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『おくのほそ道』の送迎行動

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(1)

『おくのほそ道』の送迎行動

著者 濱 森太郎

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 6

ページ 47‑60

発行年 1995‑06‑04

URL http://hdl.handle.net/10076/6488

(2)

『おくのほそ道』の送迎行動

はじめに

正面から向かい合う「ムガエ」と、後から付き従う

「オクリ」とを節目とする送迎行動は、当事者間の地位

や身分、∴痙歴や親愛の程度によって多彩に変化する。し

かも、その変化は、来客に対する処遇の変化の形で、時

にその客人の軽重を表示する。

これを曽良の『随行日記bによってみると、曽良が独

行する際の送迎行動は、宿舎の捷供を受ける程度.だが、

芭蕉に同行する時には、次の十種類の送迎行動を目撃す

ることが出来る。

①宿舎を捷供する。

②宿舎に客人を見舞う。

③名所・旧跡を案内する。

④自宅に招いて饗応する。

⑤自宅で句会を開ぐ。

⑥送別の宴を開く。

森太郎

⑦餞別の句文等を届ける。

⑧道の途中まで見送る。・

⑨道中、人馬を用意する。

⑳宿泊先に紹介状を書く。

本稿は、こうした送迎行動の変化を通して、来客芭蕉

をめぐる「処遇」の綾を探り、合わせて、主七して「処

遇」の観点から『おくのほそ道』の隠れた意図を射照せ

んとする試みである。

この試みを通じて、私は『おくのほそ道』の主人公が

腰国修行を重ねることで「人徳」を増し、最後に、さな

がら「聖(ひじり)」のような処遇を受けることを明ら

かにしたい。また次に、その処遇の変化は、松尾芭蕉の

実際の旋の処遇に比べて、明らかに文学的美加工されて

いること、合わせて、その加工の要点が、送迎行動という社交的な行動の中から「義理」の部分を削り、風流心

の交歓を特立する作業にあったことを指摘したいと思う。

(3)

送迎の習債松尾芭蕉の奥羽行脚が彼の紀行文ほど優雅なものでな

かったことば、よく知られている。念のために、曽良の

『随行日記』を紐解いてみても、目につくのは、次のよ

うな場面の数々である。①小野ド石ノ巻ノ間、矢本新田せ石町l享岨乾、家毎こ湯′乞共不与。道行人、年五十七八、此鉢を憐テ、

知人ノ方へ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。

(五月十日、矢本新田)

②天や爾惣兵衛へ爾三郎状届。宿ナド云付ルトイへた

不快シテ出ヅ。道道両度人走テ止、不止シテ出。小

雨折々降ル。(七月五首、柏崎)

③聴倍寺へ爾三状届。忌中ノ由こテ強テ不止、出。石

井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出

ル故、幸卜帰ル。(七月六日、今町)

ここには、咽の乾きをいやす程の湯さえ貰えない日が

あり、不快な態度を隠さない宿のあるじが居る。腹立ち

の余り雨の中を歩き出す時があり、再三止められてやっ

と滞在する気になる隠がある。芭蕉と宿の主とは、互い に見知らぬ人間として出合い、即座に相手の人品骨柄を見定め、その場にふさわしい行動を取る必要がある。したがって、時には、「不快」が避けがたいものとなる。・もちろん、これに因っセ、∵奥羽地方の庶民が正体不明の托鉢僧に殊更冷淡であった七考える必要はな.い。これもまた、見ず知らずの旅人を処遇するこの地方の庶民の応接態度の一つ・であっセ、逆に〔この地方を快適に放するには、先ず「紹介」を膚、顔見知りの形で旋することが必要なのである。また、その紹介者が土地の「顔役」であれば、話はぃ一層適じゃすいものと見えや(注.1)。当然、ここには、血縁・地縁尤結ばれたト「顔役達」の活躍する世界があり∵その世界を通過するにふさわしい作法や習慣があるのである。

曽長の『価行日記』から、芭蕉がこの奥羽行脚で丁重

なもてなしを受けた地域を拾い出す七、「余瀬・黒羽」・「須賀川」・「仙台」

「尾花沢」・「羽黒」・「鶴

岡」・「酒田」・「村上・柏崎・今町・高田」・「金沢」・「小松」・「大垣」・「長島」の十二か所。「村上・

柏崎・今町・高田」「長島」を除けば、これちの地域が、

概ね送迎行動の叙述を通じて『おくのほそ道』の要所と

なることは言うまでもない。例えば、黒羽の浄坊寺兄弟

の場合予滞在期間、十四日の内、接待の日が十日に上っ

ている。また、一度だけ光明寺に招かれたこと、津久井

‑48‑

(4)

何某が芭蕉を尋ねたことを除けば、黒羽での接待はほぼ

浄坊寺兄弟の協力で行われている。

四月三月四月四日

四月五月一

四月九月四月十一日

四月十二日

四月十三日

四月十四日

四月十五日

四月十六日

余瀬

畢桃宅、.ヨゼト云所也トテ、

余余余黒黒黒 瀬瀬巌羽羽羽

弐十丁程アトヘモドル也。

浄法寺図書へ被招。

雲岩寺見物。

光明寺へ被招。

翠桃へ帰ル。

図書被見廻。篠原被誘引。

津久井氏披見廻テ八幡へ参詣

四月十八日

四月十九日 被誘引。

余瀬

図書披見廻。終日、重之内持

参。

余瀬

翁と鹿助右同道に.て図書へ被

参。是ハ昨日約束之故也。

余瀬

翁舘ヨリ余瀬へ被立越。則同道こテ余瀬ヲ立、及星図書弾

蔵應馬人こテ被送ル。(中略)

宿角左衛門、図書貯状被添。

高久

高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ

快晴ス。.馬壱疋松子村道送ル。都須・享鉢こ出ル。朝飯後、図書家

来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。 これら、「接待」を含めた送迎行動を箇条書で整超すると、次の十箇条にぎとぬることがでぎを

①宿舎を捷供する②宿舎に客人を見舞う

③名所・旧跡を案内する.④自宅にて饗応する.L

⑤自宅で句会を隙く⑥送別の宴を開く

⑦餞別の句文等を届ける◎.遥の途中まで見送る

⑨道中、人馬を用意する⑳宿泊先に紹介状を書くこれらの一々は、多分に習慣的な送迎行動であって、J

その行動がパッケージになることで丁重な処遇を意味す

るものと思われる。町人では、須賀川の乍単音、尾花沢

の清風等が、やはり浄坊寺図書周様、宿を捷供し、饗応

し、句会を開き、名所・旧跡を案.倒し、最後に馬を用意

して芭蕉を送っているが、その場合は、友人が打ち揃っ

て役割を分担する形で芭蕉の接待を済ませている。

また、芭蕉も、この「もてなし」を多とし、黒羽には

「小袖・羽織」に書状を添え、仙台の画工加右衛門には

「冊尺(*短冊)横物」各一幅を書き与えている。奥羽

行脚の出発にあたって、「短冊盲枚」(元禄l一年二月十

六日付、宗七・宗無宛芭蕉書簡)を持参した芭蕉は、多

分、行く先々で、この短冊による返礼を繰り返したもの

と推測される。

次に、これを『おくのほそ道』の本文と照らし合わせ

(5)

ると、そこには次の五点の相違がある。

(1)実際の接待の中心は翠桃だったにも関わらず、浄

坊寺何某を「あるじ」として取り扱っていることJ

(2)紀行の本文には、⑤自宅で句会がを開く、⑥選別

の宴を開く、⑦餞別の句文等を届ける、.⑧道の途中まで見送る、⑳宿泊先に紹介状を書く等の事実

が省略されていること用

(3)「重之内持参」という飲食に関わる事実が省略さ

れているこ七。

(4)鹿助・高久角左衛門という、実際に送迎を勤めた人物の名が省略されていること。

(5)次の宿を得るための添え状・返礼など応接の鰍部

が省略されていること。

こうした「応接」の細部の省略は、〜須賀川、仙台、尾

花沢、羽黒、酒田・象潟、金沢、小松の場合にも起こっ

ており、『おくのほそ道』の一貫した方針と見ることが

出来る。省略の理由の」つは、それらの「もてなし」が

充分好意▲に満ちた処遇だった事さえ分かれば、その詳細

は概ね推測できるからに違いない。また、これむ詳細に

書くことは、余計な誤解を招き易く、かつ叙述が小うる

さくなるという欠点も生じる。

さらに、今一つは、例えば須賀川の可伸の例のように、

「可伸庵こテ会有。会席、そば切。祐碩賞之」という

「もてなし」の細部を省略することで」可伸の社交生活 を棚上げにする意図もあっただろう。▼この棚上げによって、ことさら世を捨てた高潔な隠者可伸の生活ぶりが強調されるからである。同じく、仙台における画工加衛門の瘍合は、→ほし飯一袋」「のり壱包」.を省略すること

で、加右衛門を見事「風流のしれもの」、美的な生活者

に変容させる事ができるのである(注2)。

羽屠参詣の意傭∴

ところで、羽黒三山巡礼の一節は、送迎習慣という観

点から眺めたときに、■特別深い意味を持って小る。中で

も重要なのは、六月七日、羽黒山・月山・・湯殿山の登山

町後、芭蕉が初めて「サカ迎」という形で、光明世の

「出迎え」を受けることである。

ー50‑

六月七日

六月八日

六月九日

羽黒

強清水逆光明坊給弁当持セ、サ

カ迎セラル。

羽黒

和交院御入卜申ノ刻二重ル。

羽黒

赤、和交院ノ御入テゝ飯・名酒。等持参。申刻こ至ル。花ノ句ヲ

進テ、俳、.終。

六月十日

羽黒

飯道寺正行坊入来、会ス。塵前、■本坊こ垂テ、蕎切.・茶・洛ナド

(6)

虻。宋ノ刻こ及ブ。道連、円入

欄迎。又、大杉根追被送。{中略).左書ソ宅ヨリ翁計馬こテ光

堂造徽章選ル。左書同道。

この羽黒登山が、身の汚れを払い、呪力を身に付ける

羽黒修験適の行法だったことは言うまでもあるまい(注

8)。′この行法を通じて修行者が身に付けた呪力は、主

に旦人の予言・治病・、鎮魂の手段に用いられたために、

修紛者は、里人からはことさら丁重にもてなされた。ま

た、里人もその「もてなし」に依って、修験者の威徳に

浴し、善根を積むことが可能だった(注4)。このため、

この「もてなし」は習慣となヤ、やがては、この地域の

客人一般を迎える「もてなし」の原型になったという

(注5)。

もとより、芭蕉が受け美「サカ迎←も、修行を終えて

下山する修行者を出迎え‑る宗教的な行事の一つである。

ところが、この羽黒登山の後、六月八日・六月九日と続けて会覚阿常喫が酒食持参で来訪し」次いで六月十日

には、従者による送迎付きの選別の宴となり、ついには、「点書ノ宅ヨリ翁計馬こテ光皇道釣雪送ル。左書同道ご

と卜う丁重な割らいとなる。図司左書の同道に加えて、

馬に付け人、釣雪まで付けた極め付きの送別である。そ

の上、六月十三日に.は、阿闇梨の餞別句を添えた贈答品 がわざわざ鶴岡まで送り届けられたという(注6)。..出船ノ瑚、羽黒貯飛脚。.旋行ノ帳面被調、被適。又、

ゆかたニッ被贈。亦、発句共も被為見。

漉いて、象潟では舟を仕立てての象潟遊覧に加えて、「弥三良」のごとき随身者も登場する。

夕飯過テ、潟へ船土テ出ル。加兵衛、茶・酒・美子

等持参ス。(中崎)

弥三良低耳、十六日こ働ヨリ追来テ、所々へ随身ス。

また、清野・金沢では、句会と饗応の繰り返しの後に、

同人総出の見送りが企画され、村上では、「城中へ案内」

の上、筆頭家老榊原帯刀に謁見を許された。さらに加え

て、「書兵御隠居貯被下物。山野等之奇物持参。又、御

隠居苫重之内被下」友右給瓜、書兵内給干菓子寄贈。」

のごとく、種々の贈答品に困惑する始末である。

中でも圧巻は、柏崎・今町・高田における送迎の模様

で、ここには、芭蕉の名声を知らないまま、横柄な態度

で芭蕉を迎える宿の主がいる。そして、その無礼な振舞

いが、返って芭蕉の滞在を熱心に懇願する信奉者の請願

行動を誘発する。「道連両度人走テ止」(柏崎)、「石

井善次良聞テ人ヲ走ヌ。不帰。及再三」(今町)などが、

その証拠である。また、それに連れて芭蕉」行の処遇が

(7)

高ぜる.様子は、次の記録かち・窺うことができる。「聴信 寺へ被招。再三辞スト強招テ及暮。、」(今町)、.「強テ止テ、書衛門饗ス。」(今町)、「細川春庵ヨリ人道シテや連テ凍ル。」(高町)。rさらにまた、「有ナド云付ルトイへ巨人掛埼)∵「宿、古川市左衛町方ヲ云付ル十(今町)「宿六左恩字誉爵門ヲ遭ス。謁スご一

(高田)尊からは、当賂.、かなり.横柄な芭蕉主催の応対

ぶりを予測することもで習る。

そ町上、金汎ではし「カゴヲ遭シテ竹雀ヨリ迎、(中

略)萬ス。」、小松では、「竹意同道故、近江ヤト云こ宿う北瀬随之。」「欲小松立、所衆聞テ以北枝留。」

(小松)などとある。ここでも、駕籠をもって経ち受ける憩切な出.迎え、小松までの向行・随身、.小松の宿の斡

旋が記録されている。恐らく芭蕉遵は、この厚遇に報い

るぺY、やむなく出発を延期するのである。

重要なことは、黒羽の浄坊寺図書・須賀川の乍単音・尾花沢の清風など有力な武家∴町人の送迎の中にさえ現

れなかった丁重な「出迎え」、度重なる「供応の懇願」▲見送乃を兼ねた.「同行・随身」などが、この羽黒澄山以

後、続々と乱れることである。もとより、先に見た黒羽の浄坊寺図書・須賀川の乍単音・庵花沢の清風など有力

な武家や町人達が、芭蕉の送迎に手骨抜いたわけではな

い。もともと特別な場合を除けば、武家や町人の日常の

付き合いの中に、人を遺しての「出迎え」や主人自身に ょる「随身」は無車(注7)。逆に、胡黒の会覚阿閤梨・高周の細川専権・池田六左衛門.の、人を遣tての「出迎え」や、象潟の弥三良低耳(注8)・福井の等栽・金沢の北彼等の「随身」の方が、俳詰師芭蕉の身分を超えた厚遇なのである。

では、芭蕉の人望七知名度と虻、.なぜ、こめ症内地方で急速に高まったかご守しには、当然、芭蕉の人望や知

名度の外に、それを受け入れるこの地域の風俗や習慣の

問題が隠れているのであるJ

「出迎え」「随身」

たとえば、谷木因の場合なら、同じ元禄二年二月の上

方旅行の子細を報じた書簡に、次のような文面を見つけ

る事ができる。

①八日未明こ発足、一柏原の俳友へ立寄侯所二是非く一宿とて、いろくまふけせしほどに盃の数重りな∵から、枚ふりきり立出侯云々。(元禄二年二月十九

日、矢橋交慰宛木因書簡)

②十二日朝十五日朝迄ならこ滞留、殊外御馳走こあ

52

(8)

ひ申侯。(元禄二年二月十九日、失橋交慰宛木田書

、僑)・これらの文面から推して、谷木因は、俳人仲間や同業

者に相当手厚くもてなされることがあったらし小。・だが、

そのもてなしは、概ね「宿舎の提供」「馳走」「句の贈

答」の三つに留まっている。

また、ノ宝井其角(『新山家』貞享二年五月成・『句旦

弟』所収「随縁記行」)、向井去来(「伊勢紀行」兵事

三年秋成)の場合は、木因のそれに比べるべくもない

(注9)。・同じく、森川許六の江戸出府の記録(『許六

集』

『旋館日記』『五老文集』)を見ても、送迎の実際

は、「こよひは太田の宿福田の何其のもとを敲て木曽の

寒かりしをかたり、関・岐鼻の物かたりなと尋てやかて

まとろみぬ。」(『五老文集』、元禄五年十月十七日か。

注1〇一とあるに止まる。

一方、河合曽良の一人旋の記録(『随行日記』八月七

日から八月十五日まで)でも、送迎の実感は、次のよう

である。 八月十日 (中崎)カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。戊刻、.出船。夜半こ色へ着。塩焼男導テ、本隆寺へ行テ宿。

敦賀

出雲や爾市良へ尋。隣也。

八月七日

八月九日

森岡

六良兵衛卜云者こ宿ス。

敦賀

気比へ参詣シテ宿カル。

唐人ガ橋」大和や久兵へ。 金子壱両、翁へ可渡之旨申頼、預置也。

八月十一日木之本.天や五良右衛門尋テ、.翁

へ手紙認、預置。五良右

衛門こハ不達。

八月十二日.鳥本禅桃留主故、鳥本こ趣テ

宿ス。宿カシカネシ。

八月十四日

大垣

不破修理ヲ尋テ別竜霊社

へ詣。修理、汚積有テ別

居ノ由こテ不達。弟、斉

藤右京同道。(中略)如

行ヲ尋。留主。息止テ宿

ス。

この記録からも」曽良が宿の捷供、神社への案内程度

のもてなししか受けていないことが胡らかである。・

この外、『おくのほそ道』の跡を慕って奥羽尤旅立っ

た茅部路通(『俳話勧進帳』元禄四年刊)、天野桃隣

(9)

(『陸奥千鳥L元禄七年八月刊)、摩詰庵雲鈴(「摩詰

庵入日記』元禄十六年成立)の場合も、こ.の事情は変わらない。例えば、天野桃隣のr陸奥千鳥←の送迎に関わ

る記事から一例だけ目立つものを引用すると、次のよう

になる。

羽黒山へか1る麓に、手向町、旋人舎り所なり。此所に芭蕉門人図子呂丸七て誹士あり。(中崎)登山

の日和溺ひがてら滞留、彼の門弟、今は便りもなぐ

よりそふべきたつきもなかりし虎に、かくと聞くよ

り詰めかけての誹談云々(*句を略す。俳詣文庫『俳話紀行全集し三二三貢)

ここでも、I「土地の俳人達の見舞い←■「歓迎の句会」

の二つがある。この二つが、行脚の俳人を迎える際の「定番」に近い歓迎行事であったことは、・芭蕪の年譜

(井本慶一.編1『校本芭蕉全集第九巻』所収)や西鶴

の年譜(『西鶴年譜考証』野間光辰編)を開けばすぐ.に

確認することが出来る。だが、中には芭蕉に似た例もないわけではない。同じく行朋に明け暮れた各務支考の場合、行脚の初期の処遇は、路通・.桃隣・雲鈴等と大差ないが、行脚が重なヤ

馴染みが生じ、支考の名声が高まるに連れて僅かながら

処遇が変化した形跡がある。・先ず、元禄八年の『笈日記』

から、一例、目立?たものを引用すると、.ノそれは」次の ように暑かれそいる。

水魚・呉竹といへるはらからの人は、風雅の心

ざし切にtて吾行脚をとゞめて、二人ながらよ

くもてなされければ、

とこやらか菖ににほふかきつばた(*支考)

(『笈日記』元禄八年七月自序、俳許文庫『支考全

集』五五貢)

ここでは、支考もまだ「宿の捷供」「土地の俳人遵の

見舞い」「歓迎の句会」の三拍子だが、宝永五年刊の

『夏衣』では、見送りを兼ねた「随身暑」が現れる。

例(の)直江津の人々けふの首途凌いは1ばやとて

なにかしが家に陣とりで明偲の1、けしきをもてなし

たるに、(中略)左明は仏家の遊歴をたのしみ、過角は世法の閑暇をぬすみて、先は行衛なくうかれ出

たるも.おかし。(『夏衣』宝永五年七月刊、俳諮文

庫『支考全集』一七五貢)

表面は、左明・過角が勝手に直江津を浮かれ出たかのような書き振りだが、夷は、左明は柏崎まで、過角は黒

井まで支考に同行している。

要するに、ただの旅行客よりは修行者が尊重され、同

じ修行者でも、新米より年巧者の方が丁重にもてなされ

るものと見える。もちろん、この処遇に、修行者の魅力

や社会的な名声、俳人としての技量、:さらに迎える例の

54

(10)

資産の豊かさや馴染みの深さなどが加味jれることは言

うまでもない。

また、これは、同じく奥羽地方を行脚した西山宗田の

『奥州塩釜記』(寛文二・三年成、注‖)、大淀三千風

の『日本行脚文集』(元禄三年刊)、・四国.・中国に放し

た松江重頼の『白水郎紀行(あまのこのすさび)』

(天

和三年六月序、注ほ)∴姫路に放した椎本才丸の『推の

妻』

(元禄五年九月成)に照らしても同じである(注l■3}。

もとより、紀行文は、もともと各地の俳人達の送迎や

接待を詳しく報告することが狙いの文章ではない。その

ため、自然、送迎や接待に関する記述は、抑制された調子で報告される。例えば、芸くのほそ道』.に叙述が似

ている『東関紀行』『海道記』などはその典型であって、

送迎並びに接待に関する記事はほとんど無い。従って、

送迎や接待に関する記事がないからと言って、粗略なも

てなしを受けたと考えるのは短慮であって、当然、彼等

も、それぞれに地位や知名度にふさわしいもてなしを受

けていたのである。

では、なぜひとり芭蕉に対する送迎行動は、彼の弟子

達に比べて盛大なのか。

風流人の送迎の伝統 すでに述べたように∵芭蕉に対する厚遇のきっかけは、芭蕉自身の羽黒巡礼にあうた心太月七日、「強清水」まで弁当持参の「サカ迎」を受けた芭蕉は、翌六月.八日・六月九日と二日続けて会覚阿閣梨の見舞いを受け、さらに三日月には、、円入忙よ電送迎付きで、本坊の酒宴に頂かれる。さらに同じ十日には、国司左書付添いの上、付け人、・.釣雪並びに馬を以て道の途中まで送ちれ美。

芭蕉の場合、貞事元年(一六八四)の大和行脚に始ま

る長い行朋の経歴と、その行脚に続くこの度の三山巡礼

の実績があ′ったればこそ、この厚遇が生じた七考えることが出来る。また、.それを迎凍る会覚・左書・釣雪その

他羽黒の人々の歓迎の仕方も、仏道修行者の世界の歓迎の作法に即tたものだった。きらに、羽帯の会覚・左官に胎まり、鶴岡の重行・酒

田の淵庵不玉へと続く人脈やネッ一寸ワークも、この羽黒

での手厚いも■てなしを受け継ぐにふさわしい人脈だった。

図司左書は→わざわざ鶴岡の長山重行宅まで芭蕉に付き

添った上、重行宅で興行された「めづらしや」歌仙に周

序している。一方、芭蕉はその俳席で、発句に「七日羽

黒に参龍して」と前書して、巡礼後の、晴々とした「出

山」の実感を披露tている。

この場合1左書Ⅵ立場は、黒羽におけ.る浄坊専一族の

→桃翠」に似ている。彼は芭蕉に付添い、所々随身し、

芭蕉の世話をし、長山重行に向かっては∵芭蕉の人柄・

(11)

三山巡礼の美濃・会覚阿閤梨の厚遇を保証するのである。

『聞書七日草』によれば、芭蕉もまたその厚遇に報いる

ぺく「天地流行のはいかいあり。風俗流行のはいかいあり。」で始まる蕉門の俳若木質論を左書と会覚とに書き

送っている。また、芭蕉は酒田でも、淵庵不玉主催の俳

席に臨んで、三山巡礼の労苦をねぎらう会覚の餞別句に自ら脇を付して一座に披露している(「忘るなよ」四句)。

次いで、この人脈を通じて羽黒滞在中の芭蕉の人望と

会覚の「厚遇」とが事前に流布⊥ていたことも考慮してよいことである。おなじネット・ウークの中で、もし周

囲を見渡して芭蕉の処遇を定めるなら、芭蕉の「もてなし」は当然会覚のそれに見習う外は無かっただろう。ま

た、村上・柏崎・今町の場合のように、粗略なもてなし

が返って、このネ.づト・ワークの熱心な接待を誘発する

こともあった。

さらに、もう一つ、この庄内地方が三山巡礼の「道者」

のホトム・グラウンドだったこと庵(注l・4)、見落とせ

ない事実である。すなわち、各自が「檀那場」と称する

管轄区を持ち、「講」を組織し、宿舎を用意して活発に

三山巡礼を勧誘していた羽黒山伏の本拠地が、この庄内

平野だったのである。・ここには、.当然、会覚阿閣梨と羽

黒の山伏につながる強い人脈の影響力が働いていたはず

である。

さらに、もともと、地方には廻国修行、の僧侶を尊重す る気風も残っていた。例えば、行儀作法書には「法中に対して無礼すべからず。(中略)関東には、諸侍馬上にて道を行一くに、いかなる乞食沙門にも下馬をなす」

(『伊勢守貞親家訓』伊勢貞親書、長禄年間成。注15)、

「出家は大事也。総じて申の刻未の刻ならば何かた迄も

御供申ぺし」(『今州大草紙』「躾式法の事」今川了俊

著。注16)という心得を記すものもある。・また、松江重

頼の『白水郎紀行(あまのこのすさび)』(天和三年六

月自序)ン←には、実際、日相上人と伊予の三津浜に上陸し

た時の磯子が、次のように報告されている。

十日の昼ほど碇伊漁の囲三津のはまにつき、上人は

駕にのヶ、すぐに城下にわたり姶ふ。余はとし月し

りたる天野氏月弓子のもとにやゼりとりぬ。

(『続々群書類従』第九巻七一五貢)

高貴な僧が、地力では駕籠による出迎えや価身七いった、かなり丁重な処遇を受けていたことも分かるだろう(注

17)。

さらに、故事と言うべきだが、宗紙の『筑紫道の記』

には、次のような記事もある。一是より守護所中務少輔周弘詮の舘に至り、傍の禅院にやどりして、.又の旧、彼の舘にて、さまくの心

さしあり。(中略)是より宰府聖廟へまゐる。陶弘

詮より侍こ入添へらる。心さしいはむかたなし。

(宗紙『筑紫道の記』.『俳静養書俳人逸話紀行集』・

‑56‑

(12)

四七六貢)

陶弘詮の舘での歓迎と侍二人を添えた見送りとを「心

さtいはむかたなし」と感謝するところから見ても、こ

れは、多分、破格の処遇だったものと推測される。また、

もう一人、宗舐の弟子の宗碩も、伊勢参宮の途中に破格

の送迎を受けた記録がある。

筒井よりおくりの人々ゐて行くに、鞍おきたる馬ど

もあまた行きむかへるに、ともなるものゝあないし

て、宮原七郎兵衛尉の迎へのよしいへり。

(中略)今日も亦宮原七郎兵衛尉盛孝、掬うちならべ

ておくられける。

(宗碩『佐野の和多理』『俳話叢書俳人逸話紀行集』

四九〇頁)

この宗碩の外、宗長や紹巴・宗牧も、東国在住の武士

に、馬を以て出迎えられ、歓待され、見送られた記録が

ある。これら中世の連歌師達が、東国の守護遠から丁重

なもてなしを受けるところには、僧形の文化人を厚遇す

る習慣があったものと思われる。この文化人を厚遇する

送迎習慣もまた、芭蕉の盛大な送迎を生み出す力の一つ

だったものと推測される。

さらに、何より大きな理由は、俳話に熱心な会覚・■左 書等の人柄であろう。芭蕉に同行した図司左書の『聞書七日草し、北彼の『山中問答』は、芭蕉に随身した彼等が、俳譜を決して遊び道具とは考えなかったことを示している。

ばた、最後に、芭蕉自身が極めて真筆に蕉風の俳謳理念を語り、その理念が彼らの共愚を待たことも、その理

由の一つに数え上げて良いだろう。

以上、芭蕉の異例に近い厚遇の背景には、こうした庄

内地方の土地柄、宗教的な習慣、人脈、人脈の中の波及

効果、僧侶を尊重する気風、文化人を迎える習慣、会覚・左書・不玉らの美挙な人柄、芭蕉の高遠な思索と力量

とが重なっていたものと思われる。しかも、その一つ一

つの理由が、互いに重なり合うことで送迎のダイナミズ

ムを加速し、芭蕉の評価を高める形で作用したのである。

『おくのほそ道』の作意

だが、改めて言えば、『おくのほそ道』では芭蕉が盛

大なもてなしを受けた村上・柏崎・今町の記事が省略さ

れている。さらに、鶴岡・酒田・象潟・金沢の各条から

も、社交に近い送迎の実際は、あっさり削除されている。

そして、その替わりに、鶴岡以降、いかにも風流人らし

い送迎記事が次々に追加される。

(13)

先ず「象潟」では、「潟に舟をうか」ぺ、干満珠寺の方丈の「簾を巻」いて鳥海山の絶景を満喫し、「全昌寺」

では、「若き僧」遵が「紙硯をか1え、階のもとまで」

追いすがった。また、「丸岡天龍寺」では、「金沢の北

横」が「かりそぬに見送りて此(の)処までしたひ来」、

福井では、等栽が「路の枝折とうかれ立(つ)」った。さらに、敦賀では、宿の主が遊行の砂持ちの光景を推奨

し、「天崖何某」が「色の浜」の秋色を賞味すべく「破

龍・小竹筒など」取り揃えて、湾に舟を出した。加えて、

「露通」はわざわざ大垣から敦賀まで「出むか」え、大

垣では、「曽良も伊勢よヤ来り合」、越人も名古屋から

「馬をとばせて、如行が家に」参集した。この町に住む

「前川子・剤口父子、其外したしき人々」偲、「日夜と

ぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたは」って時を過ごした。大垣での、上の盛大な送迎模様が、

『おくのほそ道』の送迎場面のピークであることは言う

までもない。また、この懇切極まりない送迎模様こそ、、『おくのほそ道』層頭の惜別の光景と対をなす一巻の眼

目なのである。

そして、最後は、再びの別離である。季節は秋の終わりながら、主人公は、軽々と、まるで風のように旅立っ

て行く。族寝の果ての今、主人公にはさながら「聖者」のように清潔な哀愁が身に付いている。 伊勢の迂宮おがまんと、又舟にのりて

蛤のふたみにわかれ行(く)秋ぞ(『おくのほそ道』)

『おくのほそ道』結末のこの送迎行動が、月並みの俳

話師のそれでないことは既に述べた。また、村上・柏崎・今町・高田と急速に盛り上がったはずの世俗的な送迎

行動は、病気による気分の悪化という理由であっさり省

略された。また、実際の送迎行動では必ずしも頂点とは

言い難い大垣での、門人打ち揃っての送迎行動が一際大

きく取り上げられた。

さらに、添え状によって連なる世俗的な人間のネット

ワークに所属する武士・町人の大部分が病歴に削除され

た。会覚・左書・長山重行・淵庵不玉等は、羽黒の修験・

道に関わる風俗・習慣を共有する人間である上に、風流

を解する人々として位置付けられた。

加えて、金沢から随身した北棟、福井から随身した等

栽、敦賀まで出迎えた露通、大垣まで出迎えた曽良・越

人等の、随身や出迎えをさり気なく書き込むことで、こ

の風雅の《志》に由来する人々の連帯は、『おくのほそ

道』の中にしっかりと刻印された。そして、その結果、『おくのほそ道』結末部の主人公の送迎場面は、さなが

ら「秀句の聖」(『冬の日』)の送迎のごとき外観を呈

する▼ことになったのである。

ー58‑

(14)

おわりに芭蕉主従彗勿論、貴族でも武士でも僧侶でも無い。

また、東国の守護や被官に丁重にもてなされた、かつて

の高名な文化人でもない。従って、会覚や左書は、客人

をもてなす富家の格式や礼儀作法に基づいて、儀礼的に

迎えたわけではない。世俗の地位を持たない芭蕉主従に、

もし先のような丁重な送迎があり得るとすれば、それは、

ひとえに彼等の風雅を愛する《志》に由来する。また、

実際、遠路はるばるの出迎えや打続く随身は、そういう

有志にして初めて可能な送迎行動でもあった。

こうして、『おくのほそ道』結末部のもっとも丁重な

送迎場面は、風雅の《志》の盛大な′発現として記録され

た。しかも、その送迎行動は、作品の首尾で照応し、表

日本と裏日本とで対照をなし、結末の大垣の粂において

最高潮を迎えるべく加工された(注略)。その理由は、

おそらY井本農一氏も言うごとく、この紀行文が、もと

もとそうした風雅の《志》の様々な発情と高揚とを描い

て、風雅の世界の悦楽を伝えんとした紀行文だったから

ではないだろうか(注19)。

いずれにしても、芭蕉が、送迎行動という世俗的な振

舞いを、見事、文学の材料として使いきっていることに

は敬意を表する必要がある。と同時に、ここに、『おく のほそ道』を『東関紀行』や『海道記』と区別する特徴が見出される。つまり、『おくのほそ道』は、仏道修行の習俗・文化を下敷に「秀句の聖」の誕生を語る凝行文として眺めることが出来るのである。注l

曽良の1随行日記Lには「循角左衛門、・国書お状被添。」

(四月十六日)、「問屋善兵へ方(手代鴇原半太夫)へ幽囁

給状儀漆故、殊之外取持。、」(四月九日)などの記事が散見

する。

牲2

紀行におけるこの加右衛門の振舞いを「まめやかな実意」の

現れたものと見る見方もあるが、従いがたい。「風流のしれ

もの」三宅清、『文学』昭和三十九年十月号参照。

注3

大横俊雄著『遊行聖』(大蔵出版刊)三五頁参照J

注4

広川勝美編『伝承の神話学』「遍歴のトポロジー」

院)八九頁、参照。

注5

『異人論』(小松和彦著、青土社刊、一六七頁)参照。

注6

羽黒での実際の歓迎ぶりは、戸川安章「羽黒山における芭蕉

(一)(二)」(『国語国文』二一十三巻丁二号)に詳しい

ので、省筆する。

注7

諸大名の故実を記した『諸大名出仕記』には「主人又は貴人、

私へ御出の時は、門外まで駆出事も可有之。又庭上にて出合

申事も有之。在所の事は、其家作又は時儀によるぺし。又、

諸家へ御成の時は、其亭主大門の柱の際まで罷出かしこiり

侯。」とある。丁重な送迎の場合でも、出迎えは自宅の門の

(15)

内外で取り行われていた事が分かる。

注8

弥三郎は、美濃の商人だが、出会った場所が象潟なので、象

潟の弥三郎とした。

注9

彼の場合は、元禄十二年の秋にも長崎まで赴いているが、こ

の時は′、帰路広島の俳人達に強いて七どめられるのを逃れて

→けふ翌となりていそがしもたり鳥」(『背進L)の句を残

している。俳人としての知名度が高くなるに連れて、こうし

た機会も増えていたものと思われる。

注10

『俳書叢刊』第六巷、二三頁

注品

評しくは.「有芳庵記と奥州塩釜記」山岸穂平、『連歌俳蔚研

究』第一巻二号参府。

注12

『競.々辞書類従第九巻』所収本文による。

注13

特に晩年の宗困に付いては、かなり丁重なもてなしがあった

らしい。「又自壊之数学(寄か)者、津二待かけ是非と申故、

是こも一夜泊二参侯」(延宝七年九月十四日付、園田平十郎

宛西山宗国書簡)といった伊勢地方との結び付きに、それが

現れている。尾形肋著「宗困と伊勢」(『連歌俳諮研究』第

五号)参照。

注14

『出羽三山と東北修験の研究』(山岳宗教史研究叢書5)戸

川安章編、一一八頁参照。

注15

『伊勢貞我家潮』(『続群書類従L三十二輯下)によった。

注16

月群畜類従』第二二輯によった。成立年次、未詳。著者は

今川了俊(貞世)。

注17

ただし、こうした教訓は、勿論、額面通りには受け取れない 場合もある。例えば、芭蕉自身この当時、次のような述懐を残している。いねくと人にいはれても猶噴いあらす旅のやとり、とこやら寒き居心を侶て住つかぬ旅のこゝろや置き炬燵

(『俳蔚勧進帳』元禄四年刊)

さらに、森川許六にも.「掲坊主には宿をかしかね、おなじ所

に二夜入とめず。」(『許六集』)という発言がある。

注18

士野氏の指摘は、主として主人公の振舞いが、紀行の後半部

に堂々としてくることに着目したもので「これらの、主人公

と寺々の関係の、逆転垂離は、寺々に即していえは、後半部

が終局へ向けて急激に草体化して行くことの、∴抑実なあらわ

れであり、(中略)主人公に即していえは、前半部における

修行者偉からの解放以外ではあるまい。」(『芭蕉論ら筑摩

書房刊、二〇五頁)とある。冒頭と括末の呼応・表且本と裏

日本との照応については、既に白石悌三氏にも指摘がある

(講談社文庫「おくのほそ道』「解説」)。

注19

この点は、すでに井本農一氏に「風雅に遊ぶ姿を描いた」も

のという指摘がある。井本農一着『芭蕉の文学の研究』

「芭

蕉の紀行」一七九頁参照。

[本学教員]

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望ましい集団活動を通し て、心身の調和のとれた発達 と個性の伸長を図り、集団の 一員としてよりよい生活や人

ることの間の前後の関係を明らかにする」14)ことである。人は何かを試みた時、そ

持つ ための生活様式とは,社会的地位や名誉,お金や財産,知識,学歴,肩書き,権力な どの所有に専念する生き方であるとし,