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<記録>「久留島武彦と関西学院」(第49回関西学院史研究会)

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<記録>「久留島武彦と関西学院」(第49回関西学

院史研究会)

著者

金 成妍

雑誌名

関西学院史紀要

24

ページ

131-154

発行年

2018-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/00026752

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司会 皆さん、こんにちは。第四十九回関西学院史研究会 を開催します 。本日は案内しておりますとおり 、﹁久留島 武彦と関西学院﹂という主題でお話をいただくことになり ました。   ご承知のように、久留島武彦という方は関西学院の同窓 でありますが、デンマーク、本国であまり顧みられていな かったハンス・クリスチャン・アンデルセンの再発見に尽 力されたということで、デンマークから勲章をもらわれま した。   二〇一七年四月 二八 日に久留島武彦の生まれた大分県の 玖珠町というところに久留島武彦記念館がオープンしまし た。また、今年はデンマークと日本の国交百五十周年とい うこともあり、十一月のあたままで東京でデンマークとの 国交百五十年の記念の展示会がありました。そこにも久留 島武彦記念館からの資料が展示されました。   なかなか知る機会のない久留島武彦でありますが、今日 は当記念館の館長であられます金成妍さんにお越しいただ き、これからお話をうかがいたいと思いますので、楽しみ にお話を聞いていただきたいと思います。   金館長のプロフィールは受付でお渡ししましたプリント に詳しく書いてありますので、ご覧ください。それではよ ろしくお願いします。        *    *    *    *

﹁久留島武彦と関西学院﹂

      

金 

成 

妍 

  久留島武彦記念館館長   

49回関西学院史研究会

︵二〇一七 ・ 一二 ・ 五︶

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  皆さん、アンニョンハセヨ。金成妍と申します。今日は 久留島武彦と関西学院というテーマでお話をしたいと思い ますが、皆さんは久留島武彦という名前を聞いたことはあ りますか 。初めて聞く方が多いのではないかと思います 。 久留島武彦のことを知っていたという方はおられますか 。 おお、ありがとうございます。一年生なのに、一人ご存じ なんですね。大分の方ですか。ありがとうございます。こ のように知らない方が非常に多いです。久留島武彦の生ま れた大分県玖珠町の人ですら知らない人がたくさんいます。   今、スクリーンに写真が写っていますが、これは関西学 院が創立された当時の写真です。これは神戸の写真ですが、 関西学院を建てている時に久留島武彦は普通学部の一回生 として、つまり関西学院の創立時の学生として入学しまし た。ここに写っているのが久留島武彦です。   今日は久留島武彦という人がどういう人なのか、そして 関西学院で何を学んで、何を伝えようとした人なのかとい うことと共に、私は韓国人で久留島武彦記念館の館長をし ているのですが、久留島武彦記念館がこの韓国人を通して 何をしていこうとしているのか、そういうことを皆さんに 伝えていけたらいいなと思います。貴重な時間をいただい ていますので、皆さん、うしろにいらっしゃる方はどうぞ 前のほうに来てください。マイクを回して発言を求めたり しませんので、安心して前に来てください。   今から一時間半をかけて、久留島武彦は何をした人なの かという疑問を晴らせるようにしましょう。久留島武彦は ﹁くるしまたけひこ﹂と読みます 。私は大学四年生から日 本語を学んでいますので、最初にこの漢字を見た時は読む ことができませんでした。久しぶりの久に、留学の留で島 だから﹁ひさりゅうしま﹂と読んでしまいました。正しく は﹁くるしま﹂です。   久留島武彦は関西学院設立時に入学して学んだ人です 。 つまり皆さんの先輩です。久留島先生は関西学院について いろいろな文章を残しています。関西学院に在学中、自分 はどうだったのか、その当時の学校はどうだったのかなど、 その当時の思いを新聞にも残しています。また、関西学院 としても関学の卒業生である久留島先生をとても大事にし てくださって 、﹃クレセント﹄などでも特集を組んでくだ さっていて、いろいろな記録が残っています。   皆さんは私のプロフィールをお持ちだと思いますが、私 の名前を覚えてくださっていますか。 私は金成妍です。 ﹁キ ム・ソンヨン﹂と読みます。韓国語は漢字一つにつき読み 方が一つしかありません。金という字はかならずキム、成

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という字はかならずソンと読みます。妍は日本ではケンと 読むでしょうか。妍は姫の旧字で、今は使われていない字 です。美しい、 あでやかという意味ですが、 ヨンと読みます。 フィギュアスケートの金妍児選手も妍という字を使ってい ます。一九七八年十一月十一日、私の両親がお寺に三千円 払って、美しくなれという願いを込めて妍という字を使っ たようです。キムソンヨンと言います。   先ほど私は韓国人と言いましたが、なぜ韓国人が久留島 武彦記念館の初代館長になって、なぜまた関西学院にまで 来ているのだろうかと思いませんか。自分自身でも不思議 に思います。   韓 国 に は 釜 山 と い う と こ ろ が あ り ま す 。 福 岡 か ら 二百十五キロぐらいで行けるとても近いところです。福岡 から飛行機に乗れば三十分で行くことができます。私は釜 山の海雲台、ヘウンデというところの出身です。海雲台と 書いてヘウンデと読みます。韓国で中学校、高校、大学ま で出て、九州大学の大学院で修士、博士を取りました。今 は大分県の玖珠町にある久留島武彦記念館の館長をしてい ます。   私にとっては、この町の名前も難しかったのですが、玖 珠とかいて﹁クス﹂と読みます。大分県の湯布院の手前に ある町です 。大分県の玖珠町に行ったことのある方はい らっしゃいますか。四人いらっしゃいますね。この四人は 久留島武彦記念館の開館式のテープカットに来てくださっ た方ですが、この方々以外にはいらっしゃいませんね。   博多から大分に向かって高速道路を走っていくと、大き な赤い鬼が立っています。インパクトが強いですね。この 鬼が見えたら、ああ、童話の里だということが分かります。 これを覚えておいてください 。鬼にまつわる民話 ︵﹃平田 山の鬼﹄ ︶の発祥地が玖珠町だということを町外に発信す るため、今から二十年前に四百五十万円かけて建てたもの です。 七メートルあります。 鬼が見えたところが玖珠町です。   玖珠町は日本で唯一童話の里という名前を掲げています。 童話の里玖珠町です。インターを下りたらすぐのところに 道の駅が新しくできたのですが、その道の駅の前に桃太郎 があります 。そのようにして童話の里っぽくしています この玖珠町で明治七年久留島武彦が生まれたわけです。   久留島武彦のことを知っている方は、久留島武彦が村上 水軍の末裔だということを知っている人もいると思います。 久留島武彦の先祖は、もともと愛媛県来島海峡を拠点にし た日本で一番有名な海賊だった村上水軍でした。関ヶ原の 戦いで負けたため、海賊なのに海がない豊後の森、山奥に

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追いやられて、お城を建ててはいけないといったさまざま な制限を受けながら殿様になったのが久留島家でした。伊 予から豊後森藩に移ったのです。   豊後森藩の十代目の殿様の弟の長男として生まれたのが 久留島武彦です。直系ではありませんが、殿様の家系とし て生まれた人です。玖珠町には、国指定の名勝になってい る三島公園と呼んでいる場所があります。旧久留島氏庭園 といいますが、この上に栖鳳楼という茶室があります。八 代目の殿様がその茶室から眺めるためにつくった庭園があ ります 。この庭園には童話碑が 、久留島先生の童話活動 五十年を記念して昭和二十五年に建てられた童話碑が建っ ています。そしてこの庭園の隅に久留島武彦生誕の碑とい う記念碑が建っています。つまり、久留島武彦はこの庭園 周辺にあった殿様の屋敷で生まれたのです。   久留島先生は九歳まで玖珠町で生活していました。森小 学校に通ったそうです。久留島武彦先生は明治七年生まれ ですから、当然テレビもラジオもありませんでした。特に こんなに山奥で生まれていると楽しみがありませんでした。 そんな時にお寺でお坊さんが聞かせてくれるお話がとても 面白くて 、お話というのはすごく面白いものなんだなと 思って、お話というものにすごくひかれた幼年時代を過ご したということです。玖珠町の成覚寺というお寺でお話を 聞いて感動したというエピソードが残っています。   久留島武彦が九歳の時に、玖珠町に大きな火事がありま した。それをきっかけとしてお母さんの出身地である中津 というところに移りました。福沢諭吉の生まれたところで す 。そこに移って 、中津で小学校最後まで過ごしたあと 、 当時、大分県に一校しかなかった大分中学校に入学します。 そのころ大分中学校には、当時としてはすごく珍しかった のですが、アメリカからウェンライト先生が来ておられま した。ウェンライト先生については、ご存じの方もおられ ると思います。大分中学校のあとに関西学院に来られまし た。   ウェンライト先生は、二年契約で大分中学校に来て英語 を教えていた時に久留島武彦に出会いました。久留島武彦 はウェンライト先生とお話がしたくて、一所懸命英語を勉 強しました。また、ウェンライト先生が開いていた日曜学 校に参加するたびにウェンライト先生の家に行って掃除を したりしたということもあったそうです。それでウェンラ イト先生にすごく気に入られて、ウェンライト先生の家に 下宿するかたちで一緒に生活をしていました。   当時は、外国人宣教師に対する迫害がひどい時代でした。

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そのため、ウェンライト先生の自叙伝の中には、久留島武 彦がウェンライト先生を迫害から守るため、久留島家の家 宝である刀を枕元において寝ていたということが書かれて います。大きな音が聞こえたある夜は、先生を守るために 刀を持って飛び出して振り回したようです。久留島武彦が 十七歳ぐらいの時の、刀を持っている写真が関西学院にあ ります。機会があれば、そういった写真も見ていただきた いと思います。   ある日 、ウェンライト先生が久留島武彦に聞きました 。 武彦の夢は何か、夢はあるのかと。そうしたら、久留島武 彦は﹁先生、私は牛や馬をたくさん飼って、牧畜業で成功 したいんです﹂と答えました。そうしたらウェンライト先 生は、 牛や馬ではなく、 人間を育てる人になるようにと言っ たそうです。それで、ああ、人間を育てる道があるのだと 気が付いて、それで児童教育、幼児教育に自分の人生を捧 げる決心をしたということです。このウェンライト先生と の出会いによって、久留島武彦の中に一つの信念ができた のです。   大分中学校での二年契約が終わった後、ウェンライト先 生は当時、設立されたばかりだった関西学院に移られまし た。その時に、かわいがっていた久留島武彦に一緒に関西 学院へ行かないかと声をかけました。声をかけられた久留 島武彦は、行きますと答えました。それで大分中学校の卒 業を待たずにウェンライト先生について神戸に移り住みま した。それで入ったのが関西学院でした。   久留島武彦は尾上新兵衛というペンネームで神戸時代の ことを書いています 。少し読んでみましょう 。﹁神戸は僕 の第二の故郷というべき土地だ﹂と書いています。この関 西学院のある神戸を自分の第二のふるさととしてすごく大 事にしているのです。その後、 ﹃神戸新聞﹄の創刊メンバー として﹃神戸新聞﹄第一号を出しました。   これが関西学院に通っていた当時の久留島武彦の写真で す。当時、関西学院には神学部と普通学部があったようで すが、久留島武彦は普通学部で勉強していました。その時 に関西学院で日曜学校があって、そこで初めて日曜学校の 校長という役割を与えられ、初めて﹁児童教育﹂に接しま した。そこで、どのようにして子どもに接すればいいのだ ろう、子どもたちに伝えるためには、どのような工夫をす ればいいのかというように、子どもに対する工夫や研究に 悩んでいたのが関西学院時代だったようです。   久留島武彦が十九歳の時、キリスト教徒の第六回夏季学 校が箱根で開かれました。そこで聞いた内村鑑三の講演に

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ものすごく感動したそうです。内村鑑三はこういうことを 言ったそうです 。﹁人間が後生に残すことのできる最大遺 物とは勇ましい高尚なる生涯である。自分の生き様、どの ような生き方をするかがこの世の中に残せる最大の贈り物 だ﹂ 。   この話を聞いた久留島武彦は非常に感動して、私は自分 の人生をかけて子どものために、宗教教育のために、幼児 教育のために人生を捧げたいという決心をしたということ を、夏季学校で久留島武彦と同じ部屋を使った友だちが後 日、記録として残しています。   久留島武彦が二十歳の時に日清戦争が起こり、志願して 近衛師団という軍隊に入りました。近衛師団に入って、台 湾に渡って戦争に参加し、いろいろな体験をしました。彼 は台湾に原稿用紙を持っていっていたので、そこで自分が 今、経験している軍隊での生活を書き残すという作業をし ました。   久留島武彦は自分が持っていった原稿用紙に軍隊生活に ついて書きました。どんな訓練を受けているのか。軍人は どんなものを食べているのか。どんな人間関係があるのか とか、そういうことを細かく書くのですが、とても明るい 人でしたので、愉快に楽しく軍隊生活を書きました。当時 は現役の兵隊さんがものを書くということがない時代でし たので、それが現役の兵隊による初めての発信だったそう です。   それが全部まとまると、久留島武彦は東京の博文館にそ の原稿用紙を送りました。その文章は﹃近衛新兵﹄という タイトルで掲載されました 。博文館は 、当時 ﹃少年世界﹄ という少年のための雑誌の中では唯一販売部数が百万部以 上売れている雑誌を出している出版社でした。   この﹃少年世界﹄の編集長だった人が巖谷小波という人 です。聞いたことありますか。日本で初めて創作童話を書 いた人です。巖谷小波という人は、児童文学という言葉が ない時代に初めて、子どものために書かれた文芸作品を表 す言葉として、お伽話という言葉をつくりました。そして 日本で初めて全国に散逸していた ﹃桃太郎﹄ や ﹃一寸法師﹄ といった昔話を集めて、日本で初めて﹃日本昔話﹄や﹃世 界昔話﹄といった本を出した人です。児童文学叢書の中で 個人が出したものの中では最初になります。   巖谷小波の﹃日本昔話﹄によって、日本で初めて﹃桃太 郎﹄や﹃一寸法師﹄などの﹃日本昔話﹄を同じストーリー で日本人が共有できるようになりました。ですから日本で 近代児童文学を最初に開拓した人だといえるのです。

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  明治時代は巖谷小波によって 、﹁お伽話﹂という言葉で 児童文学、近代児童文学がスタートしました。それが大正 になると童話という言葉ができて、昭和になると児童文学 という言葉が定着していきます。   久留島武彦が台湾から東京に戻ってきて 、当時 、﹃金色 夜叉﹄という小説ですごく有名だった尾崎紅葉を訪ねてい きました。そこで尾崎紅葉が自分と仲が良かった巖谷小波 を紹介してくれました。それで、久留島武彦は巖谷小波を 訪ねていって、巖谷小波の家に下宿をすることになりまし た。下宿しながら小波を囲んで文学研究会を開いたり、ま た自らも児童文学を目指そうと思って童話を書いたり、グ リム童話やアンデルセン童話を翻訳したりしました。   この軍服姿が久留島武彦です。三年間は軍隊に行かなけ ればなりませんでした 。当時は小波の家に下宿しながら 、 またその後は自分で東京に家を借りて軍隊に通っていまし た。   軍人生活をする中でいろいろな人と出会うのですが、そ の中で、後藤新平と出会います。皆さん、後藤新平という 人をご存じですね。東京知事を歴任した方で、ボーイスカ ウトの初代総長を務めた人でもあります。 ﹁一に人、 二に人、 三に人﹂という言葉もすごく有名です。この人は軍隊で接 点があった久留島武彦をかわいがってくれました。   いろいろな話をする中で、久留島武彦は後藤新平に﹁実 は私の先祖は村上水軍だったんです﹂と言ったことがあり ました。すると後藤新平は、村上水軍の末裔なら勝海舟に 紹介してあげようということで、二十三歳の久留島武彦を 連れて勝海舟に会いに行きました。それで久留島と四十歳 の後藤新平と七十四歳の勝海舟が同じ空間で話をしました。 勝海舟をものすごく昔の人と思っている人が多くて、久留 島武彦と接点があると話すと意外に思われる方がおられま す。勝海舟に会った二十三歳というのは、久留島武彦が結 婚した年でもあります。神奈川県出身の濱田ミネという女 性と結婚したのですが、この濱田ミネという女性は早蕨の 局というところで働いていた女官でした。この早蕨の局と いうのは、大正天皇の生みの母である柳原愛子が持ってい た局でした。そこで働いていた女性と結婚したわけです。 柳原愛子の姪が大正三大美人の一人といわれた柳原白蓮で す。白蓮は晩年まで久留島武彦と交流がありました。白蓮 が久留島武彦に初めて出会ったのは、村岡花子と一緒に東 洋英和女学校に通っていた時、久留島武彦がその女学校に 来て話をした時でした。   後日、白蓮のお兄さんである義光が、久留島武彦が立ち

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上げた ﹁お伽具楽部﹂ という日本初の児童文化活動団体の 会長を務めて、 武彦と一緒に児童文化のために活動したこ ともあり、白蓮とは家族ぐるみの付き合いがありました。   皆さんは白蓮というときれいな顔しかご存じないと思 いますが、 おばさんになった時の白蓮と久留島武彦がすき 焼きパーティーに参加した時の写真があります。 これは久 留島武彦のお孫さんから寄贈を受けたものです。   また、 久留島武彦の晩年の手帳を見ると、 赤い文字で白 蓮女子と書いてあります。 柳原白蓮と一緒に奈良で若草鍋 を食べたことが記録されています。 このように白蓮との接 点を見つけ出すこともできます。   皆さん、 白蓮というと﹁腹心の友﹂もよく語られますね。 三年ほど前でしょうか、 とてもヒットした朝の連続ドラマ ﹃花子とアン﹄を覚えていますか 。村岡花子と白蓮の話が でます。 花子と白蓮がとても仲が良かったことはドラマで もよく分かったと思います。村岡花子は ﹃赤毛のアン﹄ を 翻訳した人として知られています 。翻訳しただけではな く、 自分でいろいろな児童文学も書いています。また、 村 岡花子は ﹃子供の時間﹄ というラジオ番組の最後の五分間 に ﹃子供の新聞﹄ を朗読したことでとても有名になった人 でもあります。   彼女をラジオ番組に紹介してレギュラーにさせたのは久 留島武彦でした 。久留島武彦は日本で NHK ラジオがス タートしたその日から﹁子供の時間﹂というプログラムを 持って、童話の口演をラジオで流しました。ですから、ラ ジオの歴史と共に久留島武彦のラジオ口演がスタートした のです。   ﹃花子とアン﹄というドラマを見た人は 、久留島武彦が 出てきたかどうか覚えていますか。まったく出てきません でしたね。実は、花子は久留島武彦から指導を受けて児童 文学を書きましたし 、﹃赤毛のアン﹄を翻訳するときも英 語が上手だった久留島武彦から指導を受けて言葉の訂正を してもらったりしました。また久留島武彦が亡くなった時 は追悼会で追悼文を読んだのも花子でした。久留島武彦の 死後、東京の日本青少年文化センターにできた久留島武彦 文化賞の選考委員も花子が務めました 。しかし 、﹃花子と アン﹄には久留島武彦は出てきませんでした。私はそれが 不思議でした。 なぜ出てこないんだろうと思いました。 ﹃花 子とアン﹄の原作を書いた村岡花子の孫である村岡恵理さ んによると、 NHK は視聴率がすべてだと。久留島武彦の ように知名度の低い人を出すには説明が必要だけれども 、 その説明を入れてまで久留島武彦を出す必要がないと判断

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されてカットされてしまったということです。   花子の孫が書いた原作には久留島武彦はもちろん登場す るのですが、ドラマでは全部カットされました。それを聞 いて 、久留島武彦の研究者としては非常に悔しくて 、﹁く そっ﹂と思って、いつか私は久留島武彦で朝ドラをつくっ てやるぞという気持ちで、今年の二月にこのような本を出 版しました。久留島武彦はこんなことをしたのだというこ とを紹介する本があれば伝わりやすいだろうということで 本を出版しました。全国の書店に久留島武彦の本が並んだ のはこれが初めてのことでした。久留島武彦のことを知っ ている人は少ないですから、どのように広げたらいいのか が非常に大きな課題ですし、私にとっては悩みです。   少し話を戻しますが、久留島武彦は、 NHK の人から視 聴率にまったくプラスにならない人だからといってカット されたぐらい過小評価されていますが、今から久留島武彦 が何をした人なのかを知ると皆さんの考えは変わるかもし れません。   この写真に写っているのは久留島武彦ですが、軍服を脱 いでいます 。つまり三年の軍隊生活が終わったんですね 。 本格的に巖谷小波を囲んで、木曜会といわれる文学研究会 で一緒に童話を書くなど、いろいろな活動をしていきます。 巖谷小波という人は、日本で初めてお伽話を広めた人です。 その当時、毎月のように、いろいろなお伽話を書いては発 表していました。小波が京都の小学校を見に行ったところ、 そこの校長先生が 、﹁小波先生 、子どもたちみんなが先生 のお話を読んでいます。せっかくお越しになったのだから、 子どもたちに先生の話を聞かせてください﹂とお願いしま した。それをきっかけとして自分で書いたものを口で演じ る口演童話というものをスタートさせました。明治二十九 年ぐらいのことです。それが日本の口演童話のスタートに なります。それが結構うけたようです。   それから毎月、月に一度ずつ学習院の幼稚部に呼ばれて、 子どもたちにお話をするようになりました。これがその時 の様子です。巖谷小波が立って、幼稚園の子どもたちにお 話を聞かせています。   ある日、たまたま小波の家に遊びにいった久留島武彦は、 出掛けようとしている小波から、今から子どもたちに童話 を聞かせに行くのだと言われ、付いていくことにしました。 そこで武彦は小波が子どもたちの前で童話を語る姿を見て、 すごく新鮮な衝撃を受けたようです。子どもたちを集めて 大人が童話を語り聞かせるという発想すらない時代でした。 とてもそれにカルチャーショックを覚えて 、﹁これだ﹂と

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思ったそうです。子どもたちに童話を語り聞かせよう。子 どもたちに童話を語ることによって伝えられるものがたく さんあるのだということに気が付いたのです。それで明治 三十六年、日本で初めて﹁お伽倶楽部﹂という児童文化活 動団体をつくりました。   毎月子どもたちを集めて、童話を語り聞かせます。皆さ ん、写真をご覧ください。子どもが身を乗り出して童話を 聞いていますね。大人が子どもたちのために何かをしてあ げようという発想がない時代に、この行動自体すごく珍し かったそうです。これが子供たちにすごく大受けし、口演 童話会、当時は﹁お伽倶楽部会﹂と呼んでいましたが、そ れがすごく人気を博するようになりました。そこで久留島 武彦は巖谷小波と一緒に 、私たちの童話が聞きたい方は 、 ﹃少年世界﹄という雑誌の編集部のほうに連絡をください と。そうしたら、どんなに遠いところであろうとも、ただ で行ってあげますという宣伝を出しました。そうしたら日 本各地から申し込みがきました。   ちなみに、久留島武彦が口演童話会を開催した時、久留 島武彦は﹃神戸新聞﹄の新聞記者でした。   久留島武彦に新聞記事を頼もうと思って来ていた人がい ました 。川上音二郎という新派劇の俳優です 。﹁オッペケ ペー節﹂という歌ですごく有名な人だったようです。この 人は﹃椿姫﹄の公演をしていたのですが、その﹃椿姫﹄の 宣伝を頼もうかと思って久留島武彦を訪ねてきたら、あの 口演童話会の様子を見てびっくりしたのです。子供をこん なに集めて何かをすることができるのだという発見。それ で久留島武彦にすごいですねと言ったら、あなたは子ども たちのためにお芝居やってみてはどうですか。誰もやって いないのだからと言われました。   それで日本で初めて専門俳優が子どもたちに芝居を見せ る。その﹁お伽芝居﹂というものを日本で初めてスタート しました。それが小波や久留島、川上音二郎の活動によっ てスタートしました。   皆さん、このスライドに写っているのは﹃桃太郎﹄とい うお伽芝居のポスターです。大きな紙にサルや雉などの絵 を描いて、自分の顔を突き出しています。この変顔をして いるのが久留島武彦です。今見ても非常に斬新な試みです ね。いろいろなことを子どものためにやっています。これ はお伽芝居の最初のポスターです。   このようにして久留島武彦と巖谷小波は﹃少年世界﹄に 申し込みがあったところに行きました。当時はラジオやテ レビがありませんでしたので、何かを宣伝するためには直

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接その地域に行くしかありませんでした。いろいろなとこ ろを回るついでに﹃少年世界﹄という雑誌の宣伝もしてい きました。   皆さん、歯磨きをする時、歯磨き粉を使いますか。どこ の薬を使いますか。ライオンを使う方はいらっしゃいます か。そのライオンという会社は歯磨き粉を販売した会社で す。しかし、最初は誰も使ってくれませんでした。そこで 久留島武彦や巌谷小波に頼んで、全国を回るついでに、こ の歯磨き粉を使ったらどれだけ歯をきれいに磨けるかを宣 伝してほしいと頼みました。そこで二人は全国を回って歯 を磨く習慣を身につけることの大切さ、それがどれだけ衛 生的な習慣なのか、そして歯磨き粉を使ったらもっとよく なるということを宣伝して回りました。それでライオンの 歯磨き粉が全国に広まって売り上げが飛躍的に伸びました。 そのことはライオンの五十年史に載っています。   久留島武彦と巖谷小波は﹃少年世界﹄を基盤に、少年世 界お伽講話部という部署までつくって全国を回りました 。 最初は学校を中心に回っていましたので、子どもたちが集 まっていました。その後、自治体などいろいろな団体に呼 ばれて行くようになりました。そして、いろいろなところ に行きながら児童文学、また児童文化を広めようという意 識を高く持っていました。   巖谷小波は俳人でもあります。俳人の中でも日本で唯一 お伽話を俳画として描いた俳人です。これは巖谷小波が描 いた﹁秋高し   熊より肥えた   金太郎﹂という金太郎の俳 画ですが 、ここに押している印鑑を見ると 、﹁お伽外史﹂ と書かれています。つまり、自分たちは日本全国を回って お伽話を広める使命を持っているんだという、とても強い 意識、使命感を持っていたことが、ここからうかがうこと ができます。   この二人の活動がどれだけ人気があったかといいますと、 二人が行ったところには二時間前、三時間前からお話を聞 くために人々が行列をつくって待っているほどでした。ま た、久留島武彦の口演童話会に人が集まりすぎて二階の床 が落ちて四十人の怪我人が出たといった事件もありました。 これは読売新聞の記事にもなりました。   明治四十一年、日本で初めて民間による世界一周観光旅 行が開催されました。その時に久留島武彦は、お金はない けれども英語がすごく上手だったので、世話係、通訳とし て世界一周旅行に参加しました。   久留島武彦はこの世界一周旅行で野村徳七という人に出 会います。野村徳七は野村証券をつくった人です。三十歳

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ぐらいで今のお金でいう三百五十億円以上を稼いだすごい 人です。野村徳七は久留島先生よりも四歳年下ですが、久 留島先生とはすごく気が合ったそうです。二人とも聞き上 手で、話し上手で、行動力がありますので、意気投合して 世界一周旅行から帰ってからも一緒に旅に出ることが多 かったです。特に野村徳七が野村証券を大きくするために はどうすればいいのかという悩みを打ち明けた時、久留島 先生はまずは社員教育をするべきだとアドバイスしました。 まずは人を育てることだ。社員教育が何より優先されるべ きだといったのです。言葉遣い、身だしなみなど社員教育 を徹底するのが会社を大きくするために一番肝心なことだ といいました。それで野村徳七は久留島武彦に、ぜひうち の職員に話を聞かせてくださいと頼みました。   久留島先生は東京に住んでいたのですが、飛行機もない 時代に列車に乗って、毎週一回か二回大阪まで来て、野村 証券の全職員に講演して教育にあたりました。月に一度は 社員の奥さんを集めて子育てについて話をしました。それ が野村証券の基盤づくりに大きく関係していると思います。 久留島先生はそういった講演活動をするかたわら、幼稚園 の設立も果たしました。いくらお話が上手でも、子どもに お話を語り聞かせるためにはスキルだけではいけない。子 どもにお話を語り聞かせて伝えるためには、子どもの心を 知らなければならない。子どもが何を考えて、何を求めて いるのかを知らなければならない。そこで、どうしたら子 どもの心理が分かるのだろうかということについて悩みま した。子どもの心を知るためには、子どもに常に接しなけ ればなりません。子どもと常にふれあうためには幼稚園を つくればいいのだなと思ったわけです 。幼稚園があれば 、 常に子どもと一緒にいられて 、子どもが何を求めていて 、 子どもがどういうことを望んでいるのか観察して研究でき るのではないかと思い、幼稚園をつくることを決心しまし た。   幼稚園をつくるためにはお金が必要です。それを相談し たのが野村徳七です。野村徳七に子どもの教育のために幼 稚園をつくりたいが資金をお願いできないかと言ったら快 くお金を出してくれて、それで東京に早蕨幼稚園をつくる ことになりました。   これが野村徳七と久留島武彦が一緒に旅をしたり、対話 をしたりしていた時の写真です。立っているのが久留島武 彦で、いすに座っているのが野村徳七です。これが久留島 武彦がつくった幼稚園、私立第一早蕨幼稚園です。開園当 初は、 ﹁さわらび﹂ と書いて ﹁さわらみ﹂ と読ませたようです。

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幼稚園をつくる時、久留島先生はまずシンボルマークをつ くりました。 それがこの犬のマークです。 犬張り子をモチー フにしています。そして自分が掲げている幼児教育をひと ことで﹁桃太郎主義﹂と表しました。   桃太郎主義とは、頼り合って、助け合って、共に生きて いくことです。戦争が激しくなるにつれて、桃太郎主義は 戦争、侵略主義であるといったようにいろいろな批判も受 けましたが、その都度、久留島先生はそんな狭い、そんな 小さな意味ではないのだと。そんなばかげたことを言わな いでと、本当の桃太郎の話をよく読んでみなさいと言って いました。違うもの同士が助け合って困難を乗り越えてい く。この姿勢を伝えたいのだというふうに主張をしていま す。 久留島先生は有名人でしたから、日本全国いろいろなとこ ろに行くと一筆お願いしますということで紙を出されまし た 。そのときに画いたものの中で一番多いのが犬でした 。 桃太郎主義という児童教育理念をどうしても伝えたいとい う思いが強かったのではないかと思います。   これは久留島先生の描いた犬の絵です。大正四年に東洋 大学を卒業して、地元の福井県に帰って早翠幼稚園を開い た人がいます。徳本達雄という方です。その方が大正四年 に久留島先生が描いてくれた犬のマークを自分の幼稚園の マークにしました。そして幼稚園で必要な教材類を自らつ くるようになりました。やがて子どもに関する遊具や教材 をつくる会社をたてました。それがジャクエツという会社 です。福井県敦賀市に本社があります。この会社のマーク は犬張り子ですが、これは久留島先生が描かれた犬の絵が 元になっています。ジャクエツはできてから百三年ほどに なります。ほかにも久留島先生の犬の絵をマークにした幼 稚園は全国にたくさんありましたが、その中で今も残って いるのは三 、 四カ所ということです 。尾上幼稚園や長崎の いなさ幼稚園など何カ所かあります。   久留島先生の幼稚園は、東京空襲の時に焼かれて幼稚園 自体がなくなってしまうのですが、このようにしてジャク エツという会社を通して、また、いろいろな幼稚園を通し て犬張り子の絵は残っています。   これが早蕨幼稚園の焼け跡から出てきた旗の写真です 早蕨幼稚園を開園した時、久留島先生は犬の絵の描かれた 旗をつくりました。子どもたちが犬のバッジを付けて幼稚 園に来たら、みんな無事に来ましたよ、この旗の元で安全 に見守られているようにという意味で、旗を揚げることを 儀式的にしたそうです。

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  団体写真を見ると、子どもたちが胸に犬のバッジを付け ているのが分かります。皆さん、この方のことは分かりま すか。ウェンライト先生の奥さんのマーガレット夫人です。 マーガレット夫人は晩年、日本を去る直前まで久留島先生 の幼稚園で英語を教えていました。   これが早蕨幼稚園の団体写真ですが、ここに写っている 男の子はとても有名な芸術家になりました 。﹁芸術は爆発 だ﹂という言葉が有名な、太陽の塔をつくった人です。岡 本太郎です。この丸坊主の子どもです。ほかにも昭和の女 優、細川ちか子や虎屋の社長や東京急行電鉄社長や津村順 天堂社長など、社会の各方面で有名になった人たちが早蕨 幼稚園を出ています。   この幼稚園を基盤にして、久留島先生は希望があれば日 本全国いろいろなところを回って口演童話会をしました 。 最初はどのように口演童話会をしたらよいのか分からない 状態でしたので、同じ話を一年間ずっと続けてみたり、対 象が変わるごとに違う話をしてみたり、いろいろと研究を していきました。そのうちに童話術など、どのようにお話 をすればいいのかということを書きまとめて書籍として出 版したりもしました。   口演童話が広がっているのをこの写真で確認することが できます。明治四十二年、久留島先生が来るといったらこ れだけの人が集まりました。これは静岡での口演童話の様 子の写真です。   また一九一五年に久留島先生がソウルに行かれました 。 ソウルに行ったことがある方はいますか。ソウルに明洞と いうところがありますが、一九一五年十月に明洞で家庭博 覧会があったそうです。それを久留島先生がふらりと見に 行かれました。そうしたら関係者が久留島先生を見て、あ の有名なお話の久留島先生ではありませんかと声を掛けま した。そうしたら久留島先生はそうですよと答えられまし た。ソウルまで来てくださったのだから、ここに住む子ど もたちにもぜひお話を聞かせてくださいと頼まれて、それ で舞台をつくって口演したら、二千人の子どもが集まった そうです。   この写真をよく見ると 、警察官も腕を組んで話に聞き 入っている姿が確認できます。マイクも持たず、本当に久 留島先生の肉声だけでお話をしているのですが、当時の新 聞記事には、隅々まで声が届いていたと書かれています。 ここで皆さん、一つ疑問に思いませんか。先生は韓国語を しゃべったのかな、何をしゃべったんだろうと思いません か。久留島先生は英語は上手でしたが、韓国語は少しは話

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せたそうですが、あまり話せませんでした。このとき朝鮮 半島は日本の植民地でした。ですから、日本には今も在日 朝鮮人がいるように、当時は在朝鮮日本人といって、日本 から出稼ぎのために朝鮮半島に渡っている人たちがたくさ んいました。そういう日本の方たちの子どもたちがソウル 周辺の学校に通っていました。ですから、ここは主に日本 人の子どもたちがいたわけです。   この子どもたちは朝鮮半島で日本語の教育を受けていま した。毎月一回送られてくる雑誌を見て日本を懐かしく思 いながら生活をしていましたので、その雑誌を通して久留 島武彦の名前は知っていました。その人が実際に来たとい うことになったものですから、多くの人が熱狂的に話を聞 きに集まったわけです。   この日のこの口演童話がきっかけとなって、久留島先生 は引っ張りだこになりました。それで朝鮮半島ほぼすべて を回りました。帰してくれなかったのです。朝鮮半島全部 を回って日本に帰ったのですが、それでもお話に来てくだ さいという要請が多かったので、自分の代わりにお弟子た ちを次々に送りました。それで朝鮮半島に久留島先生のつ くった口演童話研究会の朝鮮支部やお伽倶楽部の朝鮮支部 ができました。   このようにして韓国にも口演童話が広まりましたが、こ れはあくまでも日本語の教育を受けていた子どもたちが中 心です。このことがあって、だいたい十年後に朝鮮半島に 初めて児童文学が生まれました。ですから久留島先生は朝 鮮における近代児童文学の土台づくりに深く関わっていた といえます。   こういう活動をしていたということを写真で確認しまし たが、こんなにたくさんの子どもたちに何を話したと思い ますか。 ﹃桃太郎﹄でしょうか、 ﹃金太郎﹄でしょうか。違 います。乃木希典大将の話をしたのです。   皆さんは乃木希典をご存じでしょうか。明治天皇と一緒 に殉死なさった方です。久留島先生は乃木大将から子ども のようにかわいがられたそうです。乃木大将からもらった 茶碗やお盆を家宝として使っていたという記録があります。 それでこの場で久留島先生は子どもたちに乃木大将の話を しました。乃木大将は非常に倹約家で、子育てをする時は、 息が白くなるほど寒くても絶対に家では火鉢を使わなかっ たそうです。二人の息子さんから寒いから火鉢をつけてく ださいと頼まれても、お客さまが来られない限りは絶対に 火鉢を出しませんでした。乃木大将は子どもたちに向かっ て、あなたたちは火鉢を持っているのではないかと言った

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そうです。 子どもたちが自分は火鉢を持っていないと答え たら、 乃木大将が二人の息子にすもうをとらせました。二 人が一所懸命すもうをとったら、 だんだん熱くなって洋服 を脱ぎたくなるぐらいになった。 それで自分たちの体に火 鉢があったんだということに気付いたというエピソード があります。そうしながら今、朝鮮半島に来て、とても苦 しい環境の中で生活をしている日本人の子どもたちに明 るく、 元気にこの苦難を乗り越えていこうということを伝 えたのです。   久留島先生のされた口演童話という言葉は、 あまりなじ みがないと思います。 口演童話というのはあまり聞かない ですよね。今はだいたい読み聞かせとか、 ストーリーテリ ングという言葉を使っています。口演童話というのは、 こ の二つとはちょっと違うものです 。読み聞かせというの は 、絵本を見せて 、その通りに読んで聞かせることです 。 ストーリーテリングというのは、 まず一つの物語を丸ごと 暗記して、 その通りにしゃべります。 ﹁自分﹂ はありません。 覚えてその通りに語り聞かせます。   一方、久留島武彦が広めた口演童話は、一つの話を完璧 に自分の中に入れるところまではストーリーテリングと 一緒です 。﹃ 桃太郎﹄の話でも 、犬 、猿 、雉がすっと分か る年頃であればそのまま言えばいいですね。だけど ﹁きじ﹂ と言った時に﹁きじ﹂が分からないぐらいの幼児がいた場 合は、もうちょっと分かりやすく説明します。つまり、語 る対象に合わせて語彙や表現を柔軟に扱う、語り手の力量 が問われるのが口演童話です。   口演童話では、相手に合わせて語ることがとても求めら れています。ですから難しいのです。覚えてそのまま語っ たほうが簡単なので、受け継ぐ人が非常に少ない。ですか ら、現在、日本で久留島武彦の口演童話を受け継いでいる のは一つの団体しかありません。全国童話人協会という団 体だけです。年に二回、日本全国の幼稚園や小学校を回っ て口演童話をしていますが、その方たちの中でも年配の方 たちがいまだにそういう語りをします。   もし機会があったら、全国童話人協会の語りを一度でい いですから聞きにいってみてください。本当にこういう世 界があるんだなというぐらい、私にとって新鮮な経験でし た 。とても面白いです 。口演童話は口で演じる童話です 。 オウムみたいにしゃべるばかりではいけないよということ を久留島先生はいつも言っていました。   久留島武彦は口演童話研究会、語り方研究会というのを 日本で初めてつくった人でもあります。久留島先生が一番

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大事にしていたのは語る人の魂を磨くこと、教養を高める ことでした。よくいろいろな人が久留島先生に聞いたそう です。久留島先生、どうしたら先生のように話が上手にな るんですかと。のどに梅がいいと聞いたから梅を食べたり、 ネギを首に巻いたり、毎朝、みそ汁を飲んでいるなどいろ いろなことを言ったそうです。久留島先生は何と答えたで しょうか。どうしたらお話が上手になるのでしょうかとい う問いに対して、まず聞き上手になりなさいと言ったそう です。まず人の話をよく聞く人がよく話せるということで す。それが第一の前提です。それから呼吸をどのようにし ろとか、顎を引くとか、胸を前に突き出さないとか、とて も細かく話し方の方法を文章として残しています。   久留島先生の口演童話は 、子どもを四 、 五人集めて読み 聞かせをする場合とはまったく次元が違います。一番多い 時は二万人近くの子どもを前にしてお話をしたそうです 。 そういう時は体の動きも大きくなります。手の動かし方や 体の動かし方も入念に研究をされていました。   久留島先生は子どもに童話を語り聞かせることがいかに 大事なのかを言葉として残しているのですが、童話という ものが子どもの人格、子どもの性格を形成する上でとても 大切なんだと。子どもにお話を通して、してはいけないこ と、してほしいこと、しては恥ずかしいことを語り聞かせ ることの大切さ。それをすごく有効に活用することをあら ゆる文章で書き残しています。   ですから、童話教育を行うこと。子どもに絵本をぽんと 渡すのではなく、できればお母さんが、または子どもに携 わっている大人が語って聞かせること。お話が上手でなく てもいいし、下手でもいいので、とにかく声で子どもの耳 に語り聞かせることによって、子どもの想像力がかきたて られると言っています。   大きな木がありました、といっても、子どもは一人一人 いろいろな木を想像します。絵本を見せて、大きな木があ りましたと言ったら、絵本に載っている木しか想像しませ んから想像力を制限してしまうことになります。ですから 道具を持たず、語りだけ、お話だけで子どもの想像力を豊 かにすることを語っています。   久留島先生の口演の写真がありますが、どんな話をした のでしょうか。久留島先生は生涯五百五十ぐらいのいろい ろな文章を残しています。評論だったり、エッセイだった り、紀行文だったり、童話だったり、いろいろな文章を残 しています。その中で童話作品は百四十作ほどあります。 アンデルセンの作品が百五十近いのですから、百四十とい

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うのは決して少なくありません。かなり多くの童話を残し ています。その童話はだいたい百年以上前のものですから、 言葉が難しいのです。ですから現代の子どもに読んでもら うために玖珠町では、毎年一作ずつ久留島先生の童話を現 代語に訳して絵本としてつくりなおして出版しています 。 ただ、ほとんどの人が久留島先生のことを知りませんから あまり売れません。まぼろしに近い絵本です。   久留島先生が残した絵本や童話を分析してみました。ど ういうメッセージを持っているのだろう。何を伝えたかっ たのだろう。それを調べてみると、基本的に大きなテーマ が三つ出てきます。人が人として生きていくために必要な もの、信じ合うこと、助け合うこと、違いを認め合うこと。 この三つを、童話を通して語り聞かせているわけです。   例えば、先ほど一作目の﹃ともがき﹄という童話は、森 に住んでいるシカと海に住んでいるカメと地下に住んでい るネズミと空を飛ぶカラスが友だちになって、お互い助け 合って危険を乗り越えていくという話です。こんな感じで 童話を通して久留島先生が伝えたかったことを探してみる ことができます。今、全部で八作出ていまして、来年の四 月に九作目が出版されます。その中で、韓国が舞台になっ ている童話があります。   久留島先生は海外旅行が自由になる前の時代を生きた人 ですが、全世界で行っていないところが三カ所しかありま せんでした 。すごくありませんか 。すごいことなんです 。 海外旅行に行けない時代に、オーストラリア、南アメリカ それからアフリカ内地の三カ所以外のすべての国に行って お話しをして回っています。韓国には私が調べたところ九 回ぐらい行っています。   ﹃トラの子ウーちゃん﹄というのは 、朝鮮の金剛山とい う山にトラの子が住んでいました、という文で始まります。 朝鮮の山に住んでいるトラがモデルになっています。どう いうことかというと、先ほど久留島先生が二千人の人の前 で話している写真を見たと思います。一九一五年一〇月の 写真でした。久留島先生が朝鮮に行った時、ちょうど朝鮮 半島ではトラ狩がさかんでした 。トラが町に下りてきて 、 あまりにもいろいろな被害を引き起こすので、トラを駆逐 するトラ狩が大々的に行われたのです。それで新聞にはこ んな大きなトラを捕らえたとか、今回はもっと大きなトラ が捕まったとか、それが連日新聞をにぎわせる時期でした。 そういう時に朝鮮半島に行った久留島先生はトラをモチー フに童話を二作書きました。 その中の一つが ﹃トラの子ウー ちゃん﹄という話です。

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  人間は怖いから、絶対に人間のまちには行かないように とお母さん虎から聞いたトラの子がどうしても人間を見た くて、好奇心をおさえられなくて村に下りてきた。そのと きに起こる冒険物語です。なぜ朝鮮のトラをモチーフにし たのでしょうか。もちろん自分が朝鮮に行った時にトラが すごく話題になっていたということもあると思います。韓 国の人にとってトラはとても特別な存在です。去年の年末、 韓国人が一番好きな動物を調べたらダントツ一位がトラで した。一九八八年のソウルオリンピックの時のマスコット もトラでした。   今、私がスクリーンに映しているのは、日本のすぐ隣に ある国 、 朝鮮半島の地図です 。 この朝鮮半島がどんな形 に見えますか 。韓国人はこの形を昔からトラだと思い込 んでいます 。 日本は島国ですからトラはいません 。しか し、韓国は大陸とつながっていますから、トラがものすご く多かったそうです。ですから、朝鮮に住む人々にとって は、幽霊より、化け物よりも怖いのはトラだったそうです。 しょっちゅう町に下りてきて、人を食べますから怖いので す。トラが一番怖い。   その恐怖を乗り越えるために何かが必要です。心の支え が必要です。その時に韓国の人がつくりあげた民間の信仰 があります。当時、朝鮮半島では多くの人がたばこを吸っ ていました。トラも今ごろ、山奥でたばこを吸ってゆっく りのんびりしているから、絶対にうちのまちには下りてこ ないよということをずっと言い伝えて、安心させていまし た。   これは朝鮮時代に書かれた民画です。こういう民画を見 た事があると思います。ソウルの国立博物館や資料館など どこにでもあります。トラが長いキセルを持ってたばこを 吸っていて、ウサギが世話をしています。もう一枚お見せ します。これもトラがたばこを吸っています。皆さん、こ れが韓国のトラに対する恐怖を乗り越えるための一つの信 仰だったのです。韓国人にとってトラはもっとも恐ろしい 恐怖の対象であるとともに乗り越えなければならない対象 であるために、面白おかしく、親しみをもって描かれてい るのです。いろいろなことわざの中にもトラが出てきます し、韓国の建国神話、昔話の中にもものすごくトラがたく さん出てきます。   例えば、日本の昔話はどんな言葉で始まりますか。決ま り文句がありますね 。﹁昔々 、あるところにおじいさんと おばあさんが住んでいました﹂という言葉で始まりますね。 では韓国の昔話は何で始まるでしょうか 。﹁昔々 、トラが

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たばこを吸っていたころのお話です﹂で始まります。その ぐらい昔だよということです。これが決まり文句です。   先ほどから、韓国にはトラがたくさんいるという話をし ていますが、二〇一七年現在、韓国に野生のトラはいるで しょうか。実はもういないんです。一九二〇年、慶州で見 つかったトラが最後の野生のトラとなっています。   では韓国にトラがいなくなった理由は何でしょうか。韓 国ではトラが絶滅してしまった理由をこんなふうに言って います 。 これは韓国語が分かる方 、 ハングルが読める方 は読んでみてください。 ﹁子どもや大人のための禁煙童話、 肺がんにかかったトラ﹂です。つまり、トラがたばこを吸 い過ぎて肺がんになって死んでしまったのだと。ですから、 皆さんもたばこをやめようという、禁煙のためにまじめに こういう絵本を出しています。韓国の amazon で買うこと ができます。年に一回、韓国では大々的にたばこをやめま しょうというキャンペーンが行われます。そういうキャン ペーンの時に必ず行われるパフォーマンスがこれです。ト ラもたばこをやめているから、皆さんもたばこをやめてく ださいということを訴えているわけです。   では、こういうことを分かった上で、一枚の写真をご覧 ください。この写真は今から百年前に久留島先生が撮った 写真です。身に何をまとっているか分かりますか。韓国の 民族衣装の韓服︵ハンボック︶です。足元まで完璧に時代 劇に出てきそうな民族衣装です 。手に何を持っているで しょうか。長いキセルです。ハンボック姿の久留島先生が 長いキセルを持っているのです。これを見るだけで、この 先生はものすごく国際人だったな。韓国文化をよく理解し ていたんだなということが伝わります。異文化に対する理 解度が高い人だったといえるのです。   特に私が韓国人なので、この写真を雑誌で見つけた時は とてもびっくりした記憶があります。久留島先生は生涯に わたって口にしていた口癖がありました。それは関西学院 に通っていた時から口癖になったそうです。聖書に詳しい 方はご存じだと思いますが 、﹁わが黙せば 、石叫ぶべし﹂ 。 つまり私の中には常に訴えたいものがあるのだということ です。   久留島武彦という人は 、昔話を伝えた 、童話を語った 、 お伽話のおじいさんではなく、子どもを育てるために主に 童話を手段として教育に携わった社会教育者です。ですか ら口演童話、すなわち語りを通した幼児教育、社会教育を 実践した人だということがいえます。それを亡くなる二カ 月前まで子どもの前に立って、実践しました。

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  皆さんは 、﹁継続は力なり﹂という言葉をご存じだと思 います。その言葉をつくって広めたのが久留島武彦だとい うことを知らない人が意外と多いのです。一九一一年、久 留島先生がボーイスカウトを視察するために、アメリカに 行った時にアメリカのことわざ 、﹁考えは力なり﹂という 言葉を聞いて日本に帰ってきました。しかし、いくらいい 考えでも続けなければ意味がないということで、 それで ﹁継 続は力なり﹂という言葉を書き、また語って伝えるように なりました 。今は久留島武彦を知らなくても 、﹁継続は力 なり﹂という言葉が一人歩きするぐらい定着しています。 久留島先生がなさったことをまとめましょう。日本で初め て口演童話会を開いて、児童劇、お伽芝居を日本で初めて 開催しました。また、日本にボーイスカウトを紹介したの も久留島武彦です。そして、ボーイスカウト世界大会のた めにデンマークに行った時、デンマーク人がアンデルセン をあまり大切にしていないと思って、それで流ちょうな英 語を使ってデンマーク人に向けて、あなたたちデンマーク 人はアンデルセンを大事にするぐらいの予算がないのです か。もっと大事にしなさいと言いました。百年後にはアン デルセンの価値が分かるだろうけれども、その時では遅す ぎるんだよと一喝しました。それが大きく新聞に取り上げ られて、それがきっかけとなってアンデルセンの博物館が できました。その活動後、日本に帰ってきた久留島武彦は 日本中を回ってアンデルセンを広める活動をしました。ア ンデルセン童話祭を北原白秋や村岡花子、野口雨情らと一 緒に開催したりしました。それで日本中にアンデルセンを 広めて、それが認められて日本の児童文学に携わる人とし ては初めてデンマーク国王から文化勲章までもらいました。 しかし、久留島武彦を知る人はあまりいません。デンマー ク関連資料は関西学院が一番たくさん持っていますので これをきっかけとしてこれからいろいろな人が知っていく ことになるだろうと期待しています。このように久留島武 彦には日本初の業績がたくさんあるわけです 。︵明治 年、日本口演童話会とお伽芝居開催、明治 三九 年日本初子 ども新聞﹁ホーム﹂創刊、明治 三九 年、日本初児童文化活 動団体 ﹁お伽倶楽部﹂ 結成、 明治 四〇 年、 日本初児童劇団 京お伽劇協会﹂組織、 明治 四〇 年、 久留島武彦が書いた﹁新 桃太郎﹂が日本初の児童劇映画になる、明治 四十一 本初世界一周観光旅行に通訳として参加、明治 四三 本初話し方研究会 ﹁回字会﹂結成 、明治 四四 年 、日本初 雑誌を通してボーイスカウトを紹介、明治 四四 年、日本初 アメリカからモンテッソーリ教具を持ち帰る、大正

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日本初ラジオで口演童話を行う︶   しかし、久留島武彦を十二年間研究している私としては、 このような業績よりも、自分が十四歳の時にウェンライト 先生に出会って心に決めた ﹁人間を育てる人になりたい﹂ という信念を一度もぶれることなく、生涯をかけて貫いた ところに久留島先生のすごさがあると思います。   当時は地方に行くにも今のように新幹線があるわけでは ありません。歩くか馬や自転車に乗るか列車に乗るかでし た。道も舗装などしていませんから、よくありません。で すからこんな険しい道を歩く。黒板を持って歩いているの が分かりますか。山奥の小さな村にこうやって行くわけで す。七〇代になり、足腰が弱くなって歩けなくなった時は、 険しい道はかごに乗せてもらって行ったり、かごも行けな い道の場合はこのようにおんぶしてもらって行きました。   久留島先生は八十六歳で亡くなるのですが、亡くなる二 カ月前まで子どもの前に立ってお話をされました。人は教 育によって初めて人間になるのだということを現場で伝え ました。この生き方、生き様が訴えることはあると思いま す。しかし誰も興味を示さない。 NHK が見向きもしてく れない、今はそういう存在ですが、久留島先生のしたこと を知る人が増えていけば、いつかはもっと日本中の人が知 るようになると思います。久留島先生の生き方は本当に尊 い生き方だったと思います。久留島先生の輝く人生を振り 返ってみる人が一人でも増えてほしいと思っています。   久留島先生はいろいろな言葉を残されました。先ほどは ﹁継続は力なり﹂という言葉を紹介しましたが 、私が個人 的に一番好きな言葉は 、﹁一人では何もできない 。しかし 一人が始めなければ何もできない﹂という言葉です。誰か がするだろう。誰かがやるだろうといって様子を見るので はなく、まず腰を上げて、自分から行動を起こすことが大 事だということです。   今日は大学一年生の方々が来てくださっていますが、今、 皆さんがこれをやりたいということがあれば、迷わず、ま ず行動を起こしてください。動かないと何も生まれてきま せん。私が初めて久留島武彦の研究をすると九州大学の大 学院のゼミで言った時に聞いた言葉をまだ覚えています 。 ﹁ソンヨン 、仕事ないよ﹂と言われました 。久留島武彦な んかやったって仕事ないよと。だけど私は仕事をするため に日本に留学に来ているわけではないので、研究を続けま した。最初は玖珠町でさえ誰からも見向きもされませんで したし、興味も持たれませんでした。玖珠町は一万六千人 ほどの小さい町です。その町民一人一人が町おこしのため

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に久留島武彦の記念館をつくりましょうといって署名し 、 力を合わせて、十二年たってやっと記念館ができるところ まできました。ですから、どんな無理なように思えること でも続ければ、きっと次につながる道があるような気がし ます。久留島先生の生き方は、皆さんに勇気なり希望なり を少しでも見せられたのではないかなと思います。   お話はここまでといたします。ご清聴ありがとうござい ました。        *    *    *    * 司会 どうもありがとうございます。この場を借りて質問 のある方は手を挙げてください。 ○会場 1 この講演会のご案内をいただきました時、懐か しい名前だなと。私は一九三〇年後半は小学生でした。神 戸の布引の近くの雲中小学校に六年間通ったのですが、そ の時に久留島武彦さんの講演会が時々学校で行われてい て 、それで全校生徒が講堂に集まってお話を聞きました 。 そういう経験をしましたので名前だけは覚えていました が、こんなに関西学院とのかかわりが深く、そしてこうい う功績を持っていらっしゃる方だということを今日は初め てうかがって感動いたしました。どういう内容のお話しを なさったのかは全然覚えていないのですが、みんなが楽し みにして聞いたという情景だけは覚えております。   もし、できましたら記念館に行って、生のお声を聞きた いなと思いました。 金 久留島武彦記念館には、久留島先生の肉声もたくさん ありますので、ぜひいらしてください。 司会 ほかにいかがでしょうか。 ○会場2 桃太郎主義ということでしたが、宝塚歌劇が宝 塚少女歌劇でスタートする最初のストーリーが﹁どんぶら こ﹂という一寸法師です。久留島武彦さんと宝塚少女歌劇 は何か関係あるのでしょうか。そんなこともちらっと見た 事があります。 司会 タカラヅカの前身になった少女歌劇の指導者は久留 島武彦のお伽劇団から出た人たちがそちらにつながってい きましたので、源流が久留島武彦のお伽劇団になるようで す。

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司会 いかがでしょうか。 ○会場 3 関西学院にいたころ日曜学校に関心があったと いうことですが、その後も教会に関心はあったのでしょう か。 ○金 関西学院にいた当時は日曜学校の校長を務めていま したが、関西学院を卒業して東京に行ってからは日曜学校 にかかわったという記録はありません。お伽倶楽部という 団体をつくって、 それを日本全国に支部をつくって回って、 それを中心に活動していくので、個人的に日曜学校にかか わったという記録はありません 。あるかもしれませんが 、 私は見たことはありません。 司会 ほかにいかがでしょうか。 ○会場 4 今日は本当に素晴らしい講演をありがとうござ いました。すごく興味深くて本当に学ぶことがたくさんあ りました。それで、童話や児童演劇に関係するかもしれま せんが 、昔 、紙芝居が子どもたちにすごく人気があって 、 私も子どもの時に音楽が聞こえてきたらみんなと一緒に 走ってその場に行って、アメをもらったりしながら見た記 憶がありますが、そういった紙芝居などをつくられたとい うことはないのでしょうか。 ○金 関学時代に日曜学校でキリストのことを伝えるため に紙芝居をつくって子どもたちに語ったという記録はあり ますが、今、お話にあった紙芝居は久留島先生のあとの話 だと思います。子どもたちに文化芸術を伝えようという初 期段階で久留島先生がお伽倶楽部という活動をスタートし ていますので、 この活動が日本に踊りだったり、 紙芝居だっ たり、劇だったり、そういうものに枝分かれしていたと思 います。 司会 金先生、一人が始めなければ何もできないというこ とを実践されて、二十八日に会館された久留島武彦記念館 の館長として重責を担っておられます。これからもますま すのご活躍を祈念しながら、もう一度、拍手をお願いしま す︵終了︶ 。

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