Author(s)
川井, 勇
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(10): 47-69
Issue Date
1993-03-15
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5774
戦後沖縄教育「再建」の意識と構造
川井勇
はじめに沖縄の戦後を眺めるとき、文字通りゼロから出発して、全てを作り直し生き
抜いてきた、たくましい復興のエネルギーやそのしたたかな生活力に感動を禁
じ得ない。沖縄の戦後教育も、子供を守るところから始まり、「教育四法」民
立法化や「教公二法」阻止の運動を通して、復帰運動と密接に関わりながら鍛
え上げられてきた。しかし、歴史は矛盾を含みながら組み立てられてきたのだろうか。私たちの
前には、今大いに煩悶し、混乱する沖縄教育の姿があるように見える。例えば
日の丸・君が代問題。文部省から舞い込んだ一片の通知(1985年8月28曰付)
に、復帰以降強い拒否の姿勢を貫いてきた教育界は大いに揺れた。あの大騒ぎ。
そして5年後、全国最下位だった掲揚率と斉唱率は、全国で上位の県となってしまった。この「もろさ」はどこから来るのか。旗や歌の是非は別として、明
らかに教育への国家権力や政治の強い介入を象徴する問題であるはずなのだが。
学力向上運動とやらも他府県に見られぬ盛り上がり様。全国最下位の脱却と、
全国水準突破を目指して、全島くまなく学力向上対策委員会が組織され、地域
標語も花盛りだ。「がんばろう君の未来は学習しだい」「学力向上は朝の本読
みから」などなど。「一本のモノサシ」へのこの強いこだわりは何だろう。学
校への深い依存を示しながらも、一方で若者達は「学校知」への反発を強めつ
つある。たくましい戦後の歩みは現在とどの様につながるのだろう。本稿では、
特に占領後の一年にスポットを当て、教育の「再建」がどの様な意識状況のも
とで滑り出し、そこにどの様な問題や矛盾が内包されていたのか、米軍の占領
初期教育政策、学校「再開」をめぐる思い、再出発する教師の意識、三つの角
度からささやかな検証作業を試みてみたい。 -47-1米軍占領政策における教育「再建」
軍政計画の準備過程を辿るためには、まず占領地域で民事行政を担当する軍
政要員養成に触れるべきだろう。1942年に、バージニア大学に陸軍軍政学校が、
コロンビア大学、プリンストン大学には海軍軍政学校が設置され、そこで徹底的に語学を初めとする占領地の研究と訓練が行われている。例えば「直接住民
に接触する米軍将校が相当曰本語が出来るので不思議に思って尋ねてみた。海
軍でも陸軍でもそれぞれ五百人ずつを選抜して十一カ月間日本語の勉強をさせ
ていたということである。よくきいてみると、毎曰十六時間ずつ曰本語の猛勉強をつづけたという」(1)という仲宗根源和氏の証言からも訓練の厳しさの一
端が伺われる。対曰占領は主に陸軍が主導し、太平洋区域の島喚占領は主に海軍が受け持ち、
沖縄占領の軍政要員は主に後者が割り当てられ軍政計画準備作業が担われてい
く(2)が、具体的な沖縄軍政計画は1944年7月から海軍省軍政課で着手され、
11月にはマードック少佐をリーダーとするグループによって「琉球列島民事ハ
ンドブック」(CivilAffairsHandbookofRyukyulslands)、更に「琉球 列島の沖縄一曰本の少数集団」(TheOkinawasofLooChoolslands:AJapaneseMinorityGroup)の二つの重要な文書が完成した。前者は、戦
争直前までの沖縄の諸分野の実態の分析、後者は沖縄人の曰本本土人に対する
意識行動が分析されている。しかし、沖縄は日本政府から圧迫されてきた、沖
縄人と曰本本土人との間には意識の溝がある、というのは両文書の共通認識で
ある。「琉球列島民事ハンドブック」における1930年代沖縄の実態分析は極め
て細かく、教育に関しても1935年から1940年迄の文献に基づき、教育制度、教
育内容、学校名、場所、校長名、教師数、生徒数、給料に至るまで紹介されて
いる(3)。これらの文書は直接占領後の軍政を指示したものではないが、沖縄
上陸時に「琉球列島民事ハンドブック」を要約した小冊子が軍政要員に配布さ
れており(4)、その後の軍政と諸制度再建への影響は少なくないだろう。例え
ば、「米軍人らと親しくなって分かったことですが、彼らは、沖縄人を、曰本
から解放したと胸を張っていたのが印象に深いですね(5)」という証言からも、
上記の文書が米軍人の沖縄人観の形成に関わっていたであろうことが伺われる。
-48-海軍軍政課の手による2つの文書をステップにして、沖縄への軍政計画作成 の舞台は実戦部隊である第10軍軍政課に移り、1945年1月6日に「軍政作戦指 令」、2月25曰に「テクニカル・ブルティン」が、それぞれ第10軍司令官名で 公布され、軍政計画の準備作業が完了した。そして、3月1曰、米太平洋艦隊 及び太平洋区域総司令官ニミッツ元帥から第10軍司令官に宛た「南西諸島及び 近海域の占領諸島の軍政のための政治、経済、財政についての指令」(ニミッ ツ指令)が公布され、軍政の基本的枠組みが示されて、軍政計画はいよいよ実 施段階へ移行していく。第10軍が沖縄上陸後公布した海軍軍政府布告第1号 (ニミッツ布告)が、現地での軍政開始宣言ということになる。 沖縄への軍政計画準備過程を見て確認できるのは、一貫して軍レベルで進め られてきたという点である。海軍省軍政課から第10軍軍政課に至る過程で策定 されてきたわけだが、とりわけ沖縄攻略の実戦部隊である第10軍において上陸 作戦とセットにして軍政計画が練り上げられたということは、対曰占領政策が 国務省等政府諸機関の調整のもとで形作られていったのと明らかに性格を異に する。その様な軍政計画準備過程の特異性は、戦後沖縄の教育の再建・復興に も一定の制約を課すことになる。以下、最終計画である「軍政作戦指令」を補 足し、適用分野について詳細な指示を与えた「テクニカル・ブルティン」と、 「ニミッツ指令」を参照し、教育の再建がどの様に規定されているか検討した い。 「テクニカル・ブルティン」は、大きく6項目(命令方法、補給と計画、統 治、医療と福祉、産業、報告)で構成され、教育は第3項「統治」の中でとり 上げられている。しかし、全体の122頁中わずかに1頁に過ぎず、他の部分の ほとんどが避難民の統制と救助に当てられており、例えば、第4項「医療と福 祉」の中の「公衆衛生」などは全体の4分の1に当たる31頁である。そのアン バランスは、ワトキンス・ペーパー(6)に収められた、沖縄戦後教育に多大な 貢献をした教育担当将校ハンナ大尉(後に少佐)の手記と或る程度一致する。 つまり、沖縄の軍政計画は、通常の統治過程以上に避難民の統制と救助に重点 がおかれ、「中心点は統制、医療、食料、そして避難所であった。銀行経営や 生産、農漁業、教育やラジオや新聞、労働組合や政党に関する計画は、全く非 -49-
現実的であれば着手されないことになった」(7)と記されている。ちなみに 「公衆衛生」の部分で、民間人への医療の用意、維持は、占領部隊の安全のた めに必要(8)とされており、戦後政策である軍政は明らかに軍の作戦行動とセ ットなのであって、作戦遂行の為の避難民対策重視である。 「テクニカル・ブルティン」における教育に関する指示は(a)学校の閉鎖、 (b)有用な学校財産確保の報告、(c)児童のための緊急計画の準備、(d) 他の教育活動の準備、の4項である。教育再建に関しては(c)(d)、2段 階にわたって述べられている。まず(c)では、教育活動の再開が4つの原則 に従ってなされると規定している。要約するとその第1は、地区ごとに地元民 から教育委員が任命され、計画作成し、実施すること。第2に、地区(軍政地 区)担当の軍政府将校が総括的管理権限を行使し、委員を任命し、計画立案に 助言し、援助すること。第3は、日本の教育制度の国家主義的特徴の禁止。修 身や神道儀式、皇居遙拝の禁止。問題箇所の教科書からの削除。そして第4は、 計画が収容所内の初等学校段階の児童から始まり、状況次第で年長児や収容所 外の児童へ対象を拡げること。教育内容は読み、書き、算術が中心で、衛生、 娯楽、職業訓練等の活動は二次的なものであること。以上4原則に基づく教育 の再建は、戦闘状態がいまだ続いている段階での収容所生活を前提にしたもの と考えてよい。 更に進んだ、恒久的性格の教育活動の準備については(d)で述べられる。 それは戦闘終結後の新たな駐屯段階に対応した教育の準備と考えられるが、第 1にあげられたのは言語や職業訓練の如き成人教室、第2が事務員、通訳、教 師など軍政府雇用員訓練のための特別コース、そして第3は「正規の教育制度 の再建」と題し、次のように述べられている。 軍政府の副長官によって認可された時、教育の正規の制度が再建される。 児童のための緊急計画確立に関して先に略述した最初の3つの一般的原則は、 正規の教育計画にも同様に当てはまる。制度は初等段階から始まり、十分な 統制がなされ得ると思われる範囲で拡大されること(9)。 以上の指示を見る限りでは、(c)から教育の民主化、(d)から微かに占 領の長期化がうかがわれるが、長期的展望に立った根本的制度改革が示されて -50-
いるわけではなく、限定付きながら地元教育委員に計画立案が委ねられている。 軍政計画における教育政策は極めて大雑把だ。 第10軍司令官に最終的に軍政の基本的枠組を示した「ニミッツ指令」ではど うだろう。教育に関しては20項に次の如く記されるのみである。 貴官は、貴官の自由裁量に基づき、教育諸機関の閉鎖、或いは存続を認め なさい。学校が既に閉鎖されている場合には、安全が認められる時ただちに 再開されることが望ましい('0)。
「テクニカル・ブルティン」以上に簡素で、第10軍司令官に学校の閉鎖と再
開のキーが委ねられたにすぎない。指示全体における教育の比重もほぼ「テク ニカル・ブルティン」同様、67項中1項に過ぎない。このような教育政策の軽 視、或いは長期的展望の欠落は、軍事優先、つまり軍政計画が強く軍事目的に 従属し、自立的でないところから来るものである。だが、作戦の展開に並行し て教育再建が進められるとするならそれは何に依拠してなされるのか。現地で の軍政開始を宣言した海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)は、2項で曰本 帝国の全ての行政権の停止をうたいながら、4項では次のように規定している。 本官の職権行使上その必要を生ぜざる限り居住民の財産権を尊重し、現行 法規の施行を持続す('1>・ 仲宗根源和氏はこの4項に触れ、「(現行法規は)その後米軍政府の布告命 令等によって改廃されない限りそのまま、存続することになったのである。だ から戦後日本の法規がどんどん改正されても沖縄では以前として旧日本法が残 っているわけである」('2)と述べている。既に見た軍政計画における教育政策 の比重の軽さからするならば、戦後教育の再建は現行の法規、仕組みを踏まえ た、或いはかなり下地にしたスタートということになろう。 軍政計画の準備過程と計画内容を検討してきたが、教育の再建を規定する要 因は次の通りである。第1に政府諸機関との調整をほとんど欠いた軍レベルで 準備されてきた軍政計画である点。第2に、軍事優先という視点。実戦部隊で 作成された軍政計画なので作戦遂行に付随する内容となっている。第3に、軍 政計画が長期的展望に基づく沖縄の教育制度の根本的改革を目指すものでなか ったということ。第4に、沖縄は日本ではないという曰琉分離につながる認識、 -51-姿勢を軍政要員は共通して持っていたということ。そして第5に、軍政実施に
当たっては戦前の沖縄社会に関する徹底した分析が参考にされたのではないか
という点である。以上の要因を総合して沖縄教育の再建の方向をイメージして
みると、軍の統制という枠の中でまるで切り貼り紬工のように、旧いものを生かしつつ上に新しいものを継ぎ、日本的なものを踏まえつつ分離を持ち込むと
いった、長期的視点を欠き試行錯誤的、かつ矛盾に満ちた姿勢が浮かび上がっ
てくるように思われる。2教育「再建」の力学
「沖縄は戦争によって一切を無にした。このことは沖縄にとって不幸ではあ
ったが、結局は幸いであった。何故かなれば、過去を無にしたことは新しいこ
との受入れ態勢を整えたことである。……無の上に新たな有を獲得した。……
沖縄人の等しく努力していることは、沖縄の復興は過去の沖縄の復活であって
はならない('3>」と、或る回想記は戦後7年を振り返る。新たな有の獲得にし
ては余りにも大きな代償を支払い過ぎたが、そもそも過去を無にして得た新た
な有とは何んだったのか。復興は過去の復活であってはならないとはどういう
ことなのか、過去の復活でない復興は為され得たのか。上記回想記から戦後の
再建・復興を検証する視点を拾い、以降学校再開を中心に、軍、教師、行政と
いう角度から教育の再建を考えてみたい。 (1)学校再開についての米軍の意図1945年4月1曰に北谷に上陸した米軍は、4月2日には石川を占領し、そこ
へ第1号の収容所を設置して北谷、読谷の避難民を収容した。米軍は辺土名、
久志(大浦崎)、瀬嵩、田井等、古知屋、宜野座、漢那、石川、胡差、前原、
平安座、知念の12か所を軍政地区とし、地区の下に収容所を設けた。軍政地区
はそれぞれ独立した形で監督統制され、佐官級の軍政隊長の下で、各部落の収
容所に中尉を長とする約10名の軍政要員が配置され、収容所にメア_、農耕、
建築、衛生などの作業班の班長、巡査などが任命され-応の行政組織が形成さ
れていた('4)。例えば石川地区の様子を見ると、戦前戸数350戸、人口約1800
-52-人の小村にすぎなかったが、毎曰続々と避難民が収容されたため、「5月上旬
には1万数千人、8月上旬には3万人の都市となった。当時はアメリカ軍政府
のもとに委員会が設けられ、屋我嗣太氏が委員長となりその下に組織、初等教
育、社会教育、生産、集荷、配給、救済、衛生、治安、人事の十部を設置し各
部にはそれぞれ部長が任命された」('5)という。他の軍政地区にも同様の委員 会組織が存在したのかどうかは不明であるが、石川には教育部門が既に設けられていることに注目しておきたい。学校は急激に人口増加する収容所の中にお
いて設置され、外に戦時が続き、内に戦後が滑り出す。5月7日石川の収容所
にて石川学園(現城前小学校)が開設された。米軍はいつ頃どの様な理由で学校再開を認めるに至ったのだろうか。軍政府
本部が軍政地区に対しはじめて学校再開の方針を明らかにした5月15曰付け軍
政府通牒16号「予備的社会事業一一地区の教育と娯楽一」は次ぎのように記
されている。地区の教育や娯楽に関する次ぎの計画は、実行可能であれば、地区担当司
令官によって実施に移されることが望ましい。 a、組織化 地区の教育や娯楽の計画は、各収容所や居住地区に相応しい計画を入れるように発展させられることが望ましい。各地区で教育や娯楽における経験を
持つ民間人が指導者として選ばれることが望ましい。彼は、班長や他の地区
の指導者達と相談し、援助を得て教育や娯楽の活動に着手し、監督すること
になろう。30人の子供達に対して、民間人の助手一人が当てられるとよい。 b・活動計画は、初等学校年齢の子供達のための曰常活動に用いられよう。軍政官
の助言と援助を得て、指導者と班長は相応しい場所を準備し、教師を選んで
任命し、簡単な設備をそろえ、次のような活動を与えることが望ましい。(1)
遊戯及び身体的娯楽、(2)歌、手芸及び関連する活動、(3)簡単な程度で、最
小限の教材を使用し、生徒に読み、書き、算数を教えること('6)。
学校開設は一斉ではなく地区司令官の判断に委ねられてはいるが、軍政府本
部から正式にゴーサインが出たということであり、またこの「通牒」が契機と
-53-なり軍政地区に教育部門がおかれることになったと思われる。モデル地区石川
の場合は「通牒」に先行した例だが、「通牒」以降ほとんどは旧行政機関をおも
わせる「学務課」と称していたようだ。7月には田井等で近郊各シティーの学
務課長会議が行われ、軍政隊長から米側の教育方針を聞いたとされている('7)。
学校再開の理由について、海軍軍政府による「1945年4月1曰から1946年7
月1曰にかけての軍政府活動の報告」(「最終報告」)では、
5月15曰、初等学校生徒がクラス編成され、学校活動が限られた範囲で再
開され、主に娯楽的計画と関連づけられるように認可が与えられた。その意
図はただ子供達を-カ所に集めておくことであり、彼らを勝手にうろつき回
らせないことによる収容所管理のためであった('8)。
と説明されている。要するに作戦遂行に付随した「収容所の中の子供収容所」
的な学校開設であったようだ。「アメリ力さんの考えは、軍政を遂行するため
に、子どもたちが道路に出るのを非常に嫌ったんです。それは、曰本軍がまだ
降伏しない前ですから、戦車などが行動するのに支障をきたす。つまり、作戦
上困るということでした」「その学校は、子どもたちを教えるところではなく
て、ただぶらぶらしている子供らを-箇所に集めて外に出さないということだ
った('9)」「子供たちは父兄、母姉が作業に出るのに足手まといになり、天幕
内に置くことは何かと悪さも高ずるから(20)」というところが大体軍の意図す
るところであったのであろう。(2)学校再開についての沖縄側の意識
戦後最初の学校石川学園の開設は5月7曰で、先の「通牒」より1週間ほど
早い。石川地区の初等教育部長山内繁茂氏は軍政府による幼稚園経営の命令を
断り初等科4年までの教育を提案し了解された。そして、「戦場二捨ツペキ生
命ヲ児童教育二棒グベキナリト、戦禍二親兄弟ヲ失上家財ヲ失ヒシ不幸ノ同胞
ノ子弟ヲ保護スベク、孤児院ヲ設立シ又児童教育ノー曰モ忽二スベカラザルヲ
説キ、万難ヲ排シテ5月7日……(石川学園)開校ノ運ビト」なったが、校舎
も教科書もなく、「燃ユルガ如キ教育愛ノミ(21)」があったという。軍からの
一方的な命令によるのでなく、「子供達の生活をなんとかしなければ」といつ
-54-た沖縄側からの教育への自発性と或る程度一致した状況で学校が開設されたこ とになろう。石川地区の例は或る程度軍政本部の判断材料になったに違いない。 以後、6月6曰に宜野座初等学校、6月20曰に高江州初等学校と軍政地区収容 所に次々と学校が作られ、7月初旬には早くも前原高等学校が設置されている (小学校は1952年迄初等学校、中学校は1948年迄高等学校、もしくはハイスク ールと称されていた)。 石川地区以外での学校開設に対する沖縄側の態度、意識はどの様であったろ うか、幾つか証言を拾ってみよう。「沖縄戦開始以来教育も亦その途につかず、 生徒児童は学ぶに家なく、読むに書き物がないままに空白の四ヵ月を過ぎてし まった。曰々の児童生徒の行動を詳細に観るに、そのまま放置するにしのびな い幾多の問題の発生に気がついた。洵に寒心に堪えぬので早速軍とも折衝し学 校を設立することに決めた(22)」(大浦崎地区)。「(7月下旬頃)司令部の 係将校から呼び出された。子供達を集めて学校を作れというのである。有難い ことだと思った(23)」(瀬嵩地区)。「CIC本部から呼び出され、学校設立 について意見を聞かれた。………教育方法の何のと従来の教員の殻から抜け切 れない自分に「今は戦争中であり、目の前の子供達を救わねばならぬ」と言い 聞かせ、何かしら熱いものが胸につき上げて来る。しばらくして「やって見ま しょう」と米軍将校に答えた(24)」(宜野座地区)。大浦崎地区の場合には自 発的能動的に学校設立を働き掛けた様子がうかがわれるが、いずれにも共通す るのは、教育観から切り離された「子供達の生活を放置できない。子供達を救 わねば」という意識であろう。それは石川学園に見た「燃ユルガ如キ教育愛」 に通じるものだ。また、宜野座地区の例に見られるような「今は戦争中」、或 いは戦後意識が不明確なままで学校設立へ向かうケースが多かったと思われる。 教育観を切り替える余裕も持てない、切迫した状況の中で、現実への対応が先 行し、戦後再建が進んでしまうのである。だが宜野座地区惣慶収容所にユニー クなケースがあった。仲里朝章氏は、「南部喜屋武で捕虜になり、すぐ惣慶へ 護送されて、ブタ小屋で一週間すごしている間に、表紙のとれた小さな聖書を 一心不乱に読んだ。それから郷土を救うには、従来の封建思想を根こそぎにし て、キリストの愛に生きる以外に道はない、との啓示を受けた。八月から伝導 -55-
を始めるかたわら、中学生に相当する男女向けの中等学院という学校をつくっ
た(25)」と証言している。キリスト教を通して価値観を切り替えていくことに
よって新しい学校をつくろうとした例だが、曰本本土より早く、沖縄において
も最も早く男女共学を実現した。ちなみに宜野座地区司令官は、9月末の市長、
市会議員選挙の際軍政府本部政治部長として婦人参政権の実現に尽力したマー
ドック少佐であった。再開されていく学校教育に対する住民の意識は、必ずしも歓迎ばかりではな
かったようで、「アメリカ学校(26)」と嫌がらせをいわれたり、「石川学園で、
……民主主義の講演をしたところ、「アメリカの犬ども」と聴衆からどなられ、
えらい目にあった(27)」りしたという。現実的には学校へ依存し戦後へ参加し
つつも、意識面における戦前と戦後の混乱や苛立ちが学校へぶつけられた。曰
本の降伏を契機にして、8月下旬頃から全学年に英語が加えられたことも手伝
っていたであろう。次第に分離政策が浮き上がり始め、軍政府は新しい駐屯段
階に対応した教育体制作りに取りかかるのである。つまり「テクニカル・ブル
ティン」の(。)段階へ移行していく。 (3)戦後行政組織の形成と教育意識教育再建の第2ラウンドの体制が整うのは大体翌年の3月から4月頃である
が、軍政府は自らの負担の軽減を図ろため民間人を検討作業に参加させていく。
過程は3段階に分けられるが、第1段階は、8月中旬、軍政府本部における教
育部(部長はハンナ大尉か)の設置と、民間人の参加(直属機関としての教科
書編集所、諮問機関としての諮詞委員会教育部)、その下での教育計画の調整
や教育制度等の検討作業の開始と見ることができよう。第2段階は、翌年1月
2日軍政府からの民間人組織の独立、沖縄文教部の設置以降である。軍政地区
に分散されていた学校管理権限は文教部に集められ、文教学校、英語学校、農
業学校などが設立される。第3段階は新しい教育の体制が一応完成、つまり文
教部は4月新たに成立した中央行政機構である沖縄民政府の一部門に位置付け
られ、8.4制の確立と初等学校令公布によって、新体制が滑り出す。
ところで、教育行政も一般行政も多く戦前の教育界のリーダー達によって構
-56-成された。沖縄諮詞委員会メンバー15名のうち3分の1以上が元教員、沖縄民 政府に至っては15名中8名、沖縄議会の約半数が元教員である(z8)。教員の社 会的地位の高さを物語るものでもあるが、なぜ元教員が大半を占めたかという ことについて沖縄諮詞委員会委員長志喜屋孝信氏は、「軍が、純真な人を選べ といっていたから、いきおい教育者が浮かび上がったのだろう(29)」と述べて いる。それは仲宗根源和氏が仮諮詞会におけるムーレー大佐の挨拶として回想 する、「必要な場合にはアメリカと争ってでも沖縄人のために真心から働くこ との出来る意志の強い人が欲しい(3o)」という言葉と符合するものなのか。そ れにしてもなぜ「純真な人」を選ぶと「教育者が浮かび上が」ろのだろう。仮 にとりわけて教員が「純真」であったとするなら、その「純真さ」こそ明治以 降の師範教育の中で作られてきたものであり、その「純真さ」故に皇民化教育 に深く内応してしまったのではなかったか。いずれにしろ元教員を含めた旧指 導者達は復活し、曰本占領に見られる軍国主義的、超国家主義的教育関係者の 罷免という厳しい対応は沖縄占領においてほとんど確認されない。 元開南中学校長で、戦後復興のリーダーとなった志喜屋孝信氏は沖縄教育の 進むべき道をどのようにイメージしたのであろうか。12月23曰諮調委員会社会 事業部主催の「拓け行く希望座談会」で、次のように述べている。 今までの青少年は皇室中心主義の教育をやってきたが、戦争に負けた今曰 どうすればよいのか。教職員も今更ながら教壇から生徒に向かって、前に教 えたことはウソであったとは云えない。これは結局生徒に自ら反省させるこ とで、それには一番沖縄歴史を教えたい。そうすることにより、言わず語ら ずのうちに青少年の新しく往くべき途を悟らせる。私はまず沖縄の歴史を精 読せよといいたい。そうして沖縄の歴史を通じて-つの誇りを持たせること である。それは沖繩は守礼の邦であること、もう一つは海外発展に引き付け ることである(31)。 かつて皇民化教育が沖縄的なものの否定の上に成り立ってきたことを思えば、 破壊の後の建設に際し、沖縄歴史の強調、沖縄の誇りを取り戻すこと、沖繩か ら世界へという発想が浮かび上がるのは自然ではあろうが、それは軍政府の沖 縄認識に沿うものでもあった。例えば、8月中旬教科書編集に当たってハンナ -57-
大尉は、日本的教材の禁止、超国家主義的教材の禁止、軍国主義的教材の禁止
を命じ、そのため、「新沖縄建設」の精神の昂揚、沖縄の固有文化の尊重、海
洋発展の進取の気象の養成などが編集方針に決まったという(32)。志喜屋氏の
認識はほぼ同一線上にあるといってよいだろう。新しい教育の在り方を考える動きは早く、既に7月中に田井等地区で、志喜
屋孝信、比嘉永元、比嘉義雄氏など戦前の教育者達による自然発生的な教育会
議が開かれ、「教育の基礎は博愛、人道、労働尊重等々の人類共通の徳目を幾
つか上げてこれによって子供達の精神的支柱とすること。軍歌は廃して優美な
情操を育てる唱歌を教えること……アメリカ人との接触が、絶対に必要になっ
た今日、我々は出来得るかぎり彼等の風俗習慣を理解することに努めなければ
ならぬ(33)」と話し合われている。志喜屋氏は元中学校長であり、6月30日に
は、源河の山奥で戦火を避けるために集められていた全御真影の焼却に立ち会った県教育界の有力者の一人である。「皇居遥拝」「国歌斉唱」し、焼却し終
えるまで鳴咽の声と涙が止まなかった(34)と記録されているが、7月上旬に山
を下り、田井等の収容所へ入った。教育会議まで1カ月も経ってはいない。緊
急行動としての学校開設とは異なり、新しい教育のあり方の模索はこれまでの
教育の総括に関わる作業であるはずだが、「戦争であまた人材を失い、今また
追放すれば戦後の指導者が足りなくなるし、戦争責任といっても、結果的には
沖縄全住民が曰本の犠牲になったのであり、個人をせめられない(35)」という
軍政府の考えにより、教育の戦争責任と同化皇民化教育へ向かった「純真さ」
の総括は不問に付されてしまった。民主化を目指しつつも、軍政上の曰琉分離
の視点から内なる責任があいまいにされることにより、民主化の可能性は自ず
とぼやけてしまう。しかし、それぞれの思いや意図は異なりながらも、軍と学校、軍と民間の間
には、微妙な調和関係があったのではないか。沖縄人を被害者とする米軍の見
方に対し、沖縄側にも被害者意識がなかったとはいえない。是非は別にしても、
1946年2月、曰本共産党は沖縄人連盟全国大会へ「沖縄民族の独立を祝うメッ
セージ」(36)を送り、1947年結成された人民党でさえ政策に「人民自治政府の
樹立」や「曰本政府に対する戦争被害の賠償金」要求(37)を掲げていたのであ
-58-る。また、宮古教育会機関紙「宮古教育」は創刊(1947年9月1曰)の辞で、 「軍国主義の強制と封建イデオロギーの桂桔から解放されたわれわれは真実な る『われ』の覚醒を得たく38)」と書いている。覚醒した「われ」は始めて国家
権力に距離を置こうとしているのだが、これらの傾向は、米軍の方針の押し付
け、迎合とばかりは言い難い。過去の否定と希望の表明が被害者意識に複雑に 混ざり合っていろ。もっともそれが解放軍規定に連なる被害者意識である限り、 厳しく内へ向けられることはない。 米軍の政策意図や沖縄側の複雑な意識が複合、表現されたものが46年4月公 布された初等教育令、初等学校令施行規則(39)や8.4制学校制度であろう。 第1条「初等学校ハ新沖縄建設ノ精神ヲ体シ、初等普通教育ヲ施シ、児童心身 ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」ではじまる初等学校令と初等学校令施行 規則は、国民学校令(1941年公布)と国民学校令施行規則の焼き直しであり、 8゜4制学校制度も、米国の8.4制を移植したというよりむしろ初等学校令 同様ニミッツ布告4項を踏まえ旧制度をアレンジしたもの、つまり戦時用に4年に短縮されていた中学校を高等学校と改称し、国民学校尋常科6年、高等科
2年を一貫させた初等学校の上に積み上げた制度であろうと考える。 「民事ハンドブック」などの沖縄人観、それに基づく分離政策、テクニカル ・ブルティンの教育方針の(C)の第3原則やニミッツ指令16項による軍国主 義、超国家主義の禁止方針、そして沖縄側の思いなどを、ニミッツ布告4項に よる旧法規旧制度の上に接ぎ木したものが初等教育令や8.4制学校制度なのである。まさに継ぎ接ぎ細工であって、長期的展望に基ずく根本的改革などで
はない。どうやら、一切を無にした上に新しい有を、というわけにはいかなか
ったようだ。 3教師の戦後意識「復帰運動を力学的に考えると、統治強化と曰本民族意識の払拭を一義的に
とらえた米軍と、それに対する住民の抵抗が復帰運動に転化した」「米兵に向
かい「ギブミー」と物を乞う姿を見て、我々教職員はこの子たちを無国籍にし
てはしけない、曰本国民として育てようという熱い思いがあった」(40)。終戦
-59-から47年経った今日もこの様な解釈が続けられている。だがいくつかの疑問が
ある。一つは歴史の解釈の仕方について。復帰運動の思考パターンによる歴史
解釈がそこにあるのではないか。いま一つの疑問は、仮にその通り「曰本国民
として育てようという熱い思い」、曰本国民としての教育という意識が戦後の
初めからあったとするなら、ほんの数か月前まで、或いは直前まで幅を利かせ
ていた国民教育(=皇民化教育)と質的にどの様な違いがあるのだろうか。ま
たどの様に考え方の転換が図られたのだろうか。これらの点を暖昧にしたまま、
上記の考え方はいまだに「革新的」に語られてしまうのである。やはり、戦前
の教育の戦争責任の問題は優れて現代的問題であり続けているのではないか。
人間の意識は急には変わらないのである。
長浜功氏の言葉を借りるなら、「こういういいかたは少々乱暴だが、ふだん
はどうでもいいのだ。人間には良心がある。自浄作用が働く。肝心なときに、
つまり時代が人間の良心を押殺し、人権をふみにじる社会になったとき、人々
に光を与えない教育など、なんの値打ちもないのだ。日本の教育は、その無効
性を戦争という大きな実験のなかで証明した(41)」のである。そうであれば、
子供達、青年達を「あの馬鹿げた戦争に追い立てることに寄与した責任を、き
ちんとけじめをつけて間うていく作業(42)」、つまり過去の理論的な誤りを厳
しく反省すること無く、戦後の民主教育など始まらないのである。戦後の日本
において極めて不徹底であったことを長浜氏は報告しているが、「教育の無効
性」を明白に立証してしまった沖縄においては果たしてどうであったのか。
1944年(昭和19年)12月9曰の沖縄新報にはレイテ島での特攻作戦について
の学生の感想が掲載されている。水産校の或る学生は、「將に胸が高鳴り息を
呑み殺す。僕は勇士の名前を何回も見た。頭が下がり涙がでて凄い強い兄達の
崇高な面影が浮かんで来るのだ。若き僕達の先輩だ。来るなら来い。鬼畜米の
青年等の頭上に鉄火となって飛び込んで行くぞ。いざ神霊を上に戴く我等若人
が神の姿に近づく曰こそ待っているのだ(43)」、また-中の2年生は、「崇高
な兄鷲達の魂は我々を呼んでいる。我等後に続くもの又体当たり戦法だ。聖代
に生まれ若き血肉を捧げる喜びこそ世紀の若人の光栄だ。ひたすら忠節を行う
のだ(44)」。教育とは生命を守り、生命に輝きを与えるものでなくてなんであ
-60-ろう。沖縄戦に際し鉄血勤皇隊に組織され、生還した元開南中学の学生は、 「一つ星をもらってから、「死んでしまえば靖国神社へ行けるんだ」、「軍の 神、いわゆる軍神になるんだ」といわれ、そのことは本当に日本国民の誇りで あると、そのような教育を受けたために、当時は、死というもの、人間の命の 尊さということを、全然考えてもみませんでした(45)」と回想している。教育 は若者達を死へ向かわせた。 次に教育者側の発言を引いてみよう。開南中学校長は特攻隊に触れ次のよう に述べている、「大東亜戦争第3周年を意義深く迎える記念曰に当り、私は県 下青年学徒の奮起を切望して止まない。学徒諸子よ、この先輩神鷲の出陣の言 葉を聞いて誰しも血湧き肉躍るのを感ずるだろう。好機は到来した。大詔を奉 戴して決意を新にし決然起って諸軍神に続け、八紘隊に続け、さだめし我が沖 縄のうめる軍神大舛大尉の英霊も此の秋を微笑むであろう(46)」。また、ある 小学校教師は、「今曰は学校は正に戦場になったのであります。児童に「アメ リカの奴等が上陸してきたらどうする」「先生、竹槍で突きます。一人でも行 きます」これが正に生死を超越し国家への御奉公を思う教育であります。児童 の-人々々真に国家の為に働く、国家の為に尽くそうといふ徹底した日本的世 界観を持った教育を施さなければ、吾々教育者として勅命を奉じて教壇に立っ てゐる使命が果たせないと者へるのであります(47)」と書いている。更に教師 ではないが、大政翼賛会県支部長は教育に言及し、「県下青少年学徒は-人残 らず航空兵に志願するのが本県教育の-大眼目であると思う……必死必殺の体 当たり精神を県下全学徒が堅持して今こそ飛行兵志願に突入しなければならな い(48)」と激をとばす。「軍神大舛」運動を踏みきり台にして教育は「死への 教育」へ向かったのだった。しかし、戦後、3人はいずれも指導者として要職 につくことになる。 ところで先の校長は紙上座談会で、「アメリカ人の教育程度は一般的には非 常に低い。大学あたりでも学校に出てさえおけば大抵卒業できる。深遠な思想 を汲取ると力、或いは心の糧にするということは何もない。……精神文化の低劣 な点実に話しにならない(49)」と発言してもいるのだが、知りつつ歪めた発言 をしているのか、そもそも世界認識の低さによるものなのか。だがその人こそ -61-
やがて米軍政府の下で諮詞委員会委員長、民政府知事、琉球大学初代学長を勤 め、米スタンフォード大学から博士号までもらった志喜屋孝信氏なのである。 ほぼ-年後には、「教職員も今更ながら教壇から生徒に向かって、前に教えた ことはウソとは云えない」「まず沖縄の歴史を精読せよ」「沖縄の歴史を通じ て一つの誇りを持たせる(50)」と述べ、更に1946年4月民政府知事就任に際し ては、「禍を転じて福となす覚悟で米国軍政府の御好意に感謝しつつ米国文明 の利器を体得して戦前の沖縄よりもよりよき沖縄を建設し、沖縄のわう金時代 を我々の手によって出現せしむる様努力して戴きたいのであります(51)」と述 べるに至る。彼はどの様に過去の考え方を切替えたのだろうか。 元教師達はどの様に戦後に参加していったのだろうか。八重山の元青年学校 長宮良高司氏は、「私は過去五か年間、日本軍閥の手先となって、この様な悲 惨な戦争のために、青年達を指導煽動してきた罪業の深さを反省した時、慨嘆 に堪えず、再び教壇に立つ勇気を失ってしまった(52)」と、二度と現場へ戻る ことはなかった。関わり方の程度の違いはあっても、戦前の教育が負うべき戦 争責任とはやはりそれ程のことであっただろう。しかし既に見たように、混乱 した子供達の生活があり、子供達を放っておけない、という緊急な現実問題へ の対応としての現場復帰というケースが多かった。つまり「燃ユルガ如キ教育 愛」に基づく再出発である。それでも、「終戦で山を降りるとき、もう二度と 教員にはならないと決心したものでした。ところが具志川に文教学校が建つと いうことで、そこの付属小学校に是非勤めろ、といって同僚や先輩たちから強 力にすすめられ、最初のうちは、どうしようかと随分迷ったものでした(53)」 というように、迷いつつ復帰したケースは少なくなかったろう。安里清信氏の 場合は、「戦争が終わってもう ̄度教育者になるというのが、非常に恐かった んだな。それまでの経験で、先生というものが恐いものだということがよくわ かった。……もう絶対に先生になるまいと思った。それは私の強い決意だった んですが、先輩の先生がたがもう戦死していないんだと、かれらの子供をどう すればいいんだということで、とうとう戻らざるをえなくなっ(54)」たという。 このように煩悶する教師達によって少なからず教育の再建は支えられてきた。 この様な中で曰本国民としての教育など可能なのであろうか。 -62-
ところが屋良朝苗氏は、「沖縄はすでに米軍が軍政をしき日本から切りはな されていた。しかし、私はそのころから、いつの曰か沖縄は曰本に復帰すると 確信していた(55)」と述べ、終戦直後から沖縄の教師達は「曰本国民の教育で あるところの教育を打ち出して、実施して(56)」きたというのである。1945年 段階で諮詞委員会文教部長山城篤男氏から「言語教育はどこまでも標準語(日 本語のこと)で行け」という通達が出された時、それを受けて「学務課職員、 学校教職員が晴天を迎えた喜びと安定感に打たれた事実は忘れることが出来な い(57)」と『地方自治七周年記念誌』は伝えているが、その「喜びと安定感」 こそ、当時の現場の受け止め方の-面を象徴し、屋良氏言うところの「日本国 民の教育」に繋がる意識であったに違いない。やがて屋良氏自身が群島政府の 文教部長として米軍による初等学校への英語の押し付けに抵抗する意味で標準 語教育を強調することになる(58)。 それは戦後、文教学校附属初等学校や田場初等学校の校長として標準語教育 に力をそそいできた山城宗雄氏にも通じるものである。元同僚は、「沖縄を他 県なみに引き上げるためには、まず言葉の問題を解決しなければならない。こ の解決なくしては、沖縄の文化が本土の文化の中で成長発達することはできな い、といった先生のお考えでした。これは戦前から一貫していたと思います。 ……終戦直後は、教育も混沌としており、とくに日本語の問題については非常 に混乱していたが、そういう中で先生は、いまの教育基本法にうたわれている、 曰本国民として教育する、ということを自分の信念として貫いてこられた。終 戦と同時にはっきりとこの精神をお持ちになって、教育の上にこれを生かして おられる(59)」と語る。山城氏の方針は、「方言も共通語も」ということでは なく戦前から一貫して「共通語を生活語へ」である。1953年研究会参観で田場 小学校を訪れた指導主事は「文教時報」に、なぜ言語教育をテーマにしたかに ついての山城校長の説明を紹介している、「第1に沖縄人の向上発展の意味か ら、第2に文教部時代の沖縄教育の努力点であったから、第3に沖縄の教育を 日本と直結するために、第4に私たちは曰本人であるという自覚に生きねばな らぬ(6o)」。そして更に「教育界に船出して三十幾年、正しい言葉をと念じつ つ今曰に至った老校長の「標準語を通して心に曰の九を掲げよう」という一語 -63-
には目がしらが熱くなる。実質的な祖国復帰の近道は、正しい言語教育にある ことをしみじみ想わせられた(61)」と報告している。
屋良氏によると「日本国民の教育」という考えは、「親船と子船が闇夜の波
風の荒い大海で航海をしている。親船はひとりでに前進する。ところが取り残
された子船は、親船を見つめながら前進して行くけれども、切り離され、断ち
切られた子船なので、それは大海に翻弄されている木の葉と同様、いつ沈むか、
いつ方向が変えられるか、まったく波の間に間に、あなたまかせの運命しかた
どれない。ただ一つ揺るぎない方法がある。それは親船と子船を綱で結ぶこと
である。ゆわえてさえおけば、どんなに大海に翻弄されようが、その子船は左
右に揺れるかもしれないが、方向は間違いなく、親船について行けるんだ。そ
の鎖の役目をするのが教育だ……だから、どう考えても沖縄の教育は、曰本国
民の教育でなければならない(62)」ということになる。この素朴なナショナリ
ズムはどこからくるものなのか。戦争体験から得たものは人によって様々であるが、植民地朝鮮の小学校教師
であった安里清信氏は、「もし曰本の敗戦というものがなければ、私も皇民化
された日本人として生涯を終わったかもしれない。やっぱり、この第二次大戦
という時点で自己を発見したような感じがします(63)」と、戦争、或いは敗戦
が教師としての自分を振り返る契機であったことを強調する。それに対して、
屋良朝苗氏は、台湾の師範学校の教師として終戦を迎えるが、混乱の中で、教
師が台湾人生徒の暴力を受けたり、内地人生徒親子がつるしあげを受けている
様子を見て、「まけいくさのみじめさ」をしみじみ感じたという。皇民化教育
が植民地人民とっていかに屈辱的なものであったかがそこに示されているわけ
だが。そして、沖縄出身の人が殴られないので不思議に思って聞いてみたとこ
ろ、「中国と沖縄は縁が深いから」というので、屋良氏は「苦笑し」てしまう
のである(64)。屋良氏の場合、「曰本人意識」や「教育への情熱」は終戦によ
り大きく瓦解することなく戦後に繋がっていったのではないか。1945年の7月に入って米軍は人物調査を始めたが、多くの人々から志喜屋孝
信氏の名があがった。そして、仮沖縄人諮詞会で志喜屋氏が選出され、米軍は
諮詞委員会委員長に彼を任命した。つまり、戦前の教育の責任を問うことなく
-64-再び志喜屋氏を選んだ沖縄側の意識、日本本土の様に「追放」を要求すること もなく志喜屋氏を任命した米軍側の姿勢、これが戦後の教育「再建」の意識状 況を象徴している。中山興真氏は、戦後文教部で民主主義についての講演会を もった際、戦犯と同じ教師が民主主義を説くのはおかしいという意見に対して、 「山城部長から「軍国主義に協力して成果を上げた人が、また民主主義にも成 果を上げることができる」と言われたので意を強くした(65>」と回想している。 戦争責任は一概に教育にばかり問われるものでもないが、曰本は特に深く青少 年を戦争に駆り立てたし、彼等は忠実にそこで生き、そして死んだ。同時に沖 縄は最も深く皇民化教育にのめり込むことによって、全てを失った。近代公教 育は国家権力による国民形成のためのイデオロギー装置的要素を持っているが、 沖縄教育は自らの戦争責任を問うことを通して、皇民化教育のみならず公教育 の国家との関わりを根本的に問いただし得る資格を持っていた。しかしそれは、 根本的な制度改革という視点の欠落と旧制度と|日指導者をフルに活用する占領 政策によって、更に曰琉分離方針ゆえに、暖昧にされ、また、沖縄側も暖昧に してきてしまった。既に見た「アメリカ学校」「アメリカの犬ども」という声 は、庶民の教育界に対する厳しい糾弾ではなかったか。占領長期化と帰属問題 への危機感を引き金にして、「異民族支配への抵抗」と「曰本への復帰を」と いう文脈の中で「曰本国民としての教育」が急速に浮び上がってくるのである。 1951年12月13曰、沖縄群島議会は曰本への早期復帰を前提にして「国籍は日 本人として曰本国旗の掲揚を許してもらいたい(66)」などの要望事項を議決し たが、屋良朝苗氏を会長とする沖縄教職員会も52年6月4曰、学校行事での 「国旗」掲揚を米民政府へ陳情した。しかし、却下。1953年から沖縄教職員会 は児童生徒から注文を取り、旗と竿を本土から一括購入して各家庭に配るいわ ゆる「日の丸たてよう」運動(67)を展開していくのである。それとほぼ並行し て標準語(共通語)励行もすすめられるが、1955年以降の教育研究集会におい て国語教育、国民意識形成の重要なテーマとして、学力の基礎として位置づけ られていく。1956年から沖縄は文部省による全国学力テストに参加し、以降 「学力の遅れ」が叫ばれることになるが、「全国最下位からの脱却」「学力向 上」運動は、何も昨日今日始まったわけではない。かくして「日の丸」「標準 -65-
語」「学力」は「曰本国民としての教育」の三点セットとなる。
「祖国」復帰の時、高校教師である儀問進氏は次のように書いた。「私たち
が過去に激しく吐き散らしてきた数々の言葉の形骸を政治的に保守といわれて
いる側の街頭演説などで耳にするとき思わず耳をおおってしまう。……祖国復
帰運動は或る意味では、純粋に保守であったからこそかえって革新としての働
きをなした歴史の逆説であった(68)」。新たな想像力をもって沖縄の戦後教育
をとらえ直す作業がここから始まる。 おわりに沖縄の教育風土はいまだ同化志向的傾向も強く、国家の教育に対する自立性
は必ずしも強いとはいえない。沖縄戦体験と激しい復帰運動を経ながら、なぜ
根本的に革新されることがなかったのか。本稿は特に占領初期の一年にスポッ
トを当て、米軍占領政策と戦後の混乱した状況からくる制約、そして「曰本国
民の教育」と関わらせながら教員の意識などについて考察してきたが、それぞ
れ不十分で、勉強不足を痛切に反省している。今後次の3つの課題に取組んで
行きたい。1つは、沖縄における教育の戦争責任の問題、或いは戦前と戦後の
教育の関わりについては未だに不明確、古くて新しい課題として残されている。
2つ目は、50年代、60年代の「曰本国民教育」の徹底分析。3つ目は、沖縄の特異な戦後体験の中から新しい可能性を拾う作業。公教育は未だ愛国心を超え
て国際人を形成し得ないが、あの国家から切り離された沖縄のポーダーレスの時代を現代的視覚から振り返り、教育が国家の呪縛から飛躍するためのヒント
を探ってみたい。 註 仲宗根源和『沖縄から琉球へ』月刊沖縄社、1973年、56頁. 大田昌秀『沖縄の挑戦』恒文社、1990年、207頁. 川井勇「戦後沖縄教育の-考察」『琉球大学教育学部紀要』第26集第1部所収、 1983年、302頁. (1) (2) (3) -66-大田昌秀「占領下の沖縄」『講座日本歴史23』所収、岩波書店、1977年、297頁. 那覇市企画部市史編集室編『沖縄の働突』昭和56年、260頁. 我部政明「琉球大学図書館報。びぶりお」第24巻第4号、平成3年12月、1~11頁. 0kinawanPapersdepositedbyJamesT・Watkins(WatkinsPapers),the PlamingPeliod(Hanna). TechnicalBulletin(HeadquatersTenthArmyMilitaryGovernmentSection) 25Febl945,p、80. 川井勇「沖縄占領と米軍の教育政策に関する一考察」『九州教育学会研究紀要』 第11巻、1983年、98~100頁参照. ibid,p、59. PoliticaLEconomicandFinancialDirectiveforllilitaryGovermentinthe OccupiedlslandsoftheNanseiShotoandAdjacentWaters,lUarl945, CinpacFileA17-10/A1-1. 沖縄県教育委員会編『沖縄の戦後教育史」資料編、昭和53年、1123頁. 『沖縄から琉球へ』89頁. 沖縄朝日新聞社編『沖縄大観』日本通信社、昭和28年、287頁. 沖縄市町村長会編『地方自治七周年記念誌』1955年、43頁. 前掲書、42頁. WatkinsPapers,MilitaryGov'tCircularNQ16・ 沖縄タイムス社編『沖縄の証言』上巻、沖縄タイムス社、1971年、98頁. U、SNavalGovernment,ReportofMilitaryGovermentActivitiesforPeriod fromlAprill945tolJulyl946,1July1946. 『沖縄の働芙』235頁. 前掲書、216頁. 琉球政府文教局編「琉球史料』第3集、1958年、30頁. 『地方自治七周年記念誌』36頁. 前掲書、31頁. 『沖縄の働突』216頁. 『沖縄の証言」上巻、100頁. 『沖縄の働突」217頁. 前掲書、237頁. 『琉球史料』第3集、392頁. (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) -67-
(29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) 『沖縄の証言』上巻、107,108頁. 『沖縄から琉球へ』81頁. 前掲書、145頁. 『沖縄の働突』32頁. 『沖縄から琉球へ』71頁一 『地方自治七周年記念誌』54頁. 『沖縄の証言」上巻、105頁. 中野好夫編『戦後資料・沖縄』日本評論社、1969年、6頁. 琉球政府文教局編『琉球史料』第2集、1956年、210頁.
「宮古教育」創刊号(1947年9月1日)沖縄県教職員組合宮古支部『宮古教職員
会20年史』1973年、9頁. 『琉球史料』第3集、510頁. 沖縄タイムス1992年9月13日朝刊、沖縄占領国際シンポジウムにおける平敷静男 氏の発言記録. 長浜功「教育の戦争責任』明石書房、1984年、38頁. 前掲書、19頁. 沖縄新報1944年12月9日. 沖縄新報1944年12月9日. 北谷町史編集事務局編『北谷町民の戦時体験記録集』第1集、1985年、159頁. 沖縄新報1944年12月9日. 沖縄県教育会編『沖縄教育」昭和19年2月号、昭和19年2月15日、45頁. 沖縄新報1944年11月18日 沖縄新報1944年12月8日 『沖縄から琉球へ』145頁. ウルマ新報1946年4月24日 石垣市史編集室編『市民の戦時戦後体験記録』第1集、昭和58年、76頁. 『沖縄の働突」249頁. 安里清信『海はひとの母である』晶文社、1981年、97頁. 屋良朝苗『私の履歴書」屋良さんを励ます会、昭和46年、26頁. 屋良朝苗編著『沖縄の夜明け」あゆみ出版社、昭和44年、36頁. 『地方自治七周年記念誌』32頁. 『私の履歴書』60頁. (39) (40) (41) (42) (43) (44) (45) (46) (47) (48) (49) (50) (51) (52) (53) (54) (55) (56) (57) (58) -68-(59) (60) (61) (62) (63) (64) (65) (66) (67) (68) 山城宗雄伝編集委員会編「平凡持久』、1969年、137,138頁. 琉球政府文教局研究調査課「文教時報』第5号、1953年6月、18,19頁. 前掲書、19頁. 喜屋武真栄『政治を人間の問題として』あゆみ出版社、昭和45年、60,61頁. 『海はひとの母である』89,90頁. 「沖縄の夜明け』117頁. 那覇市教育研究所「研究所報」33号、1972年2月、11頁. 琉球新報1951年12月14日 屋良朝苗編著『沖縄教職員会16年」労働旬報社、昭和43年、62~66頁. 沖縄タイムス1972年5月23日「唐獅子」. -69-