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『おくのほそ道』における土石について(下) : 土石と意味環境

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『おくのほそ道』における土石について(下) :  土石と意味環境

著者 濱 森太郎

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 15

ページ 51‑61

発行年 2004‑06‑20

URL http://hdl.handle.net/10076/6605

(2)

『おくのほそ道』における土石について(下)

‑土石と意味環境‑

一承前

「そゞろ神」(牲1)に心を狂わせ、「道祖神」(注2)に招請されて

旅立ちの時を迎える『おくのほそ道』の誇り手には、特異な感

受性が働いている。この語り手の感受性の中では釈迦如来の「

入寂図」に見るように、鳥獣は噴き、魚介は涙にむせんでいる。

行春や鳥噂魚の目は洞(『おくのほそ道』冒頭)始のふたみにわかれ行秋ぞ(買くのほそ道』結末)

この主人公の感受性が働くために、奥羽地方は名所歌枕の宝

庫である以前に、樹木が歌い、岩石が物亨フ辺境の楽土となり、

その楽土を流浪した中世の風流貴族や行人・願人たちは、辺境

の楽土を讃える金玉の詩歌を詠唱したことになる。

ところがその辺境の楽土が見えない近代の読書モードで読む

と、主人公の言動が有り触れた「吟行」に変わり、「予」がそこ

で見つけたものの意味や価値が看過される。恐れなければなら

ないのは、その時にあらわれる読者の小さな過誤である。

聖なる土地のしるし

今、有り触れた土石に着目して『おくのほそ道』出羽の国ま

での叙述を分析すると、その叙述は福島地方、宮城地方、山形

地方で三分される(注3)。

予が福島地方を通過する過程では、「安積沼」「花かつみ」「文

字刷り石」と、宮廷由来の恋歌の文脈で理解すべ・き歌枕のコン

テキストが他ならぬこの里人によって無視されている。ただの

草、ただの沼、破棄され遺石を眼前にした予は草や沼や霊石を

放置した里人の生活感情に向かって好奇の眼を開く。

「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」。恋草茂る女人の里という手

前勝手な幻想を取り除いて目の前を眺めれば、田植えにいそし

む「早乙女」たちの初々しい手つきが見える。ここでは、荒廃

し転倒した「文字摺り石」が、予が清新な「みちのくの美質」

を発見する契機として作用する。

一方、「みちのくの美質」を探索する予が仙台額に入ると、そ

(3)

こには「みちのく」の独立自尊の精神を記念する遺跡が次々に

顕彰されている。仙台市街を名所歌枕のテーマパークと心得る

画工加右衛門、仙台藩の殖産興業策で蘇った「十符のすがごも」、

盲目の琵琶法師が語る「奥浄瑠璃」、泉三郎が寄進した塩竃明神

の宝燈。一度は転倒し、ただの石に返っていた「壷の牌」は、

四方の国境からの距離を刻んで、立国の拠点を語り継ぐ記念碑

として再生している。仙台領では、霊石や碑石は古人の意志の

表示装置として登場し、その表示装置からは伝説を生み出す領

主・領民の意志が明示される。

次に、岩出山から東北山脈を踏破した予が、羽黒三山を目指

す山形巡礼には大きな意味がある。修験行法の子細を丁寧に注

釈する『おくのほそ道評釈』(尾形伐著)は、羽黒登山が修験行

法の頂点で有ることには気付いているが、「岩出山」に始まる山

形巡礼の始発部に限っては、「険路の誹譜」(同書二六七貢)と

要約するに止まっている。

やまがたりょうりゅうし†くじいうやまでらじかくだいしかいさ山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基に

して、殊(に)清閑の地也。一見すべきよし、人々の

より

おはなざわ

かえ

モのかんしちり

すゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間、七里

ばかり也。日いまだ暮ず。

ふもと

ほう

やど

おさ

さんじょう

どう

腎.の妙に窟かり置て、山上の堂にのぼる。岩に厳

を重て山とし、松柏年旧(り).土石老て苔滑に、

いわ

いわお 岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩はい

ぷっかく

はい

かけいじ†くまくを這て仏閣を拝し、佳景寂実として心すみ行のみお

ぼゆ。

閑さや岩にしみ入蝉の声(『おくのほそ道』立石寺)

ここに言う「立石寺」は、正式には、天台宗宝珠山立石寺。

開山した「慈覚大師」は釈円仁、姓は壬生氏、下野の国、都賀

郡の人、延暦十三年生まれ。東大寺にて具足戒を受け、承和五

年に藤原常嗣に従って入唐し、同十四年に帰朝。仁寿四年四月

に比叡山の座主に就任した人物である。東北山地を踏破した予

は、羽州尾花沢の在家者、鈴木清風の接待を恭なくした後に、

彼らに招請されて景勝地の立石寺を訪問する。夏座敷の提供、

蚕屋案内、紅花見学と風土色を生かした清風宅での接待が終わ

った後に、馬を付けて松尾芭蕉一行を山寺まで送り届けるのも

清風の「もてなし」である。

特に「土石老て苔滑に、岩上の院々、扉を閉て物の音きこえ

ず。」には、石山に建立された「立石寺」にふさわしい厳粛な気

配がある。日没前に立石寺に到着した予が足下を気遣いつつ急

峻な坂道を登る内に日暮が始まる。視界が霞むに連れて参道の

松、相が樹齢を増し、地面の土石が静かに呼吸するかと疑われ

る。岩山の土石は生命を得て据り、胎動の時を待って息を潜め

る風情である。

「岩に巌を重て山と」する重厚なロケーション、松柏年旧(

‑52‑

(4)

り)土石老て苔滑」な幽明の境から「岩上の院々」が「扉を閉」

じて深閑とするさまを見ると、神霊に加護された密教世界なら

ではの荘厳さが見えてくる。参道の両側にそそり立つ岸壁に彫

刻された石仏もまた、この荘厳さを生み出すためのアイテムで

ある。そしてその「寂莫再生装置」が効呆的に働くときが、他

ならぬ黄昏時である。回国修行者である予は我知らず「佳景寂

実として心すみ行のみおぼゆ。」と浄福のため息を漏らすことに

なる

(牲4)。

意味環境

ジエスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』(松野孝一郎+

高原美規訳、青土社刊)によると、生物、細胞、組織までがメ

ッセージをやり取りする「記号圏」では、物質は何によらず、

記号を生み出し、伝達し、記憶する媒材に他ならない。当然、

集積され、記号を生み出し、伝達し、記憶する媒材の中には、

例えば庭園のように「意味」が系統化されて保蔵されている。

先に鳥獣が歌い、岩石が物言う辺境の楽土と呼んだ奥羽地方

もまた、この「記号圏」の例外ではない。生命にとつては、土

石もまた記号を生み出し、伝達し、記憶する媒材になる。

『おくのほそ道』の主人公のように、道祖神に招かれた積も

りで奥羽山地の峠に立つと、日なたの山道では屈託なげに抱擁

する夫婦石を見ることが出来る。辺境の楽土を流浪した巡礼者 に倣って、詩歌を詠唱すべく周囲を見渡せば、山の神は付近の石木の弼に祀られている。炭焼き、仙人、鍛冶、木地師、修験者など、霊山の山麓から出て漂泊した行人の、山の神にまつわる口唱も多い。「佐用姫(さよひめ)・聖徳太子が腰をかけた石の由縁で、力持ちになり、英才を発揮した(中略)などという休み石は、人々の尊び敬う祭壇石である。」「『大和(やまと)物帯』の、大事大弐(だざいだいに)小野好古(よしふる)と歌を唱和した槍壇(ひがき)の御で)は、石を祀り、その来由を語り、信仰を説く巫女(ふじょ)であった。」「宣化(せんか)天皇の時代、新羅(しらぎ)征討に船出した大伴佐捷比古(さでひこ)を、佐用媛が鏡山から見送り、領巾を撮り、別離を嘆きながら、そのまま石に化したという。(中略)この望夫石は、佐賀県東松浦(ひがしまつうら)郡呼子(よぶこ)町沖合い2キロの加都島(かべしま)佐用姫神社の社殿下にある。」「松浦・松王・松童(まつわらわ)などのマツは、神に侍する意の「まつらう」(中略)、松重などは、サヨ・サヤと似寄りの、石語りを説き歩く信仰者である。」(小学館『日本百科大事典』宕」、石上堅)

そしてそれらの「まつろう」行人の計で見れば、山岳修行者

が唱える真言(m呂汀a、真実の青葉)は諸仏を賛嘆する明呪と

なり、この真言を踊持することで呪力と共に、本有本覚の浄

(5)

菩提心が蘇ることになる。.本有本覚して世界を見れば、山岳世

界における「土石」は物言う聖霊なのである。・

今、叙述を簡便にするため北仙台領岩出の里から奥羽山地越

えの行程に限定すると、そこで見落とされやすいことは、霊体、

宗旨、寺院、教祖といった信仰の患味環境を構成する岩石の役

割である。

●(岩)

1.水をわたり岩に豚て、肌につめたき汗を流して(山刀切峠)

●(石)

1.土石老て苔滑に(立石寺)

2.奇石さまざまに(那谷寺)

3.石山の石より白し秋の風(那谷寺)〇内は筆者の補筆。

右の通り、1の岩は巡礼者の行く手をふさぎ、嘆いて肌に冷

たき汗を流す峡谷の岩場で、修行者が行う「山行」の困難さを

示唆する。同じく石では、1・2・3ともに松島、立石寺、那

谷寺という密教寺院の岩場にある。土石が重層し、奇観を呈し

て非日常の雰囲気を醸成する。要するにここに登場する岩石は

密教の行者の路上にあり、座右となり、障壁となり、景観とな

って修業生活の一部を構成する石となる。

これまで『おくのほそ道』の岩石は、等しく無機物化して読

者の目を惹くことがなかったが、しかしそこに作用する読者の

僅かな先入主が『おくのほそ道』の理解を妨げる例も無しとし ない。

さて岩石に着目して『おくのほそ道』出羽巡礼の叙述を分析

すると、その叙述は密教寺院をめぐつて繰り広げられる巡礼者

の修験行法に収赦する。ただし、その主役に位置する出家、山

伏、行人(雑役に従事した下級の伺中世以後、学侶・聖(ひじ

り)とともに高野三方(こうやさんかた)の一として真言密教修学

のかたわら、山々で修験の行を行なった。)が元禄社会の厄介者

であったことを見落としてはならない。

出家、山伏、行人、頗人、町屋二宿借シ候ハゝ、本寺より

まざれなさだんモのうえうけとんうちだなさしわ蕾もう†ぺくモうろう弟子二無紛段、証文を取、其上請人を立、裏棚に差置可申候。

(寛文二寅年九月、『御触書寛保集成』二二四六)

彼らが厄介者である原因は、町場での彼らの暮らしにあった。○ごろちi‑フち̲うさしんのよしもうし頃日町中にて出家、山伏、行人、願人、或は寄進之由申、

こしちえたかち■うちんたかねん層つかたがた‡わりもっ†だん仏像を掃、高挑灯こて高念仏題目をとなへ、方々廻申段、

きょうごぉうせっけモうちうもいだかたく向後御法度二被、仰付候間(中略)、今日より堅無用二可

仕候。(天和四子年七月、『御他事寛保集成』二三九二)

また明暦三年二月の京都の「町触れ」には、門徒・山伏・行人

を標的とした次のような警告がある。

ひしんまほう

ようかいとうのじ◆せつしんぎの

もんと飛神、魔法、奇異、妖怪等之邪説、新義之秘事、門徒

またはやまぷしぎJう亡んとう

よせ

ようわく又者山伏・行人等に不レ限、神仏に事を寄、人民を妖惑

するものの類、又は諸宗共に法難二可二成申一分、与

ー54‑

(6)

力同心仕之族、代々御制禁之条、新義之沙汰にあら

モの

むね

わさ蓋えぞん†べさ

こと

ぎる段、可レ存レ弁二其旨一事。

とかく「飛神、魔法、奇異、妖怪等之邪説」を吹聴する「門

徒・山伏・行人」の言動を抑制する町奉行の禁令である。「神仏

に事を寄、人民を妖惑する」言動を禁止することは奉行の当然

の職務だった。したがって「飛神、魔法、奇異」の取り扱いに

は注意を要するが、それにも関わらず、岩石が物言う奥羽地方

の美質を費えるには、常にその生活実感を掘り下げ、感得した

詩情を直に言語化する感受性の開発が欠かせない。

立石寺前後

先に述べたとおり、東北山地を踏破した予は、羽州尾花沢の

在家者、鈴木清風の接待を恭なくした後、彼らに招請されて羽

州山寺の景勝地、立石寺を訪問する。夏座敷の捏供、蚕屋案内、

紅花見学と風土色を生かした清風宅での接待が終わった後に、

馬を付けて松尾芭蕉一行を山寺まで送り届けるのも清風の接待

である。「尾花沢よりとつて返し」とある通り、立石専行きは、

尾花沢・大石田・羽黒山・酒田・象潟という予の予定の行路か

らは逆路に当たる。

ここまでの行程には当然、数多くの行路難が横たわっている。

その難行苦行が行人の修行を意味する「山行」である。折から

羽黒三山は夏山修行の最盛期に当たる。その山行の苦楽を個条 書きにすれば次のようになる。(苦を●、楽を○で区別した)●関守にあやしめられて漸々として関をこす(尿前の関)●太山をのぼつて日既(に)暮ければ(奥羽国境)○封人の家を見かけて舎を求む(堺田)●三日風あれてよしなき山中に逗留す(堺田)●蚤乳馬の尿する枕もと(堺田)○あるじによる案内人斡旋(堺田)●究寛の若者(堺田)●反脇差しをよこたえ樫の杖を携て(奥羽国境)●我々が先に立て行(く)(奥羽国境)

●高山森々として一鳥声きかず(奥羽国境)

●木の下闇茂りあひて夜る行がごせし(奥羽国境)

●雲端につちふる心地して(奥羽国境)

●篠の中、踏分(け)踏分(け)(奥羽国境)

●水をわたり岩に贋て肌につめたき汗を流して(奥羽国境)

○最上の庄に出ず(羽州尾花沢)

○碁なうをくりまいらせて仕合したり(羽州尾花沢)

○よろこびてわかれぬ(羽州尾花沢)

○胸とどろくのみ也(羽州尾花沢)

○夏座敷(羽州尾花沢)

○蚕屋案内(羽州尾花沢)

○紅花見学(羽州尾花沢)

(7)

○立石寺見学(羽州山寺)

羽州に通じる「尿前の関」で関守の詮議に出くわした予は

辛うじて関所を通過した。詮議が長引いた煽りで、国境の「

太山」に登ると日暮れとなり、途方に暮れて「封人の家にやど

りを求」めた。ところがその夜から「三日風荒れて」(堺田)、

よしなき山中に閉じこめられた挙げ句に、宿の寝床が「蚤シラ

ミ」にせせられ、「馬の尿」が飛散するあわれな造作である。

だが、その家とても不都合ばかりではない。我らの前途を案

じた「あるじ」が道案内を斡旋してくれるという。さっそくお

願いすると、やってきたのは恐ろしいほど「究責(屈強)の若

者」(堺田)で、山賊ばりの「反り脇差し」に「樫の杖」を携え

て、予らの先に立って行く(奥羽国境㌔いつ山賊に襲われるや

らと怯えながら歩くせいか足が宙を踏んで、雲端に土ふる心地

で進んで行く。周囲を窺えば木の下闇茂りあいて、夜行くがごとく不安が募る(奥羽国華。その時い森林地帯を抜けて川筋を

歩むと、篠の中、踏み分け踏み分け、水を渡り岩に嘆いて、肌

に冷たき汗を流し、ようやく「最上の庄」に辿り着くことが出

来た。

その時、彼の若者が重い口を開いて言うには、この道筋には

これまで必ず不慮の出来事が付き物で御座いましたが、今回は

ここまで無事に「をくりまいらせて仕合したり」と言う。され

ばこそ、このいかめしい出で立ちで護衛したかと思い当たって、 我らもまた喜んで分かれた次第ながら、ことの重大さに、後に患い出しても「胸とどろく」気持ちであった。

さてしかし辿り着いた羽州尾花沢では、在家者の鈴木清風殿

が宿舎に「夏座敷」をしつらえた上に、「蚕屋案内」「紅花見学」

と行き届いたお膳立てで歓待して下さる。そして最後には、馬

を付けて「立石寺」まで誘引してくれた。

もとよりことさら険路を踏んで「山行」する行人、願人を待ち受けているものは辛苦だけではない。険路の途中、疲ら(御

触書では宝永年間には「巡礼者」と記載される。)が道を踏み迷う土

地々々には、勇敢で礼儀正しい案内人が育っている。また巡礼

道の沿線には接待や喜捨をよしとし、これを機会に善根を積も

うとする在家者が居る。衣食や宿泊の労を執って彼らを歓待す

る風儀もある。彼らの呪力や治病の技術に頼らなければならな

い病弱者もいる。この親切な道案内、接待、喜捨の風習に励ま

されることで、巡礼者は「山行」の辛苦を乗り越えることが出

来る。

『おくのほそ道』に現れた宿の提供、道案内、名所案内・句

会・乗り物・医薬の提供は、実はこの風流な巡礼者をもてなす

接待や喜捨だったと理解する必要がある。そのとき、予と曾良

とが越えてきた出羽路の峻厳な険路の意味が判然とし、関守や

屈強の若者、親切な在家者の接待に感謝して詠唱された予の報

謝の句々の役割が見えてくる。

ー56‑

(8)

羽黒三山巡礼

さていよいよ、予と曾良との羽黒三山巡礼が始まる。この聖

地礼拝の過程を先と同じく個条書きにしてこの行程の全体を展

望すると、次にようになる。

出羽国巡礼について

宮城■一兵羽国境==二 羽黒三山一秋田

○羽黒山に登る(羽黒権現)

○会畢阿閣梨に閲ス(羽黒権現)

○憐慈の情こまやかにあるじせらる(羽黒権現)

○本坊において俳詩興行(羽黒権現)

○権現に詣(ず)(羽黒権現)

○修験行法を励(ま)し(羽黒権現)

○霊山霊地の験効、人貴(び)且(つ)恐る(羽黒権現)

○めで度き御山と謂つべ.し(羽黒権現)

●氷雪を踏(ん)でのぼる事八里(月山登山)

●日月行道の雲関に入かとあやしまれ(月山登山)

●息絶(え)身こごえて頂上に壊れば(月山登山)

●笹を鋪(き)篠を枕として臥して明るを待(月山登山)

○道に堪能の執あさからぬ事しられたり(湯殿山巡礼)

○春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし(湯殿山巡礼)

○炎天の梅花麦にかほるがごとし(湯殿山巡礼)

○涼しさやほの三か月の羽黒山(三山報謝の句)

○雲の峰幾つ崩て月の山(三山報謝の句)

○語られぬ湯殿にぬらす狭かな(三山報謝の句)

○俳譜一巻有り(三山報謝の句)

予と曾良とは、まず羽黒山に登って、図司左吉を仲介として

「会畢阿閣梨」に拝謁する。この寺の別当代である会畢阿閣梨

は、多くの修験者の旦那を迎える当山の要職に当たる。会畢阿

(9)

閣梨が行き届いた配慮で「こまやかにあるじせらる」るのは、

職掌上の「つとめ」でもある。左吉を通じて予の俳譜の技量を

承知した会畢阿閣梨は、聖地礼拝を前に本坊で俳譜を興行する。

羽夢二山に随縁する諸尊を賛嘆し、報謝の意を尽くすことは巡

礼者の勤めである。羽黒権現に参詣した予は、「修験行法を励ま

し、霊山霊地の験効、人貴(び)且(つ)恐る。繁栄長にし

てめで度(き)御山と謂つべし。」と聖地を賛嘆することを怠ら

ない。

そしていよいよ三山の最高峰「月山」登山に踏み出してゆく。

肩に「綿しめ(修験袈裟)」を引きかけ、「宝冠に頭を包(み)」、

強力に助けられて氷雪を踏んで登ること八里で雲海の高みに達する。「日月行道の雲関に入(告かと」怪しまれるままに、息

絶え身凍えて頂上に到達する。ここでは日没と月の出とが山の

東西に拝まれる。

「雲関に入(る)かと」怪しむままに辿り着いた月山の頂上

は、雲端に土ふる心地で越えた奥羽国境の太山よりも邁かな空

の高みに位置する。そこで笹を敷き篠を枕とする山伏の行法に

倣い、日の出を待つ。雲海に朝日の姿で現れる「大日如来」は

修験者の祭神である。

朝日を礼拝して下山に懸かると、次は奥の院、祭神は湯殿山

の巨大な神体岩である。この巨大な重石をあからさまに語るこ とは修験の法式で禁じられている。

この山中に霊水を求めて鍛冶小屋を作り、名刀「月山」を打

って賞賛を得た古き刀工の話は、一道に熟達した「堪能の人」

が抱え持つ強い執心を偲ばせる。そう思いつつ傍らの岩に腰掛

けてしばし休息する内に、予は偶然、この山中で遅ればせに花

咲こうとする遅桜の小さな花弁に睦目する。深い積雪を凌ぎ、

春の雪解けを待って花の時を迎える遅桜の花の心には、切ない

ほどの気高さがある。その気高さに触発されたとき「炎天の梅

花愛にかほるがごと」く、鼻先をかすめて予の本覚が目覚める

(注5)この「遅桜の花芽」が持つ哀切な健気さこそ、「浄菩提

心」である。十方世界に満ちたこの「浄書捏心」は、今もそれ

が顕現する時節の到来を待っている。聖地の諸尊に報謝する発

句の極意は、この汚れのない浄菩提心を歌うことに極まる。そ

のとき、面目を一新した誹譜は、天地の誹楷(注6)、「不易流

行の俳潜」(注7)と呼ばれる。新しい俳背の天地が開聞する。

この聖地巡礼に伴う「本有本覚」の感銘を、予は次の三句に圧

縮する。

○涼しさやほの三日月の羽黒山

○雲の峰幾つ崩(れ)て月の山

○語られぬ湯殿にぬらす狭かな

三句の焦点になる「語られぬ」の句に、恋の傍を喚ぎつけるの

が昨今のこの句の解釈だが、この帽は恋の帽ではあるまい。「何

も語らずとも、お山のありがたさはこのぬれた挟に知られよう」

‑58‑

(10)

(『おくのほそ道評釈』尾形偽者、三〇四貢)と言うとおり、こ

れは湯殿山で「本覚」を果たした予の随喜の涙である(注8)。

大庄内平野巡礼

羽黒三山で「本有本覚」を果たした予に随身した河合曾良、

図司左吉はこれ以後も最上川沿いに庄内平野に随行する。羽黒

修験道の檀那場である庄内平野には、羽黒の会畢阿閣梨に繋が・

る修験者のネットワークが働いている。会畢阿閣梨の信任を背

負い、随行者二名を従えてそのネットワークの中を巡礼すると、

予ら一行のステイタスは否応なく高まってゆく(注9)。当然、

予ら一行は行く先々で次のような心尽くしの歓待を受けること

になる。○物のふの家にむかへられて誹譜一巻有(り)。(鶴ケ岡)

○川舟に乗(り)て酒田の湊に下る。(酒田)

○淵庵不玉と云医師の許を宿とす。(酒田)

○あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ(酒田)

○暑き日を海にいれたり最上川(酒田)

従者二名に付き添われて、予が羽黒から鶴ケ岡、酒田と最上

川を川舟で下る事実は、月山登山に伴って生じた予と曾良との

著しい体力の消耗を示唆する。酒田の湊で医師不玉の家を宿と

したのは医薬を用いた療養のためである。医師の淵庵不玉がこ

とさらの風儀をもって舟を仕立て、夕涼みを主催したのも、予

の気力の回復を意図した接待である。 さらに酒田からは図司左吉に替わって弥三郎低耳が随行した。予らと共に夏祭りでにぎわう象潟の風光を愛でるためである。○朝日花やかにさし出る程に象潟に舟をうかぶ。(象潟)○先能因島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらひ(象潟)○舟をあがれば(中略)西行法師の記念をのこす。(象潟)○江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。(象潟)○風景一眼の中に尽(き)て(象潟)

○南に鳥海、天をさ〜え、其陰うつりて江にあり。(象潟)

○西にむやくの関、路をかぎり(象潟)

○東に堤を築て、秋田にかよふ道造に(象潟)

○海北にかまえて浪打入る所を汐ごしと云(象潟)

○象潟や雨に西施がねぶの花(象潟)

○汐越や鶴はぎぬれて海涼し(象潟)

これらの出来事もまた、宿の提供、道案内、名所案内・句会・

乗り物・医薬の捏供といった巡礼者向けの接待や喜捨に当たる。

この接待の目的が巡礼者への慰安であるために、宿の提供以下、

多額の金銭を要するものはほとんど無い。金銭の負担を軽くし、

心を込めることで接待の本意は達成されるからである。

形成力の現れ

最後に鳥獣が歌い、岩石が物言う辺境の楽土に足を踏み入れ

た予がその浄菩提心に触れ、アニミズム世界の形成力(注10)

(11)

に感化された後には、次のような句々が詠唱される。

①五月雨の降のこしてや光堂(平泉)

②閑さや岩にしみ入る蝉の声(立石寺)

③五月雨を集めて早し最上川(大石田)

④有難や雪をかほらす南谷(羽黒山)

⑤語られぬ湯殿にぬらす淡かな(湯殿山)

⑥暑き日を海にいれたり最上川(酒田)

⑦荒海や佐渡に横たふ天河(出雲崎)

⑧塚も動け我が泣く声は秋の風(金沢)

①は光堂を回避して降るかと疑われる五月雨、②は岩に浸潤

する蝉の声、③は五月雨を集めて奔流する最上川、④雪の香を

香らす厳かな南谷、⑤は、覚えず枚をぬらす巨大な温泉石の験

効、⑥は熱い入り日を飲み込む最上川(注11)、⑦は佐渡に向

かって身を横たえる天の川、⑧は泣き声に鳴動して応える俳人

一笑の墓石。ここには後に自然詩人松尾芭蕉の代表句とされる

ダイナミックな句々が並んでいる。そのダイナミズムの由来は、

自然世界の形成力に感応する予が自然の能動的な活力を損なわ

ずに言語化することにある。他動詞によって草木山川の動態を

語る言葉遣いがその端的な表れである。

ここで肝心なことは、予の心を楽土の醍醐味に惹き付ける修

験霊場という意味環境の働きである。「聖なるものは実有に充ち

てており、聖なる力は実在と永遠性と形成力とを同時に意味し

ている。」(M・エけアーデ『聖と俗』一九五七年刊)のである。 この聖なる形成力に従って修行を積む修行者の身体には「聖

なる力」が蓄積され、無力な放浪者や巡礼者が「聖人」として

人間の運命を先導する。彼らが等しく「聖なる力」に導かれる

からである。そのとき私たちは、放浪する行人や巡礼者たちが

社会的弱者のしがらみを超えるさまを見ることができる。それ

はこの世界を住みやすく更新するための「創造的な新秩序の発

生」(エリック・ホツファー自伝、作品社、67頁)を目撃するこ

とを意味する(注望。

注l、そぞろ神の「そぞきはそわそわと落ち着かない気持ち。「そぞろ

神」は芭蕉の造語か。そわそわと落ち着かない気持ちにさせる神の意。

注2、道祖神は別冬サイの神。村里の境界を守る神の意。代表格は『古

事記』に登場するサルタヒコの尊。『古事記』のサルタヒコの道案内

の場面は「答白。僕者圃神。名猿田毘古神也。所以出居着。聞天神御

子天降坐故。仕奉御前而。参向之侍。」と書かれている。猿田彦の神

は後に道祖神と呼ばれ、道路の安全を守る神、村の境界を守る神とし

て、村の辻や橋のたもとに葬られる土俗的な神となった。

尾形偽者『おくのほそ道注釈』によると「その神像は多く男・女相

擁した形をとる。そうした「下品」の神(『源平盛衰記』「笠島道祖神

事」)を持ち出したところに、俳譜の隠微な笑いがある」(鋪頁)と

いう。

注3、地名など、実態が土、石、岩でないものは紙幅の都合で省略した。

また、『おくのほそ道』における「土石」の用例は、すでに前稿に上

‑60‑

(12)

げた。今回は紙幅節約により省略する。

注4、曾良の『随行日記』によると、この間の距離は、七・五里。また尾

花沢・館岡間(三里)は、鈴木清風差し廻しの馬を用いた。そのため

山寺到着は「未の下刻」(約午復三時)とある。その到着時刻を「日

いまだ碁ず」(午後五時三〇分)程度まで延伸している二ばかり」は、

その七里(二十八h)の行程をたどる足取りが予想外に短く感じられ

るさまを表す。

注5、尾形仇氏の『おくのほそ道評釈』には、「「炎天の梅花愛にかほるが

ごとし」という『禅林句集』中の詩句の引用は、この発見がかれの「

湯殿行」の果てにつかんだ悟りにほかならなかったことを暗黙のうち

に匂わしたものといって良いだろう。」とあり、私の解釈と軌を一に

る。ただし、「遅桜の花の心」を「生命力」、「内にたぎるものの止む

にやまれぬ発動」(三〓弄)とする点は、神話学に云う自然世界や

動植物の生活に秩序を生み出す「形成力」とみなす必要があるかと思

われる。

注6、松尾芭蕉はこの天地が開閉するような新規の俳許を、当時、「天地

流行の俳帯」と呼んだ。この時、随行した図司左吉の聞き書き『開音

七日草』には次の記述がある。「天地流行の併給あり、風俗流行の俳

許あり。只此道ハ、花のもとに、ほと〜ぎすの窓に、上ハあたごの風

味より、下は木曽路の済桶迄、歌にもれ行茶ごとをももらさゞるの歌

なり」(開音七日草)

注7、後日に「天地流行の俳誇」なる帯句は修正されて、「千歳不易」の

俳欝と呼ばれる。「吾これを開けり。「句に千歳不易のすがたあり。 一時流行のすがたあり。これを両端にをしへたまへども、その本一な聖一なるは、ともに風雅のまことをとれば也。」子其角書)

注8、・尾形氏の解釈は、「湯殿垢離の尊厳な行に対する感涙」(『おくのほ

そ道』評釈、尾形伽、三〇四貢)と解する点で、私の解釈とは若干、

食い違いがある。

注9、拙頼「『おくのほそ道』の送迎行動」(『巡礼記『おくのほそ道』』(

三重大学出版会刊))参照。

注10、ここに亨フ形成力については、神静学の次の発音を踏まえている。

「重なるものは実有に充ちており、重なる力は実在と永遠性と形成力

とを同時に意味している」(M.エリアーデ『聖と俗』一九五七年、

風間敏夫訳)。

注11、「暑き日」は熱い一日、熱い太陽の二通りの解釈がある。『白髪桑』

『至宝抄』『はなひ草』以下、六月として掲出。暑い真の一日と解す

る方が作法に適うかと思われるが、「暑き日を海にいれたり」という

文脈を重視すると「入り日を洗ふ沖つ白波」(『斬首今集』春上)に似

た入り日の光景が重ね合わされているとする解釈が一般的である。

注ほ、ただし松島には、「島々や千々にくだきて其の海」(芭蕉句選拾遺、

宝暦六年刊)の句がある。この句が省かれた理由の一つに、松島で自

然のダイナミズムを開示することを不適当と見る芭蕉の判断があっ

たと見ることもできる。

この句を「島々や千々に砕けて夏の海」(蕉翁文集)と伝えるテキ

ストもあるが、編者の杜撰である。{はま・もりたろう

参照

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