・」。  食生活改善推進地区組織は、体操なども含めた健康増進の活動を進め、1985(昭和60) 年前後より「母と子の楽しい料理教室」、「お袋の味を伝えよう」など、食卓を中心とした 親子関係や人間関係の育成にも活動の幅を広げた56Y。また、骨密度検診を導入し食生活と の関係を理解してもらう活動なども行った57)。   同時期の1976(昭和51)年には、母子保健推進員活動に関する厚生省の通達が出され ている。国民健康づくり計画の厚生省からの通達は下記の通りである58}。 国民健康づくり地方推進事業および婦人の康づくり推進事業等について 衛発第328号 昭和53年4月11日  厚生省衛生局長通知 第一 主旨   近年、わが国においては、人口の高齢化、栄養の不適切な摂取や運動不足に伴い、肥満、貧血、  各種成人病等の増加が大きな問題となってきている。これらの問題に対処するため自分の健康は自  分で守るという認識の下に、各人が日常生活において栄養、運動、休養のバランスをとることを基  調として、地域住民に密着した総合的運動づくり対策を積極的に推進するものとする。 第二 事業の主体  事業の主体は市(特別区を含む、以下同じ)町村とする。 弟二 事業の内容 1市町村健康づくり推進協議会の設置   市町村は、地域の実情に応じた健康づくり対策を推進するために、保健所等の関係機関、医師会  等の保健医療関係団体、地区の衛生組織、学校、事業所等の代表者及び学識経験者で構成される10  名程度の健康づくり推進協議会(以下「推進協議会」という。)を設置し、各種健康診査事業、健康  相談、保健栄養指導、食生活改善などの地区衛生組織の育成、健康教育等、健康づくりのための方  策を体系的、総合的に審議企画するものとする。 2健康づくりの集いの開催等   地域住民が積極的に参加できる健康展、講演会、大会等を開催し、健康づくりに関する思想の広  範な普及を図るものとする。   家庭健康教室の開催等   市町村の保健婦、栄養+による家庭看護、健康管理、食生活の改善などについての講習会、巡回  指導、その他の地域住民の健康づくりに関して必要な事項を実施するものとする。なお、実施にあ  たっては、在宅栄養士、食生活改善普及指導員等の協力を得るようすすめるものとする。  健康づくりに関する知識の普及   パンフレット、リーフレット、映画などの各種広報媒体を活用し、健康づくりに関する基礎知識の  普及徹底を図るもとのとする。

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 5その他   健康づくりを推進するために市町村長が適当と認めた事業。  第四 事業実施体制の整備  1都道府県    都道府県知事は、市町村が実施する健康づくり推進事業が計画的、効率的に行われるよう、当該   市町村の事業計画の策定、事業の実施方法について指導助言を行うものとする,  2市町村    市町村長は、健康づくり事業が円滑に推進するために、関係行政機関、民間団体などと連携を密   にし、積極的な協力を得て事業を実施するものとする。 第五 経費の負担    市町村長がこの要領により実施する事業に要する経費については、厚生大臣が別に定めたところ   により国庫補助を行うものとする。 (4)プライマリ・ヘルスケアの登場  日本で国民健康づくりが開始された同時期に、世界では「プライマリ・ヘルスケア」の 理念が誕生する。  この理念は、1978(昭和53)年WHO(World Health Organization)とUNICEF(United Nations Children’s Found)の主催で開催された国際会議で採択されたものである。この 理念の本質は、「社会正義」という言葉で表現されている,先進国と開発途上国の医療格差、 それを生み出している南北の経済格差をそのまま放置しておいてよいのかという怒りを 発端とし、地域住民にとって欠くことのできないヘルスケアを世界全体で促進しようとい うものである。また、健康は人間の権利であり、可能な限り高度の生活水準を達成するこ とは、世界における目標であることも示した59)。報告書の中で住民参加について次のよ うに触れている60)。 1.住民参加は彼ら自身の健康や福祉や地域社会などに関する責任を、個人や家族が担うた  めの過程であり、また彼らあるいは地域社会の発展に寄与する能力を養うための行動者  として、彼らを処遇し、それにより彼らが行動者になることができる。 2.保健従事者は彼らが住んでいる地域社会の構成員である。彼らと地域社会の他の人間と  の間で、今までと変わりなく対話を持つことは、プライマリ・ヘルスケアに関する観点  と活動を調和させるのに必要である。これらの対話を通して保健医療従事者は地域住民  の考え方や地域住民のものの見方に対する理由、そして望む水準は何か、組織と地域社  会の形は何かということを、よりよく理解することができるようになる。 一方、人びと  は自分たちのものとして、自分たちの真の保健ニーズを明確に理解し、プライマリ・ヘ  ルスケアに対する国の戦略を理解し、それにつつまれるようになり、そして保健のため  に地域社会活動を向上させることを学ぶようになるであろう。 3.プライマリ・ヘルスケアのすべての段階において、地域社会の住民が参加できる多くの

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方法がある。まず第一に、住民はその状況の評価、問題点の決定、それらの優先順位の 決定にあずからなくてはならない。そのことは、プライマリ・ヘルスケアの活動計画を 立てるのに役立ち、引き続いてこれらの活動が実行されるとき完全な協力をとることが できる。これらの協力は、健康な生活様式を受け入れる、あるいはよい栄養と衛生状態 を原則的に適応する、予防接種を受け入れるといったような、彼ら自身の保健サービス におのおの個人が最も責任があることを受け入れることを意味している。さらに、地域 社会のメンバーは、プライマリ・ヘルスケアに対する財政及びその他の資源と同様に労 働力を提供できる。  ここで示されたように、組織的な地域社会の参加と、自分たちの健康により多くの責任 を持とうとする個人・家族・地域社会による基本的な自助努力の重要性を強調している。 前述した日本の「国民健康づくり」と「プライマリ・ヘルスケア」の相違は、次の3点に まとめることができる。  一つめは、方法論の提示と理念の提示の違いである。日本の国民健康づくりでは、「健康 づくり推進協議会をどのようなメンバー構成でつくるか」といった方法が書かれているが、 プライマリ・ヘルスケアでは、3項目にわたって住民参加の意味をr寧に伝えている。  二つめは、健康に関する捉え方が、前者は自分の健康は自分で守るという自己責任論で あり、後者は、健康は人権であり、国と住民はその権利を享受できうるようそれぞれに行 うべき義務が課せられているという捉え方である。  3つ目は、住民参加の捉え方についてである。参加の種類は、知らせる、相談協議、ハ ートナーシップ、権限の委譲、住民自主管理61)であるが、前者では住民参加の捉え方が 明確にはなっていない。後者ではパートナーシップが色濃く示されている。  このような状況下で、日本におけるプライマリ・ヘルスケアは小さな芽にとどまった。 住民と行政のパートナーシップや、住民への活動の権限の委譲といった住民参加の意義に 到達せず、住民への周知や相談の段階までを住民参加と捉えたことも大きな要因であった、 また、…部を除いて行政主導で実施している衛生委員や食生活改善普及員などの住民によ る活動を住民参加と認識し、すでに日本では十分に実施していることと捉えたこと、プラ イマリ・ヘルスケアは多くの課題を抱えた途一ヒ国向けのプログラムであり、日本の課題で はないという捉え方があったことも要因の一つと考えられるc,  では、当時のプライマリ・ヘルスケア活動の萌芽的活動を事例からみてみよう。 ○静岡県三ケ日保健所の場合一在宅痴呆高齢者対策と住民との共同  1985(昭和60)年から開始された静岡県一三ケ日保健所の活動は、まだ介護保険や在宅 高齢者の福祉サービスのない時代の先駆的な活動であった。この地域は高齢化率が高く、 高齢者を在宅でケアしようという意識の高い地域であった。この地域で65歳以上の老人 を対象に三ケ日保健所の保健師が訪問による調査を実施した結果、痴呆老人を介護する家

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族も高齢で介護の交代者もなく、限界の状況で介護している様子が浮かび上がってきた。 家族の息抜きの場、支えてもらう場がほしいという家族の切実な訴えを受けて、モデル事 業としてリハビリ教室を開催した。  保健所担当者は、これらの活動の必要性と協力を各団体に伝えていった。この結果、老 人クラブの会員は、スタッフとしてトイレの介助や話し相手などを定期的に実施すること となった。また小学生との交流も開催され、小学生の楽器演奏に応えて、痴呆老人たちが 石臼を使って粉をひき、おやつの団子を作ってふるまうというプログラムも実施している、  この活動をベースとして、「高齢化社会をみんなで支えよう」をテーマとした地域懇談 会が開催された。構成員は保健所・保健センタースタッフ(保健師)、老人会、婦人会、保 健協力員、自治会長、小学校校長、市町村の住民福祉課、県高齢者対策課などである。彼 らにリハビリ教室の1年間の活動をビデオで見てもらい、その後、見学や参加をことある ごとに要請し実施した。この積み重ねによって、地域住民から「保健所だけに任せるので はなく、自分たちも活動を展開して行こう」という意識が芽生え、ヘルスボランティアの 確保や市町村の予算の獲得へと広がりをみせた62)。 ○長野県の場合一成人向け検診の行政と農協との共同  1985(昭和60)年の長野県下における市町村の行政と農協との共同企画による成人向 け集団検診の実施状況は、1974(昭和49)年では2.7%であったものが、1985(昭和60) 年には49.6%と伸び、共同企画が受診率も上がるという良好な結果が得えられている。松 島松翠らは、プライマリ・ヘルスケアの原則に立って以下のような考察を加えている,、検診 の共同企画によって受診者数は高まったが、定期的に担当者会議を開催していたのは約4 分の1に過ぎず、参加者も役職者が多い状況であり、これでは本来の住民の義務を果たし ていないのではないかという問いを投げかけている。アメリカの地域医療を推進する CHP(Consumer Health Program)のように、住民代表が半数以上入っている例もある. そこで、協議会形式をとり、地域の団体の代表者や農協の代表者などにも参加してもらい、 多方面からの意見や要望を集約し、自分たちの望む健康管理を自分たちのものにしていく 必要性を述べている63)。 (5)当時の批判  この時期に、研究者や関係者たちが保健分野の状況に対して批判した。そのうちの論点 をいくっか紹介する。 ○民主主義の確立と保健「衛生屋」からの脱皮 「第一線におけるわれわれの医療と保健の活動の反省から、最も重要と思われたことは、 国民の健康意欲の確立こそすべての根本的問題であるという帰結であった、,この意欲こそ がすべての運動の原動力であり、ここから、幸福の欲求も、人権の自覚も、そしてまた平 和の願望も出てくるのである。しかも、この欲求は決して架空の絵空事ではない。まった くの日常生活の、血の通った完成の中から形づくられていく具体的なのものなのである. (中略)われわれ保健技術者として、今日の人間が真に生きる条件を、新しく近代衛生学に

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