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ア ン リ ・ フ ォ シ ヨ ン 著 ﹁ 日 本 の 版 画 と 十 九 世 紀 後 半 期 の 西 欧 絵 画

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︻翻 訳 と 解 題︼

アンリ・フォシヨン著

  ﹁日本の版画と十九世紀後半期の西欧絵 画

訳・ 解 題   藤 原   貞 朗

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︵一︶翻訳 我々は長らく︑ヨーロッパとアジアを越え難い壁で隔たった世界として︑つまり︑別々の発展をたどった二つの世界として表象してきました︒異なる神々のもと︑形式も原理も異なる哲学や倫理︑そして芸

術を創出したのだと考えてきたのでした︒しかし︑ここ半世紀︑東洋学者が明らかにしたのは正反対の結果でした︒いかなる時代であれ︑

ヨーロッパとアジアは活発な関係を取り結び︑多かれ少なかれ互いの存在を意識しつつ︑相互に影響を与え合っていたのです︒すでにこの

壮大な交流史のとりわけ示唆に富む出来事のいくつかが︑多様な分野の学者によって示されています︒たとえばシルヴァン・レヴィ氏は︑

ギリシャの英知が構想した偉大な哲学体系も後期に至って仏教思想に感化されていたことを証明しました ︒その後︑帝政ローマの彫刻家は︑

インド北西部に地中海的な造形思考を持ち込み︑アジアの偉大な宗教の経典を歪めることなく仏陀にフォルムと肉体を与えることに初めて

成功してガンダーラ仏を創出しましたが︑このギリシャ=ローマの英知と古代インドの英知が邂逅した時代を特定し︑その特性と影響力を

明確にしたのがアルフレッド・フーシェ氏 です︒かくして︑中央アジアにかつて長期間存在し続けた輝かしい文明の遺跡が注目されはじめたのです︒ヘレニズムの感化を受けた文明は︑後々までアレクサン

ダー王の帝国のいわばインド=ギリシャ的統治形態を継続することになります︒一方で︑最新の発見として︑イスラム教の地獄概念と﹃神

曲﹄との関連の指摘もあります︒また︑西欧の大聖堂には蒙古人風の彫像や唐の高官風の被り物をした彫像もあります︒リオネッロ・ヴェ ントゥーリ氏の驚くべき報告によれば︑黄金の炎と永遠の金光に包まれた阿弥陀如来像と一三〇〇年代にイタリア北部で制作された絵画に

類似点を見出しうるとのことです さて︑日本の版画と西欧絵画の関係を研究して分かるのは︑こうした東西交流が十九世紀を通じて重要な役割を果たしていたという事実

です︒おそらく十九世紀ほど東西交流が活発だった時期はないでしょう︒その理由は単純です︒まず︑徳川の鎖国政策で長らく外国に門戸

を閉ざしていた日本が︑一八六八年の王政復古前後に西洋と交渉を開始したからです︒急激な社会変革の結果︑一時的ながら日本は過去の

伝統を手放し︑美術作品や過去を偲ばせる美術品が大量に外国に流出しました︒一八七七年の叛乱の後には敗北したサムライの刀が廉価で

売り捌かれ︑欧米の骨董屋に日本の武具が並びました︒当然ながら︑同じような経路で日本版画も諸外国に散らばることになります︒我々

の目にはいくら上品で洗練された大芸術に見えようと︑日本版画は普及を目的とする複製芸術にして︑受容階層を問わない民衆芸術である

がゆえ︑いずれ西欧世界にも浸透する運命にあったともいえます ︒この日本版画の流行は︑しかし︑一時的なものでも偶然でもありません︒

この芸術は巨匠の高尚な芸術的遺産としてではなく︑また︑丹念に選ばれた豪華に額装された版画としてでもなく︑エピナル版画のごとく粗末に束ねられて︑我々のもとへとやってきました︒発送者がこうし

た版画で高価な﹁小包﹂を包装して︑裏返しになって到着したことも珍しくなかったようです︒薄手の包装紙として使用されたのです︒海

外への贈り物には最適であったわけですが・・・︒日本からの舶来品に最初に興味を抱いた愛好家たちは︑優れた摺物と質の悪い普及版が

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混交した荷物の魅力について回想を残しています︒西欧にやってきた日本版画は一夜にして愛好家垂涎の的となったのです︒この点につい

て︑リヨンの産業家にして哲学者︑旅行家であったエミール・ギメは最初の証言を残しております︒しかし︑彼は版画を風俗史料とみなし

ているにすぎませんでした ︒その後︑﹃ガゼット・デ・ボザール﹄誌編集長のフィリップ・ビュルティやフィリップ・シシェル ︑ピエール・

バルブトー ︑ジロー ︑アンリ・ヴェヴェール らが︑初期の日本版画の流行を回想しています︒ルイ・ゴンスの仕事も重要です ︒彼はゴシッ

ク芸術を専門とする美術史家ですが︑のちに日本美術の専門家となりました︒日本版画の魅力を理解して最も巧みに表現したエドモン・ド・ゴンクールや趣味人にして企業家のS・ビングの仕事も忘れてはなり

ません しかし︑ひとつ指摘せねばなりません︒彼らは日本版画をある意味

で過剰評価していました︒日本の美術史の現実とはかけ離れた評価を浮世絵版画に与えていたのです︒彼らが知っていた日本美術は版画だ

けでした︒ガンダーラ仏の直系たる奈良時代の彫刻や十三〜十五世紀の偉大な肖像画︑さらには足利時代の風景画もまだ知られていない時

代でした ︒ですから︑日本の版画を日本精髄の至高の表現であると誤解したわけです︒周知のように︑日本美術に通暁したアーネスト・フェ ノロサは︑ルイ・ゴンスの﹃日本美術﹄を書評してこの傾向を批判し︑歴史観の修正を促しました ︒しかし︑版画は至るところで容易に入手

でき︑また︑展覧会で公開されるのも決まって版画であり続けました︒一八九〇年五月にパリの国立美術学校で開催された日本版画の巨匠

展︑同年十一月にロンドンで開かれた北斎展︑一八九一年三月のフィ リップ・ビュルティの日本版画競売会など︑どの展覧会も︑西欧の趣味と極東理解の歴史のうえで︑記憶すべき画期となっています ︒しか

し︑この時期以前に︑すでにホイッスラーはとくに広重の版画をロンドンで見ていました︒ロンドン橋近辺の中国茶屋に輸入された茶箱の

包装紙であったろうと想像します︒あるいは︑﹁蛮国﹂の風俗を伝える史料として︑宣教師が版画を送付していたのかも知れません︒ノグ

チ・ヨネは最近出版された広重の研究書で︑この伝承を踏まえてホイッスラーと広重を比較研究しています ︒また︑クロード・モネもオラン

ダの雑貨店において同じく小包の包装紙に使用された版画を購入したようです︒こうして︑一八七〇年から一八九〇年頃にかけて︑愛好家や美術家が日本版画から啓発を受けたのでした︒

日本版画の啓発は︑当時の革新者たちが試みていた絵画の実験に影響を及ぼし︑彼らの目的を達成する一助となりました︒普仏戦争から

一九〇〇年のパリ万国博覧会にかけての二〇数年間は︑ご存知の通り︑絵画史にとって決定的な時期にあたり︑模索と創作と闘争の時代でし

た︒ロマン主義が疲弊し︑折衷主義的アカデミズムが登場するも︑それに対する嫌悪が表面化し︑不安定な時期が訪れていました︒すでに

ギュスタヴ・クールベの教訓として︑日常の情景や庶民の労働風景も情熱的に表現すれば伝統的な物語や過去の出来事に基づく叙情的夢想

よりも感動的たりうることが証明されていました︒一方︑マネはスペインの影響のもとに現代生活を表現しました︒コンスタンタン・ギー

スに関する有名な論文でボードレールが劇的で神秘的な現代の都市生活を称えてもいました︒さらに困難な課題に取り組んだ画家もいまし

た︒陰影なしで︑つまり︑明暗効果を無効にする強烈な光を浴びる戸

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外の研究に没頭した画家たちです︒彼らにとって︑世界はもはや安定を失い︑つねに変化する諸力の不安定な調和︑移り行くものの総体に

過ぎなくなりました︒画家は外観の変化︑すなわち七色の光のもとで儚く消えゆく現象を捉えるべく︑線や色彩に関する新たな技術を発見しようとしていたのです︒こうした状況において︑彼らは日本版画か

ら何を学び取ったのでしょうか︒

そもそも日本版画とはいかなる芸術なのでしょう︒そしてその影響

はいかなる次元で語り得るものなのでしょうか︒日本版画は凸版の木版画で︑色彩は複数の色板を使って刷られます︒その技術的特質は見

事というほかない単純さにあります︒至るところに現れるゆったりと太い筆致は︑下絵を描いた芸術家の線を的確に捉えています︒この点

でフランス第二帝政期の銅版画とは対照的です︒たとえば︑ドレの作品を完璧に複製した版画家は微妙な濃淡表現の達人であり︑ハイライ

トを駆使した明暗効果を生み出しました︒これに対して日本版画は中世の写本画に近く︑また︑下絵の線が透けてみえる水彩画に似ている

といえます︒空間表現についていえば︑日本版画の空間は三次元ではなく︑中景なしに前景と後景が直結する空間となっています︒しかし︑

十九世紀の日本の画家は西洋の線的透視図法の知識を有していました︒仲介者となった数奇者の司馬江漢のような人物は︑西欧科学に魅せられていました︒その試みの応用例を国芳や広重の風景画に確認で

きます︒また︑足利時代の巨匠以来︑日本の画家は洗練された空気遠近法に熟達していました︒日本版画に表現される光は唯一絶対で︑陰

影は形成されません︒たしかに色彩としての黒が重要な役割を負いますが︑その使用は事物の陰影でなく︑全体の色調を整えるためにのみ 用いられるのです︒量感を与えるハッチングもグリザイユも使わず︑すべてを単純で正確な一本の線で表現するのです︒色彩はこの上なく

繊細で︑まさに水彩の色彩のごとくで︑支持体となる紙に染み込んでいます︒︵歌麿の作品にみられる︶かすんだ風景においても︑︵広重の幾つかの例にある︶夜景においても︑色彩は新鮮できりっと冴えてい

ます︒

日本の版画は仏画を源泉として生まれ︑十八世紀半ばに最盛期を迎

え︑とくに浮世絵師に格好の表現の場を提供しました︒浮世絵師は﹁浮き世﹂の生活を表現する流派を形成し︑中国風のアカデミズムに対抗

しました︒浮き世の生活︑つまり現代生活から主題を汲み上げ︑女芸者や俳優︑市井の人物︑街角の見世物︑御伊勢参りの行列︑雨︑雪月

花など︑ありとあらゆるものを描き出したのでした︒一般庶民︵といっても貴族出身でありますが︶のために︑浮世絵版画は当時の小説本を

魅惑的な扉絵で飾りました︒また︑画家の奇想や走り書き︑要するに︑瞬く間に消え去る空想や絵になりそうな素描の数々を画帖に収めて記

憶しておくにも版画は効果的でした︒﹃北斎漫画﹄が典型にして最高傑作となっています︒

さて︑長い間︑我々は誤って︑日本版画のなかに純粋に装飾的な調和しか見出してきませんでした︒しかし︑本当のところ︑浮世絵は仏教美術の末裔であり︑最も高尚な精神性を湛えた芸術であったと言わ

ねばなりません︒この点において浮世絵はアジア精髄の根本的性質に迫っています︒アジアの英知とは世界を﹁表象﹂するのではなく︑世

界を﹁暗示する﹂ことを本意としていますが︑これはとくに日本美術に顕著です︒中国美術は常に不動で︑根本において変化することなく︑

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密度と重圧感に固執し続けており︑これには当てはまらない︒仏教思想では︑物質もまた無機的でなく︑あらゆるものに生命が宿り︑時折︑

奇妙にも電気を帯びたようにうごめきます︒芸術家が忠実に表現すべきはこの生命力でした︒もし︑画家が自然を写し取るべく厳密な輪郭

線で生命力を閉じ込めたり︑あるいは彫刻家が彫像を造形するように絵を練り上げたりすれば︑動的な生命力が逃げ去り︑森羅万象の形骸

だけが残ってしまうことでしょう︒生きとし生けるものが交わす生命の交感︑これを芸術家は観る者に﹁暗示﹂せねばならないのです︒調

和的な関係を一撃ですべて表現し尽くさねばならない︒この点に関して︑最も思弁的で慧眼の日本の美学者たる岡倉覚三は次のように公式化しました︒﹁暗示︑ここに無限の神秘が隠されているのだ﹂︑と ︒こ

の公式から﹃北斎漫画﹄に横溢する単純な描線の表現力が生まれ︑生命の動感を優先しながらも様式へと至る簡潔な表現方法が導き出され

たのでした︒この公式から︑随分と異なりながら︑いずれも日本的である二人の芸術家が生まれたのに違いありません︒百十歳に至って正

真正銘の命の輝きを表現しうると夢みた北斎と︑色染めをする女にも海女 にも︑堕落した女芸者にも極上の気品を与えた歌麿とが生まれた

のです︒

西欧の画家にとって︑日本版画のインパクトは︑まず︑その﹁近代

主義的﹂表現︑つまり近代に明らかとなった大胆で優美な側面を表現していた点にありました︒また︑そのデッサン︑つまり動的で震える

ような生命の表現や瞬く間に過ぎ去って消失する瞬間の表現︑いかなる陰影にも負けない色調の新鮮さ︑明瞭な輪郭を付与せず暗示に留め

る造形法︑これらが絵画の刷新に躍起になっていた西欧の画家に強い インパクトを与えたのです︒西欧芸術の美的﹁価値観﹂にこれほどまで大胆な修正が促されたことはありませんでした︒ご存知のように︑

西欧絵画は︑イタリアのルネサンス時代以来︑アルベルティの思想のもとに展開してきました︒そして︑絵画芸術は彫塑的な成型を追究し︑

錯視的に三次元の空間を創出しました︒さらに︑レオナルド・ダ・ヴィンチの教訓を曲解した十七世紀の﹁陰影派︵テネブロージ︶﹂は暗闇

で画面を覆う過度に作為的なキアロスクーロを創案し︑その影響はロマン主義絵画に及びました︒均一に光沢を与えるダヴィッド流の仕上

げは︑ドラクロワでさえ追放できず︑長期に亘って公的な教育のドグマであり続けたのでした︒

マネは革新者のなかでは過去の因襲の呪縛にあった画家ですが︑し

かし︑スペイン絵画の暗闇を払拭し︑パレットを明るくして光に満ちた絵を制作するようになります︒その彼が日本版画を知っていたこと

は︽エミール・ゾラの肖像︾をみれば明らかです︒画面右上の複製版画︽オランピア︾と並んで︑サムライの版画がピンで留められていま

︒また︑タブローの︽オランピア︾も日本版画との関連性において重要です︒ここで使用される黒は日本版画と同じく諧調を整えるヴァ

ルールとして機能しています︒肉付けは単純で大きな面として把握され︑彫塑的でありつつ線的な作品として絵画の特質を見事に表現して

います︒マネの芸術と日本版画の関係は︑じつは︑デッサン作品においてさらに明白です︒ステファン・マラルメ訳のエドガー・ポーの﹃大

鴉﹄に付されたリトグラフには︑﹃北斎漫画﹄などからの影響を認めるべきでしょう︒

マネ以上に日本美術の影響を受けたのが印象派です︒印象派を歴史

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化し︑批評という武器で擁護したギュスタヴ・ジェフロワはこの点に言及しています︒彼によれば印象派の影響源は二つあります︒曰く︑﹁ク

ロード・モネとピサロが一緒にロンドンを訪問したとき︑二人を魅了したのはターナーであった︒・・・同じく︑日本版画が挿絵本などから切り離されて西欧にやってきたとき︑彼らにとって貴重な﹃ヒント

indication﹄となった︒日本版画の透明感と光に溢れた平静感︑風景構成︑人物配置など︑広大な空間が与える現実味ある新たなヴィジョ ンを渇望していた画家たちにとって︑まさに実現すべきものがそこにあったのだ ・・・﹂︒ジェフロワとともに︑デュランティ やテオドール・

デュレ などが︑アジア芸術に熱中し︑これを西欧に知らしめ︑画家に向けてその特質を解説する役を担うこととなりました︒

さて︑ジェフロワは適切にも﹁ヒント﹂という言葉を用いました︒影響について言及するとき︑ともすれば人は模倣したか否かを問題に

しがちですが︑印象派の場合︑日本版画を﹁模倣﹂したものはいません︒しかし︑明らかに日本版画から何らかの教訓を引き出しています︒た

とえばヨンキントの水彩には北斎の風景と同じ構図や透明な空気︑暗示的な筆法を確認できます︒印象派は自然を不動の劇場としてではな

く生命力を宿す場と理解しました︒捉えたフォルムを幾何学的空間に転写するのではなく︑その精神と強度を暗示すべく努力しました︒陰影の対として光を解釈するのではなく︑すべてを照らし出すものとし

て光を重視したのです︒この点において︑印象派は日本の精神に深く通じているのです︒

しかしながら︑極東芸術が光の溢れる動的な生命力を表現したとしても︑その一方で︑︵﹁民衆的な﹂作品においてさえ︶昔日の貴族的表 現であったことも事実です︒極東芸術は︑﹁様式﹂と定義しうる高度な造形的均衡によって︑誇り高き生命と深遠な感性を表現していま

す︒この希有な高尚さをもつ極東美術の特質に魅せられたのがホイッスラーでした︒フランスの画家は﹃北斎漫画﹄から影響を受けたようですが︑ホイッスラーは︑その肖像画については北斎の先人達に︑風

景画は広重に啓示を求めたようです︒彼の才能は一八六三年のサロンに落選した︽白衣の女︾にすでに予見できますが︑そこでは粗削りの

技術を全面に押し出して熟練の﹁技巧﹂を否定し︑さらには物質性を滅却して作品に精神性を与えています︒こうした表現に啓示を与えた

のが日本の巨匠︑すなわち富士や東海道の宿場を描いた風景画家や溌剌とした女性や相撲の関取や役者を描いた肖像画家なのです︒日本の

画家は調和の取れた色調によって︑平穏でありながら精神的深さを感じさせる画面をすでに達成していたのです︒マネも同じように日本の

巨匠から啓示を得ましたが︑彼が学んだのは大胆かつ正確なデッサンとその表現力の豊かさです︒ホイッスラーが好んだのは格調高い描線

の表現力︑さらには画面全体が喚起する上質の統一性︑暗示的な無限の表現︑それに神秘的かつ豪壮な奇想の魅力でした︒彼の︽夜想曲︾

は独創的な芸術的達成というべきですが︑しかし︑広重の︽夜景 ︾との関連は指摘せねばなりません︒また一八九二年のサロンに出品した︽花火︾にしても︑日本の花火を想起させずにはいないでしょう︒︽ア

レクサンダー嬢︾や︽画家の母︾︑︽カリール︾などの肖像画においても︽夜想曲︾と同じく︑色彩としての黒が優美な波及力で微妙な色調

を均衡に整え︑作品の統一性が生まれていますが︑こうした黒の使用法が連想させるのは初代豊国や歌麿の描く長く伸びた髪のつややかな

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黒︑太い帯の不透明な黒︑あるいは広重が描く太鼓橋の巨大な梁に用いられた黒︑雨中の小船の黒︑太平洋の水平線上に浮かびあがる山々

の黒ではないでしょうか︒

今日︑日本版画による西欧絵画へ感化はすでに終わったと分析され

ることもありますが︑私自身はそう思いません︒この分析は大きな歴史の一面しか捉えていません︒実際︑パヴィヨン・ドゥ・マルサン︹装

飾美術館︺で開催された数々の素晴らしい展覧会では選りすぐりの日本版画が展示され︑我々はこれまで以上に日本版画の知識を持つに至

りました ︒日本版画は蒐集家だけでなく︑芸術家にとっても貴重な芸術であり続け︑さらなる新たな教訓をそこから引き出しています︒その昔︑印象派やホイッスラーに愛され研究された日本版画は︑今︑新

しい世代の画家に以前とは異なる教訓を与えています︒その教訓のもと︑彼らは印象派が用いた動的な階調や震えるような技術に代わって︑

装飾的な美しいリズムが生み出す高貴で平穏なフォルムによって︑人間的で普遍的な感情を伝える綜合的芸術を打ち立てようと企てていま

︒フィンセント・ファン・ゴッホに関する優れた研究のなかで︑画家であり批評家でもあるエミール・ベルナールは︑この企図を明確に

宣言しています︒このように︑まずは日本版画によって知られるところとなった極東芸術は︑西欧絵画の最も劇的で︑最も実り多い変容の

現場に参画し続けているのです ︵二︶ 解題

ここに訳出したのは︑一九二一年にフランスのパリで開催された国際美術史会議において︑アンリ・フォシヨンが行った口頭発表﹁日本

の版画と十九世紀後半期の西欧絵画﹂の全文である︒この口頭発表は﹃美術史会議録︑一九二一年九月二十六日│十月五日︑パリ﹄第一巻

に収められているが︑のちにフォシヨンが刊行する著作物や論文集には再録されておらず︑フォシヨンに関心のある研究者のみならず︑ジャ

ポニスムの研究者の間でもあまり知られていない︒あらためて紹介することによって︑フォシヨン研究のみならず︑ジャポニスム研究に寄与することもあると思い︑ここに訳出し︑詳細な注を付した︒

この口頭発表を行った当時のフォシヨンはリヨン大学美術史講座の教授で︑﹃北斎﹄︵一九一四︶︑﹃日本精髄試論﹄︵一九一八︶︑﹃仏教美術﹄

︵一九二一︶など︑立て続けに日本に関わる著作を発表していた ︒そこには︑一九一七年に仏訳刊行された岡倉覚三著﹃東洋の理想﹄の影 響も看取できる︒これらの著作に関しては何度か論じたことがあるので繰り返さない ︒ここでは︑訳出した口頭発表に関連して︑フォシヨ

ンの浮世絵版画研究の歴史的意義について︑すなわち︑欧米人の浮世絵版画愛好︵ジャポニスム︶と浮世絵研究の歴史に占めるフォシヨン

の位置づけについて︑ささやかな問題提起を簡潔に行っておきたい︒

フォシヨンがこの論考を発表した一九二一年といえば︑従来のジャ

ポニスム研究では︑すでに欧米での浮世絵ブームも過去のものとなり︑西欧の芸術家たちに対する影響力もなくなった時期とみなされて

いる︒たとえば一九八八年にパリと東京で開催された﹃ジャポニスム

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展﹄のカタログに付された網羅的な﹁ジャポニスム関連年表﹂にも︑あるいは一九九〇年刊行のワイズバーグ夫妻による﹃ジャポニスム文 献﹄にも︑フォシヨンのこの口頭発表は挙げられていない ︒前者の年譜は一九一二年︵大正元年︶を最後の年としており︑まさにこの年に開始されようとしていたフォシヨンによる日本研究は年譜に収まりよ

うがなかった︒この年譜に代表されるように︑欧米のジャポニスムは一九一〇年代初頭に一応の終焉を迎えると理解されている︒ジャポニ

スム研究では奇妙にもジャポニスムの終焉についての批判的研究はないが ︑漠然と日本にとっては明治時代の終焉︑ヨーロッパにとっては

第一世界大戦開戦前夜を一応の区切りとみなしているのが現状である︒

このような漠然としたジャポニスムの終焉観のなかで︑フォシヨンの日本美術研究は︑ジャポニスム思潮に乗り遅れた時代後れの産物と

みなされる傾向にあった︒たしかに︑ここに訳出した口頭発表の論題︑すなわち浮世絵が印象派の画家たちに影響を与えたとの見方は︑すで

に当時においても一般常識とはいわないまでも︑日本通や美術通には共有されていた認識であり︑とくに新しい論題ではない ︒回顧される

十九世紀末のジャポニスムの歴史も︑今日の研究者には常識的な範囲である︒だが︑特記に値しない記述に混じって︑いくつか興味深い指摘も散見される︒たとえば︑フォシヨンは︑フランスのジャポニザン

が﹁日本版画をある意味で過剰評価していた﹂と記し︑﹁日本美術に通暁したアーネスト・フェノロサは︑ルイ・ゴンスの﹃日本美術﹄へ

の書評においてこの傾向を批判し︑歴史観の修正を促し﹂たことを指摘している︒フランス人による浮世絵の過剰評価とフェノロサの批判 の一件は︑今日のジャポニスム研究においてペテルノッリ氏の﹁北斎評価の変遷﹂研究以来︑重要な論点となり︑最近の馬渕明子氏や稲賀

繁美氏の論考へと至る ︒この今日的な視点も︑すでに一九二一年にフォションが指摘していた︒その意味では︑フォシヨンの浮世絵研究︵と愛好︶は︑十九世紀後半期からのジャポニスムの歴史の中に位置づけ

る︵すなわち時代遅れのジャポニスムの徴候とみなす︶よりも︑ジャポニスム期以後の︑そして今日へと連なるジャポニスム研究の嚆矢の

ひとつとみなすべきなのかもしれない︒しかし︑それならば︑ジャポニスムそれ自体とジャポニスム研究との差異は何か︑切断面はどこに

あるのか︑両者は断絶しているのか︑それとも重なり合っているのか︑という疑問が次に浮ぶ︒翻訳の解題という本稿の場ではこの問いにつ

いては問題提起をするだけで満足するしかないが︑一点だけ付加したい事実がある︒フォシヨンが言及したフランス人の浮世絵過剰評価と

いう視点は︑フォシヨンのみならず︑二〇世紀初頭に浮世絵研究を開始した研究者たちが無視できない重要な論点であった︒パリのジャポ

ニザンと交流したドイツのサイドリッツは一八九七年刊行の﹃日本木版画史﹄の冒頭において︑次のように書かねばならなかった

︹これまでの︺日本美術理解は我々︹ヨーロッパ人︺の視点からなされてきた︒ヨーロッパ的視点をとれば︑日本の十九世紀の印象派

的な芸術家︑とくに北斎を日本版画最大の巨匠と思うことだろう︒︵・・・︶一方︑フェノロサのように日本人側に立てば︑北斎の真

の偉業は我々の眼には奇抜にみえる側面にこそあり︑さらに北斎よりも優れた巨匠が十八世紀に多数いるということになる︒我々は多

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少知っていた十九世紀芸術に過大評価を与えてきたが︑結局︑十九世紀の芸術は二番煎じでデカダンスだったのかもしれない︒︵・・・︶

私は︑十八世紀の芸術の進展をできるかぎり明確に跡づけたいと思う︒

このサイドリッツの文章に代表されるように︑二〇世紀初頭に浮世絵版画の研究をおこなった西洋人は︑フェノロサに指摘された従来の過

剰評価を克服して︑新しい浮世絵の批評基準を見つけ出そうとしていた︒フォシヨンも一九一四年刊行の﹃北斎﹄においてサイドリッツの

指摘を引用し︑従来の過剰評価でも︑フェノロサが擁護する日本的な見方でもない︑新たな視点からの浮世絵評価を行うことを第一の研究目的とした ︒同年に﹃日本の版画の巨匠たち﹄を上梓したルイ・オベー ルも︑大英博物館所蔵の浮世絵コレクション目録を一九一六年に作成したローレンス・ビンヨンも同様の意図を表明した ︒彼らは浮世絵の

過剰評価を認識したうえで︑なおかつ新たな観点から浮世絵版画再評価を目指したのだった︒時代後れのジャポニスムの浮世絵賞賛を披露

したわけではない︒また︑純粋に学術的な意味でのジャポニスム研究に身を投じていたわけでもない︒ポスト=ジャポニスム期の新たな浮

世絵評価の潮流というべきものをあらためて想定する必要があるだろう

この視点に立った場合︑もうひとつジャポニスムの終焉論をめぐる蓋然的な歴史認識を修正する必要があると思われる︒浮世絵偏重の

ジャポニスムの終焉について語るとき︑一九〇〇年のパリ万国博覧会で開催された日本の古美術展覧会の役割が特記されることがある︒日

本の古美術が初めて欧米に知られるようになり︑浮世絵偏重の日本 ブームが修正を余儀なくされ︑ジャポニスムも終焉を迎えると説明されるのである ︒こうした考え方の支えとなるのは︑古美術展覧会を訪

れたエミール・オヴェラックの同時代の証言である ︒﹁北斎も歌麿もない﹂古美術展に展示された﹁日本美術の傑作﹂はフランス人にとっ

ての﹁啓示﹂となり︑浮世絵愛好の﹁信念を根底から覆した﹂と報告される︒この展覧会に向けて日本の専門家が作成したフランス語版

﹃稿本日本帝国美術略史﹄︵以後﹃稿本﹄とのみ記す︶においても︑江戸期の浮世絵版画に割かれる分量は極めて少なく︑代わって江戸期以

前の彫刻や絵画が日本美術の﹁正史﹂の中心を占めることが強調された ︒たしかに︑この古美術展覧会と﹃稿本﹄︑さらには一歩遅れる形で発表されることになったクロード・メートルの日本の古美術研究

よって︑フランス人の古美術に対する見識は大きく変わったといえる︒今回訳出した一九二一年のフォシヨンによる口頭発表でも︑﹁ガンダー

ラ仏の直系たる奈良時代の彫刻や十三世紀から十五世紀にかけての偉大な肖像画芸術︑さらには足利時代の風景画︹山水︺﹂に言及され︑

それを知らなかったがゆえにかつてのフランス人は浮世絵版画を﹁日本精髄の至高の表現であると誤解した﹂と説明されている︒フォシヨ

ンは一九〇〇年の古美術展を訪れてはいないが︵彼の著作物や私的文書からこの展覧会を訪れたという証拠を見出すことはできない︶︑お

そらくは﹃稿本﹄やメートルの論文︑あるいはガストン・ミジョンの著作 などを通じて︑日本の古美術の知識を得ていた︒﹃北斎﹄刊行前

の一九一一年に彼は雪舟の山水画研究を仄めかす次のような手紙を両親に送ってもいる︒

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(10)

いわゆる墨絵のような朦朧としたニュアンス︑雪舟の筆の繊細な優美さであっても︑今の私の漠然とした心と雨降るような憂鬱な気持

ちを翻訳することは難しいだろう︒︵・・・︶十五世紀の日本のルネサンスの巨匠たちを研究している間は︑禅の心の平静さを感じることができる︒︹心静かに︺死を待つ最良の方法は︑おそらく︑い

まだ誰も見たことのないこれらの芸術家たちの系譜を明らかにする研究を行うことだろう

果たして雪舟の真作を実見したことがあったのかは確証できないが︑

それこそ過剰な思い入れを水墨画に対して持っていたことがうかがわれる︒こうした手紙だけを見れば︑フランス人の浮世絵熱も冷め︑代

わって古美術愛好心が深まったかのようにみえる︒また︑後に触れるようにフォシヨンが口頭発表した一九二一年の国際美術史会議に参加

した瀧精一は︑﹁欧州人の東洋美術におけるや︑最初は北斎︑広重に心酔したが︑一変して雪舟︑元信︑土佐画︑仏画などを賞美するに﹂至っ

た︑と﹃國華﹄誌で報告しているが︑これもあながち偏った意見でないように思える

しかしながら︑現実には︑フォシヨンは古美術研究を本格的にすることはなかったし︑浮世絵に無関心になったわけではない︒西欧各国の日本美術研究状況を俯瞰しても︑古美術研究が活況を迎えたとはい

えないし︑浮世絵研究が凋落したわけでもない︒むしろ逆に︑先述の通り︑日本美術研究者たちは古美術を知ってもなお︑あえて浮世絵を

再評価しようとした︒浮世絵版画に関わる著作物も︑二〇世紀に入ってから飛躍的に増大するという現実もある︒ここに邦訳したフォシヨ ンの口頭発表でも︑古美術がフランスで紹介された後でも︑﹁︹浮世絵︺版画は至るところで容易に入手でき︑また︑展覧会で公開されるのも

決まって版画であり続けました﹂と証言している︒とくに彼が特筆するのは︑一九〇九年から一九一四年にかけて六回にわたって組織的に装飾美術館で行われた浮世絵版画展覧会で ︑これにより︑﹁我々はこ

れまで以上に日本版画の知識を持つに至り﹂︑芸術家たちは﹁さらなる新たな教訓をそこから引き出している﹂と述べている︒フォシヨン

はジャポニスムが終わったとは認識していない︒彼は明言する︒﹁今日︑日本版画による西欧絵画へ感化はすでに終焉を迎えたと分析されるこ

ともありますが︑私自身は︑そうは思いません﹂︑と︒

フォシヨンのみならず︑この連続浮世絵版画展覧会をフランスにお

けるジャポニスムの頂点とみなす者も少なからずいた︒レイモン・コクランは一九三〇年の回想において︑﹁日本美術への関心は装飾美術

館で組織された一連の日本美術展においてピークに達した﹂と記す︒また︑二〇世紀前半期に画期的な浮世絵研究を発表し続けたオットー・

クルツは︑一九二二年刊行の改訂版﹃写楽﹄において︑連続展覧会の第三回目にあたる﹁清長︑文朝︑写楽﹂展︵一九一一年︶について︑﹁一〇五

点を越える写楽の版画が展示されたこの展覧会は芸術史における快挙であった﹂とまで書いている︒一九一〇年代から一九二〇年代かけてのフォシヨンの浮世絵研究︑ひいてはこの時期の欧米での浮世絵研究

の活況を︑ジャポニスムの延長として捉えるのか︑それとも︑今日へと連なるジャポニスム研究の開始期と捉えるのか︑ここで即断するこ

とはできないが︑あらためて繰り返しになるが︑この問題に取り組む必要性があることを問題提起しておきたい︒ 

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44

(11)

では︑フォシヨンは︑いかなる美的価値判断によって︑かつての浮世絵過剰評価を克服しようとしたのか︒これについては既発表の拙稿 で論じたので︑そちらを参照されたい ︒ひと言でいえば︑十九世紀のジャポニザンや印象派の支持者たちが強調した浮世絵版画の近代的表

現ではなく︑古画から連綿と続くある種の古典性をフォシヨンは強調した︒そうすることで︑日本の古美術の伝統︑さらには東洋の仏教美

術の伝統のなかに浮世絵版画を据えようとしたのである︒古典性と宗教性を浮世絵に見出す彼の態度は︑一九二一年の口頭発表で言及され

るエミール・ベルナールら︵印象派を克服し︑古典性と宗教性を復興した︶﹁新たな世代﹂が浮世絵の影響を受けているという彼自身の現状認識に呼応している︵というより互いが論拠となって支えあうトー

トロジーとなっている︶︒こうした浮世絵評価はともすれば西欧美術を専門とするアンリ・フォシヨンの独断的な美学を反映したものであ

ると思われるかもしれないが︑しかし︑浮世絵をアジアの伝統的芸術の延長線上で捉えようとする歴史的認識ないし美的判断は︑彼と同時

期の浮世絵研究者にもある程度は共有されていたものであった︒先にも紹介したルイ・オベールも︑浮世絵版画が﹁いにしえの日本の絵

画と哲学の伝統の総和である﹂と主張し︑とくに北斎の作品に土佐派の伝統のみならず︑中国の山水の影響を読み取っている ︒また︑ビン

ヨンも︑たとえば北斎を﹁レンブラントのような﹂芸術家と評し︑その﹃富嶽三十六景﹄が山水を愛でるアジアの伝統に基づき︑伝統を継

承しつつ雪舟やさらには北宋の画家たちに挑戦したのだ︑との見方を一九一六年に披露した ︒こうした古典主義的な浮世絵理解の美学が︑

二〇世紀に入ってからの浮世絵研究を発展させる原動力のひとつと なっていたと考えてよいように思われる︒

そして︑おそらく︑この新たな浮世絵理解と研究の進展は︑日本に

おける浮世絵研究の勃興と隆盛とも無関係ではないだろう︒よく知られるように︑審美書院の田島志一が編集し︑大村西崖が解説を付した

全四冊の豪華本﹃浮世絵派画集﹄が刊行されるのは︑一九〇六年から一九〇八年にかけてのことである︵一九一八年再版 ︶︒その直後︑パ

リでは前述の連続浮世絵展覧会が開催され︑同じく大判の豪華カタログが次々と刊行される︒イギリスやドイツでも続々と浮世絵展覧会と

浮世絵研究書が刊行される一九一〇年以降には︑日本でも浮世絵を専門とする雑誌や画集が次々と刊行されてゆく︒フォシヨンが口頭発表を行った一九二一年頃には︑日本でもまた︑新しい浮世絵ブームとい

うべきものが顕著になりつつあった︒彼の浮世絵研究を通じて︑ポスト・ジャポニスム期の欧米の浮世絵研究のみならず︑ほぼ同時代に並

行して行われていた日本における浮世絵研究や浮世絵︵新版画︶制作と欧米との関係もまた︑今後の研究課題として浮かび上ってくるだろ

う︒

以上︑フォシヨンの口頭発表をめぐって浮び上がる今後の研究の展

望を素描し︑問題提起を行った︒彼の日本美術研究は︑彼自身の美術史観や美学を理解する一助となるだけではなく︑あまり知られていな

い同時代の欧米の浮世絵研究のコンテクスト︑さらには︑それとおそらくは無関係でない日本の浮世絵研究の状況を新たな観点から照らし

出す出発点となることだろう︒欧米と日本の間にあった浮世絵認識のずれは︑十九世紀のジャポニザン以降︑解消されたのか︑否か︒欧米

の浮世絵認識は︑日本人の美的価値観になんらかの影響を与えたのか︒

46 47

48

45

(12)

まだまだ答え切れない問いがたくさんある︒ 最後にフォシヨンの浮世絵認識と日本の美的価値観のずれを伝える

一例を挙げて︑この解題を閉じたい︒一九二一年のフォシヨンの口頭発表を読んで︑我々が最も驚くのは︑﹁仏教美術の末裔﹂にして﹁最も高尚な精神性を湛えた芸術﹂として浮世絵を評価しようとする彼が︑

岡倉覚三の言葉︵﹁暗示︑ここに無限の神秘が隠されている﹂︶を引き︑あたかも岡倉の美学の代表者として北斎と歌麿を挙げている点で

ある︒言うまでもなく︑岡倉が﹁暗示﹂の美学の代表としたのは︑古美術に倣った日本美術院の美学であり︑北斎の芸術はその対極にあっ

た︒岡倉にとって︑浮世絵は﹁日本美術が基盤とする理想主義を欠いた﹂芸術であり︑﹁日本美術の王道﹂に属してはいなかった ︒フォシヨンは︑

岡倉が評価しない北斎を︑あろうことか岡倉が好んだ美学に則って評価したのだった︒

岡倉が用いた﹁暗示suggestion﹂という概念は︑十九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて︑フランスの美術批評や美学においても重要な 意味を持つにいたっていた ︒フォシヨンにとって︑この概念はアジア美術にのみ適用されるものではなく︑とくに彼が博士論文の主題とし た版画家ピラネージやシャルル・メリオンを分析する切り札でもあった ︒彼はこの概念によって︑東西の美術を総合的に論じることができると考えていたのである︒フォシヨンにとって︑北斎は﹁暗示﹂の美

学によって︑﹁極東芸術でありながら︑西欧人を魅了﹂しえた希有な画家であった︒一九二四年の講演会で北斎を主題とした彼は︑北斎を

﹁仏教の教えに忠実な巡礼者﹂と形容し︑インドと中国の美術に学んだ﹁アジアの精髄の代表者﹂としたうえで︑東洋の代表たる北斎が西 欧の印象派を魅了した事実を特筆し︑北斎の作品と美学の﹁普遍性﹂を主張する ︒そして︑アジア美術はアジアの思想や美学によってしか

理解しえないとする決定論に異議申し立てを行ったのだった︒

ここに訳出した﹃日本の版画と十九世紀後半期の西欧絵画﹄において︑冒頭から唐突にも彼が東西芸術の往還を裏付ける考古学的事実を

列挙してみせたのは︑この発表が単なる浮世絵研究ではなく︑東西の平和主義的で普遍的な美術史を提示することをもうひとつの目的とし

ていたからである ︒第一次世界大戦終了後に開催された国際美術史会議にはうってつけの平和主義的な主題であると彼は考えたのだろう︒

その目的が適ったか否かは想像するしかないが︑失敗に終わったのではないかと思われる︒国際美術史会議には︑日本からは瀧精一らが参

加し︑瀧は﹁文人画の趣意について﹂と題して南宗画とその画論を講釈し︑﹁東洋画の真髄を知らしめん﹂と努めたという ︒瀧がフォシヨ

ンの発表を聴いたのかどうか︑逆に︑フォシヨンが瀧の発表を聴いたのかどうかは分からない︒かりに交流があったとしても︑浮世絵が﹁東

洋画の真髄﹂を受け継ぐと言うフォシヨンの発表に瀧が同意できるわけもなく︑また︑東西の芸術を画然と分ける瀧の議論にフォシヨンは

うんざりするしかなかっただろう 欧米人の浮世絵愛好を壮大な東西美術史の末尾を飾る出来事として捉えるフォシヨンの歴史観は誇大妄想的かつ西洋中心主義的な見方で

あり︑到底受け付け難いものであるかもしれない︒しかし︑その東西交流のなかで︑そして︑フォシヨンはおそらくは知らなかったが︑浮

世絵の東西交流史が二〇世紀にも引き継がれるなかで︑いわば逆輸入するかたちで︑今日の私たちは︑北斎を愛好するに至っている︒こう

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(13)

した今日の状況を踏まえながら︑フォシヨンに代表されるポスト=ジャポニスム期の浮世絵論を読み直してみれば︑新たな発見もあるこ

とだろう︒

訳注︵

Congrès d’histoire de l’art, Paris, 26 septembre - 5 octobre, 1921, I, en Occident dans la seconde moitié du XIXe siècle», Actes du Henri Focillon, «L’Estampe japonaise et la peinture 1︶出典は以下︒

Paris, 1923, pp.36-76.

(Sylvain 2︶フォシヨンは﹃宗教の歴史﹄誌発表のシルヴァン・レヴィ Levi, 1863 1935) の論文﹁仏教とギリシャ人﹂︵一八九一︶を

参照したのだろう︒Sylvain Levi, “Le bouddhisme et les Grecs”, Revue de l’histoire des religions XXIII, 1891, p.36.

ンダーラ美術の古典的研究﹃ガンダーラのギリシャ=仏教芸術﹄ (Alfred Foucher, 1865-1952)3︶アルフレッド・フーシェによるガ

を指す︒Alfred Foucher, L’Art gréco-bouddhique du Gandhara, étude sur les origines de l’influence classique dans l’art bouddhique de l’Inde et de l’Extrême-Orient, Paris, 1905.

(Lionello Venturi, 1885-1961)4︶リオネッロ・ヴェントゥーリはイ

タリアの美術史家︒一九二〇年代初頭︑フォシヨンは手紙の遣り取りをしていた︒Archives Henri Focillon, Boîte 28, n.470,

Lionello Venturi, le 4 janvier 1923.

5︶明治維新後の日本史についてはフォシヨンが﹃日本精髄試

論﹄︵一九一八︶で詳述している︒Focillon, Essai sur le génie japonais, Comité franco-japonais, Hôtel de Ville, Lyon, 1918. ︵

(Emile Guimet, 1836-1918) 6︶エミール・ギメの美術品蒐集の目

的は宗教博物館の設立にあった︒まずリヨンに︑そしてその後パリに設立された彼の美術館は︑今日の国立アジア美術館の

母体となったが︑彼の関心は収集品の美的価値にはなかった︒一九〇七年に至っても︑美術館の方針について語った会議にお

いて︑美術品は宗教史理解の道具にすぎないと述べている︒Le Musee Guimet 1918-1927, Paris, 1928, p.6.

ル︵一八四〇│一八九九︶については︑以下の文献に詳しい︒ Philippe Sichel, Notes d’un bibeloteur au Japon, Paris, 1883. 7︶シシェ

Max Put, Plunder and Pleasure, Japanese art in the West 1860-1930, Hotei Publishing, Leiden, 2000.

Oeuvres figurent dans la Collection Pierre Barboutau, Amsterdam, Pierre Barboutau, Biographies des Artistes Japonais dont les 8 1905, etc. バルブトー︵一八六二│一九一六︶については以下の

文献を参照のこと︒高山晶﹃ピエール・バルブトー︑知られざるオリエンタリスト﹄慶応義塾大学出版会︑二〇〇八年︒

(Charles Gillot, 1853-1903) 9︶シャルル・ジローについては以下︒

Collection Charles Gillot : Estampes japonaises et livres illustres, Paris, 1904; Collection Charles Gillot : Objets d’art et peintures d’Extreme-Orient, Paris, 1904.

moderne», Bulletin de la Société franco-japonaise de Paris, n.22, 10Henri Vever, «L’influence de l’art japonais sur l’art décoratif 1911, pp.109-119. フォシヨンは﹃北斎﹄刊行にあたり︑アンリ・

(14)

ヴェヴェール( Henri Vever, 1875-1932 )と面識を得てコレクションを実見︑挿絵に使用した︒ヴェヴェールの浮世絵コレクショ

ンは一八九四年に一部がルーヴルに寄贈されるも︑一九一〇年代には八千点に迫っていた︒第一次世界大戦期︑彼は山中商会を通じて松方幸次郎にコレクションを売却︑その後︑東京国立

博物館の所蔵となって今日に至る︒︵

11Louis Gonse, L’art japonais,2 vol., Paris, 1883. 12S. Bing, Le Japon artistique, Paris, 1886-1891; Edmond de

Goncourt, Outamaro, Paris, 1891 ; de Goncourt, Hokousaï, Paris, 1896.

13︶ヨーロッパにおいて日本の古美術が初めて紹介されたのは

一九〇〇年のパリ万国博覧会での日本古美術回顧展である︒後述の解題を参照のこと︒

japonais by Louis Gonse”, The Japan Weekly Mail, July12, 1884, 14Ernest Fenollosa, “Review of The Chapter on Painting in L’Art

pp.37-46.

15︶この展覧会がパリの愛好家に及ぼした影響については以下の文

献が詳しい︒Raymond Koechlin, Souvenirs d’un vieil amateur d’art de l’Extrême-Orient, Chalon-sur-Saone, 1930.

16Yone Nogochi, Hiroshige, New York, 1921. ︶ホイッスラーと広重の

比較は︑日本語版の﹃歌麿︑北斎︑広重論﹄︵第一書房︑一九二五年︶の一一六│一一七頁にもみえる︒ノグチ・ヨネ︵野口米次郎︑

一八七五│一九四七︶の浮世絵論については以下の文献を参照︒和田桂子﹁野口米次郎のロンドン︵十一︶浮世絵へのオマージュ﹂ ﹃大阪学院大学外国語論集﹄四四号︑二〇〇一年︑六一│八一頁︒︵

17Kakuzo Okakura, Les Idéaux de l’Orient, Le Réveil du Japon, traduction par J. Serruys, Paris, Payot, 1917, p.178. 一九〇三年刊行の岡倉覚三著﹃東洋の理想﹄︵英文︶は第一次世界大戦下にフランス語訳が刊行︒フォシヨンの思想における岡倉天心の影

響については︑以下の拙論を参照のこと︒﹁アンリ・フォシヨンの美学・美術史学における岡倉天心の影響﹂︑﹃美學﹄二〇六号︑

美学会︑二〇〇一年︑十五│二八頁︑及び «Henri Focillon et la pensée asiatique de Tenshin Okakura», Aesthetics,12, 2006, The Japanese Society for Aesthetics, p.37-52.

18︶歌麿作︽鮑取海女之図︾︒ゴンクールの﹃歌麿﹄︵一八九一︶

によれば︑一八八五年に自身は四十フランで購入したが︑一八九一年のビュルティの売り立てでは一〇五〇フランで落

札されたという︒一方︑コクランは世紀末にパリで行われた売り立てで︑﹁歌麿のトリプティック︽鮑取り︾が八百フラン

で﹂競り落とされ︑画廊では七万フランで売られていたと報告し︑﹁この頃の取引価格は常軌を逸していた﹂と回想してい

る︒Goncourt, Outamaro, op.cit.; Koechlin, Souvenirs d’un vieil amateur..., op.cit.

19︶二代目歌川国明作の力士絵︽阿波国出身力士 大鳴門灘右ヱ門︾︒

20 (Gustave Geffroy, ︶美術批評家として知られるジェフロワ 1855-1926) は複製版画家のフォシヨンの父ヴィクトルと親し

く︑若きフォシヨンはジェフロワの美術批評の影響を強く受けた︒﹃北斎﹄刊行など︑彼の初期の美術関連著作の出版にはジェ

(15)

フロワの助力があった︒引用された文章を含むジェフロワの日本美術関連の著作は以下の文献に所収︒Gustave Geffroy, La vie artististique, première série, Paris, 1892.

artistes qui expose dans les Galleries Durand-Ruel, Paris, 1876. 21Edmond Duranty,La Nouvelle Peinture: à propos du groupe d’

22Théodore Duret, Critique d’avant-garde, Paris, 1885. 月︾や︽名所江戸百景京橋竹がし︾あたりを念頭においている 23︶広重に︽夜景︾と題する浮世絵版画はない︒︽東都名所両国之宵

のだろう︒︵

浮世絵展が開催︒解題で触れるように︑パリの浮世絵コレクショ 24︶一九〇九〜一四年︑パリの装飾美術館では六回に亘り組織的に

ンを総動員した展覧会はフランス内外にも大きな反響を及ぼした︒全六回の内訳と公刊された豪華カタログ︑関連する文献は

以下の通り︒

第一回︵一九〇九年︶﹁プリミティフ派﹂展︒Estampes japonaises primitives, tirées des collections de MM. Bing, Blondeau,

Bullier, comte de Camondo, Chialiva, M. et Mme Curtis, J. Doucet, etc. ... et exposées au Musée des arts décoratifs en février 1909,

Catalogue dressé par M. Vignier avec la collaboration de M. Inada, Avant-propos par R. Koechlin, Paris, Bibliothéque d’art et d’archéologie, sd ; Lemoine, «Les Primitifs de la gravure japonaise»,

GBA, avril 1909, p.334.

第二回︵一九一〇年︶﹁春信︑湖流斎︑春章﹂展︒Harunobu, Koriusaï, Shinsho. Estampes japonaises tirées des collections de MM. Bing, Bouasse-Lebel,... et exposées au Musée des arts

décoratifs, en janvier 1910, Catalogue dressé par M. Vignier, avec

la collaboration de M. Inada, Paris, s.d ; Koechlin, «Exposition d’estampes japonaises au Musée des Arts décoratifs. Harunobu,

Koriusai, Shunso et son groupe», Bulletin des Musees de France,1910, pp.8-10 ; Lemoine, «Les premiers maîtres de la gravure en

coleurs au Japon», Gazette des Beaux-Arts, mars, 1910.

第三回︵一九一一年︶﹁清長︑文朝︑写楽﹂展︒Kiyonaga, Buncho, Sharaku. Estampes japonaises tirées des collections de

MM. Bing, Bouasse-Lebel, Cte de Camondo, Mme E. Chausson, Chialiva, Raphaël Collin, etc., etc.,... et exposées au Musée des arts

décoratifs en janvier 1911, Catalogue dressé par M. Vignier, avec

la collaboration de M. Inada. Introduction, par R. Koechlin. Paris, s.d.

第四回︵一九一二年︶﹁歌麿﹂展︒Utamaro. Estampes japonaises tirées des collections de MM. Bing, Bouasse-Lebel,

Bullier, Mme E. Chausson, Chialiva, Raphaël Collin, Cosson, J. Doucét, Ducote, Mme Ch. Du Bos, Fleury, Mme Gillot,

Hackenburger, Horteloup, Hubert, Isaac, Jacquin, Javal, R. Koechlin, Mme Langweil, J. Lebel, Mme Lévy, Le Véel, Madvig,

Manzi, Maroni, Marteau, Metman, Migeon, G. Moreau, Mutiaux, Paul Neveu, Odin, Portier, Du Pré de Saint-Maur, Mme Raoul-

Duval, H. Rivière, Rouart, Ch. Salomon, Comte de Sartiges, Mme Seure, Smet, H. Vever, Vignier, Musée du Louvre, Musée des Arts

(16)

Décoratifs, et exposées au Musée des arts décoratifs en janvier 1912, Catalogue dressé par M. Vignier, avec la collaboration de

M. Inada. Introduction, par R. Koechlin, Paris, s. d ; articles de Le Figaro par Arsène Alexandre, celle de Le Matin parGeroges Lecompte, celle de Gazette des Beaux-Arts par P. Lemoisne (1912, t.I,

p.199), et celle de la Revue de Paris par L. Aubert (15 avril 1912).

第五回︵一九一三年︶﹁栄之︑長喜︑北斎﹂展︒Yeishi, Choki, Hokusaï, estampes japonaises... exposées au musée des arts décoratifs en janvier 1913, Catalogue dressé par MM. Vignier et

Jean Lebel avec la collaboration de M. Inada. Préface de Raymond Koechlin, Paris, s. d.

第六回︵一九一四年︶﹁豊國︑広重﹂展︒Toyokuni Hiroshigé, estampes japonaises tirées des collections de MM. Bing, Bouasse-Lebel... Vignier... et exposées au Musée des arts décoratifs en janvier 1914, Catalogue dressé par MM. Vignier et Jean Lebel, avec la collaboration de M. Inada. Introduction par R. Koechlin, Paris, s. d ; Aubert, Les maîtres des estampes, op.cit., p.11.

象派から出発して︑その後印象派に対立することになる画家た ように反復される︒﹁歌麿︑豊国︑写楽︑北斎は︑︵・・・︶印 25︶この部分はフォシヨンの﹃十九世紀絵画史﹄︵一九二八︶で次の

ちの模範となった︒彼らが印象派の用いた動的な諧調や震えるような技術に代わって︑装飾的な美しいリズムが生み出す高貴

で平穏なフォルムによって︑人間的で普遍的な感情を伝えることができる総合的芸術を打ち立てようとしたとき︑日本美術が 再び模範となったのである﹂︒ Focillon, La peinture au XIXe siècle,tome II, Paris, 1928, p.207.

次のように語られている︒﹁彼ら︵一八九〇年の世代︶が日本を ドニやエミール・ベルナールら﹁一八九〇年の世代﹂を論じて︑ 26︶この直感的観察は﹃十九世紀絵画史﹄でも反復され︑モリス・

重視する姿勢は以前と変わらなかった︒しかし︑彼らは日本美術に以前とは異なった暗示を求めるようになっていた︒︵・・・︶

一八九〇年の世代が日本版画に発見したのはアラベスクが織り成す高級な詩学︑並置された平板な色調がもたらす美しい諧調︑

それが作り出す驚くべき装飾的幻想︑そして事物の表面ではなく︑事物の深奥の神秘的な照応関係︑調和を見出す自然主義的

感性とその表現力であった﹂︒Ibid., pp.280-281.

解題の注︵

génie japonais, op.cit ; L’Art bouddhique, Paris, Henri Laurens, 27Henri Focillon, Hokousaï, Paris, Felix Alcan, 1914 ; Essai sur le

1921.

Focillon et le Japon», Histoire de l’art, n.47, Paris, novembre 2000, et contemporain de l’Université Lumière Lyon 2, 1999 ; «Henri période lyonnaise, mémoire de DEA d’histoire de l’art moderne des travaux d’Henri Focillon concernant l’art japonais dans sa Henri Focillon et le Japon : remise en question を参照のこと︒ 28︶フォシヨンと日本美術との関わりについては︑以下の拙稿

pp.19-28 ; «L’Extrême-Orient d’Henri Focillon», La Vie des fromes ;

(17)

Henri Focillon et les arts, Paris, Institut national d’histoire de l’art, catalogue d’exposition tenue au Musée des Beaux-Arts de Lyon, Édition Snoeck, Paris, 2004, pp.241-247 ; «Henri Focillon et son étude sur Hokusai», postface de la réédition de Hokusaï par Henri Focillon, Fage Édition, Lyon, 2005, pp.163-170 ; «Henri Focillon et la pensée asiatique de Tenshin Okakura», op.cit.および︑﹁アン

リ・フォシヨンの浮世絵解釈とジャポニスム以後の日本美術史編纂﹂︑﹃美術フォーラム二一﹄創刊号︑醍醐書房︑一九九九年︑

九〇│九四頁︒﹁アンリ・フォシヨンの美学・美術史学における岡倉天心の影響﹂︑前傾書︒︵

29︶ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル作成︑馬渕明子訳﹁ジャポニス

ム関連年表﹂︑﹃ジャポニスム展﹄カタログ︑グランパレ︵パリ︶︑国立西洋美術館︵東京︶︑四四│七九頁︒Gabriel P. Weisberg, Yvonne ML Weisberg, Japonism: an annotated bibliography, New York, London: Garland, 1990.

ニスムの終焉﹂を次のように語っている︒﹁ジャポニスムの終 30︶馬渕明子氏は﹃ジャポニスム︑幻想の日本﹄において﹁ジャポ

焉の年代は︑研究者によってさまざまな指摘があるが︑およそ一九一〇年から二〇年の間とされる︒︵・・・︶一九二〇年頃に

はもう顕著ではなくなった︑と言えよう︒そのジャポニスムが終焉したのは︑ひと言で言えばその役目が終わった︑というこ

とである︒ジャポネズリーとしての日本の品々は飽きられ︑新鮮味を失った︵・・・︶﹂︒︵﹃ジャポニスム︑幻想の日本﹄︑ブリュッ

ケ︑一九九七年︑十一│十二頁︒︶終焉論をめぐっては以下の文 献も参照のこと︒高階秀爾﹁ジャポニスムの諸問題﹂︑﹃ジャポニスム展﹄︑一五頁︒大島清次﹁学術文庫版あとがき﹂︑﹃ジャポ

ニスム︑印象派と浮世絵の周辺﹄︵初版は一九八〇年︶︑講談社学術文庫︑一九九二年︑三五三│三五四頁︒

artistique, n.36, 1891, pp.141-148 ; L. Aubert, Les maîtres de l’ l’influence des arts de l’Extrême-Orient et du Japon», Le Japon 31Roger Marx, «Sur le rôle et ︶とくに︑以下の論文を参照のこと︒

estampe japonaise, op.cit.

口静一﹁フェノロサ浮世絵論の推移︵一︶〜︵三︶﹂︑﹃浮世絵藝 る北斎評価の変遷﹂︑﹃浮世絵藝術﹄五十八号︑一九七九年︒山 32︶ジョヴァンニ・ペテルノッリ﹁一八〇〇年代のフランスにおけ

術﹄六十五︑六十七︑六十九号︑一九八一年︒Shigemi Inaga, ‘The

Making of Hokusai’s Reputation in the Context of Japonisme’, Nichibunken Japan review : bulletin of the International Research

Center for Japanese Studies, No.15, 2003, pp. 77-100. 馬渕明子

﹁ジャポニスムの推進者ルイ・ゴンス﹂︑ルイ・ゴンス著﹃日本美術﹄別冊付録︑エディション・シナプス︑二〇〇三年︑三│九頁︒

Dresden, 1897, 1910, 1922, 1928.︵一九一一年に仏訳刊行︒︶ 33W. von Seidlitz, Geschichte der japanischen Farbenholzschnitte,

34Focillon, Hokousaï, op.cit., p.6. 35L. Aubert, Les maîtres de l’estampe japonaise, op.cit.; Laurence

Binyon, A Catalogue of Japanese and Chinese Woodcuts, preserved in the sub-department of Oriental prints and drawings in the British Museum, London, 1916.

参照

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 よって、製品の器種における画一的な生産が行われ る過程は次のようにまとめられる。7

Air Injection Unit; I Held Yarn Tip, II Received Yarn Tip from Yarn Tip Carrier, III Inject Yarn End into Hollow Spindle, a Yarn Tip Carrier, b Injection Air Flow, c Stay, d Pipe,

However the automatic drawing-in system developed in order to improve drawing-in operation is not able to distinguish whether the core yarn is successfully drawn into the hollow

In this report , control methods for this autonomous vehicle are investigated to approach the initial operating position rapidly, to break away at the end of the covering machine,

[r]

”, The Japan Chronicle, Sept.

四二九 アレクサンダー・フォン・フンボルト(一)(山内)

ㅡ故障の内容によりまして、弊社の都合により「一部代替部品を使わ