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木  J

ドキュメント内 『宗教研究』168号(35巻1輯) (ページ 36-45)

           

註 ︵ー︶部民︑﹁金文 所 無著﹂︑金文 叢考収 ︒ 

︵ ︶㏄ 木 巴瓦 斥コ @ の 030 ㍉ ec 目まモ の づヨヴ ︒ 打ぎ巨 コ 0 ざコ ︵ すぎ a. の︵ 0n ヰす 0‑ ヨ︐ ︶の ひ 0. 邦茂︑﹁ 程祀姓 ﹂︑ 甲骨文字研究 収 ︒ 

︵ ︶小島祐馬 氏も此手 を土とされるが︑上部は祀 主 を威 する土壇︑ ユ 0% 書は犠牲の血清 と 解される 肘刮   

は 軍なる土壇と見れば足りるし︑ 又鮎膏は周膿 大宗伯 の祀 稜の血祭や丁︵ 木 ︶ 頗 ︵ 祭 ︶等の鮎書からの類推で あらうが︑ 

これ等の鮎 書 が犠牲の血 滴 であるか疑問である︒ 孫海 一が ︑ 黙妻を件ふ 土芋 の少 いとこ 

ろから云って軍なる 糟繁 形とすべぎであらう︒  の祀祀 自然紳の場合との 二類 があるとする︒ 但 し前 類の土も祀であるが︑同一ト辞中に他の先 公と 並列されて同様 

の祀 を享けてゐるから︑先公の範 濤に 入れる と云ふ のである︒後類は艶 土 ・亭主 と云ふ のがそ れであって︑当地の 

祀 ︑基地の祀と解すべ き ものとする︒而して 別 に 唐土・ 粂 土の如く︑ 唐祀 とも唐の土地ともとれ る ト辞 例を牽 げて ゐ 

  

渦 程は勿論 異 るが︑結論に於て 相土と祀 とを同視 する惇氏の見解に 鈴 

程 接近した事となる︒かくて ト 静の土を祀に 比 走 する事にはなほ問題があって︑守屋美都 雅 氏の 如 ぎも 祀と 見る事に 

は 賛成して居られない︒文献の祀は悉くが土地 神とは限らず︑ 祀 稜の語によって知られる如く ︑ 美国の保護 祀 或は二 

十五家を意味する聚落の寧位の場合もあるので︑ ト辞の土を直ちに 文 厭の祀に解する事には如何 にも 異ぁ煕 かあらう︒ 

そこで問題は祀の本質は何かと 云ふ 事となる︒  から 祀 ︐ 祀 同源詮を提起したが︑﹁ 土 ﹂ 字 とす る 事には 憂 りない︒従ってこれを土とする事は 一 般 に承認されたもの㏄ 

と見て差支へないが︑︵ ︶その性格については論争 がある︒嘗て 王國 維は最初これを﹁ 祀 ﹂と理した が︑ 後に読を改めての     ︵ ︶ ︵ ︶ ﹁当上﹂の語に基いて段の先公︵ 祀祓 ︶の﹁粗土 ﹂とした︒久博期年 は 和上とし乍らも同時に﹁ 郊祀﹂とする︒ 即 ち ︵ ︶ 人格 神 と自然 神 とのムロ 膿と 見るのである︒これ に 勤して薬玉森は専ら郊祀 詮 をとる︒これ等の諸 詮を暁る 紛々たる 議 ︵ 7 ︶ 論の詳細は既に紹介されてゐるが︑最も新しい 陳 豪家の見解はまだ十分に紹介されてゐないので 一億追加して置く︒ ︵ ︶ 陳氏も営 初相土 説を否定して社説をとった︒ 併 し 後には 相土 詮は依然認めないが︑土に先公1人 格 紳の場合と 某地 

     

キ Ⅱ 宙   

  

  

淀 

︵ 5  ︶  見を出した事があるが︑語って  詳  かならざる  鮎  があり︑  又  多少考へが  愛  つた鮎もあるので︑改め  て  考察してみたい︒  守屋氏の詮は何れ後に紹介するが︑氏は諸説を  批判した後︑従来の誘が祀の標識となるもの文彩  式を重要視して︑  察  ゼ  それをすぐ自然崇拝に結んだのに謝して︑  祀  が  聚落の中心であると  云ふ  油倉  的  重賞  を  重視  し  ︑  祀は原始聚落の住  生と  恥パ鱒  ㍉㌶  鞠簗  一隅隅㌶  引れ  ㌔     一致する︒は小島 血 的に  昭 妬馬此  に始︵  6  ︶ 

   騨  事實︑氏自身その見解が藤枝氏の所説と結  局は同じである事を明かにして居られる︒  又  宇都  木  氏の論文は周  禧  所見の  ㎝祀を中心として︑宗法制的支配下に  於  るその  性格と機能とを考察されたもので︑祀の起源に  まで及んだものではない  仰  が  ︑  祀の基本性格を宗法的秩序に  謁  する  排  除  的な面に置く難に於て︑守屋  氏  等の所論と根本  的に背反するものではな 

  

始  聚落の中心と見る事は我  國に放  る  豊  説の主流を  成すものと  元  へよう︒  併 

37@  (@37) 

︵ 35 ︶ 藤堂明保戊や 祀倉 史の面から 周祀 色見える祀の 制度を考察された宇都本章 氏等 がある︒︵ 4 

︶私も営 

日て 祀の起源について 私  ︵ ︶ 等のト テム 説 や陣要塞の 高頑 神との回廊 詮等が ある︒更に同氏以後に於ても音韻豊の面から﹁ 祀 ﹂字の本質を論じた  一 ' 一 

祀の起源に聞する諸説に就ては既に守屋美都雅 

  

に李則綱 ・孔食 毅  ︵ ︶王氏︑段 禧 散文及び﹁ 殻 ト辞 甲 所見先公先王者 ﹂︑ 額 堂集材 待九 ︑ 戟毒 生所蔵 殿虚 文字 者 輝一葉同じ︒ 

︵ ︶惇氏︑﹁斬獲ト辞烏木後記 祓 ﹂︑安陽 葮掘 報告第 二期︒ 

︵ ︶棄民︑段席書契前編集 樺 智一︑八葉︒ 

︵ ︶守屋美都雅氏︑﹁祀の研究﹂︑ 史串 雑誌第五九編 第七 號 ︵昭和二五年︶︑ 島 邦男氏︑殿廊ト辞研究 二 二九 | 三一頁︒ 

︵ ︶陳氏︑﹁古文字十二西周祭祀﹂︑燕京 争報 第一九 期 一一六頁以下︒ 

︵ ︶陳氏︑殻 盧 ト辞 綜述 三四 01 一頁︑五八二1匹 頁 ︒ 

この一文は燕國の祀が 芦國 の杜撰 に 諸官する事 を 述べたもので︑ 祀 ・ 祀 同源の文献酌 誇披 とこそ なれ︑果し  段 盛を示したものか︑問題であらう︒ 重浬氏が この文を芦に於て比較的に祀の原始形式が維持 された 外護と すなわ は ︑ 費 祀の比重を渦重規するものではないであ ろうか ︒更に㈹ 詩蒋の ﹁ 廼ち 家出︵ 祀 ︶を立つ ︑ 戒 醜の行く 

0 手樽 に ﹁大事を起し︑大衆を動かすには必ず 先づ 祀に 事 ︵ 祭 ︶ありて後に出 づ ﹂と 云 ふのは︑ 軍隊を動か  に 告げる事を云 ふ のであり︑而も所告の動機は 戦闘に在るのであって大衆を動かすに在るのでは ないから︑ 

ちに祀の集 國的 意義の詮 例 となるか︑疑問であ ろう ︒  右 三條の外︑更に㈲ 渡記 余沫 の ﹁ 王 ︑群 雄 の 震 めに祀を立て 又 大祀 と日ふ︑ 自らの 烏 めに祀を立 て 二王 祀 

諸侯︑百姓の為めに祀を立て ュ國祀と日ふ︑諸 侯 自らの 為 めに祀を立て二俣 祀と日ふ ︑大夫以下 群を成し︑  て芦祀 の 

されるの 

ところ﹂ 

す 際に 祀 

これが直 

と日ふ︑ 

祀を立て 

        

遺  休  し  國  が  も  め  此  な 一 

々詳細 

冤記に 

陰陽あり、 

て  人 畢 

,、 

ぐ 祀の集  それ  てその  較的簡  概 ので 

な批 

楚の燕  之 

詮に 

作 

く  寓佳  が必  起源  略で  略称 

判 

を試 

雲夢あ浬津 

、 

影響 さ  唯 

く。 

讃 抜 の  ずしも  と本質  はない  見を加 

     

か  て  明  ) 

特は 

と  勿  つ  の 

     

(38) 

  

も  存する事を忘れてならぬ︒ 

3S 

  

  

  

がを起源的乃至本質的形式の遺制と見  徴  すの  ま︑ 6 

一見 安営 のや ぅ であっても︑實はそこに観念論に 潤色された後世的 憂 ㏄    

によ  るかと  云  ふに  ︑  恐らく最初は自蔵の  祀と  差別  する  為  めに特に上下に  柵  ︶のと  母  詮ゃ  欄を施したのであったが︑これが後に陰陽  美  国  性  との間に直接の窩係は認め難いや  ︵ 蝸  う 

    

中 ネ  地       梱から陰陽思想の如き明確に後世の所産と思  はれる要素はこれを  佛抗  しながら︑そこに示され  た具  監的事實のみはこれ  ぴ  か始 

形式はやはり焦尾と考へるが︑ 云 ひたい のは祀の無屋からその美国性を導出する客観的 譚掠 がないと 云ふ 事であ    

時に︑友博 哀公 七年の﹁ 曹人 或は衆君子の祀 宮 げ 上エちて曹を亡さんと謀るを夢む﹂のやうな記述 を 忘れてならぬ︒ 尤 

考 もこの 祀宮 の 解 程につⅠては問題 Ⅹ 力 ミ ある カ ︵ : 4 l ︑ ︶ ﹁祀の宮尾﹂と解される可能性を否定出来ないで あらう︒但し私も祀の原  察  の 石崖 が 祀の原始形態でない以上︑これから 逆 算した祀の無尾も 亦 これ等の文献のみから原始 形 式 とする事は困難の  そうである︒更に㈱ 祀記郊 特性 の ﹁天子の大祀 は 必ず霜露風雨を受け︑以て天地の気に達するな り ︒この故に 喪國の 

祀 はこれに 屋す ︒大場を受げしめざるなり云々 ﹂は一見明瞭な如く陰陽 読 に基くものである︒ 文 献 には祀の鮭 屋 と同  其の下を柴す﹂や㈹ 周 腫大司徒の﹁其の祀 稜の 墳 ばて︑か︐ 援兵 ひ % これが田主を樹つるに 各 其の野の 宜しき所の木を以て 

す ﹂やこれと同主旨の田 圃樟 封人及び㈲ 逸 周書 作雛解 等の文は亦富澤氏自ら云はれる如く︑原始 的 祀の意義と構造と  なっても︑それが直ちに祀の本質的理解とはな うない︒川長の場合も同様の事が 云 へよう︒父性 が敗 屋を有しなかつ おは た 事からその人鬼でない 譚例 とする㈹全学 博哀 公 四年の﹁祀は封なり︑ 亡 國の祀は蓋しこれを 扮 ふ︑ 其の上を捻ひて 

て  貴社  と日ふ  ﹂・及び  周祀  川長の﹁  は  禁法篇の特殊性ま別としても︑︵  ︐む 2  l  ︶ 

若し歳時を以て 州 祀を祭祀すれば︑則ち其の民 を闘 めて 直 ︵ 法 ︶を 誼む ﹂の三傑 

これ等が封建的階級 濃制 に基 く 祀の序 階 である 事は明瞭で祀の集稟性の説明とは 

        

彩 乃至歪曲の存する事を注意すべぎである︒ 

ぬ に守屋 氏 が文献の祀を分析して︑合理的叙述 の中に於て 尚は 行はれてゐる非合理的要素を原始 遺制とされる基本 

態度は了解出来る︒併しこの場合でも後代的 愛 形の存する事を考慮に入れる必要のある事は勿 め 冊 であるが︑同時にそ 

れは飽くまで補助的或は間接的資料に止むべ き であらうし︑更に古いト辞・金文等直接資料の分 祈 が並行して試み ろ 

るべきである︒氏は祀の諸形態を検討して︑ 墨 子の叢 位 ︵ 叢祀 ︶の 祀 よりは叢に着目して祀の原 義 をそこに見出し︑ 

  日が とするが︑これ等の字音から﹁ 輻 化したとされる︒ 即 ち祀の最原始形態は原始 祀 ﹂の音は直接出て 緊   

これによると︑守屋 氏が 祀の原形を聚落の標識 に 求められる 根 披は要するに 叢 ・ 纂 ・ 薪と 云った 字 昔の睡 暇鞄係 であ 

る ︒ かュる 字音の通暇を遡源的に辿る方法が文 化現象の原初形態を探る一つの手懸かりとなる 事 は疑 ひないが︑何分 

上古昔の不明確な現在に於て事に字音のみに 基 く 推論は甚だ危険と云はねばならず︑同時に字形 の 探究を件はない時 

は 一種の観念の遊戯に 降 る 躍 れなしとしない︒ 現 に 同氏は﹁ 祀 ﹂昔が﹁ 祀 ﹂に残ったと云はれる けれども︑この雨音 ︵ 8‑ l え に通 暇の可能性が考へられない事は藤堂 氏 が昔 韻豊 的に論 燈 される通りである︒この場合﹁ 祀 ﹂ の 字形について更に考 

慮を佛ふ 必要がありはしなかつたか︒如何にも 韓非子や韓語 外停 等には 祀主 の 束 木の記事が見 ︐ え らから︑ 戦 國から 秦 

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ドキュメント内 『宗教研究』168号(35巻1輯) (ページ 36-45)

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