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旧帝国大学系「教育学部」の創設経緯と「教育学」の役割 : 創設期における「教育学」観と「大学」観の検討

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旧帝 国大学系 「

教育学部」の創設経緯 と 「

教育学」の役割

- 創 設期 に お け る 「教 育 学 」観 と 「大 学 」観 の検 討-西 山 薫 は じめ に 戦後、教員養成 を主 とす る教員養成系大学 や教育学部 が、「新制大学」として全国各地 に 設置 された。 そ うした大学 ・学部が今 日抱 え ている諸問題 の一端 は、その創設時に既 に内 包 されていた とい う見解 が あ る。(1)戦後の教 員養成系大学や学部が戦前におけ る師範系学 校 をその まま包摂 した とい う経緯や、「新制大 学」 とい う新 たな大学像構築 の唆昧 さを背景 として、教員養成 とい う現実的 目的に規定 さ れた学部 目的や カ リキュラム編制が見 られた こ と、 さらには、戟前の師範教育 との連続性 が強 くみ られ、教月養成に資す る学問研究の 新 たな位 置づ けや、教月養成におけ る教育 と 学問 との関連 は不明確 であったこ とな どが指 摘 されてい る。(2) いっぼ う、 旧帝国大学には、研 究者 ・教育 指導者の養成 と 「教育学」研究 を主眼 とす る 「教育学部」が新 たにつ くられた。本稿 は、 この旧帝国大学系 「教育学部」 の創設期 にお け る 「教育学」観や 「大学」観 を検討 し、「教 育学部」の出発点にその こ とを位置づけ、以 下 に述べ る問題の背景 を考察 しようとす る も のである。 戦後、教員養成 を主 たる目的 とした 「教育 学部」 と、 旧帝大系の研究者養成 ・研究 目的 の 「教育学部」 との関係が希薄 である(3)と言 われ る。 た とえば、教員養成 におけ る 「教育 学」研 究の役割、「教職教養」お よび教科専 門 教育 と 「教育学」との関係、「教育学」の研 究 対象 としての 「教員養成」の位 置な どが不 明 確 であ る。 この こ とは、教員養成系学部が抱 える戦前 との連続性 にのみ帰す る問題 ではな い。後者の側 の問題、す なわち、新 たな 「教 職教養」 あ るいは 「教育学」研 究が教 員養成 に どの よ うな役割 を担 うかにつ いて、 旧帝 国 大学系 「教育学部」 は、創設期 において、積 極的 な方向性や展望 を持 ちえなか ったのでは ないか、 とい う問題 もあろ う。 この点 につ い ては、戦前の帝大 「教育学科 」や 「教育学講 座」 との連続性か らも問われ な くてはな らな いが(4)、ここでは、戦後教育改革期の、特 に中 央 レベ ルでの 「教職教養」あ るいは 「教育学」 研究のあ り方 をめ ぐる論議 を中心 に取 り上 げ、 旧帝大 「教育学部」の学問基盤の問題 を検討 したい。 また、教員養成系 「教育学部」 と旧帝大系 「教育学部」 との相違 は、その学部 E]的や役 割 だけでな く、それが位 置づ く 「大学」 の相 違 で もあ る。前者が新制大学 に誕生 したこ と に対 して、後者は、 旧制大学 か ら新制大学-の変革 の中に誕生 した。 この こ とが、 その学 部におけ る 「教育学」研究の役割や教月養成 系 「教育学部」 との関係 に どの よ うな影響 を 及ぼ したのか を検討す る必要 が ある。寺崎 昌 男は、「急速 な形 での学部づ くりは帝国大学の 歴史の 中で も稀 なこ とであったため、教育学

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198 清泉女学院短期大学研究紀要 (第10号) 部の発 足につ いては大学 内外 に批判 ・疑惑 ・ 蔑視 な どの感情が公然 と、あ るいは隠然 と存 在 していたことも事実 であ r)、 (中略)発足当 初の教育学部 当事 者の構想が充全 に実現 しな か ったこ とも、その後の教育学部 の歴史 と、 大学 におけ る教育研究の歩みに とって無視 で きないひずみ を与 えた」(5)と述べ てい る。 こ の よ うな背景 として、戦後教育改革期 の 「大 学 (新制大学)」観 のあい まい さ、一方 で旧制 大学 の 「大学」観 の残存があ ると思 われ る。 以上 の問題状況の背景 を探 る手がか りとし て、戦後教育改革期 におけ る中央 レベ ルでの 「教育学」観や 「大学」観、 そ して両者の関 連 を検討す るこ とになる。

1.戟後教 育 改革期 におけ る 「

教 育

学」観 の諸相

ここでは、旧帝大系 「教育学部」の創設経 緯 を整理 し、 また、戦後教育改革、 とりわけ 教月養成制度の改革に関わって、いか なる「教 育学」が必要 とされたか、 されなか ったか を 検討す る。 この場合、「教育学」とは、「大学」 での学 問研究 としての (アカデ ミズム として の)教育学 と、教職教養 としての教育学 の双 方 を含 む もの として考 え、それ らが どの よう に峻別 されたか、 されなか ったか を合 わせ て 考察 してみたい。 (1)旧帝国大学 (国立総合大学) における 「教育学部」創設の経緯 戦後教育改革期 に、 旧帝 国大学の うち、北 海道、東北、東京、名古屋、京都、九州 の6 大学 に新 たに 「教育学部」が発足 した。 それ ぞれの発足の仕方、経緯には異なる面が あ る とはいえ、 これ らの教育学部 に共通す る 「学 部」像 とは、大学の教職教育 を担 当す る とい う役割 に加 え、① 国立総合大学 内の他 の専 門 学部 と併立 し、②教月養成 を主 たる職能 とは せ ず、③教育研 究者、教育行政専 門家の育成 をはか るこ と、な どを目的 とす る点に特徴が ある。 これ らの学部 の母体 となったのは、戦 前に開設 されていた 「教育学科」ない しは 「教 育学講座」 であ った。東京大学 には、1919年 に 「教育学科」が設置 され、そのほかには教 育学講座 が開設 されていた (東北大学1923年、 京都大学1909年、九州大学1925年開設)。これ らの学科や講座 は、アカデ ミズム としての「教 育学」研究 と同時に教員養成 (中等学校教 員) におけ る 「教職教養 」 を担 ってはいたが、両 者の関係 はあい まいであ り、「教育学」の役割 は拡散的であ った と思 われ るO さて、 この ような状況の中で 「教育学部」 は どの よ うに誕生 したのか。先行研究に よれ ば、当時1948年 夏 ごろでは、各 旧帝国大学に 「教育学部」 を独立 して創設す る計画は な く、 教育刷新委月会 で も 「学芸大学構想あ るいは 『教育学科』構想 な どの当然の帰結 として、 旧制帝 国大学 には もちろんの こ と、お よそ新 制の大学 に教育学部 を設け るこ とに対 して、 消極的であった」とい う。(6)文部省 は 「東京大 学、京都大学 には教育学部 を育成 してい くと い う考 え」を抱 いてお り、「これ らの大学 の文 学部等に戦前か ら設け られていた教育学科 を 漸次充実 してい く」 とい う慎重論 であった。 また、 中央資料 で も、 旧帝国大学に 「教育学 部」 を設置す る構想は見 られない。例 えば、 大学基準協会の前身であ る 「大学設立基準設 定協議会」の 「文科系分科会決定事項」 (戦後 教育資料Ⅵ-101)によれば、1947年の段 階で 「教育学」 は哲学科 の専攻学科 とされている のであ る。 それでは、 旧帝大 に 「教育学部」

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西 山 :旧帝国大学系 「教育学部」の創設経緯 と 「教育学」の役割 199 を創設す るよう働 きかけた力は何 であったか。 当時、文部省学校教育局長であった 日高第四 郎 は、1948年 7月 9日の教育刷新委員会第72 回総会 で、「日本の大学教育の転換」のために 「教育学部」が必要 とい う

CIE

(連合軍最 高司令官総司令部 ・民間情報教育局)の意向 を伝 えている。教育学部創設につ いて、寺崎 昌男は、直接的には 「占領軍当局の強い内面 指導」 をあげ、一方で 「当時の必要」すなわ ち各大学の教職教育や各行政機関等の指導者 に対す る再教育や講習 といった条件があった とい う。 まず

、CIE

当局の指導についてみてみ よ う。 当時、教育学部 を作 ることに難色 を示 し ていた旧帝大に対 して

、CIE

は文部省に総 長会議 を開催す るよう要望 した。そ して、1948 年7月17日の国立綜合大学総長会議 で、次の ような要求が出された とい う。 「この会議 で各総長はC博士 (カー レ-女 史)および

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博士 (イールズ)に対 してそ れぞれ学内の事情 を話 し、ゆ くゆ くは教育 学部 を作 るとい う計画でさしあた りは教育 学科の充実 をして行 きたい との趣 旨を述べ た。 それはわが国では帝大の教授にふ さわ しい教育学者はなか なか得 られない とい う 判断に基いていたのである。 これに対 して

CIE

の二人は、恐 ら く総長 な どの教育学 者 とい う観念その ものがすでに気に入 らな か ったのであろう。教育の実地の経験に乏 しい理論家 などは役 に立たない、必要 なの は実際問題 を適切に解決 し指導 しうる経験 者である。 これに 目を転ずれば 日本で も得 られない筈はない。 しか るによき候補者が ない とい うのは囚われた考 え方に よるか、 元来が熱意 と誠意がない とで も思 ったらし い。 ことに

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博士は、非情 な不満の色 を顔 に現わ して、 旧帝大は 『顔 を後に向けて前 に歩いている』 とい う表現 をもって過去の 特権 に うぬぼれて、 これに執着 して前進の 心構 えがない とい うふ うに言い放 った。場 は白けた。各総長のお さえにお さえている 不満が反射的に私の心に写 ったので総長の 代弁 を私が勤めた。決 して実意がないわけ ではない。 旧帝大に も欠点 もあろ うが、 な ん といって も学問の水準は他 に まきってい るO 日本の学術のために もこの水準 を落す わけにはゆか ない。各総長は少な くとも他 の学部 と対等の教育学部 を作 るこ とを目標 に しているので、急いで作 るといい ものか で きない とい うまでであると応酬 して譲 ら なか った。 いよいよ皆の表情が こわば って しまったので一時休 憩 した。再開 して

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博 士 と論議 した末、勢にか られた とで も言 う のであろうが、意外に も各大学 ともそんな に言 うなら教育学部 を作 ってみせ る と言 う ことになって しまった。私は大学の肩 をも って、ゆっ くり作 ることに したい と思 った か らこそわ ざと憎 まれ役 を買 ってでたのに 結果は反対になって しまった

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)

また、後 日、 日高は当時の様子 を次の ように も語 っている。引用が長 くなるが、会議の様 子 を克明に伝 えている。 「文部省は国の学校 としては、当時の帝国 大学分学部の中にあった教育学科 を徐 々に 発展せ しめて、教育学部 に育てあげ る方針 で した。 そ うい うこ とを各帝大総長 とも話 をし、その当時の書記官一今の事務局長 と も話 をしてお きました。 そ うした らイール ズ とカー レイが来て、帝国大学に教育学部 を作れ とい うことを言った。私 は総長や事 務局長 との話 し合 いは、 こうなっていると いって も信 じないのです。夏で したが総長

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200 清泉女学院短期大学研究紀要 (第10号) 会議 を開いた際に、 イー ルズが随分 ひ どい こ とを言 った。『帝 国大学 は特権 をか さに着 て頭 を後 ろに向けて前に歩いている』 と。 そこで座が 白けて とて も変 な空気 になって しまったOみな、苦 虫 をつむ したよ うなこ とになった。 どうせ今 まで弁護 して来 たの で、『そ うじゃないんだ。日本の教育 は教育 勅語 で教育の原理 を押 さえ られたので、 自 由な批判的 な研究に障害が あったか ら、教 育学 は、ほかの学問に くらべ てお くれてい る。帝国大学の教育学部 た るべ きものは、 学部 の レベ ル と同 じにす るために時 をか さ なければならないのだ。 そ うい う用意 を し てい るのだ。 あ ま り急に作 った ら、そこだ け レベ ルの低 い ものがで き、若 い人の イン テレス トが下が って しまう。』とい うことを 話 した。 イールズ等は 『あなた方は教育学 者 を教育の理論家 と思 っているか ら間違 い であ る。 い くらもいい人が いる じゃないか。 実際、教育 を指導 した経験のある人で、理 論的 な反省ので きる人な らいいのだO帝 国 大学 は過去の学歴 だけ を考 えて、教育学者 を新 しい 目で見ない』 とい う批判 をした。 こうして総長会議 でイール ズ とカー レイ等 と総長等 とは正面衝突 をした。 あ ま り激 し くなったので休 憩 をしました。会議 を再会 してみ るとその うちに どうした話か知 らな いが南原 さんあた りか ら、教育学部 を作 っ てみせ るとい うこ とになって しまった。 そ うす ると東北 も作 る、京都 も作 る と言い出 した。私はそこに無理が あ ると思 う。す ぐ れた教育学者は沢 山いないのですか ら、急 に

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年位 で作 ろ うといって も無理 だ と思 っ た。 それ を作 ると総長方は言い出 した

。 2

箇所か ら3箇所 で作 るのな らまだ しも、帝 大の総長がみな、作 ると言い出 した。 その 前には作 らない とい うか ら、私達がなかに はいったのですが、 とんだはずみでそんな こ とになって しまった。 だか ら教育学部 と い うものには、 その ときの総長方は一生懸 命 で した。 しか し大学 自身は変 な もの を し ょいこんだ とい うこ とで したで しょう。」(8) つ ま り、 イー ルズや か- レ- らC IE当局の 強い要求に押 し切 られた形 で 「教育学部」が いわば見切 り発車 した とい うこ とになる。 し か し、「教育学部」の内実 につ いて、各総長や 文部省 は、戦前 におけ る教育学科 お よび教育 学講座 の水準や スタッフの面 で時期 尚早 であ る、 また不十分 であ ると述べ ているが

C I

E

は 「実地 に乏 しい教育の理論家」よ りも「実 際問題 を解決す る経験者」 を要望 している。 まず、 この点 で両者の学部認識は隔たってい た し、「教育学」認識に も相違が見 られ る。 ま た、C IE当局 は何 よ りも 「帝 国大学」のあ り方その もの を批判 しているよ うに思われ る。 したが って、「教育学」に対す る、 また「大学」 に対す るC IEの認識 を詳細 に検討 しなけれ ばならないが、既存の資料 では不 明である。 当時のC IE当局の認識、 そ して、当時のア メ リカにおけ る 「教育学部」 を今後究明す る 必要があろ う。

(2

)教育刷新委員会等 にみ る 「教育学」観 旧帝大系 「教 育学部」の性格 、教員養成 に 対す るその役割 を考察す るために、戦後教育 改革期 におけ る我が国の研究者、行政担 当者 等の教職教養 観、「教 育学」観 を明 らか にす る。 まず、戦後教育改革の中心的機構 であっ た教育刷新委月会の論議 である。 ①教育刷新委月会 におけ る 「教育学」認識 先行研究に よれば、教育刷新委員会の教職 教養 あるいは 「教育学」に関す る論議 は不活

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西 山.旧帝国大学系 「教育学部」 の創設経緯 と 「教育学」の役割 201 発 とされてい る。 「教育刷新委員会 では、『一 般教養 もし くは学問 とい うものがで きておれ ば教員は十分 出来 る』とい う考 え と、 『教員 と い うものは特別 な教育 を した ものでなければ な らぬ、殊 に教育学的の素養 を非常 に必要 と す る』 とい う考 えが対立 した ままに とどま り、 教員養成 におけ る教職教養 の位 置についての 共通の展望 とい うもの を見出す こ とがで きな か った」(9)のであ り、「ただ何 とな く『師範 タイ プ』はけ しか らん といった レベ ルの師範教育 批判か らは 『教 育学』 を教育 に関 しての科学 的研究 として捉 える認識は生れ難 く、む しろ それ を 『教育者精神 の注入』 といった旧来の 師範教育の延 長線上の イメー ジで しか捉 え ら れ なか った

(

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)

とされ る。つ ま り、教月養成 制度改革 に関 して教育学科、教育学部、学芸 大学 などの 目的や 内容 につ いて突 っ込んだ議 論が展開 された ものの、教員養成のための 目 的大学や 旧来の師範教育-の批判 に終始 し、 教 師に必要 な教職教養 に関 して、あ るいは新 たな 「教育学」 の展望 につ いて深 い論議が形 成 されなか ったのであ る。 ここでは、教刷委 の論議のなかか ら 「教育学」 に関す る部分 を 取 り上 げ、上記の指摘 を確認す るこ ととす る。 まず、教 師の資質 として 「一般教養」 を重視 す る立場 であ る。 関 口貧苦 「教育 には教育学 も必要 であ る。 児童心理学 も必要 であ る。師範学校 ではそ うい うこ とを教 えるのが特徴 で、 これに よ って初め て教育者になれ るお説があ りまし た。

「普通 の師範学校 では、 そんな特別 な 教育者に必要 なことを教 え られた ところで、 これは全 くうのみであって、十六や十七 で 児童心理学が本 当に分 か るものではない。 それ よ りも本 当に頭 を鍛 え られ た現場の体 験 を持 たれた技術者 な どが書物 を三 日も読 めば、造かに今 の今 日心理学 を付け焼 きし た小学校 の先生 なんか よ りも優れた応用力 を持 った先生 とい うものが養成 され るの で はないか と思 うのであ ります。」 (第7回総 会)(ll) 田島道 治 「夏 目先生 に英語 を習 った とか、 岩本先生 に ドイツ語 を習 った とかい うよ う なこ とは、先生方は教育学 を専攻 なす った とは思 わないが、非常 に為 になった とい う 気が します。職業教育 を受 けた方 よ りもか えって一般教育の優 れた方の方が先生 とし て願 わ しい とい うこ とを習 った者 として考 えてお ります。」 (第

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回総会)(12) 天野貞祐 「教育者は人間が誠実 で学問が あれば十分 であ る。教授法 な どは各 自に工 夫 し各 人がそれ ぞれに 自己の教授法 を有つ べ きであ る。教授法は習 うべ きもの、教 え られ るべ きものではな くして教 えつつ或間 に 自ら会得 し、 自ら作 り出すべ きものであ る。教育学 とか教授法 を学ぶ こ とが教育者 に とって有益 であ るとして もあ くまで もそ れは二次的 であ る」(13) 「教育 といえば直 ちに教育学が考 え られ、 教育学の修得が教育者の不可欠条件成 るか の如 く考 える通念 も形式的、抽象的 な考 え 方の一つ の現 われだ と思 う。哲学的教育学 につ いては、 その勝れた るものはいずれ も 卓越せ る哲学者 の教育論 であ る。哲学 を学 ばず して教育学 を学ぶのは本末の転倒 でな いだろ うか。 (中略)諸学科以外 と くに教 育 者の育成 に必要 な学問があ りとすれば、 そ れは哲学 だ と思 う。」(14) 以上の発言は、教 師の資質 は一般教養 で足 り る、教授技術 は 自然に身につ くもので教育学 は必要 ない とい う意見であ る。 旧来の師範教 育 での教職教養 の延長上 に 「教育学」が捉 え

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202 清泉女 学 院短期大学研 究紀要 (第10号) られてお り、師範教育の否定がす なわ ち教職 教養 の否定 となっている。 また、天野の見解 にあ るよ うに 「教育学」とは 「哲学的教育学」 であ り、 それ よ り哲学 を学ぶ方が重要 だ とい う意見 もある0-万、教職教養 を重視 す る立 場 は次の ようにい う。 倉橋惣三 「今 日の教育学科 とい うものは もちろん、昔の、教育 とは何 ぞや とい うよ うな、言わな くて も分 か るようなこ とを繰 り返 してお るよ うなこ とには止 ま りませ ん、 もう少 し児童 を教育す るについて科学的に、 また技術的に、必要 なるものになってお る と思 う」 (第

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回総会)(15) 「私少 しばか りですが、 コロンビア大学の テ ィーチャ- ズカレッジにお りま して、 ど こまで教育 とい うものが科学的に教育 され うるか、それがア メ リカの教育 の上 に、す べ ての先生の上 に どんないい影響 を及ぼ し て るか を目の当た り見てお りますので、我 が国で も今 までの師範学校 は甚だその点に おいて師範学校 といいなが らこ うい うふ う にな らなければ な らん とい うこ とを思 って お ります。何か そ うい うこ とを中心 として、 今度の大学が力 となって、一般教月の教育 科学的方面 をアニ メ- トしてい くこ とが出 来 る とい うこ とが欲 しい と思 ってお りま す」 (第

3

1

回総会)(16) 教職教養 を重視 しよ うとす る委月の代表的人 物 は倉橋 である。倉橋 は、師範教育 におけ る 教育学 とは異なる 「教育科学」 を重視 してお り、 そのモデルをア メ リカに求めてい る。 し か し、倉橋 自身がその教育科学 をどの よ うな もの として構想 しているかは不明であ る。 ま た、学問研究 としての教育学 を意識 している か もわか らない。 いずれにせ よ、教刷委 では これ以上の教職教養 に関す る詳 しい議論 はな く、教育学 あるいは教職教養 に関す る認識は 深 まらず、その共通理解 は得 られなか った と いえる。 結局、岩 田康之が指摘す るように

『教育学

を単 に旧来の師範教育 の延長線上 で捉 え、そ れに代 えて教 師に与 えるべ き教養 は人文科学 を中核 に据 えた広汎 な一般教養 (リベ ラル ・ アー ツ) であ る、 とい う基本的 な枠組か ら教 刷委 は脱 し得 なか ったのであ」り、「アカデ ミ ズム としての教育学 は、積極 的にイニ シアチ ブ を取 って代弁 す る委員のない ままに埋 もれ て しまった」といえよ う。 しか し、「アカデ ミ スム としての 『教育学』認識が教刷妻 に浸透 しなか ったために

CIE

の独 断専行 によって 国立総合大学の 『教育学部』 は教 師養成教育 とは別個 に存在せ ざる をえ なか った」(17)と い う見解 は どうであろ うか。戟前か ら、学問 としての 「教育学」 と教職教養 としての 「教 育学」 との分離があった。(18)しか も両者の固 定 した関係 の中では、学 問 としての「教育学」 は後者の変革 に影響 力 を もち得 なか ったので はないだろ うか。 したが って、後者の枠組の なかで しか 「教育学」が論議 されなか ったの ではないか と思 われ る。 アカデ ミズム として の教育学が教員養成 とは離れた ところに既 に 存在 していた とい う限界 も見逃 してはな らな いであろ う。 ②教育学研究者の 「教 育学」認識 以上 の よ うな教育刷新 委員会の論議 とは別 に、 当時の教育学者は 「教育学」 ない し 「教 職教養 」に対 して どの よ うな考 えをもってい たであろ うか。ここでは、「教月養成 と大学教 育 に関す るシンポジウム

」(

『教育』昭和

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3

年 5月号)での論議 を対象 とす る。 提案者の城戸幡太郎 は、教育刷新委月会の 論議 を 「教育 を研究す るこ と、教月 を養成す

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西 山.旧帝国大学系 「教育学部」 の創 設経緯 と 「教育学」の役割 203 ることとい うこ とが混同されていることにあ るように思はれ る。 これ までの教育撃が草間 になっていない といって も、教育に関す る科 撃的研究が不必要であ り、不可能 であるとは 言えぬ。 (中略)これ までの大草 に設け られた 教育単科はその 目的 を達す るこ とはできなか ったのであ」r)、「教月の養成は教育の研究 と は別であるといって も、教育の研究なしには 教月の養成はで きない」 と主張 している。 そ して、総合大学に 「教育単科 と連関す る教育 研究所 を設置 して、地方ブロックを中心 とし た教育の地方計墓 を研究すべ き」 としている。 教育学研究 と教員養成 とは別 であるが後者の 前提 として前者の刷新 をいう。城戸 自身、後 に北海道大学 「教育学部」の創設に携わるこ とになる。また、石三次郎は、「草間 さえあれ ば如何 なる種類の教月 も勤 まるとい う考 えは 矛盾であ り暴論 である」とし、「教育大撃 とい うのは教育研究 を根底 としなが ら一般の撃問 と教職的教養 とを両翼 として優秀 な教員 を育 成す ることを目的 とすべ きで、純粋 に学問研 究 をす る大草 とはその性格 を異にすべ きであ る」 とい う。 ここでは、アカデ ミズム として の 「教育学」研究 と教員養成 とを峻別 し、後 者 を 「教育大学」で行 なうとしている。両者 の考 えには、学問 としての 「教育学」研究の 重要性は認識 されてはいるものの、それが教 員養成 とどう関わ り、結 びつ くかは微妙に異 なっている。 また、海後宗 臣 も独 自の見解 を示 している。 次のように言 う。 「教員養成 を大草に於て大 きな組織で行 う ことについては、大学のアカデ ミズム と相 克 してなかなか、難 しい問題がある。 この 根本は大草 では職業教育 をなすべ きではな く、撃術の研究 を専一にせねばならぬ とい う考 えがあるとい うことに よる。 (中略)ど が凡そ大草 とい う機関では教員 を養成すべ きではないのだ とす るのであ る。 これ を理 由づ け るために立派な聾者 としての教養が あれば、それでよい教員になれ るとして、 教職者たるための教養 を拒否す る。」 「これか らの大草 は従来 の ような教職課程 を厄介視 して、それでいて教員無試験検定 を欲 しが る態度 を改め、教員養成 を正 しく 大草の うちに位置 させねばな らない。 それ には綜合大草の うちに教育学部 を設けて、 ここに葦験や実習の附属機関 を設け、教育 研究所 を附設 して教育の科学的研究 を寮竃 的に行 い、提案者の言 う如 き結果 を速やか に示すべ きである。」 「総合大撃の教育撃部はこれ ら(教育大草) と密接 な連関 を以て地方ブロックの中心的 な教職者養成の機関 とな り、或は教育研究 の中枢的な役割 を果すべ きである。」 海後の提案は、教月養成 を 「大学」に位置づ け、アカデ ミズム との融合 を図 ろ うとしてい る。 そのために も、従来の旧帝国大学 「教育 学科」の役割 を、教職教養 の枠の中に収め る のではな く、アカデ ミズム としての「教育学」 として再編、強化 し、学問研究 と教員養成の 両者の統合 の中に位置づけ ようとしている。 岩 田は、海後構想 を 「教師養成 とい う一種 の 職業教育のための専 門教養 とは別個の もの と して、アカデ ミズム としての 『教育学』 を捉 え、その双方 を大学の中に全 うに位置付け よ うとしたこと」で評価 し、「これは教育学 とい うものを 『教 師 としての専 門的教養』 とい う 枠内で しか捉 え得ていない他の三者 との大 き な違 いである。」(19) としている。 以上の ように、当時の教育学者のなかで も 「教育学」研究の位置づけにつ いて統一 した

(8)

204 清泉女 学 院短期 大学研 究紀 要 (第10号) 見解 が出 されていたわけではない。 アカデ ミ ズム としての 「教育学」の役割、学 問研究の ための大学 と教月養成のための大学 との関係 な ど、教育学者個 人の構想 としてはみ られ る ものの、それが 中央の政策 レベ ルには反映 さ れ なか った。

2.

戦後改革期 におけ る 「

新制大学」

観 戦前の ドイツ的大学観 は、戦後において理 念上 否定 され るこ とになる。 したが って、 旧 来の大学 はその役割 を変革す るこ とになった。 ア カデ ミズム中心 ではな く、一般教養、職業 教 育、専 門教育 (研究) とい う3つのバ ラン スの なか で大学が存在す ることに なったので あ る。 したが って、 旧帝国大学 「教育学科」 が戦後 「教育学部」- と転換す る中で、その 新 しい 「大学」観 が どの よ うな影響 を与 えた か、与 えなか ったか とい う問題があ る。 もち ろん、「帝国大学」自体 の変革がその こ との前 提 となる。 ここでは、戟後教育改革期 に出 さ れ た高等教育制度改革の動 向 を整理 し、 その なか に新 たな 「大学」観 の成立状況 を探 り、 「教育学部」創設の背景 として考 えたい。 (1)戦後の高等教育制度改革案 と 「大学

観 ここでは、戦後 出された高等教育制度改革 案 の うち、大学改革に関す る部分 を取 り上 げ そ こに見 られ る 「大学」観 を検討す る。(20)戟 後 いちはや く出 され たのは、米国教育使節団 に対応す る形で発 足 した「日本側教育委員会」 の 「高等教育改革案」(1946)であ る。 それに よれば、 3年制 の上級中学校 の上 に 4または 5年制 の大学 を設け、師範学校 はすべ て教育 大学 に改造 して新 しい 「大学」 とす るとい う ものである。 しか し、新 しい大学教育の中身 が不 明であ り、 旧制 の大学教育 の水準の低下 をいかに防止す るかに関心があ った とされ る。 また、東京帝国大学教育制度研 究委員会の高 等教育改革論 (1946)がある。 ここでは、 旧 制高等学校、専 門学校 を廃止 して高等教育卒 業生の社会 的平等 を図 る、 4年制 の大学 (ち し くは3年制) を設け るとしてい る。 しか し、 これ も大学教育の内容 につ いては不明であ り、 旧制大学 との違 い も明 らかではない とされ る。 「二つの委員会 は、 まだ新 しい大学像 、 とく にその 目的や性格、教育 内容、 カ リキュラム の改革 といった諸点 を明確 に提 出す るにはい た っていない

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1)といわれ るよ うに 日本側 の改革案には、 旧制大学 との違 いが明確 に認 識 されてはいなか った といえる。 以上の よ うな大学改革案 の状況に大 きな影 響 を与 えたのはや は り第一次米国教育使節団 の報告書(1946.3)であったO その 「大学の理 念」 について次の ようにい う。 「大学 はすべ ての現代教育制度の王座 であ る。 自由の社会 では大学 は平等の関心 を以 て三大任務 を果 たす ものであ る。 第- に、 智的 自由の伝統 をこの上 もな く高価 な宝 と して防護 し、思想の 自由 を激励 し、探求の 方法 を完成 し、知 識の向上 を促 し、科学お よび学問 を育成 し、心理へ の愛着 を育み、 そ して社会-の絶 え ざる光 明の源 として役 立つ ものであ る。 第二に、あ らゆ る時代や あ らゆ る民族 中の思想 と最善 の希望 とを知 らしめ るこ とに よって、家庭や社会生活の 向上 において、産業や政治の一層有効 に し て人情味あ る運営において、更に国際的理 解 お よび親善 の助長等の仕事 において、指 導的地位 を占め るよ う、才能 あ る青年男女

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西 山 :旧帝国大学系 「教育学部」の創設経緯 と 「教育学」の役割 205 を準備す るものである。第三に、大学は変 転 しつつあ り、 また現はれつつある社会の 要求に対 し常 に敏感であるが故に、優秀 な る青年男女 を新 旧両様 の職業に対 して技術 的に有能 ならしめ るや うに訓練す る」

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22) つ まり、大学は、学問 ・研究の 自由、社会の 指導者にふ さわ しい一般教養、専 門的職業の 訓練 とい う3つの機能 を担 う場 としているの である。 ここに、戦前の ドイツ的大学観 とは 異なる近代 アメ リカ的大学観 を看取す ること ができる。報告書は、高等教育の拡大 と機会 均等の保障、一般教育の導入、高等教育水準 の向上、私立大学 と官立大学 との対等性 など をあげ、大学制度の抜本的改革 を提言 してい る。 (2)教育刷新委員会等 における高等教育改 革論 と 「大学」載 それでは、教育刷新委月会 では どのような 大学観が打 ち出されたのであろ うか。 旧制の 高等教育機関の うち専門学校 については、実 業学校、専 門学校、大学 とい う3段階の職業 教育に対す る批判や女子教育に見 られ る高等 教育機会 の不平等か らす る廃止論 などか ら廃 止の方向 をたどり、旧制の専門学校 を温存す る論議はなか った。 しか し旧制高校については、高等学校 の長 所 を新学制の中に生かすべ きとして、人文主 義的教養教育 を目指す 「前期大学」構想が出 された。天野貞柘 は 「これは私がそ うい う偏 見持 っておるか知 らぬが、私 は今の高等学校 というものは非常 によい ものだ と実は思 って お ります。処が今度の案はい くらかそれを犠 牲にす る傾 きがある。それだか らこうい うよ い案 でなか ったか ら、高等学校 を犠牲にす る こと苦 しい」(23)という。 しか し、第

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回総会

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において第

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特別委員会の 「高等 学校 は臨時的措置 として2年の前期大学 とす る、専 門学校 は同 じく3年の大学 とす ること がで きる」 とい う提案は否決 された。 新制大学の性格お よび学校体系上の大学の 位置に関す る論議 では、二つの立場が対立 し た。 旧来の学術 ・研究の水準 を維持 し、旧制 大学の特色 を維持 しようとした側 と、教育の 機会均等原則に基づ く単線型学校体系の中に 大学 を位 置づけ、従来の学術水準の延長線上 にこれ をおいては考 えない とす る側 である。 例 えば前者の立場か らは、「今度の大学 は、大 学校 とい うことであって、本 当の大学はその 上 でや るべ きもの と思ふ。 (中略)本当の学問 研究、それが本来ならば本 当の大学で、学問 の薩奥 を極め るといふ こ とが第一条にある訳 なんですが、下は大学校 といって更に高い意 味での職業教育 をす るといふべ きものではな いか と自分 は考-てお ります

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」 (天野) とい うような意見が出され る。一方、後者か らは、 学制 を単純化 し 「下か ら考 えてい く発想」に 切 り換 え、「大学 は単 なる職業教育機関ではな く、一般教養 を身に付け るような 『自由な大 学』 であるべ きであ る。」 とい う意見が あっ た。両者の相違 とは、大学は職業教育 とは違 う学問研究の場 として捉 える戦前に連 なる ド イツ的大学観 と、研究 と教育の統合 であ り大 学院 と学部の結合体 として捉える近代 ア メ リ カ的大学観 との相違 であ り、 また、大学 を学 術水準の側か ら見 るか、国民教育の側か ら見 るかの相違 といわれ る。結局、大学は社会的 啓蒙の源泉 として、学問研究、専門職業教育、 一般教育の統一的遂行の場 と位 置づ け られた。 文部省は 『日本におけ る高等教育の再編成

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8.

1)で新 しい大学観 を次のように示 し ている。

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206 清泉女学院短期大学研究紀要 (第10号) 「新制度の大学 は学術 の中心 として広 く知 識 を授 け るとともに深 く専 門の学芸 を教授 研究 し、知的道徳的及び応用的能 力 を展開 させ ることを目的 としている。 (中略)新制 大学の一つの特長は一般教養 の重視せ られ るこ とである。専 門的 な狭 い分 野に入 る前 に社会科学 ・人文科学 ・自然科学の広 い基 本的 な科 目を学ぶ こ とは広 い世 界 を自由に とらわれない立場 で眺め人生観世 界観 を確 立す るために最 も大切 な仕事 である。」 「従来の専 門学校 においては この点に欠け る所があったが、 多 くの専 門学校が新制 の 大学に転換す るに際 して この一般教養 の講 座 を豊かに持つ こ とは、 この再編成の一つ の大 きな収穫 とい う事 がで きよう。」 「次の新制大学 においては職業的 な訓練 が 学問研究のための準備 と同様 に重視せ られ る事 もまた一つ の特長 である。従来 日本の 大学においては、実際には 多数 の学生が職 業 を得 るために学んでいたに も拘 らず、 そ の本来の 目的は学術 の研究にあ るのであっ て、職業的訓練 を施すのは専 門学校 の任務 である として職業教育 を軽視 して きた」 「第三 に大学 は学術 の中心 として将来大学 院において学問の研究 を進め るための準備 をさせ る用意がなければな らない」(24) また、大学基準協会 は、『大学に於 け る一般教 育』 (一般教育研究委員会 第二次 中間報告)の なかで、次の よ うに旧来の大学 を批判す る。 「しか し従来の大草 は、専 門撃術の研究 と 教授 に重鮎 を置 き、最初か ら専 門領域 に分 化 して、いわば狭 く深 く進 まん こ とものみ 主力 をすす ぎ、個 人の 自由 と尊厳に根 ざす 豊か な教養 と生 きた知性 を身に着け、 自主 猫立の識見 あ る人物の要請 には徐 り意 を用 いなか った.つ ま り従来 の大挙 は、教育 の 面 では専 ら専 門教育乃至 は職業教育 を重視 して、 いわゆ る一般教育の部面 を閑却 した のであ る。」 しか し、以上の ように、 旧制大学の否定の う えに新制大学の 「大学」像 が理念において統 一 された として も、現実 においては、様々な 問題に直面す るこ とになった。 それは、旧制 大学 を含 まないで新制大学 に昇格 した国立大 学のほ とん どが 「地方大学」 として様 々な問 題 を抱 えたこ とにあ らわれ る。例 えば、 旧制 時代の異 なる財政上の格差や、改革が極めて 貧 困な財政的条件 の下 で早急にすすめ られ た こ とに よって、 旧制度の研 究教育水準の階層 構造が新大学制度の中に残 された。 また、戦 前におけ る大学観 、す なわ ち大学 とは神聖 な 学問研究の最 高学府であ り、学術の全分野 を 備 えた帝 国大学 こそが真 の大学に値す るとい う大学観 は「新制大学は職業教育機関である」 とい う評価 を生み出 し、新制大学の理念探究 の対極 には新制大学への疑 問や 蔑視がひろ く 伏在 していた とされ る。(25) 理念上統一 された 「大学」 であるが、個 々 の大学改革の取 り組みに対 しては、上記の よ うな制約状況の もと、必ず しも一致 した結果 が生み出 された とは言えない。新 たな大学理 念に対す る旧帝国大学の姿勢 もその一つ であ る。む しろ、 旧帝大の大学観 を温存 させ た部 分がある と思 われ る。 その詳細 については今 後の課題 としたいが、学問研究、職業教育、 一般教育 の3着統合の上 に立つべ き教員養成 系 「教育学部」 に、実態 として旧師範 との連 続性が認め られ るこ とと同 じく、新制大学観 の不十分 な浸透 のなかで、 旧帝大系 「教育学 部」に も旧大学観が残存 し、 その こ とが両者 の分離 を戦後 に引 き継 ぐこ とになったのでは ないだろ うか

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年 の大学設置審議会の「学

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西山 .旧帝国大学系 「教育学部」の創設経緯と 「教育学」の役割 207 士号の種別 につ いて (莱)」(戦後教育資料

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は、教員養成系 「教育学部」に 「教育学 士」 を、教 員養成 を目的 としない、つ ま り旧 帝大系 「教育学部」 に文学士 ない し理学士 を 与 える としている。 この両者の区分 、相違が 果 た して何 に由来す るか、 よ り詳細 な検討が 必要 とされ る。

ま とめにか えて

旧帝大系 「教 育学部」の前身である戦前の 「教育学科」は、 ドイツ教育学 を基調 とし、 ドイツ的 「大学」観 に収 まる伝統的アカデ ミ ズムに沿いつつ、「学」としての体系化 と定型 化 を図 ろ うとして きた。 そ して戦前の教員養 成 との関係か らいえば、師範学校 とは切 り離 され一定の距離 を置いた関係があったO両者 の禾雛 は大学におけ る 「教育学」研究の孤立、 閉鎖性 につ なが っただけ でな く、「教育学」の 自由で柔軟 な展開 を阻害 した と考 え られ る。 また、「教育学」研究 自体 も、「教職教養」 (中 等学校数月の養成 に関 して)的側面 と、伝統 的ア カデ ミズム としての性格 とをあわせ もち、 「帝国大学」の枠 に収 ま りつつ も 「教育学」 研 究の方向性 をを暖味 な ものに していた とい う状況があった。 以上 の ような戦前の 「教育学」の状況のな かに 「教育学部」が創設 された。 しか し、 そ の創設経緯 にはC IE当局の強い意向、す な わち 「実地に乏 しい理論家」 よ りも 「実際問 題 を解決す る経験者」 を重視す るよ うな新 し い 「教育学」が浮かび上が って くる0-万、 旧帝大の当事者や文部省は学部創設に消極 的 であ り、 その 「教育学」 とは旧帝大 「教育学 科」の延長上 にあった。 この両者の隔た りこ そ 「教育学」に対す る認識の相違 であ り、「大 学」観 の相違やC IEの 「帝国大学」批判 を 窺 うことが で きる。 したが って、その 「教育 学部」 に対す る期待 につ いては、教育刷新委 員会等の論議 に見 るよ うに、 日本側 としては 必ず しも明確 ではなか った。一部 の教育学者 を除けば、教師 に必要 な教職教養 あ るいは新 たな 「教育学」 の展望 を、 旧来の 「教育学」 研究の成果 との関わ りや 反省 に照 らして、深 く論議す るこ とはなか ったの であ る。 また、 教育学部が研究 と研 究者養成の役割 を期待 さ れ た とはいえ、教 師教育 あ るいは教員養成 系 「教育学部」 とのつ なが Y上 その こ とを含め た 「教育学」研究全体 のあ り方や役割 につ い て、幅広 い共通理解が得 られ ない ままに出発 したのではないか と推論 され るのであ る。 また、「教育学部」の内実 とともに問題 とさ れ るのは、大学観 の転換 のなか で旧帝 国大学 の大学観が どれほ ど払拭 されたか とい うこ と であ る。 旧制大学の否定の上 に立つ新制大学 の 「大学」像 が、現実面 では様 々な問題 を内 包す るこ とになったこ とは、逆 に戦前におけ る大学観 を残存 させ るこ とになったの ではな いか。その こ とが、戦後 の教月養成系の大学 ・ 学部 と旧帝大系 「教育学部」 との間に、戦前 か ら連続す る分離や隔た りを残 して しまった 背景 ではなか ったか と思 われ るのである。 注 (1) 木岡一明、石村雅雄、榊原禎宏、竺沙知章「教 師養成教育 と教育学教育の連続性に関す る 研究序説」(関西教育行政学会紀要『教育行財 政研究』第17号1990所収)を参照 されたいO

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)TEES

研究会 「教師養成教育 と教育学教育 の連続性に関する研究 (その2)一新制大学 発足時における 『教育学部』構想の形成 ・展 開過程(訂-」 (日本教育行政学会第25回大会

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208 清泉女学院短期大学研究紀要 (第10号) 研 究発表資料,1990) (3)例 えば、岩 田康 之 「匡Ⅰ立総合大学 の教育学部 創 設 と教 師養 成教育」 (東 京大学教 育学部教 育 哲 学 ・教 育 史研 究 室 『研 究 室 紀 要 第16 号』,1990)におけ る指摘 が あ るO (4)拙稿 「旧帝 国大学 『教育学部』創設 におけ る 『教育学』観 ・『大学』観 の展 開 一戟前 におけ る東京帝 冨大学 「教育学科 」を中心 に

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」 (敬 育制 度研 究会 『教育制 度研 究 第24号,1992) を参照。 (5)寺崎 昌男 「国立総合大学 におけ る教育学部 の 発 足」 (海後宗 臣編 『戦後 日本 の教 育 改革8 教 員養 成』東京大学 出版会1971所収), p.p.117-118. (6) 同上,p.110.なお、 旧帝大 「教 育学部」の創 設経緯 はこの論稿 に よるO (7) 日高第四郎 『教育 改革へ の道』洋 々社 ,昭和 29,p.p.326-327. (8) 昭和31年11月4日の学士会 館 におけ る 「日高 第四郎 氏 を囲む懇談会 速 記録」 (9) 山田昇 「教員養 成 におけ る教職教育 の位 置 に 関す る歴 史的検討

」(

『日本 の教育 史学』第13 集1970),p.47. (10)岩 田康之、前掲論文,p.95. (ll) 山田昇、前掲 論文 (9),p.48.教刷委の発言 は山田の一連 の先行研 究か ら引用。 (12) 〝 「教育刷新委員会 におけ るア カデ ミシ ャンズ とエデ ュケ- シ ョニ ス ト」和歌 山大学 教育学部紀要 (教育科学)20』,1970,p.91. (13) 〝 、前掲論文 (9),p.49. (14) 〝 、前掲論文 (12),p.92. (15) 〝 、「教 育刷新委員会 におけ る教育学科 の構 想

『和 歌 山大学教 育学部 紀要 (教 育科 学)21』,1971,p.76. (16) 〝 、前掲論文 (9)p.50. (17)岩 田康之 、前掲論文,p.96. (18)拙稿 、前掲論文 (4) を参照 され たいo (19)岩 田康之 、前掲論文,p.92. 伽)以下 に と りあげ る高 等教 育 制 度 改革案 につ いては、国立教育研究所編 『近代教 育百年 史』 第6巻,文 唱堂, に よる。 (21) 同上,p.401. (22) 「米国教育使 節団報告 書」 (大崎仁 編著 『戦後 大学 史』 第一法規,1988所収) (23)海後宗 臣 ・寺崎 昌男編 『戦後 日本 の教育改革 9 大学教 育』東京大学 出版会,1971,p.80 以下 の教刷妻 の論議 の経緯 は同書 「第2章 四 年制 大学 」 に よる。 伽) 前掲書 (22)所収 p.158. (25) 前掲書 (23)の第 2章 の 「ま とめ」 に よるO 一附 妃 一 本論文 は、TEES研究会が 日本教育行政学会 第26回大会 (1991年)にお いて共 同研 究発表 を し た 「教 師養 成教 育 と教育学教 育 に関す る研究 (そ の3)一新制大学発足時 におけ る 『教育学部』構 想 の形成 ・展開過程② -」 の資料 原稿 の うち、西 山 が担 当 した部分 の一部 を加筆 、修正 した ものであ る。 なお、戦後の各 旧帝 国大学 の 「教育学部」構 想につ いては、学会発表 資料 の lIl(担 当 :石村雅 雄 氏、千 々布敏 弥氏) を参照 され たい。

参照

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