註 ︵ー︶部民︑﹁金文 所 無著﹂︑金文 叢考収 ︒
︵ 2 ︶㏄ 木 巴瓦 斥コ @ の 030 ㍉ ec 目まモ の づヨヴ ︒ 打ぎ巨 コ 0 ざコ ︵ C すぎ a. の︵ 0n ヰす 0‑ ヨ︐ ︶の ひ 0. 邦茂︑﹁ 程祀姓 ﹂︑ 甲骨文字研究 収 ︒
︵ 3 ︶小島祐馬 氏も此手 を土とされるが︑上部は祀 主 を威 する土壇︑ ユ 0% 書は犠牲の血清 と 解される 肘刮
は 軍なる土壇と見れば足りるし︑ 又鮎膏は周膿 大宗伯 の祀 稜の血祭や丁︵ 木 ︶ 頗 ︵ 祭 ︶等の鮎書からの類推で あらうが︑
これ等の鮎 書 が犠牲の血 滴 であるか疑問である︒ 孫海 一が ︑ 黙妻を件ふ 土芋 の少 いとこ
ろから云って軍なる 糟繁 形とすべぎであらう︒ の祀祀 1 自然紳の場合との 二類 があるとする︒ 但 し前 類の土も祀であるが︑同一ト辞中に他の先 公と 並列されて同様
の祀 % を享けてゐるから︑先公の範 濤に 入れる と云ふ のである︒後類は艶 土 ・亭主 と云ふ のがそ れであって︑当地の
祀 ︑基地の祀と解すべ き ものとする︒而して 別 に 唐土・ 粂 土の如く︑ 唐祀 とも唐の土地ともとれ る ト辞 例を牽 げて ゐ
渦 程は勿論 異 るが︑結論に於て 相土と祀 とを同視 する惇氏の見解に 鈴
程 接近した事となる︒かくて ト 静の土を祀に 比 走 する事にはなほ問題があって︑守屋美都 雅 氏の 如 ぎも 祀と 見る事に
は 賛成して居られない︒文献の祀は悉くが土地 神とは限らず︑ 祀 稜の語によって知られる如く ︑ 美国の保護 祀 或は二
十五家を意味する聚落の寧位の場合もあるので︑ ト辞の土を直ちに 文 厭の祀に解する事には如何 にも 異ぁ煕 かあらう︒
そこで問題は祀の本質は何かと 云ふ 事となる︒ から 祀 ︐ 祀 同源詮を提起したが︑﹁ 土 ﹂ 字 とす る 事には 憂 りない︒従ってこれを土とする事は 一 般 に承認されたもの㏄
と見て差支へないが︑︵ 3 ︶その性格については論争 がある︒嘗て 王國 維は最初これを﹁ 祀 ﹂と理した が︑ 後に読を改めての ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶ ﹁当上﹂の語に基いて段の先公︵ 祀祓 ︶の﹁粗土 ﹂とした︒久博期年 は 和上とし乍らも同時に﹁ 郊祀﹂とする︒ 即 ち ︵ 6 ︶ 人格 神 と自然 神 とのムロ 膿と 見るのである︒これ に 勤して薬玉森は専ら郊祀 詮 をとる︒これ等の諸 詮を暁る 紛々たる 議 ︵ 7 ︶ 論の詳細は既に紹介されてゐるが︑最も新しい 陳 豪家の見解はまだ十分に紹介されてゐないので 一億追加して置く︒ ︵ 8 ︶ 陳氏も営 初相土 説を否定して社説をとった︒ 併 し 後には 相土 詮は依然認めないが︑土に先公1人 格 紳の場合と 某地
キ Ⅱ 宙
淀
︵ 5 ︶ 見を出した事があるが︑語って 詳 かならざる 鮎 があり︑ 又 多少考へが 愛 つた鮎もあるので︑改め て 考察してみたい︒ 守屋氏の詮は何れ後に紹介するが︑氏は諸説を 批判した後︑従来の誘が祀の標識となるもの文彩 式を重要視して︑ 察 ゼ それをすぐ自然崇拝に結んだのに謝して︑ 祀 が 聚落の中心であると 云ふ 油倉 的 重賞 を 重視 し ︑ 祀は原始聚落の住 生と 恥パ鱒 ㍉㌶ 鞠簗 一隅隅㌶ 引れ ㌔ 一致する︒は小島 血 的に 昭 妬馬此 に始︵ 6 ︶
騨 事實︑氏自身その見解が藤枝氏の所説と結 局は同じである事を明かにして居られる︒ 又 宇都 木 氏の論文は周 禧 所見の ㎝祀を中心として︑宗法制的支配下に 於 るその 性格と機能とを考察されたもので︑祀の起源に まで及んだものではない 仰 が ︑ 祀の基本性格を宗法的秩序に 謁 する 排 除 的な面に置く難に於て︑守屋 氏 等の所論と根本 的に背反するものではな
始 聚落の中心と見る事は我 國に放 る 豊 説の主流を 成すものと 元 へよう︒ 併
37@ (@37)
︵ 35 ︶ 藤堂明保戊や 祀倉 史の面から 周祀 色見える祀の 制度を考察された宇都本章 氏等 がある︒︵ 4
︶私も営
日て 祀の起源について 私 ︵ 2 ︶ 等のト テム 説 や陣要塞の 高頑 神との回廊 詮等が ある︒更に同氏以後に於ても音韻豊の面から﹁ 祀 ﹂字の本質を論じた 一 ' 一祀の起源に聞する諸説に就ては既に守屋美都雅
に李則綱 ・孔食 毅 ︵ 4 ︶王氏︑段 禧 散文及び﹁ 殻 ト辞 甲 所見先公先王者 ﹂︑ 額 堂集材 待九 ︑ 戟毒 生所蔵 殿虚 文字 者 輝一葉同じ︒
︵ 5 ︶惇氏︑﹁斬獲ト辞烏木後記 祓 ﹂︑安陽 葮掘 報告第 二期︒
︵ 6 ︶棄民︑段席書契前編集 樺 智一︑八葉︒
︵ 7 ︶守屋美都雅氏︑﹁祀の研究﹂︑ 史串 雑誌第五九編 第七 號 ︵昭和二五年︶︑ 島 邦男氏︑殿廊ト辞研究 二 二九 | 三一頁︒
︵ 8 ︶陳氏︑﹁古文字十二西周祭祀﹂︑燕京 争報 第一九 期 一一六頁以下︒
︵ 9 ︶陳氏︑殻 盧 ト辞 綜述 三四 01 一頁︑五八二1匹 頁 ︒
この一文は燕國の祀が 芦國 の杜撰 に 諸官する事 を 述べたもので︑ 祀 ・ 祀 同源の文献酌 誇披 とこそ なれ︑果し 段 盛を示したものか︑問題であらう︒ 重浬氏が この文を芦に於て比較的に祀の原始形式が維持 された 外護と すなわ は ︑ 費 祀の比重を渦重規するものではないであ ろうか ︒更に㈹ 詩蒋の ﹁ 廼ち 家出︵ 祀 ︶を立つ ︑ 戒 醜の行く
0 手樽 に ﹁大事を起し︑大衆を動かすには必ず 先づ 祀に 事 ︵ 祭 ︶ありて後に出 づ ﹂と 云 ふのは︑ 軍隊を動か に 告げる事を云 ふ のであり︑而も所告の動機は 戦闘に在るのであって大衆を動かすに在るのでは ないから︑
ちに祀の集 國的 意義の詮 例 となるか︑疑問であ ろう ︒ 右 三條の外︑更に㈲ 渡記 余沫 の ﹁ 王 ︑群 雄 の 震 めに祀を立て 又 大祀 と日ふ︑ 自らの 烏 めに祀を立 て 二王 祀
諸侯︑百姓の為めに祀を立て ュ國祀と日ふ︑諸 侯 自らの 為 めに祀を立て二俣 祀と日ふ ︑大夫以下 群を成し︑ て芦祀 の
されるの
ところ﹂
す 際に 祀
これが直
と日ふ︑
祀を立て
遺 休 し 國 が も め 此 な 一
々詳細
冤記に
陰陽あり、
て 人 畢,、
ぐ 祀の集 それ てその 較的簡 概 のでな批
楚の燕 之
詮に作
く 寓佳 が必 起源 略で 略称判
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、
影響 さ 唯く。
讃 抜 の ずしも と本質 はない 見を加か て 明 )
特は
と 勿 つ の(38)
も 存する事を忘れてならぬ︒
3S
がを起源的乃至本質的形式の遺制と見 徴 すの ま︑ 6
一見 安営 のや ぅ であっても︑實はそこに観念論に 潤色された後世的 憂 ㏄によ るかと 云 ふに ︑ 恐らく最初は自蔵の 祀と 差別 する 為 めに特に上下に 柵 ︶のと 母 詮ゃ 欄を施したのであったが︑これが後に陰陽 美 国 性 との間に直接の窩係は認め難いや ︵ 蝸 う
中 ネ 地 梱から陰陽思想の如き明確に後世の所産と思 はれる要素はこれを 佛抗 しながら︑そこに示され た具 監的事實のみはこれ ぴ か始
形式はやはり焦尾と考へるが︑ 云 ひたい のは祀の無屋からその美国性を導出する客観的 譚掠 がないと 云ふ 事であ時に︑友博 哀公 七年の﹁ 曹人 或は衆君子の祀 宮 げ 上エちて曹を亡さんと謀るを夢む﹂のやうな記述 を 忘れてならぬ︒ 尤
考 もこの 祀宮 の 解 程につⅠては問題 Ⅹ 力 ミ ある カ ︵ : 4 l ︑ ︶ ﹁祀の宮尾﹂と解される可能性を否定出来ないで あらう︒但し私も祀の原 察 の 石崖 が 祀の原始形態でない以上︑これから 逆 算した祀の無尾も 亦 これ等の文献のみから原始 形 式 とする事は困難の そうである︒更に㈱ 祀記郊 特性 の ﹁天子の大祀 は 必ず霜露風雨を受け︑以て天地の気に達するな り ︒この故に 喪國の
祀 はこれに 屋す ︒大場を受げしめざるなり云々 ﹂は一見明瞭な如く陰陽 読 に基くものである︒ 文 献 には祀の鮭 屋 と同 其の下を柴す﹂や㈹ 周 腫大司徒の﹁其の祀 稜の 墳 ばて︑か︐ 援兵 ひ % これが田主を樹つるに 各 其の野の 宜しき所の木を以て
す ﹂やこれと同主旨の田 圃樟 封人及び㈲ 逸 周書 作雛解 等の文は亦富澤氏自ら云はれる如く︑原始 的 祀の意義と構造と なっても︑それが直ちに祀の本質的理解とはな うない︒川長の場合も同様の事が 云 へよう︒父性 が敗 屋を有しなかつ おは た 事からその人鬼でない 譚例 とする㈹全学 博哀 公 四年の﹁祀は封なり︑ 亡 國の祀は蓋しこれを 扮 ふ︑ 其の上を捻ひて
て 貴社 と日ふ ﹂・及び 周祀 川長の﹁ は 禁法篇の特殊性ま別としても︑︵ ︐む 2 l ︶
若し歳時を以て 州 祀を祭祀すれば︑則ち其の民 を闘 めて 直 ︵ 法 ︶を 誼む ﹂の三傑これ等が封建的階級 濃制 に基 く 祀の序 階 である 事は明瞭で祀の集稟性の説明とは
彩 乃至歪曲の存する事を注意すべぎである︒
ぬ に守屋 氏 が文献の祀を分析して︑合理的叙述 の中に於て 尚は 行はれてゐる非合理的要素を原始 遺制とされる基本
態度は了解出来る︒併しこの場合でも後代的 愛 形の存する事を考慮に入れる必要のある事は勿 め 冊 であるが︑同時にそ
れは飽くまで補助的或は間接的資料に止むべ き であらうし︑更に古いト辞・金文等直接資料の分 祈 が並行して試み ろ
るべきである︒氏は祀の諸形態を検討して︑ 墨 子の叢 位 ︵ 叢祀 ︶の 祀 よりは叢に着目して祀の原 義 をそこに見出し︑
日が とするが︑これ等の字音から﹁ 輻 化したとされる︒ 即 ち祀の最原始形態は原始 祀 ﹂の音は直接出て 緊
これによると︑守屋 氏が 祀の原形を聚落の標識 に 求められる 根 披は要するに 叢 ・ 纂 ・ 薪と 云った 字 昔の睡 暇鞄係 であ
る ︒ かュる 字音の通暇を遡源的に辿る方法が文 化現象の原初形態を探る一つの手懸かりとなる 事 は疑 ひないが︑何分
上古昔の不明確な現在に於て事に字音のみに 基 く 推論は甚だ危険と云はねばならず︑同時に字形 の 探究を件はない時
は 一種の観念の遊戯に 降 る 躍 れなしとしない︒ 現 に 同氏は﹁ 祀 ﹂昔が﹁ 祀 ﹂に残ったと云はれる けれども︑この雨音 ︵ 8‑ l え に通 暇の可能性が考へられない事は藤堂 氏 が昔 韻豊 的に論 燈 される通りである︒この場合﹁ 祀 ﹂ の 字形について更に考
慮を佛ふ 必要がありはしなかつたか︒如何にも 韓非子や韓語 外停 等には 祀主 の 束 木の記事が見 ︐ え らから︑ 戦 國から 秦
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