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複数論理と日本語意味論

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複数論理と日本語意味論

飯田 隆

2012

年 4 月

1

述語と関数

現在の論理学における標準的言語は「述語論理の言語」と呼ばれる。現代 の言語哲学と現代論理学との密接な結びつきのゆえに、この言語は、現在の 哲学における標準的言語であると言っても過言ではない。この言語において、 もっとも単純な文は、次のような形をしている。 (1) F a ここで「F 」は「述語」と呼ばれ、「a」は「名前」と呼ばれる。(1) は、たと えば、日本語の (2)花子は学生だ といった文と対応するとされる。「花子」が述語論理の意味での名前とみなさ れるということは簡単に推測できるだろう。では、述語にあたるのは (2) の どの部分だろうか。述語論理の言語を最初に作ったフレーゲによれば、それ は (2) に現れる名前、つまり、「花子」を取り去って得られるものである。つ まり、「は学生だ」がそうである。ただし、述語を提示する際には、名前が入 るべき場所を「x」のような「変項」と呼ばれる表現で置き換えて提示するの が、いろいろな意味で都合がよい。したがって、(2) において、「花子」が名 前とみなされるならば、(2) の述語は、 (3) xは学生だ である。 さて、フレーゲの大きな独創のひとつは、こうした述語のはたらきを、数 学における関数のはたらきと同じだと考え、述語が表すものを関数の一種で あると考えたことである。 「関数」という日本語の名称が示すように、関数とはふつう数と数とを関 係づけるものだと考えられている。だが現在、関数という概念にもっとずっ と広い範囲のものを含めるのがふつうである。もっとも単純な場合、関数は、

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数には限らず何であれ何か一つのもの a が与えられたならば、それに対して、 同様に数とは限らない何か一つのもの b を結びつける。関数はしばしば「f 」 という文字で表される。いま考えているもっとも単純な場合は「f (x)」と表 され、「x」をこの関数の項と呼ぶ。関数の中には、「f (x, y)」で表されるよう な二つの項をもつものもある。項を一つしかもたない関数を「一項関数」、項 をちょうど二つもつ関数を「二項関数」と呼ぶ。一般に n 個の項をもつ n 項 関数を考えることができる。項が取る個々の具体的な値を「入力」、それに対 して関数が取る値を「出力」と呼ぼう。 高校までの数学でおなじみの二次関数 x2 を f (x) とするならば、 f (2) = 22= 4 である。数以外のものを関係づける関数 aの県庁所在地 を f とすれば、 f (群馬) = 前橋 である。 二項関数としては、二数の和を与える関数「x + y」がなじみ深いものだが、 数学以外の例としては 父親 a と母親 b とのあいだの長男 をその例として挙げることができる。この関数を f (a, b) と表し、一郎が、太 郎と花子の長男である(太郎が父親で花子が母親であるとする)ならば、 f (太郎, 花子) = 一郎 が正しい。この場合、太郎と花子のこの順での組み合わせが入力で、一郎が それに対する出力である。 たぶん誰もがどこかで習ったはずだが、関数について重要なことは、入力 が一つに決まれば、それに対する出力はただ一つに決まるということである。 たとえば、「x の平方根」という表現は関数を表すものではない。なぜならば、 一般に、ある数の平方根には正のものと負のものの二つあるからである。同 様に「父親 a と母親 b のあいだの子供」もまた関数を表さない。二人のひと のあいだの子供は必ずしも一人だけとは限らないからである。 さて、(3) のような述語が関数を表すのだとすると、それはどんな関数だろ うか。フレーゲに従えば、それは、対象一般を入力として、真もしくは偽と いう二つの真理値のうちのいずれかを出力とする関数だという。

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しかし、これでは何のことかわからないに違いない。いまの例で説明すれ ば、こういうことである。「x は学生だ」は一項述語であり、変項「x」のとこ ろに、どんなものでも対象を指す名前を入れるならば、文ができる。「花子」 を入れると、先ほどの文 (2)花子は学生だ ができるが、「花子」の代わりに、「花子の母親」を入れると (4)花子の母親は学生だ という別の文ができる。いま、ある決まった時点で考え、そのとき、花子は 学生であるが、花子の母親は学生ではないとしよう。そうすると、(2) は真で あるが、(4) は偽である。また、「x」に「地球」や「π」を代入して得られる (5)地球は学生だ (6)πは学生だ といった表現も、文であると考え、無意味ではなく偽だと考える。たいへん 奇妙に思えるだろうが、「対象一般」を入力とするということを文字通り取る ならば、こうした場合も考えなくてはならない。 述語が関数を表現すると考えるならば、関数への入力に対する出力がなく てはならない。入力は、述語の項に代入される名前が名指す対象であるとし ても、出力は何にすべきだろうか。述語の項に名前が代入されることによっ て結果する文が表すものとするのが妥当だろう。しかし、文が表すものとは 何だろうか。伝統的な答えは命題であった。しかし、フレーゲの答えはちが う。かれは、文はただ「真」あるいは「偽」という二通りの値をもつことし かできないと考え、この二つの値を「真理値」と呼び、それらはある独自の 対象であるとした(フレーゲがこう考えるに至ったのには、さまざまな理由 があるのだが、それは、ここでの本題ではないので割愛する)。 そうすると、「x は学生だ」という述語は、花子や花子の母親やフレーゲや 地球やπといったさまざまな対象を入力とし、真あるいは偽のどちらかの真 理値を出力とする関数だということになる。関数表現としての述語という考 え方に慣れるためには、次のような対応が役立つだろう。 (a) 入力 a に対して関数表現「x は学生だ」は、真理値「真」を 出力として返す↔ 述語「x は学生だ」は対象 a について成 り立つ。 (b) 入力 a に対して関数表現「x は学生だ」は、真理値「偽」を 出力として返す↔ 述語「x は学生だ」は対象 a について成 り立たない。

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一項以外の述語についても、フレーゲは同様にそれを関数表現として扱う。 ただ、そうした表現は項を二つ以上もつ関数を表すものとなる。二項述語の 例として次のものを考えよう。 (7) xは y を発見した この述語は、フレーゲ流に考えれば、それぞれ項「x」と項「y」に代入され る名前によって名指される二つの対象を入力として、出力として真理値を返 す関数を表す。たとえば、「x」に「マリ・キュリー」を、「y」に「放射能」を 代入して得られる文 (8)マリ・キュリーは放射能を発見した。 は真であるから、マリ・キュリーと放射能という入力に対する関数 (7) の値 は「真」ということになる。 これまで述べてきたような、述語についてのフレーゲの見方については、 さまざまな異論や批判が寄せられてきた。その一部を挙げれば、次のような ものである。 (i) 述語の項となりうるものが「対象一般」であるとすることは、先に出て きた (5) や (6) のような、ふつう文法的に正しいとされない表現もまた 文として認めることになる。しかし、述語の項となりうるものは、どの ような述語のどのような項であるかによって、たがいに異なるし、その 範囲は通常ごく狭いものにすぎない。たとえば、述語「x は学生だ」の 「x」に代入できるものは、人を指す名前に限られているだろう。 (ii) 述語の項を対象一般と考えることは、関数表現とみなされた述語の定 義域を対象の全体とすることであるが、対象の全体のようなものが矛 盾なしに想定できないということは、フレーゲの論理体系を難破させ たラッセルのパラドクスが示したことである。 (iii) フレーゲは、関数表現としての述語は、その値として必ず、真と偽の真 理値のうちのどちらかを取らなければならないと考えた。しかし、文の なかには真でも偽でもないものがある。(5) や (6) を文法的に許される と考えたとしても、このような文は偽であるのではなく、真でも偽でも ないと考えるのがふつうではないだろうか(1)。つまり、述語が表す関 数は、どのような入力に対しても常に何らかの出力を返すトータルな ものである必要はなく、ある入力に対しては出力をもたない部分的なも のであってよい。 (iv) 述語を関数の一種を表すとみなすためにフレーゲは真理値のような対 象を想定し、文は真理値を指示するとした。これは、文を名前の一種と 考えることである。文を名前に同化することは、言語における文の中心 的位置を見失う根本的な誤りである。

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こうした批判の中には、フレーゲ以後の展開において、一般に受け入れら れたものもあれば、未だに評価が分かれるものもある。しかし、フレーゲ的 な述語観に対してどのような批判を提起するにせよ、すべての批判者がまっ たく問題としなかった点、問題があるとさえ気づかれなかった点がある。 関数が与えられた入力に対してただ一つの出力を返すべきであるということ が、関数を、もっと一般的な「対応」や「関係」といった概念から区別する重要 な特徴であることは、よく知られている(「多値関数 multi-valued function」 という名称があるにはあるが、これはまったくの例外として扱うべきである)。 これに対して、関数に与えられる入力が一つでなくてはならないということ は、あまりに当たり前過ぎて、それ以外の可能性はまったく考えられもしな いだろう。ただし、このことは丁寧に説明されなければ誤解されてしまうに ちがいない。二次関数 f (x) = x2 を例に取ろう。この関数は入力としてさまざまな値をとることができる。た とえば、入力 2 に対しては出力として 4 を返すし、3 に対しては 9 を返す。 「関数に与えられる入力が一つでなくてはならない」とは、関数の項となりう るものの全体—「関数の定義域」と言われる—が、ただ一つの要素から成っ ていなくてはならないなどという無茶な要求のことを言っているのではない。 それが言うことは、関数が入力として取るものはその都度一つでなくてはな らないということである。たとえば、二次関数 x2は、2 と 3 を同時に入力と して取ることはできないということである。 また、ここで問題となっているのは、二項関数 g(x, y) = x + y が、「x」と「y」という二つの項に対する入力として二つの入力を必要とする ことでもない。問題にされているのは、これらの二つの異なる項の各々につ いて一度に一つずつしか入力となる数を選べないということである。どんな に法外に聞こえようとも、考えられているのは、「x」に二つ以上の数をあて がい、同様に「y」にも二つ以上の数をあてがい、そこから何らかの(一つと は限らない)出力が結果するといった可能性である。 何が問題とされているかが、これでわかってもらえただろうか。仮にわかっ てもらえたとしよう。そのときには、次のように問い返されるだろう—たし かに奇妙な想定だけれども、関数の概念がそうした想定の可能性を排除して いることはわかった。しかし、そんな想定をして何になるのか。同時に二つ 以上の入力を許して、それに対して何か値を返すようなものを考えることに、 どんな利点があるのか。 利点があるどころか、そう考えることが必要だというのが答えである。じ つは、自然言語の述語の多くは、一つの項に対して同時に二つ以上の入力を 取って、真もしくは偽といった値を返すものだとみなすことができる。英語

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のような言語であれば、複数形の述語がそうした述語の例である。次の文を 考えよう。

(9) Whitehead and Russell are philosophers.(ホワイトヘッド とラッセルは哲学者だ。) この文の述語は何だろうか。自然な答えは、この文の述語は「x are philoso-phers」だというものだろう。では、この文で、この述語は何に述定されてい るだろうか、言い換えれば、何に適用されているだろうか。ホワイトヘッド とラッセルの二人だと答えるのが自然ではないだろうか。つまり、この複数 形の述語は、その項「x」に同時に二つ以上の入力を許すどころか、要求する 述語ではないだろうか。 あるいは、次の文を考えよう。

(10) Whitehead and Russell wrote these three big books.(ホワ イトヘッドとラッセルはこれら三冊の大きな本を書いた。) この文の述語は「x wrote y」という二項述語だろう。この述語は、単数形と 区別されるような形を取っていないが、実際には複数形として働いている。 実際、この文は、ホワイトヘッドとラッセルの二人と、ここにある三冊の分 厚い本とのあいだに、前者が後者を書いたという関係が成り立つということ を言うものである。つまり、(10) の述語は、その二つの項「x」と「y」の両 方が同時に二つ以上の入力を許すものでなければならない。 複数形の述語や、明示的に複数形を取っていなくとも、複数の入力をその 項に必要とするような述語があるのだとすれば、述語を関数の一種とみなし たフレーゲのやり方は根本的にまちがっていたと言わざるをえないだろう。 フレーゲが著作を行ったドイツ語はもちろん複数形の述語をもつ言語である。 複数形の述語の存在はフレーゲにとっても明らかだったはずである。フレー ゲだけでなく、現代論理学の建設者たちはみなドイツ語や英語やフランス語 といった単数と複数の文法的区別をもつ言語の中で育った人々である。それ なのになぜ、複数形の述語が、述語を関数とみなすことに反対する論拠とし て出されなかったのだろうか。 その理由はおそらく、この点に関しては、述語に対するフレーゲの考えが、 述定についての伝統的考えと一致していたことにあると思われる。それによ れば、複数のものに述語が適用されているというのは見かけだけのことであ り、そうした述語の適用はすべて単一のものへの述語づけと等しいか、ある いは、そうした述語づけに還元できる(2)。こうした主張を「述定に関する単 称主義」と呼ぼう。この主張がはたして正しいかどうかを見ることが、次節 の課題である。

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2

単称主義的戦略

(9)のような文についてフレーゲは次のように言う(3)。

“Schiller und Goethe sind Dichter”(「シラーとゲーテは作家で ある」)と言うとき、“und” (「と」)によってわれわれは、本来、 固有名を結びつけているのではなく、文 “Schiller ist ein Dichter” (「シラーは作家である」)と文 “Goethe ist ein Dichter”(「ゲー テは作家である」)とを結びつけているのであり、これが短縮さ れて一つの文になったのである。

たしかにこうした主張は一見もっともに見える。しかし、それは、“x are philosophers”や “x sind Dichter” といった述語が、ある特別な性質をもつ

からである。いま、単数形の述語 F (x) に対応する複数形の述語を F′(x)と しよう。問題の性質とは次である。 ある複数のものが述語 F′(x)を満たすならば、そのひとつひとつ は述語 F (x) を満たす。 こうした性質をもつ述語を「分配可能な述語」と呼ぼう。(9) に現れる述語 “x are philosophers”は、たしかに、この性質をもっている。なぜならば、文 (9)が言うことが正しいならば、単数形の述語をもつ文の連言

(11) Whitehead is a philosopher and Russell is a philosopher. (ホワイトヘッドは哲学者である、かつ、ラッセルは哲学者

である。) も正しいからである。

しかし、明らかな問題は、分配可能でない述語の存在である。(10) が正し

いからと言って、次も正しいということは帰結しない(4)

(12) Whitehead wrote these three big books and Russell wrote these three big books.(ホワイトヘッドはこれら三冊の大き な本を書いた、かつ、ラッセルはこれら三冊の大きな本を書 いた。)

また、(10) に現れる “x wrote y” の x の項は常に分配不可能なのではなく、 分配可能な場合もあるが、“x are classmates”(x は同級生である)のような 述語の項は常に分配不可能である。実際、

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に対して、“Hanako is a classmate” と “Taro is a classmate” はどちらも意 味をなさない文である。

(13)に現れている述語は、“x are classmates” ではなく、“x and y are

classmates”という二項述語だと考えられるかもしれない。しかし、そのよう

に考えるのならば、

(14) Hanako, Taro and Jiro are classmates.(花子と太郎と次郎 は同級生だ。)

(15) Hanako, Taro, Jiro and Yukiko are classmates. (花子と太 郎と次郎と雪子は同級生だ。) といった具合に、三項、四項、. . . と、いくらでも項数の多い述語を考えなく てはならないことになる。しかも、それらの述語は互いに意味的に無関係で はありえない。たとえば、(15) が正しいならば、(14) も正しくなければなら ないし、(14) からは (13) が正しいことが帰結するのでなくてはならない。 ここではこれ以上論じないが、同級生であるというような関係が、自由に変 化する項数をもつとする考え方は、かつて思われていたほど無茶なものでは ないが、さまざまな難点を抱えている(5)。よって、分配不可能な述語を扱う ためには、もっと別の方法を見出す必要があると考えるのはもっともである。 そして、そのような方法は手近にあるようにみえる。述語論理の言語に対 して意味論を与えるとき現在標準となっている方法は、集合の概念を使うも のである。一項述語に対しては、その述語を満たすような対象の集合を対応 させ、二項以上の述語に対しては、その述語を満たす対象の組み合わせから 成る集合を対応させるというのが、そのやり方である。集合の大きな利点は、 それが複数の対象を要素としてもつとしても、それ自体一個の対象とみなせ るという点にある。 よって、(12) は、二項述語 “x wrote y” の二つの項はそれぞれ、ホワイト ヘッドとラッセルから成る集合と、目の前にある三冊の本から成る集合によっ て満たされると主張する文であると解釈される。また、(13)–(15) において、 “x are classmates”という述語が述語づけられているのは、複数の人々から 成る集合であるとされる。集合が単一の対象である以上、述語の項への入力 は一度にひとつずつであるという、述語づけについての基本原則は完全に守 られている。 しかしながら、ホワイトヘッドとラッセルという二人の人物と、この二人 の人物を要素とする集合とは、まったく別のものである。 (i) ホワイトヘッドとラッセルという二人の人物はそれぞれ、ある時間のあ いだ、同じ場所ではないがどこかの場所に存在していた対象として具 体的な対象であり、そうした具体的な対象を二人あわせて考えたからと いって具体的な対象でなくなるわけではない。これに対して、ホワイト

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ヘッドとラッセルを要素とする集合は具体的対象だろうか。この集合が 存在しているのはいつのあいだだろうか。ホワイトヘッドとラッセルの 両方が生きているあいだしか、この集合は存在しないのだろうか。仮に そうだとしたとしても、その間、この集合はどこに存在しているのだろ うか。二人が生きているあいだ、その両方がそれぞれいる場所を合わせ た場所に存在しているということになるのだろうか。それとも、具体物 を要素とするものであっても、集合は、時空のなかには存在しない抽象 的対象であると考えるべきだろうか。こうした問いが出てくるという こと自体、二人の人物と、その二人の人物を要素とする集合とのあいだ には違いがあることを示している。 (ii) ホワイトヘッドとラッセルという二人の人物は共同して本を書いたわ けだが、集合が本を書くなどということは、ありうることだろうか。ま た、ホワイトヘッドとラッセルが共同で書いたのは、三冊の分厚い本で あって、どんなものであれ、集合を書いたのではない。(12) の二つの 項を満たしているのは集合であると考えることは、このような不条理 を認めることになってしまうだろう。 (iii) だが、われわれの主題にとってもっと重要な違いは、ホワイトヘッドと ラッセルは二人であるのに対して、ホワイトヘッドとラッセルから成る 集合は一つだという違いである。 (i)については、ホワイトヘッドとラッセルを要素とする集合の代わりに、 ホワイトヘッドとラッセルから成るメレオロジカルな和というものを考えれ ばよいと言う人たちがいる。メレオロジーとは、「部分」を意味するギリシア 語の「メロス」から来る名称で、ポーランドの論理学者レシニェフスキが作っ た理論である。かれがこうした理論を作った理由のひとつは、かれが、集合 のような抽象的対象の存在を認めない唯名論者であったことにある。ホワイ トヘッドとラッセルから成るメレオロジカルな和は、ホワイトヘッドおよび ラッセルと同様、一定の期間、一定の場所を占める具体的対象である。した がって、少なくとも (i) のような批判に対しては、メレオロジーに訴えること で答えることができる。しかし、もちろん、それは他の種類の批判に対して も答えられるということを意味しない。 (ii)のような批判に答えるためには、結局、もともとの述語の読み替えが 必要になる。つまり、(12) が述べているのは、実は、二人の人物と三冊の本 とのあいだの関係ではなく、これと対応する二つの集合、つまり、ホワイト ヘッドとラッセルを要素とする集合と、三冊の本を要素とする集合のあいだ に「<書いた>」とでも表記すべき関係が成り立つことであるとするのであ る。そうすると同様に、たとえば (15) でも、その主題は、花子、太郎、次郎、 雪子という四人ではなく、この四人を要素とする集合であり、その述語「x

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are classmates」が表しているものも、同級生であるという関係ではなく、集 合について言われる<同級生である>という属性だと考えることになる。 だが、集合の属性であると言われる、この<同級生である>とは、どのよ うな属性なのだろうか。集合がこの属性をもつための条件とは何だろうか。 考えられる唯一の答えは次である。 (C) 集合 S が<同級生である>という属性をもつための必要十 分条件は、集合 S の要素が同級生であることである だが、この条件「集合 S の要素が同級生である」を表す日本語の文も、また、 それに対応する英語の文「The elements of the set S are classmates」も、複 数のものに対する述語づけである。このような述語づけを説明するために< 同級生である>という属性を考えたのに、それが、この属性を説明するため に必要になるのならば、結局、集合に訴えたことは何の役にも立たなかった ということになる(6)。 述語づけはその述語のいずれの項についても一度にひとつずつでなくては ならないという、述定についての伝統的見方を堅持する標準論理に固執する ことは、一度に複数のものに述語を適用するという、自然言語に豊富にみら れる現象に対して目をつぶることにほかならない。このことを端的に表すの が、(iii) に掲げた事実である。つまり、標準論理の枠組みに合わせるために、 (12)のような文の主題が、ホワイトヘッドとラッセルという二人の哲学者で はなく、ホワイトヘッドとラッセルを要素とする一つの集合であると考える ということは、複数性を複数性として扱わないことである。 標準論理の枠組みのなかで、(12) や (13)–(15) のような文の意味論を与え ようとするならば、単称主義的戦略を取らざるをえないことになる。複数の 対象への述定の多くは、簡単なパラフレーズによって単称述定に直せるよう なものではないから、複数の対象への述定を単一なものへの述定に置き換え るためには、集合やメレオロジカルな和といった「複数的対象」をわれわれ の存在論のなかへ導入しなければならないことになる。つまり、太郎や花子 のような一人一人の人間が存在するだけでなく、太郎と花子から成る集合か、 あるいは、太郎と花子のメレオロジカルな和といったものもまた存在すると 考えなければならない。 だが、単称主義によっては、複数性を正当に扱うことができないという、こ れまでの議論が正しければ、この方針を取ることはできない。代わりに取る べき道はほとんど明らかである。標準論理の枠組みを拡張して、述定は単数 でも複数でもありうるとすることである。存在論を拡張する代わりに論理を 拡張するのである(7)。このようにすれば、われわれがよく見知っている、太 郎や花子のような一人一人の人間の他に、太郎と花子を要素とする集合とか、 太郎と花子を部分としてもつ全体といったエキゾチックな種類のものが存在 すると考える必要はない(8)

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さいわい、そのような論理はすでに存在する。この論理は「複数論理 plural logic」と呼ばれる(9)。それは、標準論理の自然な拡張になっていると同時に、 自然言語の重要な側面のひとつである複数性にかかわる現象を分析するため の有力な道具でもある。次節では、複数論理が日本語の分析に適した論理で あることをみるだろう。

3

日本語と複数論理

ラッセルの記述の理論を思い出してほしい。それは一時期「哲学的分析の パラダイム」とまで言われた理論である。それだけに、この理論が出現して から百年以上経った現在においても、分析哲学や言語哲学についての入門的 解説には、この理論の紹介が、ほとんど必ずのように含まれている(10)。と ころが、本当に困ってしまうことに、この理論が何についての理論かとたず ねられるならば、それは定冠詞で始まる単数形の名詞句を含む文の意味につ いての理論であるというのが、もっとも直接的な答えなのである。「定冠詞で 始まる単数形の」といった種類の表現が日本語にあるわけがないから、そう すると、この理論は、日本語と関係のない理論だと考えられても仕方がない。 さらに、英語やドイツ語には適用できるかもしれないが、日本語には適用で きないような理論を、日本語で哲学している人間が。何で気にしなければな らないのかということにもなる。 記述の理論がなぜ重要なのかという問いに対して、私ならば、それは二つ の理由から重要だと答えるだろう。 一つは、それが、事態とその言語表現、とりわけ、自然言語に属する言語 表現とのあいだに生じうる大きな断絶を指摘したことである。この指摘が結 局のところ正しかったのかどうかとは別に、それは、言語とは単なる思想の 伝達のための中立的な道具にすぎないとする「言語の透明性」という先入観 を壊して、哲学的問題の源泉は言語にあり、その解決は言語に由来する誤解 を解くことを通じて果たされるべきだとする言語論的転回に、哲学を向かわ せる原動力のひとつとなった。この観点からみれば、ラッセルが取り上げた 実際の例は副次的な重要性しかもたない。同じ言語の中の別の例でも、ある いは、別の言語の中の別の例でも、同様の教訓をもたらしてくれるような例 を見つけることはできるはずである。 記述の理論が重要であると考えるもう一つの理由は、それが、新しい論理 学の道具立てを用いて、自然言語に属する言語表現のあるクラスの意味論を 与えようとした理論とみなせる点にある。言語表現のこのクラスとは、名詞 句というクラスであり、それは英語やドイツ語だけでなく、日本語にもあり、 おそらく、ほとんどの自然言語において同様のクラスを見出すことができよ う。名詞句の意味論という主題は、もちろん、言語学の重要な主題であるが、 哲学にとっても重要である。なぜならば、ある特定の対象を指示したり、「量

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化」と呼ばれる仕方で、ある範囲の対象を取り上げるときに、われわれが典 型的に用いるのが、名詞句だからである。つまり、名詞句の意味論は、指示 や量化といった、哲学的論理学の意味での言語哲学にとって重要な主題につ ながる。 さて、そこで、日本語における名詞句の意味論とは、ということになる。 意外かもしれないが、じつは、ラッセルが取り上げた例、すなわち、定冠詞 で始まる単数形の英語の名詞句というのは、日本語の名詞句の特徴を考える 際、比較の対象としてきわめて好都合である。定冠詞を伴うかどうかは、そ の名詞が、多くの場合コンテキストによって与えられる、ある決まった対象 を指すのか、それとも、ある範囲は決まっていても、そのうちのどれとは決 まっていない対象を指すのかを告げる特徴である。単数形かそれとも複数形 かということが何を意味するかは、言うまでもあるまい。そうすると、英語 の名詞句については、語形によって印し付けられる二つの区別があることに なる。 (A) ある決まった対象を指す(確定的)/ ある範囲に属するが、 どれと決まっていない対象を指す(不定的) (B) 単数 / 複数 他方、日本語ではどうだろうか。まず、できるだけ単純な例で考えるため に、次の文を取り上げよう。 (16)学生が笑った。 コンテキストなしで、この文が与えられたとすると、それに対応する可能性 のある英語の文には、次の四つすべてが入る。

(17a) The student laughed. (17b) A student laughed. (17c) The students laughed. (17d) Some students laughed.

つまり、コンテキストがなければ、(16) に現れる「学生」という名詞句は、 確定的でも不定的でもありうるし、単数でも複数でもありうる。 しかしながら、確定か不定かという区別と、単数か複数かという区別のあ いだには大きな違いがある。日本語においても、コンテキストが与えられれ ば確定か不定かは、多くの場合明瞭であるし、そのどちらかであるかがわか らなければ、文によって何が言われているかを理解できない。それに対して、 日本語の場合、単数か複数かは、コンテキストによっても決まらないことが 多い。しかしながら、そのどちらであるかがわからなくとも、たいていの場 合、その文で何が言われているかを理解するには困らない。

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この事実が示すことは、日本語の名詞句において、それが指す対象が単数 か複数かは表示される必要がないということである。つまり、日本語の名詞 句は、数に関して中立的な表現なのである。そして、同じことは、日本語の 動詞句や形容詞句についても成り立つ。英語ではいくぶん退化した形で、フ ランス語やドイツ語では明瞭な形で現れている、動詞句や形容詞句の数によ る変化に対応するものは、日本語に存在しない。日本語は数についておおむ ね中立的な言語であると言ってよさそうである。 英語の文を、論理学でのやり方で、述語を中心に構成された表現であると 考えるならば、英語の述語には、単数形の述語と複数形の述語とがある。次 の二つの文で、前者の述語は単数形であり、後者の述語は複数形である。 (18) Whitehead is a philosopher.

(19) Whitehead and Russell are philosophers. (= (9)) この二つに対応する日本語の文を見てほしい。 (20)ホワイトヘッドは哲学者である。 (21)ホワイトヘッドとラッセルは哲学者である。 両者がまったく同じ述語を含んでいることがわかるだろう。つまり、数につ いて中立的な言語である日本語において、現代の論理学でなされるような仕 方で述語を特定しようとするならば、その述語は、単数・複数のどちらでも なく、数について中立的な述語となる。 複数論理は、英語やドイツ語のような言語にみられる複数性の表現の扱い をきっかけとして生まれた論理であるが、「複数論理」という名称にもかかわ らず、実際には、数に関して中立的な論理である(その意味では「数中立論 理 number-neutral logic」とでも呼ばれるのがふさわしい)。というのは、こ の論理において複数的なものは単数的なものをその特殊な場合として含むと みなされるからである。したがって、以下で「複数的 plural」という形容が なされる場合、それは単数の場合も含んでいると了解してほしい。 複数論理における変項は一般に「複数変項 plural variable」と呼ばれるが、 標準的な論理におけるような「単称変項 singular variable」をその特殊な場 合として含む。複数変項は、単称変項から区別するために、単称変項を二重 にした「xx」とか、英語の複数の接辞「s」を単称変項に追加した「xs」と か、あるいは、大文字で「X」といった具合に表記される。よって、(20) と (21)に共通に現れる述語は、次のいずれかの仕方で表される。 xxは哲学者である xsは哲学者である Xは哲学者である

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(21)と、先の英語の文 (10) に対応する日本語の文 (22)ホワイトヘッドとラッセルはこれら三冊の大きな本を書いた。 とから、次の結論を引き出すことができる。 (23)これら三冊の大きな本を書いた哲学者がいる。 この文は存在量化を含む文であるが、その量化は、標準論理におけるような 単称の存在量化ではなく、複数の存在量化である。複数論理を用いれば、(23) はおおよそ次のように表される。 ∃xx[xx は哲学者である ∧ xx はこれら三冊の大きな本を書いた] (21)と (22) から (23) を引き出す推論は、日本語を知っている者ならばだ れでも、まったく難なくできる推論だろう。ところが、おどろくべきことに、 標準論理では、集合やメレオロジカルな和といった類の複数的対象を仮定す るのでない限り、この推論の正しさを示すことができない(11)。メレオロジ カルな和はもちろんのこと、集合についてすら聞いたことのない子供にさえ、 この推論は明らかだと思えるのだから、標準論理は、われわれの推論の実際 のある重要な側面をとらえ損ねていると言わざるをえないだろう。 改めて考えてみるに、われわれ自身、日本語の話し手として、ものごころ ついて以来、複数的述定や複数的量化をふつうに行ってきたわけである。だ が、そのことについて理論的に考えようとするとき、それがまさに、複数の ものについて述定することであるとか、ある条件を満足する複数のものの存 在を主張することであると、その通りにとらえることがいかに困難であるか は、私自身の経験からも言える。 私が日本語の意味論について本格的に考え出したのは、一九九〇年代の末の ことである。名詞句の意味論から手を付けたのだが、そのときに私が依拠した 理論的枠組みは、一般化された量化子の理論(generalized quantifier theory)

と呼ばれるものであった。一九八一年に発表された論文(12)において、バー ワイズとクーパーは、自然言語の名詞句はすべて、意味論的には、一般化さ れた量化子という種類の表現であるという仮説を立てていた。「叙述構文の 文」(13)と呼ばれる日本語の文のある大きなクラスに関して、この仮説はぴっ たりあてはまるように思われた。次の文を見てほしい。 (24)大部分の生徒が教室で先生から数冊の教科書を渡された。 この文は、文末の「渡された」を述部とし、その前に来る「大部分の生徒が」、 「教室で」、「先生から」、「数冊の教科書を」を叙部とする叙述構文の文であ る。私の基本的なアイデアは、叙部を構成する句はすべて述部に含まれてい るはずの変項を束縛する量化表現であるというものだった。

(15)

いまの私は、日本語の名詞句がすべて量化表現であるとは考えないが、日 本語の意味論の形式的取り扱いへの私の最初の試みは、そうした試みがそも そも可能であるということを私自身に納得させるためにおおいに役立った。 しかしながら、そのとき私がまったく考えなかったことは、「生徒」や「教科 書」といった日本語の名詞は、個々の生徒や教科書を指すだけでなく、複数 の生徒や教科書を指すことができるということであった。たとえば、この最 初の試みにおいて、私は名詞の意味論を、その外延を指定する形で与えた。 たとえば、「生徒」の外延とは、その使用のコンテキストで生徒であるものす べてから成る集合とした。しかし、その際、日本語において「生徒であるも の」とは、太郎や花子といったひとりひとりのひととは限らず、太郎と花子 や、ここにいるひと全員といった、複数のひとでもありうるという事実につ いて、真剣に考えるが必要があるとは思っていなかった。 二〇〇〇年の春に私は、日本語意味論へのこの最初の試みを科研費の報告 書としてまとめた(14)。この試みは、ありがたいことに、ちょうどその一年 後に開催された名古屋哲学フォーラムで長時間にわたって検討してもらえた。 そのフォーラムでの発表者であった岸田功平氏から指摘された日本語に対す る私の取り扱いの難点のひとつは、「先生と生徒が笑った」といったような文 の扱いについてであった。「先生と生徒」といった表現は典型的な複数的表現 のひとつである。しかしながら、こうした表現が提起する問題に気付かされ てまず私が取った方針は完全に単称主義者のそれであった。このフォーラム の直後に私は「『名詞句の意味論』訂正と追補」というものを書いた(15)が、 その中で私は次のように書いている。 『名詞句の意味論』ではまだ、論理学の標準的言語の意味論 が通常もつ存在論をそのまま採用していた。だが、何も論理学で の通例に従う必要はない。文法的な数の区別がないという日本語 の特徴をそのまま生かすことを考えよう。このときには、つぎの 二つを採用することが自然と思われる。 1. 名詞の外延には、個別の対象だけでなく、個別の 対象を構成要素としてもつ集団もまた含まれる。 2. 個別の対象と限らず、集団もまた、動詞の項にな れる。 たとえば、 先生が生徒を叱った のような文で、「先生」や「生徒」は、集団としての先生や生徒 でもよい。 二〇〇三年末に書いた「記述について」の中でも、私は、単称主義の路線

(16)

で日本語の名詞句の意味論を与えようとしている。しかも、次の引用(16)が 示すように、複数論理という選択肢が存在することを知りながらである。 (前略)ここで重要なのは、単数と複数という文法的区別をもた ない日本語において、「生徒」のような名詞句は、ひとりの生徒 を指すこともできれば、複数の生徒を指すこともできるというこ とである。 日本語のこうした特徴を意味論に反映させるには、二つの方法 がある。ひとつは、対象領域のなかに、個々の生徒だけでなく、生 徒から成る集団も含めることである。もうひとつは、対象領域に は個々の生徒だけを含めるが、複数量化(plural quantification) という新しい種類の量化をメタ言語で採用することである。前者 は、メタ言語の論理を改訂する必要がない点で、保守的な路線で あり、Link の先駆的仕事(Link [1983])以来、多くの言語学者に よって採用されてきた路線でもある(Landman [1989]、Lasersohn [1995]、Schwarzshild [1996] などを参照)。ただし、この路線には原 理的な困難が存在することも指摘されている(Oliver and Smiley [2001])。しかしながら、前者の路線を一時的に採用することは許 されるはずである。哲学における経験に照らすとき、より豊富な 存在論から出発して後にそれを刈り込むことの方が、ストイック に初めから貧弱な存在論で済まそうとするよりも早道であるとい うことは、十分ありそうなことだからである。 最後の文は、ある根強い偏見の表現にほかならないと今の私には思われる。 この偏見は、標準論理とそれに対する標準意味論とによって二重に強化され てきたものである。まず、述定とは単称的なものであるという標準論理に組 み込まれている前提は、あまりにも当然とみなされてきたために、そのよう な前提が存在するということに気付くだけのためにも大きな努力がいる。第 二に、標準論理の言語をはじめとするさまざまな形式言語の意味論を集合論 の枠組みの中で与えることに、われわれはあまりに慣れ親しんでいるので、 それ以外の仕方で、形式言語の意味について理論的理解を得る方法があると いうことを、なかなか認めることができない。現在もそうかどうかは知らな いが、少なくとも最近までは、集合の言葉で言ってくれないとわかった気が しないというのが、この分野の研究者の多くの本音だっただろう。 単数と複数という文法的区別が日本語にないのならば、「生徒」は、ひとり の生徒を指すこともできれば、複数の生徒を指すこともできる。そして、複 数の生徒を指すということは、複数の生徒から成る単一の集合やメレオロジ カルな和といったものを指すことではなく、まさに複数の生徒を指すことで ある。標準論理と標準意味論は、この当たり前のことを見失わせてしまった のである。

(17)

ここで思い出されるのは、ウィトゲンシュタインが一時期『哲学探究』の モットーにしようと考えていたと言われるバトラー僧正の言葉である。それ は次のようなものである。

何ものも、それがそうであるものであって、別のものではない。 (Everything is what it is, and not another thing.)

しかしながら、ウィトゲンシュタインが言った(あるいは、言ったと広く 信じられている)こととちがって、理論は、事柄をそのありのままに認識す るために不可欠である。理論なしでは、ありのままであろうがなかろうが、 何かをちゃんと認識することはできない。標準論理と標準意味論は、日本語 の述語の正しい姿をとらえるために最終的には障害となるとしても、これら の理論がなかったならば、標準ではない論理も意味論もありえなかっただろ う。私がここまで論じてきたように、複数論理に訴えることによって、日本 語の述語の姿をよりよくとらえることができるのだとすれば、複数論理とい う理論が、日本語のあり方をそのある通りに認識するというわれわれの目標 へ一歩を進めることに貢献できることはもちろんであるが、標準論理と標準 意味論もまた、複数論理の出現を可能としたステップとしてその役割を十分 に果たしたと言えよう。

(1)「この文は偽である」のような、いわゆる「うそつき文」は同時に真でも偽で もある文であると考えるならば、述語のなかには関数でないものもあると認めること になろう。 (2)述定はすべて単一のものに対してなされ、決して複数のものに同時になされる ことはないという見方は、古代ギリシア以来の西洋の哲学の伝統の一部であるという 観念を、私は漠然ともっているのだが、本当にそれが正しいという証拠があるわけで はない。新しい概念や理論の出現によって過去の伝統が改めて見直されるということ は、哲学においてしばしば起こることである。述定の概念について同様のことが生じ てもおかしくないだろう。 (3)フレーゲ「数学における論理」田畑博敏訳『フレーゲ著作集5 数学論集』(二 〇〇一年、勁草書房)二五七頁。 (4)ただし、次の二つの条件が成り立つとする。(a)ここで問題となっている三冊の 本がホワイトヘッドとラッセルの共著になる『数学原理』であり、(b)ある人が本を書 いたと主張することは、その人がその本の単独の著者であると主張することを含む。

(5)次を参照されたい。Thomas J. McKay, Plural Predication, 2006, Clarendon Press, pp.19–22.

(6)以上の議論は、Thomas J. McKay, Op.cit., p.24に負う。

(7)このことはしばしば「オントロジー(ontology 存在論)を増やす代わりにア イデオロジー(ideologyイデオロギー)を増やす」とも言われる。複数的対象の導入 の代わりに複数論理を採用することと似ているのは、可能世界という種類の対象を導 入して論理の外延性を保存する代わりに、様相的語法を原始的なものとみなす立場—

(18)

「様相主義modalism」と呼ばれる—を取ることだろう(拙著『言語哲学大全III意味 と様相(下)』二一七頁を参照されたい)。複数性の場合と様相の場合とを比較するこ とは理論的にも興味深い問題である。 (8)メレオロジカルな和はともかく、集合の存在を否定することは、集合を必須とす る現代の数学を捨て去ることに等しいと反対されるかもしれない。この反論に一理あ ることを私は否定しない。それでもなお、複数論理を採用すべき理由は少なくとも二 つある。第一は、本文でも論じたように、複数の対象を一個の集合で置き換えること は、複数の対象の複数性を無視することである。第二に、集合論の枠組みの中で言語 の意味論を展開するという、これまで標準となってきた方法によって、集合論の言語 そのものの意味論を与えようとするならば、困難に直面せざるをえない。つまり、集 合論の言語に現れる量化の範囲がすべての集合であるのならば、それらの集合の全体 は集合ではありえない。メタ言語において複数論理を採用することが、こうした困難 を解決する道である。次を参照。Alex Oliver and Timothy Smiley, “Strategies for a logic of plurals” The Philosophical Quarterly 51 (2001) 289–306.

(9) 複数論理を体系的に提示しているのは、次の二つの文献である。Byeong-Uk Yi, “The logic and meaning of plurals” Journal of Philosophical Logic 34 (2005) 459–506; 35 (2006) 239–288. Thomas J. McKay, Op. cit.

(10)二つ例を挙げておこう。中島義道『哲学の教科書』(二〇〇一年、講談社学術 文庫)。青山拓英『分析哲学講義』(二〇一二年、ちくま新書)。

(11) Byeong-Uk Yi, Op. cit., p.467.

(12) Jon Barwise and Robin Cooper, “Generalized quantifiers and natural lan-guage” Linguisics and Philosophy 4 (1981) 159–219.

(13)小池清治『日本語はどんな言語か』一九九四年、ちくま新書。 (14)飯田 隆『日本語と論理学』平成九年度∼平成一一年度科学研究費補助金(基 盤研究(B)(2))研究成果報告書、二〇〇〇年三月。 (15)二〇〇一年四月五日。なお、『名詞句の意味論』というのは、前註で挙げた科 学研究費補助金研究成果報告書のことである。 (16)飯田 隆「記述について」『西洋精神史における言語観の変遷』二〇〇四年、慶 応義塾大学言語文化研究所、慶応義塾大学出版局、XX頁。なお、ここで参照されて いる文献は、以下のものである。G.Link, “The logical analysis of plurals and mass terms: a lattice-theoretical approach” in R.Baeuerle et al. (eds.), Meaning, Use,

and Interpretation of Language, 1983, De Gruyter, Berlin, pp.302-323 (Reprinted

in G.Link, Algebraic Semantics in Language and Philosophy , 1998, CSLI Pub-lications); F.Landman, “Groups” Linguistics and Philosophy 12 (1989) 559–605, 723–744; P.Lasersohn, Plurality, Conjunctions and Events, 1995, Kluwer; A.Oliver and T.Smiley, “Strategies for a logic of plurals” Philosophical Quarterly 51 (2001) 289-306; R.Schwarzshild, Pluralities, 1996, Kluwer.

参照

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