• 検索結果がありません。

『宗教研究』168号(35巻1輯)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』168号(35巻1輯)"

Copied!
129
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

論文

1,

宗教学方法論における最近の問題, 田丸徳善, Recent Trends in the Methodology of Religious Studies,

Noriyoshi TAMARU, pp.1-16.

2,

カントの理性信仰について:知的内的直観を中心に, 堀越知巳, On the Kantian “rational Belief”:

concerning with the intellectual inner Intuition, Tomomi HORIKOSHI, pp.17-34.

3,

古代中国の地母神に関する一考察, 池田末利, A Consideration of Earth Mother of Ancient China,

Suetoshi IKEDA, pp.35-50.

4,

仏教十戒思想の中国的受容, 吉岡義豊, Acceptance of Thought of the ten Buddhist Precepts by Chinese

People, Yoshitoyo YOSHIOKA, pp.51-72.

5,

Śvetāśvatara Upaniṣad VI-21, 原実, Minoru HARA, pp.98-73.

展望

6,

アメリカの宗教心理学, 上田賢治, pp.99-105.

書評

7,

西谷啓治著『宗教とは何か』, 玉城康四郎, pp.106-108.

8, Carl Michalson, Japanese Contribution to Christian Theology,

鈴木一郎, pp.108-111.

9,

神田秀夫著『古事記の構造』, 鎌田純一, pp.111-114.

(2)

、ノ

ノ ・

鮫ナ,ト

.@

宗教学方法論における

最近の問題

っ も 立 向 の

ナ, @ の の 宙

今日われわれが宗教学と呼ぶ学問が、マックス ・ミュラーによってその基礎をおかれたものであ ることは、余りに も よく 知られている。一八 セ 0 年にⅠコ下。 由仁痒 ∼ 0 コ ︵ 0 臼のの住の巳の oh オキ四 0 巳を出して、々 小 教の客観的、実証的

宗教学万法論における最近

問題

九 ょ

%

毒口

(3)

この ょう に、その性格や任務に関して見解の相 違 が存することは、今日の宗教学がおかれている 状況のいちじるし 2 ぃ 特徴である よう に思われる。一方ではそれを 神学に下属する学科とする議論が未だにもとを 立 たないと共に、またの 他方ではその中立性を強調して社会科学との 連 関を主張する立場が有力になってきている。そし てこのことは実際面 において、大学その他の研究・教育機関の枠の 中 で宗教学をどこに位置づけるか、という問題と もつながってくる。 筆者の印象では、わが国の宗教学はこの点で、 一 般 に末だかなり神学への依存 皮 が高い欧米のそ れに比して、独自の 性格をもっているように思われる。何れにせよ 、今日の宗教学が当面する重要な問題の一 つは、 神学︵教学︶、人文 科学、社会科学の間で、またそのなかで、その 位置を如何に決定するか、ということであろう。 おそらく右のような状況に刺戟されてであろう か 、最近数多くの研究者の間で方法論的反省の気 運 が見られるのは 注目に価する。その成果の目ぼしいものを挙げ て見るならば、 ヮソハ ﹁比較宗教学し︵ 毛舶臼 づゴ の 00 コロリハ韓由ぺの ︵ の庁蛋 ⅠⅡ 0 味方 0 ︶ ドむい 0 臣 s. 卍ゆ卸 ㏄︶、エリアーデ 共編﹁宗教学方法論集﹂︵ 陛 ・与田

如木∼︵ 簿 ぬぴ毛 p@q ギの ∼ * ∼の︵ 0 ﹁ ぺ 0 Ⅰ 勾缶田拍 ∼ 0 コの 1 内ののが ぺ の山ロ ヴ 円の︵すの 印 0-0 ㎎さいのいの︶ などがあり、また必ずしも新しいとは言えない が ファン・デル・ レ ウ の上述の書︵せ い コロのⅡⅠのの 偉毛 @ ㌧ ダぎ 0 日紐 0- 0 哩の & 浅知 由円甑 0 とゆ b.. お ふ︶も 、 右の諸労作 と 連関して重要な方 法論的論述を含んでいる。さらに昨年九月、 マ | ルブルクにおける第十回国際宗教学宗教史会議 0 席上、プレー ヵ| の ﹁宗教学の将来の課題﹂と題する論説をめぐ って熱心な討論がかわされたことも、こうした 傾 向 の一つの 表 われと 号目えよス 。︵ l フ ︶ 宗教学の方法に関するさまざまの問題を包括的 に 取りあつか ぅ ことは、もちろんこの小論の能く するところではな いし、また筆者の意図もそこに は ない。ここで はむしろ、右にあげたような諸学者の論議を通じ て 、その焦点になっ ていると思われる一つの方法論上の問題を取上 げ 、いささか検討を加えるに止めたい。かんたん に且 ミロえば、それは 宗 教学における﹁理解﹂の問題である。この問題 ほしかし、或る意味では、われわれの学問にとっ て 決定的重要性をも

(4)

圧面

近代の黎明をなした啓蒙主義の時代にあ

っても、状況はほぼ同じようなものであった。

統的

宗教︵キリスト教︶

接の支配

が弱まり、未知の民族や文化との

触が

開かれたことによって知的

視圏

が拡大した

結果、ひとびとは次第に

になった。そしてさらに個々の歴史的め

不 教の基礎にある普遍的な

宗教、いわゆる﹁自然宗教﹂︵

ぉ鼠

0

ロ pH

口 ︵

回を考える

よう

になったのである。この一連

運動は、ふつり﹁

理神

% お論

多分に思弁的な性格のつよいものであったが

﹂の名で知られ、ロック、ハーバート、

3@ ( 3) リ シヤ、いわゆるギリシャ啓蒙 期が、 正にそう した時代であった,この点にのみ注目するならば 、宗教学の起源を遠 題 咄 くこの時代のギリシャの思想家の間にもとめ ることも、あながち不可能ではなかろう。 -2

入 学

に学

な 意 来る 制約 前史 る 問 も 図 。 取 を 界 に に 性 の を こ 扱 持 の 述

先 の

と も の い っ 常 べ 立 問 い っ こ と て 識 た っ 題 う て と い い に よ て と こ な いよ う る な う

さ 伊 Ⅱ こ っ に 宗 切 が, ね え と 或 て 、 二 教 り で る ば は る

か 近

単 離

、と

異 す

意味

る。

い っ で で し 科 ま い 何 う た に は か 学 で も

場 宗 神 、 し 的 の の な

合 教 学 宗

凡 な 歩 だ ら に 的 的 教 そ 宗 み か そ

見任

な ら れ ら 統 惟 の の 研 ご で は れ , の 成 学 究 く ち " る 集 わ 上 間 が

硯 田 く に の だ 象 の の 当 揚 り ま

。 教

か こ 学 で 接 な っ 合 た ほ う が あ 触 か て に い 回 し ど る の で 重 も て 顧 た こ 。 結 も 要 そ ッ

す 現

西果

洋 "

萌役でス

" な

うク

存 て 、 精 そ

芽割

あ と

間 観

神 れ 的 を る ミ が 題 性 史 ぞ な 果 よ 」 心 状 な の れ 形 し ラ ラ 七 の で た に l

要 況

も と

0

ち に 比 に 、 の 思 、 白 5

例 駁

少 敵 時

わ 釆

る を ・ よ く 密 Ⅰ 犬 れ を か 取 批 と に か る 理 と る 半 Ⅱ 行 も 言 ら 。 解 い

ながわ一え

れっ

ばま

始 6 間 ば 護 て の 、 る 、 教 い 動 宗 と

ため

紀 的 た 機 教 い L" 」

-

一 ニ 元 な と で 単 3 は い 前 い い あ も こ 大 し ぅ る か と 、 換 ま , え 世 は こ 宗 な は

ず れ

紀批

と 教 り 本 は の 判 が の 長 す ギ 的 山 拙 い で

題 そ

に の

(5)

走 する 人 ぎな要因であることは疑えない。 しかし近代における宗教学の成立を可能にした のは、護教ないし伝道というような実践的目的か らの解放という & 局 味 でのごの﹁客観性﹂のみではなかった。それ と 並んで、またそれと密接につながりつつ、大 き な 役割を果している もう一つの要因がある。それはおそらく﹁経験 的 ﹂または﹁記述的﹂要素と呼ぶことができよう 。先にあげた啓蒙 期 の 思想家たちは、距離を保っ客観的な視点を導 入することによって、宗教学への道を準備はした が、 併しその方法は 主として思弁的・哲学的な色彩がつよく、宗教 史の細かな事実の研究にまでは進まなかった。 そ してこれこそ正に 、 マッタス・ミュラー以後の学者が主として開拓し た 領域である。新しくひらかれた学問的分野 へ の 関心にかられて、 人々は言語学的、歴史的、人類学的、心理学的、 社会学的等、ほとんど考えうる限りの方法を援 用 して、過去・現在

ないし

れる。

い こ う かでの のみな このこ 宗教の

とに、

即 れ

議広

、特

すでに

)に

で、

4

特定の 外 その するか

つ、

か ら く て ら れ て こ い の な は の る

で が と 宗 な

が一い

・寡言

@ ま

この に

とれ

成し

に当

、宗教

般 とい 換えれ 特 ある

語は、

って不 は以下

学う

概、

定研可

突矢

にっ

述て

可 念 そ 宗 者 の べ 働

らいて

性をの枠が 能 もそも 教の伝 が自ら 意味を るよ

決 前

の も う い

た 右 こ の と よ が ぅ わ に か

る て

@

こ ろ @ し と で

宗 家

教 主

営 養

の の

成 思

立 想

そ 家

の た こ ち と もま

を 遊

跡 代

づ 宗

げ 数

の の が ・ 先 白 馬 区

約 音

で で は あ

よ、

り Ⅱ か ま

らた

逆 ヲ し イ ブ ヒ

れ 宗

以 教

七 半

細 は

部 啓

に 蒙

主義

立入 る の こ ・ 子 と で、

は あ

( 4 )

︵ 3 ︶ ればならない。そしてマックス・ミュラーも 、或 る 意味で、これらの思想家の系列を引くものと 見ることができる。 4

浅払

"

j

土 ニ ・ 亡

@@

l."

:@

@

(6)

の 宗教の事実の研究に伺った。例えば宗教史に

お け るいわゆる宗教史学派、民族学における

プ レ |ザ

Ⅱボ

アズ、社

の け

(7)

それが、この時期の一般的精神状況と無関係で ないことも、指摘しなければならない。この点で 、現象学を創始した フッサールと、とくに解釈学の理論をぎづいた @ アイ ルタイの影響とは、明らかにたどることがで き る 。 ﹁理解﹂ということはしかし、厳密に舌口えば、 一 つの甚だ困難な問題を含んでいる。それが信仰 ないし宗教体験と いかにつながるかという問題がそれである。 解 釈学 のとく所にしたがえば、あるものを理解する ためには、それをつ き 放して眺めるのみでなく、共感的に受容しな ければならない。この場合で言 ,ぇば、 ダ イ ナミッ ク な生の機能として の 宗教を理解するためには、われわれは﹁感情移 入 ﹂によってそれを﹁追体験﹂しなければならな い 。しかしこれは、 或る宗教の理解のためには、研究者自身が信仰 をもつ必要がある、ということにならないだろう か 。事実こうした 主 張は 、今日もしばしば一部の神学者の側から 聞 かれるし、その声はむしろ強まってぎたと思われ るふしさえある。 例 えば クレーマーは、神学のみが﹁精神の自由と な 平な理解﹂や﹁先入見にとらわれない批判と評 価 ﹂を生むことが 出 来 ると い,フ 。︵ 8 ︶同趣旨の発言は、さらにいくらで も 拾い集められよ う 。こうした主張は結局、つき つめて行けば、宗教 は 内側からしか理解できないということになる が、 若しそうだとすれば、宗教を客観的に取りあ つかぅ 宗教学は否定 されるか、またはせいぜい神学の補助科学に甘 んずることを余儀なくされる。このような 議ぁ 謂 の 拾頭は 、歴史的に は 、第一次大戦後のヨーロッパおよび一九三 0 年代からのアメリカにおける、いわかる神学ルネ ッ サンスの一端であ ︵ 9 ︶ り 、さきに見た 25 に宗教学の成立を可能にし た 啓蒙 期 いらいの自由主義への、一つの反動とみ ることが出来る。 こ の 一連の思想が、宗教は﹁究極的関心﹂の事柄 であって、それに対しては中立の立場はあり得な いことを力説した キ エ ル ケ ゴールの﹁実存﹂的思惟に、その源を発す るものであることは よ く知られている。宗教が 当事者にとって究極 的な意味をもっという洞察は正しい。併しわれ われは、右の立場からの主張をそのまま承認する ことはできない。何 故 ならそれは、極端におし進めると き 、宗教学 の 可能性の否定へ み ちびかざるをえないからであ る 。 <6 ) 6

(8)

これまでの簡単なスケッチによって、今日の仝

不 教学がおかれている一般的な状況は、いくらか

らかにされたかと

。この分析はまた同時に、この学科の性格

方法とを考える場合、ぜひとも考慮に入れな

ればならない

っか

契機を見つげ出すことをも、目的とするもの

であった。繰返し舌ロ

ならばそれは、一方では

的な態度と事実の

記述的研究、他方ではそれら事実の統合的な

のため要求される研究者のがわの理解と内的関

、という二組の相

反する動機のうちに見出される。これら両者の

関係をいかに考えるかによって、宗教学の学問

としての位置も決ま

。この種の方法論上の論議がしばしば困難で

あるのは、もちろんかなりの程度まで﹁客観的﹂、

﹁経験的﹂、﹁理解﹂、

﹁関与

ヰ遥ヰすい口

pd

ぎ口

︶﹂というような中心概念

の暖昧

さに

ることが多い。したがって、毎月

混乱をさけるため

には、これらの概念をできるだ

正確に規定し

ておく必要があることは、号ロ

までもない。しか

、前以てわれわれ

見方をテーゼとして表現するとすれば、宗教

学は何らかの形でこれら二つの要素を結びつげ

ことによってのみ

上村

ⅡⅣ

け㍉㌃部や外部から宗教学に

ぬってなされる批判に対する答えの意味をもって

いる。こうした批判は

ぬ太ぎく二つのグループに分けることが出来よ

のうちの何れかを強調し

つつ、それによって宗教学を裁こ

とするも

のである。第一のグループの論点は、宗教

字は

その対象の性質上じゅう

ぶんに客観的であり得ない、というものであ

。すな

ち、ダイナミックな生の機能として

宗教は、直接に観察で

きずまた実験的に証明することも不可能であ

以上、それを取扱

ことは

﹁科学的﹂であ

るとする。この立場をと

入ってくることは避け

しうるものに限ることを

7 ( 一 一 一

(9)

て な を こ も

す あ 者 を 理 を ば

と か る い

第 分

見 の

こ っ る る

解す

し し

。 か

の 正 れ

と と こ

の て ば て

こ ら し Ⅱ: ノ @ る

@ と め こ わ も もよ な

精密旨

。との、

「 な 。 に 有

,え ら

:、、力しいる。にすえは、さするた

な批

ホ 力

@

0

とるピ

1

-l

) 理解は 理解の 理解が らない 与 この

、研究

れ ナ, @

モ 科

デ学

の ル の 基 と

%

な 二

示 度

ピ 宗 あ

は 現 量 、 解 は

し ケ - Ⅰ

日刊 目 Ⅱ 、 典 は

実 里

と も に り

す 傍 果 は

証 的 ュ ニは " ;

主 な

義 批

な 立 の る て

半 Ⅱ

大 要 こ い

態 で

づ 素 と る

、 解 で

他れ

の 度

皮 あ

( S ) 8 -rt 。

(10)

拳井

ぬ里

輪 いろな学問の間の相違は 、げ つき よく 、それ ぞれの基本となる問いの立て方、つまりそのも のの見方の枠の相違に 帰 おする。まったく無前提の学問があると考え るのは、だから錯覚にすぎない。このように、 宗 穎 的な研究であるということをみ とめるとしても、そのこと自体、じつは宗教が 何であるかについての暗黙の理解を前 9

言わなければならない。何故ならその場合で

、複雑な現象のなかからとくに宗教的な事実

えらび出すために

睡は、

少くとも宗教が何であるかについての

ある理解が必須だからである。この

ょう

な予備的

理解は、ときに

ただ事実から帰納されるだけのものではなく、

認識主体が対象の取扱い

な 最戊に

﹁われわれが科学的事実と呼ぶものはつねに

当っても

げる一つの枠に体ならない。そ

、どこにも存在しない。答えに体ならない

いろ︵

4

︶Ⅰ

という限り正しい。宗教学はその研究過程で対 家 に拘束され るのも、このことを指している。宗教的象徴、 制 皮 、祭祀、 とは、明らかに宗教学の仕事の一部である。 そ してこれらの ︵ 穏 ︶ ぅ ことを真面目に否定する者は、おそらくある まい。例えば 史的背景など ば 、仏教徒や神道家にも知り ぅる ものである。 なじょうに理解しないだけである。このことは ﹁客観的﹂ て 、はっきりと強調しなければならない。何故 なら、事実的 らかに可能だからである。 ただしこの﹁客観性しは、決して 付 制約のもの ではない。 系づ げが問題となると き 、明らかとなる。 と ぅ のは、いか 立たないからである。宗教学の任務を宗教の事 実の 記述にの - ︵ 2 ll ︶ ているから﹁宗教についての創作ではない。﹂と 言われ 教 説など、さまざまな事実についての知識をあ つめるこ ﹁事実﹂が、特定の信仰をもたない者にも知り ぅ るとい イエスが生れそして死んだという事実や 、 彼の 生涯の歴 ただ彼らは、たぶんこの事実の意味をキリスト 教徒とお な 宗教研究を不可能とする第二の立場からの 主 張 に対し ぬ 識の蒐集という意味では、﹁客観的﹂な宗教 研究は明 そしてこのことほ、これら事実の解釈、つまり 理論的 体 なる学問的認識も、まったく解釈の要素なくし ては成り み 限ろ う とするのは、したがって始めから不可 能 な試み

(11)

条件ではな ることは 出 右のよう をもっとも れる﹁理解﹂ とである。 すように、 な 対象に目 はできない ぃ 。もしそうだとすれば、すでに亡んだ歴史上 の宗教や、または現存している宗教でもその過去 を 理解す 来 ないことになろ う 。 に 考えてくると、われわれは一応ふたりのもの をはっきり区別しなければならない。すな ね ち、 ある信仰 よく理解するのはその信仰そのものになること だと言われる場合の、実存的な生のいとなみのな かに含ま と 、さきに指摘したよさに宗教学的な研究の前提 として、およびその過程の中で要求される方法 ぬ ﹁理解﹂ たしかに両者は、究極的には一つのものである。 というのは、先に引用したファン・デル・レウ 0% 幅 も示 徹底的な理解はかならず理解の主体と対象との 同一化にまで行きつくもので、だから﹁理解は 、 どのよう ︵ 6 l Ⅰ ︶ げられるにしても、究極的には宗教的な性格を もつ。﹂からである。しかし、両者を全く切りは なすこと ︵ 7 l Ⅰ ︶ としても、区別することは一応可能であろう。 , ﹂の意味で ワッハ の舌ロ ぅ ﹁理解の段階﹂という 考 え方は 、 ル 参 と か ど 現 た 科 提 l 義 が し 、 象 め わ の と

成 た で で 青 金 あ れ か 員 す あ 淫 楽 く る は ら は と け る 意 的 「 六 こ ま じ な ら ピ し セ ヌ 的 の つ め

る v@ し

必、 う もま

宗 の ま ざ る と

@'@ - す 結 「 、 め る よ い か か

わ ら

ず、

理は

、宗教

めの 不

@

」とい 信仰を じであ それは

可 そ う も る ち と 理 欠 の 話 つ よ い 解 の の グ の こ し う う の

(10) 10

(12)

Ⅰ 笘モ

宗教学力法論にお @ よ に

を 定

び な 合

解 そ 後 て

釈 し

れ で

はえ

ば そ じ

歴歴

の こ

更 更

場 と

学 学

合 が は は

寒 な 歴

学 年 的

く に

代諸

と も

記 事

る て な の の は っ 知 は ま て

、 る し と 言 の ま そ ぅ で う

ま は ・で ら で な あ の も

か ら 間

な ろ

%

。 逆 の

認識、

宗教学教現象

に前者

言い

一般 の 内 なし の 容 で か

で 宗 れ ば

あ 教 は そ

る の 歴 の 。 車 史 意

実 智 味

の 学 の

研 曲 解

究 息 根

お 弁 と i1 ( ⅠⅠ ) サる

最近の問題

に 、﹁解釈﹂ないし﹁理解﹂の要素を無視する。 ﹂とは出来ないからである。ただこの場合の﹁ 解 釈 ﹂は、信仰の立場 からする神学的なそれと混同されてはならない。 このわれわれの見方 は、 多くの学問がじっ さいに似たような 複 雑 な構造をもつものである、との認識にもとづ いている。事実それらは︵数学のように純理論的 な学科をのぞ げば ︶ 、 何らかの形において事実的要素と解釈的要素、 ないし実証的要素と理論的要素の二 つを 含み、 , ﹂れら二 つは 相互に 規 示唆にとんでいる。われわれは先に、宗教の事 実は特定の信仰の有無にかかわらず客観的に知り ぅる 、と述べた。 い さ われわれは、さらに一歩を進めて、信仰なし にも宗教の内容の相対的に客観的な理解は可能で あるということがで き る 。このことは、宗教は究極的関心のことが らとしてすぐれて主体的なものであり、客観化を 許さないという キヱ ルケ ゴールの真理とは、必ずしも矛盾しない。 な ぜなら、まったく無前提に客観的な学問が可能 であると考えるのが ティー ヴ な錯覚にすぎないように、まったく 客 観 化の契機を含まない純粋に主体的な信仰などと い う ものも、現実に は 存しないからである。ティリッヒの鋭い観察 にょ れば﹁どの神学者も信仰に身を委ねていると ともにそこから離れ ている:::神学的円環のなかにいるとともに

外、、

こうした自己疎外的 構造をもっている以上、その相対的に客観的な 理解としての宗教学もまた可能であるはずである いままでの考察をも う 一度要約してみよう。 実 記主義者の主張するごとく、宗教学が事実の基礎 の ⋮ ,え壬エ たな げ ればならないことは明白である。そして事実︵ @ ァ ー タ ︶についての研究は 、 疑いもなくその任務 の 重要な部分を占め る 。しかし他方、宗教宇の仕事をそれのみに 限 ろ う とする試みは、 斥 げられなければならない すでに論じたよ う

(13)

-,

, 窩

四 前節でわれわれは、最近の傾向を念頭にお きつ っ 、宗教学の性格や方法をわれわれなりに規定し よ 5 と試みた。 宗 教学の方法論的な反省のもう一つの重要な テ| て は、最初にも指摘した よう に、隣接する諸人文 科学との関係および それ自体の組織をいかに考えるか、ということ であろう。ここではこの問題に立入る用意も暇も ないので、ただいく つかの基本的な視点のみを強記することにする。 宗教学が、上述した よう に事実の要素とその 意 味の解釈の要素を含むとすれば、それを歴史的な 部分と体系的な部 分 とに分けることが出来よう。すなわち宗教史 と景狭義での宗教学とである。しかしこれが一応 の 概念の上での分類 であって、とくに近年、両者の間の実質的距離 がきわめて小さくなってぎたことはたしかである 。次に隣接科学との この論述のなかで参照して 来 た諸学者の方法論 的 反省の結論も、じっさい多かれ少なかれ、同じ 点 を目ざしている 眩 よう に思われる。例えば ヱ リアーデに ょ れば﹁ 士 不教学者は経験的研究方法を用いる。彼は宗教学 曲事実を取りあつかの いつつ、それを理解しまた他人に理解させよう とつとめる。彼は宗教現象の意味とその歴史の双 方 にひかれるのであ -9 @ Ⅰ ︶ って、双方を正しく考慮し、どちらか一方を犠牲 にすることがないようにする。﹂北川氏が﹁ 基 本 的には、宗教学の 出発点は歴史的に与えられた宗教である。 不教学は記述的原理をまもらなくてはならない、 その探求はしかしみ 不

ぅ のも、おなじ意味と思われる。もちろん個々 の 学者によって 、重 点 のおぎ方は異っている。例えばスミスは﹁ 比 較 宗教学の研究の人格化﹂を要請するあまり、 み 不 教の事実的側面 教説 、制度、祭祀などの研究は﹁予備的所 究 ﹂にすぎない、何故ならそれは﹁宗教の外的形 式 ﹂で﹁それ自身 宗 教 ではない﹂から、という。これは明らかに 一 面的に過ぎると舌口れなくてはならない。しかし 彼 とても結局は﹁人格 的 アプローチは 、 他の方法にとって 伐 るもので

(14)

宗教学方法論における

最近の問題

距 単 性

能 と で も そ れ こ プ 置 っ l 関

は いあ も さ こ て の る あ こ ぽ い ら 定 み、 宗 じ 学 に 。 )の せ と 釆 反 収 る の す に の で に 教 こ 的 あ は

徽 宗

て に 般 い な 文 関 相 い は

的 独 現 神 孫 王

に 自

家 学 を

の で 理 理 が ぅ は 論 を 八 つ こ 法 言 性 を 諸 政 分 と 、 え を 取 部

連関

" " そ 対 教 的 い の 生 こ し と す Ⅰ ノ ノ

@

的 学

じはのの

も見逃

言いか ば 同

もつは りあつ 門との あげて

な で

な 当

ょ が え 一 ず か 関 、 と

上 に た 観 方 途

然 美

う せ れ の で ぅ 係 後 い め

性 法 的

l

ば 現 お

も に

ぅ て わ の を に デ マ か し 性 い 視 象 る の つ の 二 、 れ で も あ l で ら て 格 0 点 、 が で か 煎 っ 生 た あ っ る タ あ で の を こ の い し あ て 者 の

限 を

あ 宗

も の う 限 と 界 基 。 る 散 っ

ぅし

くり多元 かし

る も言 から も に り を が 礎 。 を た て 性 か 値 上 え の 注 の 述 あ に

苧 麻 宗

一 が の 方 、 る 粗 目 仁 理 そ べ る し つ 存 異 、 そ と 対 す

変 解 れ た

のす

;

究教

学 の す っ こ れ 忍 駒 べ

の は と 薫 る の

た れ は わ 独 ぎ

対 宗 旨

何 れ 立 で

家 数

否 教

の と 的 か 定 規

言 学 や

で の 生 え で 象 い も

あ 合 の れ き 一 か 、 割 え そ に

最後る。

ばそ 力し

ま、

れ れ っ

宗 み の ね 。 客 ば 白 い 開 釆 り い ア 、 こ で は ろ う た プ 人 こ は

。 る に ロ 文 で と 的 く み 理 に 理

必 し 。 か l 現 は く

も に

わ解

の た え 然 か こ な チ 象 ふ に 識 の ま の れ を 中 人 て 約 し の り や の れ は で で 対 わ 目 で 間 み に ま 点 の 、 中 る 神 、 お 到 象 れ ざ の の る

か は

佳 一 の

学的

値 の た同 のみ 重複 心理 に大 余裕 ね 。 す ら 、 学

つ も 分 時 か が 学 ぎ が ァ 自

と の 毎 ら し こ る の と

プロ

野にあるら克

| こ

的ア な位 え力

ま、

13 (13)

(15)

( ( ( ( ( 註

6 5 4 3 2

な と

p

0, の う の こ さ ぎ い つ

ぃ Ⅱ

己 れ 後 , お

研た

ミ ・

ま ヨ づ っ

教学

るマ

-

o

Ⅰ㏄

円 [' 。

由す

0

のりⅡ く

ざして

ヰ偉宙

スキー す い

-

の ・

は 、実存的ないとなみとしての信仰そのものに 伐 ることは出来ない。しかしこれは、そうした 認識が無意味である という理由にはならない。それは宗教的現象の 多様な相を理解することを教え、それによって間 接 的にではあるが、 宗教的生そのものをも豊かにし ぅ るのである。 われわれは、かつてマックス・ミュラーがしたよ う に、ゲーテの逆説 を 引用することによって、この小論を閉じるこ とにする﹁外国語を知らざる者は、自国 妾 由 をも知らざるにひと し 。﹂ (・ 14

(16)

申 -

宗教学方法論における

最近の問題

︵ 9 ︶このことのみならず、以上の概観がすべて、 一 応 西欧についてのみ当てはまることは、言 う までもな このことは、 宗教 手 が西欧に成立したものである以上、当然である 。世界の他の部分、とくに東洋においては、宗教の﹁ 科学的﹂ 研 究は最近まで、あるいは今日でもなお、全く未知のも のであったし 又 あると言うべぎである。ここでは宗教 は、 つねに ﹁実存的﹂︵この述語はもちろん用いられなかったが︶ な 問題として、取扱われて来たと言える。このように 、東洋が 今まで科学的精神の洗礼をうけなかったということか ら 、今日の東西文化の接触に当って、宗教研究の方法 の上でも、 いろいろな困難が生じている 0 ここでは併し、ただ問題 0 所在を指摘するに止めるの外はない。の戸ロこの方の グ 毛 0 ﹁ ヴ -0 ミ | のガせ -0n. い岸 ・一目 @ ウ c す o Ⅰ・ いズ ・Ⅰ・㏄ ト 一 パざ のの のミウ 0 で・ りぎ Ⅰ・ いヰ ・ 0 億。 ︵ 皿 ︶北川氏は︵ 0 口・ n@ ︵・ 宅 ・ 0 ム ︶四つの批判を数え上 げているが、われわれは別の観点からこれを二つにし ほった ︵Ⅱ︶ セリコロ のⅡⅠのの 目毛 。 ワゑ ︵・の・ べのい ︵は︶︶すぎ・の・∼のか @c ︵・ め - ぎ 巨の @ 、 ・︵二の オ穏牟 0 ﹁ ざコ 0 ︵Ⅱの 甘的 -0 二のし心さい 悪わヰ Ⅰいい㌔つ 0 ヰココ の ぺ 0 Ⅱ - 頭コ 0 Ⅰの 仔 すいキミ ア - い プずアずヰ 0 ゥ @ り 八二 % 00 臣い Ⅰの キ 0 ・・ , ︵ 0 Ⅰ・ 0 目︵・ づ ・㏄㏄︶ ︵ 甘 ︶ 0 ︵・ ミ pn ゴ o つ ・ コ ︵・ ワ ・ Po ︵ ︵Ⅱ︶ 口 ・の り の 四 ﹁の ぺ @ トコ Ⅱののの せ 0 コミ 曲コ ︵ トコ nroq のⅠ ︶Ⅰ・いい︶・ ぃ ︵・Ⅰで・の 2. ㏄㏄。 ︵ 騰 ︶一般にものの究極的構造や意味についての認識 を 哲学と舌ロ ぅ のにならって、示教というものの究極的 構造や意味︵Ⅱ﹁ 大 質 ﹂︶についての認識を宗教哲学というならば、 そ ︵ づ 二目ぃす @ い せ降の日 注ざドす n0-0 の せそ o-.H. つ ・ む 0 ︶ の 研究の最終の結果についてとおなじく、この ワ| キング・ハイ ポ セ シスの問題においても、宗教学と宗教哲学は相接す るということができる。ハイポ セ シスの名のごとく 暫 定 的なもの で、研究の進むとともに修正されるとしても、それは 少くとも対象としての宗教というものの性格について の 何らかの

︵ 騰 ︶ セゥコ 由のⅡⅠ ee ㌍ 毛 0 口 ・ ユ ︵・の・ べの ㏄ ︵ け, ︶ 臣ハいプ 0 口 ・ n ぎ ・ つ ・ ト ト一 い帳 @ せい コ 巨のⅡこの㏄由幸 0 口・ 0 @ ︵・の・Ⅱ㏄の㌍・ ハ ︵ 00 ︶ 円 ぎざ す 0 つゑァづ o@H. つ ・ トっ ︵㎎︶ 口 - ぎ 口の 0 づ ・ 由 ︵・ つ ・のの

(17)

@' キ ・㌔ ︵ 穏 ︶ 抹 @ ︵ぃ内ぃ毛の ︵ れ ︶の 日 @ 二 0 口 ︵ 戎 ︶ せ性 ・ つ り コ 附記この試論は 、 はなはだ意にみん 0 ㌧・ いぎ ・ つ ・㏄ 目 ハ ツ・㌧ つ ・㏄ 包 、下 0 臣 0 田の 宙 り Ⅱ い ee け名 0 つ ・ りざ ・㏄・ べウ タ ベ ㏄ 卍片 欧米学界の一部の傾向のみを念頭 にないが、手を加える暇がないまま 印 に 刷お

@,

附て

@ し @

言己 l 日 し % 高 司 て な 。 う冗 士 も 者 と の に 御 し 諒 た 解 も を の

うあ

て内

容、

形 式 (16) 16

ニ @

(18)

俺円 @. Ⅱ。 弔 Ⅰ カントの理性信仰について

あ 合、

よ も と

ろ る の 。 し の び 瞥 見 と げ も 。 ヵ

しガ

一ハ蒙らした

イ め

れて。

ぅ理ン

げ性ト

て べ る ほ つ つ を い き あ た の あ 耶雙支 、 き か 、 て い 故 う な る 。 問 る 界 、 姿 に 共 て 意 こ い か 周 題 い

田 .

を だ

代 の ル 界 、

反 問 の あ に 核

計 理 題 梱

あ 心

っ ト っ

、 呈 ブ 理 啓 国 を は る 遼 河 一

さ レ

住家

性 せ l の に 権 げ に

と 理 り を

とた

文。

キ睡

をを

ょ力

る "

まく

" 古

、 信 ず と

そ 仰 「 す

の の 埋 る

合 こ た で 判 教 、 つ 目 U

佳 月、

の 汚 に 会 理 の

と は で し

性 評

か 主 仰 を

力 る

発 側 が

る 張 」 一 理 ン 。 で れ 禁 か 成 伏 し と に と ト 教 、 た の ら 立 況 、 い し は 派 会 裏 書 処 の し

の 更

大 、 の 切 論 分 政 て

基 に 結、 い 々

お 側 9 弾 を 撃 い

17@ (@17@)

@ 理性知的内

蟹仰

(19)

るた

と とし

ては

即ち き

思 理 ・ 准 佳 句 一 もま 六日

般 「 な

に 主 る

お 俸 存

い の 在 て 或 に

ィ立 決 し

定 て る

も と 挺 ぷ / い ( の

的 臣 め 根拠が

乙絹

の 臼

する両

、理

に従っ

,陸

の 」 い

的 Ⅱ 選

板 お 択

拠 ) を に 定 道

従位

ら っ す れ

と あ れ の

通理

理 し で て つ い 一

信て

で 下 こ れ

主 の で 場

体 は あ

ちんるた

田口Ⅰ ゼペ ㏄ で占める いわた仙

めに知

甘 Ⅱ ゴ巴力 の

。 、

る。理

は し ト

、 ほ の (

除く

に求 の根 (

」(

は外観めて、

せ 0 由 ・ た っ に 性 、 従 と 」

要因をカント文献に即しつつ論じるこ

るが、それを通して人間存在における理性

信仰

蔵する構造の一新

。 ふ

・ 4 お

モ ㍉

7

として本稿が問題設定する処は、理性と信仰

カント的結合の根拠如何である。つまり啓示

と 現象的自然の両面か

断絶した場で、信仰は思惟のいかなる機能に

その根を見出し

るかの問題である。従って当面

、理性と信仰の機能の

面を捉えてみたいのである。ここで、信仰は啓

信仰と無縁の如くであるが、問題の展開はや

がてそれとの連関を

そうした企図

もとより慎重を要するが

明かにし

るかと思

(20)

が坤

-.

カントの理性信仰について

は呼

る沫て

理、 さ 不

に 論、

達 に 「

づ臣 (

いた

しげ

理にと

理 とて す

l 19 (19)

(21)

それなら信仰の﹁内面的状態﹂、信仰によって 立 つ ﹁主体的根拠﹂、あるいは﹁感情﹂とは何であ るか、この点に次 の 展開を求めてみたい。上述のよ 5 に、信仰は 理性のある主体的根拠によって定位された田口Ⅱ 名簿 甘 Ⅱ ゴの一 ︵の コ であ 二り がために、理性信仰と名づげられた。このこと から、問題は、理性の主体的根拠にしぼられ、 理 性の核ともい う べ き 持 牙ら 忠帝 のに焦点を結ぶ。﹁統覚﹂をこの問題 と 結びつげる必然性には多くの疑点、反対があり ぅ ると思 う 。まして や 結論を先取して、統覚の統一のうちに、主体 の 自己存在把握の働 き 、自己の現存在の感情を認 め、 更にここに理性 | 信仰の結合の根を据えると言えば、荒唐の訪 を まぬかれないかも知れぬ,以下、蒸煮の問題 提 起を恐れうっ、論述 の 整合を急ぐばかりであるが、ただ少しく意図 する処を記してみたい。 カント解釈の流れのうちに づ の ヨ 佳音︵打日 ドの に 抑圧されたのの富三という問題と関連する 枠 内で採り上げるの だがカント的前提に対する所謂、内在批判 の 立場を見ることができる。即ち理性の必然性に 理論的および実践的 能力以外の一層広い能力を帰属せしめうること を立証し、それによって、前提された理性の意味 を 拡張し豊かにせん と 意図した人々である。しかしぎ田荘寓目 ac ザの Ⅱの言った "& い の ピト のⅡ 日む 岨の目 宙 のの ハ りの片む ピ の ,あ る ⅡⅠは隼の ヨト の ヰ 汀が 甘 no

荘や弓

Ⅱ い ののと関連させて語った ,かザコ由宙 コ呵 、これらは結局理性の内に属せしめうるもの と 思われる。その 意 昧で 二の方向における試みは、感情的なものの 発掘に成功しつつも、帰着する処は啓蒙の延長線 上から出られなかっ "- 一 のを絶えず狭める方向に働ぎつつ、しかも他面 あくまで﹁理性の自己保持の格率しを守るが故に 、非合理の方向への 制限ともなっている。

& の ︵

ま 0

せの目ロ

ロ卸ま

。 ぃ巽、

か口

,︶理性

仰は弓む

メヰ曲 ﹁

オロオ田ガ下であることによって

。 由の臣になろうとする㏄

ものを妨げる或る壁を不可避的に含んでいる。

即ち信仰は理性の主体的根拠によって選択された

故に、合理的なもの

(22)

力 @, 局耳由 この田口。二のの︶ ココ のⅡのの かコ の ぃ甘 P 屈の臣 , ︵ オ 経 ・ パせ目 。 轟潟 ・ か ㏄㏄の︶等と呼ばれている。この 意味で自我はただ

監ね

たよう である。しかしこの方向に更に一歩を進 めるなら、仮にカントの説を越える危惧があると しても、恐らく カン トの 理性、従ってまた理性信仰に対する一つの 視点が得られるのではないかと思 う 。 論述を Hn ダロの

おに戻したい。 ヵント によれば 統覚︵卜せ 罵 qNe で 由 0 口︶とは、意識が同一である ことの根拠である と 同時に 、 与えられた多様を綜合的に統一する 根拠でもある。従って先験的綜合という問は統覚 自身の同一を 顕 わに することでもある。これが統覚に関する所説の 骨子であるとすれば、この所説の C ︵ 絃 己ともい ぅ べ き ものを、第一 批判起稿の前年に着手されたと推定される﹁ 形 市上 半 講義﹂︵尻が コ ︵の づ 0 ニ 9 目内の コ曲汀 ﹁ 審 の 田がせ ダい の ぃオ,ダハ の 幅 ・ せ 巾昌守,ちざ ︶およびこの時期に平行して残され た 遺稿断片のうちに跡付けることができる。 こ の C ︵ 田 巨は統覚 理 解への有力な暗示を秘めるだけでなく、理性情 仰 というカント的結合の必然性への手懸りをも 準 偏 するであろう。 ここでは、個別的主体は一切の現象的受容を排 して、自己自身を直接的に実体として捉え、かく してしが はぎへ の 道を獲得していたものと考えられる。即ち﹁ 実 体 的なもの 谷舖 ㏄ 絹ヴの ta コふ 田の︶を私はただ一つ の場人口にのみ直観し ぅる 、それは私が私自身を直観する︵が コ の c 甘 au の 口 ︶場合である。﹂︵ 巾 0 苦い ︵ ヅづ ・・の・ ドざ ︶以下同意 であるが﹁私のうち に 私は実体︵ 臼邑 の軒口 ぃ ︶を直接的に直観する。﹂ ︵ p.p,O., の ・ oN ︶﹁自我︵宙がの Hn す ︶とは私の 実体の直観である。﹂ ︵ オの申 ・ パづコ ・ト下の印 @ せ性 ・ a 佳の下 パづ目 ,とい い丹 , 下 ㍉ ぃ ㏄ ,かお ふ Ⅹ づ HHH の No べ ︶右の引用はいずれも実体の 非把握性の唯一の 例

ヰ外

として自我を語っている。これらを通して 指通 すべ き ことは、かかる自己把握に働いてい る 自発性、直接性、直観 Ⅰ 的 性格である。この直観が自然的現象的 物 から感覚を通して 受 げとられる感性的なものを 意味しないのは勿論であ

却る

。自我は自己を感性的受容によって捉え るのではなく、自己自身を存在的に直覚︵セミ 口 日当︶しているのであ

から区別して、他の箇所では㌦日日が荘田 巴宙の

∼︶ののすの屈のコミ︵、 H, Ⅰの 目 ヲの ︵ Ⅹ七口,かゆい分り 0 目鮭 1%. の・ ト ㏄ か ︶ ちおでユビ ︶ ゆ - い の ゴ の 井目ののすの 佳 佳さゆ ょ ︵刃の曲・ メせ目 ・か田 ゆダ 下口 い ㏄︶ (21)

(23)

内的直観﹂というわ ゑ括 そのものにある。 面 し て カントが一般に実体ということで考えるのは づ卸由拍ガの円 ︵や内﹁ phd である点を特に強調したい。﹁行為︵耳管 ま 三コ 拍 ︶従って活動︵ づ舘漏 ガ色︵︶ や力 ︵ 本 ﹁曲学︶がある ところ、そこには 実 体も存在する ピ ︵ 口 ・ ま 0 ︶私が直観する私の実 体 とはこの意味のものと解すべきであろ㌔﹁ 力 の 中心し︵ 本奉 片ぽ 目 ・ ヰ目 日 ︶というこの線では再びライプニッツとの つながりが考えられるが、しかしカントの自己 直 観は本来﹁知的内的 直観﹂であるから、経験的直観から扶を分つば かりでなく、﹁知的直観﹂含まの二のの 汗鰹 のわ お宇 竺ヒ穏 ︶からも区別 されねばならぬ。知的直観は外的受容によらず、 自発的に全内容を措定する直観である。 反之 、 知的内的直観は自我 における自己所与から一切が内奥に自体的にあ ると推論することを拒否する。より根本的にはう イ ブ ニッツが﹁唯一 の 実体﹂に神を見る時、カントは﹁実体的なも の ﹂のうちに 店ぁ 。 コを 見るのである。﹁人格︵ 巾 のあ 0 コ ︶としての 自 我は謂わば実体的なものである。﹂︵下色のののすⅡ ぃ Ⅱ︵ ぢヴ の﹁ &w の づ 0 まり 。 ゴ ふ津の &. ダ 日の ヰ斡で すⅡ れガ ののロ目いの ぎ已 z 口 ・ せ円 o- 曲 ・ れメ ・ めべ ㊥叫の コ ロき田の主体はこのようにして自我 の 自己把握に根ざしている。自我の自己所与性は 紡ぅ 方なぎ自発性を もって、自己を直接意識へと導く。即ち﹁或る ものが主語︵の 目庄 0 ガ 什 ︶であって他の或るものの 述語でないというこ ︵ 5 ︶ の 物自体と私の物自体としての自我とを区別す ることで足りる。しかし筆者の関心はかかる区別 より、むしろ﹁知的 やよ 己 意 と ッ コ Ⅰ

外把義同

ツ こ お

て と

おき

体の 点に

れ 非 あ

ば把るも

現握

ら)

れば

家 住

の が か る か 易 暴 言 し 。 ら に 体 わ 白 物 で ぅ と れ 我 目 あ 々 し る の 休 る プ て の 自 の 。 二 (22) 22

Ⅰ 丑甘肛

(24)

・ @

。 ,

の は る 」

-

る と @ の し し

もの

・一の

的 徴 と い に し は た

廿

か触

こ 半 り で、

カントの理性信仰について

1-t@

とテ

傍視

も る

ほ ろ

が つ い す あ ら 対するにすぎ

我々に 専ら て 多様 て

。へて「

ナ っこ

て あ 方

の も

」 切

と 23 < 恭 )

(25)

まり 鰍 子器 汀き宰 おぎと・のの子の︵の︵ 汀 日日 げ ︵ 口 ・ Pw の︶とば同じ一つの事の両側てあり、主体裁 と 客体我は相即なの 自我が語られていると考える訳ではない。むし ろ 本来一つの 車 。態に対する二つの立場があると 考 えたいのである。 つ

自我︵ 先 験的統覚 田 3% お臣 9 荘 ぼち君の rz の 宮 ∼ 0 コ ︶と客観としての自我︵経験的統覚。 日宮由 のの ダ の レつつ のⅡ 鳶づ由 0 口︶ との統一の仕方 何 加に怒ってくる。而して、 カ ント の理性の核心に投ぜられたこの間に対する 処 理 如何によって 、カ ︵ 8 ︶ ント解釈は多岐に割れるであろう。 この点に関しては、カント自身が多義的、且つ 相互に矛盾する論述を残して、問題そのものの ァ ポリヤを露呈して いるのであるが、思うに、自我自体は、その時 間 表矢 性 にも拘らず自己直観において触発するも の ︵隼がのわヨ ふ ere づ ・ 汁 ︶であり、 反之 、経験的自我は触発されたも の ︵

ら田 甑の ﹁ 汀 ︶なのではあるまいか。この 場合しかし、二重の ︵守のぎぽ日のぎ匡の黛︶、これは純粋統覚を意味 し 、これ ㈲知覚の客観としての自我︵ 宙ゅ の すプ 田の 0 三の の ︵︶ 、 従っ 官の客観としての自我。﹂︵ らコ ︵ 巨 。 づ已 。 ゆげ ・ 由 ・ ド 叩ト ・ ち申 ︵Ⅰ︶・︶ 自己把握は、ここでは二重の対立する自我であ る 。かくし ほ ついては全く単一な表象という以上には何も キ 一口, え ない、 て 内的経験を可能にする規定の多様を含んだと, ﹂ろの、 内 先に﹁知的内的直観﹂として統一的に理解され た 自我の て 問題は統覚に収飯する。即ち当面の問題は主 観 としての ﹁さてここで、自我は︵対立して︶二重であると 思われる。即ち 、 Ⅲ思惟︵論理 字 における︶ の 主観としての自我 下 " しまうのか。﹁内的知的直観﹂と﹁内官﹂との 区 別は解消して、唯一の例外てあった 接 ︶ 日ギの 存在意識は霧散する れ のか。しかし他方においてカントは、純粋理性 批 判 の三板 か 出版された年にも﹁主観はいかにして それ自身で経験を惹 り 起し ぅ るか、あるいは自己自身を内的に直観し ぅ るか﹂︵屈の空 パせ HHH 、のの心ゆ @ 臣 曲りぽら 宙ざオ ののしが 由 安目 む @ ヴ 日田︵ け ㏄㏄ト刃 輔 Ⅱ︶ という問を残していた。而してもし合引用した 問を全く無意味であるとするなら、先験的綜合 と い う 企ては、出目 日 0 ︵ 7 ︶ の方向において先ず容易な業てあり、且つまた 実践理性の優位、更には理性信仰という結合も根 拠 薄弱なものになり 了 るであろう。

(26)

カントの理性信仰につ し

ととは

る で に 要 は 、

オの

いり

く 開示 崔ヴ の てい

25 ( 25 ) 円目いのの∼ 守 めのめ年毎 ヱのゴ の︶だけが自我自体であるこ と、 恰も経験的客観における物自体と同様だか らでヰ める﹂︵ 卜 包目 のガ e の , 沐簿 戸ヰ の 0 づ 仁の で Q のⅠ 仁 コ仁 Ⅰ コ Ⅰ 宙のⅡ ゆ のの田の一 - ヰロロ し びの 仁 Ⅰ︵の 二 d. ロの ︵ 昌コ ・ ト ゆめ 0 ㍉ め中ぴ 。 らコ巴臣 ・︶と述べている 。思惟的自我と行為 的 自我とは、その存在からば一 つ であるが、 先 験 哲学的方法においては問題的に区別される、 と い とフ この 塾珊 日日に 帰する処は平凡であるが本稿もまた賛同し たい。かく考えることが前述の自我の直接的自己 把握なる 巴 Ⅱ曳 こ に も 忠実であるというのが、その一つの理由であ る 。 先 験的統覚としての自我、即ち Hn 二ロ のコオ のと、 経験的統覚としての自我、即ち私に与えられた 宙 がのの 仁 すのⅠ い臣ふ ㏄ こ ︵ 9 ︶ とは、かかる意味で直接的に結合して一つの 統 一酌主体である。 無 時間性における触発と内的知 的 直観とは全く同義 のものと解してよいであろう。従って自我が主 体 我と客体我の二つに割れるということて、 問 題の核心が一方的に 0 庄の ガ ︵円 く 山の︵の目されてしまう訳では決して低い とはいえ勿論のこと乍ら、人間は﹁自己 自 身をいわば生み出す ︵の c ゴ麓 次の コ ︶のではない。﹂︵の 弓岸臣臼 Ⅰ ミ ・心印 ド ︶ むしろ﹁人間は自己自身を手に入れる︵ セ のおの rP 曲の コ ︶のである。 し て

況であるよりは、︵

ダ ︵ メ ・ り ・ 笘 ・ント, づ,窩 ︶ 而 L してこの づ のⅡのの す P 目の コ 申すの 臣 ︶ことを示している。Ⅱいすーの 由ユの ガヰも ぎぽ という営みは、自我が自我を﹁前に立てる﹂︵ セ 10 三の ガ ︵も共に主語であ or, の田の目 0 口︶という 状 いてさえ、それは窮極の本来的活動者︵ & 窃弓はヰ潟 ︶である。何故なら、根源的自発性を所有し て 現存するもの︵ 隼斡の である。 レ 日の㌃はこれについて﹁自我は統一 的 自我であり、経験的自我︵自己触発ぎこの 村ヰの 拝ざ臣 ︶の活動にお

(27)

Ⅰ 可 ',

式目 岸経ゴかす 簿ののののと一脈のつながりを持ち、 その観点からも主体のこのか c ︵口のは、所謂 認 識 形而上学から一歩㏄ を 踏み越えたものと言えよう。論理学における 純粋統覚の自我と、心理学における内感の自我と の 、相即の結合の中の に 、 m 甲もので七の bo ﹁ ミセ & のということのカント的形 姿を見るのは 悉逸に 過ぎるであろうか。しかし もし先験哲学そのも のの底流に動いている 将 しくその心理学を敢 え て指 適しょうとするなら、この理性の主体的根拠 を 措いて他を掘り起 しても徒労に 了 るのではなかろうか。ともあれ、 統覚の統一のうちには、受容との関連点と共に 、 、、 、主体の ヱ曲 戸ら -9 臣幅 0% 湊点 があるとだけは言えるであろう。 以上述べたことをカント自身によって語らせて みよう。﹁私が私自身を自覚するということは、 主体我と客体我と の 二様を既に含んだ思惟︵しのコ カ の 臣 ︶である。Ⅰ きらのコ カ のの自我が、私自身にとって︵直観の︶ 対象であり、かくし て 私を私自身から区別し ぅ るということが付加 にして可能であるか ほ 、絶対的に説明することは できない、尤もそれ は 疑いえない事実であるけれども。﹂︵㌧ パ のめののの 甘 ︶・ 円 ft, ポポ ・ めぺ e この引用からも明かなよ う に 、 ∼ 日 * ︶ 0@* ︶ @m@ ∼ @Pm@@ 串 ︵︶と、 v う ことは理性にとっては隠され覆われだ事実であ

って、まわりを廻るだけであ

る 。﹁自我それに 関 しては概念であるとさえいえない、却ってあら ゆる概念に伴 う 単なる意識である。この思惟 すサ 0 自我によって 現 わさ れるものは、思考の先験的主観、即ち X に 値 な

の 直接的作用におい ては、実在の範 濤 とは 異 った意味における﹁実体 ぬ なもの﹂・︵守のぎ 汀荻罵匡の ︶、﹁実際に実存せ るす めるもの﹂︵の中男帯・ da のぎ

穿づ

笘の甑の田∼の二︶が与えられている, ﹂とは既に考察して来た所である。ここで﹁実体 的なもの﹂、﹁ X ﹂と して性格 づ げられたものは、カントにとって 存 在 論的根拠としての意味をもち、﹁所有としての 有 ﹂として、統覚に おいては一切現象の根拠であると共に、実践に めげる主体の根拠でもある。従ってカントの統覚 は 単に抽象的な﹁ 沌 粋 認識論的主観﹂であって 、 o コ dp

逢な

意味を 全く含まぬという主張があるとすれば、それは 事 え よ う 。﹁統覚はある実在的なもの︵ 藻毛援再の 田 のの︶である。﹂︵㏄・ 串ゆ ︶つまりロ % なの 俺零と いうことは、私の現

(28)

キヰム

カントの理性信仰について 頓

的 梓 人

存在

よⅩ

@@

ノ を 充 か の

ⅡのⅠの とし 口 い の e あ

通 統

つ り 一 た 力 の な と 為、 も て ・ が ン 根

"

沖ァ

ト拠

L " こ お 従

しか

で い っ

「 て て

ま か 体 た し

理性

二重 なも 上 が の の と 格 し

性 て の の 結 (㌧

er

の び 自我は )

臼 し 言

) 先 く が ず し

すれ

%

の て九

考 ㌧ て

,え ら

の一

目庇

れ 再 の て で 照 い あ 明 る っ を

ほ 自 で し と の、

な 我 あ

ひ は る

感情

がの ま して

忠鉢。

主ぅ

い い 我 し 直 と か 碑睾 秀吉

P.

))

パ ムフ 「 由

-

体 先

て 我 に

迫 持 的 「

丁い不や

い と も が

続 美 香

27 (27)

(29)

﹁私は思惟して実在する﹂ 村プ の田のⅠ片のⅡのら 留詩 の 口 ︵ 口 ・ き ︶ ぱ 上述の如く﹁私の現存在の知的意 識 ﹂であり﹁現存 在の感情﹂であった。こののの 曲ヒ という 言 葉は、梢 ともすると起りがちな実体概念や感性的 直観との混同を避 け て 、意識の直接性、非対象性を端的に性格づ け、 主体の根拠における卜のⅠ口のの特徴をよく示し ている。 先に感情は

、毘ヰ

毛が プ qr 田 ガロの主体的決定の場 、つまり信仰の場において、理性によって自ら 惹 き 起された感情、 即ち﹁理性感情﹂として規定された。これは 主 仲酌定位の基底において﹁理性信仰﹂に等しい。 ﹁道徳的見地におけ る弓ぢ r 毛笘甘 Ⅱ ゴ舘 Ⅰの口の格率の根拠、換言すれば 純粋に実践的理性信仰︵ 口母ガ 曲の c 甘のぺ せ簗 ヨ日Ⅱ 俺 ナいコす の︶﹂︵ メ ・ 宙 ・ づ Ⅱ づ : ギ 肘の︶は 、 従って 、 同じ﹁現存在の感情﹂ 、﹁我尽 ぅ ﹂の根から出てくる。というよりは 前 者 と後者とは同一の 四 る 私がか 絡 ︵下ぁ。二︶なめてある。﹂︵ 甲乱窩臼 Ⅱ ・パパ、は 吋 ③しかし他方において、思惟の活動 的 自発的主観、即ち ﹁私が 矩怪 ︵ぎヰ 色 俺の コ もと呼ぶもの﹂︵ ロ ・ 支ド ト 日日・︶、これもまた複数としては現われない。 自我は自己の結合 能 力 を意識しているⅠ耳の二︶抽の臣いとして実在する 。即ち﹁知性としての理性存在︵ セ 0 目 日 乱け毛の のの 口 ︶は物自体そのも のとしてのみ与えられる。﹂︵ オ 0 オ パせ HHH も 8S のである。上述のことからも予想されるよ う に 、感情の主体として の づ の あ 0 臣と 、思惟の主観としてのⅠ コヰ の ヱぃ 幅の 罵 とは決して別のものてはない。敢えて区別す るなら﹁一個の主観 がその自己自身を単なる現象として意識し 、し かも同時に物自体そのものとしても意識するとい ぅ ことは如何にして 可能か。前者は経験的統覚によって、後者は純 粋 統覚によって﹂︵ 弓 Ⅱの 戸拐まヰ ・ おメ ・ ゆか 0 ︶である が 、これは立場上の 相異であって、両者は一つの同じ統一である。

コ はいわば実践的 知 性であるに過ぎない。このことの可能になる 根 それは既に幾度も触れられたその同じ 根 から理性信仰も養分 を 採るのである。 (28)

2&

参照

関連したドキュメント

Here we continue this line of research and study a quasistatic frictionless contact problem for an electro-viscoelastic material, in the framework of the MTCM, when the foundation

Later, in [1], the research proceeded with the asymptotic behavior of solutions of the incompressible 2D Euler equations on a bounded domain with a finite num- ber of holes,

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

The forest polynomial is also a partial evaluation of the Tutte polynomial of K n , the complete graph on n vertices.. A standard number-theoretic tool, the Chinese Remainder

knowledge and production of two types of Japanese VVCs, this paper examines the use of syntactic VVCs and lexical VVCs by English, Chinese, and Korean native speakers with

Even if it is true that wh-words take wider scope over any other Q-expressions, as shown in 4, a universal quantifier mei-ge ren 'every NP' in subject position can have wider scope

Amount of Remuneration, etc. The Company does not pay to Directors who concurrently serve as Executive Officer the remuneration paid to Directors. Therefore, “Number of Persons”

Introduction to Japanese Literature ② Introduction to Japanese Culture ② Changing Images of Women② Contemporary Korean Studies B ② The Chinese in Modern Japan ②