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プラトニズムに於ける実在と善

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Academic year: 2021

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(1)Title. プラトニズムに於ける実在と善. Author(s). 阿部, 秀男. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 20(2): 1-14. Issue Date. 1970-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3970. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻. 第2号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和45年1月. プラ トニ ズムに於 ける 実在と善 阿. 部. 秀. 男. 北海道教育大学岩見沢分校哲学研究室. Hideo ARR: AI l ity 〕out Rea l n , Good of P1atonis. 内. 1 , 自然と意識 2 . 自己同一性 3 . イ デア. 容. 4 . うも一つの知性 5 . 新たな胎動. 1 , 自 然 と 意 識 ! ) の冒頭で プロチノスは自分の内的体験を彼にはめ づ 比較的初期の論文『精神の身体への下降』 べ らしく独白の形で述 ている,「しばしば体験して来たことなのだが, 身体を離れ私自身に目覚め, 自分と異質な外的なものから去 って自分の内へ入り実に驚くべき美を私は見たのだが, その時私 は至上の運命に恵まれていることの確信をいやが上にも深めたのである. 私はありたけの力を尽 くし, その活動を窮め, 自分を他のすべての知性的なものの上に据え,神的なものと一体となり, 神 的 な も の の 中 に 座 っ た. が 神 的 な も の の 中 に 留 っ た 後 に 知 性 か ら思 考 l ogi sn l os へ と 降 り て,. さて一体どうして私は今も 〔こうして〕 下降しているのか, どうして精神は身体の中に在るにも かふわらず, 〔あの時〕 精神だけで私に現われたよう 〔に純粋〕 な 〔ものの〕 まふで身体の中へ ) 要 する に- な る も のが どう して 多 にな っ た のか ある 入 っ て 来 た の だ ろ う と 戸 惑 う の で あ る」 2 ,. いは神的なものがなぜこの世に降りて来たのかという, パルメ ニデス以来古代哲学者たちの最大 の形而上学的難問に プロチノスも叉苦慮しているのである. 何か回答らしきものをひき出せそう に に 見 え る ヘ ラ ク レイ トス の 隠1除も 謎 め て お り, エ ソペ ドク レス の 言 葉 も あ ま り に 詩 的 で 明 確 ) む し ろ こ う し た 扱い そ の も の が 事 柄 の 困 難 さ 答 え が た さ を 物 語 る も の で あ っ た 頼 でな い, 3 , . み と す る プラ トン も 読 む と こ ろ 一 定 し な い, す な わ ち 『フ ァ イ ドロ ス』 を 中 心 に 彼 は 精 神 psycha の下 降 を 悪 と して 否 定 的 に 見 て い る の に, 『チ マ イ オ ス』 では逆に精神は全体を美しくするため iargos が こ の 世 に 送 り 込 ん だ の だ と し て い る 古 代 哲 学 が 区 別 し な か っ た と 言 わ れ に, 神 den l . る混乱 がこ に表 わ れ て い る, 『フ ァ イ ドロ ス』 で の 不 降 の 否 定 と 『チ マ イ オ ス』 の 肯 定 と の 矛. 盾はそもそも問題にしてい る事柄の違いから生じているのではないだろうか. 前者に従えば精神 にとっ て身体は文字通り牢獄であり, この牢獄から脱出しないかぎり精神の自由も叉ありえない, 端的に言うなら精神の解放は死ぬことによってのみ達成されるということである, こうした ペ シ ー 1 -.

(3) . 阿. 部. 秀. 男. ミ ズム は ブ p チノ ス の 時 代 に 何 ら か の 形 で あ らゆ る思 想 を 支 配 し て い た し, と り わ け キ リ ス ト教 グノ ー シス 主 義 や ア レキ サ ン ドリ ア の 神 智 学 者 に 共 通 し て い た, 叉メ ニ オ ス に 従 え ば こ れ ら の 神. 智学者たちは プラ トンの 『フ ァイ ドロス』 や 『国家』 の神話を文字通り解釈し精神 が空中を通って ) プ ロ チノ ス も 叉 こ の 自 然 的, 宇 宙 論 的 表 象 か ら完 全 に 地 上 に 降 り て く る と 思 っ て い た ら し い, 4 自 由 に な っ て い な い こ と は 上 記 の 『下 降』 の 示 す と こ ろ で あ る. こ の 世 と こ の 世 的 な も の は 随 落 の結 果 で あ り, そ の 原 因 は 神 的 な も の に ま で 及 び か ね な い, と い う も の プ ロ チノ ス の い わ ゆ る 流. 出説に従えばこの世のものを作るのが精神であり--精神が働かなけれを ものが生 成 し な い 以 、 められるから 上, 生成も創造も下降も同一のものである--, その精神の起源は神的なものに求 で あ る. 事 実 グノ ー シス 主 義 は 精 神 そ の も の に 下 降 の 責 任 を 帰 し て い た よ う で あ る. プ ロ チノ ス が グノ ー シス 主 義 を 激 しく 弾 効 す る の も こ の 思 想 の 中 に 救 い 難 い ペ シミ ズム と 神 的 な も の に 悪 の. 起源を置く富漬とが秘んでいることを見抜いたからであった, 神的なものの絶対性--いかなる 意味でもこ. には悪の責任はないという--を前提とするか ぎり, その絶対性を危く する傾向を. 認めることができなかったのも当然である. もの-それ がどんなに価値 の低いものであ っても- の存在はそれ自体積極的なことなのだから 『チマイ オス』 の所説こそが プロチノスの下降説の依 り どこ ろ に な ら ね ば な ら な い, す る と 『フ ァ イ ドロ ス』 的 な ペ シミ ズム は ど う 理 解 し た ら よ い だ ろ う か.. 否定的に述べられている下降とは当然自然的形而上学的な事柄についてではありえず, いって :柄なのだと考えたらどうであろう, 精神の身体への下降が 随落だと言われる場 みれば倫理的な事 合この 「身体」 は自然的存在として のいわゆる肉体ではなくて, 価値的な意味での身体的なもの を指しているのであり, 下降した精神とは精神が身体によって自己を失っているような状況, 精 神が無にな って, 身体そのものになり下 っているような有様を表わしているのである, 身体は墓 場 な り SO I 1a sきn la と い う 言 葉 も こ う し た 倫 理 的 な こ と を 意 味 し て い る と 考 え る べ き で あ ろ う, I. この場合非難されているのは身体ではなくて 実は精神そのものであることに注意 を払う必要があ る, 自然的身体は勿論形而上学の対象にしかなりえないが, 精神の方は身体に 生命を与えるもの としては形而上学的存在でありな がら, こうした在り方とは違った, いわ ば倫理的存在でもあり 得るわけで, 形而上学的には精神の下降はものを存在させる働きとして善いことである が, これ を倫理的にみるなら, 精神が身体的なものに落ち込むものとして否定せざるを 得ない. このよう に形而上学的と倫理的というふうに下降が各々別な角度から 問題にされる以上肯定されたり否定 されたりしても, 矛盾しているわけではない, 倫理的な問題として考えるなら, 精神の解放は死 に よ っ て 身 体 か ら 離 れ る こ と に よ っ て で は な く, 精 神 の 倫 理 的 な 転 向 に よ っ て の み 可 能 と な る.. 問題は身体を離れることではなく, 身体の中に在りながら, こ の世のただ中でいかに 生きるかで ある. 緊張を苧みながら尖鋭化して行くべきこの形而上学的視点と倫理学的視点とが必ずしも区 別 さ れ て い な い こ と は 無 理 も な い こ と な の で あ っ て, こ の 混 同 は 中世 を 通 じヘ ー ゲル, ベ ル グソ. ンに至るまで西洋哲学の歴史全体を流れて来た伝統でもあっ た. 「恩寵は自然を廃棄するのではなくかえってこれを完成する」 というトマスの有名な言葉が示 しているように一言で言うなら 中世哲学の狙いは哲学と宗教, 自然理性と信仰の連続性の確立に あっ た, 現代の神学者 T . シャ ルダンの努力はヘーゲル及びベルグソン哲学の成果の 大 成 で あ る. 彼によれ ば生命の歴史は自然を通し, 人間の社会を通して確実にある方向をた どっ ている, 自然の進化は社会を生み出し, 社会の進展は神の意志の実現である, 神の実在はこの世の最初の 単細胞生命体から複雑を窮める人間の大脳 が形成されるに至った 約6 億年の歴史を貫いて進んで.

(4) . ブラトニ ズムに於ける実在と善. 来た生命の営みそのものの中に客体的に確証される, 人間のモラルの指標は自然が辿 っ ている方 向によって示される, 人間がどう生きる べ きであるかは決断したり信じたりする事柄 ではなく, 存在の歴史の方向を記述し調べてみればおのづと明らかとなるに違いない, ヘーゲルが歴史の進 展を絶対精神の自己展開であると言 っているが, 彼も精神は世界史という広い意味での存在の流 れの中に客体 化されるものとしているわけである. 歴史の発展法則の必然性は人間精神の内的必 然性の外在化にほかならず, この内的必然性を シェリソグのように神秘性には置かないであくま で卸 Wissen の必然性とする彼にと っ て真理は概念 にほかならず, 神の意志は人間の理 性によ っ て完全に理解されるものとなる, 恩寵の原理は同時に自然の原理 であり,精神は恩寵にか わる一 方歴史を動かす客体的な力ともなる, ベルグソンでも精神のこの二面性が浮き刻りにされるこの ス ビ リ チ ュ ア リ ス トは 生 命 の 原 因 が 物 質 で は な く て 精 神 で あ る こ と を 情 熱 的 に 主 張 し て い る, そ. の事実を彼はとりわけ生物についての極めて実証的な研究成果から引き出した, この段階に於け る限り精神の下降は生命力の創造的な働きとして全面的に善きことである. ところが人間にのみ 固有な笑いという現象を精神的なものが 物質的なものに転落することに対する素早いしっ ぺ返 し なのだと分析する時ベルグソンは この精神という言葉を倫理的な意味で使 っ ていることにな る. これは プロチノスの思想そっくりである. 精神の二面性は叉その対立原理と しての物質の二面 性 をも意味する, 物質は影而上学的,自然学的には精神を宿す積極的概念であるのに倫理的に考えら れる時精神を幽閉する姪橋となる, それゆえ精神から物質への運動すなわち下降は歴史発展の運 動と してあるいは絶えざる創造的な進化と して 形而上学的にはヘーゲルの場合もベル グソンの場 合も積極的なものであるのに, これを両者とも同時に疎外現象--自然は精神の自己疎外であり (ヘーゲル) --としている時はこれを倫理的な視 点 , 意識は物質に自己を疎外する(ベル グソン)- から悪とみているわけである, 精神の二面を一体視するかぎり, 下降観の矛盾は避けられない, しか し人 間 の 意 識と 世 界, モ ラ リ テ ィ ー と リ ア リ テ ィ ー, 精 神 と 自 然, こ れ ら の 関 係 を ば ら ば ら. なま. にして置くことに我々は耐えられない, 我々は自然原理に従っ た存在であると同時に人間 にのみ固有な内的原理を持つ存在でもある以上, その間を統一的に理解しようと願うことも叉必 然 で ある.. 人類最初のイ オニアの哲学者たちを自然哲学者と限定 づけて来た評価は 修正が必要 な の で あ り, タ レス の 水 も ア ナ ク シ マ ン ドロ ス の ト・ ア ペ イ ロ ソ も 自 然 原 理 で あ る と 同 時 に 人 間 の 内 的 な ) ヘ ラ ク レイ トス に と っ て世 界 の 真 理 を 把 え る の に 「自 己 原 理 で あ り 宗 教 的 な 原 理 で も あ っ た. 5. 自身の探求」 を志すにしくはなかっ た, 叉ス トアのロ ゴスは神の原理でもあり自然の原理でもあ る. to apeiron. や 1ogos に よ っ て こ れ ら の 人 々 は 宗 教 と 自 然, 自 己 と 世 界 と を 統 一 化, 一 体 化. して来た. これは古代より今述べた シャ ルダンに至るまで西欧哲学の一つの伝統的な思考様式を 形成 して来たのである. だが統一的に理解することは何も内的原理と自然原理とを同一視するこ と や 一 体 視 す る こ と で は な い, パ レス チ ナ か ら で た キ リ ス ト教 が も っ ぱ ら ギ リ シ ャ 哲 学 導 入 に よ. ) の時代にエルサレムと アテネをきっ ぱりと断ち って精神主義の傾向を強めていっ た初期護教家6 切 ろ うと した テ ル トリ ア ヌ ス は 信 仰 と 自 然 的 理 性 の 異 質 性 を 強 烈 に 主 張 し て パ ス カ ル, ル タ ー の. 先駆となったが, これらの人たちは互いに異質なのだという形で人間の内的原理と自然原理, 信 仰と理性を位置づけようと したのである, 自由そのもの, つまり対自存在としての人間を即自存 在に鋭く対置し, 人間を世界という森に 迷い 込 ん だ 異 邦 人 6tranger だと す る サ ル トル は 意 識 と 自然を完全に引き裂いている, だが統一的に理解することは正当に位置づけることと考えればサ ルトルも叉人間と世界をある意味ですぐれて 統一的にとらえているとみることもできよう. 思想 - 3 ー.

(5) . 阿. 部. 秀. 男. の体系化とは自然と意識の橋渡しへの試み, 世界と自我 の断絶の旭服への努 力, 存在と善の一元 化への要求以外のなに ものでもない, 従 ってこ の体系化がはたして どこまで可能なのか, 結局体 系化しきれない何が残るかが問題となるだろう. この小論はギリシャ哲学--主としてプラ トニ ズム-■がこうした一体化, 体系化をいかなる 必然的要清にもと づいて計っ たのか, 叉どこでそ の試みが破綻しなければならない 問題に突き当る かをもっ ぱら実在性とモラリイティの関係から 一 瞥 し た も の で あ る, 2,. 自 己 同 一 性. ) --この論文は後世 キリス ト教が最高原理 前に挙げた『下降』のじき後に書かれた 「善一論」7 を た て る 時 の依 り ど こ ろ と な っ た も の で あ る. 因 に 中世 哲 学 の 最 高 原 理 は ens ,verus と 並 ん で bonum (善) と unum (-) で あ っ た - - は 一 者 が 至 高 の 善 で あ る こ と を プ ロ チノ ス が 体 系 的 に. 述 べた最初のものである, 明らかに パルメ ニデス, プラ トンに由来する, だが反面東方の影弱も ) 一 者 な る も の は ど う し て 善 で あ り う る の か ? お よそあると 言 わ れ る 受 け て い る と 思 わ れ る8 も の は な ん で あ れ, そ れ が そ れ で あ る の は 一 つ の も の と し て あ る こ と だ と 言 え よ う, 一 つ と し て. あることが破れたなら同時に存 在をも失っ てしまう. 例えば身体 --身体の死とは身体が生命源 を 失 っ て ば ら ば ら に 解 体 し て し ま う こ と に ほ か な ら ず, こ の こ と は 船 や 家 の よ う な も の に も, 軍. 団や合唱隊のようなものにもい うる, 家の分解は家として在るその存在性を失うこと であり, 軍団の統一 が乱れ る時軍団はただ烏合の衆にすぎなくなろう. 更にこの原則 はこれらのものの場 合にと どまらず, 根源的な意味で存在するといわれるもの. ろt6s に も あ て は ま る, か く て onta pr. 統 一 性 は そ の も の と し て あ る こ と の 絶 対 的 条 件 と な る。 し か し た だ こ れ だ け の こ と な ら ー は も の が そ の も の と し て あ る こ と の 原 因 に な る と い う よ う な こ と は 言 え ず, 単に も の の あ り 方, 一 つ の. 称態にすぎず結局のところ単なる抽象的な 数にとどまるのではないのか. 身体のようなものの場 合, その存在の原因は身体に生命を 与える精神であろう. 身体の統一性とは生命体としてあるこ となのだから統一 生の 原 因 は 一 と い う 数 で は な く て 精 神 だ と い う こ と に な る, だ が プ ロ チノ ス は 一を単なる抽象物とみない どころか至高の原理,実在を超えたものにまで高めているのである, ど のようにしてかと言えば--身体に美を 与えこれを美しくするのは 精神の 働きであるがこの場合 美 の 根 源 と な っ て い る も の はい わ ば イ デ ア と し て の 美, 美 そ の も の で あ り 精 神 は こ の 美 の イ デ ア. を仰 ぎ見なが ら身体に 美を与えるのである. 丁度この身体の美のように,身体の統一性も叉 考えら れないか, そのものと してあるために持たねばならない統一性はその根拠をいわば一のイデアに 有することになり,一を単なる 数から実在まで高めるのである, こう言 って しまえば実在性の程度 )こ lon9 len, ta de m証l o l l mal l ta hきtton echein to l lきtton ol が一の純度に呼応する t a men i とはすぐに引き出せる, もし一が思考上の産物と しての数にすぎないなら,身体が一つとしてある と きのこの一と精神が分裂しないで統一性をもっときの一との間に 優劣を論ずることは 無意味で ある, だが身体の実在性を与えるものと して精神の実在性はこれ を圧倒的に 凌ぐとする以上, そ れぞれの一の擾劣は自明となる. 一の純化過程をも少 し詳しくみてみよう. 家 に 例 を と る な ら, 家 は た し か に 全 体 と し て 統 一 性 を 有 し て い る の だ が, こ の 統 一 性 は 決 して. 純粋なものではなく同時に多くの要素--屋根と か床とか--の合成体であり, この場合の一は 多 を 含 ん だ, 端 的 に ー と は 言 え な い も の で あ り, 純 度 の 低 い 一 と し て 丁 度 イ デ ア の 影 の よ う な も. のである, このように純度の落ちた 一では支配する力にも限界があるわけで多少の部分的欠損な ら存在全体を破壊するには至らない, 精神の場合は どうであろう, 生命--これは身体を一つの.

(6) . プラトニ ズムに於ける実在と善. ものとして存在させる根源である一--が去る時身体はばらばらに分解するのだか ら たしかに生命 を与えるものとしての精神 は身体に統一性をも与え, 上に述べたように精神の統一性は身体の統 一性に先立 っているし, 総 じて物体的統一性よ り上位のものである しかし精神の機能はただ生 , 命を与えるだけでなく, 理解したり, 推理したり, 欲求したりす るのであるから 部分を合成 し , てできた物体ほどではないとしてもやはり多くの機能を部分とした程度の低い一 言ってみれば , 多をまだ含む一なのだと言わざるをえない, 精神が他のものに与える べ き一を自分以上のところ に仰ぎ見なくてはな らないのはこのためであ る。 精神のこの多を含む一よりもっと純度の高い- が見いだされ る場所は, 精神を生み出したと言われ, 精神精神が仰ぐ一のイデアを精神よりも っ と確実に把えう る知性 nn s を置いてほかにな いだろう. 矢田生と精神との関係は 丁度精神と身体と の関係にたとえられ, 精神が 身体の多称性を統一するように知性は精神の諸機能 を一 つにまとめ る. しかし知性とて完全にーであるのではない。 なぜなら観る働きである知性は 観るべき対象を 常に必要とするからである. 観るものと観られるものとの分裂, 知性とその対象 (これは視覚の 対 象 のよ う に 物 体 的 な も の で は な く, 物 体 的 な も の よ り は プ ロ チノ ス 的 に は も っ と リ ア ル な も の. である) つまり実在との対立--ただし分裂や対立といっても互いに異質なものどうしとしてで は勿論ない, これらは同質なのであるのだから一一言っ てみれば自己分裂, 自己内対立は現実的 に は 解 消 さ れ て は い る か も 知 れ な い が 尚 論 理 的 に は 残 存 して い る わ け で あ っ て,. ア リ ス ト テ レス. が第一人者’ すなわち神の窮極的な在り方とした知性の自己 観照, 純粋思惟としたこの段階をプ ロチノスは更に上昇し, 知性にみられる動きが完全に消滅しいかなる意味での分裂 も対立ももは や無いものを求めて行く, 矢廿注が実在とま ったく一 つに溶け合ってしまうところ, いささかの多 も許さないものとして完 壁な統一性の根拠が求められる時 現われるものこそ名状 しがたき一者で ある. 一者は知性 と実在とを共に生むものとして, 知性と実在の対立をまったく超え, ただ端的 に一 と して あ ると し か 言 い よ う が な い -- む しろ 在 る と す ら も 言 え な い よ う な も の と い わ れ る 。 さ て 身体 か ら 精 神, 矢廿性そ して 一 者 へ と 辿 る こ と に よ っ て, 一 つ と し て あ る とし・う 意 味 の 違 い. を一通り見たわけだがこの方向は統一性の純度の増す 方向でもある. 身体より精神, 精神より知 性と統一性の純度は次第に高ま り, 一者に於 いて一はまっ たく純粋そのもの, いかなる多をも混 入しないものとなる. 眼は自分とはまっ たく離れた客体的事物を対象とするかぎり, 見るものと 見られるものとは別々のものである. だが知性の見 るものはもはや視覚の対象のように自分と別 のところにあって動かない世界ではなく,矢”性と同質のもの,いわゆる知的な もの ta noきta であ る, だからラ粘性が見る ものはある意味で自分自身にほかならない. してみると統一性 の純化過程 とは主体と客体の対立が次第に解消して行く過程, 主観と客観が一つところに溶け合 って行く過 程,人間が外の世界から己の世界へと内面化して行く過程にほかならないだろう --言でいえば感 , 覚的な ものから知的な ものへ更に 一者へと進んで行く歩みは自己同一化の歩みなのである 一者 , に 於 い て 統 一 性が 完 全と な り 自 己 同 一が 達 せ ら れ る こと は よ い と し て , さ て こ の 一 者 は どう し て. 善といわれるのだろうか?感覚 的な ものより知性的なものが, 物体的なものより非物体的な もの が優れているとする精神主義がプロチノスの前提でもあるようだ 真の実在は ontろs on 知性的 . に在ることを意味し, 時によっ て自己を変え見る人を欺くことのない自同性をその本質とする . だが精神がその原因としての知性より, 知性が叉その原因としての一者より帽-総 じて生まれた 結果が生む原因よりも劣・ るのはどうてなのか, 感覚が物体的なものに快感を覚え, 思考が抽象的 なものを好み, 知性がク滑性的なものを求めることは認められるが, こうした精神の諸機能の間に 叉, 諸機能のそれぞれの対象の間にプロチノスが考えているような価値系列の設定がいかにして - 5 -.

(7) . 阿. 部. 秀. 男. 可能であるか. 物体から遠ざかることがどうしてより善なるもの美なるものの実在性に近 づくと 言 え る だ ろ う か, 3,. イ. デ. ア. 自己同一性の最終的根拠である一者は人間精神の原因として内的原理でもある が, こ の 精 神 ps yche という概念は実に多様な意味内容を 持っていて知的な面から感覚的側面, さらに最も低 い生命的側面をも含んでいる, つまり精神は極めて広い意味で 人間の全機能である, 人間をつく る のと 同 じ理 屈 で 世 界 あ る い は 万 有 を つ く る も の と し て の 世 界 精 神. he pasa psyche が 想 定 さ. れ, その本質に於いて個人の精神と世 界の精神とは同じもの だとみなされる. 世界の精神は個人 の精神の中に自己を顕わし, 個人の精神は世界の精 神と ー体となる, 実在性とモラリティ の原理 はこういう意味で世 界の創造問題ともからみあう. これらの関係が相互に関連しながら形成され た 纏 い を プ ラ トン のイ デ ア 論 を 中 心 に 一 通 り 眺 め な が ら プ ラ トニ ズム の 内 的 構 造 を 握 ん で み た し、.. とい った プラ トンの初期対話編か い づれも倫理的な ものの定義を求めるも のであり, すでにこの知的努力の中にいわゆるイ デア説なるものが芽生え 『カ ル ミ デ ス』, 『ラ ケ ス』, 『エ イ テ ィ フ p』. l to to ka l on, つ ま り 美 のイ デ ア は 美 の 特 質 と い う 位 の 意 味 で 言 わ れ て い て い る. 美 そ の も の at. るように, こうした初 期対話編に関するか ぎりイ デアといってもそれは概して内在的なものであ る. しかし プラ トンが善や 美を追求したのはそれ らが見る人や評価する人によ っ て変るような相 対 的 な も の で は な く 絶 対 的 な も の と し て で あ っ た, 美 な る も の, 善 な る も の こ そ ソ ク ラ テ ス の,. プラ トンの魂を内から動かしていたものであった. そして善や美とい った価値的なものの絶対的 規準の探求は同時に思考の原理の探求でもあり, 美が見る人で美しくなっ たり醜くな っ たりする のではそもそも我々の思考 --思考は同一律の要求に 成立するのだから‐一一すら成立しなくなっ てしまうだろう. いわゆる学問が成立するため の条件として思考の原理として の概念や定義は不 可欠である, 倫理的 美的イデアはこのようにして絶対的なものに対する純粋に内的な欲求,そして 同時に 思考の依りどころともなる. しかしもっ ぱら内在的に語られて来た初期対話編のイ デアは 『 ミイ ドソ』 で明らかに超越的なものとされその超越性に先 立ち多分にこれを論拠 づけているの i s 説である. ま ったく教育を受けていない子供が幾何 s が『メ ノ ソ』に於ける有名な想起 analn ne の問題を解き 得ることを示しながら, 知識が経験とはま ったく異ったところにその起源を持つこ と を ソ ク ラ テ ス は 教 え る. 我 々 が 幼 い 頃 善 い と 思 っ て や っ た こ と は 親 に ほ め ら れ る か ら で あ り, 悪 い と 思 っ て や め た の は 叱 ら れ る か ら に ほ か な ら な か っ た, 我 々 は そ の よ う に し て 初 め は 善 と 悪. とを外から学んで来た, しかし現在我々の行為の, 判断の基準は親の権威のような外的なところ にあるのでは なくて我々自身の内部にあると言うべきでそれは, 他人から学ぶのではなく自分自 身で独りでに学び知るものである, 外からの禁止も, 外部の賞賛も我々の内部の依りどころでは ない, 更にこの内的原理が個人によ って違うものでなくて 普遍性を持ちうるなら, この原理は内 在的なものにとどまらず何らかの超越性を持つと 考えられる, プラ トンの求めた善や 美のイ デア は正に普遍的,超越的なものであった. プラ トンはこの普遍性を精神の先在-- すなわち精神が身 体に入る以前にか の世で美なるもの, 善なるものを見ていたという--を二依拠させるのである, 一般に他人から学ばなくて も知りうる 認識の先験性は認識の 主体としての精神の先在性に基づく の だと 彼 は 考 え た. こ の 思 想 は 従 っ て 精 神 の 不 滅 性 を も 主 張 す る こ と に な る, 『ア ポ ロ ギ ア』 あ た り で は 精 神 が 死 後 も 生 き続 け る と い う 考 え に ソ ク ラ テ ス は 懐 疑 的 で あ っ た か, プラ ト ンは, こ - 6 -.

(8) . プラトニズムに方 やける実在と善. のひたすら実践的 であろうとした モラリス トから一歩踏み出し, 倫理的実践に形而上学的裏付け を 与 え る の で あ る, ソ ク ラ テ ス が 神 の 絶 対 的 智 に 対 置 さ せ た 人 間 的 智 anthroplne sophial o ) を. プラ トンの形而上学的反省は神的な智そ のものに直接由来するものとして絶対化する , 精神の不滅性は 『パイ ドン』 でイ デア論と結びつく, 精神の不滅の根拠となる想起 の対象は真 の学知の対象としてのイ デアにほかならない, 感覚的個物 の空しさに対するイデアの実在性は イ , デ アにかふわる ものとしての精神の不滅性を保障し, かくて個物とイデアの厳しい対立は身体 と 精神の鋭い対立となる. イ デアの絶対性はそのま 精神の身体に対す る優越性を意 味しそ の反動 として身体へ の極端な無関心が強調される, 倫理的美的基準そして同時に学問の厳密性 の依りど ころとして のイ デア論は,想起説の根拠として精神の不滅性 をたて 身体と精神を峻別する オルフ , ェ ウス教的思想に近 づいて行く, 身体は精神 を閉じ込める牢獄 であり soma s≦n l a, 死 は こ の 牢 獄 からの解放として, 壊滅どころか神的な世界への待ち望んだ還帰となり 逆に誕生はむしろ精神の , 下降として精神が翼を失って墜落することと解され, 生と死とについての日常的な意 味は顛倒す る, 死がいよいよ迫ってくると鳴くと言われる白鳥 は人々が考える ように死期を悲しみ歎いて鳴 くのではなく, 使えまつる神のみもとへ帰えれることが 嬉しくて美事に鳴くのだと言 て 毒杯 っ , を あ お が ん と す る 恩 師 のお そ い 来 る べ き 死 を悲 し む シ ミ ア ス を ソ ク ラ テ ス は あ べ こ べ に 慰 め る .. こうして人間の魂の運命と いう宗教的な事柄とイデア論という合理 的な 要素を強く持つ 事柄 とが 相互に補強し合いながら形而 上学となって統一されて行く, 青年プラ トンの生涯 を決定づけた ソ ク ラ テ ス の 堂 々 た る 死 は, 自 然 死 に 対 す る モ ラ リ テ ィ の 勝 利 で あ っ た , 死 をも乗 り越 えさせた倫. 理的原理としての正義はプラトンにイデアの絶対的超越性と 精神の不滅性に対する 確信を与える ものとなった, 学問的知識にか わるものとして感性的な身体に対し絶対的優位を認 められた精 神は 『フ ァイ ドロス』 では運動原理という点からその優位を更に確認される 身体 の不滅性は 運 , 動の原因を自己以外のところに置き, つまり自己以 外のものに存在 の原因を依存している以上 避 けられないのに対し, もし不滅なものがあるとすればそれは 運動の原因を自己自身に置く もの , 他に存在の原因を委ねない ものでなくてはならないし, プラ トンはこ の自己運動をほからぬ精神 固有の働きとした. 世界を一つの生命体と考 える古代人にし てみれば, 人間 の生命原理としての 精神のようなものが世界にも 働いていると思ったのも ごく自 然である, 世界精神 の不滅性は 運動 として最も美事なものつまり整然と秩序だった天体運動によっ て証明される 人間はミク ロコス , l ) なの である l モ ス mikros kosmo s ,. 「……制作者は善きものであった, そして善きものには常にいかなるものに対する嫉妬も起る ことがない. 彼は嫉妬を感じないゆえすべてのものができるだけ自分に似たものになるよう望 ん だ の で あ る … …と い う の は 神 は す べ て が 善 い も の で あ り, で き る だ け い や し い も の が な い よ う に. 望んで, 見えるかぎりのすべ て--静止しないででたらめに無秩序に動い ている--をとらえ , あらゆる意味で秩序の方が無秩序よりよいと考えそれを無秩序から秩序へと もたらした ところ , で最善なる ものが最 も美事にやらないなんていうことば 許され て来なかったし今だっ て同じこと である, それゆえ, 自然に見 えるものから推論して全体的にくらべると非知 性的でないものが知 性的なものより美しくあるまいし, 更に精神から離 …れてはいかな るものに も知性が宿らないと判 ) 2 i 断 し た (heur sken) 1 ,. 哲学に初めて制作者. deminrgos と い う 創 造 神 を導 入 し た1 ) こ の 話 も プ ラ ト ンが 断 て い る よ 3 っ. lkos に す ぎ な い か も 知 れ な い が こ の 文 章 の 意 味 し て い る も の う に も っ と も らし い 話 l ogos ho e. は明白である, 知性的なもの. to nnn echon. と秩序 talくsis が神 の望むところであり, 非知性的. - 7 -.

(9) . 阿 ton な も の anoき. 部. 秀. 男. i 5 が神の嫌うところ である. 知性の求める秩 序が善と美との規 と無秩序 ataks. 1 4 )では 均 準 で あ る が こ う し た 考 え 方 は 他 の 作 品 で も し ば し ば 見 ら れ る. た と え ば 『フ ィ レ ブ ス』. 1 5 ) 斉が美と真理とともに善 の条件であるし, 適度性も叉最高原理の一 つ とされている. 『国家』 で は正義や音楽, 医術とい ったものがいずれも適度さを守らなけれ ばならないとしているし, 『政 6 )では道徳的, 芸術的卓越性は過剰を避けるところにあるとしている. 叉 プラ トン最晩年 治家』1 i) の に 出 て く る ー な る も の を 善 の, そ し て 大 と 小 を 悪 の 原 因 だ と ア リ ス トテ レス が 解 釈 し て い る 7. 生の働きが プラ トニズムにおいて 賞賛されることをも意味する. 1 も, 一 つのものとして限定する失廿 l l . 善 bonml は プ ラ トン に 前述したように中世の最高原理となる実在 ens ,一umu , 真理 verus 8 対 す る 不 安 を も 叉 プ ラ ト ンは ) よ っ て す で に そ の 根 拠 を 与 え ら れ る1 , し かし こ のよ う な体 系 化 に 後 に ア リ ス トテ レス に 指 摘 さ れ る 前 に は っ き り と 自 覚 し て い た こ と は ソ ク ラ テ ス の 影 響 か ら 脱 し. 除々に独自の思想を形成して行く課 程であらわされた 対話編『パ ルメ ニデズ』 が物語っ ている, す なわち全アテネ大 祭に愛弟子 ゼノ ソを伴なってや って来たエ レア州の 巨頭 パルメ ニデスはそこで ま だ 若 き ソ ク ラ テ ス に 会 っ て イ デ ア 説 に 色 々 と た ず ね る が, そ の う ち で い か な る も の に イ デ ア が あ る か と い う 問 題 が で て く る. 正 義 や 美 のイ デ ア は 勿 論 ソ ク ラ テ ス は 認 め る が, 人 間 や 水 の よ う. なつまり価値的な意味では中性的 なものについて確信を必ずしも持 っていないことを, 更に髪や 泥のような下劣なものに関してはそれ らのイ デアを否定するのである, つまり価値の高いものに イ デ ア は 存 在 す る が 低 い も の に はイ デ ア は な い と ソ ク ラ テ ス は 考 え て い る わ け だ が, こ の 告 白 は な ん と い っ て も 哲 学 的 思 考 の 一 貫 性 の な さ を 表 わ し て い る も の で あ っ て パ ルメ ニ デ ス を し て ソ ク ラ テ ス の未 熟 さ を 指 摘 さ せ て い る. も し イ デ ア 論 を ど こ ま で も 一 貫 し て 主 張 し て 行 く な ら こ れ ら. 下劣なものにとどま らず更に悪のイ デアといったものが, 丁 度善のイ デアのように主張せ ざるを 得なくなるであろう. 4 .. もう一 つ の知性. ミ ロ学 的 未 熟 さ の た め に 否 定 せ ざ る を え な か っ た 醜 悪 な る も の のイ デ ア - - ひ い て ソ ク ラ テ ス がク. は悪そのもののイ デア--一 の問題は善が実在と知性の原因であり どれだけ善であるかは どれだけ 実在的, より知性的で あるかにか るとする プロチノ スの形而上学的体系化によ って 答えられる ことになろう, いわゆるイ デアは プラ トンで一面に於いて持 っていた認識論的色彩の濃い定義と か概念とい った意味あいは プロチノ スではほとんどなくなりもっぱら理念・つまり美的倫理的意 味あいが強まり, イ デアは実在として知性と共に善そのものである一者から生じたものとされる, 同時に悪とは善の 反極として 知性からも叉違いもの,知性とは異質なものと考えられる. 知性の働 きの一つはすぐれて統一性を与え, 限定 づけることにあるのだが悪はこと ごくその反対で尺度の ) な の で あ る, つ ま り 我 々 は こ れ を 定 義 ideonl i , 形 相 の 欠 損 ane ia tr 9 欠 如 ame , 無 限 定 aperon づ け る こ と は で き な い. 『悪 論』 の冒頭で表明している一つの疑問-- はたして我々は悪を知る. ことができるのか --この疑問ほど知性を絶 対的に善とする ギ リシャ 人の面目をよく伝えるもの は な い で あ ろ う. 知 性 が 善 で あ る と い う 考 え は, 悪 は 無 知 に ほ か な ら な い と い う 形 で ソ ク ラ テ ス. 以来ギリシャ 人の倫理観の中に定式化されて来た, 多分ソクラテスでは極めて実践的意味の強か っ た こ の 定 式 も プラ ト ン を 経 プ ロ チノ ス に 至 っ て 実 践 的 と い う よ り. む し ろ 知 性 的 な面 か ら み ら れ. ている. そしてこの知性主 義的傾向は悪を知性によ って把えるこ とができないか ぎりに於て実在 の世界からも追放されるあたりに最もよく表われている, すなわち限定を与えるものが実在的な ものである以上, ま ったく無限定なものは実在性をもつ わけにはいかない, とすると悪の占める - 8 -.

(10) . ブラトニズムに於ける実在と善. 場はどこにあるのだろうか, 感性的なこの世 界であろうか そうではない 感性的なも のといえ , , どもそ こに実在の影があるかぎりは 感性 的なものは別な言葉で呼べば善と悪との混合体 として . 善そのものの光と同様悪そのものの影響も受け ているには違いないが 悪そのものはも と別のと っ ころに見い出されるべきであろう. 即ち実在性のま ったくないところ つまり非存在 t 6 ma on , こそ悪といわれるものである. 悪を非存在として実在から追放す ることによ って善の絶対 生を確 立しよ うとするこの論理は極めて巧みだと言える しかし悪が 黙殺しえない現実性をもつことは . す で に プ ラ ト ンが 善 の原 理 ヌ ー ス に 対 し て 悪 の 原 理 ア ナ ンケ ー を 立 て な け れ ば な らな か. 0 )こ っ た2 と が 示 し い て る, プ ロ チノ ス は こ の ア ナ ンケ ー を 秩 序 づ け られ て い な い nが kosma 1 thei )も sa2 の と 解 釈 し ア ナ ンケ ー に よ る 一 元 化 を 試 み よ う と し て い る よ う に も 思 わ れ る , プ ロ チノ ス の取 扱 い か ら み て 彼 は 悪 を 論 理 的 要 請 に す ぎ な い と し て い る よ う に 思 わ せ る と こ ろ. もある. 善が実在するとしたら, 善が次第に減少してついに無くな てしまう極■-丁度光がや っ がてその輝きをまっ たく失ってしまう極があ るように--を ま 論理的に必然化す ることはできる. 存在に対する非存在, 限定に対す る無限定, 自足に対す る不足 秩序に対す る無秩序 最初に対 , , する終局, 一に 対する多このような対は一方を前提とすれば必然に結果する だから P V ピ ス . . . トリ ウ ス の よ う に プ ロ チノ ス の 悪 を も っ ぱ ら 論 理 的 要 請 と 解 し よ う と い う 人 も で て く る , とい う. のももし悪 を論理的要請以上のものと解した場合善の絶対性がくずれ 二元論に陥る危険性をど , う し て も 学 ん でく る か ら で あ る 2 ) し か し ピ ス トリ ウ ス の よ う な 解 釈 は 諸 匁 の 匁 と な り か ね な . 2 い, プ ラ ト ンの善 の イ デ ア は い わ ゆ る 善 い も の で は な く 美 のイ デ ア は 美 し い も の で は な い , 善や. 美のイ デアは善さ, 美しさ を与えるものとして根源となっているものであり 常に善きも の美し , きものを超えている. プロチノスの善も叉同様にいわゆる善いもの 善いという性質 poiotes で , はないのであ って, その性質を生み出す根源である. 諸悪が悪そのものと同じではないと彼が言 っている論理は正に性質 の超越,1性質を生む ものとしての根源性を念頭に置い ているのであ って 悪そのものが 単なる要請にすぎないというなら, 同様に善そのもの叉要請の域を出ないというこ と に な る で あ ろ う, 逆 に 言 えを 善の実在性は悪の現実性 を正当化する . だが我々はこふですぐ悪 の実在性をプロチノ スが認めていたと言うことは性急すぎよう . 「悪 は 任 意 欠 損 ha hopろsnn e l l is に あ る の で は な く て ま っ た く の 欠 損 hる pantel eips es l l ips i 4 2 ) た だ 単 に 美 し く な い と い う だ け の 美 の 欠 損 や 欠; e e s に あ る の だ,」 ら 美 し 糞な さ の 程 - 度が. 低いというだけであろう, 悪とは善に欠 ける, 善が無いというような消梗概念ではなく いかな , る意味でも善をもっ てはいないものであり, 従っ て善とはどのような共通 性もなく 善とまった , く反対なもの rnnantion である, 善が善きこと, 善きものの原因であるように 悪は悪しきもの , を悪しきものたらしめる悪のイデアのような ものであり, いやしくもそうした悪が あるならいわ ば非存在の形相のようなもの hoion eidost i ta nIE ontos であるとか 実有のようなもの hoion , i ns喜 と言われるのである, 勿論形相や実有はそのものとして善に依存する ものであるから悪の形 相とか実有とかい っ ても類比的に言 っているので, その形相や実有 も,悪が善に対立するように , いわゆる形相や実有に対立す るものと考えるべきである, それゆえ善の実在に対立する実在をも つ悪は諸悪を作る悪しきのもの根源として, 悪を見る人をして悪 と似たものにする eksol l ・oio6 よ う な 力 も も っ て い る, 口 か ら 入 っ た 食 物 が 体 に 入 っ て す っ か り 変 化 し て し ま う よ う に 悪 は そ こ に. 近づく ものを同化す る, 悪は叉門前で物乞いをす る乞食にたとえられ , 精神をして下降させ る 原因ともみなされ, この悪がなければ精神が下降す ることもなかったはずだと言 われてもいる . つまり精神に死をもたらす悪ここそ諸悪 の根源なのである. プラ トンと同様プロチノスでも不正.

(11) . 阿. 部. 秀. 男. 4 ) がその理由は明らかで無秩序が知性の嫌うも の と同一視されている2 であり, ラ瀞性はそもそも秩序 づける--統一 づけるとい っ てもよいであろう--一働きをその本質. adikia. が無秩序. ia ataks. i ton が 悪 と 言 わ れ る の も こ れ が 非 知 性 的 s の一 つ と し て い る か ら で あ る, 限 定 さ れ な い も の aor な も の だ か ら で あ る, 実 在, 秩 序, 知 性 は い づ れ も 相 互 に 同 質 の も の と し て プ ラ トニ ズ ム の 求 め. る善き諸原理である. しかし上に見たように 知性が嫌うはずの悪が何らかの実在性--勿 論善の 実在性とは違 った--を持つのだとすると, そうした実在性を 把える べき機能も叉 人間はもって いると考えなくて はならないであろう, 知性はあくまで善 き ものである以上悪を知る には知性を 完全に捨て, 光のとどかない闇 skotos へと下りて行かなくてはならない,暗闇に沈んだ精神は悪 徳 kakia を持つな どというものではなく, 悪そのものを分 有すると言われる, こうした状態に固 los で な く て は な 有の知性が も しあるとすれ ばこれはいわゆる知性とはちがっ た他の知性 nns al ら な い, 別 の 知 性 を 立 て る と こ ろ を 見 る と プ ロ チノ ス の 悪 は 倫 理 的 な も の を 床 め か し て い る よ う に も 思 われる しかしこの悪がアリス トテ レス以来形而上学的概念となった質料 hylさ と み な さ れ て い. , るところにやはり形而上学的な取り扱いが注目される, 限定されないこと, 初めに対する終りと 1 at h 6 い う こ と, こ れ ら は い づ れ も ア リ ス トテ レス の 純 粋に 形 而 上 学 的 概 念 た る 第 一 質 料 pr e y. の特性である, プロ チノ ス的 思考によれ ばこの世的な事物は形相と質料の合成体であり,身体とは 精神が質料に 働きかけてできた 制作品として質料的要素と形相的要素とを合せ持つものである. ところが身体は しばしば質料的なものと同 一視され, 身体を墓 場とみるオルフェ ウス教以来のペ 気 シミ ズム が 必 ず し も プ ロ チノ ス で 清 算 さ れ て は い な い の で あ る. だ か ら 身 体 的 欠 陥 で あ る 病 と力 体の醜さ とい った自然悪が精神の悪徳と同 一視され, この同一視ない し混同から出る結論と. して我 々が清浄になるには 身体から離れこの世から逃れる以外道はないということになる. 逃亡 ば 身 体 の 中 に あ る こ と を プ p チノ ス は 恥 じ, 自 分 の phyge が 救い と な る, ポ ル フ ェ リ オ スに よ れ. 生れのことなども決 して語ろうと しなかったらしく, 弟子が肖像画を書かせよ うと してみたが影 5 ) が, こ う した エ ピ る2 の影 な ど画 い て 何 に な る と い っ て が ん と して 聞 か な か っ た と 伝 え ら れ て い 伝 え てい て興 味深 ソ ー ドは こ の世 の も の, 身 体 的 な も の に 懐 い て い た ペ シ ミ ス テ ィ ッ ク な 気分 を. ものと してキ い, 事実ローマ 帝制末 期の 「死にかけた時代」 を支配した厭世主 義に拍車をかけた リ ス ト教 と 並 ん で こ の 新 プラ トニ ズム が 槍 玉に あ げ ら れ て. 6 ) 来 て 久 しい の で あ る. 2. プ この世から新たな天地へと逃れるよう説いた 極端な二元論を探る グノ ーシス派と接触した ロ 2 7 )と 呼 ん でい るよ チノ ス が 後 に は っ き り と 訣 別 す る の だ が グノ ー シ ス 派 の 人 々 を 「我 々 の 仲 間」 『 . カ ッ ツ な ど の 指 摘 す る 通 り で あ ろ う, エ ソ う に, グノ ー シ ス 主 義的 傾 向 を 持 っ て い た こ と は J. ネアデス』 中いたるところに みられる 身体的なもの, この世的なものに対する侮蔑的態度はこの グノ ー シ ス 主 義 的 あ る い は さ ら に さ か の ぼ っ て オ ル フ ェ ウ ス 教 的 傾 向 を 裏 づ け て い る, しか しお. づかっている よそこの世のもの耐- 身体をも含め --が存在するものと して 何らかの善にはあ のだとするならこの世のものを徹底的に否定することは この世の存在の根源である一者・善の実 -- 在をも否定することになる, 存在する以上善にあ づかるというのは善 --存在性を 与えるカー が 存 在 す る も の に 届 い て い る と い う こ と, 従 っ て 善 と 存 在 物, こ の世 の も の と が 連 続 し て い る こ. とを意味する. この世の否定の徹底化は善の 力の証 しでもあるこ の連続性の否定ともなる, グノ ーシス主 義は善そのものの実在性を否定するかさ もなく ば 善そのものがこの世とは何のかふわり もない ものとしてそ の連続的関係を断ち切ってしまうという危険性を苧み, 更に悪の根源をこの 世を作った神に帰 すという冒漬を犯す羽目に陥らざるをえない, い づれにせよプロチノ スの中に - 10 -.

(12) . プラトニズムに於ける実在と善. 秘むグノー シス主義は自分 の世界観全体を 破綻 しかねないことにプロチノ スが気 づいた時後は グ ノーシス主義ばりの極端な二元論を修正し, P . ヘンリ一の言葉 を借りるなら 「緩和さ れ た 二 元 8 )を 主 張 す る よ う に な っ た の で あ る 論」 2 ,. さて存在することはそれ自体善いものだとすれば, 質料に形相が入ることも叉喜ばしいことで は ない か, 『下 降』 で展開される精神の身体への下降が肯定されるのもその形而上学的質料観か らして当然 である, 精神の去 った身体, それはもはや壊滅を待つものでしかない そのかぎりで , 精 神は 身体 に と っ て の 救 い boき thei a であり神からの使者 とみなされる . 質料が質料と して単な る可能態にとどまらずそれが形相を受けて現実態となることは とにかく善い ことだからであ る , が しかしこれは質料の方から見た時のことであっ て, 逆に精神の方にしたら 自己の本性をも失 , いかねない質料への接近は 危険この上もあるまい. 形相が質料化し, 精神が身体に入 ることは純 度を低 め実在性を失うことになるのではないか, 精神が身体 に接近することを下降 kathodos と 呼んでいるのも意 味のないことではない. してみると質料と形 相, 身体と精神の関係を形而上 学 的にみるかぎり, 悪であると同 時に善である. だが そもそも質料が初めから存在してい ると考え られるのだから精神の下降は必然であっ て善悪を超えた出来事なのではないか A ・H ア ー ム ス , ‐ 9 )のも意味があるわけである もし仮に精神が下降しない トロングが下降を少く とも中性とみる4 . で精神は己れの静寂を独り楽んでいたとしたら?我々は人間として, 具体的な個人として有在す るには至らなかったであろう, 善なる一者がただ自らの中に安らいでいたとしたら?一切は深く 沈 黙したま. であったであろう, 一者が知性と実在を生み出したのも, 矢”性が精神を産み出した のも, あらゆるものがそれに続くものを産まねばならない必然性によるのである この世界を悪 . しきものと断ずるグノーシス主義者に対し, この世界が 「可能なかぎり善いのだと弁護 し この , 世界をか の世界と比較すること自体の愚しさを戒め, 世界の創造 は時間を越えた--つまり永遠 の昔からの--人間の推論の及ばない神秘的な出来事だとプロチノスは言う このよう に下降が , 善悪を超えたものだとすると精神が 身体を去るこ とは 何を意味す るか?去ることも叉善悪の枠外 と言うべきではないか, この世を去ること, 身体を去ることを文学通りに理解するならば これ , 0 ) は単に自然的な事柄にすぎないではないであろうか3 , 5 , 新 た な 胎 動 結局のところ解決され ずに残る形而上学と倫理 学の関係は, リアリティ ーとモラリテ ィー 世 , 界と自我の関係を統一化するのでなくてその相旭をいよいよ深めて行く プラ トンからプロチノ , スに至るイ デアリズムの展開は, いわゆる発展や完成 と言うよりはむ しろ問題が深刻化する過程 であり従っ て本来の問題が 本来の問題として 自己を露わにして行 G過程と見ることは できないだ ろうか, そもそも実在と善,自然と精神, 世界と自我との間にいかなる橋をかけ渡しうるのか 実 , 在はいかなる意 味で善なのか, 個人の精神はいかなる意味で世界の精神と一体 になりうるのか . ソク ラ テ ス に と っ て も っ ぱ ら 倫 理 的 な 問 題 で あ っ た も の が プ ラ ト ンで形 而 上 学 的 な 問 題 に な っ. て行ったのもそれなりの必然性があったからである. 立場や時や, 総じて情況によ っ て善くな っ たり悪くなったりするという ソフィ スト流の相対主義はあくまで 行為の絶対的規 範を求めてやま な い プラ ト ンに と っ て 認 め が た い こ と で あ っ た. 情 況 に よ っ て 相 対 化 す る も の で な く 常 に 目 同 的 な も の と して の善 そ の も の の 把 握 が た だ 知 性 に の み ふ さ わ しい と した こ と , そ してこ の 把握 のみ tきma と して 単 な る 思 い 込 み doxa の 迫 り え な い 次 元 だ と した こ と そ れ ゆ え 真 理 が 学 知 epis , l i5 はただこの学知のみが関わるのだと考えた ことはなるほどとも思える 感覚と知性 思 きthe a. ,. - 11 -. ,.

(13) . 阿. 部. 秀. 男. い込みと学知という二分法が身体と精神の分離というオルペウス教的, ピタ ゴラス教的二元論を 受 け 容 れ る に そ う 大 き な 抵 抗 は な か っ た は ず で あ る. そ し て ホ ー マ ー 以 来 ス トア に 至 る ま で の ギ. 1 ) 可滅的な個 リ シャ の正統思想とは縁 遠い精神を身体から離在した非物体ととらえる不滅思想は3 物に対するイ デ アの実在性の確信と互いに補強し合い, 人間の個霊は世 界霊に属 するものとなり, 人 間 は ミ ク ロコ ス モ ス と して 世 界 と 一 体 化 し内 的 原 理 で あ る 善 は 同 時 に コ ス モ ス の 秩 序 と い う 自. 然原理ともみなされるようになった. こ の プラ トン の イ デ ア リ ズ ム の 二 元 論 に 対 して 批 判 的 な ベ ル グ ソ ンや C.ト レモ ソ タ ソ の よ う な 哲 学 者 た ち3の に よ っ て リ ア リ ズ ム の 源 流 と して プラ ト ン と は 逆 に 高 い 評 価 を 受 け る ア リ ス トテ レ ス も プラ トニ ズ ム か ら ネ オ プ ラ トニ ズム ヘ の 展 開 に 際 し て む し ろ プ ラ トニ ズ ム を 徹 底 化 す る役 目 3 ) と い う の も す で に 上 述 し た よ う な プ ロ チノ ス の自 己 同 一 性 へ の 根 源 的 な 要 求 を は た してい る3 , を も つ 知 性 の 原 理 は ア リ ス トテ レス の 強 い 影 響 を 受 け て い る か ら で あ る. す な わ ち プ ロ チノ ス の. 知性は存在をその対象とするが, この存在は本質的に 知的なもの--というより知性そのものと. 同じも の であ る と い う 思 想 は34). i5 が 思ゞ l s noきseos と し て の 自 己 佳の 思 惟 noes 1 神 の 観 照 the6r. 5 ) を は っ き り と 受 け, イ デ ア と し て の 存 在 の 実 在 性 は 結 恩v椎で あ る とす る ア リ ス トテ レス の 影 響3. 局ラ叢性そのもの の活動によ って確証されるということになり, 知性の対象になるかぎりのものは して一者へと登り行く道は限りなく収鰍して行く自 実在するということになる. 精神から知性そ・ 己同 一化の道にほかならない, それゆえ プロチノ スの言う 精神の浄化 katharsis は 「自己自身」 t roph3 す る こ と s へ と 向 う こ と, 自 分 と 異 質 な 一 切 の も の を 捨 て て 「内 な る も の」 へ と 転 向 epi に よ っ て のみ 達 せ ら れ よ う, 精 神 の 祖 国 と は 結 局 精 神 そ の も の に ほ か な ら ず, 「オ デ ュ ッ セイ ア」. の旅は一者に至っ て終結する, しかし正にこふに最も重大な問 題が秘んでいた, 一体自己の求め るもの,自己自 身がどう して善であり実在でありうるのか. 求めるから善いのだと言えば,善を欲 求から引き出す主観主 義に陥いる危険性のあることを充分ふまえて, 求められるから善いのでは な く て 善 い か ら こ そ 我 々 は 求 め る の だ と プ ロ チノ ス は 語 っ て い る%) , 善 と欲 求 の関 係を こ のよ う. に顛倒してみても善の実在性は 説明されない, も っ ともこの場合善が事物存在の窮極的な根源で ないとするなら話は別だが, 善と欲求の関係を裏返せば悪とは精神の回避するものとなる, それ は精神とはまったく無縁であるゆえに, 限定されないも のが悪であるのはこれが知性の対象にな りえないか らであ った, そ して悪は非存在として去勢されようと した, 「忘却」 が人間にとって 最大の悪を意味したソクラテス以来のギリシャ哲学の伝統は あくまで 人間精神の本性の善なるこ と に 対 す る確 信 を 持 ち 続 け て 来 た, プ ラ ト ン の 哲 学 も ア リ ス トテ レ ス の そ れ も こ の 確 固 た る 人 間. 精神に対する自信の上に成り立つ. しかしこの伝統に立ちながら, これをゆる ぎない統一的体系 こぼれる問題が露わになって来る, のうちに確立して行こぅとすればするほど, 体系の網の目から, 病気や貧困とい っ た自然悪をも, 不正のような道徳的悪をも, ともに悪た らししめる共通の根源 を求めてこれを 「質料」 に置くとしても, 質料概念そのものの 持つ二面性を徹底的に吟味して行 くなら, ‐結局のところ人間の本来的に内なるも のの問題は身体を離れるという自然的な問題であ りえないことがいよいよ明らかになって来よう. そ して倫理的概 念としての質料--悪が論理の 操作によっ て消し去ることのできない 現実性を持っていることことを 認めざるをえなく なる時, 善と実在のみに関わ った知性とは 「異質な知性」 が人間の精神を支配する危険性を プロチノ スは 感じていたはずである, 勿論 「最後の古代人」 にふさわしく プロチノ スが精神の起源があくまで 善きものであることを 疑った形跡はみられない し, 精神が徹底的に悪から離れていることを繰返 し主張している, しかしこう した主張は一者が知性を, 知性が精神を生むという プpチノ ス の体 - 12 -.

(14) . プラトニズムに於ける実在と善. 系に立つ限りは当然なのであるが, この体系がくずれたならこの主張も叉その論拠を失ってしま う, さて善なるものに関わる矢廿性と違ったそれとは異質な知性は何を意味するか, 悪そのものに 関わるこの異質なク丑性に対していわゆる善き知性のみが 人間精神固有のものとする保障はどこに あるのか? も しこの保障が不確かなものになるなら人間の精神が本性的に physei 善きものであ るという確信を依りどころとして成立する世界と自我, 実在と善と失廿性との関係はどうなるであ ろうか?依然として秩序だったコスモスというギリシャ 的世界像の伝統に立ちながらも, まさに その秩序そのものが人間の精神を呪縛するものとして, 世界から脱出を計ろうとした グノーシス 7 ) 主義の中に既にギリシャ的人間観, 世界観の変革が見られるが3 , 悪を体系のうちに組入れよう と した プ ロ チノ ス の ギ リ シ ャ に 於 け る 初 め て の試 み は 結 局 形 而 上 学 に 還 元 で き ない 人 間 の モ ラ リ. ティ の問題に突き当って行き, 世界と人間の調和を破壊すると して激 しく糾弾した当の グノ ー シ ス主義が先取りしている問題意識をはからずも自己の内部から呈示 して行く. 註 1) プロチノスの 『エ ソネアデス』 に収め られている54綱の論文中ポルフェリオスは6番日に位置 づ け て い る, inns 2 ) P1ot ,1 , Bnneads ,N 8 3 げ綿・が必 然 的 な も の で あ る ) 例えばヘラクレイトスはこの上昇下降の問題を探求 して相対立するもののぎ l i bきa en であ る と言 l stheot amo nangka絹 と言ったり, エ ソペ ドクレスは精神を神からの脱走者 Phyga V, P っ て い る. I ,8 .1 4 in Bnn6ades n7 ) E, Brehier, P1ot .211 . ,p. i ko l 5 」 と呼んで以来現代の j, バーネ ) アリストテ レスはこれら 「最初の哲学者たち」 を 「自然学者 phys ットのような人に至るまでそういう観方が続いた, しかし W,イエーガーはむしろタレスの水やア ナ ク シマソドロスのト・アペイロソが宗教的な意味で使われていることを指摘 している. 有名なアナクシマソ ドロスの断片 ……そこから生成が生ずるそのものへと消滅は必然に従って起る. なぜならそれらは時の順序に従っ て不正のゆえに相互に裁きと罰を与えあうのであるから……. はニーチェの厭世主義やハイ デガー存在思想に大きな影響を与え, B, ローデによればアナクシマソドロ che BI1, S,119 スの神統記の中に事物の個体化を罪とみなす思想が出ているという. B,Rohde y , ,Ps 6) そのうちでも最も重要なオリゲネス--この人はプロチノスと並んでマンモニオス・サッカスの出監の誉 高い弟子である一一は素朴な信者たちを対象に した人間味あふれる説教書を著している反面, 『原理論』 や 『ケルンス反駁書』 のようにギリシャ哲学を駆使 したものを残し, 自分の弟子には決してプラトンを手 代の諸教家には 離さずギリ シャ哲学のあらゆる分野に精通するよう説いていたといわれる. 一体にこの時. キリスト教徒となる以前, プラトン哲学を修めた者が多が多い. 7) 『下降』 から3番目. 全体で9番目,. lat ius inus and Neop t 8) P oni sm,1952 ot s or ,21 . V. Pi ,p , P1 9) 晒,9 ,1 1 0) P1ato,Symposi t un,20d , 1 1 ) 世界や宇宙とい った意味のギリシャ語 kosinos は同時に秩序といった意味をも持っている.. 1 2 ) P1ato, Timaeus ,29E. ’ l 13) Conford, P1 ato s CO S 1 no ogy ,34 ,p ,1952 b P 5 1 h i l 6 14) P e s u a o at , , ic 349b ー 15) P1 o at , Repub i i l 16) P1 t at o cus , Po ,283c i M l i 17) Ar t t s ot e e a cs phys , A,b 988a 14 , ’ deas 18) D. Ros s ) ato stheory ofl ,245 ,1 , Pー ,1953 19) 1 .8 ,3 20) P1 ato ,48a , Timaeus i 2 1 )hys ・aet l s )1 s ,8 , 必然 anagka は叉古い自然 hる archal ,7 , Tin ,9od とも言われる. i i d b 22) P [or s us .p .133 . V, Pi ,i 23) 1 .8 ,5 i 24) P ander edl ato . Fr .p .27 .p ,7 リートレ ソダーによればプラトンにとって不正とは無秩序にほ , P1 ,1958.

(15) . 阿. 部. 秀. 男. かならなか った. ’ in e i 1 ヒ 25 ti s e deses gcr ordr ) Porphyre, La vie de P1ot , ,. i i i l 26) W, R.lnge osophy of P1 ot nus .p ,26 ,1 ,2nd ed vo , The Ph 27) 11 .9 ,10 i i t 28 s ly of Thought nusin the Hi o ) P, Henry, The P1ace of plo[ . , Lv iml l l i l l i b s ein the phi os ophy of P1 ot t e Univer s 29 ect L i re ofLhe lnt e ) A, H, Armstrong, The Archi g , 1940 ,p ,86 30 s よく生きることにほかならない ) 逃れるとし・ ても場所 Topos を移すのではなくて地上に在って epiga. っ 低きところ, 上昇 下方, 高きところ とプロチノスは言っているが, 他方価値概念として上方 i r de Di eu dans s 下降という表象はどうしても空間的, 場所的イメージを免れがたい, Ar nou , Le d6. in l l osophi e de PI a phi 0[ , .202 ,p i d H i L i b 31) P r x e n y , , , ,. 2 3 ) プロチノスはプラトニズムの正統な後継者として自任し, アリストテレスに対してはきわめて厳 しい評価 をしているが, アリストテレスの影響--特に知性 nas 観--は極めて強く, 後にアラ ビアに伝え られ 3C のトマスの頃まで長いことアリストテレスの 『形而上学』 の神学 たプロチノスの 『エ ソネアデス』 が1 とみなされて来たのほどなのである. 3 3 ) プロチノスは パルメニデスの知性と存在の同一性について言及しているが, p .ヘ ンリーによればアリスト テレスの外にアスカロンのアンチオカスやアレキサ ン ドリアのフイロソか ら主体と客体の一致という考え id i i i b v を 受 け て い る ら しい. P .xl . . Henry ,i. 34 ) プロチノスは一着, 知性,精神という三つの原理を立てているが,これらの原理はそれぞれプラトンの善, id, アリストテレスの自己思惟, ストアの世界に内在する絶対者を受容 したものといえる. H, Paul , ib XXXv . i 35) v ,7 .25 l i ionen iken Re i l t 36) R, Bu t L tm im Rahn l en der ant l nann chr s ent g .S ,18L ,1963 , Das Ur. 4- -1.

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