本多庸1
に 見 る 明 治 初 期 プ
ロテスタンティズム序
明治維新の変革は'日本近代史の発展の上からいろいろな角度
で検討されてしかるべきであるが'徳川幕藩休制の崩壊から明治
新政府の成立'そして自由民権運動'国会開設のル
1
‑で政治史を主体としてかえり見られる。同時に宗教や思想'文学等も文明
開化の一般的風潮として扱われる()特にキ‑ス‑教の場合などそ
の傾向が強い
。
そのような中でプロテスタソー・キ‑ヌー教の発展をどのように理解し'近代史上9位置を与えたらよいのか。本
論はこのような課題の解明に少しでも接近しようと試みた企てで
あるが'その方法としてプロテスタソー発展に直接関係のある人
物をとりあげ'そQ思想'行動を通じて分析してみようと思うの
である0本多庸1をとりあげたQは'内村鑑三や植村正久のよう
な強烈な非妥協性の見られない点に'むしろ時代性を反映してい
ると考えたからである。
本多庸一についてはすでに岡田暫蔵「本多庸1伝」・高木壬太
郎編「本多庸!先生遺稿」がきわめて資料的価値の高い文献であ 佐藤
和
夫
り'人物評論の面では相沢文蔵「明治、の人々‑本多庸iI」(道
標 十 四 号
〜十 七 号 '
弘前市道擦社、1九六二〜
六三)がすぐれている。
本多庸一に関する資料はかなり散逸してしまったらしいが'現
在青山学院で本多庸一先生伝記編集委員会(委員長同大学助教授
気賀健生民)が設けられt的係資料を蒐集中であるO本論は気賀
健生民'青山学院本部企画室長松田重夫氏に示唆される所多く'
新しい史料の拝見の機会を得た.なお本年1月下旬には新しい構
想の下に同委員会より「本多庸二が刊行される。本論作成にあ
たって気賀氏より較正刷を見せていただき公刊前に多々利用させ
ていただいた
。
感謝甲し上げる。第
一章本多と明治維新本多庸1は津軽が生んだ代表的宗教家である()彼の前半生は波
乱に富んだものであった。のちにキ‑ス‑教に接するや東奥義塾、
弘前教会を創立、青森県の民権運動を指導、更に県政に大きな足
‑
1 9‑
跡をのこし、渡米後政治家としての将来をふIりすて宗教活動に専∫
念、青山学院二代目院長(但し日本人初めての院長)となり宗教
教育に貢献し'メソ・hス‑三派合同を実萌し'メソ・,bヌー教会初
代監督となり明治四十五年、六十五才で死亡したOまさに明治と
共に生き'明治と共に没した代表的明治人である。
彼に対する史家の臼はいがいにきびしい。日清、日露両戦争に
体する本多の協力ぶりについて'相沢文威氏は、
日清、日露の両戦争の際の本多Qあのような協力も、本多が
教会の維持と宗教学校の経営という零実の問題をかかえて、こ
れに対する政治からの圧力を排除し、さらにはそれから好意とヽ便宜を与えられんことを期待してのことではなかつたか。その
ような意味では政治との取引によって外教として
の
陽のあたる場に出ることが歯華であった基督徴を社会的承認の場まで引き
ょせようとしたのではなかつたか。このように甚だ常識的で現
実的なゆき方が彼本来の傾向であったと思われる。しかし'そ
れにもまして、このゆき方を、時の政府に対する協賛を直ちに
愛国心の発露とする平均的な明治人︹の域︺を出なかった彼の
意藷がささえていた
の
ではないかo(道 標 十 七 号 )
と述べている)更に相沢氏Q舌鋒は
本多が宗教一本に専心することになってから、自ら果すべき
課題としたことは「い■かにして基督教を自軍に定着せしめる、か」
にあった。これを果すため、本多は彼なりに、時には宗教家と しての本分をこえた福の広い活動にょリ、時には政治や既成の
勢力と妥協することさえ酪することなく'外国資金も最高度に
利用し、出来るだけ早く全国に基督教を広く伝えることにその
生涯をかけたということが出来る。.しかし、そこにはすべての
人間的事業に伴う功罪が併存して見られたとせざるを得ない。
その本多の指導の下に成長したこの派の教会は今日もなおこの
功罪を背負っているのではないか。宣教百年を迎えて新しい世
紀に入った我が国の基層教界は'よ.りよき発展をするためにも
本多の歩みを反省し、そこから新たな課題を見出してゆくこと
が必要とされているのではないか.
と結んでいる。そこで本省の生長と思想の過程をたどってみるこ
とにする。ノ
嘉永元年十二月'津軽藩士本多八郎左衛門・とも子夫妻の長男
として出生、七才で父より孝経を、藩校稽古館典句工藤儀郎よ
り素読を学び'十二才で稽古館入学、素読会読及卓漢学を学び'
同飴学士鎗斎櫛引儀三郎より経義を学ぶ、又小野派一刀流'山鹿
流の兵法を習得した。十九才で朱子学に満足せず、陽明学を窺い、
熊沢蕃山の集義和書を閲読して得るところがあった。彼はこの頃
までに官学たる朱子学はほ一ほ習得していた。十八才の秋に稽古飴
の司監という取締役を命ぜられ'その若さの故に人々が驚いて柔
順ならざる気運であったので稽古飴総司の兼松成言(のち東奥義
塾の創立に貢献)ら教授が、人選の至当なることを説得した、、と
‑20‑
いうエピソードがあるほど'その才は人に弄れていた。そのよう
な彼がやがて朱子学派の説に対してあきたらなくなるのは当然の
ことであって'陽明学に関心を寄せてゆくのであるが'王陽明の
伝習録'陽明文集や'我が国陽明学派の中江藤樹、熊沢蕃山の著
書に深い感銘をおぼえたO王陽明は儒教の実践性の回復を唱え'
知行合一を尊重した。そQ倫理規範は人間の心に良知が存在して
おり、良知を致すこと(行)Iの実現が儒教の根本的理念であっ
て'良知の存在するかぎり'すべての人間は四民の別なく平等で
ある
O
というのであるから'幕府によって敬遠されるのは当然であった。しかし、その実践性は熊沢蕃山の池田藩の治績となって
示され'日本陽明学中興の祖といわれた三輪執嘉はその著「棲註
伝習録」をあらわし'町人層への浸透をはかつた
O
大塩平八郎の乱は平等主義思想の影響であり、昌立寮の席官佐藤一斎は'ひそ
かに陽明学をとなえ'門下に佐久間象山'山田方谷'奥宮塵斎'
横井小楠'吉村秋撃小一があらわれ'山田は岡山'奥宮は土佐の教
会に関係し'横井はキジヌー教的であるということで保守派に暗
殺されたrJプロテスタン‑の流入・キ‑ヌー教思想受容の基盤と
して陽明学は'思想的社会的に準備したものの二ノであり、人間
の平等や倫理を極度に内面化していたo隅谷三尊男氏によってキ
‑ス‑教受答Q陽明学の果たした役割が具休例をもって挙げられ
ているが(近代日本の形成とキリス‑教二六〜三〇貢)'内村鑑
三「代表的日本人」しかり'海老名弾正は 儒教でいふ上帝、曇天と'基督教でいふ神とは同じではない
か。結局は同じ所に帰着するのだと思った。(渡瀬常吉「海老名
弾正先生九〇頁)
と天を上帝に人格化し、天が我が心を見'天が我を保護するtと(r・])
〜
いう横井小橋の思想 の 影
響を如実に反映している。松村介石も同様な見解をもっていた
。
耶蘇教
の
所謂神とは即ち儒教の所謂天帝'上帝t.皇天ではない か '
されは汝は幼少時代より比の神の存雇を信じて居る筈だ(松村介石「信仰五十年」)本多の書簡の中には「上帝」ということばが見られる(明治八
年弘前教会設立願)
。
彼の陽明学への期待は次の
文によく示されている
O
余が藩は朱子学を以て士人Q学と定めたれども'余は朱子学
に満足する能はざりき。余祇園より朱子学の宇宙観へコスモロ
I,bイ)の如き高尚なる哲理に裁て深く味ひたるにはあらず。さ
る哲理は余の教育ンれたるものにはあらずっ余は唯'栖掃応符の
末節に汲々たる朱子学の煩墳なるに満足する能はざりしのみ。
されは余は藩学校の庫中に在りて学生の容易に見ることを許さ
れざりし陽明文集'伝習録等を辛うじて借り得て之を読みたり一。
余は又同じ理由に依って'熊沢蕃山の集養内外書を読みたり。
而して陽明学の朱子学よりもより多く自然なるを喜びたりO余
が基督教徒たるに及んで'藩の故老は日ひき'果然被れは陽明
‑ 21‑
学の書を読んで先ず邪径に陥りたるが故に更に基督教に瓶れり
と。此外余は固より椅神的訓練と言う程のものを有せぎりき。
余は神仏を信じて之を拝したるものにも非りきO(山路愛山
「現代日本教会史論」史論集二八六頁)
徳川幕藩体制を支えた朱子学倫理がもはや推持されない段階に
きている時'本多のこのような思想の展開は白然であつたがIt
それとても綾の内面的な葛藤の解決にならなかったのであるO英
文「私の回心」
( 7 ,1 t
・u‑Oqnrさまトqn「本多庸一先生遺稿」巻末所鼓)の中で次のようにのべている(相沢氏の訳文による
) 。
私の上にあって又は私の心の中で私を統勧する精神的実体を
もちませんでしたが、私は己に克つことはできました
。
かつて私は儒教の教えに従い'自己の点心に腰して貞実であり'潔白
であり文責実である様にと特別な努力を続けたことがあります
。
何とそれは苦しい努力だったでしょうか。日夜私は誘惑と狂わ
しいまでの戦いを続けました0時には1寸打ち勝つこともあり
ましたが'虜には全く敗北しましたo私は常に不安Q念にとり
つかれはてるに至りました.この様に為すべきことを知らず'
混迷している間に王政復古の時は近ずき'全国に大きな混乱が
おこりました()
こ
Q
ような精神的空自状況0
中で'青年の心をゆきぶったの
は幕末維新の勤皇、佐幕の抗争であった。少くとも本多らは青春の生
き甲斐をその渦中に見出したのは確かである。幕末の動乱の中で 津軽藩は苦心の末奥羽列蕃由盟から脱退して官軍としての立場を
守り得、幕府側として終始した本多らは鳶の裏切り的態度の変化
についてゆけず7時函館へ駐在させられるくだりについては'古
くは「津軽承昭.公伝」'最近では「弘前市史藩政編」に詳しく'
しかも平易にまとめられているので割愛するが、このような本多
自身激動の時期を経たOち'明治三年二八七〇)再び学問の世
界に落ち着いた.かつて弘前の医師北岡大津は旧新約聖書を読み
本多に.ハベルの塔の談を話してきかせた.がtのち佐藤弥六(弘前
市史人名録参照)より、聖書を借りて読むことができた。旧約聖
書創世記の「元始時神創造天地云々」の語はいたく彼を感動させ
たo(本多庸7伝)
その年'彼は津軽藩より選ばれ'新知識の吸収のため、横浜に
派遣され'修文飴でS・R・ブラウンやバラ等に英語を学び'やが
てキリス‑教との接触がはじまる
の
である.新知誠とは英語修業に他ならず(私の回心)'キリスト教信仰は最初は関心のう.40に
入らなかった。もっともキリ
:>
タン禁制の高札が撤廃されたのが明治六年二月であるから'勧禁制を破ってまでキリス‑教に接近す
るような理由はなかった.宣教師達も勿論この点はよくわきまえ
ており'米国改革派教会宣教師S・R・ブラウンの本国への報告
書にもこのことは明記されている(高谷道男編記「ブラウン書簡
集」(し
註L武田清子著「人間観か相魁‑近代日本の思想とキリスJ・