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ハティニ虐殺とベラルーシにおける戦争の記憶(越野剛)

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(1)

第Ⅱ部

物語

︱︱社会主義

戦争

記憶

一九四三年三月二二日の午後、ベラルーシの首都ミンス クから数十キロほど離れたハティニ村はドイツ軍部隊の襲 撃を受けた。村人たち全員を一軒の納屋の中に追い立てる と、 ド イ ツ 兵 は ガ ソ リ ン を ま い て 無 慈 悲 に も 建 物 に 火 を 放った。閉じ込められた人々は焼き殺され、かろうじて逃 げ出した者も機関銃の餌食となった。一四九人の村人が殺 さ れ (七 五 人 は 子 供) 、 一 人 の 男 性 と 数 人 の 子 供 だ け が 生 き残った。同日の朝、付近でドイツ軍部隊がパルチザンの 攻撃にあって指揮官を殺される事件が起きている。殺され た の は ベ ル リ ン・ オ リ ン ピ ッ ク (一 九 三 六 年) の 砲 丸 投 げ

特集1

戦争

記憶

旧ソ連 ・ 中国 ・ ベトナムを比較する

虐殺

戦争

記憶

越野

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金メダリストのハンス・ヴェルケだった。その前日にパル チザン部隊がハティニ村に宿泊していたこともあり、事件 への報復措置として村人が皆殺しにされたと考えられてい る。 ハ テ ィ ニ の 虐 殺 事 件 は、 今 日 の ベ ラ ル ー シ だ け で は な く、ロシアや旧ソ連地域でよく記憶されている。本論では 一 九 六 〇 年 代 後 半 の 戦 争 の 記 憶 化 の 時 代 に 焦 点 を 合 わ せ て、大規模なメモリアル施設の設立と作家アレシ・アダモ ヴィチによる文学作品がそれぞれ異なる方向からハティニ をめぐる記憶を創り出した経緯を分析する。ロシア・ソ連 の中央からの眼差しとは異なり、ナチスドイツとの戦争の 境界領域における特異な体験を経たローカルな記憶の特殊 性 (オ ル タ ナ テ ィ ブ) に も 目 を 向 け る。 ソ 連 崩 壊 後 の ベ ラ ルーシにおいても戦争の記憶は根強く残り、ルカシェンコ 体制のもとでの政治利用も続いている。社会主義時代から 現在への連続性と不連続性に関しても考察したい。

虐殺

記憶

形成

ソ連邦の西端に位置するベラルーシは一九四一年六月の 独ソ戦争の開始とともにナチスドイツの電撃戦によって占 領され、一九四四年七月のソ連軍による大反撃が始まるま で三年あまりも支配下におかれていた。住民の中にはパル チザンを密かに支援したり森に逃げ込んで抵抗活動に合流 す る 者 が い る 一 方 で、 対 敵 協 力 者 (コ ラ ボ レ ー タ ー) と し て占領軍の統治に協力する者もおり、同じ村の住人同士の 間でも複雑な対立と疑心暗鬼の関係を生み出すことになっ た。そのためベラルーシにおける戦争の記憶をあつかう文 芸作品には正規軍の戦いを描くだけではなく、占領下の民 間 人 の 厳 し い 生 活 や 非 正 規 軍 (パ ル チ ザ ン) の 活 躍 を 物 語 るものが多い。現在のベラルーシにおいて独ソ戦争の記憶 を代表する場といえば、ナチスドイツの奇襲攻撃を受けて 絶 望 的 な 防 衛 戦 を 展 開 し た ブ レ ス ト 要 塞 の メ モ リ ア ル (西 部 国 境 付 近) 、 パ ル チ ザ ン の 抵 抗 活 動 を 展 示 の 目 玉 と す る ミンスクの大祖国戦争博物館と並んで、民間人の犠牲者を 追悼するハティニの記念施設が何よりもまず挙げられるだ ろう。 ハティニ村の虐殺はナチスドイツがベラルーシで行った 多くの戦争犯罪の一例にすぎない。六〇〇以上の農村がハ ティニと同じように焼き払われ、住民が皆殺しにされてい る。戦時中にベラルーシが失った人口は約二二〇万人とい われており、ソ連全体の犠牲者数が約二七〇〇万人とされ るのに比べれば少ないようにも見える。しかし戦前のベラ ルーシ地域の人口が九二〇万人程度であったことを考慮す れば死者の割合は高く、住民の四分の一が失われたという

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言い方がしばしば用いられるほどである * 1 。ハティニはそう し た 戦 争 の 悲 劇 の 総 体 を 代 理 表 象 す る 場 と し て 機 能 し て い る 。 破壊された無数の村のひとつでしかなかったハティニの 名前が有名になるのは、殺戮の跡地に広大なメモリアル施 設 が 建 設 さ れ て か ら で あ る (一 九 六 九 年 オ ー プ ン) 。 戦 争 文学のジャンルで有名な作家のアレシ・アダモヴィチが果 たした役割も大きい。ハティニのメモリアルが建設される のに合わせるように、小説『ハティニ物語』 (一九七一年) を書き、その後、作家のヤンカ・ブルイリとウラジミル・ カレスニクと共にベラルーシ全土を回って集めた被害者た ち の 証 言 を『燃 え る 村 か ら き た 私』 (一 九 七 五 年) に ま と めた。映画監督エレム・クリモフはアダモヴィチの小説を もとにして、映画『行け、そして見よ (邦題:炎六二八) 』 を 撮 っ て い る (一 九 八 五 年) 。 こ れ ら の 作 品 は ベ ラ ル ー シ の農村におけるナチスの破壊行為をハティニのようなひと つの場所に特定することなく描写しており、ハティニはむ し ろ 複 数 の 戦 争 の 記 憶 を 単 一 に ま と め て 代 表 す る シ ン ボ リックな名前となっている。 ハティニは大祖国戦争の犠牲者を追悼する儀礼が開催さ れ、 ソ 連 へ の 外 交 使 節 が 訪 問 す べ き 場 所 の ひ と つ と な っ た。ソ連が戦争に勝利するために払った甚大な犠牲として ハティニは ベラルーシを位置づける。ナチスドイツという 明瞭な「敵」が設定されていることもあって、ソ連全体と してはもちろんベラルーシだけをとってもハティニ事件は 戦争の記憶を国民の政治的統合に導きやすい題材だった。 ソ連崩壊後も、ルカシェンコ大統領の主導のもとハティニ 記念施設の大規模な修復作業が行われ、二〇〇四年七月一 日にはロシア大統領プーチンとウクライナ大統領クチマが 参列して施設のリニューアルを祝う式典が開催された。ル カシェンコ大統領はソ連へのノスタルジーを公言したり、 ロシアとの「連合国家」を模索する一方で、ベラルーシが 独立を失ってプーチン体制のロシア連邦に吸収されること には強く抵抗している。ソ連とベラルーシという二つの枠 組みのどちらの文脈に置かれても肯定的なイメージを提供 するハティニの記憶は、現在のベラルーシの政治指導者に とって極めて都合のよいものと考えられる。

社会主義体制

終焉

公的

記憶

競合

他方でソ連崩壊前後の時期からベラルーシにおいてはハ ティニとは異なる位相で戦争の記憶を伝える場が現れてき た。ソ連末期のペレストロイカの時代、一九八八年六月に 考 古 学 者 ジ ャ ノ ン・ パ ジ ニ ャ ク (ロ シ ア 語 名 は ゼ ノ ン・ ポ ズ ニ ャ ク) に よ っ て、 ミ ン ス ク 郊 外 の ク ロ パ テ ィ の 森 に 無

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数の遺骨が埋められていることが明らかにされた * 2 。犠牲者 の数は七〇〇〇人という見積もりから二五万人以上という 説まで幅があるが、遺骨と一緒に出土した衣服や薬きょう などの調査のおかげで、一九三〇年代末から四〇年代初頭 にかけてソ連の秘密警察によって秘密裏に銃殺された人々 だということはほぼ確実視されている。第二次大戦の勝利 の 記 憶 や 社 会 主 義 時 代 に ノ ス タ ル ジ ー を 抱 く 世 代 の 中 に は、クロパティの殺戮は一九四一年以降ベラルーシを占領 したナチスドイツによるものだという意見もあるが、そう した主張の根拠は弱い。犠牲者の多くは一九三九年九月の 独ソ両国によるポーランド侵攻でソ連に併合された現在の ベラルーシ西部地域から連行されてきたと見られている。 ハティニの場合と対照的なことに、クロパティでは、ナ チスドイツではなく、ソ連当局によって多数のベラルーシ 人 が 殺 害 さ れ た。 し た が っ て ペ レ ス ト ロ イ カ 期 に は ベ ラ ル ー シ の ソ 連 か ら の 独 立 を 渇 望 す る 民 族 派 知 識 人 に と っ て、クロパティは政治的に大きな意味を持つ場所となった (写 真 1) 。 と り わ け 前 述 の パ ジ ニ ャ ク が 党 首 と な っ て 一 九 八八年に結成されたベラルーシ人民戦線は、ベラルーシ語 の保存・振興、チェルノブイリ被災者の救済と並んで、ク ロパティ事件の解明と追悼を主要な政治目標としていた。 ク ロ パ テ ィ の 森 に は 無 数 の 十 字 架 や 石 碑 が 建 て ら れ、 ハ ティニのようなオフィシャルな施設とは違うオルタナティ ブな記憶の場を形成した。ソ連崩壊後も、親ロシア政策を とる現ルカシェンコ体制に抵抗する野党活動家がしばしば クロパティで政治集会やデモンストレーションを行ってい る。クロパティの記憶は社会主義時代に形成された公的な 戦 争 の 記 憶 に 挑 戦 す る も の で は あ る が、 「敵」 の 対 象 を ヒ トラーからスターリンに移したというだけで、その政治的 な機能はハティニとよく似ている。クロパティとハティニ の対立はソ連崩壊後の政治的な分裂を反映しており、両者 が公的な記憶の場を競い合うものと見ることもできる。 ベラルーシの戦争災害を正しく代理表象するものとみな されてきたハティニの記憶にもいくつかの疑問符が投げか 写真1 クロパティの森 (出所)田村容子氏撮影 2013年9月

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け ら れ、 そ の 正 当 な 地 位 が 揺 る が さ れ て も い る ( Rudling 2012 ) 。 戦 時 中 に ナ チ ス が 獲 得 し た 広 大 な 占 領 地 を ド イ ツ の治安組織だけで統治するのは困難であり、現地の協力者 (コ ラ ボ レ ー タ ー) を 登 用 し た 警 察 補 助 大 隊 が 各 地 に 創 設 された。ハティニ村を襲撃した主力は第一一八大隊という 残虐なふるまいで悪名高いグループで、その構成員の多く はウクライナ人であり、ロシア人や現地のベラルーシ人も 含まれていた。ベラルーシ、とりわけウクライナではソ連 からの独立を目指す民族主義者の少なからぬ部分がナチス の協力者となったことが知られている。ハティニの虐殺を 指揮したのはウクライナ出身のグリゴリイ・ヴァシュラと いう人物で、驚いたことに戦後は正体をかくしてソ連にと どまり、一九八六年になってようやく逮捕されて死刑の判 決を受けた。虐殺の数少ない生存者は当局の調査に協力し て、襲撃者がロシア語やウクライナ語を話していたことを 証 言 し て い る し、 ヴ ァ シ ュ ラ 以 外 の 第 一 一 八 大 隊 の メ ン バーも裁判にかけられている。ゆえにウクライナ人やロシ ア人が虐殺に深く関与していた事実は知られていたはずだ が、ソ連時代には公表されることはなかった。社会主義末 期の一九九〇年になって、センセーショナルな歴史の見直 しの一環としてハティニ虐殺の実行犯についての真相がよ うやく新聞報道をにぎわすようになる。 さらに衝撃的な仮説としてしばしば語られるのは、第二 次世界大戦中にソ連領内で多数のポーランド軍将校が虐殺 された「カティンの森事件」との関連である。カティンで 見つかった遺体はクロパティと同じようにソ連の秘密警察 によって処刑されたものであるが、ソ連当局は長い間これ を ナ チ ス の 仕 業 だ と し て 認 め な か っ た。 カ テ ィ ン (ロ シ ア 語 で は カ テ ィ ニ) と 音 声 的 に 似 て い る ハ テ ィ ニ を ナ チ ス の 戦争犯罪の証拠として大きく宣伝することで、カティンの 印象を操作しようとしたのではないか。そうであるなら何 百、何千とあるベラルーシの破壊された農村の中から、わ ざわざハティニが選ばれた理由を説明することができる。 そのような政策決定の事実を示す証拠が見つかったわけで はないが、九〇年代以降この仮説はしばしば語られるよう になっている。 歴史家のイーゴリ・クズネツォフの監修により制作され た 記 録 映 画『ハ テ ィ ニ の 真 実』 (二 〇 〇 八 年) は、 第 一 一 八 大隊の果たした役割やカティンとの名前の類似に焦点を 当て、ソ連時代に確立したハティニ事件の公的記憶に疑問 を投げかけている * 3 。現在のベラルーシの少なくとも知識人 の間では戦争に関する記憶はソ連時代のように一枚岩では ない。社会主義時代との連続性を強調するルカシェンコ大 統領のもとでは、こうしたオルタナティブな言説が広く普 及することは考えにくいが、公的な記憶をめぐる競合は今 後も続くことが予想される。

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記念碑

事件

ハティニの跡地に戦争のメモリアル施設を作るという計 画が初めて文書中で立案されたのは一九六五年末にさかの ぼ る ( Адамушк о et al. 2009: 4 ) 翌 年 に は 建 設 作 業 の 着 工 が承認され、ベラルーシのナチス占領からの解放二五周年 となる一九六九年七月に完成記念式典が行われた。フルシ チ ョ フ に 替 わ る ブ レ ジ ネ フ 体 制 下 の 一 九 六 〇 年 代 後 半 に は、ソ連各地で公的空間における戦争のコメモレーション が 大 規 模 化 し て い っ た ( Tumarkin 1994: 125-157 ) 。 モ ス ク ワ の ク レ ム リ ン の そ ば に あ る 無 名 戦 士 の 墓 や ヴ ォ ル ゴ グ ラ ー ド (旧 ス タ ー リ ン グ ラ ー ド) の 巨 大 な 母 国 像 が 建 て ら れたのは一九六七年であり、ベラルーシ西端のブレスト要 塞のメモリアルが完成したのは一九七一年だった。終戦二 〇年の一九六五年には、五月九日の戦勝記念日が休日と認 められた。今日のロシアやベラルーシにおいて戦争の記憶 と結びついてイメージされる公的な時空間の多くはこの時 期に形成されたものと考えてもよい。 ハティニのメモリアル施設は個人のレベルから共和国の 規模にいたるまでベラルーシにおける戦争被害をさまざま な位相で追悼している * 4 。敷地の中心には死んだ子供を抱く 父 親 の 像 が 建 っ て お り、 「不 屈 の 人」 と 呼 ば れ る (写 真 2) 。 こ れ は 数 少 な い 生 存 者 の 一 人 ヨ シ フ・ カ ミ ン ス キ ー がモデルにされた。破壊された二六軒の家屋の跡には焼け 残ったかまどを思わせるオベリスクが置かれ、それぞれの 家 の 住 民 の 名 前 が プ レ ー ト に 記 さ れ て い る (写 真 3) 。 オ ベリスクの上に吊るされた鐘は三〇秒ごとに追悼の音を響 かせる。殺戮の場となった納屋はその屋根の形を模したモ ニュメントに姿を変えた。 本企画の前田論文で述べられているように、ソ連の戦争 記 念 碑 の 多 く は 勝 利 を 称 え る 顕 彰 を 目 的 と し て お り、 ハ テ ィ ニ の よ う な 追 悼 の メ モ リ ア ル は 少 数 派 で あ る。 ベ ラ ルーシはナチスによる長期の支配を経験しており、大量の 民間の犠牲者が出たことを戦後の政治が無視できなかった のであろう。実はメモリアルの設置が決まる前のハティニ に は「嘆 き の 母」 と い う 記 念 碑 が 建 て ら れ て い た (一 九 六 四 年、 写 真 4) ( Адамушк о et al. 2009: 4 ) と こ ろ が 巨 大 施 設の工事が決まると、女性像は取り除かれ、代わりに男性 像である「不屈の人」がメモリアルの中心に設置されるこ と に な っ た。 女 性 の イ メ ー ジ に よ っ て 追 悼 (嘆 き) の 意 味 が過剰になることが嫌われ、被害者でありながらも抵抗の 意思を明示する男性像に置き換えられたことは、戦争の記 憶政治に関するジェンダーのバランスを考慮するうえでも 興味深い。

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ここまでが第一期工事で実現した部分だが、工期の後半 ではハティニ村だけではなくベラルーシ全土の戦争の記憶 をシンボライズする多くの記念碑が加えられた。これには 当 時 の ベ ラ ル ー シ (白 ロ シ ア) の 党 第 一 書 記 で、 戦 時 中 は パルチザンの指導者でもあったピョートル・マシェロフに よ る 後 押 し が あ っ た と さ れ る ( Адамушк о et al. 2009: 5 ) ハ ティニと同様に滅ぼされた一八五の村の名前を記した墓標 が作られ、それぞれの焼け跡の土が収められた (写真5) 。 終戦後に何らかのかたちで再建された四三三の村を象徴す る「生 命 の 樹」 (写 真 6) や、 強 制 収 容 所 と 集 団 処 刑 の 場 を 示 す「記 憶 の 壁」 も 印 象 深 い。 「永 遠 の 火」 の モ ニ ュ メ ントは四人に一人が亡くなったというベラルーシ全体の犠 牲を表現しており、そのかたわらに並んで立つ三本の白樺 写真2 不屈の人 (出所)田村容子氏撮影 2013年9月 写真3 オベリスク (出所)田村容子氏撮影 2013年9月 写真4 「嘆きの母」の像と生存者ヨシ フ・カミンスキー (出所)Адамушко et al. 2009: 231

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が 生 き 残 っ た 四 分 の 三 の 住 民 を 意 味 し て い る (写 真 7) 。 ハティニのメモリアル・コンプレクスは訪れる人々が複数 の次元の集合的記憶のいずれかに自己同一化できるような 仕組みになっていると言えよう。戦火に倒れた親族や先祖 の追悼にも、失われたソ連へのノスタルジーにも、独立ベ ラルーシのナショナリズムにも応えられるように。

文学

映画

事件

アレシ・アダモヴィチはベラルーシだけでなくソ連の戦 争文学を代表する作家として広く知られている。まだ十代 中 頃 だ っ た 第 二 次 大 戦 中 に パ ル チ ザ ン 部 隊 に 加 わ っ て 戦 い、 そ の 体 験 を も と に し た 小 説『屋 根 の 下 の 戦 争』 (一 九 六 〇 年) で 作 家 と し て デ ビ ュ ー し た。 ハ テ ィ ニ の 虐 殺 を テーマにした一連の作品のほかに、ダニール・グラーニン との共著で、レニングラード包囲で極限状況に追い込まれ た市民の苦難の記憶を聞き取り調査に基づいて描いた『封 鎖 の 書 (邦 訳: 封 鎖・ 飢 餓・ 人 間) 』 (一 九 七 七 ~ 八 一 年) がよく知られている。 『ハ テ ィ ニ 物 語』 は 一 九 六 六 年 か ら 七 一 年 に か け て 書 か れ て お り、 ち ょ う ど メ モ リ ア ル の 建 設 期 間 と 重 な っ て い 写真7 三本の白樺 (出所)田村容子氏撮影 2013年9月 写真6 生命の樹 (出所)田村容子氏撮影 2013年9月 写真5 村の墓標 (出所)田村容子氏撮影 2013年9月

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る。主人公のフロリアン・ガイシュンは研究施設で勤務す る心理学者である。パルチザンの少年兵だった戦時中にフ ロリアンはハティニと同じようなナチスによる虐殺の場面 を目撃した。小説における現在は一九七〇年頃に設定され て お り、 主 人 公 は 二 五 年 ぶ り に 再 会 し た 戦 友 た ち と 一 緒 に、完成したばかりのハティニのメモリアルを訪れる。目 的地にたどりつくまでのバスの中でフロリアンは戦時中の 過 酷 な 体 験 を 思 い 出 す。 そ の 回 想 が 小 説 の 主 要 な 内 容 と なっているが、深刻なトラウマ体験の周りを迂回するかの ように主人公の意識の流れは現在と過去を往来し、複雑な 時系列を構成している。 第一の時系列はハティニに向かうバスの中ですごす現在 の時間で、物語全体の外枠になっている。第二は戦時中の 記憶で、その中心にナチスによる虐殺の目撃体験が含まれ る。第三は戦争が終わってからフロリアンが視力を失うま での時期で、ヨーロッパ旅行や結婚などの出来事が回想さ れる。第四は現在に近い時期の記憶で、教え子のボリスと かわした文明論的な対話がくりかえされる。第五の層に分 類されるのは、ナチスによる殺戮を体験した人々の証言記 録とナチスの将校による報告書である。ここだけはフロリ アンの意識から外れており、記録文書的なテキストが挿入 されている。 ちなみにアダモヴィチ自身が脚本を書いた映画版の『行 け、そして見よ』では個人の記憶の中で現在と過去を行き 来するような構成は省かれている。大人になった語り手は 登場せず、戦時中の出来事はすべて少年の直接の視点から 描き出される。その代わり、映画的な手法として興味深い のは、ペレホド村の虐殺の後、主人公がヒトラーの肖像画 を撃つシーンである。少年が銃弾を撃ち込むたびに、第二 次世界大戦やヒトラー演説などの記録映像が逆回転で映し 出され、暴力の連鎖の歴史的源泉を暴き出してトラウマを 解消しようとする。原作の小説で描かれるような個人の記 憶ではなく、公的な領域に属する歴史の映像が用いられる のが特徴的である。しかし時間がさかのぼるにつれて、ナ チス総統の家族や生い立ちなどの私的な領域が画面に映し 出され、幼児のヒトラーを映した写真を前にして主人公は もはや銃弾を撃ち込むことができない。

感覚

喪失

記憶

不連続

戦闘で負った傷が原因でフロリアンが現在の時点で視力 を失っていることは小説における記憶の描き方として興味 深い。したがって語り手は二五年ぶりに会った戦友の現在 の姿を見ることができず、代わりに思い浮かべることがで きるのは戦時中のイメージだけである。数十年を経ても視 覚的な像は何の変化も被らずに残り続ける。目に見える記

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憶の中の自己と視覚を奪われた現在の自己の意識は連続性 を失っている。語り手が過去を思い出す場面の多くは、あ たかも自分の体験とは無関係な映画を観ているかのように 描かれている。たとえば、森の中の空地で赤いバッタの群 れが雨のように降り注ぐ美しい情景が次の瞬間には爆撃の 炎に変わってしまう。幻想と現実の入り混じったこのシー ンはトラウマ体験のように何度もくりかえされる。フロリ アンの盲目の闇がヴィジュアルな記憶を投影する映画の暗 幕 に 喩 え ら れ て い る こ と も 興 味 深 い ( Адамович 1982: 29-30 ) 。 『ハ テ ィ ニ 物 語』 の 叙 述 は 基 本 的 に 語 り 手 の 一 人 称 で 進 行するが、あえてフロリアンが過去の自分を三人称で呼ぶ 場 面 が あ る。 フ リ ョ ラ (フ ロ リ ア ン の 少 年 時 代 の 愛 称) は パルチザン部隊からはぐれて、仲間の少女グラシャと二人 で森をさまよっているとき、不意に墓石の後ろに機関銃を かまえたドイツ兵がひそんでいるのに気がつく。機転をき かせたフリョラは近くに味方がいるようなふりをして危険 を逃れることができた。この出来事を回想する現在のフロ リアンは、自分の命を救ったのが自分ではない第三者の少 年 で あ っ た か の よ う な 語 り 方 を し て い る ( Адамович 1982: 49 ) 。 死 の 一 歩 手 前 の 恐 怖 の 瞬 間 を 思 い 出 す と き、 や は り 記憶の中と現在の自己の不連続が露わにされている。 過去と現在の断絶という同じような構図は記憶の中の少 年フリョラ自身もまた体験している。初めての戦闘で打撲 傷 を 負 っ た フ リ ョ ラ は 一 時 的 に 耳 が 聞 こ え な く な っ て い る。そんな状態でフリョラが少女グラシャと二人で故郷の 村 に 立 ち 寄 る と、 家 屋 が す べ て 焼 き 払 わ れ て し ま っ て い た。意識下では家族が殺されたことを分かっていながら、 少年は親しい人々の死を受け入れることができない。少女 は過酷な現実を悟らせようと努めるが、フリョラの耳は物 理的にも心理的にも真実を告げる言葉を聴くことができな い。 「彼 は 自 分 の 失 聴 の か げ に 隠 れ て い た。 そ の お か げ で 完全な真実は遠ざけられ、最後の希望が失われる瞬間が先 延 ば し さ れ た」 ( Адамович 1982: 67 ) 。 家 族 が ま だ 無 事 だ っ た過去と彼らが死んでしまった現在の間には亀裂が入り、 聴覚を失ったフリョラは記憶の中の声だけを聴いている。 興味深いことに現在の語り手が思い出す回想の中にいる少 年が、さらに過去の家族との思い出を回想する。記憶の中 の記憶という入れ子の構造になっている。一九七〇年現在 のフロリアンが戦時中の自己との断絶を視覚の喪失によっ て強調するように、回想の中のフリョラもまた戦争前の自 己との断絶を聴覚の喪失をきっかけにして体験している。 ただしフリョラ少年が過酷な事実を受け入れると同時に聴 覚を取り戻すのに対して、大人になった語り手が視覚を復 活させることはできない。それはフロリアンが戦争で負っ たトラウマ体験が容易に解決されるものではないことを意 味するだろう。

(11)

恣意的

記憶

連続性

フ ロ リ ア ン の 語 り は 決 し て 直 線 的 に 進 行 す る こ と は な く、現在と過去の間の複数の記憶を不連続に往来する。視 覚をまだ失っていなかった戦後の短い期間、彼は自分の目 で見たものをしばしば戦争の記憶に結びつける機会があっ た。たとえば大学の授業でフロリアンは古代ギリシアの彫 刻 ラ オ コ ー ン ( 写 真 8 ) を 見 て 激 し い シ ョ ッ ク を 受 け る 。 海 蛇 の 怪 物 に 巻 き つ か れ て 苦 し む ギ リ シ ア 神 話 の 人 物 像 は 、 ドイツ兵によって残酷な拷問を受けて殺されたパルチザン の 同 志 を 思 い 出 さ せ た の だ 。 そ の 仲 間 の 死 体 は 苦 し み の あ まり自ら引きずり出した腸を体に巻きつけていたという。 フ ロ リ ア ン が ラ オ コ ー ン 像 の エ ピ ソ ー ド に つ い て 、「 自 分 は か つ て 見 た こ と の あ る も の を 見 た と い う だ け の こ と だ 、 た だ し そ れ は 複 製 で は な か っ た」 ( Адамович 1982: 122 ) と 回想するのは興味深い。いわば現実の模倣である彫刻と、 戦友の生々しい身体が対比されている。殺害されたパルチ ザン兵とラオコーンのつながりは、語り手にしか理解でき ない一回性の個人的な記憶に基づいている。その連続性は きわめて私的で恣意的なものだと言える。ハティニのメモ リアル施設が戦争体験を複数のレベルの集合的記憶として 喚起するのとは対照的である。 ラオコーン像をめぐる回想シーンは小説中で最もトラウ マ 的 な 記 憶 を 物 語 る 部 分 の 中 に は さ み こ ま れ て い る。 フ リョラはペレホド村の近くでナチス兵に捕まり、村の住民 を皆殺しにする作戦に巻き込まれる。ハティニの虐殺がそ うであったように、フリョラと村人たちは納屋の中に入る よう命じられ、扉が閉じられた後で建物に火が放たれる。 トラウマ体験の核心が近づくにつれて、フロリアンの語り は本筋からそれやすくなり、記憶の中を行きつ戻りつジグ ザ グ を 描 く。 「私 の 記 憶 は た え ず 納 屋 か ら 離 れ よ う と す る。 記 憶 で さ え 長 く は そ こ に 留 ま る こ と が で き な い」 ( Адамович 1982: 122 ) と 語 り 手 自 身 が 認 め て い る。 記 憶 が 写真8 ラオコーン (出所)スパイヴィ 2000: 376。

(12)

ジャンプする行き先のひとつが先に挙げたラオコーンの場 面なのである。 ナチスの指揮官の気まぐれによって、フリョラは納屋の 外に出ることを許され、その後の惨劇の一部始終を目撃す ることになる。指揮官は奇妙なことに小さな猿を飼ってい て、無実の犠牲者が生きたまま焼かれる前でペットを愛撫 している。その顔はせわしない猿の動きにじゃまされて見 ることができない。フリョラは憎むべき敵の顔の表情を見 てやりたいという強い欲望に駆られる。ここで現在の語り 手のフロリアンは記憶の流れを中断させて、戦後に旅行し たパリのルーブル美術館での回想に切り替えてしまう。 フロリアンが美術館の一室で見たのは、死んだ騎士を修 道女たちが担いで歩く場面を彫刻で再現した中世の墓標で ある。フードで隠れて見えない老婆たちの顔が、猿の尻尾 のせいで見えないナチスの指揮官の顔に重なり、フロリア ンは「歯がないけれども満足げに歪んだ笑いが見えるにち がいない」と考えて、フードの下をのぞきたいという衝動 を 抑 え き れ な い ( Адамович 1982: 136 ) 。 二 つ の 隠 さ れ た 顔 の表情の間の連想は、語り手の私的な記憶に基づく恣意的 なものでしかない。この彫刻は有名なフィリップ・ポーの 墓 標 (写 真 9) を 指 し て い る と 思 わ れ る が、 騎 士 の 棺 を 実 際に支えているのは男性であり、ここで語り手は勘違いを していることになる。しかしフロリアンが「修道女」の隠 された顔を見て強い衝動と共にナチスの指揮官と猿を思い 出したという記憶のリアリティは疑いえない。生死にかか わるような深刻な体験を経た個人の記憶は、切れ目のない はずのところで亀裂を生じたり、一見して不連続な対象と 連想によって恣意的に結びついたりする。個人の一回性の 記憶を内的な論理で結ばれたひとつの全体として把握でき る な ら ば、 バ ラ バ ラ に 見 え る 回 想 の つ ら な り が 一 貫 性 を もった語りとして立ち現れるだろう。 語り手の記憶の連想が常に恣意的に結ばれているわけで はない。たとえば同じペレホド村の虐殺で、ナチス兵に犬 写真9 フィリップ・ポーの墓標 (出所)マール 2000: 168。

(13)

をけしかけられ、むごたらしく射殺された村人を目撃した 場面を回想しながら、フロリアンは戦後になってからベオ グラードの博物館でファシストによって処刑される直前の パルチザンの若者を映した写真を見たことを思い出す。死 に 往 く 男 の 浮 か べ る 大 胆 不 敵 な 笑 み が (そ れ は 写 真 を 通 し て い つ か 親 し い 人 が 自 分 の 姿 を 見 る こ と を 予 期 し て の も の だ と 語 り 手 は 推 察 す る) 、 英 雄 で は な く 虫 け ら の よ う に 殺 さ れるペレホド村の住民と対比させられている。語り手が思 い 浮 か べ て い る の は ユ ー ゴ ス ラ ヴ ィ ア の パ ル チ ザ ン、 ス テ ィ エ パ ン・ フ ィ リ ポ ヴ ィ チ の 有 名 な 写 真 で あ ろ う (写 真 10) こ の 連 想 は 必 ず し も 恣 意 的 な も の で は な く、 社 会 主 義圏で広く共有される戦争の集合的記憶の枠組みに当ては まるものだと考えられる。しかしながらフィリポヴィチの 写真の例とは対照的に、本来は無関係なはずのラオコーン 像やフィリップ・ポーの墓標のイメージは恣意的に、つま り極めて個人的な記憶の迷宮を介してのみ戦争体験と連結 されるのである。

集合的記憶

オフィシャルな戦史や記念碑に表現される集合的記憶か らこぼれ落ちてしまうような個人的な記憶にアダモヴィチ の小説は焦点を合わせている。しかし一回性の私的な記憶 がそれを体験した本人にとってしか意味を持ちえないもの だとしたら、本来それ以外の他者には理解不能なはずであ る。記憶の恣意的な接合や断絶をそのようなものとして私 たちが了解しえるのは、集合的記憶を論じたアルヴァック スが言うように、何らかの集団が共有する記憶の枠組みが あって初めて個人の記憶が成り立つからである * 5 。その媒介 項としては家族や隣人など顔の見える範囲で基本的に構成 されるローカルな集団を想定することができる。 その点で興味深いのはペレホド村の虐殺場面の中心に挿 入 さ れ る 証 言 記 録 で あ る。 『ハ テ ィ ニ 物 語』 は ア ダ モ ヴ ィ チの戦争体験に基づく部分もあるとはいえ基本的にはフィ クションである。したがって「史実」から持ってこられた テクストは語り手フロリアンの個人的な意識の流れという 写真10 スティエパン・フィリポヴィチ (出所)Vladimir 1990: 252

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枠組みからは逸脱している。しかし一方では作中人物であ るフロリアンの私的な記憶が、挿入された文書を通じて実 在 す る 人 々 の 私 的 な 記 憶 に 接 続 さ れ て い る と も 考 え ら れ る。ナチスの襲撃から生き残った住民の証言は大枠におい ては互いによく似ているが、具体的なディテールは驚くほ どに多様である。アダモヴィチの作品では、創作された物 語から実在の人物の証言にいたるまで個人の記憶が何度も くりかえされることで、結果としてオフィシャルなものと は次元の異なるオルタナティブな集合的記憶が提示される のではないだろうか。 た と え ば レ ヴ ィ シ チ ェ 村 の 生 存 者 ナ ジ ェ ジ ダ・ ニ ェ グ リュイの回想は示唆的である。彼女は自分の子供たちが殺 された場面を覚えていない代わりに、燃えさかる家屋から 逃げ出す際に自分がなぜか鉄鍋をいくつも抱えていたこと を は っ き り と 記 憶 し て い る ( Адамович 1982: 132 ) 。 フ ロ リ アンの語りがそうであったように、トラウマ的な記憶はし ばしば一見して瑣末な場面によって置き換えられる。ニェ グリュイはナチス親衛隊の将校が小さな猿を肩に載せてい たことを覚えている。猿が短パンを履かされていたという ディテールまでが明確に思い出される。読者はここでフロ リアンの回想に登場したナチスの指揮官を想起せずにはい られないだろう。フィクションとノンフィクションの境目 が曖昧になり、ペットを愛撫しながら殺戮を命ずる指揮官 というグロテスクな描写が、一回性の私的記憶として現実 の領域を侵犯するかのようである。 『 ハ テ ィ ニ 物 語 』 に 挿 入 さ れ た 証 言 記 録 を 延 長 す る よ う な か た ち で 、 ア ダ モ ヴ ィ チ は 同 僚 の 作 家 た ち と 共 に ベ ラ ル ー シ 全 土 で 聞 き 取 り 調 査 を 行 い 、『 燃 え る 村 か ら 来 た 私 』 ( 一 九 七 五 年 ) を 出 版 す る 。 ナ チ ス に よ る 虐 殺 を 体 験 し て 生 き 残 っ た 人 々 の 証 言 を 集 め た こ の 本 は 、 あ る 種 の オ ー ラ ル ヒ ス ト リ ー の 試 み と 言 っ て も よ い 。 石 で で き た モ ニ ュ メ ン ト に 対 比 し て 、 生 き た 言 葉 で 構 成 さ れ た オ ル タ ナ テ ィ ブ な 記 念 碑 で あ る 。 そ こ で 興 味 深 い の は 男 性 の 証 言 者 が え て し て 私 的 な 要 素 を 排 除 し て オ フ ィ シ ャ ル な 「 戦 史 」 の 枠 組 み で 語 ろ う と し が ち で あ る 一 方 で 、 女 性 の 語 り 手 の ほ う が 個 人 の 一 回性の体験を豊かに伝える能力を持っているとアダモヴィ チ 自 身 が 認 め て い る こ と で あ る ( Адамович 1983: 251 ) 。 オ ルタナティブな記憶の領域で女性の語りが優位を占めてい るという指摘は、公的な記憶の政治的操作とは対照的であ る。 ハ テ ィ ニ に 大 規 模 な メ モ リ ア ル が 建 設 さ れ る 際 に、 「嘆 き の 母」 の 女 性 像 が「不 屈 の 人」 の 男 性 像 に 置 き 換 え られたことを思い起こそう。ちなみに『燃える村から来た 私』や『封鎖の書』のオーラルヒストリーの試みは、現代 ベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの 一連の仕事にも引き継がれている。 小説の終盤でフロリアンたちの一行はハティニのメモリ

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アルに到着する。語り手はここでモニュメントに表現され た記憶と個人の戦争体験を比較している。被害を受けた村 や殺害された住民の数、四分の一の住民が死んだというお なじみの計算、ナチスの絶滅政策などといった解説が施設 のガイドである若い女性によって提供されるが、フロリア ンはこうした「客観的」な情報には距離を置いている。そ れよりも語り手は自分では見ることはできないとはいえ、 メモリアルの中心にある「不屈の人」の銅像について思い をめぐらせる。子供を抱く父親の手は銃弾によって撃ち抜 かれているはずだとフロリアンは独白する。ドイツ兵の銃 口から子供を守ろうとした親が手に傷を負ったのを何度も 目 撃 し て い た か ら で あ る。 「目 の 見 え る 人 た ち に は そ れ が 見 え て い る だ ろ う か」 ( Адамович 1982: 197 ) と い う 語 り 手 の問いかけは、モニュメントによってある種の集合的記憶 が可視化される一方で、モニュメントが建てられることで 目に見えなくなる小さな記憶が無数にありうることを示唆 している。

結論

︱︱戦争 の 記憶 か ら 原発事故 の 記憶 へ こ ん な 光 景 は 映 画 で も 見 た こ と が な か っ た 。 焼 か れ た 村 は 見 た こ と が あ る 。 人 々 が 森 へ 退 去 し た り 、 あ る い は 力 ず く で 追 い 出 さ れ て 死 ん だ り 、 苦 境 に 陥 り 、 遠 い ド イ ツ に 連 れ て 行 か れ た り し て 、 空 っ ぽ に な っ た 村 。 そ う し た 村 に は 、 記 録 映 画 で あ れ 、 芸 術 映 画 の 中 で 複 製 さ れ た も の で あ れ 、 戦 争 の 跡 、 破 壊 の 跡 が 刻 ま れ て い た も の だ 。 と こ ろ が こ こ で は 何 も か も 手 入 れ が 行 き 届 い て い る の に 、 ま る で 誰 に も 必 要 で は な く な っ たみたいなのだ ( Шамякін 2005: 156 ) 。 これはベラルーシの作家イヴァン・シャミャキンの小説 『不 吉 な 星』 (一 九 九 一 年) の 一 節 で、 チ ェ ル ノ ブ イ リ 原 発 事 故 (一 九 八 六 年) の 影 響 で 住 民 が 避 難 し て 空 っ ぽ に な っ た村を登場人物の一人が目にする場面である。このように 無人になった村の姿を第二次世界大戦で破壊された村と対 比して表現する方法は原発事故を描いた多くの文学作品に 見られる。放射能という目に見えない危険で人が住めなく なるという誰も体験したことのない未知の状況を、ナチス ドイツによる虐殺というなじみのある記憶を喚起すること で、理解可能なカテゴリーに移しかえる試みであるといえ よう。アダモヴィチの手法を受け継いだ現代の作家スヴェ トラーナ・アレクシエーヴィチは、さまざまな立場で事故 を体験した人々の証言を集めた『チェルノブイリの祈り』 を 書 い た が、 そ こ に 登 場 す る 老 人 た ち の 語 り の 多 く も ま た、原発事故の体験談だったはずのものがいつのまにか戦

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争の記憶に切れ目なくつながってしまう * 6 。アダモヴィチが 『ハ テ ィ ニ 物 語』 で 描 い た よ う に、 あ る 種 の ト ラ ウ マ 的 な 記憶は、一見して無関係な出来事であっても比較の糸口を 見出しては形を変えて何度でも思い出されるものだ。 あるいはシャミャキンが描いた登場人物のように直接の 戦争体験はない世代であっても、映画や小説の中でくりか えし再生産されることで戦争の集合的記憶はむしろ強化・ 純化されていく。今日では一千万人に満たないベラルーシ の住民のうちの二百万人あまりが程度の差はあれ放射能に 汚染された地域に住んでいると言われる。その統計そのも のが第二次世界大戦と比較されて、ベラルーシ人の「五分 の一」がチェルノブイリの被災者だという言い方がなされ るほどである。 公的な統計で示される何百万という犠牲者の数字は決し て軽視することはできないが、恣意的で意味のないように も見えるディテールを伴う個々人の記憶のひとつひとつも ま た 恣 意 的 で あ る が ゆ え に 他 に 代 え が た い 一 回 性 の メ ッ セージを伝えてくれる。ブレジネフ時代にさかんに建てら れた巨大なモニュメントの数々は、ソ連における第二次世 界大戦の記憶を犯しがたい神聖なるものとして確立させ、 停滞の時代に形骸化していく社会主義イデオロギーを補強 した。アダモヴィチの文学はそこから漏れ落ちてしまう小 さな記憶を集めてオルタナティブに提示する試みだったと 言える。 ソ 連 崩 壊 後 の ベ ラ ル ー シ に お い て は 、 社 会 主 義 時 代 の 栄 光 と 迫 害 の 記 憶 を 現 在 と ど の よ う に 接 続 す る か 、 あ る い は 断 絶 す る か と い う こ と が 新 た な ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 確 立 の た め の 問 題 に な っ て き た 。 ハ テ ィ ニ の オ フ ィ シ ャ ル な 記 憶 は ソ 連 の 勝 利 の た め に ベ ラ ル ー シ が 払 っ た 犠 牲 と し て 追 悼 と 顕 彰 の 大 き な 意 味 を 担 っ た が 、 ソ 連 が 消 滅 し た 後 で は 意 味 を 担 う 主 体 が 何 な の か が 曖 昧 に な っ て い る ( Ушакин 201 1: 209-233 ) 。 ハ ティニ虐殺の下手人がウクライナ人や地元の対敵協力者で あったことや、クロパティのようにスターリン体制による 虐殺の犠牲者がある種の対抗記憶として浮上したこともま た、 「他 者」 と し て の 敵 と 迫 害 さ れ る「自 己」 と の 線 引 き を困難にした。もしかすると顔の見えない放射能による危 機は、ハティニに代わって政治的な困難なしに戦争の記憶 を代理表象する機能を果たすのかもしれない。 ◉注 * 1 ソ 連 の 戦 死 者 数 に つ い て は

Ellman and Maksudov

( 1994 )、 ベ ラ ル ー シ に つ い て は Рак ов ( 1969 )、 Шах отьк о ( 1985 ) を 参 照した。 * 2 ク ロ パ テ ィ 事 件 を め ぐ る 調 査 と 論 争 に つ い て は Marples ( 1994 )を参照。 * 3 Прав да Ха тыни ( BelSat, 2008 ). * 4 く わ し く は 公 式 サ イ ト を 参 照 。 http://www.khatyn.by/en/

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* 5 アルヴァックス (一九八九) 。 もちろん個人の記憶があっ て 集 団 の 記 憶 が 成 り 立 つ と も 考 え る こ と は 可 能 で あ り、 両 者 は相互依存の関係にある。 * 6 ア レ ク シ エ ー ビ ッ チ(二 〇 一 一) 。 本 文 で は よ り 原 語 に 近いスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチを用いる。 ◉参考文献 ア ル ヴ ァ ッ ク ス、 モ ー リ ス(一 九 八 九) 『集 合 的 記 憶』 小 関 藤 一郎訳、行路社。 ア レ ク シ エ ー ビ ッ チ、 ス ベ ト ラ ー ナ(二 〇 一 一) 『チ ェ ル ノ ブ イ リ の 祈 り ―― 未 来 の 物 語』 岩 波 現 代 文 庫、 松 元 妙 子 訳、 岩 波書店。 ス パ イ ヴ ィ、 ナ イ ジ ェ ル(二 〇 〇 〇) 『ギ リ シ ア 美 術』 福 部 信 敏訳、岩波書店。 マ ー ル、 エ ミ ー ル(二 〇 〇 〇) 『中 世 末 期 の 図 像 学』 下 巻、 田 中仁彦他訳、国書刊行会。 Ellman, Michael and S. Maksudov ( 1994 )Soviet Death in the Great Patriotic W ar: A note. Eur ope-Asia Studies 46 ( 4 ) : 671-680. Dedijer , Vladimir ( 1990 ) The W

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