――目次――
1,
女人国の神聖婚姻,秋葉隆,Takashi AKIBA,pp.1-14.
2,
西晋代訳出の龍樹の撰著について,林屋友次郎,Tomojirō HAYASHIYA,pp.15-36.
3,
世親の唯識説における「境」の概念,梵文唯識二十論にあらはれたる『境』
に対する二種の原語と其意義,稲津紀三,Norizō INADSU,pp.37-92.
4,
宗教における秩序と自由,柳宗悦,Sōetsu RYŪ,pp.63-74.
5,
一念三千論,天台実相論の研究,石津照璽,Teruji ISHIDSU,pp.75-90.
6,
大事マハーヴァスツの研究方針とその概観,平等通昭,Tsūshō BYŌDŌ,pp.91-98.
7,
燉煌出土智度論について,本田義英,Yoshihide HONDA,pp.99-118.
8,
ルーター及宗教改革断想,大塚道光,Dōkō ŌTSUKA,pp.119-130.
9,
マヅダ教徒の埋葬について,荒木茂,Shigeru AKIRA,pp.131-140.
10,
新刊紹介,pp.1-10.
Posted in 1929(昭和4)年l・iご;
+
支那古文献に散見する女闘の記額は、大髄に於て之を賓在の女王国に関するものと、侍詮の女人
団に関するものノとに大別することを得べく、中には往々其両者の混在せる形のものも存するが、之
等の凡べてを通じて一貫すろ根本軌念は、一の巫的原理と見ることが出水よう。
即ち女‡図とは、駒巫として女王に依って統制せらる∼歴史上賓在せ−る母権政令であり.そこでは男性り極端悠ろ低位と屈辱とを見るのに封し、女人観とは、此の男性の棒めて薄き影が、多くそ
の要一で失って、女人のみを以て成立する政令、謂はゞ畢性祉曾として考へられたものである。
自分はさきに、女王図の多夫婚姻に就いて、卑見一ぞ陳べたことがあるので、弦には主として女人
囲の姉姻思想を中心として考へて見たい。バツホーフ⊥ンのアマゾソ説話の解将には今は触れない。
直ちに吾等の資料を讃まう。
古今国書集成所引染因数記に日はく、
染天舵小.石筍闇・捉査・朗絹・仇符四年謁武帝。査公甘輿諦儒語、及方城。西北無慮萬里.布 女人閉の榊畢姉姻女人囲の前聖婚姻
144 二 女人圃の紳理姉娘 女囲。以蛇名犬、男別名蛇、不咳入、而火廃、女名臣安富長、而居官軍 俗無書契、而信呪呪. 直者無他、曲者立死.神道設歌、人莫敢犯。淘至火洲之而、炎睨両之土、基土人食惰蟹馨蛇、以 辟熱苛、洲巾石火木、其戊可以焉布、炎丘・石火鼠、基毛可以栗褐.砦焚之不灼、汚以火浣。北 重苦谷之北、石山極峻道夫、四時積雪、意燭龍所属、豊無−−。西有晒泉、其水味如酒、飲之能酔。 北有珠渾.毛羽染之皆黒。両石乳海∵基水白滑如乳。三海聞方七中里 水土肥決.犬︵大9・︶鴨生 駿掲、大鳥珪人、男鹿女括、鳥自衛其女.飛行哺之、街不勝則負之、女髄膜歩.則男伶衷、所養 女、常殊能美而少詩、名人舶腰、未三十而死。有兎大知馬、毛密自長尺伶、和新大如袈、毛純盈 亦長尺除、舵之梨袈。朝廷聞其言、村費笑話、以名証妄日、都紆九洲貫鼻輪追之談耳。司従左長 史‡筑難之〓、書侍所戯女閏之東、箕荏之西、狗幽之商、先我之別種、一女鰯君、無大蛇之理、 輿公説不同付也。公日、以今所知女固有六、阿東。北海之束、石女固、天女下降、虜其君、国中 有男卑 加地恒俗。西南夷板楯之西、有女囲、基女将而月琴 女名人君、以意英名央、澄男男妾 膝.多者吾人、少老匹夫。昆明菜摘、絶後之外、石女固,以猿名犬、生男顔父、而入山谷、婁伏 夜逝、葎女則典居穴庭。南海東南、石女固.寒観惟以鬼秀夫、夫致飲食▼ 禽獣以養之。勃樺山之 西、石女囲、方面異 山出台地之水、女子浴之、両石孝、其女怒国東夫並蛇、六夷。 〓 自分は此の、染の朝廷が掌一ざ謝って笑謹し、以て誹妄と焉した、炎公の大女固の物語の中に、い
146
ろいろな暗示と示唆とを受ける。それは決して都術九州王嘉んで拾遺すろ・り談のふと笑殺し去るべ
き性質のものではない。
そこで光つ六女固の叙述を比較して見ると、そこには男女両性の存在する、而も男性の低位に封
し、女性の邁かぢる優越を示す所の、所謂女王囲に威するものと、男性の存在を所定す一ん、若しく
は少くとも人間の要に於ける男性の欠如せる所の、所謂女人囲に属するものとがある。
北海の束にあるとい天女一で以て君となす女随.西南夷板楯の西にあるといふ女人君と焉る女団は 前者に威し.西北無慮萬里に有って、男は則ち蛇と焉乙女国、昆明の東面、絶微の外に在って、偵 を以て夫となし.珪胡父に熱すといふ女固、南海の東南にあつて、鬼を以て夫とぢすといふ女国は、 共に人間の姿に於け一C男性を放ける女人国に威し、而して最後の勃仲山の西に有る女囲に至っては、其女開一軍畢げて夫並に蛇無く、技に純乎たる女人囲の理想型を見る。
以上は∴女筒の赴合成員の男女性別を吸熱としての比較であるが、更に之一竺婚姻脚係の見地から
比較して見る写らば、吾々は技に現賓の敵曾に於て見るが如き人間の男性を夫ょすム女囲と、蛇、
狼又は鬼の如き、超人問的へ㌧る者き央とする女観と、最後の勃樺山西の女囲に於けろが如く、.其女同一竺挙げて夫並に蛇無き、無婚姻の女観とを区別することが出凍る。
而して第一類の女固の婚姻が、所謂母権的多夫婚姻なることは、既に他の横合に於て述べた所で
あろが、此の第二類及び第三類の女国に見る、超人間的なるものとの.婚姻及び舞姫姻の状熊を如何 女人閏の紳聖婚姻146 に解梓すべきか。之が吾等に輿へられた雷雨の問題である。
三
此間題の解明の焉に、吾等ほ女図に於ける娯娠及び出生の観念の考察から出費する。 喪公の語る最後の女図を見るに、﹁山ムrl他の水を出し、女子之に浴して孝むあり.﹂とあるが、性交 と姫娠とが明確に聞係を持ち得へ甘かった未開人の思想に於て、凡べての現象が然る如く、姫娠及び ランドの例語曾孫引する 出生の現象も亦、まとして超自然的原因に蹄せられることは、今更♪−ト 迄もあるまい。水と姉娠との一例係に於ける吾等の文献並に侍承は決して少しとしない。 女子観、在巫成北、両女子屑水、伺之。 ︵注︶右茹池、婦人入浴、出師懐姉央。︵両港程︶ 筒状利春、姜姫有履、女子之観、洛干式水、乃娠乃字、生男則死。︵郭撲・女子閉黎︶ 扶桑束千伶異 有女観、容貌端正−色甚潔白.身倍有毛髪、長委地.萱二三月、競入水、則任娠。 ︵梁菩・東夷倦︶ 海中有女圃、無男人、或侍、英国石神井.開之耽珪子云。︵後漢書.東夷倦︶ 有美部小如者、部祇界、其国難男.照井而生。︵古今固寄集成.逮裔典四二︶ 斯くの如く、特定の水一で周り、之に浴し、之一で飲むことに依って姓娠するのみならす.翠に細井 哲窺ひ見ることに依ってすら,懐孝一で結果すると考へられた。朝鮮彿固寺石窟庵の柴水は、之を飲 女人拷の紳架婚姻 四147 めば男兄を得ると侍へられて居る。 庄に吾々は水の中に流れる姫娠の原力一で見、†ナの一面を考へ得る。然らば奉げて夫並に蛇無き 女囲の女性が、水に浴して則ち革むに何の不思議もない詳である。 但し姫娠を結果する水は、決して‖ハの俗なる水ではない。それは必ず特定の神秘なるカを待った水 でなければならぬ。蓑池と云ひ、黄水と云ひ、細井と耕し、菓水ととぢふることが之を物語って居る。 吾等の威光が温泉の効験一で知ったのも、決して其の染物化畢的知識を以てしたものでないことは、今 日民間に侍承す一っ霊泉の説話が雄将に訣別する。そこで彼女の浴した水は賓に台鹿之水なのである。 水の小に流る∼マナ、水の娘娠カが、水の精又は水の紳への費展は技には述べぢい。只吾々は多 くの水浴城鍾説話に於て、女性が水中に流動する具象の物に鰯れて孝むこと一ピ知る。 哀隼夷者、基先右婦人名沙卑 屈千坪山、茸捕魚、水中鴨沈木、岩石嘩 四億箪 十月慶子、男 十人.彼沈木化男龍云〝 ︵後決蛮.西南電停︶ 此の後に化して龍と為った水中の沈木こそは、正しく水の精に外ならぬ。然らば彼女が浴した台 地1−蛸蛇の水は、既に其中た蛇形を髄現すペぎ要件を具へて居たものと考へることは出凍ぢいだ らうか。
四
そこで杏公がカ痛一で入れて語る最初の女固の叙述を見ると、それは謂はゞ蛇夫女図とも押すべく、 女人鯛の紳聖妨姻 五148 六 女人圃の紳架婚姻 男は則ち蛇形一でとつて穴居し、女は臣妾官長となつて宮喜に居るといふから、男女はそれハ1生活 の木披を別にするのみ仁らす、男性は凡べて超人問的は姿をとつて居たものと考へられる。 斯くの如き蛇形の男性は、とりも直さす台地之水の中に既に暗示せられた水精又は水神の軌念が、 人間的男性の故知せろ女人観に於て、彼女達の夫として、従って男性として考へられたことを意味 して居るものと思はれる。 フレーザー郷﹁金枝篇﹂に徒へば、英領東部アフリカのアキクエ族に於ては、一定の河に棲む蛇一で 崇拝して、数年毎に此の蛇紳と女人.殊に虜女との婚感を行ふ。其焉に部族の竪巫は、特別な小屋 を遣らせ、蛇紳と狂信的な婦女との紳婚を司祭する。而して此神秘的な鳩胸に依って生れたと考へ られる生見は.紳の子として此紳 ︵題号︶ に捧げられるといふことである。︵T−−e GO︼︵l⊇ ︼㌻屯1・ Abridged乙・p・−㌫・︶ 俗書契無く、呪岨一で信じ、紳列を行ひ、神道敦を設けて人敢へて犯す莫き宗教的敢骨、女能く陛 歩すれば則ち禽豪となるといふ女人政治の赦卑 此の西北無慮萬里にあると考へられた巫女の観の 蛇夫観念と、前述の東部アフリカに現存する巫的赴曾の蛇紳の信仰と、一黙相通するものふ∵りと考 へられないだらうか。 ボブラスに依れば、チュクチ一族のSC⊇m昌−蔓性シ†でソ一女性化勇戦−は、各々特殊なる守 護精を有ち、それは通常超自然的なる夫−婆夫︵︼を?︼⋮㌢1己︶の役目を活すると云はれて居る。
149
而して此簑夫こそは、真の家長であつて、彼の鍵性せる妻を通して其命を僧へ、人間的なる夫は、
恐れ長みて其命を行ふといふことである。︵≠eC︼≡−ハニーeeこー・告ド︶此の東北シベリヤの巫的種族の間に存在する、超人間的なる憲夫の観念こそは、一層女囲の蛇夫
観念に接近せるものではあるまいか。而して蛇夫も亦チエクチーの憲夫の如く、巫の守護神であり、
奥の家長であると考へられないだらうか。
果して然らば、彼の猿を以て夫と為す女固の猿は、恐らくは靂夫としての猿紳であり、鬼を以て夫
と焉す女囲の鬼は、勿論超人夫としての鬼神であて1而も蛇紳が多くの場合に於て水の軸であるに封して、猿紳及鬼醐は、文宙から見ても、山の神であらう主が推察される。朝鮮の民間信仰では、山神
を牽いかめしき岩窟と考へ、虎を以て其使臣として居るが、虎其ものをも亦山君と挿し怖れて居る。
何、震央としての蛇夫・猿夫・等の観念が、蛤丁猿・等を以・て男性のトーテムとなす信仰と若〒の関
係無きかを想はしめるのであるが、今は此の貧しき資料を似て、恵ま∼なる想像を還しうすることを避ける。
たゞ溶か王疑うらくは、此の巫的一信仰の濃厚なる蛇夫女観の叙述に於て、而も其信仰習俗町記載
が比較的詳細なるにも拘はらす、何故に此の女人蛇納所婚の一瓢をば、極めて平俗的表現を以てせ
しかといふ鮎である。換言すれば、悉公は何故に蛇紳と云はすして蛇夫といつたか。而も更に男は
則ち禿と慮り、人を喋ますして穴廃すなどと説明まで施したか。
女人圃の醐聖婚姻 七150
女人圃の紳聖婚姻
八
思ふにそこには侍承の脱落もあらうし︰鼻形も想像せられるが、吾々は弦に男女両性の統合成員
を有する具象の敢骨、而も女性の慶位のための男性の劣位、従って男性存在理由の稀滞化による無
男赴骨、女人囲、の一聯の思想発展の過程を見るのである。即ち厳密に言へば、蛇夫女固の蛇夫の
観念は、根底せる蛇紳の観念といふよりは、寧ろ竿ばは紳私的ぢるものを、而して竿ばは人間の男
性を.蛇形の者の中に見た粗念であると考へる。それは謂はゞ、現賓の女王固から、理念上の女人 固への.・無男状態の完成に至る過渡の段階であると見ることが出奔よう。五
斯くて書々は、女人観に於ける無男観念の発展、及び此の無男妖鰻に於ける婚姻・姫娠・出生に関
する思想の大様を見た。然るに吾等の所謂蛇夫女陶の叙述は、軍なる女人蛇夫紳婚の思想のみには
亜きない。禿公は僻其境域に就て語り、更に女骨︵巫長︶の卵生に関して述べて居る。今其境域に関する記述を見るに、それは一見して五行思想の反映であることが分る。即ち南方に
火糾・炎幌山・火木・炎丘・火鼠あり、北方に黒谷・無日・漆海の文字を見、・西方に配泉・乳海を配するこ
とに依って、南米・北黒・西白の一方色を容易に謹むことが出水よう。
而して書々は、此深海・清泉・乳海の水が・神秘なるマナのカに満つることを見るに及び、黒谷の北、
天に造る四時桔雪の高山を以て、意ふに燭寵の居る所と悉公の考へた如く、三海は是れ蛇夫即ち蛇
紳の神海ならと想像したい。
今此の飴♭に恵まゝなる想像の賀をおさめて、清いて蒸公の語る所を赴くに、三海の聞方七育男
水土肥沃にして、大嶋駿馬を生み、大鳥人を生むといふ。例の卵生説話である。而して男死し女活
くと−弦では男性の生存を如何なる形に於ても拒否して居る。それは前逃の蛇形の男性たる蛇夫の 取念とは.一見相容れないものであり、技に此の蛇夫女固の話が、五行思想の境域的叙述の前後に、二つの要素即ち、女人蛇夫の思想と、巫女卵生の説話とが結合して居ることが見られる。
然らば此の彼の要素は、吾々に何事を語るか。卵生説話の本地が何度であるかといふ問題に今は
切れない。西北高湿tぁったといふ女国の、大鳥人を生み、男死し女清く、鳥自ら其女を衝み、飛行して之を哺む、衝むに勝へぎれば則ち之を負ひ、女能く踵歩すれば明ち骨蒙となるといふ話と、
支那西北、シペリヤのシャマニズム捕族が、現に持って居る巫親の侍承とを比較したい。 ブ
●
リヤート族の神話に依れば、最初のシ、マンは善精の宿る鷲であつて、其は悪精に封して、人間
を守護する鳥であつたが、人間.は鷲の言稟を解しないので.其言ふ所を信用しない。そこで鷲は善 特に向つて.自分に人間の言葉を輿へるか、又は一人のブリヤート人にシャマンの役目を輿へる様にと願ひ求めた。依て善精は此願を容れて、鷲と一人のブリヤート女とを結婚させて、生れた子が最
初のシャマソである。︵ヨCr邑躍、G∴せerSc︼;2巴−i訊mu肪beニg告i・・軒︼1eコJぷ︼−︷erPS.ご又、ヤクート族の神話に依ると、鷲が一人子供の霊魂を食って、東葡に飛び行き、そこには日月
m が懸り、山野が開け・草木が茂って居たが、鷲は其野中に立てる妄の未に止って、卵を生み、之
女人圃の紳聖婚如一〇 女人圃の紳聖婚姻 1闇 を解化し、焦れた子で樹下に置いて、野獣の軍曾防ぎ、之一で哺膏した。之がヤク﹂トンャマンの租先 であ一っ。︵一−こ≡ュ一¶−ノ一、●革−︶〓b−ぎtぎ≡二一ニッh一を こご主ニ・=て01義㌻ つ十 喜誓ぎこ讐ニー〓つ ︵︼e−−A⊇d仇ヨie I2−︶か﹁㌻︼︰一︷一Ⅵ葺︵一−−つつ旗㌢JぎPet3bO喜平︼誌P︶ 支那朝鮮の古典に出て氷る卯年説話は腐るほどあるが、今は奉げない。敢へて西北萬里に拘泥寸 る詳ではないが、シベリヤシャマニズム種族の代表的説話二つだけを塞げるに止める。 大 さてブリヤートの紳話に於ては、最初のシャマンは人間の女性一竺呼とし.善精の宿る鷲々父として 出生した。そこに女人窟鷲の紳嫡思想一ど見ることは云ふ迄もない。 次にヤクートの紳誘に於ては、人間の女性が姿を没して、鷲は蛋魂一ぞ食って孝み、卵生したのが 最初のシ†マンだとなって居る。そこで絃では男女性別の観念が見られす、従って婚姻の思想を放い で居一心が、先に述べたるが如く、巫的原始軌骨に於ては、船坂及び出生は、必ゃしも両性の姉婿を 必要としない。それはまとして超自然的原因に齢せられるが故に、此の無婚姻の親−I父性と母性 ぅの分化せざる ーから子供が生れるのである。 併し此の二つの説話を通じて考へられ至︼とは、その川れの出生に於ても、之一ざ結果する原因が ヤクートの鷲 蛋ハ与るものであるといふことである。即ちブリヤートの鷲は善精の宿・るものであり. は蛋魂を食へるものである。而して蛋なるものノ∼カのみにより、更に妨嬉の参奥寸ざる蛇娠及出生
163 が、婚嬢の参輿せるそれよらも、一骨原始的な観念であるとすれば、ヤクートの鷲がブ,ヤートの 鷲よ.り戊原始的でぁると見ろことが出水よう。此の意味に於て、書等の女固に見る人を生む大鳥も 亦.︰甚で原始的な観念の表現であアリ、恐らくはそれはシペリヤシ†マニズム種族の鷲と何等かの関係 王立っ牒のであるかも知れ.ない。少くともそれは世の常の鷲では儀く、婁魂を食うた鴬.蜜魂を荘 .果 厳する鷲、人間界と婁界とを飛び通ふ鷲、此意味に於て天水の蔓鷲でさへみるかも知れない。 しで然らば、さきに山台地の水を出⊥∵其中に洗るゝマナは蛇形を具へて.山又は水の持とな
♭、
一ぜ生むことを見たのである。此意味に於て、悉公の語れる六女固は、決して註妄となすべきもので はなく.所謂蛇夫女歯の話を横成する三要素の如きも、決して禿公の気まぐれな撥ぎ合せではなく、 そこには充分結合し得べき要傭としての、巫的原理の一貫して流れて居ること一で威するのである。七
終♭に謂はゞ蛇夫女観の蛇足として.朝鮮巫租の侍承を附加したい。それは巫女がC︼1i巨C打iと耕 する死者供養の巫祭に於て物語る・㌢i・字音︵鉢里公ま︶と耕する説話であつて、自分は秋夜山腹 の巫堂に、醐鏡を懸け、燈火を痙じ、古典的な巫服を纏うた老巫が、杖舐を打ち、金鈴を振b.つゝ. のどかに語る此の物語の哀調を嫁いて、例の喧嗅阻り無き巫紫の中に、斯くの如き筒音素撲の蕗楠 あるかと打悦んだ次第である。話の全部は可なら長いので、之が完全な形での螢表は、他の機骨に 女人河の謝聖婚姻女人圃の粛聖婚姻 皿 謀り、今其の大億の筋だけを述べる。
昔、或王様があつて、結婚の年廻ゎが膏くなかった焉、生れる子も生れる子も、皆女の子ばかり
で世嗣の男見一竺得ることが出水なかった。とうく七人目の女の子の生れた時に、王様は怒って之
を玉の飽に入れ、亀形の鑑を下して、東海の中に捨てた。
すると一匹の大きぢ亀が出て凍て.此幽を負ひ、之を陸上に上げた。或日揮辛が弟子を連れて、 近くに通らか∼ト1鳥韻の鳴き嗅ぐのを怪しみ、弟子にその場所をたづねさせると、件の曲があつた。由に
ると身億には蛇と虹矧が若者いて居るので、之を海水で洗ってやった。
偶々年老いセ劣姑が山上から下りて凍たので、秤今は二人に此の哀れな女の見を托した。かくて
女見は五歳になると、敢へぎるに知るといふ程で、自分の父母一ぎ探してくれと願ふ。倉姑が、﹁自分
連がお前の親だ﹂圭一一口つても承知せす、﹁天が父、地が母だ﹂と敦へてもきかない。そこで﹁彼の山
に在る木が母で、慶例温に有る竹が父だ﹂といふと.女免は毎旦二同宛この木と竹を押して居た。 倉姑は此子を二才li厨i・T各点i︵投げ槍でるの意、捨姫と詳したい︶と呼んで居たが、姫が十五の時に、都では王と王妃が大病にかゝわ、王の夢に、天から童子が降つて、﹁病気の原因は捨兄をした
貞だから.其見を探し.東海龍王と西海瀧王の柴水一で飲めば直る﹂とお告げがあつた。・155
そこで王様は、臣下に命じて、拾姓の行方を探させた。臣下は千草萬苦の末、とうく麗光のさ
す﹁太陽西﹂の村に姫を見出し、持って行った姫の産衣と王様の栂持と無名持とを澄披に、姫を納得
させ、都に連れ締った。
そ︼で親子姉妹封面の場で、王様は紳のお告げによる龍王の菓水を求めに行くことを、七人の姫
連に願った。けれども六人の姉姫連は、一人としてをんな恐ろしい所へ行かうとはしなかった。此
時末娘の捨姫は、﹁自分は王父母の養育は受けなかったが.生みの御恩一官報する虐めに私が参ります﹂といつて茸廠の上衣に鞋がけで、域の杖を持ち、薬水を容れる焉の域培を負ひ、男装して出費した。
すると途中に烏鵠が居て、道集内をして呉れた。叉坂の所に輝告が居て、・猛獣を避けるための霊
草を一枝下された。それから色々難儀をして、三千里ばか♭も行くと、向ふに身の丈け三十三尺も
ぁるといふ恐ろしい神仙が居たので、問はる∼ま∼に衆意を告げると.それには苛い難行苦行をせねばならぬといふので、姫は三年の間水を汲み、火を焚いて、婚儀の仕事をして居た。尤もその中
に此紳仙と結婚して、姫は神仙の助けを籍りることが出凍た。
ところが或る日、姫の食碗が割れ、箸が折れた。食碗の割れるのは母の死、箸の折れるのは父の
死の兆である。姫は驚き悲しみ、蒼皇として薬水−それは之迄汲んで居た水がさうであることを醐 仙に告げられた1を神仙に負はせ、二人で都に締って凍たが、王様も王妃も死んで居た。そこで持つで凍た斐水を捧げると、不思議にも、十九年目に二人とも蘇生した。王様は非常に喜んで姫に
女人声の紳聖癌鮨】56 そこで讃者の中には、此の八人の子が十大王になつたといふ様な話を以で、王第と共に都術九州 王喜んで拾遺するの談のみと、一笑に附するものもあるかも知れないが、自分は単に老巫の語る説話 の素撲閑寂の形式を愛づるのみならす、説話の頑容そのものにも少からす興味を覚ゆるものである。 勿論それは著し︿彿敬的臭味を帯び、道教の影密を受け.乃至は倍数的道徳の干捗すら蒙むった − 形迩があつて.原初の巫話そのものゝ形を痛く損じては居るが、例幾多の暗示と示唆とを吾々に奥 へ得るものであると思ふ。 併し今庄に其詳細なろ考察をぢすことは、適切な横合とも思はれないから、之を他日に譲り、弦 には軍に、朝鮮巫瑚の組も亦、女性であつて、彼女は卵生説話の慶形と見るべき、東面中に諌へる 玉向の中より生れ、恐らくは水精であらう所の亀・蛇及び蛇矧、並に日紳の使である烏及び天の川 に架け棒する鵠の紳護を受け、龍王襲水の神仙と紳姉した一心ことを指示するに止める。 女人囲の紳聖婚姻 望みの戊のを輿へると言ひ.一族の老骨を顕要の地位に就かせた。 併し姫は自分が父母の許も得す、神仙と結婚したことを塊ぢて、其罪滅ぼしに巫女と存7り、王様
から茸衣と易と鈴との三稀の巫貿を受けて、世の不幸を救ふことを決心した。之が私共巫女の先祖
であるが、姫を育てた老窟は山神となら、老姑は川の紳となつた。又姫も神仙と結婚してから、身
の丈けが二十八尺になら、其間に生れた八人の男免は十大王となつたといふことである。
.︼四師蛸描龍樹の撰著に就いて
株 屋 友 次 郎
本文は近き丼凍、私によ′ノて費衷ミ=乙.∵き﹁経駿力研究上芸官軍睾して執筆これたもーJて一ウら一一故に 本文一山中に於ける軽挙﹂性質侶値に開了ウ説明は//、∼l一で預想して乙ること一で弦に斬ってか、乙こ 一一、 法紆領の大乗毘尼殖第三一で披関するに二.菩薩悔過法二等 晋世竺法護澤一へ㌧る記事があ一¢∪之一ど ▲一 歴代三貴紀に照らすに、其代鎖の雨音竺法護わ渾琴蒜に壷軽侮過法一巻相継幣椙苧′−あ乙=而して、このこ衰紀の記事は一巳上一市六十一部三百三十五巻並是奮発及三蔵記一といネ説明み一直之
部分に存す乙もみて∴一んか∴∴ 二の記撃γ出三蔵記集に出′仁ち崇㌧るニーこは明か′ご一ウC−し又法経鋭二ニ、
の記事も竺法護に開TC限り全然出三韓記集に依って居こちの′ご争りから其出所が出三蔵記集にあ ・?−とは言を侯ハトへ㌧い所てあ一っ。更に、法綻錦と同接に暗闘綴沙門学士等に勅撰せし?これたる仁▲叫一
書琴で検す乙に本終に関本鋭中に収めら
巻′り基後り薪訪得のもの・で加へた乙もわ︶本巣た昔時︵い軽薄−り具髄的内容∴上l二作成せらHた一ちも 力であ乙から、この鋭が関本鎖に収めて居ろといふ=と︺け、隋代に於て既に関本とへ守つて居ったこ ば と一で示して居るものであ一Q。従って、法荘厳、三貿紀一い二銘共に現貫に其寧ぎ見ハトで、出二義記 西君代詔出の龍樹読者に就いて158 一六 西普代譲出の濱村漢音に就いく 集の記事一ぜ信親して登叙したものであることを知ることが出水る。故に、この経に関する限り、其 研究は直接に出三戒記集に依って研究されぢければならぢいのである。 ︵五︺ 仇て、出三蕨記集の竺法護課程の條を検するに、共有本部.即ち﹁古九十部凡二百六巻今並有其 経﹂とある詩経の中に、﹁菩薩悔過法壷闇竃謂舶憎鮎﹂として記載されて居る。而して、この竺 ︵六︶ 法護の詩経の絶てほ、造安の綜理衆終日覇及び出三減記集の研究に於て詳説さる∼如く.其中に﹁安 強無﹂﹁安藤党閥﹂等の細註一で存して居るものを除きては、常悉く造安の綜理衆綴目儲を艇承して居 るものである。従って.この常薩悔適法は現存経餞としては出三蔵記集が初出であるけれども.本 経一で竺法誰繹と査定したものは偲赫よりは寧ろ道安にあつたと云はなければならないのである。 更に、出三蔵記集のこの記事の上に注意すべきことは、﹁下庄云、出龍樹十任諭﹂といふ細註でぁ る。元凍、出三戒記集巷第二の新集経論鎌第一の内容は、安些商の詩経より、法鱒 法立の謬紅に ︵七︶ 至る迄は、倍赫自身が説明して居る如く彼れが指摘して居る七家一で除くの外は悉︿追安餓の記載を ︵八︶ 其僅赴承したものであ■るけれども、道安藤其ものは既に滑痛が薪集安公矢澤終幕の幾中に﹁安銀誠 佳、頗恨太簡、注目経名提梅雨字、且不列巻数、行間相接 云々﹂と云ふて居る如きに微†るも−造 安藤には細註は特殊のもの・で除、きては存しなかったものと考へらる∼のである。従って、出三戒記 集の諸鐙の細琵は、主として倍前の記入に係るものであつて、現に﹁安云﹂又は﹁安公云﹂と細証され て居るものすら.道安作の経序又は後記から攻粋されて居るもので追安藤自憶には存しなかったも
159
のでぁる。故に、普通の細註の場合には骨悉く借前の挿入と見なければならないのであるが、唯だ
菩薩悔過法の細証に限り﹁不準戸といふ詭明が附加されて居る食めに、倍薪自身の附加でないこ
とは明かであつて、加之.この部分が道安錬を其優に擬承して居る部分である以上、必然的にこの 下牲は道安儀の菩薩悔過法経の細誅であつたと列せられなければ宇bないのである。若し、この推 定にして誤りなしとするならば、羅什が十任毘沙婆諭を勅語する以前に於て、滞温安の如きは.賓際に十任毘嬰沙諭の一部を寧ゆ、又其れが十伴毘婆沙論の別行抄経たることを知って居たものと云
はなければならないのである。
又暇りに一歩譲って、この細註が造安に関係のなかったものとしても.本荘は借前の時代に滑は現存して居ったもので、木犀が十任毘婆沙諭の抄経たることは借面白身に確認せられて居るもので
ある上に、其評者の査定が道安に依ってなされて居るものであるといふことになれば、滞造安が十
任毘喝沙諭の別行抄経たる菩薩悔過法経を賓際に見て居ったといふことだけは絶封に勒することが
出水ないのである。
兎に角、其何れにしても、十住民婆沙諭の別行抄経である菩薩悔過準経が竺法護の手に依って評
出せられて居るといふことが、斯くの如く明かとな・つて凍た以上.龍樹の出生年代を推定する如き場合に於ても、鹿什を以て徒凍の如く寵樹の撰著の最初の侍家老として見ることが出水なくなるの
である。従って、この間題は可なり各方面に重大なる影響を典へぎれば止まないものであるから. 西菅代藤山の龍樹読者に就いて1¢0 仮令、本経の研究上第一資料と見られない彼の経銀でぁつでも.信用あり有力なる経領が本経を如
何に取扱って居るかを検して置かなければ㌍らないのである。歴代三者紀以後の経饅中有力なる経
錬としては、内典銀.謬荘園記、開元領、貞元奴等が存して居るけれども、この中、内典餞、謬経周紀は全然三茸紀を毅承して居るものであるから省略して差閑へない。又貞元坂迂開元銀を其使
紐承して居るから、開元騰が研究さる∼ならば貞元錨は之を省略しても差閑へない。この意味に於 r一て、開元叙が如何に本経を取扱って居るかを検して見たいと思ふ。
問元藤巻第二、絶括葦経錬上之二の竺法護の謬脛の催を見るに、竺法護の詩経一首七十五部三百
︵九︶︵一C︶ 五十四巻の中にはこの菩薩悔過法は除かれて居って、却って、其刑略の部に﹁菩薩悔過法恩納純増鮎﹂として掲げ、﹁貴女経以下二十七経並是別生抄経、徒大部出、今並刑之﹂といひて、賓女問慧鮭
以下の二十六経と共に、本経をば竺法護謬中より刑略して居るのである。乍併、開元銀が本経を竺
法護評中より醐略したのは、経就に牧残すペき内容経の整理の鮎に立脚し、大部中より抄出された
るものを一々経傲に記載するときは、経蔵の内容を徒らに膨大ならしむる虞あるものとなし﹁巻峡
を盈し功労を超すに﹂過ぎないものとLて刑略せられて居るものであつて、勅謬に疑ひがある食めに刑略されて居るものではないのである。
︵一一︶ この開元鉄の刑略の方針には、既に同叙の研究中に於ても指摘せらる∼であらう如く余りに経蕨の整理に重きが置かれて、詩経史上の一研究に必要なる諸鮎の看過せられて居ることである。元木、
西晋代講出の花樹撲着に就いて】81 別生抄経と云はる∼もの∼中にも二つの種類のものがあつて、一は朔梓謬三辣自身が大部の梵本中
より抄出漢詩したものであつてー他は大部の謬出せられたる後に其中から抄出せられたものである。
経蔵内容の整理といふ鮎のみよトノ云へば、両者共に大部の鮭が存すろ以上側路せられても差開へな
いものであるけれども、洋紅史上の研究から云へば、この雨着は明かに区別㌢れて居らなければ困
るのである。然るに、網元儀の洲略にはこの鮎の囁別が全然無税されて居って、梵本からの抄出も、
評出経典からの抄出も、全然同一に取扱はれて居るのである。
現に、この嘗軽侮池法軽の如きも、之を別行砂粒として刑略したのは、借赫錬の註に﹁出離樹十
住諭﹂とある所に基いたものであつて、本荘が梵本からの抄出であるか、雇什澤からの抄出である
かといふ如きことは全然研究されないで刑略されて居るのである。ヌ本経は轟きにも指摘したる如
く仁貴職以凍関本となつて居るもので、智鼻白身は原本を全然手にして居らないのであるから、従
って、彼は自身にこの判断は最初から焉し得られなかった所である。故に、彼れが本経をば茸女問
慧経等の二十六経と共に別行抄経として脚賂する場合に於ても、勅許に問題があつて竺法護澤より
別格せらる∼師子月彿本生脛や法政経基は全然別個の取扱ひをして居るのである。この意味に於て、開元僚は菩薩悔過法経をば竺法諌詩経中より別格して居るにしても、其別格は
竺法護浮を否定して居るものではないから.些二蕨記集の研究より導れれたる結論を動かすには至 らないのである。又侭りに一歩を譲っで.開元騰が本経の竺法講評たるこきぎ否定したものとして 西普代誇出の龍樹横着に就いて1¢2 二〇 丙普代諜出の税樹強者lニ就いて 見ても.東本を苦際手にして見ない智昇の意見に依つて、現本の上に判断を下したる道安や借前の 記述を動かすといふことは全然問題にならないことであると云はなければならないのである。 要之、現存経銀の記載を基礎として考察せらる∼限り、竺法護に十住毘婆沙盆の別行沙経たる菩 薩悔過法痙一巻の存して居ったといふことは絶封に動かすことの出水ない事賓と看倣されるのであ る。愛に於て、更に一歩進んで考へて見る必要のあることは、竺法護が十住毘婆沙諭を抄出するに 曹り、菩薩梅迫法経のみを抄出したもの一であるか、或は他にも十任毘婆沙諭の或る部分■ぜ抄出して 居るでぁらうかといふ鮎である。 この意味に於て、竺法護の評出経を通聾して見るに、十方俳名経、甫彿名経、諸方俳名功徳踵等 二二︶ ︵〓ニ︶︵︼円︶ の詩経の存することを見るのである。これ等三脛に就いては、出三蕨記集歴代三賓紀開元銀専管侍 へて居るものである。唯、法経銀はこの三経共に其名を侍へて居ない。何が故に之を除きたるかは 明かならざるもーこれ等の諸経は借前の時代に既に関本となつ 定に其使服従する他致方がないで透らう。 而して、此等の諸経が如何なる経であつたかといふことに就いては、今述べた如く、偲赫以凍関 本となつて居るものであるから、勿論正確に之を断言することは出来ないけれども、十方件名経と 云ひ、吉備名経と云ひ、諸方俳名功徳経といひ、英名稀上より判断して、何れも十方十彿の名就に 一関rし作るものであクで.十任一粒婆沙論の易行品十方十併章を扱期しないでは考へられぢい経のみで
1(;3 ある。殊に、菩薩悔過法経が十任毘婆沙諭に依った悔過法であつたと云はるゝ限り.十任毘婆沙諭
の易行品に依った十方偶感井の悔過法であつたと云はハ仏ければぢらないのである。従って、菩薩悔
過法紅が既に諾出されて居る限り.十方偽名に糾する部分も普然諾出されて居らなければならゐ筈である。この粘から、是等の三経は多少抄出の程度一で異にして居ったかも知れないが、大憶に於て
十代毘婆沙諭の易行品の別砂粒と見てよいものであらうと思ふ。
若し︰ごれだけの経が既に竺法護に依って謬出されて屠るものとすれば、其等の経を見て居った
辞退安の上l︰何等かの影響が輿へられて居らハ甘ければハ与らハ与い菩である。この意味に於て、慧牧の高何倍中の痘安倍を見た﹁晰縦倍尼軌範・彿法憲章催空前、一日、行香坐上線上諸法、二日、
常日六時行迫飲食唱時法、三日、布薩差使悔過法、天下寺合蓬則而従之﹂といふ記事がある。この
第三の悔過法は、琴一の常‖六時行遣欧食唱畔法と脚聯せしめて考ふるへ㌧らば、書夜六時行邁十方
彿綿布の寵樹系の悔過婆じあつたといふことが明か−=知られ得るのである。恐らく﹁常日大時行道 ︵〓ハ︶ 飲食唱時法﹂の出所は十代毘噂沙諭璽ハ、分別功徳品第十一に 開日、憤悔勅諭随喜過向.應云何作於讃夜中幾時行。答日、以右膝着地、偏鵬於右肩、合掌恭敬心、責夜各三時。
以恭敬舶故・右膝眉地偏祀有肩分掌、是事應初夜一時祀秤一切彿.甥悔軌請堕晶句中夜後夜 常亦如苑於H初分・ローーl分、=線分.亦如是、一日一夜合壁ハ時、一心念諸傭如現在前。 丙普代講出り龍掛澗著に就い/し湖 の文に依ったもーレと考ノ∴㌧けれは他に考へチうがこい一′ゴあ乙′﹀ 一丁′二 光\ こ﹁り六時行違に就いては、智度諭第七∴、い福次菩薩法、書三暗夜三時常持三時、一着旦偏 −− 覿右肩合掌鹿十方備考云々一とい■♪説明があり、ヌ傭読取普賢菩薩行法賢∵共石衆生.葦望ハ 時.趨十方彿、誘大乗経﹂の句があ一乍一而して、この三者以外には、書夜六時十方彿感秤佑過法; るものは存しへ㌧い笛である。 而して、智度論に関しては、繹邁安の時代迄に智度論が部分的にも詳出これて居・匂形跡が存しへ与 いから.道安の帰尼・︼軌範が密度論に依って居乙といふことは全然考へらHハーい所て一︵叫乙.一 ヌ、彿詮軌普賓菩薩行法経には、六時行追′りことは説か一れて居っても、十方傭名が異境的∴提げ られて居ら∵い力み二らす、本経の耕諸に宋の曇無奈多み所諾てあ′ノて、道安より時代.γ金程降っ て居ト′.又道安以前には其抄経も全然存して居ら一.㌧かつ二嘗′ご一夕ら。現に、出三薮記集第五軍 薪 1.ヽ︶ 集抄経第lには付稀が其序中に﹁其安公・り時の抄は悉′、本饅に附す、薪集′”所謹撰日左−︺如L一と 云ひて.安錨以後の抄経むみ一で掲げて居一Qもの′ごJ▲シQが、一/、み中り賓寛陸文宜王ム所抄経中∴−抄 尊貴料憤悔法︸巷が掲げられて居るに殺しても明かで上り・C。 以上の考察に従へば、道安の伶尼■力軌範三則ん基礎一で存したも一りは何度まても十任犀婆沙諭力悔 過法であつたと考へられへ㌧けitはハナっハ㌧い↓山二.、あろ二=み鮎一で考廣に置きて、天台−り法華壌法中の 十方彿の虐邦文を眺むるヘナ.つば、其れが全然十佳毘婆沙論一り十方彿名に依って居一匂−︼−′∴か知られる 丙普代諸出の籠桝撰者l二就いて
16∂ のである。この鮎・で追安侍が﹁天下寺合蓬則而徒之﹂といふ文と合せ考ふるに於ては.法華惚法中 に何故に十住毘嬰沙諭の十方偽名が取b込まれて居るかも容易に理解せられ得るのである。
これ迄の説明に依って、竺法護諦の菩薩悔過法経は勿論、十方俳名辞∵百彿名経、諸方俳名功徳
経等の詩経が何れも十任諭の別生抄経として考へらるべきものであるといふことが明瞭となつたの
であるけれども、未だ、これだけの諸絆を材料として、道安の伶屈の軌範が作られたと断定するの
は多少早計と考へらるゝのであつて、菩薩悔過法経其ものゝ中に、分別功徳品の一節が抄出されて
居ったか否かを検して見なければならないのである。又、関本になつて居る菩薩悔過法の上に之一で
検することが出水なく吐も.他に分別功徳品の別抄経が存して居らなかったか否かを検して見なければ尤らないのである。然らざれば、道安の時代には他に六時行違を侍へた経が帯出されて居らな
かったといふ理由のみに依つ・て、六時行邁に関する道安の借尼の軌範が十任毘婆沙諭に立脚したも
のであるといふことは断定出水ない筈である。
この意味に於て、竺法護の渾出経を検して見るも、前記の詩経以外には十任毘婆沙諭の抄出らし
きものを看儀さないのでぁる。乍併−竺法護の詩経中には、これ以上の十住毘婆沙諭の抄出経を看出さなくとも、長く竺法護の筆受を勤め、法護の後に於て法護と同一の資料に依り、多数の垂典を
自ら評出したる高温奥の渾経を同様に検察しないでは未だ充分といふことは出挙甘い筆じある。
へ土∩︶ 伐て.歴代三賓紀第六の西晋晶道具の謬軽を見るに、﹁初賛意菩薩行易行法壷削十任﹂﹁菩薩五法西晋代諜出の硯材我著に就いて
二三
166
西普代諾出の龍射貫著に就いて
二四
︵二一︶ 行経一巻﹂なる二経が存して居る。この二経を開元錬第十六琴 支派別行経儀第三に宛て∼見るに、 初発意菩薩行易行法経には﹁悍前額云、、出十住諭易行品L菩薩五法行経には﹁面鏡云抄、陳鉄云抄十住諭﹂と下証し、この南経共に十住民婆沙論の抄経として説明して居るのであろ。開元銀に関し
ては暫く之を後に譲り、螢長房が如何なる根故に依ってこの二経を菰道具評と決定したものである
かを検して見るに、彼れが菰道具の繹麿五十四壁ハ十六巻を列記したる後に﹁此並見在別僚所載﹂と
説明されて居るに徹して、同鋸の裁道具の詳経に関する部分は宋時計備に従ったものであることが
知られ得るのである。
︵二二︶ 元凍、この宋時別銀なる脛銀は宋時別銘の払渠中に詳説されろ如く、来賓の間に於て、剤州武菅 山の劉軋居士に依って撰集されたものと考へらる∼ものであつて、隋代迄現存し、法経鉄の撰集にも、歴代三賓紀の撰集にも最もよく参考せられたる経銀である。而して、安にいふ劉乱居士は道場
寺慧軌の数列を総承して有名なる三教七階の数列を創成したる人であつて、聖典批列の鮎に就いて
は最も信頼するに足る人である。従って、この人の経銀に存する事項は、時代的には道安藤とほ多少
降って居るが、其傭伍の鮎に於ては造安藤とは甲乙なきものと考へらる∼ものでぁる。故に、費長房が別線に依って菰道具謬と決定したものでぁるとすれば、充分上之に信屈してよいものである。
︵二日︶ 乍併.之を出三戎記集に徹して見るに、同銀は薪集積撰失謬発展藤第一に於て、﹁菩薩五法行抄一 幕﹂﹁初敬意菩薩行易行法義解踊論﹂と記し.失謬経として取扱はれて居るのみならず−この部分187
は付赫自身の蒐めた部分に係ゎ、温安藤には其経名すら記せられて居らなかったのである。前述の
如く、費長房の決定が宋時別餞に依ったものである限ト∴ 大健に於て其僅信用してよいと思ふが、
温安銃に其記載を映き、倍藤が之を矢澤として居るといふ事賓が一方に存して居るに於て、多少こ
の鮎に関しても考察を加へて置かなければならないのである。
何が故に、道安強がこの綻を侍へなかったか亡関して、道安の代餞を総承して居る些二蔵記集の
薪集経論叙を通癒して見るに、邁安領を総承した部分に就いても、倍面白身の集めた部分にも、高
邁奥の渾経は之を一部も侍へて居らないのである。温安藤.出三蕨記集が何故に黄道兵学三部も一
侍へなかったかに関する考察は後に譲り、高温具に相皆の謬経の存したことが事賓として認められ
て居るに拘らす、出三井記集が其等の中の一部も侍へて居らないといふことになれば、出三裁記集
は高邁兵渾に関する限り何等の塵考とならない経僚となるのであつて、従って、出三蕨記集にこの
二経が存しないからとて、この二経の存在を疑ふことが出水ないのである。自然、別銀を粒承した
歴代三貴紀の記載に依る他致方がないのである。
更に、法経餞及び仁寺饅を検して見るに、この二藤はこの二経の名耕すら侍へて居らないのであ
る。元凍、法経銀の編纂方針なるものは、其研究中に示されて居る如く、多数人の合議制の下に虚
時日の間に編纂せられたものであろ虐めに、資料となつた諸経藤の間に、一方に記載され一方に記
載されぎる如き場合に於て、或は各荘厳間に記載を異にして居る如き場合には、其等の異相を一々
西普代謬出の菰樹撰者lこ就いて16∋ 西普代謬出の龍樹葦着に就いて 二六 究むろだけの余裕がなく、或は之を失評となし、或は之を疑或部に入れ、更に抄経の場合の如きは 評者の明瞭なるものは之を西方賢空所撰集に牧叙しで居るも、評者の明瞭ならざるもの∼如きは全 然之を剛略して終って居るのである。従って、現在の場合の如く、抄経の評者暫研究せんとイる如 き場合には全然塵考にならないのである。叉仁寿傲は其撰者が同一でぁつた関係上、矢張法定餞が 基礎となつて居り、法経厳に登銀されざる経でも.新たに原本が訪得されて居る如き場合には、法 鮭餞になきものも追加されて居ろけれども、法経鏡にもなく、現綻も看出されて居らないものは之 を法経俵以上に追加して居ることがないから、法紅紫に其名が存しない以上仁蓄蔵にも存しないこ とは督然と云はなければならない。 笈に於て、開元錐の態度を見る必要がある。乍併、開元餞は品造兵の詩経に関しては、全然三賞 ︵∴光︶ 紀の記載哲資料として居るものであつて、同銀の高温奥の謬経の條には三軍紀が晶造兵謬として掲 げて居る五十四軽六十六巷の巾、二十四部三十六馨だけを抹乱し、除りの三十部三十巻は例の如く 別生経として別格して居るのであつて、現在問題となつて居る初発意菩薩行易行法.菩薩五行法の 二経共にこの別格の部に入れられて屑るのでぁる。然し、其剛略の理由に至っては、前の菩薩悔過 法の場合の如く.初敬意菩薩行易行法経は借赫が十任諭易行品抄土石ひ菩薩五行法経は陳叙が十仕 諭抄と云ふて居るといふこと一で埋由として居るものであつて、其れが高温奥の勅謬なるや否やの卦 lニ関しては全然観れて居らないのである。
】69 以上の諸領に封する考察一で綜合するに於ては、結局.出三蔵記集以後の経俵は何れもこの二経一ぎ 現賓に見て居るものでないから.自然、この二経に就いて研究せんとする場合には、別傲の記載を 稚承したる三茸紀の記載に従って、茹道具謬たること一で是認せざる一で得ないのである。 斯くこの二経が武道眞謬たる所以が詔明されたとしたへ与らば、次にこの二経の内容に就いて考察 を進めなければぢらない。兎に角、出三成記集及び陳僚に従へば、二鮮共に十任毘婆沙諭の別行抄 経であつたことだけは確かである。彷て、十任毘婆沙論を通観して、其経名より内容を想像して見 ろに.初賛意菩薩行易行粧は既に易行品の抄と云はれて居るものであるから.特に問題はぢいとし
で・菩薩五打法経なるものは恐らく、十任毘婆沙諭除莞第表別行抄謬であつで、H憶念誓・
︶ ヽ−′′ ︶ ︶ に恨悔、亡勧請、個随革 五娼向の玉串を説いたものであると考へらる∼のである。 ︵ ︵二七︶ ︵二八︶ この鮎に関して、三貿紀及び.開元銭の矢澤踵を見るに、初賛意菩薩常重液六時行玉串緯な一Qもの ︵二九︶ が一巻存して居る。之を出三成記集に徹して見るに、其巷筍四、新集積撰矢澤経儲第一にこの紅が 存して居る。恐らく.三賓紀の資源も出三強記集の矢澤経銀にあつたのではないかと思ふ。安に於て 托する疑問はこの踵が如何にして後藻失詩経として判定されたかといふことである。勿論、三貿紀 にせよ、開元餞にせよ、本経を後凍矢澤経と判断するには其れだけの理由を待ったものであらうけれ 巨﹂も、其判断の典披一で示して居らない虐めに、多少其虞に疑問が投げられなければハ与らハ甘いのである。 殊に、本鮭は其名禰の上より判断するに、北ハ普書夜六肺稲造に騙する部分は十住毘琴沙諭の分別 丙普代請出り硯材撰者に就いて170
二八
西晋代請出の煎樹林着に就いて
功徳品第十一、玉串に関する部分は其除菜品第十に閲したるものであつて、畢克、十任毘婆沙諭第
十及び第十一に、易行品第九を含んで居ったもの∼如くに考へらる∼のである。・従って、本鮭は前端の初賛意菩薩行易行経及び菩薩五法行経と同種類のものであつて、或は、この両者の合本に封す
る異名であつたかと考へらる∼のである。果して然bとすれば、之を後渓代失評に入れたのは判断を誤って居ったと云はなければならない。若しこの見解にして誤りなしとすれば、品造眞謬の初敬
意菩薩行易行経は、十任毘噂沙諭の易行品第九と除業品第十との抄謬であつたと考へらるゝので匂
って、梓道安の付尼の軌範三保の披り産も実に初めて見出さるゝ筈である。
乍併、猶ほ笈に一つの疑問が残って居ることは、若し、道安が初尊意菩薩行易行経や菩薩五法行
経に依って借尼の軌範を定めて居ったものとするならば、抄くも、この二経は道安の綜理衆終日儀
中に登鎖されて居らなければならなかった筈下あると考へらる∼ことである。この鮎に関する疑問を挿み乍ら、出三蕨記集を通じて道安の綜理東経目儀を通観して見るに、其代備に記載されて居る
ものは丙晋の志帝代を最後として、束普代の詩経には全然及んで居らないのである。現に、彼れ自
身が謬場に参じて、自ら其等の経序まで書いて居る諸鐙、即ち一二の例を拳ぐれば、十四谷枠婆沙、
阿毘曇人種接諒、埠一阿合等の如き皆彼れの経健から洩れて居るのである。これ等の鮎から推して
見れば、粧.れl二最も熟知されて居った経でも、丙晋り末尾、束晋の初期以後の浮出経は何等かの理由から之を記載しなかったものと見なければならない。斯くして見れば、道安餞に菰道具の評経が
載せられて居らないことも理解し得らる∼のであつで、従って、追安叙にかゎ二緯が存しないこと を以て、道安がかの二経を見て居ら完かったといふ論澤とすることは出凍ないのである。 以上の考察を綜合して考ムるに於ては、竺法誰及㌦晶迫異に、誉拝借適法鮮.十方傭名群.百俳 名経、話方偽名功徳経、初螢意昔藤村易わ法紆、彗隣五技術維等の十代毘婆沙諭の部分抄鱒∽存し て居ったといふことは絶封に疑はれなくなるのである。究に於て、更に一歩進んで考へて見る必安 のあることは、これだけの部分抄繹がある以上、其原本たる十l・E毘聾沙諭も.或は共生巷と迄は行 かなくとも、粕常搾った形に於て婿凍されて居り・はしなかったでぁらうかといふ疑ひが存するので ある。若し、この推克にして誤りなきものとすれば、或は十佳毘嘩沙諭の他の部分が謬由されて居 らないとも限らないのである。 茄道具の諸鐙中に於て、十佳論の抄出し﹂特記されて居るものは前記の二経しかないのであるけれ ども、今度は斯くの如き軽倣の上の紳註に頼らないで、改め十任毘琴沙諭の内容組織一宮念頭に止め て置いて、晶道具の帯出霹を通観し、其中から十代毘嘩沙諭の別行抄出と認めら一りゝものを摘出し て見たいと思ふのである。勿論、この方ほは前述の一如く竺法話及び晶造兵に十代毘婆沙諭の部分詳 が存Lて居ったといふことが碓覆されて居らない以前にありては、誤りに陥り易い極めて危険なる 方法と考へらる∼ものである。乍併、現在に於ては、十代毘準沙諭が竺法謹に依って購衆されて居 171 ることが確認せられ、今は其渾出の粍度一で考察せんとする迄に進んで居るのであるから.このカ法 西普代隷出の龍樹燕著に就いて
173
が用〃られたとしても、大なる危険は轟いのであらうと思ふ。
︵三〇︶ この意味に於て、歴代三芳紀の高温真の詩経を検するに、前掲の二麿の地主十任毘嬰沙諭の別行抄経と認めらるゝものに、菩薩懐侮法一巻、菩薩本願行品経一巻、菩薩初費心時庄一暮、菩薩六
法行経︵菩薩追行六法経といふものあるも恐らく向本異名ならん︶一筆書薩布施儀悔法遠別瑠菩薩呵家造脛一軍 菩薩導示行経一筆 書薩初地経一筆 書薩所行四法経一巻の九部丸谷を見出す
ことが出水るのである。而して、これ等の諸鮭は骨前の二経と同様に別儀の記載に掠って居る牒の
︵三二︶ であつて、出三戒記集はこの中の菩薩所行四法経を除いて、悉く薪集積撰矢澤難経鎖に記載し、又 ︵三二︶ 開元餞は菩薩初地軽.菩薩所行四法、菩薩懐偉法の三部三春を菰道具詩経二十四部三十六巻の中に入れ、其余の六部六巷を例に依り別行抄経と⊥て剛略して居るのである。然し、これ等の絶てが大
偲に於て高邁眞諸と見られなければならぬことは、前l一鮭の場合と同棲である。而して、この中、菩薩懐悔法は竺法護の菩薩悔過法経の異本であつて、法護繹に多少の修正を加
へたものであらう。又菩薩六法行経は菩薩行の五事の第言かる憶念稀名を憶念と碑名とに分って
救へて六法と見たもので、恐らく、菩薩五法行経の岡本異名のものと考へらるゝ㍑ので争b。従って、麦に新しく問毘と学匂ものは、菩薩本願行品経、菩薩初蓉心時経、菩薩布施儀悔法、菩薩呵家
過鱒 菩薩導示行軽.菩薩初地軽.菩薩四法行経の七経でぁる。是等を十住民婆沙諭の内容に配管して見るし、菩薩初地経は入初時品第二、地軸品第三、浮地品
声音代繹出の龍樹環着に就いく1丁こj
各町の別行抄出と見られ、菩薩本願行口仰終に繹願品第五、菩薩初螢暗躍は菩提心品第六、調伏品第七
阿惟越相品第八の三晶、菩薩布施倣悔法は分別布施品第二十、分別法施品第二十一、締命和品第二十
二の一二品、菩薩呵家過経は知家過忠品第十六、薯膳導示品は入寺品第七、共行晶第十人、菩薩四法行経
は四法品第十九の各別行砂粒と考へらる∼ものである。この中菩薩布施惚悔法の下註に﹁出決定毘 尼﹂と細証されて居るも、是れ恐らく.分別法施品の中に決定毘月経を引用して﹁決定王経中﹂又は﹁決定王大乗経中﹂としての説明があ一〇鶉のに決定蛇月餅より出でしも山と誤解したものであらう。
以上粥げたる竺法護及び品道具の謬鮮を十佳毘婆沙ぬの各‖=‖の埴序に配督して見ろならば. 品 名 入朝地品第二 地相品第三 浄地晶相即四 梓願品第五 菩提心品罪六 調伏心品妨七 阿椎招致用品 両群代諸州の花樹撒茸に就いて 第八甘和地紆
菩薩本願わ晶挿
﹁⋮
菩薩初黎心特種 薩瞑適法捉 俳名椎 名 竺 珪 藻 詩 ﹂同 三︼ 求 道 艮 詩 一同 話 者 名 同174
と云ふ如き関係を示し、十代毘噂沙諭中、初地の作文た一三一十七‖⋮の中、茄戎‖⋮′で除きて、第二ロ⋮
より第十九ロ⋮迄大髄に於て請出されて居る如く見ゆるのである。
更に、歴代三賓紀に依り、後漢代よ・り束普代に至る問の矢澤緯銀を虚して見るに、稜淀代矢澤辟
に、菩蒔慨悔法、初発意菩薩常六時行玉串緯︵既に前掲︶、賢弟五戒紆、十代婆沙羅等のものがあ・り、又祝典代矢澤紆中には阿惟越致菩薩戒経があ巨、更に又束晋代失詩経中には十方彿名絆、驚老五戒
入苛品第十七 北ハわ品第十八 四法品第十九 知家過忠品第十六 苦薩呵家過繹 五戒品第十五 持命相品第十四 分別法施品第十三 分別布施品第十二 分別功徳品第十一 険業品第十−t−・ 易行品第九 西普代諾出の龍樹撰者に就いて∵
菩薩五弦行経 初発意菩薩行易行法綻 菩薩像帖法 諸方俳名功徳経 可憐名経 菩薩導示行品紀 菩薩四法行程 苫醗布施俄悔法 戒絆 五戒稚 ︵誓蟻㌫柏縄闇言ハ露謂︶ 轟 道 風 諸 同 三二 竺 法 護 諸 岡 轟 道 嵐 諮 問 同 同175
経、優婆塞宜戒痙等のものが争わ。而して是等のものは揖三蔵記集失謬経線にも存して居るもの亡
君し是等の諸鮭を重きに初敬意幸踵常六時行五番絆一ギ取扱ったと同様の意味に於て、両晋代並に束
普代の失評に威するものと見るならば、誉薩俄廃法及十方俳名辟は法護評の菩薩悔過法繹及び十方
彿名節と岡本と考へらるヽものでぁり、又貿老五戒躍及び優嘩塞五戒綜は、恐らく、晶道具の謬出
に係るもので、十代毘嘩抄諭の五戒n=‖第十五の抄出ではなかったであらうかと考へらる∼。若し、然りと寸れば、茹造兵の手に依って十住毘噂沙論は其第二品より第十九品に至盲迄合評されて層や
のであつて、従って、十什毘婆沙緯仁るも・のも、.之一ピ後挟代失謬経として見ることは無理であるけれども、両晋代の繹出緯としてはこの名車持った辟があつても無理とは考へられないのである。
勿論、以上の配雷は何れも現在既に関本となつて居る諸種の上に下された推定であるから、其全
部が適確に配常されて居るといふことは断定されハ甘い所であるけれども.抄くとも、品濃臭が十化 毘婆沙諭の梵本一里肋持して居ったとすれば、前記諸鐙が抄出された大部の群が索め得られない限り.基等を十代毘噂抄諭より洗出したもの之見ることは決して無理ではハ甘いと思ふ。
乍併、今一つ安で考へて置かなければへ㌧らぬことは、是等の詩経を晶道具謬と判定した別備にせ
よ、又北ハ等を矢澤繹中に入れた出三蔵記集にせよ、何れも罪什が十住見嘩細論を和讃したる以後の
絆儲であるから.或は羅什が十代毘嘩沙論を繹出したる彼の抄経一ぜ姑道具許なら、或は細管古い時代の矢澤粁へ仏トノと誤って考へて居るものかも知れないといふことである。
丙普代謂出の龍樹藻草に就いて178
三田
西晋代講出の龍樹横着に如いて
この鮎に関しては穏極的には、竺法護、轟道具に十住毘婆沙諭の抄経があつたとしても、不自然
に考へられないといムこと∼、又消極的には是等の詩経は尿什謬十任毘嘩沙諭よりの抄出とは到底見ることの出凍ないものでぁるといふことのこの二部から確めて置きたいと思ふので一のる。積極的
の観察としては、竺法護及び高温具には華厳支洗鮮、殊に十地品︵又は紆︶に関するものが甚だ多い
のであるから.若し、この時代に十代毘婆沙諭が成立さへして居れば、其普時其れに関する唯一の群論として先つ斬らされなければならなかった苦であると思ふ。又第二に滑極的方面から考察して、
元水羅什の評経は従前の謬経と臭って、特殊の官制と設備の下に官辞せられたるものでぁつて、従
前の浮出終に宕出さる∼政略を除去し.先つ谷頭に経罵を交じ、評者を明記して措焉せられ、又勅許に際しては、品を分ち、其品名を撰する場合にも細心の注意が梯はれて居るのであるから、若し、
雁什辞の大部から前記詩経が抄出されたものとしたらば、今少しく、農什謬の十任毘婆沙諭の抄出
たることを知ら得らるゝ如、原経の品名に接近した経題が撰ばれて居る竿でゐ一心−と 思ふのであ乙。 殊に.岡本異名の経が秒くない如き、撹綻名の確定して居らなかったことを示すものであつて、是専の鮎から推定するもどうしても雇什評以後のものとは見ることの出水ないものである。
以上の研究により導かれたろ結論として、竺法謹及び菰道具に依って、十桂毘婆沙諭の初地の秤
文の中、殆んど二十品に近いものが西晋代に於て既に評出されて居ったといふことを確認されぢけ
ればならないのである。而して其梵本が何時支那に蔚うされて居ったかといふ部になると∵冗凍、
177 高邁具は初めから法護の筆受を勤め、自ら其礪謬をなすに至った後も、主として法護購衆の梵本に 依って居るのであろから、十倍毘嘩沙諭に就いても法護購凍の原本に依ったものと云はなければな らないのである。殊に、竺法謹白身にも伺諭の部分抄澤がある以上斯く見ることが最も正しい見方 であると思ふ。然る限ら.十件掩嘩沙諭り原本が支那に購乗せられた時期は、竺法護が長安に凍っ た丙晋り武帝の泰始元年︵西紀二六五年︶迄遡っつ考へられなければ誓っ炉心串に学芸である。 斯くの如く、竺法護の時に既に支那に十住民婆沙諭が懲らされて居ったといふことが碓記された 場合に、何一府考へて見なければならないことは奥の支諌の渾握中に悔過法経一巻があることであ ︵三三︶ る。この支謙罪の悔過法経を最も古く侍へて居るものは矢張り出三蕨記集で﹂のつて、加之造安の綜 理衆綴目鎖を舵承した部分上存して居るものでぁる。法鮮叙には之一ぎ映いて居るけれども、歴代三 ︵一ニ︻︶二二苓︶ 貰紀.開元領等は之を承撤して居るもので、兎に角、支謙謬にこの鮭の存して居ったことだけは認 めなければならないものである。 乍併、この支謙評の悔過法経は仁寺敏に其名さへ掲げて居らない位であるから、隋代に於て既に 関本と竺て居ったことは明かであつて.開元銀ヌ関本として記載して居るものでるから.従つ で、井内容の如きは全然解って居らへ仏いものである。唯、出三蕨記集の本脛に関する詮明を見るに、 ﹁偉過法竺堪削箭折㌘とあつて、十方彿成井の悔過法であつたことを知ることば出水るのであ る。而して.現存して居る各種の悔過法を通観Lで見るに.十方彿を奉げたものは十任毘婆沙論の 西普代謬出り龍樹撰者lニ競いて
lT8 両津代薄日lの龍耐用潜lこ就いて 三六 十方俳名輩以外に存して㍍■・リハ甘いのでぁるから、若し、この支謙の悔過法に十方俳名が掲げられて 居ったとすれば、之も常然十代毘婆沙諭に依ったものと云はれへ甘ければならない。而して、若又、 支託の梅迫法絆が十代毘噂沙諭に依ったものであろといふこと一ぞ許し得るものとするに於ては、三 軍紀が十方偽名絆や、初螢意葦薩常六時行五事紅の如きむ後渓代矢澤綻に入れて居るといふことも、 強ち不和皆Sことゝ列せられへ.けくへ与ろで今り。乍併、支託の悔過法其ものが、前述め如′㌧ 質物も 存しなけ′れば、北ハ内容も推測す乙に妄言品ハ披も存しh㌧いのであるから、現在の所に於ては、暫く斯 る推定を㍍し得ることも出水るといふ=とを暗示して置しに止め、要論問題量しては之ノで考慮しな いことにして置きたいと田心ふ。 訟︵こ 法群銀結一−C九む ︵ニ︶ 三賀緑致六円∵有 ︵四︶ 犬㍍東京大敵愛専一朝種目銀鈴二三ご.右 三 宝 竺 ? つ ▲−_ ・一 −tこ 三三 ノー ) ) ) 、J ) ︵八︶ ︵七︶ 三蔵紀精一八打 ︵一〇︶ 閑元錦絵四︰七左ヨリ山入墨︵一こ 門二∵一 ■t 暑八二¶有 二一蹴詑結一二七左 ﹁緯線の研究﹂参照 三空相致六三高七 三戚記芳一一、わ立 間元銀綴四〓右 ︵完︶ ︵一七︶ ︵ニ已 ︵毒︶ ︵l︰八︶ ︵早〇 二⋮戯詑精一三左 ﹁綽銀の研究﹂参照 開元躇結四一h︼左 大智度論弟七祐一Mへ左 三棄記致六円︻左 二兢記結一︰八右 開元銀鉱四七言 開元鎗結四宕左 ハニこ 開元銀紙五三石 ︵二き 開元銀紙甲二者 ︵完︶ 三蔵記紀一一八左 ︵三︶ 三蔵記浩一人へ右 ︵ニ︶ ﹁群銀の研究中﹂中法群銀の研究費絹 ︵山ハ︶ 繹錬り刑究参照 ︵三 三穀託結一㌔ ︵九︶ 開元銀紙凹一﹃左ヨリ︰㌔†デ再 ︵三︶ ︵三︶ 三絃詑浩一七左 ︵一六︶ ︵一五︶ 需暦僧致二ニ㌔ ︵一入︶ 釈尊賢革醜行法繹及川七ニ︰わ ︵∴﹁︶ Mエ∬聖Ⅱ“[ ∈こ︶ ︵語︶ 三棄紀致六円∵れヨサ 十代毘婆沙論瑞軒六 三璧記致六一∩山.左 十砧比婆沙論者八二﹁右 三璧記致六門門左 三空紀敦・至︼▲正